デジタル邪馬台国

3.箸墓の幾何学 (1)3DCG箸墓

最初期の前方後円墳と考えられている「箸墓」は奈良県桜井市の三輪山麓にあります。全長280mの巨大な前方後円墳です。日本書紀では倭迹々日百襲姫の墓と記載されていますが、その後円部の直径が魏志倭人伝に記録された卑弥呼の塚の直径とほぼ一致することなどから、卑弥呼の墓という説が根強くあります。

東にある井寺池の堤防上から見た箸墓

この箸墓を形態から考察してみようと、宮内庁作成の測量図を基に、3DCGを作ってみました。(*1)

『陵墓図集成』(宮内庁書陵部 1999)
所載測量図
▼長い前方部

▲大きく高い後円部

▲細いクビレ部

この復元したCGを見ていると、一般的にイメージされる前方後円墳とは、はっきり違った箸墓の特徴が浮かび上がってきます。それは、
 1. 大きく高い後円部
 2. 細く低いクビレ部
 3. 長い前方部
 4. 高い前方部
です。

応神天皇陵
(誉田山古墳)

仁徳天皇陵
(大仙古墳)

履中天皇陵

箸墓は、最古式の巨大「前方後円墳」と推定されています。したがって

「前方後円墳」形式に理由があるなら、原点であるこの箸墓の形態自体に、より鮮明に刻印されている

はずです。そう考え、本論ではこの箸墓の特徴から、「前方後円墳」の本質を推論してみたいと思います。

「前方後円墳」では前方部と後円部を繋ぐ隆起が、「隆起斜道」と名づけられています。前方部からこの隆起斜道を通って、首長の遺体を後円部に埋葬する葬送儀礼をおこなったと考えられています。これは、近年多く発掘されるようになった、弥生墳丘墓の墓道の形態から発展させた推論のようです。千葉県の国立歴史民俗博物館には、この「隆起墓道」を再現した模型も作られていますし、都出比呂志氏による概念図も普及しています。

しかし、箸墓に関するかぎり、この「隆起斜道」を使って葬送儀礼をおこなったとするには、すこし無理があるように思います。下図のように、後円部の頂上に埋葬するためには、「隆起斜道」の最低部からは、約20度の傾斜面を標高差15mも登る必要があるのです。(このCGの1段は1mです)葬送儀礼のための仕様としては、傾斜がきつく、適切ではないように思えます。

クビレ部に比して高い前方部

このクビレ部が、築成当時はもっと高く造成されていて、経年変化で削られた可能性があるでしょうか。寛政3年刊の『大和名所図会』には箸墓の図が収められています。

後円部の段差がこのCGに比しても遜色ないほど正確に描かれているのに驚きます。ところが、前方部が描かれていません。近年の橿原考古学研究所の調査によって、前方部の築成が当初に遡るといわれていますので、前方部が無かったとは考えにくいのですが、江戸時代においても、すくなくともクビレ部の高さは、現在の裸のCGと同じぐらい(前方部を明確に区別できるほど)低かったと考えられるでしょう。ここから、築成時のクビレ部の標高を推定するには無理がありますが、クビレ部が築成時には高かったと主張できる根拠もありません。

そこで、この標高の落差には、「隆起斜道」以外の理由があったと考えてみたいと思います。つまり、この

高い箇所と低い箇所、その標高差自体に意味があった

と考えてみるのです。


(*1)箸墓のCGは、宮内庁書陵部『陵墓図集成』所載の原図をPhotoshopでグレー着色後、heigdtfieldとしてフリーソフトのPOV-Rayにとりこみレンダリングしました。

3.箸墓の幾何学 (1)3DCG箸墓

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