アマテラスが石屋戸に隠れたあと、神々が合議した安の河原とはどこだったのか?
出雲・吉備・尾張―――箸墓建設に関係したと思われるこの三地域が集合するとしたら三上山麓の野洲川の河原は水上交通が使え、最も適した場所だったように思います。
記紀によれば、アマテラスが石屋戸に隠れたあと、神々は安の河原(古事記:天安之河原、日本書紀本文:天安河邊)に集合して、オモヒカネノカミ(古事記:思金神、日本書紀本文・第一の一書:思兼神、旧事紀・天神本紀・同国造本紀:八意思金神)に思わしめて、アマテラスを石屋戸から出す方策を練ります。「安河」は壬申の乱を描いた日本書紀に7/13に闘いがおこなわれた場所として登場し、その場所は滋賀県の野洲川河口だと考えられています。この「天安之河原」「天安河邊」も同様に野洲川河口と考えて無理はないように思えます。
さて、オモヒカネノカミですが、「金」は「カネ」と読めと古事記に注釈があり、金属と関わりの深い、もしくは金属製の神ではなかったかと思わせます。
この野洲川の河原から近い神奈備三上山の北西に大量の銅鐸が発見された大岩山がありました。明治14年(1881)に14個、昭和37年(1962)7月に10個発見されています。これらの銅鐸には近畿式(近畿地方の様式)が14個、三遠式(東海地方の様式)が4個と、使用された地域が異なる多様な銅鐸が一括埋納されていました。
江戸時代初期の山崎闇斎の『神代巻講義』はオモイカネノカミについて、「思兼神。此神号大事ノ伝ゾ。」として注目すべき伝承を伝えています。
思ハ重イゾ、ヂツトシムルハ重イゾ。兼ハ金ゾ。ヂツト土ニ兼テイルト云コト、金ガ土二ネテイルコトゾ。土金ノ伝ゾ。
ソレデ御思案ノフカクトヲッタ神ジヤニヨリテ、思兼ト云ゾ。(*1)
「思兼神」とは重い金属を土中に埋めたものだと伝えています。考古学的には弥生時代に山の中腹などに埋納された銅器として知られ、古墳時代の開幕とともに姿を消した銅鐸。「オモイカネノカミ」が銅鐸を指す名称だった可能性はかなり高いのではないかと思います。そして、
最も巨大な銅鐸が製造され、その最後の祭祀がおこなわれたのが、この三上山山麓の野洲川の河原だったのではないでしょうか。
これまで、このような具体的な推定はあまりなされてこなかったように思いますが、これまでの考察―――九州にいた卑弥呼の死後、東海勢力の協力を得て、纒向に箸墓を建設し、サルタヒコ=張政を招いてトヨをアマテラスにした復活祭祀がおこなわれた―――というストーリーが認められるなら、三上山麓の野洲川の河原で九州以外の各地の勢力による合議が持たれたと考えることに大きな無理はないと考えます。そこは東海勢力、出雲、吉備、そして大和が水上交通も活用して集結するのに最適な場所だったように思います。出雲ルートの琵琶湖入口には白鬚神社があり、東海ルートの鈴鹿川の河口には都波岐奈加戸神社があります。椿大神社も鈴鹿水系です。いずれも 3.石屋戸の神話学(7)サルタヒコの足跡 で述べたサルタヒコを祀る神社です。これらの存在も傍証になるかもしれません。阿坂の二つの阿射加神社も初瀬街道の入口の六軒近くにあり、三重県と滋賀県のサルタヒコを祀る神社はすべてこれらの一連の事件の交通の要所に位置しているように思えます。
滋賀県に住んで、三上山を見かけるたびに思います。どこからもはっきりわかると。湖東からはもちろん琵琶湖の対岸からも、あるいは野洲川のはるか上流の湖南市の三雲あたりからでも、その円錐型の容姿は容易に判別できます。神奈備といいあがめられますが、本来は「道標」―――遠方からでも識別でき、そこに容易に到達できたという特性がなにより重要だったのではないでしょうか。
日本最大の銅鐸が出土した大岩山、その近くにあり各地からの集合が容易な三上山。
その山麓の野洲川の河原で、卑弥呼の死後の混乱を収拾するために、
九州倭国、東海、出雲、吉備、大和など、混乱の原因となった九州狗奴国を除く各地の首長が集合し、
銅鐸をオモヒカネノカミとして神意を伺う祭祀と合議がおこなわれて、
箸墓の建設が決定したのではないでしょうか。
弥生時代から古墳時代にかけて、銅鐸祭祀から鏡の祭祀に移り変わったというのがほぼ認められた定説になっているようですが、この野洲川での合議を経て、古墳時代が開幕したということなのかもしれません。
(*1)山崎闇斎 「神代巻講義」 岩波書店 『日本思想体系39』 1972年