16 The best of Rainbow records

Relic-5034

GG16レーベル:Rainbow records
設立地:ニューヨーク州・ニューヨーク市
創設者:Herry Fromkes・Eddie Heller
活動期間:1947~1957年
創設:1947年
関連レーベル:Denby / Riviera

01. Yes sir that's my baby - The Clovers
02. I'm sorry - The Lovenotes
03. Bells of st.Mary's - The Hearts
04. My true love - The Swans
05. Bop bop bu - The Dappers
06. I don't want your love - The Marquis
07. Don't be no fool - The Lovenotes
08. Can this be love - The Winners
09. The fairest - The Hearts

10. Since I fell for you - The Lovenotes
11. Lovers - The Jets
12. White cliffs of dover - The Hearts
13. Rockin' & rollin' - The Winners
14. Forever my love - The Startones
15. When you come back to me - The Clovers
16. Sweet lulu - The Lovenotes
17. Maybe you'll be there - The Hearts
18. Popcorn willie - The Marquis

もしニューヨーク市の(42と57通りの間の)10番街にある「ヘルズ・キッチン」のあたりを40年代後半~50年代に歩く事が出来たら、様々なレコード会社や、ジューク・ボックスの販売店、卸売りレコード業者の小さな店等がすぐに目についただろう。いかがわしいこの地区には数件のスペイン系音楽企業もあるが、ニューヨークの「レコード街」ともいえるこの長い通りの「興奮と活力」を感じながら通り過ぎる。そして(10番街767にある)Sonnyのデリカテッセンに近寄り、この雑貨屋を見つめながら、Herry FromkesとEddie Heller(故人)が1947年3月に創設し、ここが「ポップ・R&B・ダンス音楽のレーベルRainbowレコードの本拠地」という事を想像しよう。かつてCosmo(レコード配給)でJerry Blaineとともに働いた経験のあるEddie Hellerは、JubileeやApollo(ともにレコード会社)にならいRainbowおよびその姉妹レーベルとしてDerbyを設立。ポップ・ソングも手がけたが、多くは「専門的な市場」向けであった、ラテン(Rainbow初のヒットは1948年にリリースしたEsy Moralesの「Jungle fantasy」)、ダンス、イディッシュ(ユダヤの人たちの間で人気の有る楽器演奏曲で80年代にもブームとなった。ファン達はこのレーベルをダビデの星(Star of Devid)と呼んだ)、そしてもちろん、R&Bであった。1950年、Eddie HellerはDerbyからJames Quartetとthe King Odom Fourをリリース、続いてThe Cloversの「Yes sir, that's my baby/When you come back to me(#11-122)」を1950年後半にSP(78回転盤)のみで発売し1951年1月6日付けのキャッシュ・ボックス誌のポップ・レコードでレビューされた。John "Buddy" Baileyがリードを歌い、Harold Winley(ベース)、Harold Lucas(バリトン)、Matthew McQuater(セカンド・テナー)、Bill Harris(ギター)の5人がメンバー。Buddy Baileyが1953~54年に軍役のためにグループを抜けてJohn Philip・Charlie WhiteとBilly Mitchell(その後もグループに在籍した)らが加入していた時を除いて、The Cloversは1950年のRainbow時代からAtlanticを経たUnited Artists(「Love potion #9」のヒットを放った)にかけての10年間同じメンバーで活動した。Lou Krefetzは、1950年に地元ワシントンで経営していたRose ClubでThe Cloversに会い、間もなく彼らのマネージャとなりRainbowへグループを売り込んだ。思った程ヒットしなかった「Yes sir, that's my baby」の失敗の後、Lou KrefetzはAtlanticレコードへグループを移籍させ、1951年春に「Don't you know I love you/Skylark」をヒットさせた。短い休業時間の後、Raibowは1952年春に再びR&Bへ参入した。青地に金文字のロゴがR&Bジャンル用として考案され、まずHarlemレコードに在籍したThe Five Crownsと契約した(Relic LP#5053「The Five Crowns」参照)。The Esquire Boysの「Caravan」が成功、おそらくこれがRainbow最大のヒットとなった。Eddie Hellerはワシントン出身のThe Jetsと契約し、1952年12月下旬にRainbow-201(The Five Crownsの「Keep it a secret」がRainbow-202として同時にリリースされた)として「The lovers」という美しいバラードを出した。The Jetsは、Waverly "Buck" Mason(「Lovers」のリード・シンガー)・ James "Toy" Walton(ファースト・テナー)・Walter Taylor(セカンド・テナー)・Herbert Fisher(バリトン)・John Bowie(ベース)・Charlie Booker(バリトンとギター・「Drag it home, baby」ではリードを歌っている)6人で、Earthaline Leeがワシントンのコットン・クラブに出演していたグループを見てマネージメントを申し出た。Buck MasonがRobert Russellと交代したのち、The JetsはAlladinに移籍しThe Bachelorsとしてレコーディング(The Hollywood FlamesがAladdinでThe Jetsとしてレコーディングした・7~11曲目に収録)、その後Royal Roosレコードへ移籍した。Rainbow在籍中のThe Jetsは会社とともにあまり運がなかった。The Super Sonicsのインストゥル・ナンバー「Sheik of Araby」(#214)が1953年夏にわずかにヒットしたもののR&B関連のシングルはその年はリリースされなかった。The Swans・The Lovenotes・Lee Andrews and The Heartsによる伝説的なRainbow作品は、1954年に生み出された。コレクターから高い評価を得ているこれらの古典的R&Bバラードは、1960年に本物のR&B収集というジャンルが出現して以来、探し出す事が非常に難しく、あっという間にコレクター市場で高値を呼び、そのことがさらに神秘性をも高めていく事となった。たとえば、1954年1月にRainbow-233としてリリースされたThe Swansの「My true love」は、赤いオリジナル・シングル盤と相まって強烈に心に残るバラードである。このほとんど無名のThe SwansというグループがThe Flamingosの「Golden teardrops」(キャッシュ・ボックス誌のニューヨークR&Bチャート第5位)やThe Castellesの「The silver ring」(フィラデルフィア第10位)と競いあったことはほとんど知られていない。(残念ながら)次にRainbowから出たのはAlfreditoの「Chop suey mambo」であった。1954年春というのはニューヨークとフィラデルフィアでは、マンボが大流行し、多くのR&Bマンボ・ファンが出現した。Rainbow史における重要な出来事が、サウスウエスト・フィラデルフィア出身のLee Andrews and the Heartsとの契約を1954年春に行なったことから始まった。Kae "Jet Pilot" Williams(地元の人気DJ・やがてJuniorレーベルを設立しThe Silhouettesの「Get a job」の大ヒットを放った)が定期的に開催していたオーディションで優勝したThe Heartsは、マーケット・ストリート(フィラデルフィア)にあるReco-Artスタジオで、代表作となるRainbow作品6曲をレコーディングした。Arthur Lee Andrew ThompsonはLee Andrews(おそらくこれまでで最高のR&Bリードの一人だ)と改名、Roy Calhoun(第一テナー)・Thomas "Butch" Curry(第二テナー)・Jimmy Mc Callister(バリトン)・John Young(ベース)・Kenny Lowe(ピアノ)がメンバーで、Andrewsとグループは1954年4月にRainbowから「Maybe you'll be there/Baby come back」(252)をリリースした。「Maybe you'll be there」は1954年5月22日付けのキャッシュ・ボックス誌のフィラデルフィア新着盤で取り上げられたもののチャートには登場しなかった。Rainbowは、間をおかずにThe Heartsの第二弾をリリース、「White cliffs of Dover/Much too much」は1954年6月に出た。Chanceレコードの新譜The Moonglowsの「I was wrong」、LunaレコードからはThe Crystalsの「Come to me darling」、The Scarlets(ニューヨークで第10位となった)の「Dear one」、The Solitairesの「Please remember my heart」らとチャートを競い合う事となった。LeeとそのメンバーはBing Crosbyやポップ・アーティストを聞き「Maybe you'll be there」や「White cliffs」といったナンバーが大衆に受けるのではないかと感じた。間もなくRainbowから3枚目で最後となる美しいバラード「Bells of St.Mary's/The fairest」(259)を1954年10月にリリースしたものの、彼等が得たのは本当の失望であった。Clyde McPhatter&The Driftersは大ヒットした「White Christmas」リリース直後に「Bells of St.Mary's」をレコーディングし発表。それがThe Heartsのバージョンの可能性を消失させた。グループは、6枚のシングルをヒットさせることができなかったRainbowより、むしろKae Williamsのマネーはとしての手腕に希望を見いだして契約を交わした。The Heartsは比較的不運だった1954年後半にRainbowを去り、1956年にGothamレコードと契約を果たしている。ボストン出身のThe Lovenotes(配給業者Cecil Steenがマネージメントした)の2枚が1954年にRainbowからリリースされた。「I'm sorry/Sweet Lulu」がRainbow-266として、またRiviera-970としてもリリースされた。もう一枚は「Since I fell for you/Don't be no fool」でRiviera-975として1954年10月に発売された。1955年2月26日付けのキャッシュ・ボックス誌上でベテランのアレンジャーEddie Wilcox(バンド・リーダー)がマネージャーとなってRivieraレコードを設立した事を明らかにしたが、Rivieraのマークはポップ・ヴォーカリストBob Eberlyをリリースした1950年という早い時期にEddie Hellerが採用し、1954年にはThe LovenotesとThe Heartsでも使用されていた。いずれにせよ、一般のファンはこのことを問題にもしなかったが、コレクターはThe Lovenotes・The HeartsやThe 5 CrownsのRivieraピンク・レーベルを大いに評価している。The Winnersの「Can this be my love/Rockin' and rollin」(#331)は1956年前半にリリースされ、すぐにヒットした。The Startonesと呼ばれてたもう一つの短命な街角グループは、1956年6月にRainbowから「Forever my love」と「I love you so dearly」を発表している。この作品はGarfield Grantとブルックリン出身のTheodore Williams Jr.(のちにTeddy Vannとして知られる)によって書かれた。RainbowはThe Bonnie Sistersの「Cry baby」でかなりのローカルR&Rヒットとなったが、R&Bチャートではまだ成功していなかった。Eddie Hellerは兄弟のBobと共に、北フィラデルフィアでクラブを経営、やがてヨークやフィラデルフィアに多くの人脈を持つようになった事が、大都市でのRainbowレコードの市場を拡大したと言える。Mickey and Sylviaの「I'm so glad」が1955年10月にキャッシュ・ボックス誌のローカルR&Bチャート第一位を獲得、The Dappersの「Bop bop bu/How I need you baby』(#373)が1956年12月にフィラデルフィアでヒットしたことは、それほど驚く事ではなかった。メンバーは、Gregory Carroll(Savoyレコード在籍時のThe Four Buddiesを脱退後、The OriolesのGeorge Nelsonと交代したテナー)、Al Showell(バリトン/ベース)、Leonard Puzey(The Ravensの初代バリトン・シンガー)、女性デュオPat Williams(ソプラノ)とJoy Wright(アルト)である。「Bop bop bu」は、リードのJoy Wrightとバック・ボーカルのGregory Carrollを売り物に、当初多くのラジオから放送された。The Dappersは、Joy Wrightが出産のためにグループから抜けたあとも恒例のサーキット(Apollo・Royal・Howard・Uptown theaterといった劇場の連夜公演をして廻ること)のためにツアーに出たが、間もなく解散した。1957年という年はR&Rが大流行した年であり、特に人気のあったダンス路線の販売促進に興味を持ったBostonレコードを設立した卸売業者Saul WeinsteinにRainbowレーベルは売られた。1957年春のRainbow売却のあとEddie HellerはRCAに入社し、1960年代前半に自身のTributeレーベルを設立した。RainbowレコードはR&B分野においては成功こそなかったが、最も有名で尊敬される3つのR&Bグループを生んだ。The Clovers・Lee Andrews and The HeartsそしてThe Drifters(The 5 Crownsとして始まったグループ)である。今日では、子会社のDerbyやRivieraも含めて、50年代には10番街のゴミ箱へ追いやられたようなシングル盤に対し、数百ドルという大金を払うコレクター達がRainbowレコードを常に追求している。
by Donn Fileti (Marv GoldbergとL. Carl Tancrediに感謝します)

Pelican's impression

ライナーにもありますが、The Clovers・Lee Andrews and The HeartsそしてThe Drifters(5 Crownsのほうです)がかつて在籍したレーベルということで、なかなか貴重な会社です。結構なグループが売れない時期を過ごした不運な会社とも言えそうです。The Heartsはやはりいいですね、ここに収録されているのは大ヒットとはならなかったものの名曲ぞろい、特に「Bells of St.Mary's」はグレイト、ぜひご一聴下さいです。歌声が個性的というのはやっぱり強いんじゃないでしょうかね。The MoonglowsやThe Dellsなんて聞いたらすぐにわかりますもんね〜。