07 The best of Winley records

Relic- 5019

GG07レーベル:Winley
設立地:ニューヨーク州・ニューヨーク
創設者:Paul Winley
活動期間:1956年7月~1960年
創設:1956年夏
関連レーベル:Cyclone

01. You must be falling in love - The Duppons
02. Florence - The Paragons
03. Please let me love you - The Jesters
04. I'm falling in love - The Jesters
05. Twilight - The Paragons
06. The plea - The Jesters
07. Zoom zoom zoom - The Collegians
08. Let's start all over again - The Paragons
09. Hong Kong - The Quinns
10. If I could hold your hand - The Calanders
11. The wind - The Jesters

12. Oh baby - The Jesters
13. The words of love - The Paragons
14. You - The Duppons
15. Tears - The Persuaders
16. So strange - The Jesters
17. Hey little school girl - The Paragons
18. Oh starlight - The Quinns
19. I laughed - The Jesters
20. I love noone but you - The Jesters
21. What are you gonna be - The Calanders
22. Two hearts are better than one - The Paragons

20年の間 Paul Winleyはいかにしてセッションをまとめ上げるべきかを熟知していた。誰もがSoul Makossa のような新しいサウンド作りに夢中になっていたにもかかわらず、彼はFlorenceでは最初から最後までピアノを取り入れた。Paul Winleyは、皆がそろそろニューヨークのレコードシーンからリタイアの時期だろうと思われはじめた頃、ある人物との接触を持っていた。Paul Winleyはけっして職人ではない。それでもなお1957年にデビューしたThe Paragons・The Jestersは50年代後半のベストR&Rグループとして名を残している。Paul Winleyが50年代後期に製作したこれらのダウウントゥアースな、そしてやけに素人臭い音作りは決して誰にも真似のできるものではなかった。彼のサウンドに対する想像力が豊かな独立したオペレーターだからこそできたのである。当初、大手レーベルは彼のつくり出したグループサウンドを容易にコピーできると思っていた。しかし大手のつくり出したニューヨークタイプのボーカルグループらは惨めにも失敗していった。Paul Winleyは(自分には余裕もなくできなかった)金にまかせた似非ストリートコーナーサウンドを軽蔑していた。Paul Winleyのユニークなサウンドはニューヨークから生まれた。彼の兄弟であるHarold WinleyはThe Cloversのメンバーで、この有名グループは1954年7月にPaul Winleyの作品I got my eyes on youをリリース(ヒット曲Your cash ain't nothin' but trashの裏面である)し、若き日のPaul Winleyのキャリアは始まった。次の作品はAladdinに在籍していたThe Dodgersに提供したLet's make a whole lot of love(1954年9月)、続いてDrip drop(1955年2月)がリリースされた。1954年11月にリリースした彼の最初のレコードはThe (Five) Pearlsというデトロイトのグループで、Dave 'Baby' Cortez Clowney(オルガン奏者・シンガー・並外れたアレンジャー)を中心としたグループである。彼らはAladdinからReel humdinger・Please let me knowをリリースしている。Paul WinleyはHide and seekをJoe Turner(のちにThe Rockersを結成する)のために書き、Joe Leibowitzが新設したPremiumレーベルから1955年の労働記念日(9月の第一月曜日)にレコーディングされた。他に用意していたAngel child・My confessionはこのセッションでは使われず、Paul Winleyは自身のレーベルを始めることに決めた。1956年のニューヨークのラジオは最もエキサイティングな年でもあった。Jack Walkerは3月からWOV局で朝の番組を始め、Jockoはほぼ同じ頃に同局で午後10~12時の番組を担当した。そしてAlan FreedはWINSで、Tommy SmallはWWRLでそれぞれ多くのリスナーを獲得していた。56年夏にブルックリンのグループThe Duponts のYou must be falling in loveを最初にリリースしたPaul Winleyにとって、このレコードをオンエアさせるのはそうは難しくはなかった。彼はビジネスに熟知てしおり、彼の持ち込んだレコード他の業者のレコードのなかに埋もれてしまうことはなかった。ニューヨークやフィラデルフィアではThe HeartbeatsのA 1000 miles away・The TeenagersのABC's of love・The ChannelsのThe closer you areらと激しい競争を繰り広げなければならなかった。The Duponts(Anthony Gourdine・William Bracey・William Delk・William Deckery)はしかし再びWinleyでレコーディングすることはなかった。Winleyに残したマスターは、Little Anthony and The Imperialsとして人気を得た数年後にSavoyに貸出されリリースされた。ブルックリンは、The Paragonsのヒット曲Florenceとともにレーベル名が最も知られた地域で、Winleyの最大のグループ獲得地域でもあった。1957年冬にリリースされたFlorenceは驚くべき速さでヒットした結果、Winley は全米で配給を行うためにJerry Blaineに渡さなければならなかった。当時Jerry Blaineの運営していたJay-Geeレコードは、同様にWhirlin' Discレーベル(Bobby Robinson設立)の販売権も処理していた。幸運にもこの最も独創的なプロデューサーの2人は、多くの独立オペレーターを悩ます金融問題から解放されていた。しかし同時に二人はJerry Blaineとの取引から手を引くべき時を推し量っていた。1957年9月Paul Winley はレーベル唯一のオーナーとなり、Bobby Robinsonは自身のFuryレコードを設立しWhirlin' Discの運営を終了させた。Florenceの話に戻ろう。この忘れがたい名曲はThe ParagonsのリードボーカルJulius Mac Michaelだけが歌いこなせる(その彼でさえしばしばうまく歌えなかった!)バラードである。このレコードが1957年3月に大成功していた頃、あなたはDr. Jiveの番組でThe ContinentalsのPicture of love・The Love NotesのTonight・The HeartbeatsのI won't be the fool anymore・The MinorsのJerryがオンエアされているのを聞けただろう。Florenceと裏面のHey little school girlはいまやスタンダードである。めったに50年代のグループのレコードを放送しない局でさえFlorenceを流している。Winleyにおいて次いでクラシックなグループはThe Jesters(Adam Jackson・Noel Smith・Jimmie Smith・James Stewart・Lennie Mac Kay)である。彼らのバラード作品So strange・Love no one but youは1957年5月にリリースされすぐに成功を収めた。たたきつけるようなピアノはWinleyのトレードマークとなり、The ParagonsのLet's start all over again・Stick with me babyは1957年7月にリリースされ全米チャートに登っていった。このシングルは7月27日付のキャッシュボックス誌が、Malcom Dodds and The TunedropsのIt took a long time(Endレーベルの最初のリリース)・The Five Chances(Federal)のMy days are blue・The RavensのThat'll be the day(Buddy Hollyのひどいカバー)とともに取り上げた。この頃Paul Winleyの友人であったHiram Johnsonの製作したThe ChantelsのThe plea(のちにThe Jestersもレコーディングしている)とともにThe ShellsのBaby oh babyがローカルヒットしはじめた。1957年10月にはThe Jestersの2枚目のシングルPlease let me love you・I'm falling in loveは順調に売り上げを伸し、Adam Jackson率いるハーレム出身グループの才能を際立たせた素晴らしいバラードとジャンプナンバーであった。1957年秋、Paul WinleyはCycloneレーベルを設立し、The QuinnsのHong Kong・Oh starlightをリリースした。両面ともに地元で話題になったものの全米チャートには登場しなかった。私の書いた1957年のTommy 'Dr. Jive' Smallsの番組(WWRLラジオ)の記録をチェックしたところ、The Quinnsのレコードは、The SolitairesのI really love you so・The KodoksのLittle boy and girl・The CorvelsのWe made a vow・The ImpressiorsのNo, no, no・Ruth Mc FaddenのSay loverとともにオンエアされていることがわかった。この時、Jay-Geeとの間で交わされた配給協定は終わり、Paul Winleyはオフィスを「205 West 84th Street(ニューヨーク市)」に移転させた。この頃にThe ParagonsのTwo hearts are better than oneがリリースされ好評であった。The Collegiansというもう1つのハーレムのグループのZoom zoom zoom・On your merry wayが1958年1月にリリースされた。Tim Holly・Henry Grown・William Tarkentonらがメンバーで、Let's go for a rideが有名なグループである。The JestersはThe Plea・Oh babyをレコーディング(すでにEndからThe Chantelsによってヒットしていた)し、3月にWinleyはThe EmanonsのWe teenagersという、Short shorts的な作品をリリースした。多くの局でオンエアされた。1958年5月31日に、バルチモアのWSID局のBill 'Sparky' Mullenの朝の人気番組でThe ParagonsのTwilight・Vows of love がナンバーワンを獲得した。しかしそれは常に私にとって謎であった。なぜならこの偉大なシングルは一度もチャートにはランクインしていなかったからである。おそらくこの時の競争相手には、The Five DisksのI rememberやThe KodoksのOh gee, oh goshなどが含まれておらず、そして多分グループサウンドが変化し始めた時であったからだと思われる。The JestersのI laughed・Now that you've goneが1958年6月下旬にCycloneからリリースされ、オンエアも好調だったが、セールス的にはむらがあった。以降の2年間は、Winleyのリリースは散発的となり、市場も地元東部に限定されつつあった。The CalendersのシングルはCycloneからリリースされ、The PersuadersのTears・What could it beは当然無名のままであった。そしてTommy Collins and The ParagonsのDarlin' I love youはFlorenceに及びもしなかった。WinleyはSo you will knowでThe Paragonsの往年のヒットサウンドを試みたが、1959年にはグループは終焉を迎えていたように思う。しかしJubilee(再び言っておくがJerry Blaineである)のアルバムThe Paragons Meet The Jestersが1959年9月にリリースされたことによりWinleyサウンドはまだ永続性を失わなかった。このアルバムの目を見張るような成功は、まさにこの時期にリリースした結果であった。時あたかもニューヨークではオールディーズブームが始まろうとしている頃で、このアルバムはブームの先頭に立つのを手伝った。SlimのTimes SquareレコードがAlan Fredericks(WHOM)によって盛んにオンエアされはじめていたのである。オールディーズリクエストのなかでも最も多かったのがThe DiablosのThe windで、Times Squareの空前のベストセラーとなった。Paul Winley…この常に流行に飛び乗る男は、The Festersに新バージョンのレコーディングを要請もしている。1960年5月にリリースされたThe JestersのThe windは、Winleyが60年代に制作した最後の本当に良いレコードでありスタンダードとなった。The windはキャッシュボックス誌(1960年5月28日付)でレビューされたが、同時にAlan Freed・Tommy Smalls・Jack Walker・Hal Jackson・Peter Trippらの不正リベートに対する告発を掲載したことは皮肉である。Paul Winley…この優秀なプロモーターで、生まれつきのハスラーは、現在レコーディングスタジオ(West 125th Street・ハーレム)のオーナーである。彼はThe Duponts・The Paragons・The Jesters・The Collegians、あるいは現代のBurden Lifetersといったゴスペルグループ(Edwin Hawkins sound)、あるいはSoul Makossaを世に送りだした。さらにDr. Kingの葬儀さえ執り行った。Paul Winleyは常に行動よりも流行を見いだすことに時間をかけた。ある人は彼を模倣であると呼ぶかもしれない。それでもなお彼はレコードを世に広め、プロモートのための取引をし、全米の評判と注目に値する忍耐力を持って20年間レコードビジネスを開拓した。The Paragons・The JestersはR&Rの世界に長く存在するであろう。同様にPaul Winleyの名前もそうであることに疑いはない。 このアルバムはAl Brown(The Paragonsのベースシンガー)・Lenny McKay(The Jestersのオリジナルリードシンガー)に捧ぐ。私達は彼を失ったことを淋しく思うだろう。
by Donn Fileti

Pelican's impression

これはもうたまらないアルバムです。ライナーにも登場するThe Paragons Meet The Jestersというアルバムをお聞きになった事はありますか。このサウンド、このボーカル…どれをとっても個性的で一度聞いたら忘れられない名曲ぞろいで、マスト・アイテムともいわれるのもうなずけます。ライナーノートの最後で彼らにトリビュートしているのを読んで思わず目頭が熱くってしまいました。確実にDoo Wopの一面を聞かせてくれる本作は何が何でもおススメします。ちなみにこのシリーズも(その気になれば…ですが)オークションにも頻繁に登場し価格も3~9ドルくらいで出品されています。たまに4枚で15ドルなんてのもありました。このサイトで興味を持ったアナタ、集めませんか?