概要
「天の岩戸」とは何かを考察します。植山古墳には「岩戸」と呼ばれるものを設置するにふさわしい形状の「閾石」が発見されています。では「天の岩戸」とは横穴式石室を閉める「戸」を指していたのか?
「古事記」では「天の岩戸」ではなく「天石屋戸」と書かれていることに注目します。「いわと」ではなく「いわやと」。この単語が古義を残していると推論します。
中世の古文書によって明日香村に同音の「イワヤト」という地名があることがわかりました。現在の大字「祝戸」であり、この地名が石舞台に起因し、「古墳」を古語では「イワヤト」と呼んだと推論します。
この「祝戸」はまた折口信夫のいう「齋戸」であり、三輪山麓でアマテラスの死のあとにおこなわれた古墳前の祭祀を起源として、アマテラスの御魂を「齋戸」に鎮める皇室の「鎮魂祭」が発生したと推論します。
「鎮魂祭」が「大嘗祭」や「新嘗祭」の前日におこなわれたことからすると、王権はアマテラスの死によって成立したと考えられます。
アマテラスの死後になにが起こったのか。日本神話から復元していきます。
まず、アメノウズメのストリップの出現場所が「古事記」と「日本書紀」でまったく違うことに注目します。現在の神話の構成は、天石屋戸→天孫降臨の順ですが、これは逆に組み替えられているもので、原型は天孫降臨してきた神々の一行が天の八衢でサルタヒコに出会い、天石屋戸を西に眺められる場所で祭祀をおこなったという史実にあると推論します。
サルタヒコが祀られる「椿神社」の名称が、海石榴市
の衢で神々と出会ったことに由来するなら、
史実は三輪山麓で発生したと考えられ、天石屋戸は箸墓であり、アマテラスは卑弥呼、卑弥呼を西王母にイメージして祭祀をおこなった場所は、箸墓を西に眺められる三輪山麓の桧原台地、迎えたサルタヒコとは魏の官吏張政です。
魏の官吏張政を招いて、箸墓の東にある桧原台地で、卑弥呼の追悼祭祀をおこない、台与を新女王として復活させたのです。
ここで推定したように天孫降臨神話が本来天石屋戸神話の前にあったとしたら、卑弥呼の死によって九州を離れざるをえなかったグループが中心となって、出雲、吉備、尾張の協力を得て箸墓を建設し、張政を招いて祭祀をおこなったのではないかと思われます。
このために持たれたのが「安の河原」の会合で、九州から大和に移動してきたグループと、箸墓の建設に関係したと思われる出雲、吉備、尾張の三地域が集合した「安の河原」は琵琶湖畔の三上山の麓の野洲川の河原だったと推論します。
纒向遺跡には西王母祭祀の痕跡が残っています。
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