デジタル邪馬台国

2.倭人伝の文献学 (3)『翰苑』倭国条

大宰府天満宮蔵 国宝『翰苑』 平安時代初期(9世紀)の古写本

『魏志』倭人伝の行程記事は、どこかが間違っていると考えてみるべきでしょう。原記事が正しいものであったとしても、われわれが現在見ることができる宋代の『魏志』倭人伝の版本で情報が固定されるまでに、転記間違いや恣意による改変がありえます。

行程について、榎一雄氏は、2種類の記法があることを指摘されました。
方角→距離→国名の順に行程が表記されているブロックと、方角→国名→距離の順に行程が表記されているブロックです。

『魏志倭人伝』方角→国名→距離表記ブロック

ID 魏志原文 現代語訳
0080 東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴毋離有二萬餘戸 東南にいくと「奴国」まで百里である。官は「兕馬觚」といい、副は「卑奴毋離」という。二万余戸である。
0090 東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴毋離有千餘家 東にいくと「不彌國」まで百里である。官を「多模」といい、副は「卑奴毋離」という。千余戸である。
0100 南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸 南へ水行二十日で「投馬国」に至る。官は「彌彌」、副は「彌彌那利」という。五万余戸である。
0110 南至邪馬壹國 南にいくと「邪馬台国」に至る。
0115 女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸 女王の都するところだ。水行十日と陸行一月である。官に「伊支馬」がある。次は「弥馬升」、次は「弥馬獲支」、次は「奴佳鞮」という。七万余戸だろう。

榎氏は、この表現の違いを根拠に、放射式の読み方を考案します。その説は一世を風靡しましたが、反面、邪馬台国論争を迷路に引き入れたともいえます。榎説以後は、この表現の違いの理由は、「放射状」で説明され、それ以外の解釈がなされなかったからです。あまりにロジックがシャープすぎるゆえに、それ以後の解釈の方向を決めてしまった説だといえるでしょう。いま、あらためて考えてみると、もうひとつの可能性があることに思いいたります。この表現の違いが原史料の違いに由来する可能性です。

大宰府天満宮に伝存する『翰苑』に、倭国を記述した史書の逸文が収められています。この『翰苑』は初唐に成立した、張楚金撰、雍公叡注になる文例集で、この写本はその書体から平安時代初期(9世紀)に転記されたと推定されています。この『翰苑』には誤記が多く、史料として使用するには注意が必要ですが、(*1)そこに「書かれていないこと」に、重要な情報が含まれているように思えます。

この『翰苑』と『魏志倭人伝』を比較すると、『魏志』倭人伝の性格の一端があきらかになると考えます。

『翰苑』に引用する『魏略』には、『魏志』倭人伝と同様のいれずみの記事が収載されています。記事の内容はよく似ていますが、しかし微妙に異なります。「文身」に関する記事を抽出して2つの文章の内容を比較してみると、『魏略』逸文の記事は「いれずみ」の由来という主題で統一がとれていますが(白色のカラム)、『魏志』倭人伝では『魏略』逸文に無い、関連する情報も述べられ、文章が散漫になっていることがわかります。この個所を赤色で表示します。『魏略』の文章のほうが、情報量は少ないですが、むしろ整合性を持っているといわざるをえません。

『魏志倭人伝』「文身」記事 赤色は『魏略』に存在しないブロック

ID 魏志原文 現代語訳 魏略(翰苑所引)
0160 男子無大小皆黥面文身 男子は大人、子供の別なく、みな顔面と身体にいれずみをしている。 其俗男子皆點面文
0170 自古以來其使詣中國皆自稱大夫 古くから、中国を訪問する使節は、皆自分から大夫と称している。 聞其旧語自謂太伯之後
0180 夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害 夏王朝の少康の子が会稽に封ぜられた時、断髪し、身体にいれずみをして蛟龍の害をさけた。 昔夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之吾
0190 今倭水人好沈没捕魚蛤 いま倭の水人は、好んで水中にもぐって魚や蛤を捕る。  
0200 文身亦以厭大魚水禽 彼らがいれずみをしているのは、大魚や水鳥を避けるためである。 今倭人亦文身以厭水害也
0210 後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差 時がたつにつれて次第に飾りとなって、諸国のいれずみは左右や大小にいろいろなバリエーションがあり、尊卑によっても違いがある。  

『魏略』逸文の文章は、「倭人のいれずみの習俗の理由を考察した文章」としてまとまっています。『魏志』倭人伝だけに見える赤色の個所は、情報量を増やしていますが、文章の整合性という観点からは、むしろ挟雑物といえます。

この『魏志』倭人伝と『魏略』はほぼ同時代のものと考えられていますが、実際のところ、どちらが先に成立していたとみるべきでしょうか?

著者の陳寿が、晋の史官として、なにより多くの情報を伝えることを第一義にしていたのなら、『魏志』倭人伝の文章を『魏略』が「整合性がない」ことを忌避してカットした可能性よりは、簡略な『魏略』の原記事に、情報が追加された可能性のほうが高いように思います。そうすると成立順は『魏略』→『魏志』倭人伝の順と推定されます。『魏志』倭人伝は参照した『魏略』の情報に加え、その時点で知りえた情報をいくぶん整理せずに付け加えているとみるべきでしょう。

『三国志』の完成にあたり、「よくぞこれだけまとめあげたものだ」という評判がたったと伝えられています。当時中書侍郎(皇帝秘書)だった夏侯湛は『魏書』を完成していましたが、陳寿の著作を見て、自著を破棄してしまったというエピソードも、なによりこの特徴的な「情報量の多さ」を物語るものでしょう。(*1)「衆寡敵せず」-これは、「数には勝てない」意味をあらわすことわざですが、まさに『三国志』をその出典とするものです。「情報量の多さ」の力を、陳寿はよく認識していたと考えられます。

このように『魏志』倭人伝は一度に書かれたのではなくて、過去の歴史書を下敷きにして、情報量を増やす意図をもって加筆されていることを、わたしたちは明確に意識する必要があります。

さて、行程記事においても、「文身」記事と同様に『翰苑』に存在しないブロックがあります。このブロックを下の表に赤色で示しました。

『魏史』倭人伝と『翰苑』引用部の行程記事の対応 赤色は『魏略』に存在しないブロック

ID 魏志原文 現代語訳 魏略(翰苑所引) 広志(翰苑所引)
0030 從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里 帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航行し、韓国を経由して、あるときは南にあるときは東にすすんで、その北岸の「狗邪韓国」に到着する。約七千里である。 從帶方至倭循海岸水行暦韓国到狗耶韓国七十餘里  
0040 始度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴 そこではじめて海を渡り、千余里で「対馬国」に至る。その大官は「卑狗」といい、副は「卑奴母離」という。住んでいるところは四方四百里あまりの広さの孤島である。その土地は山が険しく、深い林が多く、道路はけもの道のごとくである。千余戸がある。良い田が無く、海産物を食べて自活し、船に乗って南北と交易している。 始度一海千餘里至對馬国其大官曰卑狗副曰卑奴無良田南北布糴  
0050 又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴 つぎに南に千里あまり、「瀚海」という名の海を渡り、「壱岐国」に到着する。ここの官もまた「卑狗」といい、副は「卑奴母離」という。四方三百里ほどである。竹や木の叢林が多い。三千ばかりの家がある。田地は少々あるが、田を耕すだけでは食料が不足するので、南北と交易している。 南度海至一支国置官至対同地方三百里  
0060 又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之 また海を千余里渡って、「末盧国」に到着する。四千戸あまりある。人々は浜と山海に暮らしている。草木が繁っていて、道を歩くと前が見えない。人々は魚やあわびを捕えることを好み、水の深浅は関係なしに潜ってそれらを取っている。 又度一海千餘里至末盧国  
0070 東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐 東南に陸を五百里いくと、「伊都国」に到着する。官は「爾支」といい、副を「泄謨觚」「柄渠觚」という。千戸あまりである。代々国王がいて、みな女王国に統属している。ここは帯方郡の使者が往来する時には、常に駐まるところである。 東南五東里到伊都国置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚戸万餘其国王皆屬王女也 倭国東南陸行五百里到伊都国
0080 東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴毋離有二萬餘戸 東南にいくと「奴国」まで百里である。官は「兕馬觚」といい、副は「卑奴毋離」という。二万余戸である。    
0090 東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴毋離有千餘家 東にいくと「不彌國」まで百里である。官を「多模」といい、副は「卑奴毋離」という。千余戸である。    
0100 南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸 南へ水行二十日で「投馬国」に至る。官は「彌彌」、副は「彌彌那利」という。五万余戸である。    
0110 南至邪馬壹國女王之所都 南にいくと「邪馬台国」に至る。女王の都するところだ。   又南至耶馬嘉国
0115 水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸 水行十日と陸行一月である。官に「伊支馬」がある。次は「弥馬升」、次は「弥馬獲支」、次は「奴佳鞮」という。七万余戸だろう。    
0120 自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できるが、その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない。   □女国以北其戸數道里可得略載
0130 次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡 つぎは「斯馬国」、そのつぎ「己百支国」、つぎに「伊邪国」、つぎに「都支国」、つぎに「弥奴国」、つぎに「好古都国」、つぎに「不呼国」、つぎに「姐奴国」、つぎに「対蘇国」、つぎに「蘇奴国」、つぎに「呼邑国」、つぎに「華奴蘇奴国」、つぎに「鬼国」、つぎに「為吾国」、つぎに「鬼奴国」、つぎに「邪馬国」、つぎに「躬臣国」、つぎに「巴利国」、つぎに「支惟国」、つぎに「,烏好国」、つぎに「奴国」がある。ここが女王の境界が尽きるところである。   次斯馬國次巴百支國次伊那國安倭西南海行一日有伊那分國無布帛以草為衣盖伊耶國也
0140 其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王 その南には「狗奴国」がある。男子を王としており、官には「狗古智卑狗」がある。この国は女王に従属していない。 女王之南又有狗奴国女男子爲王其官日狗右智卑狗不屬女王也  
0150 自郡至女王國萬二千餘里 帯方郡から女王国までの距離は一万二千余里である。 自郡至女王國萬二千餘里  

この赤色の部分が、まさに冒頭で述べた「方角→国名→距離」ブロックなのです。「文身」記事の分析から類推すると、このブロックもまた、陳寿が追加したブロックではないかという推定が成り立ちます。そしてこのブロックには「日数表記」の部分が完全に含まれます。

「日数表記」を含む「方角→国名→距離」ブロックは、陳寿によって独自に追加されたブロックではないかというのが、『翰苑』と『魏志』倭人伝の文章比較から導きだされる推論です。

邪馬台国を東の大和の地にいざなった「日数表記」記事は、陳寿が晋に保管されていた、おそらく倭人の手による何らかの史料をもとに、独自に追加したものではないかと思われます。

さらに、注目すべきは、この『魏略』引用ブロックには「邪馬台国」の名称がまったく登場しないことです。

同じ『翰苑』の『廣志』引用部には、一個所「又南至耶馬嘉国」とあります。『翰苑』倭人条には、『魏略』の文章は2回引用されていますが、そこには、邪馬台国は出現しません。邪馬台国の名称は『魏略』には無く、「耶馬嘉国」がただ1回引用された『廣志』の部分にだけ存在します。

この『廣志』の引用の仕方について考えてみましょう。『翰苑』倭人条では『魏略』の引用を2回おこなったあとに『廣志』を引用している形になっています。この書き方からすると、編者は『魏略』をベースに、『廣志』を『魏略』の不足を埋める目的で使ったと考えられます。『廣志』引用文の中で政治上重要な語句は「伊都國」と「耶馬嘉國」ですが、「伊都國」はすでに『魏略』引用個所でも出現していますから、この『廣志』引用の目的は、「耶馬嘉國」の語句にあったと考えることができます。

実は、「邪馬台国」の文字は『魏志』倭人伝にもまた、ただの一度だけしか出現しません。卑弥呼の国の名称は、そのほとんどが「女王国」と記述されています。このことから、陳寿がよりどころとした原史料には、「邪馬台国」よりも、「女王国」と書かれたものが多かったことが想像されます。『翰苑』の注釈者はこの情報の不足を埋めるために、『廣志』を引用せざるをえなかった、つまり『魏略』には、「邪馬台国」の名称はまったく存在していなかったのではないでしょうか。

以上のことから判断して、『魏志』倭人伝が参照した原史料は、すくなくとも2つあり、陳寿が編纂時に取捨選択していると考えるべきでしょう。行程を「方角→距離→国名」で記載した『魏略』系統の史料と、それとは別の、『魏略』以外の系統の史料です。『魏略』以外の系統の史料には、「耶馬嘉国」(邪馬台国?)の名称が記載され、そして行程は日数で表記されていた史料があったと考えられます。

陳寿は、総距離12000里という、里数で表記された『魏略』系統の行程記事に、日数表記の行程記事と「邪馬台国」の名を、別史料をもとに追加挿入したと考えるべきです。


(*1)「"類書魏志"の文に版本『魏志』の文よりもオリジナリティを認めるのは本末転倒である。」山尾幸久氏 『新版・魏志倭人伝』
基本的にこういう厳密さは重要ですが、だからといってすべてを捨てて可能性を閉ざしてしまうのも惜しいように考えます。

2.倭人伝の文献学 (3)『翰苑』倭国条

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