デジタル邪馬台国

5.日蝕の神秘学 (14)箸墓とは何だったか?

 

後円部

箸墓とは、卑弥呼の浮遊霊を格納する壺でした。

卑弥呼は異常な死に方をしたのでしょう。天岩戸神話に描かれる杼を女陰に衝いて死んだというアマテラスの神話はその反映なのかもしれません。箸墓の被葬者のヤマトトトヒモモソヒメも同様に箸で女陰を衝いて死んだという伝承が残っているのは、これら二つの伝承の起源が同じだからでしょう。

卑弥呼はまず平原墳丘墓に葬られました。

平原

 

平原鏡

魏志倭人伝によれば、男王が立ったが、混乱はおさまらず、台与を卑弥呼のあとを継ぐ女王にしようとしました。卑弥呼はクナ国との戦争で非業の死をとげ、九州倭国はこのとき滅亡したのかもしれません。

卑弥呼死後の混乱を収めるために、ヤマト政権の中心地で西日本全体の鎮魂の儀式をおこなう場として計画されたのが箸墓です。日本書紀にある「倭迹迹日百襲姫命、大物主神の妻と為る」という伝承は、荒れる卑弥呼の霊をオオモノヌシの力で収めようと三輪山麓に箸墓を建設したことが源流になっていると考えられます。

箸墓が巨大なのは、北九州の平原墳丘墓の上空の卑弥呼の浮遊霊から見えるような大な巨大な壺である必要があったからです。

箸墓の建設に際して、平原墳丘墓の鏡は割られました。これは卑弥呼の霊をそこに戻さないことを意図していました。

平原墳丘墓からは東に日向峠からの日の出を眺め、桧原台地からは西に箸墓越しに穴虫峠から落日を望むことができます。これらふたつの平原墳丘墓と箸墓は太陽のラインを軸に、対に観念されていたものです。

実在した神話 大和の原像
原田大六「実在した神話」P145挿図 小川光三「増補大和の原像」P58挿図

箸墓の当時の名称は「斎戸(いわいど)」でした。古事記に「天石屋戸(あめのいわやど)」と表記され、折口信夫が幻視した「斎戸」であり、祝詞の「御魂を斎戸に鎮むる祭」などに残る呼び名です。石舞台に隣接した「祝戸」地区の名称としても残っています。

斎戸

鎌倉時代の『年中行事秘抄』に伝えられる「鎮魂歌」の「豊日孁とよひるめが御魂欲す」という歌詞は台与が卑弥呼の霊を呼ばう儀式の片鱗を伝えています。

天岩戸

アメノウズメが舞い、猿田彦が参加したはずのその儀式は、魏国の張政が参加した儀式だったのかもしれません。

儀式

箸墓で始まった前方後円墳祭祀に使われた三角縁神獣鏡の背面には、神仙が彫られていました。これは、大陸の葬送の文化の模倣だったのでしょうが、やがて没年の日食によって神格化された卑弥呼を、西王母と重ねたアマテラスとして造形してゆくことになります。

鏡作神社鏡 東之宮古墳

後円部墳頂部に竪穴式石室を持つ「斎戸」の名称は、輸入された新技術で横穴式石室に変わったときにその羨道をふさぐ「岩戸」に置換され、本来の機能が忘れられていきました。「天石屋戸」は「天岩戸」となりました。推古天皇の合葬陵と考えられる植山古墳の西石室の石製扉がそれをあらわしています。卑弥呼鎮魂の儀式の形骸を継承したものがそれ以後「前方後円墳」という形式に類型化されました。外観は同じでも、目指すものが違います。本来、上空の浮遊霊を収めるためには、竪穴式石室は後円部墳頂になければならなかったはずなのです。

植山古墳

植山古墳

桧原の台地からは鎮魂祭のおこなわれる日の落日は箸墓の前方部の延長線上の葛城方面に沈みます。

葛城落日

最初の祭祀は桧原台地で、落日を眺める形でおこなわれたのかもしれません。

それがのちに鎮魂祭となり、大嘗祭の前日におこなわれるようになりました。

壬申の乱を経て、藤原京建設時に、聖なるラインを東西軸から南北軸に切り替えたときに九州の卑弥呼の痕跡は消され、アマテラスは伊勢に移動させられました。

東西移動

これが、この国でおこったことです。

権威を作り出したのです。

 


 

 

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