1.神獣鏡の図像学 | 2.倭人伝の文献学 |
3.箸墓の幾何学 |
4.石屋戸の神話学 | 5.日蝕の神秘学 |
概要 |
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天の岩戸とは何か? | |
『古事記』で表記される「天岩戸」の別名「天石屋戸(いわやと)」は、中世文書の明日香村の 農民「イワヤト新次郎」の名に見え、この 明日香村の小字「祝戸」が石舞台に隣接することから 「天石屋戸」は「古墳」を指していると考えられる。 |
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文献だけから考察すると『魏志倭人伝』の「女王国」は九州にあった可能性が高い。 | |
初期ヤマト王権の所在地と推定される纒向遺跡で
発掘された大型建物では 西王母祭祀の痕跡がう かがえる。西王母は三角縁神獣鏡の主神である。西王母にイメージされていたのは九州倭国女王 卑弥呼であり、三角縁神獣鏡は卑弥呼を祀るために倭国で製造された鏡だったかもしれない。 |
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日本神話のアメノウズメのストリップは、『日本書紀』と『古事記』でまったく違う状況で全く 同じ所作で行われている。これらが同じ伝承から派生したものだとすると原伝承では、ただ一度 アメノウズメのストリップは、天岩戸の前でサルタヒコを迎えておこなわれた可能性がある。 |
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そうだったとすると「天岩戸」→「天孫降臨」というエピソードの順番は逆で、原伝承では 「天孫降臨」後に「天岩戸」祭祀がおこなわれたと推定できる。 |
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では「天孫降臨」後におこなわれた「天岩戸」祭祀とは何を伝えているのか? サルタヒコを祀る神社は水上交通の要所にあり、 サルタヒコと椿の関連が深いことから サルタヒコと天孫降臨の一行が出会った「天の八衢」は三輪山麓の海石榴市だと推定できる。 サルタヒコは卑弥呼の死後に倭を訪れた魏の官吏張政だと、安本美典氏は考えておられる。 前方後円墳は吉備・出雲の要素を持ち、纒向遺跡からは尾張の土器出土率が高い。 これらを総合すると安の河原は琵琶湖畔の野洲川の河原を指し、吉備、出雲、尾張が合議して、 |
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九州倭国女王卑弥呼の死後に魏の官吏張政を招いて箸墓の東にある桧原台地でおこなった 九州倭国女王卑弥呼の追悼祭祀という史実を天の岩戸神話は伝えていると考えられる。 |
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すなわち「箸墓」こそが「天の岩戸」である。
日本神話をこのように 復元することによってはじめて、卑弥呼死後の状況が日本神話から描け、 前方後円墳の形状の意味が分かり、 大嘗祭・新嘗祭の前日におこなわれる鎮魂祭の意義が明確化し、 そして伊勢神宮がなぜ伊勢に存在するのかが判明する。 |
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上空から見ないかぎり意味をなさない、前方後円墳の母型となった箸墓の壺形の形状は第一に 西方上空の卑弥呼の浮遊霊に見せることを目的としており、 |
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卑弥呼の死後の混乱を治めるために『年中行事秘抄』に伝わる「鎮魂歌」を歌って、その魂を呼び 込もうとするものだった。 したがって箸墓には卑弥呼の遺骸は埋葬されていないのかもしれない。 卑弥呼の遺骸を葬った墳墓に最もふさわしいのは、年代観を別にすれば平原墳丘墓である。 時代差を無視して両墓制の概念を用いれば、平原墳丘墓が「埋め墓」箸墓が「参り墓」といえる。 |
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桧原でおこなわれたその祭祀は、宮廷の大嘗祭・新嘗祭の前日におこなわれる「鎮魂祭」や 「斎戸祭」 となった。だが、この事実は折口信夫が注目していたほかは知られることがなかった。 万葉集に見える『柿本人麻呂歌集』の「巻向歌群」もこの古代の桧原祭祀を歌ったものである。 |
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それがこのような断片でしか伝わっていないのは、持統天皇による文武天皇のための藤原京プラン |
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同時にこの技術力をもって桧原の天岩戸祭祀を正確に東に位置する伊勢斎宮に移動し、西方祭祀を |
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壬申の乱で天武天皇がアマテラス望拝をおこなった迹太川と推定される海蔵川からは西に、桧原か |
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天武朝は政権立ち上げ時にアマテラス祭祀の求心力を必要としたが、持統朝が目指す律令体制では |