『続日本紀』文武二年(698)の「多気大神宮を度会に遷す」という記事が、斎宮から現内宮への移転だとすると、その時点で伊勢神宮は既に存在していたのでしょうか?
これ以前の伊勢神宮の状況について『日本書紀』には、古代のヤマトヒメ巡行の伝承を述べるのみで、明確な記載がありません。当サイトの文脈では桧原のアマテラス祭祀を秘匿するためだったと考えますので、当然といえば当然ですが。
内宮と外宮の創始順については、岡田精司氏は外宮が度会氏の祭場としてまず存在し、天武朝以降に荒木田氏が内宮祀官となったと考えています。(*1) この結論に至った岡田氏による指摘点は以下のようなものでした。
1.外宮先祭の慣習があること。(『延喜式』以下の多くの古書)
2.内宮と外宮の地理的関係が伝承と矛盾すること。(外宮のある山田のほうが古くから開けていたと思われる)
3.外宮神域内には巨大な末期古墳があること。(外宮正殿を見下す位置にあとから墳墓を築くことが許されるか?)
4.外宮と度会神主一族との間には密接な結びつきがあるが、内宮と荒木田氏との間には全くみられないこと。
たしかに外宮が内宮より前に存在したことは妥当な推論だと思われます。
岡田氏がいうように、外宮が先に存在していたら、高倉山古墳が現在の位置に設営されることはなかったと推測されます。したがって外宮は高倉山古墳以降に造営された可能性が高いと考えられます。
6世紀中頃という高倉山古墳の推定年代が正しいとすると、外宮は6世紀中頃以降に造営されたのではないかと推論されます。そして内宮はそれ以降に創始されたと考えられます。
『延喜式』伊勢大神宮に「凡そ大神宮は二十年に一度、正殿・宝殿および外幣殿を造り替へよ」とあり、平安時代には式年遷宮が挙行されていたと考えられます。この2013年にもおこなわれた式年遷宮は古代にはどうなっていたのか?後世の院政期までに成立したと考えられている『太神宮諸雑事記』に遷宮の起源に触れた文章があります。
持統天皇即位四年庚寅、太神宮御遷宮。
同六年壬辰、豊受大神宮。何れも東御宮地、始めて遷御なり。
この史料では、持統四年(690)第一回内宮遷宮、持統六年(692)第一回外宮遷宮がおこなわれたと書かれています。
誰も触れていませんが、この「遷宮」が内宮、外宮それぞれの敷地内の移動ではなく、遠方からの移動を述べている可能性があると思われます。「東御宮地、始めて遷御なり。」の文章は、隣地ではなく遠い西方から移転してきたことをあらわすものととらえることが可能です。
岡田氏の論考では、「外宮の前身は国造度会氏の守護霊で、古くからこの地方で信奉された太陽神の祭場であったらしい」とされています。これは直木孝次郎氏にはじまる伊勢神宮論を継承するものです。しかし当サイトでは「伊勢の地方神」に疑問を持ちます。
「天の八衢=海石榴市」でみた嬉野の墨書土器や、「安の河原=野洲川河原」で述べた古代交流の形跡から、伊勢と大和の関係は卑弥呼没後の箸墓建設のころにすでにはじまっていたと考えられます。それは纒向遺跡から発掘される東海の土器の多さも物語っています。「箸墓=天の岩戸仮説」が述べてきたようにその時期に交流があったなら、「伊勢の地方神」を想定する必要はありません。
伊勢の祭祀は、まず「トヨウケ神」を祀る祭祀として始まったと想定します。「トヨウケ神」とは、卑弥呼を継いだ邪馬台国の女王台与が発生源です。「伊勢の地方神」ではなく、東海側に大和政権が秘匿したものが「トヨウケ神」としてまず祭祀対象になっていたのではないでしょうか。「秘匿したもの」の実体は農暦管理の技術です。
「トヨウケ神」を祀る祭祀が並行して、大和にもあった痕跡があります。トヨミケカシキヤヒメ。「トヨ」の名を持つ推古天皇です。ここに最後の秘密がありそうです。「推古紀」は隋側の史料との食い違いが認められ、大山誠一氏によって聖徳太子が架空の存在だったという問題提起もなされています。(*2)森博達氏の考察によれば(*3)この「推古紀」とその次の「舒明紀」は、雄略紀から編纂が開始されたα群と皇極紀から編纂が開始されたβ群のはざまにあたり、『日本書紀』編纂の最終段階に編纂されたと推定されます。したがって律令体制の構築に並行して進められてきた国史編纂の史観の基礎になった「大化の改新」以降の記述と、それ以前の実記録にもし矛盾があれば、最も修整を必要とした時代だと考えられます。推古天皇の生存期間は554年~628年ですから、高倉山古墳の年代観とも重なります。
聖徳太子が架空の存在なら、推古天皇と蘇我馬子との関係にもまた、疑問点がおおくあります。推古天皇はほんとうに「天皇」と呼べる位置にいたのか?蘇我馬子はその位置にいたのではなかったか?「天皇」という呼称がこの時代に存在していなかったことは別にしても、推古天皇と蘇我馬子の関係はもっと別のものではなかったかとの疑問があります。推古天皇がいたという豊浦宮の遺跡と考えられるものが明日香村の豊浦寺から発掘されています。この寺の裏側には甘樫坐神社があり巨大な立石が祀られています。この石はなぜここにあるのか?推古天皇を葬ったと思われる植山古墳では、「天の岩戸」を思わせる巨石が羨道を塞いでいました。この甘樫坐神社の巨石はその植山古墳の巨石と類似しています。その位置は、豊浦寺の推古遺跡からまさに指呼の間にあります。
これらの「天の岩戸」を連想させる遺物から連想される疑問は以下のようなものです。
トヨミケカシキヤヒメ推古天皇とは蘇我政権の祭祀王ではなかったか?
古代の卑弥呼を祀る台与を蘇我政権が再生したのが、トヨミケカシキヤヒメではなかったか?
この豊浦を東に平行移動した場所に外宮があります。桧原と斎宮の関係と同じく、ちょうど真東の場所にです。
アマテラスの桧原が斎宮に移され、祭祀王トヨウケの豊浦が外宮に移されたのではないでしょうか?
天武・持統陵と天智陵を大極殿の正確に南北に位置させた測量技術をもって、
桧原のアマテラスと豊浦のトヨウケは正確に東に、畿内から追放させられたのではないでしょうか?
理由は、桧原の西方アマテラス祭祀と、前政権蘇我氏のトヨウケ祭祀が、
いずれも藤原京が描こうとしている国土をカンバスにした「八隅知之」の理念図に合致しなかったからです。
「藤原京のプラン」に述べた藤原京関連情報と八角噴造営の項目もあわせ、表にまとめると以下のようになります。
年月日 | 事象 | 史料 | |
天武13年(684) 3月9日 |
天武天皇が藤原京の宮室の位置を決定 | 『日本書紀』 | |
持統元年(687) 10月22日 |
天武天皇大内陵の建設開始 | 『日本書紀』 | |
持統4年(690) | 内宮第一回遷宮(斎宮創始?) 桧原祭祀が伊勢斎宮に移動? |
持統3年(689)から持統11年(697)の8年間で31回の吉野行幸 | 『太神宮諸雑事記』 |
持統6年(692) | 外宮第一回遷宮 | 『太神宮諸雑事記』 | |
持統6年(692) 3月3日 |
大三輪朝臣高市麻呂が持統天皇の伊勢行幸に職を賭して諫言以降高市麻呂は大宝2年(702)まで記録から消える |
『日本書紀』 | |
持統8年(694) | 藤原京遷都 | 『日本書紀』 | |
文武元年(697) 8月 |
文武天皇即位 | 『続日本紀』 | |
文武2年(698) 9月10日 |
当耆皇女を伊勢斎宮に侍らしむ(制度化された最初の斎王か?) | 『続日本紀』 | |
文武2年(698) 12月29日 |
多気大神宮を度会に遷す(続日本紀) この時、斎宮から神器が移設されて内宮が創設されたと推論 |
『続日本紀』 | |
文武3年(699) 10月13日 |
天智天皇陵の営造開始 |
『続日本紀』 |
文武天皇のための藤原京の造成と、アマテラス・トヨウケに関連する祭祀の伊勢移動が並行しておこなわれたように見えます。
そしてこの時期は持統天皇が吉野に度重なる行幸をおこなった時期に重なります。(持統3年(689)から持統11年(697)の8年間で31回の行幸/表のピンク色行)この一連の吉野行幸は、けっして仙境吉野にこもるといった意味ではなく、政権中枢の国家の方向性を大三輪氏などの神祇氏族の中枢に隠れて、秘密裏に再構築する必要があったと理解できそうです。藤原京のプランとアマテラス祭祀の伊勢移行は並行して、秘密裏に吉野で企画されたのです。
(*1)岡田精司「伊勢神宮の起源―外宮と度会氏を中心に―」『古代王権の祭祀と神話』所収 塙書房 昭和45年
(*2)大山誠一『〈聖徳太子〉の誕生』吉川弘文館 1999年
(*3)森博達『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か―』中公新書 1999年