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5.日蝕の神秘学 (9) 万葉集の「巻向歌群」

万葉集に「巻向歌群」と呼ばれる15首ほどの歌があります。

痛足川 川波立ちぬ 巻向の弓月が岳に 雲居立てるらし(7巻1087)
あしひきの 山川の瀬の なるなへに 弓月が岳に 雲立ち渡る(7巻1088)
鳴る神の 音のみ聞きし 巻向の 桧原の山を 今日見つるかも(7巻1092)

鳴る神の歌碑光景

「鳴る神の 音のみ聞きし 巻向の 桧原の山を 今日見つるかも」歌碑とそこからの光景(桧原台地の井寺池・耳成山・畝傍山・二上山)

三諸の その山並に 児らが手を 巻向山は 継ぎの宜しも(7巻1093)

弓月岳と三輪山

弓月岳と三輪山 左手前は「三諸の その山並に 児らが手を 巻向山は 継ぎの宜しも」歌碑

巻向の 痛足の川ゆ 行く水の 絶ゆることなく またかへり見む(7巻1100)
ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも あらしかも疾き(7巻1101)
児らが手を 巻向山は 常にあれど 過ぎにし人に 行き巻かめやも(7巻1268)
巻向の 山辺とよみて 行く水の 水沫のごとし 世の人我は(7巻1269)
巻向の 桧原に立てる 春霞 おほにし思はば なづみ来めやも(10巻1813)
児らが手を 巻向山に 春されば 木の葉凌ぎて 霞たなびく(10巻1815)
玉かぎる 夕さり来れば 猟人の 弓月が岳に 霞たなびく(10巻1816)
あしひきの 山かも高き 巻向の 岸の小松に み雪降り来る(10巻2313)
巻向の 桧原もいまだ 雲居ねば 小松が末ゆ 沫雪流る(10巻2314)
泊瀬の 斎槻が下に 我が隠せる妻 あかねさし 照れる月夜に 人見てむかも(11巻2353)
ますらをの 思ひ乱れて 隠せるその妻 天地に 通り照るとも 顕はれめやも(11巻2354)

巻向の周辺の地名が含まれる歌群です。いずれも 「柿本人麻呂歌集」に属しています。この「人麻呂歌集」中で「三輪・巻向」の地名が含まれる歌が他に比して多いため、古く武田祐吉は柿本人麻呂との関連を推定しました。その後、神田秀夫が人麻呂と妻の住まいを巻向に推定し、この視点が歌の解釈にも影響を与え、人麻呂が妻や恋人に対する思いを歌ったものと解釈された時期がありました。
武田祐吉の「国文学研究 柿本人麻呂攷」が昭和18年、神田秀夫「人麻呂歌集と人麻呂伝」が昭和40年、いまでこそヤマト王権の発祥の地といわれる纒向遺跡の発掘は昭和46年以降ですから、頻出の理由を人麻呂の個人的理由に求めるしかなかったということなのでしょう。しかし纒向遺跡の発掘から多くの成果がもたらされている現在では、これらの歌は纒向の王権を想定して再解釈することができます。

柿本人麻呂

柿本人麻呂像(宇陀市阿騎野 人麻呂公園)

近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ(3巻266)

これはよく知られるように、壬申の乱によって壊滅した近江大津宮を人麻呂が訪ねたおりの歌と考えられますが、これら「巻向歌群」にも同様のトーンを見出せます。 「鳴る神の 音のみ聞きし 巻向の」「継ぎの宜しも」「行く水の絶ゆることなく」「常にあれど過ぎにし人に」「水沫の如し」などの句には、時の経過が歌われ、意識は過去に向いています。これらの「巻向歌群」はけっして、「妻」「恋人」を歌ったものではなく、 同じように巻向に存在した過去の王権を歌った可能性があるように思えます。
「巻向」の文字が無いためか一般には巻向歌群には含まれませんが、「三輪の桧原」を歌った二首があります。

いにしへにありけむ人もわが如か三輪の桧原にかざし折りけむ (7巻1118)

桧原神社と歌碑

桧原神社の鳥居と「いにしへにありけむ人もわが如か三輪の桧原にかざし折りけむ」 歌碑

行く川の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の桧原は (7巻1119)

「桧原」が現在の桧原神社の場所近くとするなら、これも「巻向歌群」と同地域の歌と考えてよいでしょう。 実際、現在背後に桧原神社の鳥居が眺められる場所に歌碑が設置されています。桧原神社と関連づけて、この場所に置かれているものと思われます。
このサイトの論考では、西に卑弥呼を祀る祭祀が卑弥呼の死後に桧原でおこなわれ、藤原京建設時に伊勢斎宮の場所に移されて「元伊勢」となったと考えています。
その観点からこの歌を見てみると、深い意味があるように思えます。
柿本人麻呂は「八隅知之」の藤原京の王権を歌った歌人です。通説で言われていたようにこの「かざし折りけむ」を死んだ妻の思いでと解釈するのではなく、

「三輪の桧原にかざし折りけむ」で読み手が想定していたのは、
箸墓を西に望む場所でおこなわれた、アメノウズメの岩戸前の祭祀だった

と解釈できるのではないでしょうか。

春斎年昌 錦絵 『岩戸神楽乃起顕』

春斎年昌 錦絵 『岩戸神楽乃起顕』 明治時代

この歌が読まれた時点で、桧原で天の岩戸前の祭祀がおこなわれたことがまだ知られており、
さらにそれが伊勢に移設され過去のものになったという認識があった

と考えることが可能です。

桧原歌碑

歌碑遠景 背後は三輪山


5.日蝕の神秘学 (9) 万葉集の「巻向歌群」

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