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モリ-先生との火曜日(1998年発行)
以前に読んだ「モリ-先生との火曜日」をもう一度読み返してみました。
前に読んだとき以上に新しい感激に触れる事ができました。今回はそれを
紹介します。書店で見かけたら一度目を通してほしいと思います。
著者はスポーツコラムニストとして活躍する。
著者は偶然テレビで大学時代の恩師の姿をみかける。
モリ-先生は、難病(筋萎縮性側索硬化症)に侵されていた。
16年ぶりに再会。モリ-は幸せそうだった。動かなくなった身体で人とふれあう
ことを楽しんでいる。
「憐れむより、君が抱えている問題を話してくれないか」
モリ-は、ミッチに毎週火曜日をくれた。“ 死の床 ”で行われる授業に
教科書はない。テーマは「人生の意味」について
(以上はカバーに記載されている本の紹介文より抜粋)
「いかに死ぬかを学ぶことは、いかに生きるかを学ぶことだ」
日本でも上智大学教授アルフォンス・デーケン先生が先頭に立って
「死生学」を推進しておられます。
現在の日本では「死」と言うことを真正面から取り上げていません。
「死」ということはこの世に生を受けた以上いつかはおとずれるにもかかわらず
最近はいかに死ぬかを考える教育がありません。
その為人の命の大切さも分らず凶悪犯罪が増加しているように思えるのですが。
「母の死」をHPで述べたのもこの思いがありました。
モリ-先生との火曜日について私のこころに残った文章とモリ-先生が
著者に答えたことばを列記してみます。
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「愛」
「人生でいちばん大切なことは、愛をどうやってそとにだすか
どうやって中にうけいれるか、その方法を学ぶことだよ」
「愛を受け入れる」
自分は愛されるに値しないとか、愛を受けいれれば軟弱になると思われ
がちだけれども、レヴァインという賢人が言っているよ
「愛は唯一、理性的な行為である」
「家族」
家族から得られる支えとか愛とか、思いやりとか気づかいとかがなければ、
人生にはほかに何も無いようなものだ。
愛は最高に大事なもの。あのすばらしい詩人のオーデンが言ってるよ、
「互いに愛せよ。さもなくば滅びあるのみ」
「精神的な」保護とでも言うのかな。そこに家族がいて見守ってくれて
いるっていうこと。
それを与えてくれるものはほかに何もないんだ。
金もだめ、名声もだめ、仕事もだめ。
「時間予算」
「誰でもいずれ死ぬことはわかっているのに、誰もそれを信じない。
信じているなら、違うやり方をするはずだ」
「いずれ死ぬことを認めて、いつ死んでもいいように準備すること。
そうしてこそ生きている間、はるかに真剣に人生に取組むことができる。
「いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べるんだよ」
「自分を引き離す」
「何でもよい、ある感情を例にとろう。女性への愛ででも、愛するものを
失った悲しみでも、私が味わっているような死にいたる病による恐怖、苦痛
でもいい、そういった感情に尻ごみしていると・・・つまり、とことん
それとつき合っていこうという考えを持たないと・・・自分を切る離すこと
はできない。
いつもこわがってばかりいることになる。痛みがこわい、愛するものにつき
ものの傷つくことがこわい。
そういった感情に自分を投げこむ、頭からどーんととびこんでしまう。
そうすることによって、その感情を十分に、くまなき経験することができる。
痛みとはどういうものか、愛とは何かがわかる、悲しみとは何かがわかる。
そのときはじめてこういえるようになる。
「よし、自分はこの感情を経験した。その感情の何かがわかった。今度は
そこから離れることが必要だ」
「老化」
「私は老化をありがたく受け入れる」 ありがたく受け入れる?
22歳のままなら、いつまでも22歳のときと同じように無知だっていう
ことになる。
「老化はただの衰弱じゃない。成長なんだ。やがて死ぬのはただのマイナス
とは片づけない。やがて死ぬことを理解するのは、そしてそれによって
よりよい人生を生きるのは、プラスでもあるわけだ」
老化をおそれる人は、人生を満足していないんだよ。
難病でいつ死ぬかもわからないモリー先生のことば、一読をおすす めいたします。
私の友だちも現在難病ですが、いまも向上心を持ちいろいろな人の
役立つことに取組んでいます。
それは何かとの質問に、「人生にたいする愛」といっています。
1999年1月 記
シニア ライフ アドバイザー岡島貞雄 |