デジタル邪馬台国

5.日蝕の神秘学 (2) 興台産霊(こごとむすび)

「ヤマト」の語源は何なのか。奈良盆地東南部が起源らしいことはわかっています。大和神社のあたりが起源だという説もあります。

「邪馬臺国」―――この文字列はおそらく「ヤマト」と発音されたのでしょうが、ずっと昔に古田武彦氏が「邪馬臺国」の語感について述べられ、「邪」や「馬」のような「卑字」の後に「臺」という神聖至高の文字が連なることはありえないとされました。(*1)当否はともかく、ずっと気になっていましたが、日本人の用字ならこの疑問もクリアできます。中国人ではなく、倭人による採字の可能性があるのではないかと思います。前半の「邪馬」国の名は『魏志倭人伝』にも登場しており、既存の「邪馬」に「台」を付け加えて「邪馬台国」の名称を倭人が作ったのではないかと思えるのです。「臺与」という新女王の名前、「邪馬臺国」という国名、これらは台与の使節が訪中した際の倭人の作成した文書に起源があるのではないでしょうか。当時の洛陽では「臺」は「ト」とは読まなかったのではないかと思えるからです。

対して日本では「臺」を「ト」と読んだ痕跡が日本書紀に一ヶ所、残っています。天岩戸段の第三の一書です。

至於日神閉居于天石窟也。諸神遣中臣連遠祖興台産靈兒天兒屋命而使祈焉。於是天兒屋命掘天香山之眞坂木。而上枝縣以鏡作遠祖天拔戸兒己凝戸邊所作八咫鏡中枝懸以玉作 遠祖伊弉諾尊兒天明玉所作八坂瓊之曲玉。下枝懸以粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿。乃使忌部首遠祖太玉命執取。而廣厚稱辭祈啓矣。…(中略)…興台産靈此云許語等武須毘。

興台産靈は日神が天石窟にこもった後に祭祀行為をおこなっています。興台産靈はその児天兒屋命に指示を出しているようです。天兒屋命は天香山の眞坂木を掘り、上枝に八咫鏡を縣け、中枝には八坂瓊之曲玉を懸け、下枝には木綿を懸け、太玉命に執らせて廣く厚く稱辭して祈らせています。天岩戸のアマテラス復活の儀礼を叙述しているくだりです。
興台産靈という語に対し、『日本書紀』は文末に読み方を指示し、「許語等武須毘(コゴトムスビ)」と読ませています。 「産靈」は多くの用例があり、「ムスビ」と読むことはあきらかですから、「興台」が「コゴト」となります。この「興台」の読みに関して、岩波文庫『日本書紀(一)』には以下のような注釈があります。

興はxiXX の音。当時の日本語のコ乙類の音にあたる。語尾のXの後に、同じ母音Xを添えて、コゴの音にあてる。台はtaiの音。ト乙類のtXにあてる。よってコゴトと訓む。その意味は未詳。(岩波文庫『日本書紀(一)』P85)

この注釈では、この語「興台」は訓読みの表記ではなく、「興(コゴ)」+「台(ト)」と、漢字の音で読まれていると解釈されています。「コゴト」とは、天岩戸段の伝承が初めて漢字表記されたときの読み方を伝えていると考えられます。その時点で「台」は「タイ」ではなく「等」と同音の「ト」と読まれていたことがうかがえます。

飛鳥京苑池

飛鳥京苑池 斉明天皇の「興事」か?

斉明天皇は「興事」を好んだと、『日本書紀』に記述があります。「興事」とはその場合、土木工事を指していたとされます。近年の明日香村の発掘では飛鳥京苑池や亀型石造物の酒船石遺跡などがあきらかになってきています。 この注釈では、「興台」の意味は未詳とありますが、わたしたちの文脈では文字通り、「 ()」を土木工事で「()」こしたと解釈することが可能です。

興台産靈 ( コゴトムスビ ) 」とは、
( ) 」を「 ( ) 」こし「 ( れい ) 」を「 ( ) 」むこと
―――こう解釈できます。
興台産靈とは、九州女王国で死んだアマテラスの霊を鎮めるために三輪山麓に「台」を建設した事業が、
中臣氏の業績とされ、 漢字表記として残存しているものではないかと考えられます。

4.石屋戸の神話学(2)明日香村の「イワヤト」(3)折口信夫の「 齋戸(いわいど)で考察したように、古墳が「祝戸」あるいは「齋戸」と呼ばれていたなら、「イワイ」+「ト」と分解されるだろうその語の核である「ト」こそが、「ヤマト」の「ト」であり、その「ト」の最初の一基―――箸墓が三輪山の麓に建設されたので、

三輪山(ヤマ)」+「齋戸()」=「ヤマト」

になったと想像することが可能です。

箸墓

三輪山と箸墓

霊台

洛陽郊外の「霊台」

洛陽の南に「霊台」という遺跡があります。名称がこの「興台産霊」と類似しています。

漢魏洛陽城平面図

漢魏洛陽城平面図

光武帝中元元年(56)に創建された、当時最も大きい国家天文台だったといいます。曹魏、西晋の朝代に使われ続け、遺跡の中心にあるのは四角形の高台で、現在東西に31メートル、南北に41メートル、高さ8メートルほどのものが残っているということです。残念ながら行ったことが無いのですが、「3.箸墓の幾何学(2)太陽の道(5)特殊器台+神獣鏡などで見てきた桧原台地と箸墓の持つ機能との類似が気になります。洛陽市街からの川をはさんだ位置も台地からの穴師川の位置関係と同じです。卑弥呼の使節が初回に洛陽を訪問した時の知見が箸墓建設に反映されているということなのかもしれません。


(*1)古田武彦『「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社 1971年

5.日蝕の神秘学 (2) 興台産霊(こごとむすび)

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