図に示されているように他と隔絶する塀で囲まれた区画だと思われます。棟持柱建物Cと大型建物Dの位置関係に注目してみましょう。大型建物Dを纒向の権力者が居住するする建物と考えた場合、後に神社建築に継承されていった棟持柱を持つ棟持柱建物Cとの関係はどうなるのか?権力者が自己をあがめさせるために建設した拝殿なのか?しかし崇神天皇の時代にそこまでの神格化はなかったのではないかと思います。
この棟持柱建物Cは西から東を祀るものではなく、逆に東から西を祀るものだったのではないでしょうか?
大型建物Dの主が棟持柱建物Cの向こうに西方向を拝するための建物です。
根拠は翌年発掘された大量の桃の種です。
桃の種は西王母の属性です。この場所で西王母が祀られていたということになります。どちらを向いて祀ったのでしょうか?西王母は西の岩窟に棲む神です。したがって、棟持柱建物からは、東の大型建物を祀ったのではなくて、逆に
纒向の大型建物Dの権力者は、西を向いて西王母を祀っていたと考えられるのではないでしょうか?
2013年2月3日にあった現地説明会では、前回発表された建物Aの存在は無かったものと訂正され、新たに建物A想定場所の南に石群が発見されたことが紹介されました。この石群の下はまだ掘っていないとのことで、詳細はわかりませんが、当サイトでは『崇神紀』にある「磯堅城神籬」の原型にあたるものの痕跡ではないかと考えています。西にアマテラスを祀る祭祀において、アマテラスが降臨してくるヒモロギです。ヒモロギの本体である柱の土台部分がこの石群なのではないでしょうか。ならば、大型建物Dから棟持柱建物Cを経由してこのヒモロギを祀る祭祀として、アマテラス祭祀は始まったのではないでしょうか。そうすると「心の御柱」で述べた九州の吉野ヶ里や平原遺跡の立柱祭祀との類似が注目されます。九州起源の立柱祭祀がこの時点で初めて大和にもたらされたと見ることも可能かもしれません。
遺跡の西には隣接して「天照御魂神社」があります。この遺跡の場所で西方のアマテラスをヒモロギに降臨させていたことの痕跡なのかもしれません。
これまで述べてきたことをまとめてみます。
「1.神獣鏡の図像学」では神仙世界を描くことからはじまった三角縁神獣鏡の神像が、やがて西王母を拡張・発展させたアマテラスを核とした鏡作神社の三神二獣鏡を生み出すに至る流れを概観しました。
続く「2.倭人伝の文献学」では、卑弥呼は九州にいたと推論しました。そして「3.箸墓の幾何学」では、箸墓が檜原台地とあわせ、農耕日程管理のための隠された日時計だったと推測しました。さらに「4石屋戸の神話学」では、九州勢力が卑弥呼の死後に纒向に箸墓を建設した際の状況を、
アマテラスが石屋戸に籠る天石屋戸神話として再構築して伝えていると考えました。
これらをふまえて、 この遺跡を以下のように推論します。
この纒向遺跡の大型建物ブロックでは、卑弥呼の死後、箸墓が建設される以前に、
西端に石群の土台の上に柱を立てた「原・磯堅城神籬」を設置して
崇神天皇が西に九州の卑弥呼を祀るアマテラス祭祀が開始された。
しかし、卑弥呼死後の混乱が続いたので、天安河の合議により、尾張・吉備・出雲の技術協力を得て、
箸墓と桧原台地で構成されるアマテラス祭祀に拡張された。