デジタル邪馬台国

5.日蝕の神秘学 (3)邪馬「臺」国

檜原台地と箸墓

桧原台地(黄色罫線囲み部)と箸墓 「電子国土」空中写真をカシミール3Dで加工

箸墓の東にある桧原台地をあらためて見てみましょう。箸墓の真東に位置し、最奥には元伊勢桧原神社があります。さらに東にたどると伊勢の斎宮趾に至ります。太陽の道です。現地に立ってみると、この台地の南面、北面、西面、いずれも際立った標高差があります。(下図)

台地西側(茅原大塚から)

台地南側

台地北側

どこまでが自然地形を利用し、どこまで施工されたのか分かりませんが。
三角縁神獣鏡の図像の考察からは、西王母を鏡の主題にしようという動きがうかがわれること、魏志倭人伝の考察からは卑弥呼を女王とした女王国が九州にあったと思われること、そして、箸墓の形態自体の考察からは台地からの箸墓祭祀は、農暦管理のための秘匿された機能を持っていることもわかりました。さらに記紀神話の考察からは天の岩戸が箸墓であり、天の安の河原の伝承は琵琶湖畔野洲川河原での会合を伝え、サルタヒコとは魏の官吏張政であり、伊勢湾から初瀬街道を経て三輪山麓の箸墓完成の祭祀に参加したことを論証してきました。九州で女王卑弥呼が没し、それを契機として西にアマテラスを祀るヤマト政権が成立したといえます。

しかし、この仮説が正しいとして、ヤマトが「山+斎戸」の合成語だったのになぜ、邪馬「臺」国という漢字を充てたのでしょうか?なぜ箸墓の近くで祭祀をおこなわなかったのでしょうか?この台地は箸墓から東に数百メートル離れており、箸墓の全貌を見渡せる位置にあります。なぜこの場所でなければならなかったのでしょうか?この台地にはまだ意味があるように思えます。

現在伝わっている記紀神話のアマテラス像には「西」の属性はありません。アマテラスは九州ではなく天上の高天原を治める神に造形されています。九州にいたはずの卑弥呼がどのような経過でこのように造形されたかということを糸口にこれから考えていきます。


5.日蝕の神秘学 (3)邪馬「臺」国

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