車谷四等三角点 北緯34度32分07秒307 標高114.93m)(*1)
小川光三氏はその著書『大和の原像』のなかで、桧原神社とこの箸墓の前方部中央を通る東西のライン上に、アマテラスに関連した遺跡が多く残っていることを指摘し、「太陽の道」と名づけられました。この説は水谷慶一氏によってNHK特集としてまとめられ、1980年2月11日に『謎の北緯34度32分をゆく-知られざる古代』として放映されました。(*2)
何よりも特筆すべきなのは、伊勢の斎宮遺跡で、このラインの延長線上の真東にあります。斎宮とは数百年にわたって、アマテラスを祀る未婚の皇女である斎王が仕えた宮のことです。このことは、後に少し詳しく述べますが、この箸墓の前方部中央を通過している東西線が「太陽の道」である事実は、アマテラスと箸墓の深いかかわりを想像させます。やはりアマテラス神話の原点は箸墓とこの台地にあるように思えます。
また小川氏は同書で、箸墓は農事のための太陽運行観測に使われたという考えを述べられました。後円部中央に柱を立てて、夏至前後の斎槻岳付近からの日の出を、前方部に置いた埴輪列への射影によって観測し、田植えのカレンダーとして使用したというのです。
▲斎槻岳 手前はホケノ山古墳 |
▲小川光三『大和の原像』 大和書房1980年より |
▲再現画像(カシミール3D使用) |
斎槻岳はこの近辺ではもっとも山頂が明瞭で、日の出の正確な把握には三輪山より適切な山です。
氏は著名な写真家であり、考古学者でも文献史学者でもなかったために、この説は必ずしも一般的な同意を得ているとはいえません。この説に対するもっとも冷静な反論は、以下のようなものでしょう。「前方後円墳のような巨大な建造物を建設できるほど富が蓄積されていたなら、当然その基盤としてこのような農業技術は成熟していたはずだ。だから、そのような巨大な日時計を建設する必要がない。」たしかに、その後の巨大古墳群の建設には、土着の大王たちの権力と、彼らがその基礎にした生産力を必要としたでしょう。しかし、このはじめの一基の建設に関しては、また別の解釈がありうるのではないかと思うのです。
(*1)この「太陽の道」が通過する檜原台地の井寺池の堤防には「車谷四等三角点」が設置されており、正確な位置と標高を知ることができます。逆に見れば、この場所は奈良盆地の多くの場所を見渡せる場所だということができます。
(*2)水谷慶一『謎の北緯34度32分をゆく-知られざる古代』日本放送出版協会1980年