-西暦248年9月5日朝6時6分の日蝕の映像-
(奈良県磯城郡田原本町・多神社からの視点を想定)
上の画像は、卑弥呼没年に近い日蝕として注目されている、西暦248年9月5日朝の日蝕の映像を再現してみたものです。奈良県田原本町にある多神社からの視点を想定しています。大和平野中央部から見る、6時6分の最大食のイメージはこのようなものだったでしょうか。(*1)
天岩戸神話に現実のモデルがあったとすれば、それはどういう状況だったでしょうか。
記紀で描写される情景は以下のようになっています。
出典 | 文章 | 現代語訳 |
日本書紀(本文) | 六合之内常闇而不レ知二晝夜之相代一 | すべての空間が闇に包まれ、昼夜の区別がわからなくなった。 |
日本書紀(第一の一書) | 天下恆闇無二復晝夜之殊一 | 天界も地上も闇に包まれ、昼夜の区別が無くなった。 |
古事記 | 高天原皆暗葦原中國悉闇因レ此而常夜往 | 高天原はみんな暗くなり、葦原中国はすべて闇に包まれた。このために、夜が継続した。 |
共通するのは「闇」の一語です。月夜は、古代においては「闇」という表現にはふさわしくないと考えられます。月の無い闇夜が想像されます。
真の闇―この印象が正しいとすると、それは月の無い夜、つまり太陰暦の朔日が最もふさわしいと考えられます。ところで日蝕は、太陽が月に隠れる現象ですから、これも太陰暦の朔日におこります。ですから、闇夜と日蝕が同一の日に発生するのは、自然現象としてまったく妥当だということができます。
「常闇」「恆闇」「常夜」という、「常」または「恆」の文字は状態の継続をあらわしていると考えられます。書紀の文章にある「不レ知二晝夜之相代一」、あるいは「無二復晝夜之殊一」、また古事記の文章にある「常夜往」は、したがって、太陰暦の朔日の闇夜の翌朝に、継続して日蝕があった時を描写しているのではないかと思われます。
以上のことから、天岩戸神話のモデルとなった事件があったとすると、「早朝に日蝕があった日」がもっともふさわしいと考えられます。
なによりも広域で観測されたことに意味があったのではないでしょうか。
(*1)『古天文学の道-歴史の中の天文現象-』(1990年 原書房)