4.石屋戸の神話学 | (8)天の |
なぜサルタヒコを祀る神社が「椿」神社なのか?鈴鹿市山本町の椿大神社以外にも、同じ鈴鹿市椿一宮には「
サルタヒコは「天の
もし、この「天の八衢」が史実だったとしたら、その場所に三輪山麓の「
三諸は 人の守る山 本邊は 馬酔木花咲き 末邊は 椿花咲く うらぐはし 山そ 泣く兒守る山 (巻第13 3222)
大神神社の摂社
この海石榴市で、津から上陸した張政が九州からの一行と合流して、箸墓の祭祀に向かったことが、
「天の八衢」でのサルタヒコの天孫一行との邂逅、そして岩戸前の神事という神話となって残っているのではないでしょうか。
海石榴市は東海への初瀬街道・山ノ辺の道・磐余の道・竹之内街道の交差点という 交通の要所であることはまちがいありませんが、時代の要請によってその場所は移り変わったと思われ、正確な位置ははっきりしていません。
しかし、東海製の土器が纒向遺跡から大量に発掘されていることを考えると、初瀬川北岸の現在の海石榴市観音のあるあたりは有力な古代海石榴市の候補地でしょう。
明和二年(1765)の「いせやまとまはりめい志ょゑつみちのり」などを見ると、初瀬街道は伝統的な東海への通路であったことがうかがえます。
サルタヒコを祀る二つの阿射加神社のある阿坂はこの初瀬街道の終点である松阪市六軒に近く、阿坂がサルタヒコが溺れた場所として『古事記』に名を伝えているのは、この付近の海岸から張政が船出して帰ってこなかったという記憶が残存しているのかもしれません。現在の阿坂はかなり内陸にあるような印象がありますが、石黒立人「伊勢湾周辺地域における弥生時代の平野地形について」に従えば、弥生時代の海岸線は現在より数キロ内陸部にあり、阿坂から海岸までは2~3kmだったと思われ、このような伝承が残っていることに不思議はありません。
また、六軒あたりが海岸線だったということは、北の雲出川の河口の治水なども考え合わせると、六軒を起点とした初瀬街道の成立は伊勢神宮が創立されるはるか以前の弥生時代にさかのぼるものではないかとも想像されます。六軒から初瀬街道に沿って西に向かった貝蔵遺跡(三重県松阪市嬉野町)では「田」という文字が書かれた「日本最古の墨書土器」が出土しています。弥生時代末から古墳時代初期という、日本列島の他には見られない、とびぬけて古い時代のものと認められています。あるいはこの時の魏の使節が筆と墨をもたらしたのかもしれません。安濃津(*1)に入港した張政が、阿坂に居住する人たちの協力を得て、六軒から初瀬街道を使って海石榴市に向かった可能性は十分あるように思えます。
さて、海石榴市に着いた張政一行がどのようなコースで祭祀会場まで向かったかを考えてみましょう。海石榴市観音から大神神社に向かう道の途中、金屋の石仏を過ぎたあたりの左手に「崇神天皇磯城瑞籬宮趾」の碑が建てられています。 小高い丘の上が現在志貴御縣社神社になっており、その一角にあります。箸墓は崇神天皇の時代に建設されていますから、「磯城瑞籬宮」でなかったとしても張政一行はこの場所にあった何らかの施設を経由したのではないかと思われます。
もし、張政=サルタヒコが天石屋戸=箸墓建設後の祭祀に参加するとしたら、どういうルートを通っただろうかと考え、地図に落とし込んでみました。
「1.神獣鏡の図像学」で考察したように、祭祀の対象は西王母の属性を持ち、発展させられたアマテラスです。そして「2.倭人伝の文献学」で考察したように、被葬者卑弥呼は九州にいました。 したがって、張政=サルタヒコは、西に箸墓を眺められる場所にむかったはずです。そこがサルタヒコがいたはずの場所です。
箸墓を西に眺められる場所があります。檜原神社のある台地、檜原台地です。
この台地で、西に日没の箸墓を眺めて夜をあかし、
翌朝にトヨを新女王として復活させる祭祀がおこなわれたのではないでしょうか。
(*1)「安濃津」は現在の津市を想定していますが、現在の津市と松阪市の境界となっている雲出川の砂州が弥生時代には小さかったことが想像され、現在の津港と松阪港がつながった大「安濃津」が存在した可能性もあるのではないかと思います。
4.石屋戸の神話学 | (8)天の |