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4.石屋戸の神話学 (1)「天の岩戸」とは何か?

「天の岩戸」とは何でしょうか?

高千穂 岩戸神楽

高千穂 岩戸神楽

岩戸神楽乃起顕 春斎年昌

春斎年昌 錦絵 『岩戸神楽乃起顕』 明治時代

龍穴神社天岩戸

奈良県宇陀市室生 龍穴神社 天の岩戸

天の岩戸神社

奈良県橿原市 天岩戸神社(天の香久山南麓)

天の岩屋

三重県伊勢市 二見興玉神社 天の岩屋

天の岩戸 伊勢

三重県志摩市磯部町 天の岩戸(恵利原の水穴)

日向大神宮

京都市山科区 日向大神宮 天の岩戸

白鬚神社岩戸社

滋賀県高島市鵜川 白鬚神社 岩戸社

植山古墳2012

植山古墳西石室 閾石(しきみいし)(2012年)

植山古墳現地説明会(2000年)

2000年8月に発掘された植山古墳の西石室に閾石(しきみいし)と名づけられた遺構が残っていました。橿原市教育委員会の現地説明会資料では、上図のような、まさに「岩戸」のような構造が想定されています。
この西石室には推古天皇が葬られたという説もあり、7世紀前半(現地説明会資料)の建造が推定されています。

この構造はアマテラスが籠ったといわれる、天の岩戸を想像させます。

天岩戸の呼び方は、『日本書紀』と『古事記』で微妙に食い違っています。

日本書紀 古事記
乃入干天石窟磐戸
乃入干天石窟而閉著磐戸(第一の一書)
廼居干天石窟閉其磐戸(第二の一書)
閉居干天石窟也(第三の一書)
天石屋戸而刺許母理此三字以音

ごらんのように、日本書記では 天石窟 ( アメノイワヤ ) とそれを塞ぐ 磐戸 ( イワト ) という名で描かれていますが、古事記では 天石屋戸 ( アメノイワヤト ) となっています。
「イワヤ」+「イワト」でなく「イワヤト」。 この意味不明の用語に、古事記が持っている起源の古い情報が隠れているように思えます。(*3)

この古事記の「天石屋戸」条は文章表記の上で特異な印象を受けるほど、借音仮名がきわめて多く、(*4)汗気(うけ)」という用語には、古事記最終撰録者の用字ではなく、原典の用字が残った可能性が指摘されています。(*5)語りの口調を文章に残しているともいわれます。(*6)

小谷博泰氏は記紀の「天岩戸」条を比較して、「尻クメ縄」を扱った者が古事記では「布刀玉命」であり、日本書紀では「中臣神・忌部神」となっていることから、氏族名で表記されている日本書紀より神名で表記する古事記のほうが古いとしています。(*7)その推論は妥当なものと考えます。記紀編纂時に参照された原資料のうち古いものが古事記に形跡を残しているということができます。

記紀で描かれた天岩戸のイメージの成立には、以下のような経過が想定できます。

年代 古墳形式 天岩戸神話の成立過程 呼称
3世紀 竪穴式石室
石郭と割竹型木管
原型となった事件発生 イワヤト
 

黒塚古墳

   
4~6世紀 横穴式石室
石室・天井石の発生
天岩戸イメージの変容 イワヤ「ト」
の意味が不明になる
 

桜井茶臼山古墳

   
7世紀前半 横穴式石室
植山古墳西石室に「岩戸」設置
天岩戸神話完成

「イワヤ」+「イワト」という理解が主流に

 

植山古墳(2012)

   
8世紀初頭     記紀編纂 正伝:天石窟(イワヤ)磐戸(イワト)(紀)
異伝:天石屋戸(イワヤト)(記)

古墳の石室の様式は竪穴式石室から横穴式石室に変化しています。日本書紀が「イワヤ」と「イワト」と解釈したものは、植山古墳の西石室の扉のような、横穴式石室が登場して以降のイメージで、その指すものの原音は古事記に残された「イワヤト」と呼ばれたものではなかったかと思えます。本来の呼称「イワヤト」が、横穴式石室への工法変更とともに、そのイメージに規定されて「岩戸」に変化していったのではないでしょうか。(*8)

では発生期の竪穴式石室の時代の「イワヤト」とは何を指していたのでしょうか?
すくなくとも「ト」が指すものは「戸」ではなかったはずです。

閾石復元図

2012年の見学会にあった復元図に現物画像を付加


(*1) 田中卓著作集1 『神話と史実』p5 国書刊行会 1987年
(*2)大林太良 「古語拾遺における神話と儀礼」 『現代神道研究集成(一)古典研究編』 P680 神社新報社 1998年
(*3)この「天石屋戸」という表現には本居宣長も関心を示しており、「天石屋戸は、必しも実の岩窟には非じ、石とはたゞ堅固を云るにて、天之石位天之石靫天磐船などの類にて、ただ尋常の殿をかく云うなるべし、(中略)書紀に岩窟とある文字に拘るべからず」としています。
本居宣長 『古事記伝』八之巻 「天の石屋戸」注 本澤雅史 「大祓詞「天の磐門」考」 西宮一民編『上代語と表記』 P396 おうふう 2000年
(*4)小谷博泰 「古事記・日本書紀の表記と成立過程 -国生み、天の岩屋、八俣の大蛇-」 西宮一民編『上代語と表記』 P99 おうふう 2000年
(*5)安藤正次著作集 第四巻『記・紀・万葉集論考』 1974年
(*6)三谷栄一「古事記の成立」 『解釈と鑑賞』1974年6月
(*7)小谷博泰 「古事記・日本書紀の表記と成立過程 -国生み、天の岩屋、八俣の大蛇-」 西宮一民編『上代語と表記』 P107 おうふう 2000年
(*8) なお、この西石室の被葬者が推古天皇と推定されることは、実は当サイトの論理からするとかなり重視しなければなりません。というのも、推古天皇は和風諡号を 豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと) (『日本書紀』・『古事記』では豊御食炊屋比売命)といい、「トヨ」の名にこの「岩戸」とのかかわりを見出すからです。ですが、現在の文脈からは外れることなので、それは余裕があれば「5.日蝕の神秘学」で述べることにさせていただきます。

4.石屋戸の神話学 (1)「天の岩戸」とは何か?

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