藤原京の大極殿の位置は大和三山の各頂点から対辺への垂線が交わった位置にあるといいます。 いっぽう、天武・持統陵が真南にあることがすでに70年代に岸俊男氏によって指摘され、聖なるラインという名称で呼ばれています。また、京都市山科区の天智天皇陵も藤原京大極殿の真北に位置することが近年指摘されています。(*1)これらが意図されたものであるなら、藤原京の大極殿の位置は大和三山によって決まり、それにあわせて天智天皇陵と天武・持統陵の位置が決められたということになり、当時正確な測量技術があったということもいえます。
実際に現地に立ってみると、大和三山の見え方から現在の立ち位置が把握しやすいように思います。東西南北を正確に認識し、さらに遠方の国土までもイメージさせていた。
まるではるか古代の方格規矩鏡のデザインを彷彿させるような、ヤマト王権の草創期にはやろうとしてもできなかった測量技術がようやく得られた、藤原京とはそのような性格を強く持っている都だったのかもしれません。
さて、ここで問題にしたいのは「太陽の道」です。伊勢の斎宮趾が箸墓・桧原神社の真東に位置することは3.箸墓の幾何学(2)太陽の道で述べましたが、南北のラインが計画されたものであるなら、東西のラインも偶然ではなく計画されたものである可能性があります。元伊勢桧原神社の現斎宮趾への平行移動は測量技術が得られた同時期におこなわれたのではないかと思えます。このときの藤原京のプランは単に藤原京京域内に収まるものではなく、はるかに広域のプランだったのではないでしょうか。泉雄二著『日本の遺跡9伊勢斎宮跡 今に蘇る斎王の宮殿』には斎宮の位置について「なぜ伊勢神宮から遠く離れたこの地に斎王の居住する場所を置かなければならなかったかについては、明確な答えは出ていない。」とありますが、「箸墓・桧原神社の真東にあるから」が唯一の解ではないでしょうか。まず斎宮が建てられ、その後伊勢神宮(内宮)の場所に移されたと解釈できるように思います。
ではそれはいつのことだったのか?『日本書紀』によれば藤原京遷都は持統天皇六年(692)十二月六日であり、その8年前の天武天皇十三年(684)に天武天皇が「宮室之地」を定めたという記事があります。したがって新都計画の一環だったとしたらこの684~692年の8年間の間に移されたと考えられます。この期間の『日本書紀』をあたってみると気になる記事がありました。それは遷都の10か月前、持統天皇六年二月十一日のことです。
(二月十一日)
諸官に詔して曰く、「当に三月三日を以て、伊勢に幸さむ。此の意を知りて、諸の衣物を備ふべし」とのたまふ。(中略)是の日に、中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂、表を上りて敢直言して、天皇の、伊勢に幸さむとして、農事を妨げたまふことを諌め争めまつる。
(三月三日)
是に、中納言大三輪朝臣高市麻呂、其の冠を脱きて、朝に擎上げて、重ねて諌め
(三月六日)
天皇、諌めに従いたまはず、遂に伊勢に幸す
持統天皇が伊勢に行幸すると言い出した。大三輪氏の高市麻呂は職を賭して諌めたが、行幸は実行されたというものです。三輪山の祭祀をつかさどる大三輪氏の高市麻呂が、伊勢の農事の心配までするのが不審ですが、この時に桧原の祭祀が斎宮に移動されたとすると、大三輪氏の氏長が職を賭して諌めたのは、桧原の祭祀を伊勢斎宮に移動することだったと理解されます。
伊勢神宮の創始についてはいろいろな議論がありますが、『続日本紀』には文武二年(698)十二月二九日に「多気大神宮を度会に遷す」という記事があります。持統天皇六年(692)に桧原のアマテラス遥拝施設が現斎宮趾の場所に移され、その後文武二年(698)に、再度「多気大神宮」=アマテラス本体を祀る祠を現内宮の場所に移設したと解釈すると、整合性があるように思います。既にその時点で度会郡には外宮が存在し、持統天皇六年(692)の斎宮移設に対する度会氏の政治的な反動で、内宮を新たに度会郡に創設しなければならなかったと考えると、外宮が存在し先祭される理由、さらには伊勢神宮の祭祀で斎宮の機能が形骸化している理由が理解できそうです。斎宮が現在の場所にそのまま残ったのは、西にアマテラスを祀る祭祀を継続する必要があったからです。
この結果、斎宮移転時には残っていた西の女王卑弥呼とアマテラスとのリンクは完全に抹消されました。
多気大神宮を度会に移したのが文武二年(698)十二月、天智天皇陵の造営がおこなわれたのが文武三年(699)十月ですから、それらは10か月しか離れていません。藤原京の壮大な計画に基づいた一連のプランだったと考えられます。天武天皇が藤原京の宮室の位置を決めて以降、すべての期間に関与していたのは持統天皇です。
天智天皇陵も天武・持統陵も終末期古墳にみられる八角墳です。4~7基が認められる畿内の八角墳のうち、最大級の墳丘を持つ2基が藤原京の南北を押さえています。
天智天皇陵の墳頂の花崗岩の切石は正八角形で、各側辺は方位にかなうということです。(*2)天武・持統陵も、正確な調査はなされていませんが、今尾文昭氏からは方位に一致させた復元案が提案されており、現在明らかになっている地形の等高線と大きな矛盾なく重ねられるように思えます。(*3)これらから推定される方位の正確さは、遠隔地までを含むこれらのプランが計画されたものだったという推定を補強します。
八角墳の配置は「やすみしし(八隅知し)」という万葉集に見える枕詞との関連が注目されます。
この枕詞の「国の隅々までお治めになっている」という解釈は、この広域の藤原京プランと一致します。
そして藤原京大極殿を中心とした「八隅」概念には、山科とほぼ等距離の東にある伊勢の斎宮も含まれていたはずです。
この藤原京のプランは、
「高照らす日の御子」であり「やすみしし わご大君」と歌われた軽皇子(文武天皇)のために、
過去に東西軸でおこなわれた箸墓のアマテラス祭祀を伊勢に移動して仮想化し、
かわりにその権力の根拠となる南北軸の新たな聖なる皇位継承ラインを正確な技術力で刻印したもの
といえそうです。
年月日 | 事象 | 史料 |
天武13年(684) 3月9日 |
天武天皇が藤原京の宮室の位置を決定 | 日本書紀 |
持統元年(687) 10月22日 |
天武天皇大内陵の建設開始 | 日本書紀 |
持統6年(692) 3月3日 |
大三輪朝臣高市麻呂が持統天皇の伊勢行幸に諫言 (この時、桧原祭祀が伊勢斎宮に移動されたと推測) |
日本書紀 |
文武2年(698) 9月10日 |
当耆皇女を伊勢斎宮に侍らしむ(制度化された最初の斎王か?) |
続日本紀 |
文武2年(698) 12月29日 |
多気大神宮を度会に遷す |
続日本紀 |
文武3年(699) 10月13日 |
天智天皇陵の営造開始 | 続日本紀 |
天智天皇陵の位置に以前から違和感がありました。他の天皇陵から離れてなぜ京都の山科にあるのか?天智天皇が近江京に遷都したためだと一度は納得するのですが、現在の位置は山科盆地のむしろ西部に位置しており、それならもっと琵琶湖寄りの現在のJR山科駅の北方あたりか、名神高速道路の京都東インターのあたりが適地ではなかったかと思えたのです。もし藤原京の内裏を基準にこの位置でなければならなかったとすると、この疑問は解消されます。
この南北・東西の計画をあわせて藤原京が造成された当時の思想的な意志を読み取ることができそうです。
南北のラインは、この時期に成立した、新しい考え方です。これは南北を軸とするもので、壬申の乱を制して画期をなした天武天皇と持統天皇を南に、壬申の乱で皇統が途絶えた天武天皇を北に配置して藤原京がプランニングされています。
東西のラインは、古い考え方です。伝統的な日の出と日没の遥拝、
纒向遺跡の西王母・アマテラスの遥拝に見られるものです。
藤原京が造成されたこの時代の意図とは、東西軸から南北軸への変更―――祖先を九州に持つという経歴からの離脱を意図していたのではなかったかと思います。そのために、
磯城の神籬の実体である箸墓を経由して桧原台地から西に、
九州女王国の女王に由来する
アマテラスを祀る社があることが都合が悪かった。
しかし祟りが懸念されるため、継続してアマテラスの祭祀の継続は必要だった
だから祀る社を東に移動させてアマテラスへを祀らせた。それが「斎宮」の起源となった。
桧原神社は「元伊勢」とされ
西にアマテラスを祀る役割を剥奪され
東に三輪山を祀る大神神社の摂社となった。
この時点で、明確に「高天原」概念が成立し、祖先を九州に持つという東西軸の伝承がヴァーチャルな天地の世界観に置き換えられたといえます。そのために、西に箸墓を祀る桧原台地の機能がそっくり移動させられたのではないでしょうか。
あるいは鏡作神社の三神二獣鏡から外区の唐草文帯がはぎ取られたのもこの時代のことだったのかもしれません。このサイトが唐草文帯があらわしていると推定した「扶桑」は東を意味し、九州の女王国に対する東の邪馬台国をあらわしていたからです。完形では西王母アマテラスが西にいて六合は東の世界として始まったことを推測させるデザインだといえます。唐草文帯を抹消することで、東西の位置情報が無くなります。
狗奴国との戦争中の卑弥呼の死によって、壊滅的な打撃をこうむった九州倭国。
その結果大陸からの物資供給の道が途絶え、困窮した出雲、吉備、尾張の各国は
野洲川の河原に集合して大和に箸墓の建設を合議した。
そして九州倭国の生存者は、魏の官吏張政の協力を得て、
新政権発足の儀式を三輪山麓の桧原台地でおこなった。
―――これが当サイトの描くストーリーですが、
アマテラスが持っていた西王母―西の女王―の属性を消し、
九州の女王国という史実をヴァーチャルな高天原神話に換骨奪胎して、
九州を律令体制の一地方と明確にしたのが藤原京が企画された時代だったといえるでしょう。
(*1)藤堂かほる「天智陵の造営と律令国家の先帝意識」『日本歴史』第602号 1998年
(*2)1987年 宮内庁墳丘観察
(*3)今尾文昭 「八角墳の出現と展開」 白石太一郎編『古代を考える 終末期古墳と古代国家』 吉川弘文館 2005年