デジタル邪馬台国

4.石屋戸の神話学 (2)明日香村の「イワヤト」

石舞台古墳

石舞台古墳

植山古墳の横穴式石室の閾石が「 天石窟 あめのいわや 」の「 磐戸 いわと 」をイメージして設計されたなら、天岩戸神話が発生した、横穴式石室が発生する以前の竪穴式石室の時代には「天岩戸」はなにを指していたことになるのでしょうか?日本書紀の表記にある具象化された「 天石窟 あめのいわや 」の「 磐戸 いわと 」ではなく、古事記が表記する意味不明の「 天石屋戸 あめのいわやと 」がその原義をとどめている可能性があります。

明日香村の大字に「祝戸」という地名があります。この「祝戸」が中世には「イワヤト」と発音されていたことをうかがわせる史料が残っています。
天文十三年の談山神社文書「多武峰御供所惣田数帳」に百姓名として「イワヤト新次郎」という名が見えます。(*1)中世の明日香村は多武峰領で、その領地の惣田数の目録を記した文書です。これによって、明日香村の「祝戸」が戦国期には「イワヤト」と発音されていたことがうかがえます。

 

天文十三年の談山神社文書
「多武峰御供所惣田数帳」(*1)

 

「イワヤト新次郎」という名が見えます

明日香村は天岩戸を「天石屋戸」と表現した『古事記』の編纂に強く関わる土地です。序文を信じるなら、天武天皇が編纂を命じ、天武天皇は壬申の乱を制し、近江から飛鳥に還都しました。ならば明日香村の「イワヤト」の地名は「天石屋戸あめのいわやと」と強いかかわりがある筈です。

この明日香村の大字「祝戸」は実に興味深い場所にあります。現在国営飛鳥歴史公園は石舞台地区、高松塚周辺地区、祝戸地区、甘樫丘地区、キトラ古墳周辺地区(整備中)の5地区から構成されています。石舞台地区に隣接するのが祝戸地区です。石舞台古墳は 島庄 しまのしょう 地区 にあります。しかし現在の地図で見てみると、西南が祝戸地区に接しているのです。島庄が蘇我馬子に由来するらしいことと同様に、祝戸という地名は石舞台に由来するのではないかと思われます。

明日香村の境界線

明日香村 祝戸地区は石舞台の西南に接している(赤線が現在の地区境界線)
電子国土の空中写真をカシミール3Dでレンダリングしたものに加筆

この大字「祝戸」と「島庄」がいつから区画されたのかは明確ではありませんが、橿原考古学研究所の調査による「大和国条里復原図」には、現在の境界線に近い直線ラインが見いだされ、律令制の条里制策定のおりに線引きされたものを継承していると考えるのが自然でしょう。

橿原考古学研究所『大和国条里復原図』No.94 に加筆

 

明治の地籍図

 


昭和初期の空撮(調査報告書)
県道155号線は現在より古墳に食い込んでいる

条里制施行の際に区画が直線で整備され、現在の島庄と祝戸の境界線はその際の区画をほぼ継承しているといえそうです。条里制施行以前には、北側に蘇我馬子の邸宅があり、南側に石舞台がありました。その時点では「祝戸」の領域は石舞台を含んでいたのではないかと思えます。

言い切ってしまいましょう。「祝戸」という地名は石舞台に由来し、飛鳥に都があった時代には、
祝戸イワヤトとは現在我々が「古墳」と呼ぶものを指していたと。
したがってアマテラスが隠れた「天石屋戸あめのいわやと」とは「洞窟を塞いだ戸」という形状を指すものではなく、
古墳そのものだったということになります。

祝戸集落

祝戸集落

ミハ山の磐座

祝戸地区にある「フグリ山」の磐座 


(*1)「橿原市史 資料編第2巻」

4.石屋戸の神話学 (2)明日香村の「イワヤト」

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