30 The best of Dig records

Relic-5052

GG30レーベル:DIg
設立地:ニューヨーク州・ハーレム
創設者:Johnny Otis
活動期間:1955年後半〜1957年
創設:1955年後半
関連レーベル:Ultra

01 This is the night for love - Arther Lee Maye and The Crowns
02 Red sails in the sunset - The Premires
03 Don't cry baby - Mel Williams and The Jayos
04 Symbol of heaven - Julian Herrera and The Tigers
05 Until the day I die - The Tears
06 I prayed for you - Cell Foster and The Audios
07 I found an angel - Tony Allen and The Night Owls
08 That's what I'm gonna do - Arther Lee Maye and The Crowns
09 Girl of my heart - The Gladiators

10 Long lonely nights - Julian Herrera and The Tigers
11 A fools prayer - Arther Lee Maye and The Crowns
12 My darling - The Premires
13 Honest I do - Cell Foster and The Audios
14 Honey, honey - Arther Lee Maye and The Crowns
15 My baby doll - The Gladiators
16 My love - Mel Williams and The Jayos
17 Whisperting wind - Arther Lee Maye and The Crowns
18 Baby - The Premires
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Johnny OtisのDigレーベルは、南ハーヴァード大通り(ロサンゼルス)に面した彼の家をベースに、1955年後半から1957年までのおよそ2年足らずの間に活動した。小さなローカル・レーベルで、レコード・ビジネスとしてはOtisの評判にもかかわらず主に西海岸に限られていた。彼がリリースした2枚のアルバムと42枚のシングル盤のうち、ヒットしたのはわずかに5~6枚で、いずれも全米R&Bトップ40の下位であった。Otisはほとんど自己紹介を必要としなかった。ギリシャ出身であるが、間違いなく彼は「R&Bのゴッド・ファーザー」と呼ばれている。40年代初頭にオークランドやカリフォルニアの様々なビッグ・バンドでドラマーをつとめ、1945年に地元で彼自身の楽団を結成し、Excelsiorレコードで「Harlem Nocturne」をリリースし大きなヒットを記録した。50年代前半、彼はEsther Phillips・Marie Adams・Big Mama Thornton・Etta James・Hank Ballard、そして典型的な西海岸のボーカル・グループであるThe Robins(メンバーの何人かが1955年にThe Coastersを結成した)といったアーティストを発見した。SavoyとPeacockでレコーディングを行い、Otisとバンド自身や偉大なJohnny Ace(「Pledging my love」が大ヒット)のような偉人とともにヒットを放った。Otisはまた多産なソングライターと出版者でもあった。1954年にKFOX局(ロングビーチ・カリフォルニア州)にディスク・ジョッキーとしてラジオへ進出し、自身のR&Bショーを放送した。1年後にはKTTV(ロサンゼルス)から放映を開始しテレビまでに手を広げた。彼の様々な音楽をメディアに登場させる手段(宣伝の方法)としてOtisと彼のバンドは、ロサンゼルス界隈に規則的にほぼ毎夜ステージに姿を現した。彼はこのショーの合間に、若くて野心のあるアーティストのためにタレント・コンテストを開催した。こうして発掘した新しい才能を売り出すために、Otisは自身のレコード・レーベルを設立した。最初にUltraというレーベルで5枚のシングルをリリース、次いでヒップでブラック・ミュージックを思わせるような名前としてDigに変えた。DigはOtisにとっての大きな目標のひとつとなった。最初は彼自身のレコード(4枚のシングル盤と1枚のLP)をリリースする。彼がそれまでに書き、発表する場を待っていた歌をレコーディングし、オンエアする機会がやってきた。もちろんその中の1曲にチャンスが巡り、それは大当たりの油田であった。思いがけないことにそのレコードはヒットした。そのシングルは彼の元に幸運と札束を届けることができた。Otisは、マネージャ・ミュージシャン・ソングライタ・出版者・レコード会社オーナーとして、Digシングルが全米で知られるポピュラー歌手らがカバーするような作品を提供し、そして、ディスク・ジョッキー達が利益を侵害しないように自社の製品や利益をうまく守った。Otisは南ハーヴァード2077にある大きな自宅の庭に彼自身の小さなスタジオを所有、もちろん彼には専属のスタジオ・バンドがあった。Otisはビブラホーンや時にはピアノを、Devonia "Lady Dee" Williamsはピアノ、Kansas City Bellはドラムス、Peter LewisまたはJimmy Nolanがギター、Johnny Parkerがベース、Jack Kelso・Fred Harmonがサックス、George Washingtonはトロンボーン、Don Johnsonがトランペットという面々である。このメンバー全員または一部のメンバーは、ハーヴァード大通りのスタジオや、のちに数ブロック先のワシントン大通りと西通りにあるより大きなスタジオでDigのレコーディングしたヴォーカリストやグループのバッキング・バンドをつとめた。Tonny AllenはOtisがレコーディングした有名なアーティストの1人であった。Tonny AllenのグループはSpecialtyから2つの地ローカル・ヒット「Nite owl」と「Especially」をすでに持っていた。それがThe Chimes(「Nite owl」の広告ではThe Champsとして宣伝された)である。「Especially」がヒットしていた1956年に、OtisはTonyとともに「I found an angel」(Dig 109)をレコーディングした。Otisがラジオ番組で盛んにオン・エアしたおかげで、歌はロサンゼルス一帯で支持を受けた。残念なことに、50年代を通してすばらしいレコードにもかかわらず、Tonny Allenの経歴はかんばしくなかった。さらに彼自身が予測もしなかった一連の刑期に服さなければならなかった。彼は現在も南セントラル(ロサンゼルス)の小さな町で歌っている。The PremiersはDigのアーティストの中でも最も人気のあるボーカル・グループで、Otisがレコーディングしたものだけでも少なくとも10曲がある。彼らの「Baby」(裏面「New moon」Dig 106)は、Digのロゴを冠した最初のシングル盤であった。次いで「Have a heart/My darling」(Dig 113)をリリース。さらに2枚を送り出したあとの「Blue mood/Crazy bells」(Dig-115・Otisはレーベル中でベスト・セラー・シングルだったと主張している)のレコーディングで、OtisはThe Premiersと歌手Julie Stevensを共演させた。1957年、Otisは「Take my heart/I don't want to know」(Dig 129)でも再びこの二組にペアを組ませた。伝えられるところでは、Sammy Yates(Digに在籍したThe Premiresのリーダーでリード・シンガー)は現在Count' Yatesという名前で南カリフォルニアにおいてピアノを演奏しているという。Arther Lee Mayeは、ウエストコーストDoo Wopのなかでも偉大な声を持っている一人であると確信をもって言えるシンガーである。The Crowns(Ben E. Kingが在籍し、レコードが出ることはなかった。The Five Crownsと呼ばれ、1958年にThe Driftersとなったグループ)のフロントとして最も有名である。Arthur Lee Maye & The Crownsは、1954〜55年(「Love me always」RPM- 429)を含む)にかけてModernとRPMでレコーディングし、少なくとも6枚のレコードで成功した。1956年、彼とRichard Berryは最大のヒット「Gloria」(Specialty 573)でともにリード・ボーカルをとった。「Gloria」は東海岸街のストリート・コーナー・グループにとって大切なThe Cadillacsの歌ではない。1956年後半、OtisはMayeとともに4枚のシングルをリリース、本アルバムにはさらにリリースされなかったカット「That's what I'm gonna do」(「This is the night for love/Honey honey」Dig 133)も収録している。Digを去った後Mayeは、1957年にFlipで「Cause you're mine alone/Hey pretty girl」(330)をレコーディングした。Mayeは現在もロサンゼルスに住んでいる。The GladiatorsはDigレコード物語の終わりに登場する。Otisは、彼らをタレント・ショーで発掘したと思われるが、このグループがどういった経緯で契約したのかを覚えていない。「Girl of my heart/My baby doll」(Dig 135・1957年にリリース)は、明らかに彼らの唯一のレコードであった。Little Julian Herrena & The Tigersの最初のDigシングル(「Long Lonely Nights」118)は、東ロサンゼルス(南カリフォルニアにおけるメキシコ系アメリカ人の文化の中心地)でヒットした。にもかかわず、次作シングル(「Symbol go heaven」Dig 137)を発表するまでOtisがほぼ1年待ったのは実に奇妙である。The Tigersは、The Premiersの何人かがメンバーであったかもしれないグループではなかったかと、Otisは漠然と思い出す。メンバーのひとりはRay Estradaで、R&Bレコードのプロデューサー・作曲家(OriginalレコードからThe Penguinsの「Memories of El Monte」のヒットを放っている)として活動し、のちにFrank ZappaのThe Mothers of Inventionのメンバーとなった多才な人物である。1958〜9年にかけてJulian Herrenaは、Stariaレーベル(Art Laboe設立)から「I remember Linda」をイースト・ロサンジェルス一帯でヒットさせた。Herreraは現在もロサンゼルス近辺に住み、伝えられるところでは、ウエストもそれほど小さくない(Little Julian HerrenaのLittleにかけて)という。Herreraは初のメキシコ系アメリカ人のロッカーの1人として活動し、もう一人のAngeleno(Little Ritchie Valens)に先行すること二年である。Cell Foster & The Audiosは、レーベル名をDigに変える前の最後のシングル「Honest I do/I Prayed For You(Ultra 105)」をリリースしたサンディエゴ出身のグループであった。"Handsome Mel" Williams(のちにThe Montclairsのメンバーとしてレコーディングしている)は、OtisのDigレコードのなかで成功したアーティストであった。彼の最初の2枚のシングル(本アルバムには未収録・「Talk to me」107と「Hold me」114)は、西海岸チャート記録したローカル・ヒットとなった。DigはMel Williamsのアルバム「All through the night」を1956年に出した。本アルバムでは彼の最後の2曲「Don't cry, baby/My love」(Dig 123)を収録している。WilliamsはJohnny Otis Bandのためのヴォーカリストとして数年を過ごし、CapitolからリリースされたOtisの作品数曲に参加している。彼は、現在もロサンゼルス・クラブで歌っている。The Tearsは、歴史の霧の中で失われていった無名の女性のグループの1つである。Terry Atkinsという名の白人の女の子がリーダーで、The TearsはOtisが主催したタレントショーで発掘したグループの中の一組であった。The TearsのDigシングル「Nothing but love/Until the day I die」(Dig 112)はロサンゼルスでヒットしたが、Otisは次作を制作することはなかった。後年Scorpioで「Head all about it」をレコーディングした同名グループがいるが、本グループと同一でない限りThe Tearsにとってはこれが最後のレコードとなる。Digがリリースした作品は、西海岸のボーカル・グループの割合が多くを占めたが、Johnny Otisは「常に東海岸のグループが好みであった」と最近では打ち明けている。また「彼ら(東海岸グループ)の音楽的才能は、より高いレベル上にあった。」し「おそらく彼らの多くがゴスペル歌手に転身した。グループの大部分は独学で、みんなストリートから出発していた。」と語っている。Digからの最後のリリース「Old folks' boogie」は、ブルースマンAl Simmonsが歌い、売上げも好調であった。幸運が介在しなければ、Digレーベルはあと二年間活動していたかもしれない。1957年後半にJohnny Otisは、アーティストと製作者としてCapitolレコードと契約した。彼の「Ma (He's makin' eyes at me)」がイギリスで、そして「Willie & The Hand Jive」が米国で大ヒットし、またたく間にスターとなった。Capitolレコードとの契約で、Otisはそれまで制作した作品群を持たなかった。そしてDigレコードは存在しないかのように沈黙に陥った。
by Jim Dawson

Pelican's impression

Johnny Otisの名前を聞いた事がない人は、こっち方面のお好きな方中では少ないと思われますが、皆さんはどんな印象をおもちでしょうか。私はシンガーやライターとしてはほとんど評価しないのですが、この世界で果たした役割は大きかったようです。この音楽を世に広めた一人として、アラン・フリードやディック・クラークとともに評価されるべき人物でしょうね。さてさて中身ですが、これがまたイイですね〜。本シリーズ中でも、一枚に(というか一つのレーベルで)これだけイイものが集まってるのもなかなかお目にかかれません。コアなファンはもちろん渋いもの好きなアナタにぜひおススメの一枚です。