デジタル邪馬台国

5.日蝕の神秘学 (6)斎宮

斎王

『日本書紀』によれば、垂仁天皇25年3月10日に、豊鋤入姫命の祭祀を倭姫命が継ぎます。倭姫命は、アマテラスを奉る場所を探して遍歴し、伊勢の五十鈴川のほとりに「斎宮」を建てます。伊勢神宮の起源として語られるエピソードです。

平安時代には、このエピソードにもとづいて、「斎王群行」という行事がおこなわれました。天皇の代替わりにともなって、未婚の皇女が「斎王」として、京都から近江、鈴鹿を経由して伊勢に赴任したのです。この「斎王」は天皇の在世中はずっと、現在「斎王歴史博物館」のたつ「斎宮」で、伊勢神宮に仕えたとされます。

再現された「斎王群行」では「禊」が重要な儀式となっています。「群行」に出発する前に、「斎王」は手を洗います。

伊勢の「斎宮」は、伊勢の内宮からも外宮からもかなり離れた場所に、禊川に沿って建設されています。伊勢神宮の起源を語るものとして、注目される『日本書紀』の垂仁天皇25年3月10日条には、「因興斎宮于五十鈴川上」と、まず伊勢神宮本体をさしおいて「斎宮」がこのように(「禊」との関連をうかがわせる)川のほとりに建ったと述べられています。(*1)

斎宮模型

近鉄斎宮駅前の斎宮10分の1模型

斎宮MAP

斎宮遺跡平面図(斎宮歴史博物館の画像に加筆)

車谷三角点

奈良県桜井市桧原台地の車谷三角点

発掘調査が進む伊勢の斎宮遺跡ですが、後期の方格地割とは別に史跡西部で、掘立柱塀を伴う区画が2時期以上にわたって確認されており、初期の中枢施設との見方が有力視されているということです。
この場所の緯度は手元のGPSで北緯34度32分08秒15。この数値を基準にしてよいのか正確さに疑問がありますが、桧原台地の車谷四等三角点が北緯34度32分07秒307ですから、その緯度差は1秒もありません。当サイトは、桧原台地のアマテラス祭祀施設が、藤原京設計と同時期にこの場所に移転されたと主張するものですが、計画されたものだとすると恐るべき精度といわざるをえません。(Wikipediaによると緯度35度上の1秒は約30.8mということです)

初期斎宮想定地

初期斎宮中枢施設想定地拡大図 斎宮歴史博物館の画像に加筆

初期斎宮中枢

初期斎宮推定地と斎宮歴史博物館の飛鳥時代の土器展示品

斎宮MAP

斎宮遺跡空撮 (基盤地図情報の空中写真を加工)

祓川の古代の水路はわかりませんが、空撮の画像を見ると、この最初期の中枢施設は祓川に接する遺跡の最西端に建設されたように思えます。アマテラス祭祀はアマテラスを西に祀る祭祀として始まったと推定しましたが、(纒向遺跡の大型建物)初期斎宮開設段階でもそれは継続していたようです。斎宮寮は西を拝した斎王のバックヤードとして当初から東側に作られ、それが発展して現在残っている方格地割になったと理解できます。

『続日本紀』文武二年(698)に「多気大神宮を度会に遷す」という記事があります。多気大神宮とは何か?多気には斎宮があります。川添登氏は、この「多気大神宮」が現斎宮を指し、文武二年に現在の場所に伊勢神宮が創始されたと主張されています。(*2)
伊勢神宮がいつ創始されたかは、伝説も入り混じっていろいろ議論のあるところですが、これまでの推論(纒向遺跡の大型建物藤原京のプラン天の岩戸=箸墓=磯堅城神籬)をあわせ、下表のような経過を想定すると、斎宮の位置の謎も解消し、役割を持たない斎王の意味や、「元伊勢」と斎宮と伊勢神宮の関係もクリアに理解できそうです。

祭祀の変遷

アマテラス祭祀場所の変遷 ①磯城瑞籬宮→②桧原台地→③斎宮→④伊勢神宮

図中番号 時期 移転元 移転先 根拠 目的
崇神天皇3年9月   磯城瑞籬宮(纒向遺跡大型建物)に遷都・西方アマテラス祭祀開始 磯城瑞籬宮では天照大神と倭大國魂の二神を天皇の大殿に並べて祭っていましたが神勢を恐れて、共住できず、天照大神は豊鍬入姫に託して倭笠縫邑に祀らせたとあります。(『日本書紀』崇神天皇6年)
このとき立てられた「磯堅城神籬」が箸墓であり、祭祀場は箸墓を西に眺める桧原台地だと考えます。
 
崇神天皇6年以降 磯城瑞籬宮(纒向遺跡大型建物)の西方アマテラス祭祀施設 桧原台地 二神を同時に祀れなかったため
藤原京プラン策定時 桧原台地 斎宮中枢施設想定地 天智陵・天武・持統陵と藤原京の位置関係から桧原台地と斎宮の位置関係を類推。
南北が計画に基づいたプランなら、東西も実現できた技術力があったと判断。
文献史料には残っていません。
九州の女王に起因する西方アマテラス祭祀を隠蔽するため
文武2年(698) 斎宮中枢施設想定地 伊勢神宮(現内宮)

多気大神宮を度会に遷す(『続日本紀』文武2年(698))
『日本書紀』垂仁天皇25年に伊勢神宮の五十鈴川川上での創始が記述されていますが、この記事はそれと矛盾するものです。『日本書紀』編纂時の伊勢神宮の記事に関する(古代にさかのぼらせる、というより西方祭祀の痕跡を隠蔽する?)方針が『続日本紀』にまで及ばなかったため、真実が漏れ残ってしまったものと考えます。

神鏡をアマテラス本体と意味づけて伊勢神宮に移動
西方祭祀から神鏡祭祀に変更

文武二年の伊勢神宮創始段階で祭祀の主体は「斎宮」から「神宮」(伊勢神宮の正式名称)に移り、
その施設は「祭祀する場所」から「祭祀対象を保持する場所」に変化しました。
このとき公的にはアマテラスから西の属性が消されました。
しかし斎王は西にアマテラスを祀る秘密祭祀を継続するために
斎宮の場所に残らなければならなかったのだと思われます。
この時点で桧原神社は「元伊勢」とされ、斎宮の真西にあることは伏せられました。
伊勢神宮が力を持つにつれ、やがてアマテラスから完全に西の属性が消えるとともに、
桧原台地の東という斎宮の位置に意味が無くなり、斎王の役割は形骸化していったのだろうと思われます。

桧原台地と斎宮

桧原台地と斎宮を結ぶ太陽の道

斎宮の意義が不明確なのはアマテラスから西の属性を消したためです。本来、斎宮は西にアマテラスを祀るためにこの場所に移され、それが基本機能だったと言わなくてはなりません。アマテラスを九州の卑弥呼とし、天の岩戸を箸墓とし、それらを西に祀ったのが斎宮祭祀の始まりだったと仮定すると、斎宮と伊勢神宮の歴史についてこのような明瞭なストーリーが描けます。


(*1)本居宣長は『古事記伝』で、このように伊勢神宮をさしおいて「斎宮」がまず述べられていることに対して、この「斎宮」は斎王の御殿ではなく、伊勢神宮自体であると考えています。
(*2)川添 登 『伊勢神宮 森と平和の神殿』筑摩書房2007年

5.日蝕の神秘学 (6)斎宮

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