デジタル邪馬台国

5.日蝕の神秘学 (13)二つの天照御魂神社

鏡作坐天照御魂神社

鏡作坐天照御魂神社(鏡作神社)

平安時代の『延喜式神名帳』に「天照御魂神社」が大和国に2社記載されています。169下「他田坐天照御魂神社」と179下「鏡作坐天照御魂神社」です。纒向大型建物の西に存在する「天照御魂神社」(*1)と、冒頭に述べた三神二獣鏡を所蔵する鏡作神社がそれだと推測されます。

天照御魂神社

纒向大型建物西の天照御魂神社

当サイトの考えるように、箸墓が卑弥呼を葬った天の岩戸(天石屋戸)であり、九州の女王卑弥呼の死後にその第一の埋め墓である平原墳丘墓に次いで、第二の詣り墓として建設されたとするなら、この位置関係はよく理解できます。纒向大型建物と鏡作神社はこのアマテラス祭祀の画期だといえます。アマテラス祭祀の画期となった場所に二つの「天照御魂神社」が存在しています。
纒向大型建物はアマテラスが初めて祀られた「磯城瑞垣宮」であり、鏡作神社はのちに三種の神器となる鏡が、祭祀のためのツールとして初めて製造された場所です。これら二つの「天照御魂神社」は箸墓祭祀が企画された時点の政権と生産拠点を伝えていると推測することが可能です。
考古学の発掘結果によれば、鏡作神社の北には大環濠に囲まれた弥生時代の唐子・鍵遺跡が存在し、纒向遺跡の発展とともに衰退していきます。(下図)唐子・鍵遺跡からは銅鐸の鋳型が発掘されており、銅鐸製造の技術をベースに銅鏡製造が開始され、纒向のおそらく箸墓からはじまった前期古墳の三角縁神獣鏡祭祀につながっていくと推測されます。

唐子・鍵遺跡から纒向遺跡への移動と二つの天照御魂神社

田原本町復元楼閣

田原本町 復元楼閣

鏡作神社三神二獣鏡案内板

大和・山の辺探訪物語 唐子・鍵 案内板
鏡作神社の三神二獣鏡の画像が表示されている

『大倭神社註進状 裏書 斎部氏家牒』(*2)は鏡作神社三座の伝承を伝えています。
「神名帳云、大和國城下郡鏡作坐天照御魂神社一座(中略)社伝云、中座天照大神之御魂也、傅聞、崇神天皇六年九月三日、於此地改鑄日御象之鏡、為天照大神之御魂、今之内侍所神鏡、即當社其像鏡奉齋、爾来号此地曰鏡作」(*3)
「鏡作」という地名の由来を述べているのですが注目すべきは「改鑄日御象之鏡、為天照大神之御魂」とある箇所です。崇神天皇六年九月三日に、

太陽を象った鏡をアマテラスの御魂に改鋳した それ以来この地を鏡作というとあります。

『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』等の他の史料にみられない、独自の伝承です。単純にこのイメージを図示すると下図のようになります。

平原遺跡出土10号鏡

 NEXT

鏡作神社三神二獣鏡

太陽を象った内行花文鏡から西王母を主題にした三角縁神獣鏡に改鋳
八咫の鏡と想定される平原遺跡10号鏡と鏡作神社三神二獣鏡

内行花文鏡が太陽をデザインした鏡であることは多くの賛同を得ています。
また、三種の神器のひとつである「八咫の鏡」は福岡県平原古墳出土の直径46.5cmの内行花文鏡であることを、昭和41年刊行の『実在した神話 発掘された「平原弥生古墳」』で考古学者原田大六氏が主張されました。氏曰く 後漢の学者許慎の『説文解字』に「咫 中婦人手長八寸謂之咫周尺也」とある。「咫」とは十人なみの婦人が両手の母指と食指を使ってリングを作った時の弧の長さを言うのではなかろうかとされました。これらのことから、

抽象的に太陽を象った大型の内行花文鏡であるアマテラス由来の「八咫の鏡」を、
アマテラスの御魂を想起させる、より具体的な図像の三角縁神獣鏡に改鋳した

と、この文書は読み解けます。

そしてそれがこの場所でなされたことが重要です。技術的な背景として銅鐸製造をおこなっていた唐子・鍵遺跡の金属製錬技術が想定できるからです。その技術があったから、新来の鏡製造が可能だったといえます。
鏡作神社の境内には「鏡池」があり、江戸時代にここから出土したという「鏡石」が置かれています。表面に円形の窪みがあり鏡面研磨の用具と推察されるとの表札があります
この円形の凹面の直径はほぼ23cm。ちょうど一般的な三角縁神獣鏡のサイズです。天地寸法232mmの手持ちの書籍を置いてみたところぴったりでした。すなわちこの「鏡作」の地で製造されていたのは三角縁神獣鏡である可能性がかなり高くなりました。そして神獣鏡のなかでもトップレベルな三神二獣鏡の品質からするとすべての三角縁神獣鏡が国産といえるのではないでしょうか。
「八咫の鏡」は平原墳丘墓から発掘された超大型の内行花文鏡であり、それこそが卑弥呼=アマテラスの「鬼道」の核だったはずです。それに替わる代替物として三角縁神獣鏡はこの場所であらたに創始されたと考えることができます。内行花文鏡は九州倭国で製造された太陽を象徴した鏡でしたが、三角縁神獣鏡は西王母に仮託して九州で没した卑弥呼を祀った鏡だといわなければなりません。

鏡池と鏡石

鏡作神社境内 「鏡池」と江戸時代にそこから出土したという「鏡石」
「鏡石」の表面には直径23cm程度の窪みがある 

鏡作神社4社

田原本町 鏡作伊多神社(保津)・鏡作伊多神社(宮古)・鏡作神社(石見)・鏡作麻気神社

纒向遺跡の大型建物で開始された、九州倭国女王卑弥呼の神話化は、このときにあらたな段階に入りました。卑弥呼の霊を呼び込むために巨大な壺=箸墓が造成され、のちに鎮魂祭として継承された前方後円墳祭祀が開始されたのです。三角縁神獣鏡は卑弥呼をイメージした西王母をデザインしたゆえにこの祭祀に不可欠の要素になりました。鏡作神社の三神二獣鏡が外区を失っているのは、王権が九州起源であることを隠蔽しようとしたものだと述べました。この三神二獣鏡が八咫の鏡を改鋳したものだったとすると、持統政権にとって外区の唐草文帯をはぎ取ることは避けられない行為だったと考えられます。

扶桑を抹消された鏡

鏡作神社の三神二獣鏡の失われた外区には唐草文帯:扶桑があった

鏡作神社本殿

鏡作神社 本殿

『延喜式』は大和国にもう一か所「御魂神社」を載せています。「巻向坐若御魂神社」です。現在の桧原神社がそれに充てられています。箸墓越しにトヨヒルメが御魂欲す祭祀をおこなった場所が「若御魂神社」という名称で残り、現在は桧原神社がそこにあると想像することができます。


(*1)志賀剛『式内社の研究 第二巻 宮中・京中大和』は「他田坐天照御魂神社」を桜井市戒重の春日神社に比定しています。この説の根拠は太田の土地が「土地も平凡」で、「他田」という地名が太田村に無く、敏達天皇の他田幸玉宮が桜井市戒重に推定されていたことによります。しかし『式内社の研究』がベースとした明治時代の官撰の『特選神名牃』では所在を「磯城郡巻向村大字太田」とし「往古本社村の境にあり」としており、纒向大型建物跡が発掘された現在では、あえて太田説を否定し戒重に移動させる必要は無いと考えます。太田村にあった「他田」という地名が消失したと考えるのが妥当であり、それは古くは「太田遺跡」と呼ばれた纒向遺跡の範囲内に存在したと考えられるでしょう。
(*2) 西田長男氏はこの書を江戸時代の偽書と考証されています。しかし、ここでは氏の言われるように、「全体としては明らかに偽作であるが、その部分部分にはいくらか取るべきところがないとも限らない」(西田長男『神社の歴史的研究』塙書房昭和41年464ページ)という判断にもとづいて、江戸時代の社伝を伝えている可能性があると考えます。
(*3)後続の文章は「神名帳云、鏡作麻気神社一座、鏡作伊多神社一座、社伝云、左座麻気神者、天糠戸命、大山祇之子也、此神鑄作日之御鏡像鏡、今伊勢崇秘大神也、(中略)右座伊多神者、石凝姥命、天糠戸命之子也、此神鑄作日象之傹(鏡)、今紀伊国日前神是也」

 

5.日蝕の神秘学 (13)二つの天照御魂神社

home