アマテラスが天石屋戸に隠れて高天原と地上は闇におおわれた。
そこでアメノウズメが天石屋戸の前で踊り、胸乳をあらわにして裳帯を押し下げた。
それを見て八百万の神々は笑い、外のさわぎを不審に思ったアマテラスは石屋戸を開けた。
よく知られたアマテラスの岩戸隠れのシーンですが、実はこれは『古事記』だけが伝える情景です。『日本書紀』の同じシーンのアメノウズメは胸乳を露出しません。したがって『日本書紀』では神々の哄笑は起こりません。
ですが、『日本書紀』がアメノウズメのストリップを嫌っているわけではありません。
『日本書紀』のアメノウズメは胸乳を出し、裳裾を押し下げるという、『古事記』とまったく同じ動作を、しかしまったく別の状況下で行なっています。
それは天孫降臨――地上に降臨する神々が天の八衢でサルタヒコと出会った場面です。
アメノウズメのストリップは『古事記』では「天石屋戸」段でおこなわれ、『日本書紀』では「天孫降臨」段でおこなわれています。
天孫降臨図 松阪市阿坂 阿射加神社(大阿坂)
古事記 | 日本書紀 | |
天石屋戸段 | アメノウズメは胸乳をあらわにして裳帯を押し下げている。 天宇受賣命、(中略)掛出胸乳、裳緒忍垂於番登 |
アメノウズメが天石窟戸の前で |
天孫降臨段 |
アメノウズメはサルタヒコにただ名を聞いている。 |
アメノウズメはサルタヒコに対面して、胸乳をあらわにして裳帯を押し下げている。 天鈿女、乃露其胸乳、抑裳帯於臍下 この動作に対して、サルタヒコはなぜそのようなことをするのかと問い、アメノウズメはその質問に対して答える形でサルタヒコに名を聞いている。(第九段第一の一書) |
『古事記』と『日本書紀』が伝えるアメノウズメのストリップの場面
記紀ともに、アメノウズメのストリップが出現するのはそれぞれこの一か所だけです。これは異常です。なにか理由があるに違いありません。
まず『古事記』の天石屋戸段について考えてみます。しかし、アメノウズメが胸乳をあらわして裳の紐を押し下げただけで神々は笑うのでしょうか?なにがおかしいのでしょうか?『古事記』が描く情景には、なにか一枚ピースが足りないような印象を持ちます。
天石屋戸段で暗黙のうちに必要とされているのは男神の反応です。女神がストリップをして、反応する男神がいるからおかしいのです。現在我々がこのこの情景を想像して笑えるのは、観客の神々が男神であることを想像しているからです。もし演劇として上演するとしたら、天石屋戸段のアメノウズメの前には男神が必要です。それで神々の哄笑が生まれます。男神という演者が不足しています。
次に『日本書紀』が伝える天孫降臨段の場面では、笑いがあってもおかしくないかもしれません。いかめしいサルタヒコの前でアメノウズメがストリップにおよんだのですから。「男神の反応」という、笑いに必要な条件は満たされています。しかしここでは随伴する神々に笑いはおこっていません。神々という観客が不足しています。
この些細な違和感を解決する方法がひとつあります。
天石屋戸の神々の前にサルタヒコとアメノウズメがいて、
ストリップはそこでおこなわれたと考えてみるのです。
そうすると、
アメノウズメのストリップに対するサルタヒコの反応がおかしくて、神々が笑った
―――という場面になります。演者と観客の不足が解消され、
不足するピースが過不足なく収まったという印象です。
原伝承ではそういう場面だったのではないでしょうか?
岩戸前の情景を描いた幕末~明治期の錦絵を3枚紹介しましたが、これらの絵にはあきらかな間違いがあります。記紀ともに、「天石屋戸段」にはサルタヒコは登場しないのです。なのに描かれています。本来ならそこに存在しない神。しかし、違和感がありません。なぜかサルタヒコが岩戸の前にいてもおかしくないという印象があります。
三代歌川豊国 錦絵 『岩戸神楽乃起顕』 のサルタヒコ
三代歌川豊国 錦絵 『岩戸神楽ノ起顕』 のサルタヒコ
春斎年昌 錦絵 『岩戸神楽之起顕』 のサルタヒコ
これは、「天孫降臨」段のサルタヒコの登場の場面には必ずアメノウズメがおり、そのアメノウズメは「天石屋戸段」の重要なキャラクターであることによると思われます。そのために原典の二つの場面が集約されたと考えることができます。しかしそれは、はからずも記紀の基になった「原伝承」を復原してしまっている可能性があります。
―――では、そういう場面はありえたのでしょうか?