デジタル邪馬台国

2.倭人伝の文献学 (4)「女王国」≠「邪馬台国」

『翰苑』の文脈では、台与即位記事の直後に邪馬台国の役人の記事があります。このため、彼らは台与の下で勤めているように見えます。このニュアンスは『魏志倭人伝』を通じてわれわれが持っている印象と異なります。『魏志倭人伝』では、行程記事のなかに、邪馬台国の役人の名称が記述されています。したがって、彼らの女王は当然卑弥呼だという印象があります。しかしよく見ると、その時点の女王の名はこの行程記事のブロックには記述されていません。彼らが台与の臣下であったとしても矛盾はありません。

一般的な文章解釈としては、『魏志倭人伝』のこのような位置の文章は、その前のブロックに密接に関連しているはずです。しかし、「文身」記事の比較をとおしてわたしたちは、『魏志倭人伝』の性格の一端を知りました。それは複数の情報源をもとに、整合性にはあまり配慮せずに、情報を付け加えていました。『翰苑』の行程記事には、役人の記載が無いことを考え合わせると、この役人の記事は『魏志倭人伝』編纂時に、別の情報源から挿入されたものではないかという疑いを持ちます。

そうすると、ひとつの可能性が浮かび上がってきます。『翰苑』のこの「台与-役人」の関係が『後漢書』と記されている史料の原文を伝えている可能性です。この『翰苑』の記事の配置に理由があるとするなら、つまり、『後漢書』の原文がそうなっていたとしたら、これらの役人たちは、「女王」卑弥呼の臣下ではなくて、「女王」台与の臣下であったことになります。

『日本書紀』の、特に崇神紀と次代の垂仁紀には、これらの名前に類似した人名が見受けられます。

魏志倭人伝 日本書紀(崇神紀・垂仁紀)
台与(トヨ) 豊鍬入姫
トヨスキイリヒメ
伊支馬(イキマ) 活目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇)
イクメイリビコイサチノスメラミコト
弥馬升(ミマショウ)
弥馬獲支(ミマワキ)
御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)
ミマキイリビコイニエノスメラミコト
奴佳鞮(ナカテ) 崇神紀と垂仁紀には無い
中臣という説があるが…
糠手(ヌカテ)もよく記紀に出現する

崇神天皇と、その子の垂仁天皇と豊鍬入姫―これらの名が、中国側文献にあらわれる人名ときわめてよく似ています。

『魏志倭人伝』では、「邪馬台国」という呼称はただ一個所、「水行十日陸行一月」で着いた遠隔のその場所にしか、使われていません。このことから、「邪馬台国」は、文字どおり大和地方の国を指し、『魏志倭人伝』に伝えられる人名と『日本書紀』の崇神紀~垂仁紀の人名が同一人物を指している蓋然性は高いと考えられます。

しかし、それは卑弥呼が「邪馬台国」に居たことを証明するものではありません。上記の推論はむしろ「卑弥呼」を外すことによって明確になります。『魏志倭人伝』が描く卑弥呼の「女王国」、それは「邪馬台国」とはかならずしも同じものではなかった可能性があります。

前節で、『魏志倭人伝』が参照した原史料は、すくなくとも2つあり、編纂時に取捨選択されていると考えるべきだと述べました。

晋の『起居注』によれば、西晋建国の翌年の266年に、倭国の遣使があります。これは台与の遣使と考えられています。

『魏志倭人伝』を陳寿が書いたのは魏を滅ぼした西晋(265~316)の285年ごろといわれています。台与の遣使の19年後です。卑弥呼がクナ国との戦乱という異常事態によって死亡したなら、その死後の情報はこの遣使の時にもたらされ、陳寿はその情報を原史料の末尾に付け加えたと考えることができるのではないでしょうか。

つまり、著者陳寿が参照した元史料とは、

(A)239年魏史料-卑弥呼朝貢時の記録

(B)266年史料-台与朝貢時の記録

です。

榎一雄氏が指摘した『魏志倭人伝』の行程記事の2種類の記法は、この2種類の原史料に対応しているものではないでしょうか。

1 方角→距離→国名 対馬国 一支国 末盧国 伊都国
2 方角→国名→距離 奴国 不弥国 投馬国 邪馬台国
3 女王国の南の旁国 斯馬国 已百支国 伊邪国 都支国 弥奴国 好古都国
不呼国 姐奴国 対蘇国 蘇奴国 呼邑国 華奴蘇奴国
鬼国 為吾国 鬼奴国 邪馬国 躬臣国 巴利国
支惟国 烏奴国 奴国
4 その南女王に属さず 狗奴国

黄色で着色した(2)方角→国名→距離表記の記事が混乱のもとです。(1)(3)(4)の記載しか無ければ、方位、距離の修正は不要で、九州島内部ですべて了解できます。

方角→距離→国名という表記法が(A)239年魏史料に掲載されていたものとすると、黄色で着色した方角→国名→距離という表記法は(B)266年史料に掲載されていたものではないでしょうか。そして不弥国以降が日数表記になっているのは、とりもなおさず台与朝貢時の記録が倭人自身の申告をもとにしているからです。

整理すると、

史料名 記事対象年 王朝名 倭側事象 行程表記 盟主国名 記事内容
A史料 239年 卑弥呼朝貢時 方角→距離→国名 女王国 卑弥呼の情報
倭の習俗
B史料 266年 台与朝貢時 方角→国名→距離(一部日数表記) 邪馬台国 卑弥呼の死以降の情報
第2次倭国の乱、塚の建設と台与の王位継承を伝える

この2つの史料があったのではないでしょうか。

本来(A)239年史料には、(1)(3)(4)の記載と、(1)ブロックの南に隣接して「女王国」があったという記事があったのでしょう。それは「南至女王国」というような語句だったでしょう。つまり、女王国は九州筑紫平野にありました。

ところが、(B)266年史料の台与朝貢時の記録には、問題の「至邪馬台国、女王之所都、水行十日、陸行一月」の記事があったために、陳寿はこの情報を(A)史料の不足を補う有益な情報と考え、奴国から不弥国の行程とあわせて、追加記入したのです。このとき邪馬台国は東に「水行十日陸行一月」行った場所に、つまり大和に存在したのですが、原史料に「東」とあった記載を陳寿は(A)史料にしたがって「南」と訂正したのでしょう。これらの行程記事は『魏志倭人伝』編纂時に付け加えられたものです。

「女王之所都」という個所には、唐突に「都」という文字があらわます。「邪馬台国」を「女王の都するところ」と呼ぶのは、遷都されたことを前提として理解されているように思えます。この語句は(B)史料にもともとあったものでしょう。(B)史料作成者は、「女王国」が移動したと理解していたのです。しかし、陳寿はその意味にあまり頓着していないように見えます。陳寿が「女王国」=「邪馬台国」とした根拠は、13歳の台与が女王国を継いだとする情報があったからではないでしょうか。

この推論では、魏志倭人伝の検討からえられる、もっとも妥当な結論は以下のようになるでしょう。

西暦266年晋に朝貢した大和の邪馬台国は、自らを西暦239年に魏に朝貢した九州の女王国を継ぐものだと主張した。

では、なぜ違う場所に存在したにもかかわらず、その主張が受け入れられて、記録が魏志倭人伝に残されたのでしょうか。

「親魏倭王」の印です。「親魏倭王」印を持参したことによって、邪馬台国は女王国の後継者と認められたのです。

266年の邪馬台国の遣使は、239年に卑弥呼が魏から拝受した「親魏倭王」印を、
このとき晋に返却したのではないでしょうか。

「親魏倭王」印は中国側史料に集印されています。(このHPのアイコンに使っているものです)この史料に「銅印」と書かれていることから、偽造印と考えられていますが、もし、このような事情で266年の邪馬台国の遣使が「親魏倭王」印を返却したとすると、これが倭国で作られた偽造印だった可能性があります。

『翰苑』による『魏志倭人伝』の文献批判から得られる結論は、

『魏略』の原記事には「邪馬台国」の文字は無く、「女(王)国」と記載されていた可能性が高い。
その国は伊都国の南にあったと考えると、『魏志倭人伝』の記事を合理的に理解できます。

そして、卑弥呼は『魏志倭人伝』によれば、女王国の初代女王なのですから、

卑弥呼は九州にいた

ということになります。(*1)

卑弥呼居館(弥生文化博物館展示)

卑弥呼居館(弥生文化博物館展示)

魏志倭人伝に描かれた卑弥呼の「女王国」も、敵対する「狗奴国」も、魏の時代には九州にあり、
「女王国」は「邪馬台国」とは別の国だったのではないでしょうか。

邪馬台国は『日本書紀』の崇神紀に記載された人名から、大和にあり、後の大和政権に成長していったものと思われます。しかしそこは、女王国の後継者と名乗り出た台与の国でした。

まず、卑弥呼の女王国が九州にあり、239年に魏に使いを送りました。そして、近畿にあった台与の邪馬台国が266年に晋に使いを送ったのです。

魏志倭人伝の、一見解釈不能な行程記事は、こう読めば合理的な解釈ができると思います。これは、字面上は文字どおり邪馬台国大和説ですが、卑弥呼の国の所在地という意味では九州説です。

このいわば遷都が、「東征」と呼ばれる性質のものであったかどうかは疑問です。箸墓に見られる岡山的な要素、出雲的な要素、そして、何よりも以後の埋葬の方式に伝えられた北九州の鏡埋葬の伝統。西日本の各地の伝統を継承する形からうかがえることは、合意のうえで箸墓が建設されたことです。しかし政治の中心部はこのとき九州から大和に移動したと思われます。

大陸の情報をいち早くとりいれることができた北九州は、弥生時代を通じ先進地域でした。それが、古墳が建設される頃には、大和に中心地が移りました。その転機は、卑弥呼の死後にあったと考えるのが、「魏志倭人伝」の検討から導かれる結論です。


(*1)これは不自然でしょうか。いや、むしろ、『魏志倭人伝』の疑問点をいくつか解決してくれるように思えます。
まず、『魏志倭人伝』には「奴国」が2ヶ所出現します。帯方郡から、女王国に至る行程の途中と、その他の傍国のなかの2ヶ所です。なぜ2ヶ所に出現するのか不明だったため、同一名称の別の国と考えられることもあったようです。しかし、もともと行程記事には「奴国」は含まれていなかったと考えると、その他の傍国のなかに存在することは、むしろ整合性がとれます。
また、「丗有王皆統屬女王國」(この国には代々国王がいて、みな女王国に統属している。)という伊都国の描写も、次節に「女王国」がくることによって整合性を持ちます。伊都国は権力においても、地理的にも、女王国にもっとも近い国と考えることができます。
そうすると、下図のような版図が考えられます。
①中心
女王国
②内郭:王のいる国
伊都国(王)官:ニキ副:シマコ・ヒココ
③外郭:副官に卑奴母離がいる国
対馬国(官:卑狗、副:卑奴母離)
一支国(官:卑狗、副:卑奴母離)
奴国(官:シマコ、副:卑奴母離)
不弥国(官:多模、副:卑奴母離)
卑奴母離(ヒナモリ)が「境界の守り」をあらわす名称だとすると、伊都国の南部に女王国を想定した場合に、『魏志倭人伝』のこの記事は最も矛盾なく理解できるように思います。本州方面に2重、半島方面にも2重の防御体制で伊都国と女王国を守ります。
大和説では、この卑奴母離は半島方面に4重に設けられていることになりますが、奴国と不弥国の卑奴母離が大和方面を守るとすると、伊都国はその防御線より前に存在することになってしまいます。
以上のように、この仮説は、不自然ではなく、むしろ、『魏志倭人伝』の矛盾点も解消できるように思えます。

魏志倭人伝の記事の他の個所を眺めてみると、卑弥呼の死に続いて塚の建設、倭国の乱、台与の即位と続く記事があります。陳寿はこれらをすべて、張政等が倭に派遣されていた期間内の事件ととれる書き方をしています。しかし、径100町という巨大な塚の建設や男王の即位という記事を信用するかぎり、そのような短期間ですべてが起こったとは考えにくく、この卑弥呼の死後の記事には別の情報源があったと考えるのが自然でしょう。

2.倭人伝の文献学 (4)「女王国」≠「邪馬台国」

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