14 The best of Johnson records

Relic-5031

GG14レーベル:Johnson
設立地:ニューヨーク州・ニューヨーク市
創設者:Hiram Johnson
活動期間:1957~1958年
創設:1957年
関連レーベル:Trax

01. Come on baby - The Cordovans
02. Darling (audition tape) - The Dubs
03. My Cherie - The Shells
04. Wonderland - The Carribians
05. Don't cry - Cleo & The Crystaliers
06. Deep in my heart - Shells
07. My love - The Arcades
08. Someone up there (take 8) - Nate & The Chryslers
09. Wait up - The Cameos

10. Baby oh baby - The Shells
11. I won't have you breaking my heart (audition tape) - The Dubs
12. My heart - The Cordovans
13. Explain it on me (1957 version) - The Shells
14. The night - Bobby Capri & The Velvet Angels
15. Fine little girl - The Arcades w/King Curtis
16. Connie (audition tape) - The Dubs
17. Please be my guy - Cleo & The Crystaliers
18. Happy holiday - Shells

「50年代中頃のニューヨークにおけるロックン・ロールの主流はまぎれもなく「ハイ・ボイス」や「Frankie Lymonのような少年のリード・シンガー」もしくは「ランニング・ベースとともに奏でるファルセット・スタイル」であった。トリッキーなバック・ハーモニーの妙はAlan FreedやDr. JiveといったDJを支持するリスナー達は大歓迎した。Hal JacksonやJocko Hendersonらもほぼ毎日流し続けていた。 ニューヨーを中心に活動するグループらが歌うバラードにおける唱法をひとくくりに定義づけることは困難なくらい多様であった。力強いファルセットのバッキングにはディープなベースが色を添え、ピアノがパワフルにからんでくる。ニューヨークに於けるR&Bボーカル・グループのレコード制作は、ニューヨークはもちろんのことシカゴやロサンゼルスのグループにまで及んだ。ほとんど一発録りのような荒っぽいライブ演奏もあったにもかかわらず、それでも、このジャンルの持つ最高で圧倒的な影響力と感情表現力は決して真似の出来ないロック・クラシックとなった。1957年、Hiram Johnsonはニューヨーク・サウンドとして最高のシングル盤の一枚を制作した。The Shellsの「Baby oh baby」、The Dubsの「Don't ask me」や、コレクター周知のThe Cordovansの「Come on baby」といった作品をJohnsonレーベルがリリースした事で、現在Doo Wopの定番として多くのファンに認識されるまでに至った。1957年、Johnsonレコードにとって忘れがたい歌をHiram Johnsonは録音している。「Baby oh baby」が1960年に全米ヒットとなり、1958年前半にリリースされていたThe Cordovansの「Come on baby」といった作品群がカタログから復活し、レーベルの新譜として全国で再発売された。しかしHiram Johnsonは1957年以降はこのヒットの機運があるにもかかわらず、このレーベルからは一枚もリリースすることはなかった。The DubsとThe Shells(1950年代中頃におけるニューヨーク出身の最も人気のあった2グループ)がJohnsonレーベルの歴史でもあった。「Don't ask me to be lonely/Darling」は、1957年晩冬にJohnson-102としてリリースされた。「Don't ask me to be lonely」はニューヨークを中心にフィラデルフィアやピッツバーグで好成績を残したが、資金難に陥ったJohnsonレーベルは、マスターを同じニューヨークのプロデューサーであったGeorge Goldnerに売却した。Geroger Goldnerはニューヨーク・サウンドに於ける最重要人物の一人で、The Teenagers・The Cleftones・The Wrens・The Crows・The Valentinesなどを制作した。1957年4月に彼はGoneレコードから「Don't ask me to be lonely」をGone-5002としてリリースした。The Dubs(オリジナルはRichard Blandon・Cleveland Still(1st. tenor)・Bill Carlyle(2nd. tenor)・James (Jake) Milton(バリトン)・Thomas Gardner(ベース))は移籍後の1957年から58年にかけて「Could this be magic」「Beside my love」「Be sure my love」「Chapel of dreams」等を次々とヒットさせ、グループとして最も輝かしい時期をGoneで過ごした。グループは1959年から1961年にかけてABC Paramountレコード(Sid Feller設立)に在籍したが、Richard Blandonの持つ特徴的なリード・ヴォイスを生かす事なく、第二のThe Plattersとして位置づけられていた。しかし、The Dubsは60年代前半にはJosie・End・Wilshireからシングル盤をリリースしたが、大きなヒットは出せないままであった。「I won't have you breaking my heart」はRichard Blandonが歌ったが、のちにThe Marvels(現在では非常にレアなコレクターズ・アイテムとなっている)のバージョンが1956年にABC- Paramountからリリースされた。この作品は1956年後半から1957年前半にかけてレコーディングされたもので、「Darling」の別バージョンであった。The Dubsの「Connie」はGoneレコードで最も初期のグループ作品でとして1957年にレコーディングされている。これらのアウトテイクは「Feathers」や「5 Wings」と記された古いテープ・ボックスから見つかった。Hiram Johnsonはこららのグループ名がすでに使われていると知る前に、改名前のThe Dubsがこの名義でレコーディングを行なったことが推察できる。1957年春、ニューヨーク・サウンドは頂点を迎えていた。The Teenchordsの「Honey, honey」・The Channelsの「I really love you」・The Mellow Kingsの「Tonite, Tonite」・The Cadillacsの「My girl friend」といったナンバーが何度も何度もオンエアされていた。 「Don't ask me to be lonely」の成功で勢いをつけたHiram JohnsonはCleo and The Crystaliers(後年、非常に短命として知られることとなる)で自身の運をためした。ブルックリン出身と思われるこのグループ唯一のシングル「Please be my guy(B面Don't cry)」というわずか2曲の歌は、当時ハーレム西146番街に住んでいたHiram Johnsonがブルックリン・アルバニー通りで暮らしていたRonnie Gayと共に書き上げたものであった。どちらの歌も1957年5月に著作権を取得、間もなくGeorge GoldnerのCindyレーベルからリリースされたが、「Please be my guy」はCindyで新たに再レコーディングされたバージョンであった。 Johnsonレーベルにとっての第二章はThe Shells(このレーベルを語る時は必ず言及される、ブルックリンに拠点を置くグループ)が中心となった。The Shells最大のヒット「Baby oh baby(Johnson-104)」は、1957年夏にHiram Johnson with the Cliff Driver comboのバッキングでレコーディングされた。ニューヨーク・フィラデルフィア・ピッツバーグ・クリーブランドで好評を得た後、「Baby oh baby」は全米で販売するために、販売網を持つGeorge Goldnerの力に頼らざるを得なかった。1960年に「Baby oh baby」全米ヒット、ボーカルのNathaniel "Little Nate" Bouknightの歌声は、心に訴えかけ嘆願するように強力なリードであったが、他のオリジナルメンバーの声はほとんど識別出来ないほど地味に扱われた。「My Cherie」と本アルバムに収録された「Explain it to me」が、「Baby oh baby」に続くセッションで1957年にレコーディングされた。しかし「Don't say goodbye」をThe Shellsの第二作と考えていたHiram Johnsonは、この2曲のどちらもその時点ではリリースしなかった。Nathaniel BouknightとThe Shellsは1958年5月にEndレコードで「Sippin' soda」をレコーディングしたが、これを最後にNathanielはグループを去る(その後「Stop pretending」がヒットした頃のThe Cloversに短期間加入している)。1959年9月、Kirk Harrisを含むカルテットLittle Nate and The Chryslersを結成し「Someone up there」(#318:本アルバム8曲目に収録)を発表した。The Shellsという名前が忘却の彼方へと向かい始めた1960年、The Shellsは突然の再活動を開始した。Hiram Johnsonの兄弟、Buddy Johnsonはブリル・ビルで出版をしていたJim McCarthy作品を好んで採用した有名なR&Bバンド・リーダーであった。Wayne Stierleと私が「Baby oh baby」の再発盤を捜していた1960年という年は、Ivy SlimのTimes Squareレコード店を中心としたオールディーズ市場が活気を呈し始めた頃で、Hiram Johnsonが自身のレーベルでMcCarthyを取り扱い始めた。 後にMcCarthyはJohnsonレーベル株を購入したが、1957年の奇才Hiram Johnsonは二度とR&Bをレコーディングすることはなかった。1960年秋、Jim McCarthyは「Baby oh baby」のDJサンプルを作成し、その一枚をKDAYラジオ(カリフォルニア州・ロサンゼルス)のAlan Freedに届けた。Aran Freedは、このシングルを盛んにオン・エアし、自身の出版社Figure Music(前マネージャJack Hookeと共同設立)から全米に向けてこのシングルを発売(オン・エアとの引き換えに1957年にGeorge Goldnerが発売権を与えるが、後年ペイオラ・スキャンダルでニューヨークを追放される)した。Jim McCarthyは「Baby oh baby」の大ヒットを危惧、Jack HookeはJim McCarthyの小さなオフィスからあらゆるラジオ局へ一日中電話をかけ続けた。まもなくNathaniel Bouknightが新しいThe Shells(Robert Nurse/ファースト・テナー、Shade "Randy" Alston/2nd.tenor、Gus Geter/バリトン、Daniel Small/ベース)を結成する。「Deep in my heart」と「Happy holiday」は、Wayne Stierleのプロデュースにより1962年10月にJohnson-119としてリリースされた。このシングルでは評価の悪かったNathaniel BouknightにかわってRoy Jonesがリードをとった。The Shellsは60年代をとおしJim McCarthy・Wayne Stierleのもとで仕事をし、1967年にWayne StierleのCandleliteレコードから「Acappella Session with the Shells」を発表した。次に述べるのは、Johnsonレーベルに在籍した短命で知られざるグループ達の良質な作品である。The Cordovansの「Come on baby/My heart」(#731)は、1958年冬にリリースされた。その後、60年の秋にJim McCarthyが再発売した時は、Irvin Coxをはじめ(曲はAlvin Grant・Alvin Hassellとおそらく他のメンバーも書いたと推察される)メンバーの所在は不明となっている。Ivy "Slim" Roseの運営するTimes Squareレコードでは、The Arcadesの「Fine little Girl/My love」(オリジナルは1960年にリリース、1962年5月にJohnson-116として再発された)というヒットを放っていた。メンバーの一人Theodore MarshはプロデューサーのHiram Johnsonと共に歌を書いたが、グループに関してはそれ以上わからないままである。Bobby Capri & The Velvet Satinsは、「The night」というDoo Wopナンバー(Johnson-126)を1963年にリリースした白人のグループである。本アルバムにおいて、The Caribbeansの「Wonderland」とThe Cameosの「Wait up」は例外的作品である。The Caribbeansの歌は、Walter Coleman(「Baby oh baby」を共作したHiram Johnsonの親友)がBrooksレコードからリリースしたナンバーである。Jim McCarthyがJohnsonの全マスターを購入して以来、我々はWalter Colemanを探し出せずにいるため、この貴重なレコード(現在までに確認できたのは2~3枚のオリジナルだけである)に関する詳細が何もわからないままである。The Cameosの「Wait up」は、Pete Forliniが設立したDeanレーベル(ナトリー/ニュージャージー州)最初のシングルとして1960年4月にリリースされた。そして同じ年の後半に、Wayne Stierleと私が行ったJim McCarthyとのマスター発掘に関する取引条件の一つとして、Johnsonレーベルから再発されることとなった。言うまでもなく、この再発はほとんど売れることもなく(いくつかのラジオ局で放送されたが)、我々もThe Cameosも貧しいままであった。The Cameosはオレンジ(ニュージャージー州)出身でメンバーのほとんどがコールマン家の者であった;Patricia Coleman(リード)、Patrick Coleman(1 st tenor・のちに「The Stars」をヒットさせるThe Ocapellosに加入)、William Coleman (2nd. tenor)、Walter Jones(バリトン)、John "Buster" Sayles(ベース)の5人。これがJohnsonレーベル物語の終わりである。20年後の現在、これを書いていると奇妙なノスタルジアにかられる。The ShellsとオリジナルDubsはバラバラに、Jim McCarthyは先月亡くなったばかりである。Wayne Stierleと共に仕事をする事もないであろうし、Hiram Johnsonが今どこにいるのか誰にもわからないであろう。これがJohnsonレコードというシンプルなニューヨーク・サウンドの背景であった。 Donn Fileti ブロードウェー1619に建つブリル・ビル、そこは有名人とそうでない人、大手レコード会社と全くはっきりしない会社のオフィスが混在した。そして、Hiram Johnson(有名な作曲家でバンド・リーダーBuddy Johnsonの兄弟)が設立したJohnsonレコードという小さなレーベルはがそこにあった。1960年にはすでに運営をやめていたが、Jim McCarthy(Buddy Johnsonなどを出版した人物)が自身の最後の仕事場所としてこのオフィスに自分の名前を掲げていた。1960年初頭にDonn Filetiと私は、その小さいオフィスでJim McCarthyに初めて会った。オフィスはブリル・ビル5階のぼんやりと照らされた通路の右側にあった。それはまるで古墳のニューヨーク・バージョンのようであった。一日の半分を過ごすこのオフィスの曇りガラスのドアをノックすれば、レースの賭けと倍率についての次々と電話をかけ続ける事に大部分のエネルギーを費やしている彼に出会えた。そしてこれが、彼のほぼ全てであった。(当時の我々は、彼が賭けに熱中していると想像したが、本当のところはわからない。)しかし間もなく、我々が彼を変えることとなった。それは、我々がThe Shellsの有名すぎる「Oh baby」のレコード再発のため(の権利購入)に訪問したからである。Donn Filetiと私は再発権を購入し、レコード販売のためにいくつかのラジオ局を回り番組でのオン・エアを確保した。そして8ヵ月後に「Oh baby」は瞬く間にヒット・パレード・チャートの全米トップ20に達し、我々はそのセールスに驚きを隠せなかった(多くの都市でナンバー・ワン・ヒットになった)。同時に、Johnsonレーベルからのもう一つの再発シングルを、ニューヨークのBruce Morrowや(奇妙なことだが)カリフォルニアのAlan Freedのようなディスクジョッキーらにオン・エアさせ、彼らにも得をさせた。このシングルには、The Cordovans「Fine little girl」・The Arcades「Corne on baby」などがあった。 高校生の私にとってはワイルドな時間であった。「Baby oh baby」の成功に続いてDonn Filetiとの共同プロデュースで「Sweetest one」と「Baby, walk on in」を、「Happy holiday」「Deep in my heart」「My honor」を含むいくつかの作品を私のプロデュースで制作した。我々は「Oh baby」のヒットでさえ1ペニーたりとも受け取っていないばかりか、我々が制作した他のレコードの売上げの90%が無断で分配された。それらはこのプロジェクトにたった2〜3ドルを出資しただけの投資家に与えられ、なぜか彼等が手品のごとく「プロデューサー」となっていた。以降これらの歌は、様々なレーベルから正当な対価なしにリリースされ続けた。我々はこの経験から「価値のあること」を学んだが、これが我々の得たすべてであった。 我々はこのように扱ったにもかかわらず、奇妙にも(明らかに彼よりも)我々の方がJim McCarthyに好意を持っていた。(我々にはJim McCarthyを告訴するだけのお金も法的根拠もなかったし、なによりも率直なところ、我々はあまりに傷つき過ぎていた。)これが我々のJohnsonレコードであった。一度は消滅したレーベルが、ジャージー出身の2人の少年により復活したのであった。なぜかはよくわからないけれど、それでも私はいまでも愛しくそれを覚えている。
by Wayne Stierle

Pelican's impression

きわめて短命なレーベルにもかかわらず、というか短命なだけに今でも人気のあるレーベルです。Johnsonといえば「Baby oh baby」でしょうか、やっぱり。ドンの文章でも触れているように、当時のヒット作品の一端を占めたキッズ・グループですがここはファンの支持が別れるところかもしれないですね。なんせ日本のブラック・ファンは「渋さや深み」のあるシンガーを応援しますからね〜。でもDoo Wopに関してならそんもんを重視しすぎると聴くものがなくなっちゃいますよね。なんせ若者のヒット曲のひとつですからね。ちょっとお話がズレちゃいますが、2015年にリリースされた「Rare Doo Wop Box」という5枚組のボックス・セットはもうお聴きになりましたか。私は早速手に入れたのですが、最初はあまりの黒っぽさと古めかしい感じに戸惑い、Doo Wopらしからぬ選曲に非常に聴きづらく感じました。それでも良い曲もいくつかあってBGMとして全曲を毎日聴いておりました。そして徐々にこれらが良くなってきたんですね〜、不思議な事に。そして名曲と言えそうなマイ・フェバリット・ソングもできたりして今では非常に愛着のあるボックスとなったのですが、このボックスに比べるとこのシリーズはマニアックな選曲とはいえとっても聴きやすいものばかりであることが、今更ながらに再認識したのであります。