23 The best of Show Time records

Relic-5045

GG23レーベル:Showtime
設立地:カリフォルニア州・ロサンゼルス
創設者:Peter Morgan・Austin McCoy
活動期間:1954年~1956年
創設:1954年
関連レーベル:Standard

01 Why don't you write me - The Feathers
02 Love only you - The Feathers
03 Desert winds - June Moy and The Feathers
04 Where did Caledonia go - The Five Stars
05 Nona - The Feathers
06 Crashing the party - The Feathers
07 Dear one - The Individuals
08 Johnny darling - The Feathers

09 Walkin' and talkin' - The Five Stars
10 Shake em up - The Feathers
11 I need a girl - The Feathers
12 Jungle superman - The Individuals
13 I met her at a dance - The Individuals
14 Busy as a bumble bee - John and Louis Staton
15 Why don't you write me - The Feathers
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R&Bレコード収集がまだ初期段階だった60年代前半、最も求められた宝の1つが「光沢のある赤いShowtimeレーベルのグループ作品」のシングル盤であった。シカゴのChance・ParrotやハーレムのAfter Hoursのように、エキゾチックなShowtimeのロゴ・マークも長く忘れられたミステリーであった。「Why don't you write me?」のオリジナル・バージョンや「Nona」などの古典的バラードをレコーディングしたThe Feathersと呼ばれた甘いサウンドのグループに興味をそそられるのか。なぜ有望な彼らが非常に短期間のレコーディング活動の後、1956年に突然姿を消したのであろうか。このカリフォルニアの魅力的なShowtimeでは、他にどんな音楽を送り出したのか。Showtimeレコードの本当の物語は、1954年4月から始まる。サウスセントラル西54番街(ロサンゼルス)の請負人であったPeter Morganは、Showtimeレーベルをつくるために、レコーディング・エンジニアAustin McCoyに共同経営を持ちかけた。Morgan一家は1920年代にモンロー(ルイジアナ)近くのWinn Parishからロス・アンゼルスへ引っ越し、The FlairsやHollywood Flamesといった地元のグループ(ジェファーソン高校出身が多かった)を楽しんでいた。ルイジアナ出身のMorganにとってのルーツはブルースで、新しいShowtimeレーベルからの最初の2枚のリリースもやはりブルースであった。Showtimeレーベル最初の盤は、ブルースマンSmokey Hoggの「Ain't gonna play second no mo/No more whiskey」(#1101)と、The Five Starsと呼ばれたブルース的サウンドを持ったグループの「Where did Caledonia go(Louis Jordanの1945年のリメイク作品!)/Walkin' and talkin'」(#1102)である。MorganはDolphin's of Hollywoodレコード店の故John Dolphinを通してSmokey Hoggに会ったことは憶えているもののThe 5 Starsに関しては、The Feathersというグループであったかもしれないということ以外ははっきりした記憶がない。The Feathersは、Showtimeレーベルが長年にわたってR&Bボーカル・グループ・ファンがあがめる理由のひとつである。グループのメンバーは、JohnnyとLouisのStaton兄弟・Mitchell Alexander・Donald Harris・John E. Harrisの5人。サウス・セントラル東29番街(ロスアンゼルス)に住み、お互いの家は400ブロックも離れていなかった彼等は、最初のリリース「Johnny darling」を1954年の遅い夏に「Nona」とのカップリングでリリースした。グループはその年の4月にAladdinレコードから「Wiggie」をリリースしたGene Forrest(Gene and Euniceとして有名であった)のバッキング・コーラスにThe 4 Feathersとして参加しており、彼らがShowtimeレコードのFeathersであることはありえる。「Johnny darling」と「Noma」は、ワッツ島の南アバロン大通りにあったAustin McCoyの小さなスタジオでレコーディングされた。McCoy(MercuryレコードでOscar McLollieやDinah Washingtonを制作した)は、50年代前半に自身のスタジオを開く前には、ModernレコードでBihari兄弟とも仕事をしている。2~3本のマイクと唯一とも言える楽器のピアノを備え、近所のボーカル・グループによるほとんど生(だが心に残る)のハーモニーを記録するために、McCoyの裏庭に建てたスタジオは理想的ともいえた。料金はハリウッドのスタジオに比べて非常に安く設定したMcCoyは、レコード製作をしたかった若い企業家を手助けることが出来ることに満足だった。この料金設定は、154番街(のちにGardenaレーベルの本拠地となる)のRalphのスタジオ圧迫した。2~300ドルは通常のレコーディング・コストと最初のシングル100枚分の制作費としての代金を払うのに十分な額だった。Morganは、1954年秋にヴァーノン通り1105Eで小さな机ひとつでShowtimeの運営を始めたことを思い出す。自身の知られざる良いR&Bレコードが、有力なHunter Hancockのラジオ番組でオンエアされたので彼は非常に励まされた。1954年夏の終わり、R&Bグループのジャンプナンバーで南ロサンゼルスは揺れる:FlairレコードのShirley Gunterによる「Oop shoop」、The Jewelsのオリジナル「Hearts of stone」、The Penguinsの「Hey senorita」とThe Medallionsの「Buick 59」がR&Bトップ10を競っていたのである。良質のバラードが遂に名乗り出る時が訪れ、そして「Johnny darling」と「Nona」はR&Rクラシックになるべくチャートにゆっくりと忍び寄った。1954年秋、ロス・エンジェルスで最もホットなシングルはもちろんThe Penguins(全米での成功がすぐさま地元のグループの物差しとなった)の「Earth angel」であった。The FeathersはAladdinレーベルとの契約に関していざこざになり傷ついた。さらに彼らに兵役がやってきたのであった。Aladdinは1954年11月に彼ら自身のバージョン「Johnny darting」をリリース、1955年2月にThe Feathersとして「I need a girl」が続いた。Showtimeはスーツ(そして約750ドルの和解金)を提供、The Feathersは次のシングルを1955年の初春に再びShowtimeから発表した。「Busy as a bumblebee(Johnny and Louis Statonというデュエット)」(#1105)とのカップリングでリリースした彼らの新曲「Why don't you write me?」は、直後から地元の注目を獲得しはじめた。若きLaura Hollinsの書いた「Why don't you write me?」が全米チャートにランク・インするためにはThe Jacksによるより自由な処置が必要であった(Relic LP-5023「The Jacks' Greatest Hits」に収録のThe JacksによるカバーとFeathersのオリジナルを聴き比べしなさい)。MorganとMcCoyはGolden State Songs(Don Pierce設立)に「Why don't you write me?」の上で著作権を売却、"Your hit parader" Snooky Lansonやポップ・ヴォーカリストのBuddy Grecoが独特のスタイルでカバー・バージョンをリリースした。The Feathersは「Desert winds」(かなり不気味なサウンドのバラード)のリリース後June Moyが高校に復帰したが、以降1970年代前半までグループはMorganのガレージに残った。彼らの次の力作「Love only you/Crashing the party」(#1106)は、1955年9月3日(リチャード・ニクソン夫人が、ワシントンのWUST局から毎日放送されているLord Fauntleroy BandyのR&Bラジオ番組の大ファンであるとコメントしたのと同じ日)のキャッシュ・ボックス誌でレビューされた!「Love only you」の評判はあまり芳しくなかった(が現在では、無名ゆえにR&Bコレクター達によってとても重要視されている)。そしてThe Feathersの終焉はDon PierceのHollywoodレーベルからの不運な「Dear one/Lonesome tonight」がリリースされた1956年冬にやってきた。Morganが1959年に契約したThe Individualsは、Art Ward・Joe Cummins・Roy Allen・Johnny Staton(後期のThe Feathersに在籍していた)がメンバー。サウス・セントラル(ロサンゼルス)西71番街を中心に活動しており、優れたバラード「Met her at a dance」と「Dear one」(いずれもShow Time 595と598の「Jungle Superman」の裏面に収録された)を送り出した。The CoastersやThe Olympicsの影響を受けた「Jungle superman」は、1959年冬にリリースされた2枚のシングル盤の穴埋めのような扱いであった。Showtimeレーベルの業績に喜べないMorganは、彼本業である不動産と建設事業に戻った。一方のMcCoyは、自身がセッションのレコーディングをした方がよいと感じた。Showtimeは50年代のセントラル・アベニュー(ロサンゼルス)界隈のR&Bシーンに対する、マイナーであったが貢献がったと確信している。しかし、私は1959年のJared WeinsteinとJohnny Espositoを思い出さずにはいられない。どこにも見当たらないであろうR&Bのシングル(彼らの探し求めた1959年という年でさえすでに珍しくなっていたとしたら、現在ではどれほど困難な探し物であることか)を捜し求めた説明しがたい旅行から2人の若いコレクターが戻ってきた頃、Slimがブロードウェイ42番街で経営する地下鉄商店街のTimes Square Record Shopの店先では、ビニール大好き人間の彼等の仲間を魅了していた。うらやましそうな仲間がよだれを垂らしそうだったので、彼らはぼろぼろの25枚入りの箱から伝説の「Nona」を5〜6枚取り出した。光り輝く赤いShowtimeのロゴは、R&Bレコード収集の初期に非常に重んじられた。The Castelles・Vocaleers・Don Julian and The Meadowlarksたちの最高の歌を聞くそのはるか以前、バラードに無形で切望の品質をThe Feathersは保持する。
by Donn Fileti

Pelican's impression

今回の翻訳も後半が自信なしです。