飛鳥にある酒船石が、日没観測台であるという説があります。(*1)本来中央の溝が春分・秋分の日没に向けて設置され、北側の溝が夏至、南側の溝が冬至の日没の方向を指すというものです。
近年この酒船石のある丘の北側から石垣が発掘されたり、亀型石造物が発掘されたりして、その重要性が指摘されています。
『斉明紀』2年の記事によれば、両槻宮または、天宮という施設が設営されたという記事があり、その位置は不明確ながら、酒船石との関連性が指摘されています。両槻宮または天宮は、道教の観(たかどの)ではないかという説もあります。
そうすると、この酒船石がいわれているように日没観測台であれば、そこが天宮であった可能性が一気に浮上します。
そこで、酒船石から見えるはずの日没を、山岳ソフト「カシミール」を使ってシュミレーションしてみました。
酒船石から見えるはずの落日
酒船石実測図(飛鳥資料館図録に加筆)
ここで得られた南側の29.9度と北側の30.5度を酒船石の溝の角度と比較してみると、角度が一致しません。溝の角度は北側の角度がやや狭く見えます。実測してみると、南側が約30度、北側が約29度のようです。北側で1.5度程度の誤差があります。これは、日没観測台としては、すこし誤差が大きいようです。もし、天宮の施設であったとしても、この日没観測台はこの場所用に用意されたものではないように思えます。
もし、周辺に周辺に山が無ければ、酒船石のある付近の北緯34度の落日の理論値は理科年表によれば以下の表のようになっています。
観測点 | 冬至落日角度 | 南側角度差 | 春分落日角度 | 北側角度差 | 夏至落日角度 |
酒船石 | 242 | 28.6 | 270.6 | 28.7 | 299.3 |
この数値が、落日方面に山があることによって、変化します。北に高い山があれば、角度の開きは小さくなります。酒船石の溝の角度は南側は標準より1.4度広く、北側も標準より0.7度広くなっています。
酒船石のレイラインを満足させる理想的な山の配置は、北の山の標高ががもっと高くなければなりません。
山岳ソフト「カシミール」を使ってシュミレーションしてみたところ、その条件を満たすひとつの場所が見つかりました。
観測点 | 冬至落日角度 | 南側角度差 | 春分落日角度 | 北側角度差 | 夏至落日角度 |
天理教会 | 239.8 | 30.1 | 269.9 | 28.8 | 298.7 |
桜井市にある、天理教敷島大教会の場所です。これは、酒船石の実測30度、29度とよく一致しています。そして春分・秋分の日には二上山の間に日が沈むことを確認できる場所です。
天理教会から見えるはずの落日
天理教敷島大教会
そしてこの天理教会の背後には、崇神天皇の磯城瑞籬宮跡と伝えられている志貴御縣社があります。
志貴御縣社
磯城瑞籬宮趾碑
私は、斉明期にこの天宮が実用上の役割は果たしていなかったと考えます。なぜなら、すでに推古10年(602)に百済の僧観勒に暦と天文を学んだと記事があり、すでに暦が伝わっているのに、日没観測台は必要ないと思われるからです。であれば、この天宮は祭祀上の意味しか持っていなかったのではないかと思えます。
表面の溝の角度から、この酒船石は最初期には、現在崇神天皇の磯城水籬宮と伝えられる場所に設置されていて、
日没観測台の役割をはたしていたものと考えます。
その後斉明期に飛鳥に運ばれ、「天宮」と位置付けられ、神格化されましたが、
実用上はすでに陳腐化した技術だったのではないかと思います。(*2)
表面の円形の凹みは観測台の水平を出すために水を張ったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
穴師から見た大和三山と箸墓(画面右下) 撮影:大石信治
(*1)斎藤国治『古天文学の散歩道』恒星社1992年、「益田岩船は天文遺跡か、岩船実測記」『東京天文台報』17巻650号 1975年
(*2)あるいは、初めて飛鳥地方に都が移されてから、暦が伝わるまでのあいだ、つまり推古元年(592)から推古10年(602)の間に、実用上から現在の場所に設置された可能性はあるかもしれません。推古女帝は葬られた植山古墳の「岩戸」状の建造物、