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2019/12/26(木) ~   ■ 滋賀(彦根中心)・京都の歴史

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天正11年(1583)4月 賤ヶ岳の戦い
*近江国伊香郡(現、滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉(5万)と柴田勝家(3万)の戦い(4月16日~4月23日)。
*4月20日、丹羽長秀が海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2,000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢と合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢(勝家方)を撃破し賤ヶ岳砦の確保に成功する。結果、若狭国に加え越前(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大大名となった。東郷槇山城(福井県福井市栃泉町)に入ったと考えられます。
◎このとき、丹羽長秀は近江衆の力を借り、舟にて海津(琵琶湖北端)までいきましたか。舟に手慣れた(?)松原五郎兵衛も力を発揮できたでしょうね。
・上杉軍(上杉景勝)の魚津城を攻略したばかりの成政は、、[続き]

天正11年(1583)5月7日 松原五郎兵衛、丹羽長秀の家臣として5、000石受ける
*惟住長秀、其臣松原五郎兵衛、上坂大炊助等ニ、領知ヲ宛行フ、[丹羽家譜傳]
 松原五郎兵衛□之知行目録 領知 向駿河守分 5、000石(ただし、用木並ニ海川ヲ除ク) 以上『大日本史料』490
◎向駿河とは越前向氏のことで、朝倉氏庶流の一門である。南北朝時代に朝倉氏2代目朝倉高景の三男である久景が向姓を名乗ったことが始まりであるとされる。 また、向氏は初代久景から嫡子は代々「向駿河守」を名乗るのが慣例であった。その領知を松原五郎兵衛は受けた。なお、同じ近江衆の上坂大炊助には領知分700石が与えられた。惟住(これずみ)とは朝廷より賜った姓。
◎五郎兵衛は、浅井の城将・磯野員昌が佐和山城から脱出(1571年2月)してから、丹羽長秀が佐和山城を出る(~1582年)までに、長秀配下になったのでないか。そして、山崎の合戦(1582年6月)、賤ヶ岳の戦い(1583年4月)に参加しているのだろう。それがあっての知行地5、000石だろう。
丹羽長秀の家臣団

*天正11年(1583) 岡山家が岩倉に住み始める(六角氏の出自、岡山城(水茎城)主)

天正12年(1584)正月4日 京都、成政は前田玄以とともに秀吉の茶会に(『宗及茶湯日記』)
*同月12日には「篠々内蔵助、今度上洛禁裏(朝廷)へ御礼申入、綿千把進上之伝々、明日帰国之由申」(『兼見御記』)とあり、成政が「陸奥守」に任官した御礼に参内した(花ヶ前盛明氏)。

天正12年(1584)3月から11月 小牧・長久手の戦い
◎同戦いが発生すると、成政は家康および織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家の末森城を攻撃した。この時期、越後国の上杉景勝との二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。秀吉と信雄との間で和議(11月12日)が成立して家康が停戦すると、厳冬の立山を自ら越え「さらさら越え」にて、浜松の家康に面会し再挙を促した(天正12年11月23日富山出発)。しかし家康の説得に失敗し、信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかった。

天正13年(1585)6月 京都、四国(長宗我部元親)攻めの後、秀吉7月に関白就任

天正13年(1585) 秀吉、高野山に対しもの申す
*「寺僧・行人らの僧徒は学問のたしなみがないうえ、仏教と無関係な、武具・鉄砲の製造を行っている。これは悪逆無道であるから禁止する」という禁令を出した。鉄砲の生産地として知られるのは、堺・近江国友・根来寺であるが、実はこれらの地における鉄砲製作は決め手となる根拠がない。、、『寺社勢力の中世』112

天正13年(1585) 山科言経、京都を出奔
山科言経ときつねは公卿、官位は正二位・権中納言、山科家13代当主。山科家領と禁裏領との間で年貢の徴収をめぐっての争いか、勅勘をこうむって、天正13年(1585)に京都を出奔。室(冷泉為益の三女)の縁を頼って摂津国に。本願寺(現、大坂天満橋)及びその別院たる興正寺の庇護のもと主として医業を以て暮らす。天正19年(1591)3月からは家康の扶持を受ける。同年7月、本願寺の京都移転に伴って帰還(興正寺も京都へ移る)、六条本願寺内に住む。文禄元年(1592)9月18日、家康同意のもと豊臣秀次からも召し抱えられる。文禄2年(1593)8月から堀川の新宅へ転居。しかしなお、勅勘は許されず。「秀次事件」(1595)では連座の対象となる。慶長3年(1598)11月、家康の強い推挙で赦免され、山科本家として朝廷に復帰。関ヶ原の合戦(1600年)直後は、近江国稲垂村知行地200石は安堵。慶長7年(1602)、正二位。江戸時代の山科家の家禄は300石。
 さて、言経が京都不在中、断絶した山科家を縁戚の教利が継いだが、言経が山科家当主として復帰したため、翌慶長4年(1599)に、勅命により山科を改め分家の猪熊教利いのくまのりとしとなる。教利は天皇近臣である内々衆の一人として後陽成天皇に仕えていた。その後、教利が公家にとって不名誉で破廉恥な「猪熊事件」(1609年)を引き起こす。教利は天下無双の美男子で、光源氏や平安時代の在原業平にもたとえられたという。これがもと公家諸法度(1615年)が出されることとなる、と。

天正13年(1585)7月、秀吉が「越中攻め」を決断
*6月、秀吉は弟・秀長を総大将に四国の長宗我部元親を攻め降した(四国攻め)。7月には関白に就任し、織田信雄を総大将としての越中(佐々)攻めを決断。千歳神社(富山市千歳町2丁目):成政が戦勝祈願をした神社。
越中攻めの陣立書】(天正13年)

1585年
8月4日、織田信雄を総大将として京都を出発
8月6日、前田勢が交戦を開始する
8月19日、成政の籠もる富山城を10万の大軍で包囲、秀吉軍が攻撃を開始、越後の上杉景勝もこれに呼応し兵を出す、成政(2万)は孤立
8月26日、織田信雄を仲介に降伏を申し入れ
閏8月1日、秀吉は自ら富山城に入る
閏8月5日、富山城を破却し、越中を引き上げる
閏8月7日、秀吉が加賀に入り、同9日に越前、同17日に坂本、同24日に京を通る
閏8月21日、戦後処理の所領配置転換発表
閏8月27日、秀吉が大坂へ帰着した 「成政を連れ帰った」という説もあり
9月11日、成政は娘を人質に出し剃髪する事で秀吉に降伏

天正13年(1585)7月以降 丹羽長重が123万石から若狭1国15万石に
◎丹羽長秀(同年4月16日死去)のあとを長重が相続するが、同年の秀吉の越中征伐に従軍(同年7月)した際、家臣に成政に内応した者(成田弥左衛門道徳ら)がいたとの疑いをかけられ、羽柴秀吉によって越前国・加賀国を召し上げられ、閏8月に若狭1国15万石の大減封げんぽうとなる。このとき、長重の重臣で出奔した人に、
 長束正家:1585年に秀吉の奉公衆、後に豊臣政権の五奉行
 溝口秀勝:1585年閏8月堀秀政の与力大名、後の越後新発田藩主
 村上頼勝:1585年閏8月堀秀政の与力大名、後の越後村上藩主
 青木一重:1585年に長秀が死去すると秀吉の使番、後に黄母衣衆、摂津麻田藩主、七手組
 戸田勝成:1585年に大量離脱が起きたのを機に秀吉の家臣に、関ヶ原で戦死
 松原五郎兵衛:このとき出奔か、成政の長女を娶り佐々家家老、秀吉の黄母衣衆 [続き]

丹羽家の減封は、20,000の軍勢で越中へ旅立っているから、「越中攻め」の最中に起こった事件であるようだ。そうなると松原五郎兵衛も閏8月?に丹羽家を離れるが、近江へ帰る、か [五郎兵衛の進退]。
*成政、妻子と共に大坂に移住させられ、以後は御伽衆として秀吉に仕えた。、、上方でも一万石を給与されており、それは摂津の能勢郡一職を宛がわれたもので、位儀は公にまで任官されたとある。 『佐々成政関係資料集成』316
◎成政が富山にいたのは約6年間(神保長住の助勢の1580年より-1585年)で、降伏以降に配下の者の多くは他の大名に仕え、親族は大坂へ移住します。

天正13年(1585)8月 堀尾吉晴が4万石で佐和山城主に(~天正18年まで)
[近江、松原・佐和山では]
*佐々攻撃の完勝により、、近江は瀬田に秀吉一族の浅井長政がいるのみで、完全に秀吉の領国と化した。、、甥の秀次を近江国内43万石(直轄領20万石・宿老分23万石)の領主として八幡山城に入れた。、、宿老の配置は、佐和山城に堀尾吉晴、長浜城に山内一豊、甲賀に中村一氏、そして八幡山城の留守居にとして田中吉政が置かれた。『新彦史1巻』648
*山内一豊は2万石の所領と共に1万石の秀吉蔵入地が預けられた。、、この点は堀尾と同様である。したがって、、、山内氏とともに堀尾氏も蔵入地の管理をしていた可能性が高いことが伺える。両者の領地も入り組んでおり、秀吉蔵入地代官や秀次宿老としての役割などを共同で行っていたと思われる。『新彦史1巻』650

天正13年(1585)11月 成政、上方でも1万石、公家にまで任官される
*[小早川家文書]秀吉は大坂への帰陣に成政を妻子とともに連れていっている。そして以後大坂にいたらしく、上方でも一万石を給与されており、それは摂津の能勢郡一職を宛行われたもので、位儀は公家にまで任官されたとある。(富山県史)[続き]

天正13年(1585)暮れ~天正14年始め 成政、征伐の前に九州勢説得
*天正十四年三月、佐佐陸奥守成政、蜂須賀阿波守家政を使者として豊後へ遣わし、宗麟[大友]に、、[続き]

天正15年(1587)1月9日 成政、宗久の邸で茶会に呼ばれる
*[宗湛日記]十五年正月九日条に、
「九日朝、一、宗久老ニ大坂ニテサッサ内藏助殿ト御会」との文言が見え津田宗及の邸で成政が茶会に呼ばれていたことがわかる。宗久に招かれている成政に、それなりの力があったのだろう。[続き]『富山県史』

【秀吉の御伽衆】(武家)足利義昭、織田信雄、織田信包、織田有楽斎、六角義賢、六角義治、佐々成政、山名堯熙、山名豊国、斯波義銀、赤松則房、宮部継潤、細川昭元、滝川雄利、古田織部、金森長近山岡道阿弥(景友:景以の叔父)、桑山法印(重晴)、佐久間不干(正勝、信盛長男)、赤松則房、細川昭元ら。(町人)千利休、今井宗薫、曽呂利新左衛門、大村由己、宮部法印(継潤)ら。

 御伽衆は、戦国時代は参謀としての側面が強く、僧侶や隠居して第一線から退いた重臣、没落した大名、武将が僧形となり務めることが多かった。一説には800人いたと。
◎御伽衆の初見は天文年間の『大内氏実録』。その後、武田氏、毛利氏、織田氏、徳川氏など広く戦国大名間で流行した、とある。

【粟田口】三条通を東に鴨川を渡り、山科・大津に向かう街道が大津道、東海道である。その古来よりの街道の出入り口が粟田口。『栄華物語』(11世紀末-12世紀初頭:歴史物語)『宇治拾遺物語』(13世紀初頭:説話物語集)をはじめとして、平安・鎌倉以降の史料に頻出する。、、この地は合戦もあり、また室町時代には山科家管轄の関所も置かれた。『京羽二重』(1685年京都観光案内書)はこの街道の出入り口を粟田口と呼んでいる。、、秀吉の御土居が構築されて以降は、三条大橋付近が、(京都への)出入り口と認識されるようになり、江戸時代には三条橋口・東三条口などの名称も見られるようになった。、、現在の東山区と山科区の堺付近に、粟田口の処刑場があった。康平6年(1063)に安倍貞任(平安時代中期の武将)らの処刑が行われている、、古くからの処刑の地で、江戸時代に入ってからも西土手と並ぶ処刑場として用いられている。『京都と京街道』34
 粟田口は現在の場所で、東山三条白川橋から蹴上までの間で、この辺りを特に「蹴上けあげ」という。これは、嫌がる受刑者を処刑場(日ノ岡峠に向かう辺り)まで蹴り上げて連れて行ったことで付いた名称、というそうな。江戸時代のいつの頃か処刑場はここと、西土手に絞られたそうだ。

【西土手】西の御仕置場(東西十六間、南北九間)だ。中京区佐井道太子道から東入へ入った、西ノ京北壷井町の辺りに壺井地蔵(罪人に「末期の水」を与えたか)がある。この近く紙屋川畔にあったので紙屋川処刑場、或いは御土居の西外に近かったからか「西土手刑場」と呼ばれる、と。地図では、円町(JR嵯峨野線円町駅)を南下、旧西堀川小路(現、西大路通)と天神川が交叉する、旧二条通北辺り、ここに刑場跡が見える。

天正15年(1587) 大津百艘船の特権
*坂本城の浅野長吉が大津城へ移され、大津城の築城と城下の整備の一環として港の整備も進められ、同年(1587)ごろ、豊臣秀吉は坂本・堅田・木浜の港から船100艘を集めさせた。これが大津百艘船の始まりで、彼らには五カ条の「定書」が交付され、諸役免除の特権を公認した。、、琵琶湖の船は全て(芦浦観音寺の)船奉行の判形(はんぎょう)をもつことが義務づけられた。琵琶湖の湖上交通を大津百艘船に中心を置き、水運と船の支配を船奉行の直接支配下においたのである。『近江・若狭と湖の路』151

天正15年(1587)6月2日 秀吉、九州平定 同日、佐々成政の肥後国主に
◎九州平定は1586年7月から1587年4月にかけて、秀吉と島津氏など九州諸将の戦い。肥後国の大半が成政に与えられ、肥後国人衆がその家臣団として旧領を安堵された。成政は肥後の領国化を急ぐあまり、領地を与えられたその翌月に検地を推し進める。そのために国人衆の反発を招き肥後国人一揆をもたらした。
*天正15年(1587)8月~12月、松原五郎兵衛、肥後国一揆平定に奮戦し「鬼の松原」の異名、肥後侍から恐れられる。[続き]
*天正15年(1587)10月1日、北野神社(創建947年)で大茶会、千利休の指導を受ける。約1500人。

天正15年(1587)9月 京都、聚楽第が完成
◎秀吉は九州征伐を終え、妙顕寺城(現、二条城東)から聚楽第で政務を執る。1591年12月に秀吉が家督および関白職を甥(姉の子)豊臣秀次に譲ると、この聚楽第は秀次の邸宅となった(秀次事件の後1595年8月より破壊)。

z_heian [地図解説](地図6)
①上京と下京の市街地(図の桃色の部分)は、応仁の乱でさらに縮小、その間は田園地帯となる。明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興はなされたものの、天文元年(1532)に起こった法華一揆により、下京の市街の全域と上京の市街の約3分の1が焼失した。室町小路を介して、上京と下京がかろうじてつながっている状況となった。織田信長が上洛を果たし「馬揃え」を行った天正10年(1582)でも、平安京は上京と下京に分かれた状態だった。
②図の桃色の部分は「町組」の形成された主要な部分。市街地の復興と共に、貴族の邸宅や寺院は一条以北や鴨川の東に広がっていく。
③戦乱・土地の荒廃・川の氾濫により、旧来の大・小路は、真っ直ぐにならず。道幅や名称も変更もされていく。春日小路(春日通)が丸太町通と呼ばれ、東京極大路の三条以北で寺町通と呼ばれる(以南で寺町通は西にずれます)。
④土御門小路で、東は烏丸通から西は千本通西入までを「上長者町通」と呼ばれる。通りの東辺に裕福な両替商人があり長者と呼ばれたのに由来する。この通りの一本北の東西通は「仁和寺街道・中立売通」、一本南の通りは「下長者町通・中長者町通」となる。
⑤二条通と万里(までの)通の交差点付近に、日本一の遊郭が天正17年に許可され、柳を植えたので『二条柳町』といった。後に内裏に近すぎるので五条西洞院付近に移転する。万里小路通で、丸太町-五条間は柳馬場通と呼ばれる。
⑥商業活動も盛んになり、「振売(ふりうり)」(行商、大原女や桂女)や「立売り」もおこなわれた。後者は地名も残り、四条高倉西の立売町がはじまりで、後には現在の上・中・下立売り(町)に発展したらしい(京都府の歴史 97)。

⑦地図の場所で、紙屋川処刑場声聞師池南蛮寺本国寺鳥辺野・蓮台野一条戻橋六波羅蜜寺熊野三山「寺町」を造る志賀越え、を確認してください。[100年後の京都地図]

*洛中検地は、天正15年(1587)と天正17年(1589)の2回に分けて行われ、天正17年の検地はとても厳しい検地で、この時に屋敷の中にあった畑地を整理してしまい、市街地の耕作地も整理して、屋敷の方は間口を基準にして地子をとり、畑の方は年貢をとりました。つまり、洛中の都市の要素と農村の要素を分け、領主であった公家には洛外に土地をあたえ、市中から地子銭を取れないようにしてしまったのです。これは天正15年から19年まで行い、最終的に京都の地子銭は免除になります。

ko_kyoto 【図の説明】
①市街地、右京は荒廃し、左京だけ
②聚楽第は元大内裏の北東隅 (紫色部分)
土御門第つちみかどていの中に土御門内裏(赤色部分)
④「長者町」は土御門内裏の左横
⑤室町幕府は土御門第の北西、「長者町」の北
⑥下京「古町」は左京の中央
⑦「寺之内」が「古町」の南西
⑧府庁の文字の下に延びた通り「釜座通」
⑨土御門第から下へ延びる(左)「柳馬場通」(右)「寺町通」
⑩本願寺は1602年に、東西に分裂
京の七口は、御土居の出入り口

天正16年(1588)5月14日 佐々成政、切腹 53歳 尼崎浄土宗法園寺
◎肥後国人一揆が発生。その責任を問われ、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、京都へ向かう途中の摂津国尼崎の法園寺(兵庫県尼崎市寺町5)にて切腹させられた。戒名は成政寺庭月道閑大居士。
*辞世の句「この頃の、厄妄想を入れ置きし、鉄鉢袋、今破るなり」(秀吉への無念さを表しているようです)
*尼崎で成政自刃後は一部九州で残留(成政の姉の子孫)するものがありますが、天正16年(1588)、五郎四郎(8歳)母子は、成政自裁後、同家家老であり母の姉婿である松原五郎兵衛と共に熊本を去った。、、[続き]

天正16年(1588) 鷹司信房の北の方、岳星院が父・佐々陸奥守成政の菩提を弔う
*慈眼庵(慈眼寺)、山号福聚山、曹洞宗。岳星院が父・熊本城主佐々陸奥守成政(同年5月14日切腹 53歳)の菩提を弔うために、曹洞禅の高僧大雲永瑞を開山として西陣石屋の辻子の南(慈眼庵辻子)に建立。成政の舎弟、本祝宗源和尚が開基として迎えられた。、、[続き]

天正16年(1588)1月13日 義昭、京都に帰還
*秀吉に従い将軍職を辞し受戒し、名を昌山(道休)と号す。秀吉からは山城国槇島に1万石の領地を認められた。秀吉の御伽衆に加わる。

天正16年(1588) 遠藤兄弟、秀吉に逆らい領地没収
*天正16年、兄弟の領地没収。立花山の戦い(天正11年)などで秀吉に反抗したことを理由に、遠藤慶隆・胤基で2万余石あった領地を没収され、慶隆は小原7,500石、胤基は犬地5,500石に減封された。このため遠藤氏は家臣を養うのが困難となり、全家臣の三分の一は他家に仕えたり、帰農したり、浪人したりした(太田成和『郡上八幡町史』上巻)。[続き]

天正17年(1589)2月25日 秀吉の居、聚楽第の番所白壁に「落書き発見」
◎京都大改造(実質は天正15年(1587)の検地あたりから始まっているか)、この工事の最中、同年2月25日夜、聚楽第の番所白壁に、秀吉や世相についての落書きが発見された。前田玄以げんいが密かに片づけたというが、、[続き]

◎新たな移住者による新しい町「新町」が出来たり、これまでの町屋が移動したりして、上京、下京の空白地は埋まります。以前からの"碁盤の目(正方形)"の町割りに、その中央に小路を通すことで短冊形の街区(鰻の寝床の発祥)をもつくり、土地の有効活用を行います。祇園会の鉾域の「古町」はこれまでの位置を尊重されてかそのまま(中央)に、新町はその周辺に配置したようです。この町割りには、秀吉が豪商と提携し実施しました。「長者町」が聚楽第のすぐ東に置かれ、府庁前の釜座通りは、座を廃した秀吉がただ一つ残した釜師の住む通りで、利休の釜をつくった辻与次郎がいました。
・遊郭については、二条万里(までの)小路にあり、柳を植えたので"柳の郭"といいましたが、内裏に近すぎるというので五条西洞院附近に移転、上ノ町、中ノ町、下ノ町(三筋町という)になりました。もとの柳の郭には馬場ができたので柳の馬場と称しました。『京都府の歴史』127 [島原の沿革へ]

天正17年(1589)5月 秀吉、鶴松が誕生、鶴松を後継者に指名
◎実子の誕生で、秀吉の政策が変化する。

天正17年(1589) 京都、日本最初の公許の遊郭「二条柳町」が開かれる
*万里小路と二条通との交差点付近に日本最初の公許の遊郭が開かれたが、慶長七(1602)年に六条に移転した。『花の都』

天正18年(1590) 秀吉、京都の大改造
*秀吉は1590年、91年に京都の大改造を行います。最初は天皇の御所から手をつけています。[続き]
*秀吉は洛中に存在した多くの土地領主に洛外の替え地を与え、彼らを一掃することによって洛中を自らの直轄地とした。聚楽第周辺は大名邸を集めた武家屋敷地区とし、内裏周辺は公家町とした。、、現在にも残る町名は、如水町(黒田如水孝高)、甲斐守町(黒田甲斐守長政)、、『歴史で読み解く 図説 京都の地理』42

天正19年(1591) 秀吉の御土居
z_odoi ◎豊臣秀吉は、天正19年、続く戦乱による洛中の防衛と鴨川の洪水対策を目的に、京都の町を囲う全長約22.5kmの御土居(おどい)を築造、言わば城下町構築に取り組んだ。御土居内部には、聚楽第を中心に、これまで点在していた公家・武家の屋敷、寺院を集め、土塁(高さ約5m・基底部約20m)・外堀約20mの御土居で囲んだ。御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶことにした(これは不評であったようだ)。
 この都の中核だった聚楽第が、秀次事件(1595)によって1595年8月より破壊され、御土居も意味を失いつつあった。
 江戸中期になると、洛中を超えて東へと市街が広がり御土居は無用となる。それでも東の部分は鴨川の堤防としての役割は大きかった。次第に南、西の部分は崩されて行く。現在も北野天満宮内、廬山寺(石碑)、加茂川中学校の北東賀茂川沿い、その他にその遺構がある。
・中世には、御土居の外で、鴨の河原が歓楽地(中州のようす)となり、多くの芸人が集まるようになった。その中の一人に出雲阿国(いずものおくに:1572-?)がいる。

【都の出入口】御土居の出入口として、京の七口がある。A長坂口・B鞍馬口・C大原口・D粟田口・E伏見口・F鳥羽口(東寺口)・G丹波口は、"秀吉の計画した都"の出入口という。他にも存在するという説がある。

天正20年(1592)3月15日 朝鮮出兵、軍役の動員命令
1万石につき
四国・九州中国・紀伊五畿内近江・尾張・美濃・伊勢遠江・三河・駿河・伊豆それより東若狭以北・能登越後・出羽
600人500人400人350人300人200人300人200人
*上記のように定めて、12月までに大坂に集結せよと号令した。動員された実数はこの8割程度ともいわれる。

天正20年(1592) 京都岩倉、八所明神再建
天正20年(1592)3月 京都岩倉、八所明神に四神を加え十二所明神が祀られる
◎岩倉村、大雲寺の守護社としての八所明神社に別宇の十二所明神社を建立と思われます。両社の擬宝珠(天正二十年の銘有り)は京都で3番目に古いものです。

文禄元年(1592) 京都岩倉、是心庵(湯口・臨済宗相国寺派)創建
文禄4年(1595) 京都岩倉、専修院(上蔵・浄土宗鎮西派)創建
慶長元年(1596) 京都岩倉、来迎院(湯口・浄土宗鎮西派)創建
慶長2年(1597) 京都岩倉、浄念寺(上蔵・浄土宗鎮西派)創建
正保2年(1645) 京都岩倉、心光院(下在地・浄土宗知恩院派 尼寺)創建
◎心光院は移築である。[1630年10月 京都所司代「新寺建立禁止の触れ」] 明和8年(1771)以降、尼寺に。

閻魔大王といえば、嘘をついたら舌を抜かれる、、これは十王信仰の名残り。 十王はいずれも冥土の裁判官のことで、閻魔大王は秦広王から数えて5番目の王、、十王が、初七日、二七日、、七七日、そして百ヶ日・一周忌・三回忌と、亡者罪人の裁判に当たるものとされています。 地獄行きか極楽行きかを決めるのは、何も閻魔さんだけではなかったのです。
 この十王像を安置していた十王堂が、岩倉から木野へ向う道の岩倉川にかけられた 十王堂橋の畔にあった、と言われます。十王をお祀りするのは、生前あらかじめ斎供を施しておき、死後冥府で次々十王の裁断を受けるとき、 業報の罪を軽減してもらおうと言うもの。日本では、鎌倉時代以降、地蔵信仰とあわせて十王の各々に“本地仏〟を設定し、庶民信仰として広がっていったとか。
 岩倉川は、いわゆる三途の川と見立てられ十王堂で裁断を受け、善心に立ちかえり、山沿いの道を辿ると岩倉惣墓へと行きつく…。閻魔王の本来の姿、地蔵菩薩が待っている、という一幅の構成図ができあがっていたのです。、、
 かっての十王堂に祀られていた十王像が、、是心寺に移築されたのは明治10年のこと、、日本でも十王像が一堂に並ぶのは極めて珍しい例、、『是心寺』

【十王信仰】( )は本地仏
  初七日( 7日目・ 6日後) :秦広王 (不動明王)
  二四日( 14日目・13日後) :初江王 (釈迦如来)
  三七日( 21日目・20日後) :宋帝王 (文殊菩薩)
  四七日( 28日目・27日後) :五官王 (普賢菩薩)
  五七日( 35日目・34日後) :閻魔王 (地蔵菩薩)
  六七日( 42日目・41日後) :変成王 (弥勒菩薩)
  七七日( 49日目・48日後) :泰山王 (薬師如来)
  百か日(100日目・99日後):平等王 (観音菩薩)
  1周忌(2年目・1年後):都市王 (勢至菩薩)
  三回忌(3年目・2年後):五道転輪王 (阿弥陀如来)
命日を第1日と数え、没して後七日ごと順に上記の王の裁きを受ける。
なお、浄土真宗では、信者はみな亡くなった時に直ちに極楽浄土に往生するため、この種の追善供養は一切ない。

文禄2年(1593) 京都岩倉、岩倉村が実相院支配から離れる
◎10年ほど前の1582年6月、岩倉村の山本尚治ら土豪達が明智方に与し、山崎の合戦にて敗れる。すくなからずの岩倉武士は討死。岩倉村へ戻り帰農。村民の間では「見ざる聞かざる言わざる」のごとし。
 これ以降、岩倉村では大きな統治機構の変化があったようだ。明智方に与した山本氏らの領土は、秀吉が没収したであろう。また、秀吉の政策により1593年に、岩倉村内の実相院領はなくなる(大雲寺領は不明、実相院が大雲寺の住職を兼任は1641年から)。さらに、徳川家の意向で1601年に村高1900石の内953石が禁裏御料、1706年までに残り947余石が法皇御料となっていく。947余石には、秀吉の没収地以外、御料や大雲寺領があったであろう。[家康の寄進]。
・岩倉の氏神 八所・十二所明神が実相院領に属するものの、岩倉住民は実相院・大雲寺の支配から離れることになっていく。当然、神祭を維持する形態も大きく変わる

▼1582年以降、厳しい「残党刈り」が岩倉村にまで及んだはず。秀吉の進駐軍がやって来て居座り、住民は恐ろしくて口をつぐんだであろう。山本尚治の筋のもので、京極高次に属した宗次(~1696)、徳川方で恩賞を得られなかったか、岩倉に帰還後、伊佐氏と婚姻関係を結び、実相院に奉仕して生きていく、とある
 その後、土豪達が関ヶ原の戦い・大坂の陣に参戦したという話は聞かない。山崎の合戦(1582年)以降、岩倉武士のほとんどは帰農しているようだ。二つの大戦の「残党刈り」、「切支丹追放令」の触れは、京都から離れた、この「陸の孤島」の岩倉にも来ているだろう。親戚縁者も多くなり村全体で”落人の抱え込み”、といういう事情になって、岩倉住民には「三猿?の戒め」と「記録を残さない習慣」、特有の連帯意識が浸透していくようだ。これに比べ、大名が君臨する城下の落人は個人・同士間で沈黙を守り「名を替え様子をかえる」より生きるすべはなかった(危険をおかして懐へ入るが安全としたか)。1706年以降に岩倉村全てが御料となった故か、全国で実施された「五人組」の記録が、発見できていないようだ。
・岩倉を「陸の孤島」と称したのは、岩倉南部で、東に大原街道(若狭街道に繋がる)、西に鞍馬街道があるものの、現在のように拡張されたものでない。京都と岩倉の往復に、住民の多くは八丁街道を利用していた。それで、京から大軍で一気に攻め立てられれば、退路を断たれることになり、北部の「けもの道」を落ちて行くしかない。
 そういう意味で、香西氏、三好氏、明智氏の大軍に対して山本氏はよくぞ果敢に戦ったと思える。

文禄2年(1593)3月 文禄の役 李氏朝鮮へ15万軍を送り込む
*大肥前(佐賀県)の名護屋城に本陣を置く。7月、名護屋城本営 三之丸御門番衆 御馬廻衆、五番中井組(22名)の中に「松原五郎兵衛尉」の名が見える。
◎松原五郎兵衛、義父成政切腹から5年目、馬廻衆として三之丸御門を警護している。この後、同年10月に秀吉から百石を受けている。

文禄2年(1593) 成政二女の子・五郎四郎が織田秀信に仕える
◎秀吉は全国平定以後、多くの直臣(石高で数万石以下)を抱えているがその領地はどこからくるのか。それは蔵入地であろう。豊臣家蔵入高の国高に占める比率は参考になる。慶長3年の近江国の総石高は77万石余であり、そのうち蔵入地の石高は23万石余で、約3割に及ぶ。当時の秀吉の蔵入地の総計は200万石である。『覇王信長の海 琵琶湖』199
・松原五郎兵衛も摂津国内で100石(1594年10月17日)、播磨国内で600石(1595年8月11日)、これで700石となっている。この蔵入地で、その地の代官となって収入を得ていたのであろう。五郎四郎については[こちら]

文禄3年(1594)10月、 秀吉、宇治川の流路変更
*宇治川が巨椋池に注ぐ流路を変更され、伏見に導き城(これから築城する指月伏見城)の外堀とする。これにより城下に大坂に通じる港(伏見港)を造り、巨椋池東に小倉堤を築きそのうえに街道を通し新たな大和街道とする。この事業により、水路の伏見は京と大坂の交通の要衝として栄え三十石船で賑わった。また陸路の京街道(鳥羽街道、竹田街道、伏見街道)も整備された。伏見口(五条口)は、御土居の伏見街道の出入り口として設けられたもので、現在の五条大橋西詰あたりである。

◎秀吉の晩年(聚楽第から伏見城へ移って(1591年))から徳川家康が没するまで、いわば政権の中心地は伏見である。
【伏見城】
・原型は、天正19年(1591)に隠居所としての屋敷。
指月伏見城は、"観月の名所"(現、観月橋駅東の地)に文禄元年(1592)8月着工。秀吉は文禄の役(1592-1593)で名護屋城在陣。1594年末より城下町の整備も行われた。このとき聚楽城下から多くの町民が移住したと考えられ、現在も「聚楽町」「朱雀町」「神泉苑町」などの地名がのこる。支城、向島城が築城された。1596年閏7月12日深夜から翌13日に大地震により破却。
木幡山伏見城は、今の明治天皇陵の地に、地震発生から二日後(1596年閏7月15日)に、突貫工事3ヶ月で完成する。慶長2年(1597)5月、天守閣が建設された時に秀吉が移る。 1598年3月、醍醐寺(創建874年)にて花見。 1598年8月18日この城で没した(在城期間は4年)。 1599年正月、秀吉遺言により秀頼は大坂城へ移る。1599年3月3日に前田利家病死。1599年3月10日、家康は石田三成を佐和山城へ追放。1599年3月13日、家康が留守居役として伏見城に入城。その後、同年9月大坂城に移る。1600年8月1日、関ヶ原の合戦の前哨戦にて伏見城は炎上・落城。1670年の古図へ

【家康その後】
・1600年(慶長5)、関ヶ原の合戦
・1601年3月、入城し、伏見城と二条城の再建を開始 再建は木幡山伏見城を踏襲
・1601年5月、家康は二条城に移る 全国初の銀座設置(両替町に、堺より大黒屋常是を招き鋳造に当たらせた、いまでいう造幣局)
・1602年12月、家康は伏見城に帰陣 このころより大坂城に移っていた大名屋敷が伏見城に戻ってきたが、関ヶ原の戦い直後に城下町は焼き払われており、跡地が東西両軍の大名に与えられたと考えられている
・1603年  、徳川家康は、伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける
・1604年12月、伏見伝馬所新設 伏見橦木町に傾城町復興
・1605年3月、家康は伏見城で朝鮮使節と会見。文禄・慶長の役で関係が悪化していた朝鮮と和議
・1606年頃 、家康が駿府城へ移る
・大坂の陣(1614-1615)後、二条城が将軍参内時の宿舎、伏見城が居館用として利用
・1607年4月、松平定勝が伏見城代となる
・1608年  、伏見の銀座は、京の街に移った(江戸の銀座は、駿府からもの)
・1613年  、角倉了以、京都二条から伏見までの高瀬川開削
・1616年4月、家康没す
・1618年8月、「一国一城令」(居城以外のすべての城の破却)
・1619年(元和5)、伏見城の廃城が決まり、翌年から城割りが始まる
・1623年  、徳川家光が伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける
・1624年  、伏見城廃城
*豊臣・石田の息のかかっている武士は百姓とされ、伏見城あとをあたえられたが、土地は農耕に適せず、三軒家の新百姓西野弥平次が桃を植えたところ、これが成功し(寛永14年(1634))、以後さかんに桃が植えられて、伏見は桃の名所となり、桃山の地名をうんだ。『京都府の歴史』133

家康は将軍就任後、江戸城と伏見城を行き来していたが「在城期間を累計すると伏見城のほうが多いのではなかろうか(『城と秀吉』)」、「江戸幕府も初期のころ「伏見幕府」といってよい(『近畿の城』)」など、初期段階の徳川幕府に於ける伏見城の重要性を指摘している。

瀬田川】琵琶湖南端から流れる排出河川。京都府に入って宇治川と名称を変え淀川に入る河川。全長15km。湖上交通路の延長路で,畿内と東国を分ける政治・軍事上の要地であった。古くから北陸と大和国とを結ぶ水路として重要視され、東大寺造営用の木材も運搬された。[京と近江の物流には?]
yamamich 【志賀越道】室町時代の『建内記』に見える、京の七口である荒神口から近江に至る街道。織田信長の天正3年2月の入洛に際しては事前にこの街道の整備が命じられた(吉田神社の神主吉田兼見の日記)。天正8年2月にも、信長は関所を撤廃すると同時に敦賀から海津への山中を越える道を開発させた(七里半越え、海津街道)。これ以後、津軽から海津、海津から船で坂本・大津へ、そしてこの道を経由し畿内に年間100万俵の米穀が輸送されたという。越前の敦賀から近江へ抜ける道。近江の湖東から洛北の白川へ抜ける道。いずれも山中という地名があり「山中越」で知られる(『京都の歴史』巻4-367)。信長の治世から、志賀越えを「山中越え」といったのでないか。
 その後、近江との主要交通路が三条街道(東海道)へ移ることにより街道としては寂れてしまった。
・「山中越は、荒神口を起点とし、白川を抜け近江国山中を経て坂本に至る道の古名」(『京都市の地名』)とあり、志賀の山越・今道越とも呼ばれる。現近江神宮の北に「志賀里」(現滋賀里と名称変更か)あり。この先を北へ進めば坂本。現近江神宮から坂本まで比較的平坦な道4~5kmで繋がっている。

逢坂おうさか】近江から京都へ入る、東海道の要となる重要な関
・平安中期以後には不破関(東山道から美濃国に入った所)、鈴鹿関(伊勢国にあった古代東海道の関所)と併せ三関の一つ(9世紀初頭に逢坂と愛発が入れ替わる)。愛発あらち関(越前国、現在の福井県敦賀市内か)。
・寛平7年12月3日(895)の太政官符では「五位以上及孫王」が畿内を出ることを禁じており、この中で会坂(逢坂)関を畿内の東端と定義している。
・鎌倉時代以降も京都の東の要衝として機能し、南北朝時代以降には園城寺が支配して関銭が徴収されるようになった。途中、関が焼き払われたりして中断もあるが、経済上の理由から室町幕府が園城寺の関を支配下に置こうとしたこともあり、継続していたか。応永25年(1418)に足利義持が伊勢神宮に参詣した際に通過したとの記録がある。百人一首に
『これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関』(蝉丸、第10番)、
などがある。

文禄4年(1595) 京都、方広寺の大仏殿を再建、梵鐘の銘文が
*秀吉は、松永久秀の焼き討ち(1586年)により焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。文禄4年、方広寺を創建(東山区大和大路通七条上ル)する。[続き]

文禄4年(1595) 前田玄以、丹波亀山城主に
【前田玄以】天文8年(1539)、美濃国に生まれる。藤原利仁の末裔。斎藤氏支流で美濃国安八郡前田にて前田氏を称した。はじめ美濃の僧、その後に禅僧あるいは比叡山の僧ともいう。織田信長に招聘され臣下に、その後に嫡男・織田信忠付の家臣となる。1582年の本能寺の変では、信忠の命で逃れ、嫡男の三法師を美濃岐阜城から尾張清洲城に移した。1583年から信長の次男・信雄に仕え、京都所司代。後に秀吉の家臣として仕える。文禄4年(1595)に秀吉より5万石を与えられて丹波亀山城主。豊臣政権においては京都所司代、五奉行の一人。秀吉没後、1600年の関ヶ原の戦いで西軍に加担、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行った。豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、さらには病気を理由に最後まで出陣せず。関ヶ原の戦いの後は丹波亀山の本領を安堵され、その初代藩主となった。1602年5月20日に死去した。長男の秀以は前年に早世していたため、三男(次男という説もある)の茂勝が跡を継いだ。
◎前田玄以が丹波亀山城主になった頃には、すでに佐々五郎四郎、松原五郎兵衛は玄以邸宅から離れている(1593年)

*秀吉は、畿内近国の一門・直臣大名はもちろんのこと、在京・在坂する相当数の旗本衆に支えられていたのである。旗本衆の中核は、初期には黄母衣衆、やがて七手(ひちて)組として編成された。彼らは、戦場において秀吉に近侍(きんじ)して馬廻(うままわり)・使番(つかいばん)として様々な場合で活躍した。リーダー層には万石クラスの者もいたが、あくまでも個人の様々な力量をもって奉公したのである。したがって大名のように大規模な家臣団を組織したものでなく、数千石から数万石の知行所を一ヵ国あるいは数ヵ国に分散して与えられ、年貢収納は現地の豊臣大名や蔵入地代官に支えられていた。 『藩とは何か』55

◎この当時、黄母衣衆の松原五郎兵衛は秀吉(隈本城から戻ると伏見城で治世を執る)の直臣であるから城周り(伏見-摂津)に控えていたのであろう。
◎次に時期が異なる2つの秀吉「母衣衆」を取り上げる【母衣衆】。

慶長元年(1596年) 土佐浦戸にスペイン船漂着
◎切支丹の結束力・布教の速さに驚き1589年「切支丹追放令」を出していたが、うわさ話『スペインが日本にやって来て日本を占領する』に秀吉激怒。宣教師達を処刑・追放した。1597年、再び「切支丹追放令」を出す。

慶長2年(1597) 豊臣秀吉、治安維持のため、下級武士・農民に五人組を組織させた
慶長3年(1598) 淀・納所 居住の二名が三十石以上の大船支配を委任された
*同年に淀・納所 居住の河村与三右衛門(のち角倉与一)と木村宗右衛門の両名が、秀吉から朱印状を受けて三十石以上の大船支配を委任された。いらい「運上」を上納して淀川本流筋を、「過書」をもって自由に通行した。
・同年、家康は秀吉の事業を引継ぎ、過書座の制を設け、これまで水運に従事していた淀船と新設の三十石船とを包括し、上記の両人を過書船奉行に任命した。
過書かしょ船(過所船ともいう)とは、関所通過の許可書「過書」をもらった船をいう。座の者達を過書船仲間という。角倉与一は角倉了以の長男。過書船は京都-大坂間の貨物・乗客を独占して運んだ川船
慶長3年(1598)8月18日 秀吉はその生涯を終えた、享年62

慶長5年(1600)8月 関ヶ原の前哨戦 岐阜城 織田秀信(三法師)が降服
*『武徳安民記』では福島正則勢が430、池田輝政勢が490、浅野幸長勢が308の首級をあげたことが8月28日の項に記されている。落城時に最後まで生き残った家臣は切腹したといい、崇福寺には秀信家臣38人が切腹した場所の床板を天井に張った「血天井」が存在し、この戦いの激しさが窺える。生き残った秀信家臣の多くは岐阜城攻防戦で戦った福島家、池田家や浅野家などに招聘された。
*佐々五郎四郎重勝(19才)、岐阜退去後は摂津(大坂)へ。叔母婿である松原五郎兵衛直元の処へ身を寄せる。五郎兵衛の娘を娶り、松原五郎兵衛重勝と改名(母輝子は1589年に鷹司家へ嫁ぎ、1590年4月に鷹司信尚を産む)。

慶長5年(1600)9月15日 関ヶ原の合戦
s_kyoowari ◎論功行賞は、家康が大坂城へ入城し(10月15日)、順次発表された。10月1日、大坂・堺を引き回された石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の3名等は京都六条河原において斬首され、首は三条大橋に晒された。
*是歳(慶長5年)11月、味方セシ諸大名勲功ノ賞ヲ賜ハル明レバ6年2月直政ニ石田ガ領セシ近江ノ地賜ハリ六万石ヲ加ヘラレ十八万石ヲ領セシ云ウ(以下略) (以上井伊年譜)
つまり、論功行賞にて、慶長6年2月に井伊家は六万石を加封して近江国にて十五万石、上野国にて3万石、都合十八万石になる。
*石田三成の旧城佐和山に封ぜられた井伊直政は、敵性勢力一掃の為に、寺院の取潰しや村の所替え等の非常手段を用いたが、それでも平田町明照寺以下の真宗寺院には触れず、かえって本願寺准如の要請に応じて諸役免除の特典を与えてこれを保護した。
*関ヶ原の合戦で西軍が敗北し、徳川の支配体制が強まると、豊臣恩顧の大名の家臣となっていた近江の多くの武士は、家臣団の解体によってもとの古巣の村へもどり帰農せざるおえなくなりましたが彼らの中にはなお「すねふり」という株をもち姓をもつ村の特権階級層として生きつづけるものもいましたし、生活の道を求めて近在に麻布や編笠などを売りあるいてやがて大商人と、、『庶民からみた湖国の歴史』109
*侍分百姓と平百姓:村落内部における身分的など隷属関係の存在があった。坂田群下の諸村にみられる譜代出入関係や、伊香郡下の村に存在した親方・小方関係などがある。これらは村落内の一部の有力な階層の者が一部の人々をその被官または譜代出入りの者として隷属させているのである。、、享保17年(1732年)当時170石余の大高持百姓で13人の譜代を従えていた者がいた。、、侍分とはいわなくとてもその実質が侍分と非常によく似た場合がある。
・栗田郡小田原村(現滋賀県栗田郡大石村)の”すねふり”とよばれた家々はそれぞれ由緒があって苗字をとなえていて、近世的には郷士的存在であった。、、一般農民なみの人足役や歩役を負担せず、公儀の文章を周知させることがその任務となっていた。『滋賀県の歴史』150

慶長6年(1601)頃 近江、芦浦観音寺、佐和山城附の浦々の艜船等を書上げる
*「さわ山御城付分ひらた舟之帳」は慶長6年(1601)頃、芦浦観音寺が 佐和山城附の浦々の艘船・猟船425艘と船持名を書き上げたものである。「芦浦観音寺文書」(芦浦観音寺所蔵)には、この佐和山城附以外の湖上各湊についての船帳も、ほぼ同時期のものが見られ、芦浦観音寺が担っていた湖水船支配が、慶長5年の関ヶ原合戦後、佐和山城に井伊直政が入り、彦根藩が成立することにより分割される過程がうかがえる。 『新彦史7巻』18 [村ごとの船数・船持主]
*徳川家康は関ヶ原の戦いに勝つと、全国の街道の整備を始めます。その皮切りとして東海道に宿駅伝馬制度をしいています。人馬を負担するのは宿場の役目でしたが、その代わりに、宿場の人々は屋敷地に課税される年貢が免除されたり、旅人の宿泊や荷物を運んで収入を得ることができるという特典がありました。

*佐和山は、南に東海道、北に北国街道、眼下に中仙道、、信長の近畿進出の足場、、徳川の西国経略の最前線として井伊直政に任された、西国に一度事起こらん、、京都御所の守護の軍隊を、湖上坂本に送りそれより山越えで京都に、半日あれば(山中越え)それを果たす、、また中仙道なら一日行程(逢坂の関越え)で入京し、、王座を彦根に迎え奉る、、彦根の松原港には「お早や」と称する御座船があって、、坂本港に僅か三時間を要するのみで、、佐和山城を拝領、、大津蔵屋敷(石田三成の蔵屋敷を引継ぐ)並びに琵琶湖水域全体の取締の特権を授けられた。、、本田佐渡守、大久保相模守忠鄰(ただちか)、本多上野守正純等の執権職の上に位して、幕政に参与、、 『彦史』上415

・琵琶湖を今日の眼で眺めてはならない。、、琵琶湖は実に北陸および中山道の貨物を京都・大坂に運ぶ幹線の役割を果たしていたのである。、、重要な意義をもつ船着場について、、その数「四十八浦」といわれ、、主要港、湖の北西部には塩津・大浦・海津の港があって、北陸貨物の積出し港として、、湖の北東部には長浜・米原・松原の彦根藩領の三湊があり、これは中山道や湖北地方の産物を大津方面へ輸送する、、この他、湖西には舟木・大溝・堅田があり、湖東には八幡、湖南には大津の諸港があって、いずれも湖上交通の要津として聞こえた。水深は西岸に深く、東岸は比較的浅かった。「八浦」と称されたのは、堅田・八幡・大溝・船木・今津・海津・大浦・塩津であった。『彦史』中冊P325
(彦根藩が開いた松原、長浜、米原の)三湊以外にも要港はあった。朝妻は王朝時代以来の港であり、八坂も中世において活躍した、、八坂の南方には薩摩・柳川の湊が近接して存在し、松原のすぐ北方には磯があるが、これらもまた近世初頭においては三湊以上にも繁栄した要津であった。、、三湊に対する格別の保護政策の影響を受けて、、、船着場として次第に衰微した。しかし薩摩・柳川からは有力な近江商人が輩出した。 『彦史』中冊P347
・湖上を浮かぶ船舶には構造上から見て二種類。数十石積以上の比較的大きな船の丸子船(琵琶湖特有)、それ以下の小舟のひらた舟である。貨客の輸送に当ったのは主として前者である。湖上の船舶の数については、、彦根領内の数は記されていない。これは彦根領内(彦根藩船奉行片岡の支配)は湖上船奉行芦浦観音寺の支配外といった理由もあろうし、また軍機の必要から彦根藩でその数を秘したこともあるであろう。『彦史』中冊P325
s_maruko *秀吉期の史料には、丸子船という表記は見られないが、琵琶湖の最初の船数調査の記録として知られる慶長6年の「江州諸浦れう舟ひらた船之帳」に「丸舟」が登場する。『覇王信長の海 琵琶湖』195

ひらた舟】(平田舟、艘船)は、長さ約15mから24m、横幅3mから4mの吃水の浅い川船。10石までの船を云うから、1石が2.5俵、1俵が60kgぐらいで計算し、10石で米25俵、25俵×60kg=1500kg、つまり、「ひらた舟は1.5トン積み程度を乗せられる舟」と云うことに。
具体例として、軽トラックのキャリイ(スズキ)の本体が700~780kgで、本体と積荷の合計が1,050~1,130kg(ただし、最大積載量350kgを足した数字)。ひらた舟の積荷は、ほぼ軽トラックと満載した積荷、がこれに相当する。鎧兜をかぶった武士が70kgとすると、大きいひらた舟で21人ほど乗船出来ることになる。

*1601年は、『1588年建部七郎右衛門は松前に渡航、1610年田付新助が松前開店。』で彼らの活動期に入る前で、
 若狭・敦賀と八坂・大藪の(中世以来の)往来が衰退し、
 1620~40年代に、若狭・敦賀と八幡、柳川、薩摩の往来栄えだす。
(← 近江商人の活動期)
 ※通商路: 海津→七里半越え→敦賀 今津→保坂→九里半越え→若狭小浜

慶長7年(1602) 浄土真宗の分裂
*石山合戦(1570-1580、場所:摂津国石山)退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立が主因となり、顕如の長男である教如が、家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられるこもあり、顕如の三男准如を宗主とする本願寺(西)と、長男教如を宗主とする本願寺(東)とに分裂することになった。
*江戸幕府内では当時の門主准如が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如を門主にするとの考えもあったが、真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった。
*本願寺が東西に分立すると、下間氏も分かれ、東本願寺の教如方には頼龍らがつき、西本願寺の准如方には頼廉・仲之・頼芸がついた。西本願寺では頼廉の流れ「刑部卿家」、仲之の流れ「少進家」、頼芸の流れ「宮内卿家」の三家が坊官職を継承した。そして、この三家がとくに「下間三家」と称された。

慶長7年(1602) 京都、遊郭が「六条三筋町みすじまち(六条柳町)」へ
*北は五条(六条坊門)通、南は六条通、東は室町通、西は西洞院通で囲まれた地域に、二条通と柳馬場通の交差点付近から遊郭が移された。『花の都』(島原の沿革へ)

慶長7年(1602) 京都岩倉、長谷八幡の黒馬
◎長谷八幡は、長谷、中、花園の氏神です。本殿は下鴨の河合社の旧殿をいただいたと伝えられるそうです。本殿にかけられている黒馬は同年のもので、弓矢を引く絵馬は少し不鮮明ですが慶長3年のものだそうです。『洛北 岩倉誌』74<

慶長7年(1602)6月2日 幕府、高宮宿に対し条目を出す
*駅伝の拡張のため、慶長19年2月に、沿道各駅に付近の村落や他村からの移住を奨励したの従い、藩主の井伊氏も、領内の高宮・鳥居本・番場に移住をすすめたので、自然宿駅は拡張された。、、一般に一宿は一村から成立していることが多い、、庄屋などは問屋や本陣に兼任される場合が多い。『犬上郡史・高宮町史』

慶長7年(1602)8月~11月 家康、近江一国の惣検地を行う
*彦根市域では、犬上郡蓮台寺村、同郡野口村、坂田郡武奈・明幸村の慶長七年検地帳が見つかっている。
*愛知郡下平流(しもへる)村の検地帳では、
①測量には六尺三寸竿(さお)が用いられ、六尺三寸を一間、五間×60間の区画を面積300歩=一反
②田畠の様子を検地役人が実見し、上・中・下の等級に区分
③畦や水路などは検地の対象から外す
④検地帳が村に渡された
⑤検地役人からの無理な要求なく、謝礼の授受もない村人が検地に立ち会い、土地を上中下のランクに分け、検地帳として記録に残す。  『新彦史2巻』247
*慶長7年(1602)の他、幕府による近江の検地は、延宝年間や天保年間など数回。彦根藩では、承応二年(1653)直孝によるもの、その他しばしば行われた。
◎伝統的には6尺平方(1間×1間)が1坪(約3.3㎡)。300歩=1反(3.3㎡×300)=991.7㎡
六尺三寸=190.89cm これで計算すると1反(=1031.7㎡)は、六尺三寸竿(さお)で40㎡ほど広い。

慶長8年(1603)12月 牢人は勝手に宿を借り京都に滞在できない
*奉公人が借家をする場合は板倉勝重の発効する宿切手を必要とする。京都所司代の許可が必要。
【かぶき踊り・歌舞妓】出雲阿国が京都へ来て始めた「ややこ踊り」、「かぶき踊り(踊念仏)」が始まりという。チンドン屋と起源は同じで、江戸時代に発展・普及するという。規制により女歌舞伎から若衆歌舞伎、野郎歌舞伎変化していった。公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた。「歌舞伎」が昭和40年(1965年)に重要無形文化財に指定された。「かぶき」は「傾く(かぶく)」からきていて、風体がおかしな・常軌を逸脱した行動に走る・滑稽なものを「かぶき者」といった。(wiki)
「かぶき者」という起源を、戦国時代の信長、前田慶次郎あたりとするようだが、私的には法師武者あたりからきていると思っている。

慶長9年(1604)7月 京都岩倉、大雲寺の寺内組織
◎同年の大雲寺の寺内組織は、同年の段階で、六供僧6人、長講2人、新長講1人の合計9人で運営されていた。
 その頃、実相院は義尊(足利義昭孫)の1つ前、慈運の時代である。1752年から門跡が空位であることが多い。一方、実相院の別当芝之坊の活躍がめざましく、『芝庁法印御房』としての活躍は1487~1592年のあたりか。芝之坊は1593年から40年間の途絶えはあるものの幕末まで続く。

慶長9年(1604)7月 彦根城、天下普請の着工が始まる
*「金亀山に城築くべし」と将軍家康公の許可が下りる(慶長8年2月)。
*村方潰し、町地割りは築城と同時に進行。旧物破壊は進駐軍たる井伊氏の可惜のない施政方針であった。
 町割りを担当した御地割奉行
  海老江庄右衛門里勝(足軽大将600石)、三浦十左衛門安久(足軽大将500石)の2人
 村方御郷方潰し役
  戸塚左大夫(足軽大将1000石)
  内山太左衛門(詰衆 400石 内山隼人?,200石 内山十大夫?)
  大鳥居玄蕃(*普請奉行400石)
  松原与兵衛(不明、?) ★柏原与兵衛(700石)の間違い
  河野六兵衛(100石 河野佐右衛門?)
  野呂三助(足軽大将600石 井上主計弟 野呂助惣?)
  真壁五左衛門(*江戸留守居役 300石) 以上7名 『井伊軍志』423
 ( )は慶長12年(1607年)御家中分限帳『新彦史6巻』362から同一人物らしきものを抜き出し記した。*印は完全一致。

・彦根村で長年庄屋役を勤めた安養寺三郎兵衛、彦根村が潰された代償として「安養寺町中町廻ル角」のところ二十間四方の替地を拝領し、安養寺町が生まれたと伝えられる。 『新彦史2巻』349
中藪村というのも、筑城前は集落でなく「三藪の一ツ也。国主の軍用竹也。此所中藪と云。末に至りて中藪村と名付し」もので、「井伊家となりて御城開きの節地潰し諸方より流浪の百姓集り居住をなし新に村を興せしと云」られ、「、、長曾根と同時代成る由。其頃一流長曾根追出され鄕と云」「中藪を寄合鄕と云」、、中藪で松居姓・中村姓を名乗るものは、もと彦根村の出身者で、北村姓・西村姓を名乗るものは長曾根出身者と伝えられているが、これについては、もとより中藪の地は「古代より彦根中村領に有りしは有るべき事也」と記している。 『彦史』上362
◎百姓も姓をもつと云うこと、作者も認めていることだ。元々百姓は百の姓をもつと云うことなんだが。何でもないようだが大切な記述だ。
・長曽根ノ庄、、直継公御代彦根御開きの節、、御潰し、、其の数多き事にて百姓共立腹し御役人等争論に及びし也。戸塚氏川(河)野氏等の役人生首を竹の先に指しつらぬき持帰り郷民共に見せ懸、、時に依っては打捨てに致し又は縄を懸け追放せられし由、郷民共恐入り、或は他所へ立退き、亦は他村へ飛入りに参りし、、  『彦史』上362 (当城下近辺絵図附札写)『井伊軍志』424
・直勝公御代彦根御開之刻、、村方一々御取潰し有りて、城下と成りし也、其時百姓共立腹して争論いたし、大乱と成り、御役人難渋いたせしと云う  (近江彦根古代地名記)『井伊軍志』424
・川野六兵衛南辺にて数多くの神社を潰し、もろこつなぎにして人夫にもたせ、、捨置、帰らん、、郷民共数多右の社もち来りて、六兵衛宅の辺りへ捨置き帰りし也、六兵衛は其の後病気に取合、死去被致しと云う  (近江彦根古代地名記)『井伊軍志』424

【 鈴木重好借用書 】 借用申米之事  (慶長9年1604年)
辰年七月 七日八拾弐石五斗米京舛納明性寺上魚屋町の寺
辰年四月十七日二百二拾七石三斗四升米京舛納青根孫左衛門殿本町の町人
辰年四月十六日百六拾石 同塩野左近右衛門殿藩士、鈴木派
辰年七月十七日七拾三石九斗五升 同 同人藩士、鈴木派
辰年七月 二日四拾石 同松原次郎右衛門殿不明
  同 十二日四拾石 同 同人不明
辰年五月 四日百六拾石 同竹原与五右衛門殿藩士
辰年四月十九日八拾石米京升納竹原与五右衛門殿藩士
辰年八月 八日四石 同松原二郎右衛門殿不明
     同日弐拾四石 同塩野左近右衛門殿藩士、鈴木派
  八月十五日弐拾四石 同 同人藩士、鈴木派
  同 廿四日弐拾石 同 同人藩士、鈴木派
 合九百三拾五石七斗九升   

 右伊藤手形数拾弐之分、此手形ニ御取替給候、 (中略) ・・来冬中ニ返済可申仍如件
  慶長拾年巳九月七日       鈴木平兵衛(在判)
 御代官中
                   『井伊軍志』402

▼『鈴木重好借用書 』(右項目、藩士町人など私が追加)「松原次(二)郎右衛門」(貸し出し分:米、計84石は210俵相当)がどういう人物なのであろうか。
 慶長9年7月より普請工事が始まり、すぐ北東の佐和山城を取り潰し、その資材をこれから立てる彦根城に運ぶ。家臣団の居住区は設定され地割が終了し、町人の地割(本町より)が始まる。まだ城下町の完成を待たず、普請衆は主として米、握り飯ていどで働く。そういう意味でも城下町が早急につくられ、魚や野菜が十分に供給されなくてはならない。普請衆の腹を満たす米は緊急を要する事態になった。米の「貸し出し」は、藩士も含め近隣の者のようだ。まだ、稲刈りが終わっていない7月、余剰米が融通できるところは、と考える。
 塩野左近右衛門、竹原与五右衛門は共に俸禄200石の藩士。青根孫左衛門は早くから地割りを頂戴した町人。すると、彦根藩『分限帳』にみえない「松原次(二)郎右衛門」も、青根孫左衛門相当の古町の町人である可能性が大である。恐らく同一人物が、元和5年(1619年)でも、「彦根、大網仕立う(魚)をひく」でも登場する。(このとき、松原五郎兵衛は70歳*、重勝38歳(その子権兵衛17歳)になるだろう)

◎上記借用人の彦根藩家老・鈴木重好(鈴木石見)の存在は、初代直政没後(1602年2月1日没)、二代井伊直継が気弱な性格のため、横暴さが次第に露見し、藩を二分する御家騒動・佐和山騒動(慶長10年(1605)5月末)へと発展する。結果、上記の借金は鈴木が一存でなしたものとし、精算した上で隠居追放となる(同年7月)。鈴木重好はもともとが家康の付人として直政に預けられた家臣である。
・本丸天守の完了をみた慶長11年(1606)後半、第一工事の完了とともに、佐和山城からの移動も完了したものと考えられる。『彦史』上371

慶長10年(1605)頃 彦根城下古町の地割
*城下町の中では、本町、四十九町、上魚屋町、下魚屋町、佐和町は最も早い時期に開発されたといわれる古町であり、近世中期には、町年寄、また代官などの藩の御用を勤め、苗字を許された有力商人が多く住居する、城下町の中核的な場所であった。 『四十九町代官家文書』222
*、、万治比迄は江戸表へも事により御悦等に参りし由、長浜町役人を勤めるものにも格しき有りて名字表向にて御免有、又町役を勤めざるものにも格式有りて名字御免の人も有る也、都て御城下五十六町寺数四十八カ寺(当御城下近辺絵図付札写) 『彦史』上375

z_hikone *(城下成立前の当地の住民)長谷川家文書に、佐々木・浅井・石田の残党のなかにも、町人となって地割りを拝領した者のあることがうかがわれるが、この種の聞書をある程度、信用するとすれば、「お潰し」に遭い「御城下と成し分は田畑御取上げに付町人と成し者(ハ)大分有之」、、(「彦根近鄕往古聞書」滋賀大学蔵)『彦史』上423

*彦根城下[町住民は何処から]
(1)城下成立前の当地の住民
 木屋戸右衛門(往古より此辺住)、外村三郎兵衛(善利村大庄屋)、安養寺六兵衛(彦根村大庄屋本名外村)、西村弥右衛門(西村之大庄屋)、近藤彦惣(四十九村)
(2)石田家時代の佐和山城下よりの移転者
 川瀬又次、岡田十兵衛、平塚久太夫、加藤与兵衛
(3)井伊氏に従って箕輪・高崎より移転してきた者
 八百屋甚三郎(上州箕浦)、飯塚半左衛門(遠州井伊谷)
(4)佐和山城下よりの移転者、慶長九年(1604)の地割り拝領者
 青根孫左衛門、北川角左衛門、田中九郎兵衛いずれも先に本町に地割拝領
(5)領内または近国よりの流入者
 青根孫左衛門(大藪か古沢)、*北川角左衛門(高宮)、*田中九郎兵衛(没落以降御家中ニ召出後町人となり)、中江宗真(南八幡)、上田善左衛門(元浪人ニ而引込多賀ヨリ)、森助兵衛(四十九院村)、近藤久左衛門(四十九院村) *印は代官であった 『彦史』上422

◎町役人には、
 代官町人の代官がいた(藩初から1801年廃止)
 年寄:村で庄屋に相当、終身が多い
 地払役:屋敷売買の管理等
 横目:元来は藩からの監察
その他に、
 町代(惣代)または丁代:町の代表
 五人組頭:町代の下、五人組の頭
 町廻り:時代劇に出てくる十手持ちに近いか
 番人:町の入口柵門の番人
 あるき:触れ・寄合の伝達係
 一本紙:藩に対し献金などの功労がある 苗字(帯刀)
代官、年寄、地払役、横目、一本紙が苗字を公称できる。町代は名のっている場合もある。いずれも役を終えれば苗字を名のれない。村では庄屋が町年寄相当だが、苗字を名のらない場合が多い。同族意識がはたらいての結果と思われる。
◎村では、庄屋、横目、組頭の村役人が置かれている。幕府領での庄屋(名主)、年寄、百姓代のいわゆる村方(地方)三役に相当する。

慶長11年(1606)3月、 角倉了以、保津川舟運の整備
*角倉は幕府から河川改修工事の許可と通航料徴収などの権利を得て、嵯峨-殿田間の開削工事が開始された。江戸中期には79隻が就航を許可されており、長さ6間6尺~7間、幅4尺9寸~5尺8寸の高瀬舟や、その半分ほど猟舟丹波産の薪や林産物の輸送にあたった。ただし、この河川においては4月~8月の間、保津より川上、嵯峨より河下では農業用水として活用されるため、この区間での就航は行えなかった。、、筏(いかだ)利用による木材の運搬も盛んで、丹波薪の輸送をめぐる紛争(元禄9年(1696))も生じた。、、高瀬舟や筏で運ばれた林産物は嵯峨・梅津・桂の三ヵ所の材木屋に集荷されたのち、京都市中15ヵ所の材木屋に売り捌かれた。

慶長15年(1610) 柳川村の田付新助、松前開店
◎渡島国津軽郡福山(現北海道松前郡松前町字福山)に店を出し、自分の船を持ち物産の輸送と販売を始めた。六角氏遺臣の家柄、14歳で武士を捨て、一足先に渡航している同郷の建部七郎右衛門(松前の殿様の相談役)に相談の上、奥羽に赴き蝦夷地の将来性に着目する。
*蝦夷地物産の運搬は、松前から日本海航路で敦賀で陸揚げし、七里半越えと呼ばれる山道を経て琵琶湖北岸の海津港に運ばれ、琵琶湖水運により故郷である柳川の港に集積し、その後京・大坂へ販売を行った。 (Wikipedia)

慶長16年(1611) 京都、角倉了以が高瀬川開削
*二条から賀茂川の水を引き入れ、樵木町(こりきちょう:いまの木屋町)を起点に、竹田を通り伏見南浜まで結び、伏見で淀川と合する河道を築いた。[高瀬川]
◎高瀬川名称の由来は、高瀬舟をここで利用したためであるようだ。名称は舟が先のようだ。初出は、『日本三代実録』の元慶8年(884)9月16日条、「京の風水害」で確認可能。

慶長17年(1612) 北村源十郎が、井伊氏の許可を得て米原に湊を開く
「中山道番場宿と米原を直結せん」とする。これまでは朝妻が栄えていた。源十郎の船を「真黒船」と呼ぶ。

慶長17年(1612) 京都、大仏殿と大仏が完成
*引き続き梵鐘(慶長19年)が完成するや、同年7月26日の開眼供養に、梵鐘の銘文「国家安康」に徳川家康が異議を唱えた。この結果、大坂の陣での豊臣氏滅亡に繫がる。

慶長17年(1612)11月23日、彦根藩近江国領高辻帳
【彦根】 (参考:1615年20万石、1618年25万石、1633年三十万石)
神崎郡之内 24,178.831石39 カ村此内 198.078石 小物成
愛知郡之内 50,601.821石76 カ村此内 160.051石 小物成
犬上郡之内 60,141.398石95 カ村此内 269.154石 小物成
坂田郡之内 14,289.234石41 カ村此内 65.980石 小物成
  合計 149,211.284石251 カ村此内 693.213石 小物成 
此外 788.716石 寅之縄引ケ
右之他(上記表) 犬上郡多賀領(多賀村)352.735石、犬上郡荒神領(清水村)32.5石、犬上郡西明寺領(池寺村)30石 計415.253石あり(あと郷士の分約400石、総計15万石)   『新彦史6巻』118
因みに、「犬上郡之内 60,141.398石」は、六万百四拾壱石 三斗 九升 八合である
◎上記は井伊家が「関ヶ原の戦功」によって与えられた彦根領内のもの。
・犬上郡・愛知郡、五ヵ村の石高(1612年)を上げておく。
 犬上郡の松原村: 369.850石 内24.20石 小物成
  同  八坂村:1165.430石 内35.00石 小物成
  同  高宮村:2925.620石 内 2.00石 小物成
 坂田郡の 磯村: 558.822石 内16.44石 小物成
  同  米原村: 157.589石 内弐者 小物成
 愛知郡、薩摩村及び柳川村:617.373石、と合算になっている。
・彦根藩は外に御用米と称する城附け米2万石(非常時の備えか、幕府からの支給)あり、これを俵高にすると5万石になる。慶長20年(1615)から城付米がもらえたようだ。入封時は15万石。その他飛び地が3万ある。
・村にかかる年貢は検地に寄るが、数百年通じて殆どかわらない。村単位で庄屋が町人代官を通じて藩に納める。
・藩主が交代するときには、藩から幕府へ「高辻帳」を提出した。これに対し幕府から新ためて朱印状を交付することになっていた。
・高宮の村高が2925.620石で、慶長七年(1602)以来変りのなかった。「近江国輿地志略」によると、これは犬上郡119ヶ村総計60871.696石のうちの最高で、つぎの尼子村の2586石余をはるかに引きはなしているばかりでなく、近江国全村中でも、志賀郡下坂本村の3492.3125石につぐものである。当時の課税標準は反別ではなく、石高で極められた。『犬上郡志・高宮町史』
【藩の財源】
貢祖・物成 (ものなり)  :田畑、屋敷地にかけられる税
  ・小物成(こ 〃 )  :山年貢、海年貢、運上金、網年貢、魞運上、等
  ・高掛物(たかがけもの):村々に対しその石高に応じての課税
  ※農村に掛かる租税は全て米の石高で計算する。
【町財政】
 内町:地子(じし:宅地税、年貢)免除 特定の家「町役家」が町税負担
 外町:年貢地(屋敷地に負担)  ※外堀の内が内町、外が外町
 内外共に:「足役」商人負担、「御国役」職人負担、「何軒役」家の間口に応じて、1軒役(米1斗2合8勺))、「上役銀」営業附加税、「火祭銭」雑税で本家は借家の倍額負担 祭典の費用、「その他」社寺祭礼の費用・集会費用・小使手当・横目などに対する役職手当等 その合計は年間二貫目(歳々町内勘定費覚)
【藩の米倉】松原御蔵(前川)      32棟:72,500俵詰
      新御蔵 (前川、新設)   22棟:78,500俵詰
      御用米御蔵(城内)     17棟:50,000俵詰 合計151,000俵詰
・農村からの米は、川を下り琵琶湖を経由し、全て松原湊へ集積される。ここで米蔵へ収められるものと大津蔵屋敷、大坂蔵屋敷へ運ばれるものに仕分けされる。大津蔵屋敷、大坂蔵屋敷へ運ばれた物は競りにかけられ現金に換えられる。

*延享2年(1745年)の「領知鄕村高辻帳」(1612年と比較のためここに上げる)
伊香郡之内 19,125.812石39 カ村小谷、柳瀬、下余呉
浅井群之内 24,555.201石41 カ村東野、今西、河原、八日市
愛知郡之内 61,022.640石104 カ村鯰江、薩摩、柳川、栗田、金田、石寺、高野瀬
犬上郡之内 60,464.596石119 カ村堀、三つ屋、佐和町、彦根、松原、多賀、久徳、八坂
坂田郡之内 67,028.366石134 カ村百々、磯、米原、蓮花寺、番場、新庄、箕浦、下坂中
神崎郡之内 30,567.492石55 カ村 福堂、田付、今村、乙女浜、愛知川、新堂、本庄
蒲生郡之内 17,235.893石40 カ村奥之嶋、沖之嶋村之内、今里、石塔村ノ内、一色
 彦根合計280,000.000石532 カ村 
下野国安蘇群之内17,693.401石15 カ村 
武蔵野国荏原郡之内1,459.658石11 カ村
武蔵野国多麻郡之内846.941石8 カ村
 他合計20,000.000石34 カ村 
『彦史』上P492
以上、彦根28万石と他2万石、都合30万石。右欄に主な村をあげた。郡にまたがって同じ名称のものがある「蓮花寺村」「本庄村」「今村」など、石高は違うが不明。また、犬上郡佐和町は「村」が付かず、城下町の佐和町とどういう関係か不明。
・1745年、犬上、愛知郡の五ヵ村の石高(1612年の石高と比較するために)
 犬上郡の松原村: 369.850石
  同  八坂村:1165.430石  松原、八坂村は1612年と同石高
  同  高宮村:2925.620石  高宮は1612年と同石高
 坂田郡の 磯村: 558.822石
  同  米原村: 157.589石  磯村、米原村も1612年と同石高
 愛知郡の柳川村: 99.445石
  同  薩摩村:517.928石  柳川・薩摩村2つの合算値は、1612年の薩摩村と柳川村の合算値と同じ石高
oumigu ▼彦根藩は(1612年)18万石から1745年では30万石(城付米は除く)に加増。133年経過しても、上記六ヵ村の石高は同じである。他の村も同じと考えられ、よほどのことがない限りはじめの検地で村の石高は決まる、と考えられる。犬上郡の村の数は95から119、領内全体では251から566ヵ村とほぼ倍になっている。なお、1石=10斗=100升=1000合

【田などの面積】 1歩(ぶ)<1畝(せ)<1反(または段)<1町(または町歩)
 (太閤検地で 3000歩(坪)を1町とする)
   1畝=30坪、1反=300坪、1町=3000坪、また、10反=1町
   1坪=1歩≒3.3m2<1畝≒99m2<1反≒990m2<1町≒9,900m2

【長さ】 1尺=≒0.303m、1間=6尺≒1.818m、1町=60間=360尺≒109.8m、
    1里=36町≒3927.3m(豊臣秀吉が36町里(≒3927 m)の一里塚を導入)
    1里は5町(≒545 m)~6町(≒655 m)の間(律令制崩壊後)
    1里 = 5町 = 300歩 1里≒533.5 m(大宝律令)

慶長18年(1613)、彦根の「関ヶ原の戦い」残党狩り
 大坂冬夏両陣における井伊軍の動静を誌した貴重な記録である。、、この時期井伊家中に石田の残党一類がいたという資料。
 北村勝兵衛は土佐長曽我部の旧臣であったが主家が没落後、流浪し一時、井伊家の老職中野助大夫方に身を寄せたことがある。
 中野助大夫内に北村兵吉という者が奉公していた。この兵吉、何か不都合があって主に召し捕られたが、、兵吉の親勝兵衛も討取れということになった。
 そこで、だれを討手にするかが中野一族の間で討議され、、半右衛門なら浪人だし係累がないから、、中野家にキズはつかない。、、半右衛門も元来が武功の士だから、、たしかな腕を井伊の重臣中野らに認めさせる好機であった。
 慶応18年1月9日朝、福富半右衛門(浪人)は依頼され、安養寺町に北村勝兵衛をまちうけ、これを殺した
一 勝兵衛刀抜ぬき合候時刀のさや二ツにわれ抜候て私に切付候・・・・
 勝兵衛は鞘のまま応戦した。半右衛門は勝兵衛を確認すると同時に名乗ってすぐ斬付けたのだろう。半右衛門の刀は同田貫であった。
一 同田貫の刀にて頭をわり申候勝兵衛ハ南枕東向にふし申候則ととめを指候て中野一門寄合い被居候所へ参候
 半右衛門が中野家に戻り、滞りなく勝兵衛を仕止めたこを報告したら、一門の主中野助大夫は景縄の刀と着物二つを褒美としてくれたという。そして覚書はその項の末尾に「右北村勝兵衛、古ハ石田治部少輔ニテ使番任候由申候」と締め括っている。石田の残党といっても、「使番」まで勤めたとすれば家中の中堅である。、、表向きになれば、中野の不吟味の責は免れない。それゆえ、内々に処理し、事を闇に葬ったのであろう。 (福富半右衛門親政法名浄安覚書) 『井伊軍志』449
・中野助大夫、慶長12年分限帳では1500石とある。
◎浪人・福富半右衛門の出自はわからぬが、「景縄の刀」と「着物」を褒美として受け取りましたか。なんとなあ~。「景縄の刀」はいいが、「着物」というところ感慨深いものがある。
石田治部少輔の残党とあればかなり厳しい処分が待っていたました。

*諸国の諸浪人分かちて当国佐々木浅井家の諸浪人、佐和山石田家之浪人共多数此辺之鄕中又は山中に隠れありしが御代治り候而以後当所江忍出て名を替え様子をかえて被召出御知行領して侍となるものあり、又は小役人足軽杯に出るも有り、其他郷中に居止り百姓共なり、町人と也て当所に而地割拝領したるも有る由 「彦根町家御地割のこと」(長谷川伝次郎文書) 『彦史』上419

慶長18年(1613)12月19日 バテレン禁教令、幕府は直轄地のものを全国に広げた

慶長19年(1614)11月 大坂冬の陣
冬の陣直前、重勝33才は妻子持ち(男子3人。長男権兵衛12才)、大坂に現れる。

慶長19年(1614) 12月 京都岩倉、北岩座山十二所明神灯炉奉納

慶長20年(1615)5月 大坂夏の陣
*大坂の陣 参戦者 浪人 (web 摂南大学法学部木村和成氏による) 一部を抜き出す、出典不明
身分氏名地位履歴等夏の陣当時の所属消息
諸侯長宗我部盛親(宮内少輔)土佐浦土22万石七将軍×処刑5/15
氏家行広(内膳正)伊勢桑名2万2千石 ×自殺5/8
家士真田幸村(左衛門佐)信濃上田3万8千 石真田幸村の子七将軍 
伊木遠雄(七右衛門)豊臣氏家士、黄幌衆(300石)真田、寄騎?敗走→不明
仙石秀範(豊前守)同上(5,000石)、信濃小諸5万仙石秀久子後衛 ?不明
松原重勝(五郎兵衛)岐阜織田家士、佐々成政の孫(五郎四郎) ○出家
隷下中内惣右衛門土佐長宗我部家士、家老長宗我部家、番頭○阿波蜂須賀家
▼「重勝は秀頼に仕える」(古都陽炎)という大坂の陣参戦の史料があるが、上記の史料から浪人の身分で仕えたということにならないか。[続き]

*正保3年(1646)1月15日 松原五郎兵衛重勝は京都にて死去(66歳) 青松院儼誉休意居士 。

元和元年(1615)頃 彦根藩、武士の衣食について
*同元年の「御定書」武士の衣食について
衣類は絹・紬(つむぎ)・木綿・紙衣(かみこ)を着用すべし。、、出仕する一日、十五日、二十八日には肩衣・袴を着、平常は袴だけでよいとしている。、、小者、中間について寛永11年の「定」は布・木綿・紙衣のほか帯・きんちゃく・下帯・小袖・羽織のえり・袖へりなど、絹物はすべて身につけてはならない、、 『彦史』中冊P424

*1615年大坂夏の陣の後、『禁中並公家諸法度』、『武家諸法度』、『寺院法度』が出された。これらの諸法度を起草したのは、いずれも臨済宗大覚派南禅寺第270世住職、金地院以心崇伝(いしんすうでん)である。キリスト教弾圧の引き金「伴天連追放文」を起草し、『国家安康』は家康公の名を引き裂く、と提案して豊臣家を開戦に走らせたのも金地院崇伝であった。
◎宗教の本来の姿とは如何なるものであろうか。政権との癒着が甚だしい。

元和元年(1615)5月 家康、大坂方牢人の探索を命じ、京都の町々に起請文を徴す
*大阪城陥落直後に、徳川家康側に赦免を得るために寝返った数名の大名が秀頼を裏切り、城に火を放って逃亡を図るが適わず、その場で城壁から突き落とされて死亡したとされている(長崎の平戸オランダ商館の関係者の報告1615年6月11日付)。
◎「残党狩り」はまだ大坂夏の陣が始まっていないころから進められる。
 4月 1日、幕府、畿内大名に大坂方落人狩りを命じる『家忠日記増補』
 5月 8日、大坂落城、家康、即日、二条城凱旋
 5月12日、大坂方牢人の探索を命じ町々に起請文を徴す『冷泉町記録』
 5月14日、大坂の町奉行水原吉一、京都に潜伏するが、発覚し処刑されて首級を二条城西門に晒される
 5月17日、京中の牢人狩りが進む (全国に向けて探索が始まる
  『京都の歴史』10巻

元和元年(1615) 本阿弥光悦、家康から鷹カ峯に広大な土地を与えられる
本阿弥光悦は本業の「刀剣の鑑定」をはじめ、あらゆる芸術の天才であった。鷹カ峯に一族縁者や工芸職人をあつめた。その中に紙屋宗二・筆屋妙喜などもいた。いわゆる鷹カ峯の芸術家村である。

元和元年(1615)9月、井伊直孝「振舞之掟」
*武士の食制も制服と同様に細かに規定していた。そのもっとも古く、かつ後々まで踏襲されたのが、、井伊直孝が出した「振舞之掟」である。
・食器として木具は一切用いてはならないこととし、二汁三菜と酒二通を原則とするが、珍客は例外であると規定している。(参考:一汁一菜
    振舞之掟
一、木具一切令停止事
一、二汁三さひ之外令停止事
一、酒二通たるへき事
一、後段令停止事
一、珍客ハ格別たるへき事
 右定置者也
  元和元年乙卯
    九月吉日  御名乗 (直孝)  『彦史』上563

元和3年(1617) 幕府は京都より狩野探幽を江戸に召し、幕府御用絵師とす
◎狩野探幽(1602-1674)の母は佐々成政の娘である。
*安土桃山時代に活躍したのは、天文2年(1533)生まれの海北友松かいほうゆうしょう、その6つ年少の長谷川等伯、さらに4つしたの狩野永徳である。
【狩野氏】
(狩野派祖) |---宗信 |---光信 ----⑤貞信 --⑦安信(*養子) 
①正信 -----②元信 --|---秀頼 |-④永徳 -- |---孝信  
  |-③松栄 --|---宗秀 : ----|-⑥探幽 -----
   |---宗也成政娘|---尚信 
     |---安信  
*狩野派の本拠地で朝廷のある京都は孝信自身が、大坂の豊臣氏には豊臣と縁故の深い門人の狩野山楽や狩野内膳を配置、更に宗家の貞信と自身の長男探幽を江戸幕府へ売り込むという三方面作戦をとり、権力がどこに移っても狩野派が生き残るよう万全を期した。孝信(1571ー1618)は 48歳で没す。

海北友松かいほう ゆうしょう(1533-1615)は、近江の武将綱親(浅井亮政の家臣)の子で、はやく東福寺に入り、狩野元信(永徳の祖父)に師事した。、、元信は自分の及ぶところでない(評価した)、、本人は画家よりも武士として生きようとしたらしく、友人斉藤利三が山崎の合戦で捕らえられて粟田口で磔にされたとき、長槍をふるって衛兵をけちらし、利三の屍をうばって真如堂に葬った。その気魄が、画風に躍動しているというべきであろう。
長谷川等伯(1539-1610)は、能登七尾の絵師道浄の子。仏画・肖像画を多く描いたが、三〇代後半に上洛し画技をみがいた。雪舟五代を称し雲谷等顔とあらそう。その後、名声の高い狩野永徳に対抗した。智積院ちしゃくいん大書院の「かえで」、金地院書院「老松」が有名。
狩野永徳(1543-1590)は、従来の障壁画が水墨画のながれをひいて画家の個性をより多くあらわすのにたいして、装飾性をより重視して、富と潤沢な気性の町衆の嗜好にあった濃厚な色彩を画面いっぱに展開した。、、それは当時発達した大建築と大衆性とに適合した。、、その後は、狩野派が主流をしめた。、、江戸狩野派と京狩野派(狩野山楽)の二分かれた。京都の寺院には、国宝・重文級の障壁画をもつところが多い。以上4つ『京都府の歴史』137

*同年12月、幕府は、洛中町続の町屋地子を免じ、領主に替地を与える。

元和4年(1618)正月 伏見の町人小林勘次が幕府に直訴
◎淀川およびその支流には「過書船」と「淀船」(別名を淀二十石船、過書座二十石船、淀上荷船ともいう)が就航して物資の輸送営業をほぼ独占していた。過書船は30石から200石積みで淀川本流筋を、淀船は20石積みないしそれ以下で、淀川支流筋に就航していた。「淀上荷船」は、名の由来にあるよう、淀川の渇水時などに大船の上荷を転載して淀川を遡航する。共に過書座支配下であるものの、この「過書船」と「淀船」の間で、船運上金ありなし・客の奪い合いで相論にもなる。
・伏見の経済が栄える中で、過書船の船仲間の横暴が激しくなり、船賃は高くなり、伏見・京都の物価が急激に上昇した。貨物諸仲間(主に樵木こりき屋、米問屋、材木屋の仲間)は、これを過書船奉行に訴える、が取り上げられず。そこで同年正月、伏見惣中の代表として小林勘次が幕府に直訴した。

【背景】
<伏見の陸運>秀吉によって京都、大坂や奈良へ通じる幹線道路が整備され伏見は活気を帯びる。伏見は、1600年の関ヶ原の合戦により伏見城や伏見市街地の大半は焼けるが、家康の軍事拠点としても重要で幕府の天領地となる。家康の再興政策もあり伏見市街地は立ち直りつつある。慶長9年(1604)、伏見南浜(現、寺田屋東)に伝馬所が設置され、常に百匹の伝馬がつながれ伏見は東海道54次目の宿駅となった(残り3駅、淀宿、枚方宿、守口宿を併せ57駅)。六地蔵札ノ辻にも会所が設けられた。
 伏見宿は他の宿場町に比べて大変大きく、人口・家屋数の違いは歴然で、伏見宿2万4227人に対して淀宿2847人、枚方宿1549人、守口宿764人。また、伏見宿の本陣4軒(南浜町と山崎町に各2軒)、脇本陣2件(南浜町と京橋町に各1軒)を比べても淀宿は本陣、脇本陣共に0件、枚方宿、守口宿は共に本陣1軒で、いかに多くの西国大名が伏見に宿泊したかが推察できる。しかし、旅籠の数は伏見宿39軒、淀宿16軒、枚方宿69軒、守口宿27件であった。これは伏見宿に寺院や藩屋敷が多く存在したので宿泊施設を旅籠で全て賄う必要がなかった事が一因と言われる。
 陸の輸送機関として、伏見「車方」が活躍し、聚楽組と六地蔵組が、その数は117軒、牛257匹を駆使して、電車が普及しだす明治十年頃まで、米穀・材木の輸送を一手に引き受けた、という。
◎「車方」とは、車借のことと考えてよいのかな。

<高瀬川舟運>伏見から北上して直接二条まで行けるようになる。角倉家は三条木屋町と伏見掘の口に番所を作り運航船を監視。船数は九月から翌年四月までが一番多く159艘で、そのうち伏見の船が110艘にもなる。伏見方面の船頭700余人、木挽こびき町、三栖みす竹田口などの高瀬川に沿った場所に密集し居住。特に木挽町筋は角倉番所を中心にして船頭達の町が作られた。
*物資の輸送は高瀬舟に集中したので、陸運業者は大きな打撃を受け、伏見組車方惣中は角倉家を相手取って訴訟を起こす。その結果、高瀬舟を三十六艘に制限し、四条木屋町まで「ばかり」を運送することと決められた。 以上『伏見の歴史』より

【伏見の繁栄】
*当時の伏見は大坂―京都間の物資の集散地として、伏見城廃城後も栄えた。米問屋仲間は七~九軒あり、毛利橋に正木延売買会所があり、堂島米市場の支店のようであった。この米問屋仲間・樵木屋仲間(薪炭商、丹波橋中心に疎水西側に136軒)・材木屋仲間(53軒)が軒を並べ、"伏見の三仲間"といわれていた。さらに、参勤交代の大名行列の発着地・伏見宿で、京橋(中書島の北、大倉酒造(現在黄桜記念館?)の西)がその中心地になり、りっぱな旅館も四、五十軒あった。いまの大倉酒造本店が馬借前とよばれ、貸馬67頭、六地蔵にも33頭の貸馬が準備されていた。『京都府の歴史』146
 伏見の繁栄は、、木挽(こびき)町には船頭だけでも700人いたという。また、九月から四月までの舟便の多いときは、舟数159艘、舟賃は一船一回2貫500文、うち1貫文は上納、250文は舟の加工代、1貫250文が所得となった。『京都府の歴史』152
◎六地蔵から北北西に八科峠まで上り、伏見街道へで出る街道がある。六地蔵には馬借が多いから、六地蔵や宇治の特産品を運ぶのに利用されたであろうか。

伏見宿の伝馬は、100頭もの馬を維持するのが困難で、助郷(幕府公認)を利用し、近隣の指定された村から人や馬の応援を依頼していました(伏見67頭、六地蔵33頭)。伏見宿は宇治川北部、久世郡、桂川と鴨川合流北部地域(鳥羽村)と広範囲に30ヶ村が助郷に指定されていた。

【三条街道】京都三条大橋から粟田口・日ノ岡を越え山科に到り、さらに逢坂関を越えて大津へとつづく道は、古来より東海道・中山道の一部をなす道として重視されてきた。そして、その三条街道の中枢に位置し、東国交通の要衝として繁栄したのが山科である。『京都と京街道』120 【粟田神社

元和5年(1619)8月 切支丹60余名が京、七条河原で火刑に処せられる
◎河川敷の処刑所
【鴨川など血で染まる】(頭の・印は秀吉によるもの)
*粟田口
 ・佐々成政の娘
 ・斎藤利三(山崎の合戦)
*一条戻橋
 ・成田道徳(佐々成政と共謀)
 ・千利休の首と木像が晒された(1597年)
  洛中と洛外、魔界や霊界との境界、吉凶を占う「橋占はしうら」の場所『花の都』
*三条河原
 ・石川五右衛門「盗人、、同類19人は磔」『言経卿記』文禄3年8月24日
 ・秀次の生首、秀次の妻とその子ども・侍女・乳母の計39人
  石田三成・小西行長・安国寺恵瓊「六条河原二テ生害、首三条橋辺二テ懸之、言語道斷之事也、貴賤群集也」『言経卿記』慶長5年10月1日
  長束正家(以上4名、関ヶ原の合戦1600年)
  嶋左近(大坂夏の陣)・近藤勇(新撰組隊長1868年)
*三条~四条河原
  公家・幕府要人多数(攘夷運動)
*四条河原
  本間精一郎(草莽志士、攘夷運動)
*六条河原
  藤原信頼・源義平(平治の乱)、平宗盛・平清宗・平能宗・藤原忠清(源平合戦)
  日野資親ら50人(禁闕(きんけつ)の変)、赤松満祐(嘉吉の乱)
  国松丸(6歳:豊臣秀頼の庶子)・田中六郎左衛門・長宗我部盛親(大坂夏の陣後1615)
  切支丹多数
*七条河原
  平将門の首を晒す(平将門の乱:天慶3年(940年))

元和5年(1619)より元和7年(1621年) 彦根、大網仕立う(魚)をひく
*元和7年(1621年)以前、片岡徳満、大網仕立代の借銀の返済経過について、木俣守安に説明する。
(木俣記録)
『未ノ年(5年)より酉年(7年)まで大あミひき申候人数、松原次郎右衛門、兵右衛門、助三、四郎左衛門、我等五人ニ而御座候、然者あミしたて申し候銀子土州様よりもかり申候、其外方々ニ而かり候てあミしたて(仕立)申候処ニ、う(魚)をひけ不申候てかり申候銀子すまし申候時めいわく(迷惑)いたし候、五人として、右之かり申候銀子わりふ(割賦)いたし、我等壱手前より九百九拾めにすまし申候、則我等ハ知行をかき(書)入済しきり申候、然上ハあミの銀子之儀落着申候、其後土州様より次郎右衛門かねかり申候て御さいそく可被成候、我等ハ不存候、土州様あミの御人数ニハ入候て次郎右衛門申うけ候由セうこ(証拠)無御座候、わけ分としてうを成共何にても上不申候、殊ニ奉行として御小者壱人不参候、我等次郎右衛門と談合にてとき過申候儀とりさた申候様ニ承候間、如此ニ候、巳上、
   霜月晦日       (片岡)徳満(花押)
  木 右京様(木俣守安)   』
 片岡徳満の没年が元和七年であるため、ここにに収める。(『新彦史7巻』710)

*(上記)元和七年まで船奉行をつとめた片岡徳満が大網魚に参画し、その網の仕立て代の借金返済に関わったもので、近世初期において武士が漁業に直接関与していたことがわかり興味深い。『新彦史7巻』20
◎片岡徳満、松原次郎右衛門、兵右衛門、助三、四郎左衛門の五人。片岡は彦根藩湖水船奉行(100石)、次郎右衛門は何者ぞ。片岡氏と次郎右衛門は旧知の仲か。次郎右衛門が松原五郎兵衛とすると、片岡氏は芦浦観音寺配下で、共にこの二人は肥前名護屋城在勤で合っている可能性ある。この次郎右衛門は[こちら]と関係しないか。井伊家が彦根入封の頃、まだ国人・土豪がそれなりの力をもっていた(姓をなのっていた)のでないか。

元和6年(1620)3月 切支丹法度を京、町々に通達する

寛永元年~21年(1624~44年) 徳川の支配体制はほぼ出来上がる
*【近江国】湖国においては、まず北に井伊家35万石をしづめ、湖南の膳所に戸田氏(のち本多氏)の城をおいて、事あればこの軍事力を動員する、、大溝や日野などの近江の要所には小大名をおき、水口にはわざわざ築城して大名を交代させる(天和2年加藤氏を入封して城番制は止んだ)と同時に、幕府領、他国大名領、旗本領、公家、寺社領など250余家もの領主がむらがりきりきざみ支配するという状態をつくりあげました。一村を2人の領主が分割支配したのはざらで、、、野洲郡の小田村では18人もの知行主が、、甲賀郡の牛飼村では、6人の領主がきりきざみ支配しており、、「近江の土地の多くが「行政」よりも「利」でしたたかに支配収奪された」といえます。松好貞夫著「天保の義民」 『庶民からみた湖国の歴史』111

◎幕府は京(朝廷)に近い国に大国を配置しない方針。譜代筆頭の彦根藩に西への睨みをきかせています。京に事あれば、彦根藩の早舟で駆け付け押さえる事を考えていたようです。小国に分散されていたこと、大きな統制がないこと、それが商人の活動を活発化する良い方向に影響したようです。長浜は彦根藩町奉行の管轄にあり、近江八幡は伊達藩などに分割され、大津は膳所藩のような小藩(3万石)であったようです。彦根藩も藩が経済的に潤えば商人の活動規制を緩和します。幕末に近づけば、藩はより多く幕府からの無理難題(御所の修理・警護等)にも答えねばならず、藩自ら殖産興業に身を乗り出します。

近江商人の活動は、鎌倉時代から始まり中世においてすでに近江国外にまで進出していた。その通商路は大体五つの方面であり、、その中⑤京都方面については暫くおくとして、、、その第一は①伊勢方面であり、、そのニは、②美濃方面、、次は③越前および④若狭方面であった。『彦史』上P286
・北海道の松前や江差に入った近江商人の出身地は、99%が八幡と柳川・薩摩の出身者で、寛永年間(1624~1644)に集中している。(このとき松前藩は3代目藩主松前氏広(1622-1648:8代目)のあたりだ。)
・限られた地域から北海道にわたった理由として、中世より敦賀・若狭との交易があり、また敦賀・若狭は松前藩と密接な関係があることがあげられる。、、、藩士自ら商取引を行うという状況、、もっとも早く北海道に着いたのが、柳川出身の田付新助とも建部七郎右衛門ともいわれる。 『近江商人と北前船』108
・一方、近江商人とは違って城下町彦根の人々(商人)には、封建的な市民意識が可成り長くかつ根強く存続し、これが彦根の商業の近代化と発展に抑止的に作用したものということができるであろう(『彦史』下P277)。
◎よって、城下町の商人は近江商人となりうるものでない
・松前藩の親元といえる、若狭国守護の武田氏は九代武田元明のとき、天正10年(1582)山崎の合戦で明智光秀に与し自刃し、断絶します。元明の継嗣である義勝は、武田姓を憚り津川姓を称し、親族である京極高次に仕えます。高次が関ヶ原の戦いの功により若狭一国の主となると大飯郡高浜城5,000石を与えられ、また佐々木姓を称することが許され、京極家重臣に列します。江戸時代の丸亀藩家老・佐々九郎兵衛はこの末裔といわれている。

【松前氏】若狭国の守護(二代信賢)の子・武田信広が蝦夷地に渡り、(北海道檜山郡)上国花沢館の初代・蠣崎季繁(かきざきすえしげ:?-1462)に身を寄せたが、その後、季繁に気に入られてその婿養子・2代目蠣崎信広(1431-1494)となった。和人武士団とアイヌとの間でコシャマインの戦い(1457年)に功績があり、勝山館を築城している。この後、蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥鮭・ニシン・獣皮・鷹の羽(矢羽の原料)・海草を入手し、対価を鉄製品・漆器・米・木綿などで支払っていた。
・蠣崎(かきざき)慶広(6代当主:1479-1545年)は安東氏(安藤氏、秋田氏)の支配を脱する。慶長4年(1599年)、徳川家康への臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上。家康からアイヌ交易の独占権を公認(慶長9年(1604))され、さらに従五位下伊豆守に叙位・任官された。「松前」に因んで慶広とその子供たちのみ苗字を松前に改めた。これらを以って、松前氏を大名格とみなされる。
・2代藩主公広(7代当主:1598-1641年)のとき、1620年に福山館の城下町を整備し、商場を知行として家臣に分与する商場知行により家臣団を確立している。

【彦根藩】三湊(長浜、米原、松原)の船主は船仲間を組織し、これを船年寄(船年寄問屋ともいった)が統括した。平時は商船(戦時は水軍利用)となり運上金を納めた。泰平の世が続くにつれ商船としての役割がより重要になる。いずれの湊(港)も大津との間の貨物輸送に活躍しました。

寛永6年(1629)10月 京都所司代板倉重宗、町人脇差など五カ条の禁令を京・町々に触れる
◎板倉重宗は京都所司代の三代目。父重勝が二代目、初代は奥平信昌である。これまでの室町幕府のものは侍所所司代である。鎌倉幕府では六波羅探題が相当する。

寛永7年(1630)10月 板倉重宗、牢人抱置禁止・新寺建立禁止を触れる

寛永8年(1631) 幕法、新寺の建立が禁止され、檀家の固定化が推進

寛永10年(1633) 小谷山(長浜市495m。浅井氏の居城小谷城跡)が彦根藩領となる
*「御札山」は七カ村の請村(巣ヶ谷、伊部、尊勝寺、郡上、脇坂、下山田、上山田)より冥加金・草柴運上・杭用木などを貢納するようになったものである。「御札山」とは、柴草採集の権利を地元民に与え、その許可証として草札、柴札の名で鑑札を発行したが、その札をもって入山せしむる山を一般に札山と云った。 『彦史』中冊249
*藩有山林の一部または全部を近隣の村(請所村。一ヵ村の場合も数カ村に亘る場合もあった)に貸与して、造植林をはじめ山林経営と管理の実務とを、種々な山林果実の利用と引き換えに、一定の冥加金・運上金の上納をもって請負わせたものである。これを「請作」といい、年限をきったものと恒久的なもの(永請)との二種類があった。 『彦史』中冊247
*小谷山の運上銀徴収の様子、、山を上々山・上山・中山・下山・下々山の五等級に品等割りし、それぞれ反当たり二匁、一・五匁、一匁、八分、三分宛の運上銀を課している。元和元年(1615)十月には小谷山の請所村七カ村で合計五貫五〇八匁一分八厘の銀を負担した訳である。 『彦史』中冊247
◎農家が山を持っていることが多いが、昭和の農地改革の「田」の場合と同じようで「入山権?」を持っていたものが、その後に分割所有したのでないか(私見で申し訳ない)。

寛永11年(1634) 中江藤樹 郷里の小川村(現、滋賀県高島市)、私塾・藤樹書院を開く
*近世の近江で庶民が「学問」にふれた先駆けは、藤樹書院でした(寛永16年(1639)、藤樹32歳の頃には塾としてもひとつの形ができあがっていた)。藤樹のいる青柳村(現、滋賀県高島郡安曇川町上小川225の地)では百姓の物腰や顔つきまで違うそうだといううわさが、遠い他国まで評判になったそうです。寺子屋庶民の中から自然発生的に学びたい者と教える者との集まりという形態で始まりました。近江ではその数460といわれ、、彦根藩下では寺子屋数159軒、、師範には農民身分もいて読書、算術、裁縫が教えられました。(この数字は幕末の数字でないかな)『庶民からみた湖国の歴史』123
◎全国的に見ても、近江の私塾・寺子屋はかなり早く(1640年代)始まっています。
*中江藤樹(1608-1648) 農業を営む中江吉次の長男として誕生。9歳の時に伯耆米子藩主加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。藩主が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住。1622年(元和8年)祖父が死去し、家督100石を相続。27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩し京に潜伏の後、近江に戻った。
・近江国出身の江戸時代初期の陽明学者。通称は与右衛門、藤樹と号した。藤樹の説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し江戸の中期頃から、自然発生的に「近江聖人」と称えられた。

◎熊沢蕃山(1619〜91年):江戸前期の陽明学派の儒学者。字は了介。京都(現、京都市下京区)の浪人、野尻藤兵衛の6人兄弟の長男として誕生。8歳の時、母方の祖父、熊沢守久の養子となり熊沢姓を名乗る。岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕。一旦は池田家を離れ、近江国桐原(現、滋賀県近江八幡市)の祖父の家へ戻る。寛永19年(1642年)近江国小川村(現、滋賀県高島市)中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶ。再度、岡山藩主池田光政に仕えて、全国に先駆けて開校(1641年)した藩校「花畠教場」を中心に活動。慶安3年(1650年)知行3,000石の上士に累進(家老)。慶安4年、庶民教育の場となる「花園会」の会約を起草し、これが蕃山の致仕後の寛文10年(1670年)日本初の庶民学校として開かれた「閑谷学校」の前身となった。治山・治水・明暦の飢饉対策に功績をあげたが、大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらし、39歳で職を辞し、各地で講学・講述に従った。『大学或問 (わくもん) 』などの政治批判により幕府ににらまれ、下総(茨城県)古河に幽閉され、そこで病死した。享年73。幕末、蕃山の思想は再び脚光を浴びるところとなり藤田東湖、吉田松陰などが傾倒し、倒幕の原動力となった。
▼学ぶということはいかに大切なものか、人の人生を決定づける。学問を積むと物腰や顔つきまでちがってくるそうな。
◎彦根藩に「藩校」ができるのは遅い

寛永11年(1634)7月 三代将軍家光、京へ上洛
*このあと幕末まで将軍上洛はない。このときの上洛は、30数万人という京都の人口とほぼ匹敵するような武士がやってきて、先発隊が京都に着いているのに、行列はまだ江戸城を出発する人もいたというような状況でした。、、この時期には、室町時代の侍所所司代に由来する、京都所司代を中心にして西日本を支配していくシステムが、八人衆による合議制であったと、、京都所司代の板倉重宗、淀藩主の永井尚政(十万石)、長岡藩主の永井直清(一万石)、大坂奉行の久貝正俊と曽我古祐、堺奉行の石河勝政、総括の奉行の五味豊直、小堀政一(遠州)です。五味と小堀の二人が調整して八人の意見をまとめていくという合議制でした。『京都の歴史3 町衆の躍動』143
所司代の職務は、京都の護衛、朝廷や公家の監察、京都町奉行,奈良奉行、伏見奉行の管理、畿内(山城、山徒、河内、摂津、和泉)・近国(近江、丹波、播磨)の天領の訴訟の処理、西国大名の監察など。定員1名、3万石以上の譜代大名から任じられた。役料1万石が給され、与力30騎(のち50騎)、同心100人が付属した。
・同年7月、京・町年寄りが二条城に伺候し、家光は銀子五千貫うぃ京都の町人に与える。
京都所司代板倉重宗、切支丹禁制による宗門改、寺請制度を公布する。

寛永12年(1635) 三代将軍,徳川家光、参勤交代の明文化
*『武家諸法度』が改定、第二条で「大名小名在江戸交替相定也、毎歳夏四月中可参勤」と規定される。諸大名は一年おきに江戸と国元を往復することが義務が発生。元和3年(1617)以降には東国と西国の大名がほぼ隔年で参勤している状態となっていた。

寛永12年(1635)10月 京都所司代板倉重宗、京・町々潜伏の切支丹の密告勧める
*町々は切支丹禁制遵守を起請し帳面を作る。『京都の歴史3 町衆の躍動』略年表

寛永14年(1637)10月25日 島原の乱、勃発(~1638年2/28終結)
*江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の五人組制度を継承。村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて、村では名主・庄屋(町では町代・町年寄)の統率下に組織化し、統治の末端組織として運用した。

*寺沢広高の領国の石高誤算。広高は、秀吉死後、徳川家康に近づき、慶長5年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの戦功報償として肥後天草を加増された。このとき広高は天草の石高を合計約四万二千石と算定(飛び地を含めると12万3千石)したが実態の倍という過大な値であった。このため以後の徴税が過酷となり乱勃発の一因とされます。乱の平定後、寺沢家は責任を問われ天草領は没収、失意の堅高は後に自殺(正保4年(1647)に江戸の海禅寺で自殺)し寺沢家は断絶した。
◎はじめの検地が如何に大事か、正確にしなければ国が滅ぶ例です。

◎1637年11月22日、島原へ陣中見舞い(御見舞)ノ御使者として(幕臣)佐々権兵衛等数名、1638年2月27日、御目附役として川勝丹波守、佐々権兵衛、日根野織部正が島原へ派遣されている。ここの権兵衛は松原五郎兵衛の孫でなく、佐々長成の子で佐々権兵衛長次です。成政と同族でしょうが。

寛永14年(1637)、大倉治右衛門が「月桂冠」を創業
伏見城下町の外濠に面した南浜界隈で創業。初代の大倉治右衛門の出身地、京都府南部の笠置にちなんで屋号を「笠置屋」とし、酒銘は「玉の泉」と称す。

寛永15年(1638)、幕府直轄地、「宗門改め」を実施

寛永15年(1638)夏 京都、伊勢おかげ参りが大流行
*『京都の歴史3 町衆の躍動』略年表 これ以前には、中世において、お蔭参りの前段階として、集団参詣が数回見られる、と。
・数百万人規模のものが、およそ60年周期(「おかげ年」と言う)に3回(京都では1638、17051830年か)起こった。江戸からは片道15日間、大坂からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北地方からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。お陰参り(伊勢神宮への集団参詣)が「抜け参り」とも呼ばれたのは、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。
・庶民の移動には厳しい制限があったといっても、伊勢神宮参詣の名目で通行手形さえ発行(武士の場合は藩庁に申請、庶民の場合は町村役人または檀家の寺に発行)してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参詣をすませた後には京や大坂などの見物を楽しむ者も多かった。流行時にはおおむね本州、四国、九州の全域に広がったが、北陸など真宗の信徒が多い地域には広まりにくかった傾向がある。
・「お伊勢講」講の所属者は定期的に集まってお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。誰が代表者になるかは「くじ引き」で決められる仕組み。旅の時期は、農閑期が利用される。なお、「講」の代表者は道中の安全のために二、三人程度の組で行くのが通常であった。
全国的には、慶安3年(1650)であるようだ。慶安のお蔭参りは、記録が少なく、詳しいことはわかっていない。「寛明日記」によると、江戸の商人が流行らせたと言う。箱根の関での調べによると、正月下旬から3月上旬までで一日平均500-600人が参詣し、3月中旬から5月までで平均2100人が参詣したという。参詣するものは皆「白衣」を着ていた。
 参詣者:不明 当時の日本総人口:1781万人(1650年) 発生地域:江戸 期間:1月~5月

【 通 貨 】江戸時代では、金貨・銀貨・銭貨の3種類の硬貨と、各藩が財政難の打開策として独自で発行する紙幣の「藩札」があります。ここでは、硬貨について限定します。
 幕府は、1608年に永楽通宝の通用禁止令を出し、独自の銅銭、慶長通宝や寛永通宝を鋳造し、永楽通宝をなくしてゆきます。関西では銀貨が主要通貨で、関東では金貨が主要通貨と聞いていましたが。上級武士は金貨、下級武士と商人は銀貨、一般大衆は銀貨と銭貨(せんか)を使用していた、ともいいます。金貨と銭貨はその枚数で、銀貨は丁銀・豆板銀など形状に無関係で合算の分量で、用いました。江戸中期以降、一分金・一朱金に相当する一分銀・一朱銀が発行され、丁銀の重要性は失われました。[戦国大名は]
 庶民の財布の中には、銀貨(一朱銀、豆板銀)や銭貨(文銭)が入り交じり入っていたようです。勿論、1両小判なんかは高額で入っていません。
mame ▼金1両を7万5千円で換算すると、
  鰻丼   100文 (1900円)
  そば1杯 16文 (304円) (★覚えて!)
  豆腐1丁  12文 (228円)  1文が19円ほどに
 金1両を13万円で換算すると 1文が32.5円で、
  100文の鰻丼  3250円
  16文のそば1杯 520円
  12文の豆腐1丁  390円  になります

【江戸幕府が決めた公定相場】
・慶長14年(1609):金1両=銀50匁=銭4貫文(4000文)
・元禄13年(1700):金1両=銀60匁=銭4貫文(4000文)
※幕末、慶応年間(1865-68)になると、金1両=銀150匁=銭10貫文(10000文)にもなったようです。 web『日本食文化の醤油を知る』より

▼小判・一分金(銀)や文銭の金銀銅の含有量が悪くなっても、次は変化がない。
1両=4分=16朱=4000文(4貫文)、1分=4朱=1000文、1朱=250文
[具体的に]
 金1両=二分金(銀)2枚=一分金(銀)4枚=二朱金(銀)8枚=一朱金(銀)16枚
 金1両=天保銭40枚=4,000文(4貫文) 「一分金」と「一分銀」は等価
▼丁銀は、なまこ型の秤量貨幣。40匁(=150g)前後で一定していない。丁銀と同じ質の豆板銀と組み合わせて一定量とし、封包み・両替屋の捺印をして用いられることが多かった。良質なものは慶長・享保のもので銀銅の割合が80対20で、もつとも悪いものは安政のもので13対87であった。両替屋では、その質と量でもって両替された。
 豆板銀は、10匁以下のもで、0.1~0.3匁は露銀(つゆぎん)といいます。通常は1匁(3.75g)が多く、67文銭相当で「16文のそば」4.2杯食べられた。

★二朱銀(7.5g)・一朱銀(3.75g:1匁)や一分銀(8.63g:2.3匁)は額面が記載された計数(表記)銀貨。「金1両=二分銀2枚=一分銀4枚=二朱銀8枚=一朱銀16枚で交換しますよ」、というだけのこと。二朱銀が安永1年(1772)や文政7年(1824) に発行されたときは、含有量(質)がほぼ98%もの、一分銀が天保8年(1837)に発行されたときには、有量がほぼ90%近いものもあった。時代が下ると質と量でも劣るものが現れた。幕末期、一朱銀(250文)とは「お台場」とも呼ばれ、品川湾の岸防備・台場(砲台)人夫の日当分であった。
 明治4年になり、一両分つまり万延二分判金や明治二分判金の2枚を、新貨幣単位「円」の1円金貨となるように、またその金含有量が米国の1ドル金貨の価値に近いように決めた。なお、二分判金のように「判」が付くのは、小判と同様に"美しい"という美称であるという。

札 差」藩士の禄米を藩の米蔵からの、受け取りや売却の代行をする商人。
「両替屋」手数料を取って、小判、丁銀、豆板銀および銭貨を交換する商人。
土 倉」鎌倉時代および室町時代の金融業者で、現在の質屋のように物品を質草(担保)とし、その質草に相当する金額の金銭を高利で貸与した。

寛永15年(1638) 大坂廻米の始まり
*西廻海運は日本海沿岸を西南に廻り、下関から瀬戸内海に入り、大坂に至る海運のことである。東廻海運は日本海沿岸から津軽海峡を(経由し)北廻で太平洋岸に出て南下し、房総半島を迂回して江戸に達する海運である。両海運ともに江戸時代初期にすでに開拓されつつあったといえる。例えば山陰の鳥取藩は寛永15年に米1万五千石を、翌年には加賀藩が米百石を西廻で大坂に廻漕している。加賀藩は正保四年(1647)に蔵宿を大坂に置き、明暦期(1655~58)以後は城米のほとんどを大坂に廻漕するようになったという。
・西廻海運は距離的に長く、途中海難の危険性も高かったが、荷物を積み替えることなく大坂に直送でき、費用も安くすんだため、寛永期以後徐々に盛んになっていった。万治二年(1659)に、幕府は出羽最上郡の幕領米を江戸商人の正木半左衛門等に請け負わせて、西廻で江戸に廻漕させた。

寛永16年(1639)、幕府は、ポルトガル来校禁止令
◎鎖国は、2代将軍秀忠で始まり3代将軍家光の治世で完成した。1612年、明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定し、1637年の島原の乱で鎖国はほぼ決定的になった。これまでの取引・場所の選択があるから2年ほどずれる。キリスト教国の人の来校、日本人の南東アジアへの出入国禁止し、貿易を管理統制する。1633年~1639年まで5回の鎖国令がだされた。出島で中国・オランダは許可。

寛永17年(1640)、幕府は、寺請制度を設けて、宗門改役を諸藩に設置を
*キリシタンでないことが証明されると、宗門改帳(宗旨人別帳)に記載されます。一度定められた寺院を変更することは出来ません。定められた寺院を檀那寺といい、記載された人を檀家とか檀徒(施主)といいます。こうした制度を寺請制度と言います。
1660年「宗門人別改帳」の作成が全国的に始まった。そして、寛文4年(1664)には諸藩に対して宗門改役を設置し、さらに宗門改めを毎年実施するよう命令が下された。
◎1640年幕府直轄地に、1664年に諸藩に、宗門改役を設置することを命じたのでないか。

寛永17年(1640) 京都、三条筋の郭が島原へ移転
*京都所司代板倉重宗が太夫の道中を官女の通行とまちがえて道をさけ、事実を知って激怒したからだという。"島原"という名称は、島原の乱後にできたとか、移転の騒ぎが当時の島原の乱に比定されたからだとかいわれる。江戸初期は、京都でも"千人斬り"という辻斬りがあらわれて人々を恐怖のドン底におとしいれたが、殺伐の風が去ると、遊里が栄える。、、その最上級の太夫などは諸芸を身につけた。吉野太夫などは、灰屋紹益しょうえきが恋敵の公卿と張りあい、1300両で身請けし、父から勘当されたという。、、赤穂義士の大石良雄がかよったのは島原でなく、伏見の橦木しゅもく町で、いまは衰えているが、ここはやや低級な遊里であった。もちろん、いかがわしい街娼も出没した。とくに賀茂川原は広く、屋台もできて大いににぎわったが、同時に風紀のみだれから、所司代がいっせいに手入れをしたこともあった。『京都府の歴史』158

【島原の沿革】
①義満の傾城町(現、東洞院通七条下ル)が日本の公娼地の始まり。
②桃山時代(1589年)、秀吉の許可にて、二条万里までの小路に「二条柳町」。
③江戸時代の1602年、六条付近に移されて「六条三筋町」、吉野太夫などの名妓が輩出。
④1641年には朱雀野付近(朱雀大路あたり、特に、千本七条、丹波口付近)への移転「島原」と呼ばれる。島原は元禄期に最も栄えたが、立地条件が悪かったこと、また格式の高さが原因となって祇園町、祇園新地、上七軒、二条などの遊里に人が流れる。
⑤1873年、島原女紅場(のちに歌舞練場)が設置。嘉永4年(1851)の大火で揚屋町以外の島原のほとんどが焼失。祇園新地で仮営業をしていて、大半が島原に戻ることなく街は寂れていった。

寛永18年(1641) 京都岩倉 実相院の義尊、大雲寺本堂の再建
*実相院義尊大僧正は足利義昭の孫にあたる。宮殿(厨子)は東福門院(後水尾上皇中宮)による寄進。これ以降、実相院が大雲寺の住職を兼任する。大雲寺は檀家を持たない寺。

寛永19年(1642) 前年よりの冷害凶作で大飢饉となる(寛永の大飢饉)

寛永20年(1643)12月 将軍家光の切支丹禁制への強い意向
*翌、寛永21年にかけて、井伊直孝は領内のキリシタン改めの実施を国元年寄衆に命じている。、、キリシタンが諸国を徘徊し、改めの厳しいところから改めのゆるいところへ移り、詮索を逃れていること、また知行取だけでなく足軽や下人にもキリシタンがいることもあるもでよくよく改めること、請人のないものを一切召し抱えてはいけないこと、女性にもキリシタンがいるので注意することなどを命じている。また、翌年正月には、改めの対象を、知行取・切米取・とその妻子および召し使う男女、町中の男女と下人、村々の男女、城下・村々の乞食とし、さらに居住をもたない出家・山伏・行人や他国の商人に注意を払うよう命じている。『新彦史2巻』596
◎「請人のない」とは、「保証人のいない」もの、ということ。「素性なき・わからない者は領内に入れない」ということだ。これは幕末まで続く

慶安元年(1648)2月22日 京都岩倉、岩蔵殿・万年岡に、後水尾上皇などの御幸
s_mannen *同日の岩倉御幸は、女院や、女三宮顕子内親王のほか女中衆も伴い公家衆多数が従ったが、この時にも(管領・板倉周防守)重宗が騎馬にて先駆し所々に番所も設けている。この岩倉殿ははやくから院の御殿(岩倉法親王様御殿)と女院御殿とがあり、山上にも茶屋が営まれていたようである。
*後水尾上皇は、寛永18年(1641)以降には、洛北方面へ足を向けることが多くなり、聖護院宮の山荘の近くに長谷殿、顕子内親王の山荘のなかに岩倉殿、そしていまの円通寺(臨済宗妙心寺派)の地に幡枝御所が営まれ、女院としばしば御幸があった。長谷にはすでに聖護院宮の山荘があり、1620年以後は、後水尾院の弟、道晃法親王が住んでいたが、正保四年(1647)十月六日未明、院は東福門院とともに松茸狩に出かけたおり、ここに立寄っている。 上2つ『「京都の歴史」五巻 近世の展開P184』[御所の火事にて岩蔵御所へ避難]
岩倉は松茸狩りでも知られていましたか、四代将軍・足利持義(1386-1428)も「松茸狩り」をしていました。『京都の歴史』三巻 近世の胎動P93』
・万年岡『後水尾天皇皇女・女三宮御茶屋舊(旧)跡地』(昭和4年建立)から東に、川や藪を渡った東南に、「岩蔵殿」が広がっていたのでしょうか。ここでは、「岩倉殿」でも「岩蔵殿」でもよいようです。

[円通寺] 元は後水尾天皇の山荘であった幡枝御殿。修学院離宮の造営に伴い、幡枝山荘は近衛家に譲渡され、後の延宝6年(1678)、寺に改め、皇室の祈願所となった。妙心寺10世の景川宗隆を勧請開山としている。
[幡枝八幡宮] 宇多天皇の治世の894年に、石清水八幡宮を勧請して「王子山八幡宮」と命名したのがはじめ。社名かわり、幡枝八幡宮は、皇室の勅願所として代々の天皇から年々の御寄付を受けている。末社に「針神社」があり、針の守護神として信仰を集めて、毎年12月8日に「針供養」が行われている。

慶安2年(1649) 幕府、「慶安の御触書」を発す
*「酒茶を買のみ申間事」「麦・粟・稗・采・大根そのほか何にても雑穀を作り米を多く食いつぶし候はぬよう」「百姓は衣類の儀、布木綿よりほかは、帯きもの裏にも仕るまじき事」
*【彦根藩】も元禄12年(1699)、家老木俣清左衛門らが、「一、百姓つぶし候も正道、又百姓をつぶし不申も正道、又百姓をつぶし候も非道、つぶし不申も非道、、」、、「農は国の本」ともちあげながら、実際は過酷な農民統制を行ったのである。 『彦史』中冊P468

慶安3年(1650) 京都、鴨川が洪水となる

慶安5年(1652)3月15日 彦根藩、松原村舟入之口
*松原村舟入之口、横十八間、中ニテノ横三十二間、長サ船入之口ヨリ橋迄二町八間、常水之深サ四尺五寸、此内ニ船数五六拾艘懸リ可申事 同所へ大船荷積申候テモ出入自由ニ御座候事 『彦史』中冊P328
・舟の出入口は横幅32.4m、中の横幅57.6m、舟出入口から橋まで長さ232.6m、深さ1.36mとなる。松原湊(幕初1652年)の規模、水深は浅い。当時、この松原湊(港)に艜船(ひらた船)2000(領内)ほどあるという。1間=6尺=1.818m (松原湊の200年後の様子はこちら

*「松原村大郷となりし事は井伊家(直孝公(1615~1659年)の御代)になりて後の事と云。今の前川と」云ふも、出先川口も、井伊家になって後出来しなり。、、又長浜、米原、松原此三港にて御城付の御用船120艘という。其内37艘は松原持、60艘は長浜に持居る也。其外又飯之浦(伊香郡)桝川(愛知郡)抔とも大船を持湊なれども、是等はわけありと見へて小湊也。古代今の世継村にも大船を持ち居たりと云う。」(海落穂集)『彦史』中冊P326
◎上記「御城付の御用船」は丸子船のことで雇船だ。通常は商船で、事あれば藩の軍船として使用される。
*江戸時代の松原は「松原村」という農漁村であると同時に、彦根城に隣接する湖の玄関口「松原湊」でもあったので、城下町に準ずる地域でした。松原湊は、琵琶湖と松原内湖をつなぐ前川沿いの地域を指し、藩の御用を担う船持たちが住んでいたので、年貢を免除されていました。「御城下惣絵図」(1836年作成)も参照。

承応2年(1653)2月11日、井伊直孝 松原下田を埋立て
◎井伊直孝、「松原蔵不足ニ候」につき、米蔵と水主の住宅を建てるため、松原下田を埋立て命じる。「元之地主に」替え地を用意したようだ。下田とは「下田」という場所でなく、上田・中田・下田の「下田」でないか。「下田」に水主をおき、「ふね一艘ニ付舟こき弐人乗と申し遣し候」と。『新彦史7巻』672

承応2年(1653)3月15日、直孝 非常時に備え船数増のため、船役銀の軽減検討を命ず

承応2年(1653)12月 彦根藩、吉切支丹法度を高札にして掲示
諸藩の藩法は寛文3年(1663)の武家法度および元禄10年(1697)の自分仕置令(大名の裁判・処罰権の範疇の定)によって「万事如江戸之法度,於国々所々可遵行之事」を命ぜられてから、その内容は、少数外様の雄藩を除いては、大ていは幕府の法令と同様であり。殊にその傾向は江戸中期以後において甚だしいものがあった。彦根藩が譜代筆頭であることは、この場合、その最右翼であることを意味してもいよう。もっとも、こまかい点では、やはり現地の実情に即した法律制度を実施していることも当然のことであったろう。、、幕府の法令は主として高札により、諸藩の場合は主として五人組を利用して、領民に伝達せしめたようである。、、高札とは,掟・条目・禁令など板に書き、人目をひき易い街道筋や市場などに掲示したものをいい、その場所を高札場といった。
 「法度」・・「何々をしてはならぬ」という禁止条項を多く含む
 「仕置」・・「諸給所方御仕置」などと称し、知行取が知行所における処務お心得を、、
  「」 ・・従来の法令をあらためて持ち出す、、「覚」だから軽視できない
  「触」 ・・比較的広く一般に知らしめる
  「達」 ・・関係の方面だけに通達するもの    『彦史』上P550
・(高札)の材は檜板が原則とされ、已むを得なければ、梅、杉、松材を用いてもよい。長さを二尺七寸、厚さを一寸一分、雨掩(おお)いの板についても、、高札場としては18カ所があり、そのうち、「彦根城下町」としては伝馬町(現一番町蓮花寺前四ツ角)、その他は、、街道繁華筋が利用され、、
・高札場 彦根城下、番場、鳥居本、高宮、愛知川、山崎、北国街道藤川、小谷、木之本、越前境中之河内、舟着飯浦、長浜、朝妻、米原、柳川、多賀、沖之島、南之郡高野 『彦史』上P553
◎彦根藩の町奉行は寺社奉行も兼ねた。彦根城下および長浜町を担当。町数51、1873軒(内町は中堀と外堀の間で19町611軒、外町は外堀の外で32町1262軒:安永7年(1778))。奉行二人、町年寄・町代・横目・五人組組頭を指揮した。筋奉行とともに元川町に役宅を持ち、司法的および行政的任務を担当した。 『彦根郷土史研究9巻』1
◎彦根藩の筋奉行所(他藩の郡奉行)は、国内28万石、551ヵ村、58,213軒を南・中・北の三筋に分けた。各筋に奉行二人、代官二人を置いて、各村の庄屋・年寄・横目・組頭を指揮する。現在の彦根県事務所や彦根市消防署の位置に置かれていた。町方の奉行所も此の位置にあった。飛び地(2万石)の、下野国の飛び地1万八千石は佐野に代官所を置き、、武蔵国世田ヶ谷の弐千石の村々は、その地を大場氏に、、 『彦史』上P544

承応3年(1654)10月30日 京都、後光明天皇崩御、力者の勅使供奉
大雲寺力士(力者)には、力者頭がおかれ、古来より「竹王」「竹徳」という名を称した両役が任ぜられた。そして、江戸時代初期に大雲寺の支配にともなって「竹王」「竹徳」の力者役の身分が「公人中間」の預置きということになった。すなわち、宮中の下役の役人扱いで、身分も社家に属する社人、神人、寺家に属する寺人、親王家や大臣家に属する家人と同じ扱いになっていたわけである。
 古文書の記録をみると、後光明院、東福門院、後水尾院といった頃から、桜町院、後桃園院、盛化門院、青綺門院、開明門院(死、1789年)と皇室の天皇や皇后や女御などの棺をかつぐ役目をうけていたことが明らかである。同じような力士(力者)は園城寺・長谷寺・三室戸寺にもおかれており、かっては園城寺長吏による力者統轄権をめぐって紛争もおきている。紛争がおきているところをみると、それなりの権利や権威を持っていたということで、特殊身分の確立ともかかわって興味深い。

明暦3年(1657)12月、 彦根藩三湊の主張、敗訴
◎彦根藩の保護を受け、藩の御用を務める船を繋留する港として松原・米原・長浜(彦根藩三湊という)の船が、大津百艘船と競合し、軋轢を生じるようになる。これまで「商人の荷物であれ大名の荷物であれ、大津から積み出す場合は、他藩の船に積ませず大津百艘船が扱ってきた」というもの。畿内近国の代官支配を担当した「上方郡代」の五味豊直・水野忠貞に訴えた。結果、大津百艘船の主張が認められ、彦根藩の争論の原因となる「沢山(佐和山)他屋」の問屋、伊兵衛・六兵衛の二人が追放(万治元年(1658))となる。
・「上方郡代」は京都郡代か。寛永11年(1634)、五味豊直が京都の代官奉行に任じられ、二条城の西側に陣屋を設置したために「京都郡代」と呼称されたのが最初と言われている(→京都町奉行)。

万治2年(1659) 幕法、切支丹改の役割の責任を檀那寺と定める(1662年との2回)
*京都所司代(四代目)牧野親成、京・町々に座や仲間の結成を禁止する旨を触れる。

万治3年(1660) 彦根藩 9月布令、農民の転居・転職に対する制限
[彦根] 「覚」
一、郷中ニ請人なき奉公人、壱人も置申間敷事
一、男女共ニ、他所へ郷中より奉公人一切遣し申間敷事
その他、年季は10年を限りとすること、必ず請人をとること 『彦史』中冊P491

*農民の他所奉公の禁止、他領との縁組の制限。農・商の地理的・身分的分離に努め、分離したものの固定化をはかり、農民の向都離や商人の農村進入を防止することに努めた。、、奢侈しゃしの風が農村に浸潤することを防ぐことにあった。、、元禄12年(1699)、江戸詰衆が国元から奉公人を呼寄せる事について厳重な規制が設けられた。『彦史』中冊P24

*直孝以来、年貢の四公六民の原則は幕末まで堅持され、、取り立てていうほどの大規模の一揆は見られなかったが、、直弼の大老時代の施策の罪の追罰として蒲生・神崎の両郡において10万石の領地を召し上げられた時、両郡の農民が、彦根藩領に復帰されんことを藩庁に強訴して全面的な一揆を起こしたことによっても、いかに藩の農民施策は好ましいものであったかが知れよう。   『彦史』上P435

寛文 1年(1661)4月 後水尾上皇、御所の火事にて岩蔵御所へ避難
*延宝 3年(1675)3月28日の御幸を最後、同年閏4月26日に女三宮没し、延宝8年8月、後水尾上皇も没す。
*延宝7年3月「岩倉御殿御屋敷惣図絵」に、岩倉御殿の敷地は東西70間(約127m)、南北62間(112m)。東に「法皇御殿」、西に「女院様御殿(女三宮の御座ノ間含む)」が建ち、、南北に門を開け、、南の門の脇に、、留守居が住んでいたようです。敷地の西に川が流れ、敷地と川の間は藪とあり、、北門のすぐ外に「御茶屋道」があり、川を渡った「万年岡」には「御茶屋」と書かれた小さな建物があります。さらに西には「観音山」があります。、、中在地地区の岩倉川東岸あたりであると、、『洛北岩倉』107
◎この由緒ある「万年岡」が国有林になったものの、昭和4年1月23日に、石座神社への払下げられました。

寛文4年(1664)4月 寛文朱印状
*幕府から個々の領主に対して、領地判物・朱印状などの所領給付を示す文書を与えていたが、寛文4年(1664)3月7日に全国の大名に対して一旦これを返納することを命じた。続いて、4月5日付で全国の大名に対して同時に第4代将軍・徳川家綱の名義によって同一書式の領知判物・朱印状・領知目録を交付したのである。なお、万石以上領地を有する大名として御朱印・目録留が交付されたのは合計219家に上るが、甲府徳川家及び館林徳川家と徳川御三家は対象外である。翌寛文5年(1665)には、公家・門跡・寺社などに対しても同様の措置がとられる。
『寛文朱印留』判物・朱印状通数と石高集計 (石以下は切捨)
宛先(通)合計(通)半物(通)朱印状(通)石高
大名2195116816,071,844
門跡2723427,388
公家97148337,861
諸社365 36583,975
浄土宗155115413,054
日蓮宗86 863,399
真言宗86 22639,830
天台宗119 11735,233
法相6  6,763
時宗41 412,894
一向宗17 171,436
曹洞宗261 2617,812
臨済宗132 13218,967
比丘尼27 274,428
院家12 12951
集物7 73,002
総計1,830921,73816,359,096
家綱による寛文印知を受けた寺社は1507箇所に及ぶが、日光山東照宮・大献院廟領1万3630石8斗6升9合、久能山東照宮領3000石など、主要な寺社が漏れていた。また50石以下の小寺社への頒布も実施されなかった。比丘尼(びくに)とは出家して戒を受けた女性、尼僧のこと。(以上、Wikipedia)
◎合計1830-大名219-公家97-集物7=寺社1507箇所(門跡、比丘尼、院家を含む)
 石高1636万-大名1607万-公家3.7万-集物3万=寺社22.3万(1.36%) 寺:寺社22.3万-諸社8.4万=13.0万(0.85%)
大名:98.2% 公家:0.23% 寺:0.85%:諸社0.51% 集物(不明):0.02% 
合計99.81%(石以下は切捨により100%にならない)
◎多少もれた部分もあったが、寺社領は寛文四年(1664)に22.3万石が、幕末(慶応4年の項目参照)には63万石と3倍近くになっている。朱印地だけを考えると22.3万から33.3万と、1.5倍になる。単純に、藩の取りつぶしの石高が寺社の方に回っていると考えてよいものか。
*天草代官鈴木伊兵衛重辰が役替を命じられ、畿内天領五万石の支配および代官奉行管掌の禁裏御用を引き継ぐ。(京都代官の成立)『京都の歴史3 町衆の躍動』略年表

寛文5年(1665)、彦根藩、町人の衣食住、祭礼行事等について倹約を
一、町人屋作致軽少、長押・杉戸・付書院・くしかた(櫛形)・ほり物・組物無用、床ふち(縁)・かまち(框)塗候事並唐紙はり付停止之事、
一、町人衣類上下、其分限に従ひ、沙・綾・ちりめん・りんす(綸子)・毛織之類・羽織・かつは(合羽)等迄所持仕候而も一円着仕間敷候、猶以軽町人ハきぬ(絹)・紬・木綿・地布之外一切着仕間敷候、付町人刀をさし彦根中をあるき申間敷候事、
一、嫁聚之刻、万事成程軽可仕候、付刀脇指出し候儀、無用ノ事、
一、町人振舞成程軽すへし、縦有徳たりと言とも一汁三菜不可過之事、
一、金銀之から紙・はま(破魔)弓・はご(羽子)板・ひな(雛)の道具・五月之甲、金銀之押し泊一円無用之事、
一、祭礼之渡り物不可結構、かるく可仕候事、
一、葬礼・仏事うとく(有徳)の輩たりと言とも成程軽可仕候事、
:  (以下省略)   『新彦史7巻』319
◎これまでは町人でも脇差をさし歩いていた。
*秀吉政権の刀狩は百姓・町人などの武装解除ではなく、以後も多くのものが武器を保有していた。江戸幕府は当初、銃刀規制に積極的ではなかった。帯刀免許制という長州藩。天草・島原一揆に、危機感を募らせ「全国への武具取り上げ」をたびたび老中へ提言をした肥後藩(細川忠利)。逆に、天草一揆後、天草藩へ国替えになった山崎家治は前領主が集めていた一揆方の多くの武器(刀脇差1450本、鉄砲324挺の全て)を幕閣の承認を得て、元の村内へ返却している。江戸町民も長刀・長脇差以外の一般の1尺8寸(約54cm)までの脇差の装備は1720年(享保5年)でも布令は無くとも慣習として行われていた。そして1683年までは、旅立ち・火事・葬礼時の町民の帯刀二本差しも許容されていた。
・しかし、「文治政治」の導入に伴って、17世紀後半に再び帯刀規制に乗り出した。1668年(寛文8年)3月令で、江戸御用町人以外の帯刀を禁止(長刀に関しては町人帯刀の禁止をして、武士の身分標識としたが、なおも脇差の制限はなかった)し、後1683年(天和3年)に江戸町民全ての帯刀を禁止して、それは全国的に拡大していき17世紀末には国中に広がった
苗字については百姓・町人階級にも祖先や家名が存在するが、これを公の場で用いる事(公称)を禁止する事で差別化を図った。具体的には宗門人別帳などの公文書への記載が許されず、墓碑銘や過去帳など私的な場合に(私称)おいてのみしか使用が認められなかった。(Wikipedia)

寛文5年(1665)11月、高宮町、宿の規模や助馬村等について幕府に報告
『  一、高宮宿、高29、023石6斗2升 町通之長、7町26間(約810m) 家数498軒
     此のわけ
     弐拾五疋 御伝馬役者  弐拾五人 歩行役之者
     問屋権衛門  庄や四郎右衛門・次兵衛・孫兵衛、四人
     (以下省略) 』     『新彦史7巻』607
★問屋は1人、庄屋は3人。問屋は非常に重要な役柄(家数498軒の中で1軒)。
 高宮宿の問屋は代々塩谷家(権衛門?、次右衛門、次郎右衛門、冶右衛門)が勤めた。
 番場宿の問屋は仁左衛門、城下伝馬町の問屋は外村三郎左衛門。

*10年後の延宝3年(1675)
『  一、高宮宿、高29、023石6斗2升 町通之長、7町26間
 家数496軒、本役 196軒、問屋 1人、庄屋 3人、肝煎 6人、年寄 4人
               (以下省略)      『新彦史7巻』609

寛文8年(1668) 京都町奉行ができる
◎江戸幕府成立以来、京都とその周辺の行政は京都所司代及び京都郡代が管轄していたが、その職務が過重となってきたために、京都代官を置いたりと、いろいろと変遷があった。
・同年に入ると、京都所司代(四代目)牧野親成の退任も決まり、これを機に所司代が担当していた京都市中に対する民政部門を統合して京都町奉行が成立し、宮崎重成は初代東町奉行、雨宮正種は初代西町奉行となった。老中配下であるが、任地の関係で京都所司代の指揮下で職務を行った。京都町政の他、畿内天領および寺社領の支配も行うため、寺社奉行・勘定奉行・町奉行の三奉行を兼ねたような職務であった。定員は2名。役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。配下には与力20騎と同心50人が付いた。
・所司代から民政上の権限を一段階下の町奉行に移管することによって、江戸からの命令が直接に畿内近国へ入るようにしたのです。江戸からの所司代へは命令が出しにくいので、京都に町奉行を置くことによって江戸からの支配を強化したいというねらいでした。『京都の歴史3 町衆の躍動』148
・四条河原における歌舞伎興行を許す。同、略年表
  |-側衆  
 |-大老|-大目付 
 ||- 
 |-老中  --|-町奉行 (江戸)|-郡代
 将軍 -| |-勘定奉行 ---------------------------------|-代官  
 ||-宗門改 (大目付・作事奉行兼務)|-勧定組頭
 ||-城代  (駿府・二条)|-金・銀・銭座
 | |-町奉行 (京都・大坂・駿府) 
 |-側用人|-奉行  (伏見・長崎・奈良など他8) 
 |   
 |-若年寄 --|-書院番頭 
 |-奏者番|-小姓組番頭 
 |-寺社奉行|-目付 
 |-京都所司代  
 |-大坂城代  

heian07 [地図の解説] (地図7)
①地図は、延宝・元禄の頃(1673~1715年)のようす。
②高瀬川は、角倉了以が1611年に開削を終了させる。屋敷地に舟入を設け舟で積荷を運べる。高瀬川の二条より南へ、角倉与一氏、毛利氏、前田氏、宗氏、京極氏、、と屋敷・舟入が続きます。
③洪水を避け、御土居は鴨川三角州から三条では2~3重に造られています。
④川原町(河原町)通・樵木町通(先斗町通)は洛外にあります。
島原(西新屋敷)が洛中の南西に出来ています。
⑥秀吉の政策により、80ほどの寺院が集めら寺町(図の緑地帯)ができました。
⑦御土居の内外に村落が見えます。
⑧新たに120m四方の「」の中央に、縦や横通りを多数造っています。[天明・文化の地図へ]

寛文9年(1669)11月 京都、鴨川筋新堤の築造が開始
【寛文新堤】北山にある桟敷ケ岳(895.8 m)を源とする賀茂川と、途中越を源とする高野川が出町柳付近で合流する鴨川に対して、洪水対策と護岸工事を目的に堤防建設が行われる。これまで部分的には行われていたが、上賀茂から五条までの区間と大規模に行われたことはなかった。右岸は今出川より下流部,左岸は二条より下流部で、石積(石垣と呼んだ)になっていたものの、それらより上流は基本的には土積で、護岸の目的でその前面には蛇篭(じゃかご)が設置されていた。(京都・鴨川の「寛文新堤」建設に伴う防災効果 𠮷越昭久氏)[寛文新堤は天明・文化の地図7で確認]
◎この工事により現在の川幅になった。

寛文10年(1670) 京都、先斗町の原型がつくられる
*今出川通から五条通までの区間に寛文新堤が設けられ、御土居との間が新たな市街地として開発された。(鴨川左右両岸とも、川→石積→開発地→御土居となっているが、御土居は石積に取り替えられていく)
・現在の先斗町は、上記の三条通の一筋南から四条通までの部分で、鴨川と木屋町通の間を南北に走る細長い(現在は石畳の狭い)通りを指している。もとは鴨川の州だった。
・この地に水茶屋が初めてもうけられたのは正徳二年(1712)の頃といわれ、 初めは高瀬川を上り下りする高瀬舟の船頭や旅客目当ての旅籠屋が茶立女を置いていた。安政6年(1859)になって芸者嫁業の公許が下り明治5年(1872)に鴨川をどりが初演され、先斗町は花街としての花を開かせた。

z_gion [祇園界隈の地図]
*鴨川畔の市街地化が急速に進む。寛文10年、京都・大和大路に沿って祇園外六町(弁財天町、常盤町、廿一軒町、中之町、川端町・宮川筋一丁目)が開かれる。このころ、初期豪商の多くが没落する。『京都の歴史3 町衆の躍動』略年表 (祇園新地六町は1705年のこと)

*豊臣秀吉が築造した御土居によって洛中=町、洛外=村の区分がなされたが、京都町奉行管轄の洛中にあっても、そのすべてが都市化されたわけではなく、農業社会として展開した地域も随所にあった。、、これら洛中洛外の境界領域を含め、近郊農村は都市住民相手の農業を特色とし、とりわけ蔬菜そさい(野菜、青物)の栽培が活発であった。『拾遺都名所図会』(天明7(1787)刊,5冊)にも取り上げられている。
【御土居組十二ヵ村】北小山・西京・壬生・中堂寺(以上御土居内)・上鳥羽・西九条・東塩小路・西塩小路・西七条・大将軍・鳴滝・木辻(以上御土居外)をいう。
【地名の付いた京野菜】肥料も良く効きすくすくと育つわけだ
 鹿ヶ谷 南瓜かぼちゃ、  聖護院 大根・ 蕪菁かぶら胡瓜うり、 吉田 大根、  南禅寺 大根
 田中 唐辛子とうがらし、  山科 茄子なす、  賀茂 茄子、  堀川 牛蒡ごぼう、  聚楽 牛蒡・ 蕪菁、
 壬生 菜みぶ な、  中堂寺 大根、  九条 ねぎ、  大亀谷 大根、  桂 うり、  桃山 大根

寛文10年(1670) 山城国伏見街区近郊図
z_hushimi 【古地図の説明】 黒枠は伏見奉行支配領域。街道は赤線。北(上)から竹田街道が南へのび、その左に高瀬川が見える。その東に伏見街道藤森神社の西側を走り「栄春寺」で行き止まる。比較的幅広く両側に樹木が植わっているようだ。中央より左下の橙色の部分は城下町で、その中央を右上から左下へ、城の外濠がカクカクと走っている。これを濠川と呼んでいるようだ。城下町の中、白ぽく広い部分が散在しているは大名屋敷である。城下町の東端を南北に走るは京町通。その東側は次第に山手になり、地図の中央から右に、既になき木幡山伏見城の「本丸」の字が見える。山城の東は山科盆地の南部である。地図の下、東から六地蔵・観月橋・中書屋敷(中書島)と西へ向かって宇治川が流れている。観月橋の北西に(伏見)奉行屋敷、その北に御香宮が見える。古地図で、道と川が同じ色になりわかりずらいが、道には赤線が入っている。(現在の地図はこちら) [高瀬川]

寛文11年(1671) 幕府は宗門改帳を法的に整備
*宗門人別改として定期的に調査を行うように義務付ける。
寺請制度と宗門人別帳であるが、これは宗教政策の皮をかぶった農村政策である。寺請制度の実施にて、農民は必ずどこかの寺の檀家となり、仏教教団に身分保証を依存せざるを得なくなった。本山からの収奪下にあった末寺は、農民への搾取、仏教式葬式の義務化や法事(お布施強要)の回数を多くする等をした。農民は拒否すれば、寺請証文を貰う事ができず、キリシタンの烙印を押されたり、村八分にあったりする可能性が大きく、この末寺の強要に従うしかなかった。檀家になると仏壇を持つことが命じられた
◎「仏壇(位牌)を持つことが命じられた」とされるから、「古い家」というのは、この辺りの位牌がある家でしょうね。

寛文12年(1672) 河村瑞賢が西廻り航路を開設、前年に東廻り航路を開設
*西廻海運の安全性が高められたことは、敦賀・小浜にさらに大きな打撃を与えることになった。庄内藩(山形)では延宝元年(1673)に初めて蔵米の大坂送りを行い、天和元年(1681)に敦賀送りと両方をとるようになった。また敦賀に蔵屋敷を置いていた津軽藩でも、延宝六年(1678)より西廻による蔵米輸送を行っている(『敦賀市史』通史編上巻)
◎西廻り航路では、湾岸の敦賀・小浜に立ち寄らず通過し大坂へ行くということであろう。
*幕領米の江戸廻米にあたって、、奨励策がとられたが、江戸まで近いという利点はあるものの、(東廻り航路は)東北沖の速い潮の流れに流されてしまう危険があり、西廻海運ほどには発達しなかった。河村瑞賢も寛文12年の酒田(山形)からの廻米に西廻りを採用している。
*京、大坂(「天下の台所」)へ物資の集積地としての大津が米の運送石高が30万石もあったものが、(西廻航路を開設により)50年後の貞享年間(1684-87)ではわずか1万石未満に減り、大津や湖北の海津のさびれ様は目に見えてきました。 『庶民からみた湖国の歴史』123
◎大名の財産は、すべて米の石高で換算し推定するが、生活必需品等を購入するには、物々交換の社会でないので、米を現金化する必要がある。それ故、より市場規模の大きい大坂に米を運び込む必要がある。これまでの東北の諸藩も敦賀・小浜から琵琶湖北岸の海津から大津湊を利用していたわけだ。西廻り航路ができたため、大津湊で扱う米が30万石から1万石に激減した、というのだ。
*京都の人口、延宝2年2月40万8千723人を数える。『京都の歴史3 町衆の躍動』略年表

延宝2年(1674) 伏見の里、桃の名所となる

延宝3年(1675)4月 京都・四条や五条の河原に餓死者
*前年の洪水のため京畿は飢餓となる。四条や五条の河原に餓死者が多く見られ、幕府は北野七本松と四条河原で粥施行を始める。

延宝4年(1676)11月11日、彦根藩筋奉行、蓮台寺村に年貢を割り付ける
  
  本高  
一、三百七拾九石壱斗八升 犬上 蓮台寺村
   物成百七拾四石四斗弐升三合 四ツ六分 
右者当辰之年御物成各相談之上如此相極間、来霜月廿
日以前ニ急度皆済可仕者也、
  延宝四年辰十一月十一日  河 六兵衛(印)
  山 甚五右衛門(印)
  (他4名略)
   右之村庄屋
   横目
   惣百姓
『新彦史7巻』117
◎河□六兵衛は河野六兵衛、山□甚五右衛門は山川甚五右衛門のこと。けっこう省略形で記されている。
・1676年11月11日から霜月(11月)20日までに、174石4斗2升の米を納めること、と。 納めるまでの期間が短い。正保2年7月領内一般四公六民を基準。379.2石×0.46=174.4石 (四公六民はあくまで原則か、379.2石×0.4=151.2石のはず?)
年貢米を納める松原御蔵が松原湊にあるので、ほぼ全ての年貢米が舟でいったん琵琶湖へ出ることになります。その年貢米は、城の北西の松原湊から入り、松原御蔵に納めるか大津蔵屋敷行かで「米宿」で仕分けられます。大津蔵屋敷へ行ったものはいったん蔵に収められ、さらに大坂蔵屋敷行か、そこで売払い金に換えられます。
・松原湊には水上権を一手に掌握する水主町がありました。御舟方の役所や造船所もあり、藩の御舟奉行の統括するところでした。藩の年貢米の貯蔵(松原御蔵)と大津倉屋敷への転送が商人が介在し行われていました。
・藩船はほとんどなく大体は雇船であったので、利益を商人に持っていかれました。その反省で、ずいぶん遅いですが1857年には大船(藩船)を建造することとなります。事あれば、雇い船が藩船として軍事利用されました。

延宝6年(1678)6月、山城国一斉検地が終了
*延宝5年3月、畿内近国の天領総検地が命じられ、巡検使派遣が命じられ、この6月、六尺=一間、三百歩=一反の基準による初めての検地が終了。検地総奉行は淀藩主の石川憲之の家臣石川伊織、検地元締には伴九朗右衛門と加藤善太夫が当たる(清水孝男家文書)。『京都の歴史』10巻P317

◎延宝8年(1680)8月後水尾上皇が没す。同年8月19日、法皇皇女明宮、林丘寺を開き入寺する。岩蔵殿は荒れ果てた後、田畑の耕作地となったのであろうか。御料であることには違いがないだろう。実相院領の「号石座御殿」の関係がどうなのか。

貞享元年(1684) 鯖街道、京都から若狭小浜の道は「枚挙ニイトマアラズ」
*「鯖街道」は、言葉としては戦後の新しいものですが、古くから若狭湾でとれた鯖に代表される魚介類を京都まで運んだ幾筋もの道の総称として使われています。京都から若狭小浜その他へ通じる道は、黒川道祐が同年に著した『雍州府志』に「枚挙ニ遑(いとま)アラズ」と述べているように、間道捷径を含めてあまりにも多くの道がありました。(百街道一歩の道中記より)
*小浜市の東敷を通り、熊川、朽木、そして花折峠を越えて京都に入り、そこから大原三千院から八瀬を経て、京都七口の一つ大原口へと通じる経路、距離にして約80キロ、運搬人は15貫(約56キロ)ほどの荷を背負い、二日がかりで運んだという『歴史で読み解く京都の地理』。
【雍州府志】(ようしゅうふし)は、山城国に関する初の総合的・体系的な地誌。全10巻。歴史家の黒川道祐によって天和2年(1682)から貞享3年(1686)に記された。

z_demachi [絵図の説明] 秀吉がつくった御土居が確認できる。今出川の賀茂大橋、荒神口の荒神橋、丸太町の丸太町橋がいずれも見られない。ただ、枡形通の先に假橋がある。この位置は現在の、出町柳駅の西の賀茂川に架かる出町橋、高野川に架かる河合橋に相当する。御土居の「桝形の構造」が桝形通と荒神口の東端で見られる。桝形の構造自体は三方から外敵の侵入を防ぐ構造とされ、多くの城で採用されている。延宝・元禄の頃の絵図でないだろうか。

【大原口】今出川通の鴨川(右絵図,賀茂川)西詰め付近に今出川口とある。これは大原口(京の七口の一つ)のことで、近くに大原口町とその南の大原口(真如堂)突抜つきぬけがある。この辺りは中世に大原の辻とも呼ばれた。寺町今出川の東北角には慶応四年(1868)建立の大きな道標があり、江戸時代には、八瀬・大原をへて若狭や近江に向かう街道の出入り口となっていた。寺町今出川の東は行き止まりで、道はいったん寺町通を立本寺りゅうほんじ町へ上がり右折、現在の桝形ますがた通を東に向かって鴨川に出、假(仮)橋を渡り、川東の田中村へ渡るルートとなっていた。江戸時代の古地図(右図)では桝形通の東端は、御土居と鍵の手の桝形との組合せ構造になっていて、防御施設の雰囲気を漂わせている。、、桝形アーケード街(桝形商店街)に生鮮食料品店が多いのは、ここが若狭から運ばれた魚類の搬入口であったことにちなむものだろう。また、現在に大きな三角州があるが当時は見られない。
[道標]
東 下かも・吉田・真如堂・ひゑい山・黒谷・坂本越
南 かう堂・六条・清水・六角堂・祇園・三条大橋
西 内裏・金閣寺・あたご・北野・御室
北 上御霊・くらま・今宮・上がも・大徳寺
      上2つ『京都と京街道』38
s_oguchi ・若狭の鯖(さば)は、腐敗を防ぐため塩でしめて、早朝、小浜を出発し、昼夜歩き続け翌朝京へ到着。着く頃には、ちょうど良い味加減になっていた。鯖のほか、アマダイ(グジ)、イカ、カレイも運ばれた(歩き続け一日がかり)
・若狭街道・鯖街道は古代、大陸の表玄関であった若狭から、大陸や朝鮮の文化が峠を越えて京都や奈良に伝えられた重要な道でもあった。中近世には、象やオウムなどの珍奇な動物が将軍に献上されるためここを通ったといわれる。

元禄3年(1690)3月27日 京都岩倉 大雲寺本尊の開帳(実相院宮義延法親王)
*参拝人相手の茶屋114軒。出店料は実相院に納める。これ以降多くの参詣人が常に集まる。必仏開帳は131年目で、7/27までの四ヶ月間。
*元禄の頃(1688~1704年)は、岩倉の「本百姓」に「侍分中間」「明神宮役中間」「公人中間」の三つの組織があって、全体で「本百姓」をなしていた。その「公人中間」の預置が力士(力者)たちであった。 『京都岩倉実相院日記』176(預置されたのは、、[続き])
◎実相院の収入には、金貸し業と出開帳があった、、[続き]
・大雲寺が参籠人で賑わうのは1697年以降である。

元禄6年(1693) 彦根藩、遊興の取締まり
*藩は茶屋を公然と認めていたわけではなかったばかりでなく、一切の遊興に対して禁止政策をとった。井伊直興の掟書には、
一、ばくち、双六、諸勝負並辻たち、ほうからけ、こうた、たかこゑ仕ましき事
一、物見参詣致へからず候、(付)せんたうのゆ風呂へ入候儀並けいせい町へ出入かたく停止事
また元禄6年(1693年)の触所は、
一、碁、将棋、双六盤、惣而遊興ケ間敷義、一切無用之事
と、ほとんどの遊興の取締まりを行っている。 『彦史』中冊509
◎逆に言えば、お盛んだったということだろう。以後は 修まったかな。

元禄7年(1694) 中山道の完成 東海道の完成は寛永元年(1624)
z_oumi ◎美濃より近江を経由し京都まで、宿駅は
 今須(美濃国)--(1里)--柏原--(1里半)--醒ヶ井(さめがい)--(30町)--番場--(1里6町)--鳥居本--(1里半)--高宮--(2里8町)--愛知川--(2里半)--武佐--(2里半)--守山--(1里半)--草津--(東海道:3里24町、途中勢多)--大津--(東海道:3里、逢阪の関)--京都・三条大橋の行程。
 中仙道は正徳六年(1716)以降「中山道」とした(犬上郡志・高宮町史P132)。[中世、近江の宿駅]
 内彦根藩に属するものは番場-鳥居本-高宮-愛知川の四駅である。宿駅には一定数の人馬(50人50疋(びき))を常備する定めであった(東海道は100人100疋)。

*北国街道は米原より始まり、湖北を通って越前に向かう街道である。次は彦根藩領属する宿駅および駅間の距離、常設伝馬数である。
 米原13疋--(2里8町)--長浜16疋--(3里28町)--木ノ本25疋--(2里11町)--柳カ瀬27疋--(1里)--椿坂25疋--(1里19町)--中河23疋。

*(宿駅の)常置の人馬をもっては不足を告げる場合には、周辺農村の人馬を課徴してこれを補ういわゆる助郷の制度も整っていた。 『彦史』中冊P285
*宿駅には宿役人の問屋と年寄がいて、一方に一般の村政を司る庄屋と横目がいる。宿駅たる村では駅務が最大の村政事項であるから宿役人が村役人を兼務することも多かった。
 村政 村役人の庄屋、横目
 駅務 宿役人の問屋、年寄
    ①荷物・書信の継立て
    ②宿泊施設 大名・上級士族の宿泊:本陣・脇本陣
                 一般人:旅籠屋(はじめは木賃宿)
運用を定めが「伝馬の規定」であり、問屋がこれに当たった。一般の旅籠屋とは、はじめはいわゆる木賃宿(食材を持ち込み、薪代相当分を払う)であったが、後には設備待遇等も整い、客引きを立てて旅人を誘い、寝具酒食を供にするに到り、ついには飯盛女という一種の遊女を置くものさえ現れた。『彦史』中冊285
彦根の伝馬町は、中山道の鳥居本宿や高宮宿と彦根道で彦根城の内側に引き込まれていて、宿場町のような役割を担っていました。馬25疋、人足25人が用意され公用の荷物を、鳥居本・高宮まで運んでおり城下町の物流の拠点として機能していました。ただし、普通の宿場町とは違って、参勤交代の大名や旅行者が通るわけでないため、宿泊施設(本陣、脇本陣)はありませんでした。  「まち遺産ネットひこね」より

【大津宿から京都・大坂へ行く】
大津宿から京都や伏見に入る場合に、まず髭茶屋ひげちゃや追分(山科追分)の分岐点で「三条大橋行」と「伏見宿行」があります。
<大名行列>分岐点で、東海道(三条街道)からはずれる「伏見宿行」へ目指します。伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿と辿り、高麗橋が東海道の終点となります。東海道は53次(宿)ですが、実はあと上記4つの宿場が設けられていました(東海道57次です)。大名行列がわざわざ髭茶屋で三条大橋行(京都)を避けたのは、幕府が参勤交代をする大名に公家との接触を禁止したからです[少し詳しく]。
<観光客>その多くは分岐点で「三条大橋行」を選び、東海道で京都へ入ります。しばし京都観光をして、大坂へは鳥羽街道や伏見街道にて南下し、草津湊や伏見湊へ行きます。その後は大名行列と同じ経路です。
 なお、髭茶屋追分の分岐点で「三条大橋行」へ進み、この先の「五条別れ」の「右ハ三条通」「左ハ五条橋・ひがしに六条大佛、今ぐまきよ水道」(宝永4年(1707)建立)と刻まれた道標まで来て(現京都薬大前)、この道を南下する(道標で左)と渋谷越えで京都へ入る方法があります。現在この道は、大谷本廟の南を通る国道1号線の1本南側の道です。上記の「左ハ五条橋・ひがしに六条大佛、今ぐまきよ水道」は「左は五条橋、東西本願寺、大仏方広寺、今熊野観音、清水寺方面」を意味する。
<物 資>その多くは二つの分岐点で「三条大橋行」を選択します。「伏見宿行」へ目指すものは、山科盆地から六地蔵を経由し伏見へ入ります。

元禄8年(1695) 彦根藩、長寿院(大洞弁財天)の建立
【長寿院】創建は元禄8年。彦根城の鬼門の地、内湖の東、佐和山の北西部に弁財天を勧請し、彦根領内の領民25万9526人から浄財を募って建立したもの。『大洞弁財天祠堂金寄進帳』は彦根城博物館に保存されている。
*「大洞弁財天祠堂金寄進帳」は、士農工商、貧富貴賎、老若男女、僧俗を問わず、領民一人残らず一文拠金を行わせ、生まれたばかりの赤ん坊から老人に至るまで寄進者名を上げる。四民の家族構成、町の商工業者の職業を記載。その名簿は80余冊に上る。
*寄進帳によると領民は総計259、526名であり、このうち城下の町方人口は53カ町で15、505人(大津御多屋134人を含む)であった。この外に35カ寺に在籍の出家、下人および住民が741人と武家に在籍する武士・陪臣および彼等の家族(滋賀県史の推計によれば約19,000人)が彦根城下に常住しており、その合計は35、246人と想像できる。 『彦根郷土史研究9巻』5
*元禄8年の領内人口:近江国内の分 185,369人
             近江国外  74,157人 総計259、526名
 近江国:71.4%、185,000人 城下が 36,000人
              その他が149,000人
 となる。
 城下人口
 寺社人口約750を含む36,000人 うち武家19,000人
                   町方15,500人 「滋賀県史」
と推定している。武家と町方の比は55対45である。
 城下町といっても、堀の中と外にもある。「城下」とは「城の周辺(近辺)までの範囲」ということのようだ。これに対して支配地域を「領内」というようだ。『彦史 上』645

元禄8年(1695) 井伊直典、古城主並びに屋敷主228人の霊を弔う
*井伊家四代直典のとき、大洞山に弁財天を奉納した際(元禄8年)、本地堂に近江国にある藩領内の古城主並びに屋敷主228人の霊を弔って、背面の壁に金文字でその戒名と俗名連ねた。『彦史』上269

元禄8年(1695)頃 彦根藩、「切支丹御改五人組帳」の奥書
*【彦根】奥書にも「関カ原御陣大坂御陣之刻、御敵方一手之大将分扞物頭其咖出頭人之子孫男女とも壱人も無御座候事」と幕末まで厳重に探索させているところから考えても、町人や農民が、自分達の祖先のことが不本意に誤解され、探索されるようなことは一切しなかった。 『彦史』上269
*【城下町の職種】(39町分、14町分が散逸して不明、四十九町組が欠けるか)大工126と米屋100が断然群を抜き、煙草屋95、古金屋80、魚屋76、油屋59、塩屋56、鍛冶屋54、紺屋53、桶屋46、小間物屋43、菓子屋36、酒屋34、紙屋33、豆腐屋29、木綿や27、茶屋27、めし屋4、町料理人3(長曾根より出火1687年以降の史料であろう)

元禄8年(1695) 井伊直典、古城主並びに屋敷主228人の霊を弔う
*井伊家四代直典のとき、大洞山に弁財天を奉納した際(元禄8年)、本地堂に近江国にある藩領内の古城主並びに屋敷主228人の霊を弔って、背面の壁に金文字でその戒名と俗名連ねた。『彦史』上269

元禄8年(1695) 元禄郷帳
◎江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの地図と郷帳が作成された。郷帳は一国 ごとに村名・村高を書き上げた帳簿。
*元禄と天保郷帳(1834年)に、長谷村、中村、花園村と並んで「北岩倉村」とある。もちろん岩倉村のことだ。北岩倉村の名称は京都の四つの岩蔵から来ている。明応5年(1496)の実相院文章の記録に「実相院門跡領山城国北岩倉郷内福田庵分、山畠山林屋敷等当知行地事」とみえる。しかしこの頃、北岩蔵郷はさらに細分化されていたらしい。同じく大永2年(1522)に「北岩蔵西八郷」の名がみえ、北岩蔵郷は東西二郷に分かれていたことが推測される。『京都市の地名』97(岩倉と岩蔵が混在しているが拘ることないようだ)
◎北岩蔵は「内裏」から考えての岩蔵全体だから、「北岩蔵西八郷」は「岩倉の西八郷」という意味である。岩倉は大きくは東西の郷に別れ、西については、中在地・忠在地・上蔵・西河原・下在地等の八郷(後の八町)に分かれる。東西の郷の東は長谷・中・花園等であろう。

元禄10年(1697) 京都岩倉、大雲寺観音院に籠もり眼病が治る
*山端村嘉兵衛、ナタが眼に当たって失明し、さらに膿漏眼をわずらっていたが、同10年、大雲寺観音の宝前に籠もって読経にはげんだところ、ついに両眼が開いたという。この時期に参籠(さんろう)人が定着していったと思われます。(宝永3年大雲寺の日記)『洛北岩倉』115 参籠:祈願のため、神社や寺院などに、ある期間こもること。
参籠人対象業務もこの頃より始まる。

元禄10年(1697) 彦根藩、長曾根より出火城下町の大半を焼失
◎この出火にて、四十九町手組の14町分の資料が燃えたと思われる。

元禄11年(1698)頃 京都岩倉、権少僧都 恕融『大雲寺堂社旧跡纂要』編纂

元禄11年(1698)8月 伏見、役人の坪井祐佐は幕府に「伏見船」の創設を進言
◎伏見船は、過書船・淀船(共に過書船仲間)の独占営業のためか、非常に衰微状態であった。延宝4年(1681)の船数は、過書船449艘、淀二十石船453艘という。伏見の繁栄を見かねた江戸からの見廻り役人が、商人達が共同出資して伏見船を作り運航させることを進言。同年12月、伏見船200艘が許可され、翌年4月、伏見在住の富商や貨物運搬業者から財を募り、十五石船を200艘を造った。そして、伏見町人の津国屋長右衛門・薬屋善四郎の両名により、運上銀1200枚を納めて就航したのだが、伏見新船の支配は、賀茂川・嵯峨高瀬舟の支配をあづかっていた角倉甚平がそれに当たることになる。この伏見船は、小船で大変敏速だったので、過書船に対抗でき、伏見、六地蔵からの荷物を引き受け、宇治、淀、鳥羽、横大路や木津の淀川支流筋に運送した。大坂、伝法や尼崎と伏見の間の貨物輸送にも大きな役割を果たした。、、過書船・淀船は衰退したと、、伏見舟着き場は、高瀬舟や、過書船・伏見船・淀船でごった返していた。  『京都の歴史』5-347
・18世紀前期には、淀川の大坂天満橋の八軒家船着場から伏見の豊後橋まで行く、30石積み以上の船を過書船と呼んだようだ。その中で、30石船は乗り合い客船で「淀川三十石船」(水主4人、乗客30人前後)と呼び、昼夜の運行があった。上りは1日から一晩、下りは半日または半夜を要するという。
【くらわんか舟】江戸時代、淀川を往来する三十石船に、夜と昼とを問わず「くらわんか」と叫びつつ近づき、飯や汁物、酒などの飲食物を販売していた小舟(店主など2名ほどの乗船)。途中の船着き場には岡場所が多く下船者が多い。特に、枚方宿は一番の盛り場であった。

元禄12年(1699)9月9日、京都岩倉、八所十二所神社で相撲、東西松明燃やす
[八所十二所神事当今之を行う化儀の事]、 恕融(じょゆう)
◎恕融は、大雲寺・八所十二所明神社(大雲寺守護神)の僧侶であり、、[続き]

元禄12年(1699) 京都町奉行、鴨河原に死体を埋めることを法令によって禁止
同年町奉行は、鴨川は遊興・芸能の場として活用する為に、河原に遺棄した死体を埋めることを法令によって禁止する。[鴨河原の景観]

元禄14年(1701)辛巳10月7日 彦根、長曾根火事
*御領分並御城下町旧家有増由緒聞書(地割拝領どき)の史料類焼

宝永2年(1705) 京都、伊勢おかげ参りが大流行
*宝永のお蔭参りは、本格的なお蔭参りの始まりで、2ヶ月間に330万~370万人が伊勢神宮に参詣した。本居宣長の玉勝間の記載によると、4月上旬から1日に2~3千人が松阪を通り、最高は1日23万人である。[1638年 おかげ参り]

[参詣者] 330万~370万人 当時の日本総人口:2769万人(1700年) 発生地域:京都
*京都所司代の調査では洛中の参加者51,563人、6歳より16歳までが18,536人もあったという。『京都府の歴史3』略年表

宝永2年(1705) 京都、行快が宝寿院を継承し祇園社執行となる
大老酒井忠勝の曾孫の行快が11歳にて祇園社執行(しぎょう)となる。1712年、幕府より白川沿いに祇園新地六町(内六町)の開発を許可された。1713年造成された。祇園内六町とは元吉町・橋本町・林下町・末吉町・清本町・富永町をいう。このとき(1713年)、四条河原にあった芝居小屋はすべて外六町の「中之町」に移ったまだ、常設芝居小屋あったか中州芝居小屋)。先に「祇園外六町」が開発される。[鴨河原に死体埋葬ならぬ]
 宝寿院は祇園社家の家系で、祇園社感神院の長である執行家をはじめ、別当・長吏といった祇園社(現在の八坂神社)の重職を世襲した一族。執行家は公家や武家、町衆等の檀家からの初穂料や寄進、宿坊を営むことによる収益等も有していたが、祇園会(祇園祭)の事実上の主催者としての利権を有していた(wiki)。
heian07 【祇園】祇園という地名はない。祇園の中央を、建仁寺の東側から北へ伸びるのが花見小路通です。三条過ぎから新柳馬場通となっていくようです。花見小路通は明治になってからできたようです。祇園の茶店の興りは、江戸時代の初めころで、祇園社の参拝客や花見客相手に、茶店がお茶や団子を提供し始めたのが発祥とされています。[祇園界隈の地図]
[絵図の説明] 18世紀初頭の絵図 「丁」は町か
1.三条、五条の橋以外は假橋(仮の板橋)。四条の石柱橋は安政4年(1857)に完成。
2.中世期の四条橋は祇園社の勧進橋で、橋の手前に大鳥居があった。
3.四条假橋と祇園社の中央辺りに「祇園執行」が見える。
4.橙色の部分は町屋と考えられる。
5.四条假橋渡ったところに、「雨やみ地蔵」の仲源寺や神明社がある。
6.その近くに南座のやぐらが見え、北には明治23年まで北座があった。
7.四条假橋から縄手通(大和大路通)にかけて通両側では三都随一の芝居街。
8.高瀬川の沿岸には飲食店が軒をつらねる。舟入(荷揚場)があり物流拠点。
9.鴨川の両側に民家がせまり御土居はなく、石垣がある。

【大和大路】北は三条通から南は泉涌寺道まで。四条以北は 縄手通(鴨川の土手)とも呼ばれる。1~2車線相当の生活道路となる。五条から始まる伏見街道は、秀吉が新たに開いた道ではなく、従来あった大和大路を再整備して伏見まで導いたものと考えられる。

宝永3年(1706)11月、京都 新家地が、後に七条新地が開発
*同年11月、京都、妙法院門跡領の七条河原一万千三百七十坪を新家地とし、以後七条新地 が開発される。また、同年、京都、西陣織屋仲間、五組登場する。『京都の歴史3 町衆の躍動』略年表
賀茂川筋 【『賀茂川筋絵図』(年代不詳)左図の説明】
①六条・七条新地が見えるので、1706~1856年の間の絵図でしょう。
②三条と五条の橋は石柱の橋で、それ以外はどれもお粗末なものです。
③二条通り下流(右側)より、高瀬川が見え、舟入(荷揚場)はほとんどなくなっています。
④鴨川の通常の水量は少なく、川筋は薄い青色です。四条假橋の辺りに中州が見えます。
⑤今出川、荒神口の西岸(川の下)に桝形の構造が見られます。図の下は洛内です。
⑥五条大橋より下流では、高瀬川が鴨川から大きくそれ、そこに六、七条新地ができます。
⑦今出川通りより北にある、土嚢のようなもの御土居の後でしょうか。

宝永4年(1707)10月 京都大地震

宝永5年(1708)3月8日 京都、「宝永の大火」
姉小路と油小路との交差点を下がった地点から出火し、東は鴨川西岸、西は油小路、北は今出川通、南は錦小路通までの範囲が焼失した。

宝永6年(1709) 京都岩倉、大雲寺 炊事設備をそなえた参籠所新設
*鑑札を出すのは実相院で、参籠に関する諸事についての支配権がありました。衆徒(寺層)や茶屋を掌握し参籠人を受け入れるのは大雲寺でした。大雲寺は、、公家の外山光顕に頼んで本尊観音の画像を描いてもらい印刷(宝永4年)したり、観音の由来を印刷(宝永5年)し、それらを参籠人・参詣人配ったり、炊事設備をそなえた15畳敷の参籠所新設(宝永6年)したりしています。
*大雲寺の収入は会所料、冥加金、香水所散銭、滝所散銭などで、参籠人・参詣人を増やす努力をしました。
*会所・部屋で参籠人たちの受入にあたったのは大雲寺の公人法師で、岩倉の本百姓仲間組織の一つで、公人法師に属する人たちは、百姓として農業を営む一方、大雲寺の維持・運営に関与していました。
茶屋の仕事は、大雲寺の会所・部屋に宿泊する参籠人の食事の世話に限られ、その営業権を認めてもらう代わりに実相院から境内の清掃などの雑用、参籠人受入窓口としての役割を期待されていました。4つ「実相院文書」『洛北岩倉』119

宝永8年(1711) 京都岩倉、石座明神(現・山住神社)手洗鉢奉納
◎「神祭の御旅所」「石座明神」、どうも江戸時代に「山住神社」の名が出るのは疑わしく、後世の人が付けたようです。

正徳2年(1712) 京都、先斗町に茶屋株と旅籠屋株が免許される

正徳4年(1714)正月、彦根藩老中、彦根三湊へ乗前停止以下五カ条を達する
(本文は目的でないので略し、以下署名の部分をあげる)
  松原村舟年寄    作兵衛 印
   同       七右衛門 印
           舟持不残 印
  米原村舟年寄    次郎介 印
   同        孫兵衛 印
   舟持        介作 印
   (以下、20名略)
  長浜舟年寄  吉川三左衛門 印
           舟持不残 印    『新彦史7巻』684
・元禄三年(1690)「『新彦史7巻』682」に舟年寄は、松原・米原・長浜に各2名いた。
舟年寄(船年寄)は湊にいて、湊を仕切る。その下に船問屋仲間、船持仲間、艜船仲間がいるのだろう。松原、長浜は湊、町、村がある。よって、舟年寄・(町年寄と)庄屋がいるのだろう(長浜は町年寄がいて、松原は村方に属し町年寄はいないか)。

正徳5年(1715) 彦根藩、町人代官
「御領分村付高書之目録」(滋賀大学経済学部附属史料館寄託吉川三左衛門文書) 代官は台所入(直轄地)、給所(藩士の知行地)から年貢を徴収する。出身町は『彦根博物館 歴史展示ガイドブック』による、( )は出典不明。
町人代官名出身町台所入給所全体町人代官名出身町台所入給所全体
藤野五兵衛 8,6867,15115,837  片木弥兵衛(沼波町)7,806 9,51017,316
角田半四郎 7,18810,06717,255  雨森伝兵衛佐和町8,7398,96017,699
早崎八兵衛 6,92610,21417,140  早崎吉兵衛 7,9159,08617,001
馬場久助 7,92515,78123,706  村田久次郎(彦根町)9,49510,23419,729
車戸五郎右衛門  9,2849,06518,349  森孫右衛門上魚屋町11,3389,33720,675
広瀬次良右衛門 10,9818,87219,853  近藤彦惣 7,7457,64315,388
奥村孫兵衛通 町8,02111,73319,754  中村与次右衛門(平田町)9,54212,19121,733
角田弥右衛門本 町9,0309,68218,712   全体 (単位:石)130,621149,526280,147
  『新彦史2巻』266
◎彦根藩の石高 元和元年(1615)20万石
        元和三年(1617)25万石
        寛永10年(1633)30万石で、それ以降に加増はなく
        正徳5年(1715)表高35万石で、30万石のはず
 35万石のうち幕府からの預かり米約5万石はいつからか不明。30万石は、上表の28万石と飛び地2万石(下野国1万八千石、武蔵国世田ヶ谷弐千石)。
・彦根では1801年まで全て、城下彦根に住む有力町人である町人代官が年貢を徴収していた。交替はあるもののほぼ世襲的に任ぜられていた。有力町人は苗字が公称できる。代官は台所入(直轄地)、給所(藩士の知行地)から年貢を徴収する。町人代官が年貢を徴収すること、多くの藩ではごく初期に見られるに過ぎず、全国的に見ても特異な形態である(同266)。

享保2年(1717) 京都、七条新地に煮売茶屋六拾軒が許可される

享保2年(1717)九月 近江、大津藩 百艜船と彦根藩 三湊船が湖上権を争う
  乍恐謹而言上   
 井伊掃部頭領分  
    江州 犬上群松原村
     同 坂田郡米原村
     同 同郡 長浜村
 彦根藩の大津蔵屋敷内の多屋は大津奉行の支配下ではなく彦根藩の支配下で、
 元来百艜船から干渉を受ける筋合いのものでない。
(略)
  享保弐年  松原年寄 長五郎 
   酉九月      伝 次 
  米原年寄 源十郎 
       文 弥 
  長浜年寄 又十郎 
 大津御奉行様   
                『彦史』中冊340
*上記、三湊船が勝利
◎「三湊の船仲間年寄から大津奉行宛に提出した訴状」とある。上記の年寄と「船仲間年寄」同じだから、「船年寄問屋」と「舟年寄」は同じだ(『彦史』中335)。米原の場合、船問屋仲間(5名)の中から1名が舟年寄になったか(源十郎は「問屋」であり「船持」なのか)。以上の3つは同じで、松原・米原は各2名、長浜1名がいた[3年前の場合]。享保10年(1725)の舟年寄は松原が孫七、米原が介兵衛、長浜が佐介と各1名。

・船年寄は1650年頃できたのか。「三湊の船主」は湊に常駐し、藩や町の商人の依頼で物資を運ぶ運輸業者なのであろう。そういうものが多数集まり仲間をつくり長を選ぶ、それが船年寄というものか。ここでの奉公人は村(農閑期)や町から来るのであろう。
*三湊船は元来藩の御用船、あるいは軍艦としての意味を持ち、一般の運漕はむしろ第二義的なものであったことが分かる。したがって藩領の他の港の船とは異なって特別に保護を加えられ、、とはいえ泰平のうち続くにつれ、、商船としての役割がむしろ重大となった。 『彦史』中冊335
*丸子船の積載量170石積、天候の良好なとき300俵、風波の場合は150から250俵。『彦史』中冊335
◎松原湊の持ち船は37艘(「淡海落穂集」)とあるが、「木俣文書」によれば正徳~享保のころ、丸子船が28艘であったと記されている。もちろんこれは藩船以外である。つまり多くが民間の船主28艘分(農村の富裕層や商人?が所有)で、運上金を支払い利用していた。丸子船を使用し、米、木材、石材、海産物等を運んだこと(大津の貨物輸送)が予想できる。藩からの借船はほとんどない。民間も含め、藩の丸子船・艘船(ひらた舟)の総数は軍事上の機密で詳しく明かされていない。

【米原湊】船着場は五カ所あり、現在の米原駅のあたりが恰(あたか)も埠頭の故地に当たる。湊を仕切る船年寄が2人。その下に船問屋(ふなどいや)仲間(5名)、船持仲間(10名)、艜船仲間(10名)がいる。これが彦根藩の船奉行、その下の船方元〆衆の支配を受ける。船持仲間は丸子船の船持で貨客輸送の主役。艜船仲間は艜船の船持で(船底が平たい20石積までの小型の船で)、漁業・農業等の自家用または短距離の物資輸送をおこなう。船問屋の差配で積荷が行われていた。『米原町史』647

・船奉行 -- 船方元〆衆 -- 船年寄(2名) --|- 船問屋仲間(5名) 
 |- 船持仲間(10名):丸子船の船持
 |- 艜船仲間(10名):艜船の船持

・米原湊の船着場は五カ所で、「船問屋仲間(5名)」の解釈として「船問屋の株をもつもの5名いて」組合を作り(「仲間」)この5名の「差配で(各々の船着場)積荷が行われていた」ということかな。
▼この時期、松原湊や長浜湊も同様な組織があったと思われる。

享保3年(1718) 京都、木食正禅は洞内に2尺8寸の石造の不動尊をすえる
*一乗寺の狸谷不動尊のおこりである。、、京の町に念仏をすすめて歩く僧がいた。、、厳寒晴雨にかかわらず法を説き、厳寒30日間は毎夜六墓(南無地蔵・大谷・西土手・粟田口・最勝河原・元三昧)と五三昧(千本・蓮台寺・狐塚・七条・金光院)と呼ばれる京都周辺の葬場めぐり、亡霊に供養した。木食正禅のことである。正禅は難所とされた日ノ岡峠の車道約200mを補修、勾配を緩やかにし、さらに渋谷街道その他、土木工事をすすめ、晩年に至るまでやむことがなかった。『京都府の歴史』213
 なお、最勝河原とは三条の西の鴨川の河原。昔,火葬場があった。

享保3年(1718) 伏見、六地蔵問屋から佐和山他屋への発送
*大津百艘船、享保3年正月から八月までの記録。伏見六地蔵の問屋から佐和山他屋(大津にある彦根藩蔵屋敷の商人居住区)へ持ち込まれた彦根三湊行きの商人荷物の数を調べた文章(木村忠之文書)によれば、六地蔵(現京都市伏見区)の問屋からのものは6,140駄、伏見問屋からは2,865駄、合計9005駄にのぼった。松原・米原・長浜行の荷物は、8,350駄と大半を占める、行き先の確定できる伏見からの荷高の内、彦根城下町という大量消費地をかかえる松原行きのものは、約65%を占めている。残る653駄の送り先は、美濃(大垣など)・名古屋方面であった。また、佐和山他屋から八幡・海津・などの他領の浦々へ運ばれた荷物は666駄である。、、天保13年(1842)の長浜湊での上方からの着船荷物では、塩が役6割と最も多く、四十物(あいもの)・醤油・芋・蜜柑・綿・木綿反物(たんもの)・砂糖・鉄・瀬戸物・素麺などが続いており(『長浜市史3』)松原でもほぼ同様の傾向が見られたと想像される。『新彦史2巻』592

伏見問屋(発):2,865駄 ----|-大津の佐和山多屋(伏・六 集荷)--|-松原・米原・長浜行8,350駄
 | (三湊行:合計9005駄)| (上記のうち松原城下町65%(5,428駄))
六地蔵問屋(発):6,140駄 --||-美濃・名古屋方面 653駄  計9003駄
  大津の佐和山多屋(発):666駄-----八幡・海津などの他領666駄

◎彦根三湊とは彦根藩の松原・米原・長浜の湊をいう。1駄とは馬一頭に背負わせられる荷物の重量をいう。荷駄に(発)を付ければ計算が合った。伏見の六地蔵(発)の商品が多い商品は、(陸水路で)伏見から六地蔵、そして山科盆地を経由して大津へ運ばれ、大津湊から水路で彦根三湊へ出ると考える。名古屋方面行は長浜経由で陸路と考えてよいのか。これなら六地蔵に馬借が多いのもこれなら納得できる。彦根藩・他領の米や特産物がこの逆のコースを経由する。
 大津へ向かう商品で、六地蔵から瀬田川をさかのぼり大津へ、これは無理だろう(水路の瀬田川が開かれていない)。
 京都へ向かう商品で、船で松原湊から対岸の坂本へ行き、山を越えて京都へ向かう商品もあるが、こちらは量が少ない。大津から伏見へ、その後に高瀬川を遡り京都へ行くだろう。琵琶湖西岸の物資が坂本に集まり、山を越えて京都へ向かうものは比較的多いか。
*享保5年(1720)、大津百艘船と彦根藩三湊との争論、京都所司代が裁許書を下す。彦根藩三湊の主張が認められることになる。

享保5年(1720) 京都岩倉、伏見宮義周法親王が実相院に入る 寺領612石余
*義尊のあと霊元天皇の皇子義延親王が入院し、以後法統は代々皇孫をもって継承される。
◎[参考:実相院領]。

享保6年(1721) 京都岩倉、八所明神・十二所明神社大鳥居奉納

享保8年(1723) 京都、下肥しもごえ争奪戦
*京都は正徳2年(1712)には30万をこえる大都市に、、同年、京都近郊の152ヵ村から、京都町奉行所に対して庄屋衆連判の訴状が提出される。、、他国(江戸中期には摂津・河内農村にまで)への販売の結果、下肥値段が高騰し山城農村では農業活動に支障をきたす、、高瀬舟などを使っての他国への下肥販売を禁止するように取り計らって欲しいという願である。、、この訴えは受けいられ、
①屎尿売買の専業問屋を構成する「屎屋」を22軒、「買子」を80人と定め、鑑札を渡す
②牛馬歩行の荷物は自由とするが、下三栖みす村から下流の積み越しは禁止する
③152ヵ村は、洛中の寺社・町方の屎尿がいっぱいにならないように、確実に汲み取りに廻ること
といった仰せ付けがなされた。
 そこで152ヵ村の代表者たちは相談の上、汲み取り責任区域を設定し、毎月10日に神泉苑にて寄合を行う、など申し合わせを行っている。申し合わせの中には、百姓相応の格好をすること、町方にて喧嘩公論はいうまでもなく、がさつがましい行動は慎むことなども取り決められている。このように、近郊農村は、肥料問題を通じても洛中町々と密接な関係にあった。
【汲み取り責任区域】まず北は鞍馬口通、南は七条通までを、二条通で二分する。その北地域を新町通で東西に二分する。その東側を「京東廻り村々」、西側を「西廻り・嵯峨辺村々」とする。南地域は、柳馬場通で東西に二分し、その東側を「山科郷村々」、西側を「西岡・中筋村々」とする。『京都と京街道』149
◎岩倉では、町へ行き野菜と交換して屎尿を持ち帰ったという話があるようです。場所は御所(含む)廻りでしょうね。
・遠き昔から、リサイクル事業はあったのですね。根本的な疫病対策には成りませんが。それには上下水道の敷設まで待たなくてはなりません。

享保12年(1727) 彦根藩、松原村、宗門改めにつき家数人数増減目録を提出
未宗門御改ニ付家数人数増減目録
都合家数三百八拾五軒
  内
弐百三拾七軒    本家
弐拾弐軒      後家
壱軒        惣道場  (←浄土真宗の道場のようだ)
三拾四軒      蔵
四拾三軒      小屋
四拾壱軒      借家棟数
四軒        船小屋

壱軒        舟番所
弐軒        明家   (ここまでの合計385軒)
午之御改より羊之御改迄家数指引壱軒増申候、

【上記の考察】岩倉村との比較でここにあげる。
・家数385軒の数から推察すると松原村(御除地と年貢地)全体といえる。
・「承応2年の松原下田を埋立て」から考えて、借家棟数41軒、蔵34軒(藩から借り物?)は米宿等が利用する"船小屋"(丸子船・小丸子船)と米俵の保管庫の"土蔵"でないか。借家棟は今でいうアパートとも考えられるが数が多すぎる。小屋43軒が数からいっても米俵の保管庫と考えてもよいのだが、藩の米俵であるし盗難に遭えばそれこそ打ち首。丈夫なものでなければならない。よって蔵34軒が米俵の保管庫となる。
・船小屋4軒は前川より奥地(北側農村地)に存在するか。小屋43軒はひらた舟の小屋ないし農作業に必要な道具を収納するか(不明)。この史料の享保12年頃、松原村の船数は、丸子船(小丸子船含む)40艘、艘船(御免艘・猟船など)300艘ほどあったが、どこに収容したか。艘船の保管場所は前川でも北部農村地でもよいし、野ざらしでもよいと考える。

都合人数千四百六拾八人 内 七百拾人 男  七百五拾八人 女
  内
 拾壱人      他国ニ奉公仕申候
 三拾三人     御領ニ奉公仕申候、
午之御改より羊之御改迄人数増減
 三拾弐人  生増
 三人    他所より縁取増
 壱人    他所より養子増
 三人    他所より引越増
 〆三拾九人増
 拾七人   弔減
 弐人    他所へ縁付減
 壱人    他所へ引越減
 壱人    他所へ養子減
 壱人    他所へ不縁帰減
 〆三拾弐人減
午之御改より羊之御改迄人数指引七人増シ申候、
  享保拾弐年(未之)
  松居作兵衛殿
  長野宇右衛門殿
  八田弥惣八殿              『新彦史7巻』40

・彦根藩では、毎年の宗門改に際し、居住人数の増減を記した目録が作成され、村から藩へ提出された。 『新彦史7巻』3
不審な輩が領内に入り込まないよう、厳しい統制が引かれている。松原湊(御除地)に船年寄が2名ほどいる。

享保13年(1728) 京都、『町人考見録』(三井高房)が編纂される
*『町人考見録』は、京都富豪町人の由緒・事蹟・没落の原因等が記載される。

享保14年(1729) 京都、山城八郡領主別石高
◎『「京都の歴史」六巻P90』には、享保14年の「山城国高八郡村名帳」(山口泰弘家文書)より山城国八郡の領主層別に集計(「山城八郡領主別石高」)があり、ここにあげる。なお、山城八郡の村数は約四百数十余村、村高合計は21万9千806余石である。
・八郡は、
  愛宕郡 65村(村高 2万8千231余石)
  葛野郡 81村(村高 3万1千242余石)
  乙訓郡 26村(村高 2万6千291余石)
  紀伊郡 31村(村高 2万5千225余石)
  宇治郡 17村(村高 1万5千897余石)
  久世郡    (村高 2万6千173余石)
  綴喜郡    (村高 2万9千956余石)
  相楽郡    (村高 3万6千788余石)  である。
・岩倉村が含まれる愛宕郡の内訳をみる
 朝廷(禁裏御料2,854.6石 法皇御料1,656.3石)
 公家(御門跡方4,060.5石 親王御家門公家方5,455.9石 地下役人知行476.5石)
 社寺(神社領3,891.5石 寺院領5,792.2石)
 幕府(玉虫左兵衛代官所1,967.5石)
 大名・旗本(旗本衆知行638.7石)
 その他(医師大工絵師町人知行1,390.2石 賀茂川御修理料47.7石)
     合計:2万8千231.6石
 ただし、愛宕郡は、蓼倉(たでくら)、栗野(栗栖野)(くりすの)、上・下粟田、大野、小野、錦織(にしごり)、八坂、鳥戸(とりべ)、愛宕(おたぎ)、賀茂、上・下出雲の13郷よりなる

・この表から見える、山背国八郡の朝廷の財産は合計3万3千897.4石(愛宕郡4千510.9石)である。朝廷の財産[さらに]

享保14年(1729) 京都、岩倉村などの村高と領主
◎下記の表は「山城国高八郡村名帳」享保14年(山口泰弘家文書) や『「京都の歴史」五巻P307』の「禁裏御料の村々」と「霊元上皇(法皇)御料の村々」を基につくられたでしょう。表そのものは『洛北 岩倉誌』から転記しています。
*江戸時代になると岩倉、長谷、中、花園、幡枝の五ケ村が行政単位としてできあがり、、享保年間に、木野が幡枝村から分村します『洛北 岩倉誌』62,63
岩倉村1900石 禁裏御料953石(1601年)・法皇御料947石(1706年までに)
長谷村551石 聖護院御門跡領476石・若王子院家領75石
中 村188石 禁裏御料
花園村625石 禁裏御料132石・安井門跡領125石・光雲寺領99石・相国寺領71石・中院殿家領84石・宝鏡寺宮御領28石・広橋殿家領19石・養命坊領12石・西洞院殿家領15石・今城殿家領11石・壬生地蔵院領10石・伏見宮御領7石・禁裏御料(是は実相院御領岩倉村御屋敷替えに而上る)6石・松室相模守、赤塚土佐守、北小路信濃守、羽倉延順知行計4石・法皇御料(是は実相院御領岩倉村御屋敷替えに而上る)1石
幡枝村715石 東寺領263石・安井門跡領172石・中院家領116石・竹田慶安知行100石・大炊御門殿家領30石・禁裏御料21石・法然院領13石
合計3、979石 (岩倉村は全体の47.8%)
◎旧岩倉村は、『岩倉村史』(明治38年)によると「中古以来御料となり、寛文年間(1661-73年)、女院及び仙洞御領に分かれ、その後、380石余りが幕府領となり、文久年間(1861-64年)、その幕府領は京都守護職会津領となった」としています。「女院」が法皇御料に相当し、「仙洞御領」が禁裏御料になります。それぞれが、住民の一般的な名称でしょう。
・岩倉村に禁裏御料953石が当てられたのは1601年、残り法皇御料947石は、1687年から1706年のある年です。よって1706年以降は、岩倉村の地は全て御料となる(詳しくは[こちら])。ある年までは、法皇御料になる947石の中に、実相院・大雲寺領があると思われます。1502年に細川政元が実相院領を没収 しましたが、その領地は多分地方にある土地で、北岩倉西人郷までは没収されていないでしょうか。没収されるのが心配で幕府にお伺いを立てています。その幕府の返答が[これ]です。
岩倉村の村高を考える
「村高」は領主にとって、村の財産規模です。岩倉村の領主は天皇と法皇(女院)です。「村高」は、米穀だけでなく、畑や山(岩倉では海・湖はありません)からも安定した収益があれば石高で計算され、合算されます。[続き]

・1601年以降は、石座明神の祭りの主催者であった実相院・大雲寺の領主としての立場がなくなっていく、また村の構成も変化していくので、祭りの実施形態が変わるはず。
・徳川家による禁裏・法皇御料の寄進については[こちら]

享保15年(1730) 彦根藩、藩札が初めて発行される
*藩札(米札)が初めて発行される(以後、寛保2年(1742年))とともに、彦根本町、長浜町、高宮宿の三カ所に「引替所」(皆札会所)。、、国産及び産物に対する融資を米札によってしようとする企図が実行に、、、国産方設置の70年前。 『彦史』中冊P399
*彦根藩領は大まかにいって、城下を中心とする経済圏の外に長浜町を中心とする北筋経済圏と、高宮宿を中心とする中南筋経済圏に分かれていた。 『彦史』中冊P399
*同年9月、(近江全域に)疫病の流行。『江戸10万日全記録』375
【伊勢神宮・多賀大社の詣】高宮宿は多賀大社への参道の起点であった。多賀大社は延命長寿の神として、各地に講が結ばれ民間信仰を集めていた。、、18世紀後半の明和から天明にかけて、約20年間に天皇や上皇の代参が5度あったことが確認できる(塩谷家文書)。いずれも伊勢神宮と多賀大社を順に詣でるもので、中山道愛知川宿と東海道土山宿をつなぐ代参街道を利用した参詣であった。『新彦史』2-533

享保15年(1730)6月 京都大火、134町焼ける

享保16年(1731) 彦根藩、藩による救済行為
*藩により特定の領民に米が支給された例には、次のように、親孝行・三つ子誕生・高齢者扶助といった場合が見られる。
【親孝行】享保16年には、牛馬の取引を行う四方平が、生活困難であるにもかかわらず母親に孝行したのを藩主から「奇特」とされ、藩から御蔵米を与えられている。
【三つ子誕生】享保20年には、南清水村(現東近江市)に男の三子が誕生したことに対して米三俵が与えられた。まもなくこのうちの一人がなくなったが、残り二人に一人あたり一日米二合五勺ずつ与えられることとなった。噂ではその期間は10年間だとも記されている。
【高齢者扶助】宝暦4年(1754)には、平松村(現東近江市)の121歳になるきわめて困窮した老母に対して扶持米が与えられた。この老母の子供はすでに亡くなり、30歳くらいの孫がいて平松村で奉公をして老母を養っていた。、、その噂を聞き、、城下に呼び寄せて町郷の奉公衆が様子を聞き、この老母の対して二人扶持を与えることになり、、  田中藤助日記(彦根市立図書館所蔵文書)『新彦史2巻』653
田中藤助:享保16年(1731)から明和5年(1768)までの38年分の日記が残っている。彼は城下四十九町の町人で町代官の下で蔵手代を勤めていた。日記は彼が46歳から83歳までの時期に当たる。当時の人々の余暇の過ごし方が詳細に記されている点が注目される。 『新彦史2巻』417
・日記は19冊残っており、彦根藩七代・直惟から十代・直幸までの時代について、米の相場や彦根藩士の給料など仕事の話のほか、火事や盗難、相撲の番付、祭り見学などまちやプライベートな話題まで取り上げられているという。(そのとき、何でもない日記が歴史の証言となる)

享保17年(1732) 田中藤助は山中温泉へ
*同年、加賀の山中温泉(白山の西)に出かけている。9月20日発足して23日に着き、翌月13日まで滞在した。彼は持病を抱えていて、温泉での治療を試みたのであろうが、湯治と参詣は、当時の民衆が旅に出る口実でもあった。
・享保20年(1735)、田中藤助懇意の肴屋清兵衛(上魚屋町惣代か)が善光寺(現長野県)を参詣し、その後に白山と立山に詣でる旅に出たことを記している。『新彦史』2-421
◎庶民にも「参詣と湯治の旅」は比較的容易に出来たようだ。高い山は古くから信仰の対象になっていた。立山三山は、浄土山、雄山(3015m)、別山からなり、阿弥陀「過去」、釈迦「現在」、弥勒「未来」の三世諸仏に擬えられる。白山(2702m)は富士山、立山とともに日本三霊山の一つ。御前峰・剣ヶ峰・大汝峰(おおなんじみね)を「白山三峰(白山三山)」という。立山は富山県、石川県、福井県、岐阜県の4県にまたがる。

享保17年(1732) 享保の大飢饉
*夏、冷夏と害虫により西日本、とりわけ瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及び冷夏をもたらした。このため、イナゴやウンカなどの害虫が大発生し、稲作に甚大な被害をもたらした。被害は西日本諸藩46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫は僅か27%弱の63万石程度であった。餓死者12,000人(各藩があえて幕府に少なく報告した説あり)にも達した(『徳川実紀』によれば餓死者96万9,900人)。また、250万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われる。また、1733年(享保18年)正月に飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって享保の打ちこわしが行われた。(Wikipedia)
*山陽・南海・西海・畿内、蝗害(バッタ)のため飢餓となる。『京都の歴史3 町衆の躍動』略年表
*享保18年(1733年)【有徳人の救済行為】前年の西日本を中心とした虫害・冷害の影響で米が高騰した。このとき、町方の下層民のなかには飢えに苦しむ者が多く出たため、所々で有徳の者が少しずつ施行を行った。しかし、なかなか施行が行き渡らず、死人も多く出たという。 田中藤助日記(彦根市立図書館所蔵文書)『新彦史2巻』654

享保18年(1733)1月 京都、鴨東二条川原に旅籠屋が建ち新生州町と呼ぶ
*同じく高台寺近辺にも新地ができる。このころまでに鴨東の市街化が進み、新地と呼ばれる。
同年11月、鴨東二条川原に町屋二筋の建設許可、新先斗町・大文字町と呼ぶ。

享保20年(1735) 彦根藩、男の三つ子誕生に米三俵与える
*享保20年(1735年)【藩による救済行為】南清水村(現東近江市)に男の三つ子が誕生したことに対して米三俵が与えられた。まもなくこのうちの一人がなくなったが、残りの二人に一人あたり一日米二合五勺ずつ与えられることになった。噂ではその期間は10年間だとも記されている。 田中藤助日記(彦根市立図書館所蔵文書)『新彦史2巻』653

元文4年(1740)9月16日 京都岩倉村、御神札・神饌を皇室へ献納
*古来神祭は毎年九月十五日なりしが、明治六年より毎年十月二十三日神輿二基渡行と定む。元文四年九月十六日より明治初年まで毎年御神札・神饌を皇室へ献納したる例ありたるも、明治初年よりこれを廃す。『岩倉今昔(上)』P50

寛保元年(1741) 彦根城下に大きな火災があり、多くの人的・物的損傷を出す
*第四代藩主 井伊直定、質素倹約を旨とし、奏者番を務めていたことから率先して規律を守り実践していた。江戸城中でも握り飯の弁当を持参していた。、、藩財政窮乏して藩士の禄を半減せしめたが、爾来これを停止する日まで自らも一汁一菜に甘んじ、魚を食べるのは一日と十五日の晴れの二日のみであった。 『彦史』上464
◎一汁一菜とは、主食(白米や玄米や雑穀)に、汁もの(味噌汁等)一品と、菜(おかず、惣物)一品、を添えたもの。(参考:「振舞之掟」

寛保2年(1742)10月 彦根城下への出開帳
*明性寺で京都西六条西光寺の宝物、宝暦2年に宗安寺で京都百万遍の宝物の開帳が行われた。開帳には、現地で行う居開帳と余所(よそ)に運んで行う出開帳がある。『新彦史』2-419

寛保3年(1743) 田中藤助、伊勢への旅
*9月4日に、木村介次、伊丹長次、肴や小兵衛の3人に荷物持ち一人を連れて、彦根城下を出立。日野に泊まり、翌日に関、6日に松坂に宿を取り、7日に参宮を果たした。藤助は蔵手代である。

寛保3年(1743)6月 京都岩倉、岩倉村内の神社
一、氏神 石座大明神 降臨石ノ岩:東西20間,南北拾弐間 神主ハ百姓一和尚輪番持
一、氏神 八所大明神  社:表壱間,裏弐間弐尺四寸三分
一、氏神 十二所大明神 社:表壱間,裏弐間弐尺四寸三分
両者(八・十二所)共、大雲寺之鎮守ニシテ、、実相院御門跡御支配地ニ有り則、岩倉村の氏神也。神主ハ百姓一和尚輪番持
祭礼(北山石蔵名神祭)ハ 九月九日夜、松明を上げ、号神利太々幾シリタタキノ神事
             同十五日御神輿弐社、鉾五本、祭礼相勤申候
 『片岡(与)家文書』寛保3年6月より

別に
 9月15日の「北山石座名神祭」(日次紀事)には、「五和尚(ごばんじょう)」とよばれる村の長老5名のうちから「氏神神主壱人 御旅所神主壱人 壱ケ年ツツ百姓輪番勤」(「岩倉村差出明細帳」片岡与吉家文書)と神主が選ばれて祭祀を務め、神輿の渡御には大雲寺の僧侶も加わったというが、明治に入り廃された(京都府愛宕郡岩倉村概誌)。以上『京都市の地名』P96 (五和尚の記述(日次紀事)が気になります。各町に五和尚がいる認識ですが)

◎この『片岡(与)家文書』と、1805年の岩倉村から幕府宛ての文書とで、「石座大明神」の記述に整合性が見られます。同年同月には検地も行われているから、この資料は信頼できるでしょう。下記『差出明細帳』の文章が現存する片岡(与)家は役人として働いたのでしょうか。
・この頃、神社・神祭は百姓が完全に運営していると推察できます。「松明を上げ」は、七間余りもある大松明でしょう。現在は五町内の鉾五本ですが、当時も五つの在所による鉾五本でしょうか。岩倉村の八郷、中在地、門前、湯口、上蔵、御旅、西河原、忠在地、下在地が、現在に近い五の在所(村松除く)になっているのか、編成して五の在所として鉾五本になっているのでしょうか。
▼村高1900石の岩倉村で、中世の沙汰人に相当するものが、この頃いたのでしょう。この「片岡(与)家文書」作成者が実相院寺侍の片岡家の可能性があり気になりますが、1706年以降に、岩倉村は実相院の支配から離れています。多分、京都周辺の各地域(山科七郷)にみられる触頭・惣触頭なるものがいたのでしよう。

寛保3年(1743)6月 京都岩倉、天正以来の検地が実施
*『差出明細帳』(片岡(与)家文書)による岩倉村と中村の職業と人数
 出家社人医師大工 鍛冶屋桶屋馬医馬の売買人他は百姓
岩倉村23213 2212残り
中村21100 0000残り
◎少し乱暴な推測ですが、岩倉村の出家23人は、村内の寺11で、大雲寺法師家12人(もとは15人)の流れをもつ公人中間であると勘定が合います。出家して妻帯ですかね。
・岩倉村の社人のうち、一人は御旅所の神主、もう一人は八所・十二所明神の神主。共に百姓持ちまわりとなっています。
*中村では、かって村人60人が下鴨神社の神人(奉仕者)として、葵祭や遷宮祭には、浄衣を着て、決められた神事の役を務めていました。出家2(浄土宗1・禅宗1)、社人(下鴨神人)11人常は百姓。上2つ『洛北 岩倉誌』62

*次は、1743年(寛保3年)の『岩倉村差出明細書』による
一、田方六分通谷川用水懸リ、壱分通出水掛り、三分通天水而養申候。当村谷水並長谷村領山谷水内、右川筋ハ請申候。当村ニ溜池亦はハ何川筋と申程之川、無御座候。(6割が用水路の水、1割が湧き水、3割が雨水)
一、田畑質地大概直段附ケ(田畑を質に出した場合に借りられる値段)
  上田壱反歩ニ付、銀弐百五拾目位。(匁は文目)
  中田壱反歩二付、銀百五拾目位。
  上畑壱反歩ニ付、銀八拾目位。
  中畑壱反歩ニ付、銀三拾目位。
 下田、下畑ハ質物等之取やりニ成不申候。
一、屋敷売買直段壱反歩ニ付、(銀?)百五拾目位。
一、田畑小作人(次の表にしました)
1743年の[年貢][収穫](太平洋戦争の前)
上田(良い田)1反につき1石5斗よい田1反あたり2石5斗
中田〃  1石2斗普通の田〃  2石2斗
下田〃    7斗悪い田〃  1石8斗
上畑(良い畑)1反につき1石1斗  
中畑〃    9斗  
下畑〃    6斗  
 以上、『片岡(与)家文書』『洛北 岩倉誌』76 など
*江戸時代岩倉は禁裏御料、法皇御料でしたから、岩倉地区の人は御所の雑役(掃除・草刈り・ くみ取り・人夫仕事など)をしていました。そんなことから公家たちと顔なじみになり、里子を預かるようになったのではないでしょうか。
*『京都府愛宕郡岩倉村概誌』(橋本、藤本求一家文書)によれば、村内には武士株と称する家々があって、宇治の茶師上林家が禁裏へ壺を納める際、壺の警固にあたっており、これが明治維新まで続いたという。これが禁裏から岩倉住民に課せられた、唯一の夫役負担であった。

延享元年(1744~84年) 京都、本願寺の寺内町
寺内町じないちょう境内のうち、堂舎用地をのぞいた地には、古くから本願寺の家臣として付き従っていた寺侍、職人、商人たちが宅地をもらい居をかまえた。浄土真宗では大寺院を中心に町が形成されることがあり、寺内町、または単に寺内と称する。、、堀川七条は独自の行政組織をもち、警察権以外は京都の町から独立した地域であった。延享年間の記録では、町数60町、家数1,232軒、人口7,963人となっている。京都全体の人口が30万人くらい。、、ほぼ3%くらいが本願寺寺内町の住民という勘定だ。、、こちらは、天保九年の記録では町数59町、家数890軒、人口5,575人、東西あわせて13,000人の小都市だった。参詣者相手の商業地として寺院の境外に形成された門前町とは異なる。
◎上記の町数、家数は本願寺(西本願寺)寺内町の数のようだ。ここに、山科言経も親戚縁者を頼り一時住まいしたのだよ。六条本願寺とかいうから、六条・七条辺りともいう。

延享3年(1746)頃? 彦根藩 士、農、工商の住まいの規模
【士、足軽のすまい】
石高別屋敷建坪規模分布表 (幕末から明治にかけての測定)
身分足軽扶持人50石まで 150石まで500石まで 1000石まで
軒数(96)軒25軒49軒104軒17軒11軒
屋敷坪数45.481.6208.8 216.7337.8 524.2
平米数 m2150270689 71511141729
1,000石以上は省略、また足軽の( )は抽出。 『彦史』中冊435

【町人のすまい】
内町表通りでは統一して裏行13間の町割がなされたように思われる。、、間口の大きさに したがって軒役という税金が取られます。城の中だから、外町より内町の方が坪数が小さいようです。
・次表の軒数は、内町である伝馬町の寛政年間(1789-1800)のもので、家持(本家)のみの数か。平米数 m2は裏(奥)行すべて13間で計算(四捨五入)。
・伝馬町:元禄8年(1695)男235女207計442名(内奉公人男31女21)/嘉永3年(1850):家持25借家33:57%(借家/総数) (『彦史』上642)
間口2.0間2.5-3.5間4.0-5.5間7.5- 8.0間11間13間
間口 m3.6m4.5- 6.4m7.3- 10.0m13.6- 14.5m20m24m
税額0.25軒役0.5軒役1.0軒役1.5軒役2.0軒役3.0軒役
平米数 m286108- 150172- 236322- 344473559
軒数1169210
 表は寛政年間伝馬町屋敷分布『彦史』中冊458より編集
・店舗では奥行より間口の方が大切で、領主からの賦課も間口の大きさで計算された。一軒役(丸役という)では、毎年米で一斗二合八勺(=12.8合)を徴収される。どうしてもウナギの寝床となります。京の町屋と同じだね。領主から土地を借用しているのは武家と同様だ。
・軒数の詳細は、間口2.5間が8軒、間口3.0間が4軒、間口3.5間が4軒、間口4.0間が4軒、間口4.5間が2軒、間口5.0間が2軒、間口5.5間が1軒、間口7.5間が1軒、間口8.0間が1軒となっています。
伝馬町というのは彦根城下では「交通要路の中心街」と表現されている。町の機能としては、宿場を城内に取り入れたところと考えて良い。藩の方針で、宿屋の肩書きをもつ家は見られなく、一泊のみを原則とし、天候が荒れたり病気の場合を除き、長逗留を禁じた。客は商売上でのお付き合いを原則とし、宿泊させて良いかその都度、藩に許可を申し出る必要があった。人・荷物の輸送用に馬を手配できたので、人の出入りが多かった。
*江戸では享保年中に瓦葺が(町家に)許され、彦根の伝馬町で、明和・文化の大火を経て、享保年間から安永・天明年間(1716~88)には、本家は瓦葺、附属家屋で裏借家は板葺が見られた。

【百姓のすまい】
元禄6年(1693年)藩触書で農民の居住について規定している。「身体(代)に過候屋作不仕」ことを基本線として、住居の大きさは三間梁までと制限し、座敷をつくってはいけない、ひさしを出してはならぬ。畳は無用のことだといった厳しい住居統制であった。そして田畑をつぶし新地に家を新築することを禁じ、果樹や茶園以外に樹木を植えさせないとは、農本政策が住居にまで現れていることを示している。 『彦史』中冊P471
◎「三間梁」規制とは、建物の大きさを三間(畳縦三畳分)すなわち約5.4mまでに規制するもの(享保の改革 1716-46年による)

【北前船】18世紀中頃から明治30年代にかけて、荷物を積んで船を港へ回す「廻船」(回船)で利益を得るものが流行り、京や大坂の人はこの帆船ことを北前船と呼んだようです。この船は、、[続き ]

宝暦2年(1752)3月、彦根藩、四宿、本陣・問屋、名字帯刀の御免を願う
乍恐以書付奉願上候 (恐れ乍(なが)ら書付け以て願い奉り上げ候)
一、御領分四ヶ宿御本陣問屋共儀、先規相候節、苗字帯刀御赦免被下置相勤申由、
        、、(略)、、
 宝暦二年申三月
    愛知川宿 御本陣  甚五左衛門 (印)
         問屋   清次郎 (印)
    高宮宿  御本陣  四郎右衛門 (印)
         問屋   次右衛門 (印)
    鳥居本宿 御本陣  庄兵衛 (印)
         問屋   太右衛門 (印)
    番場宿  御本陣  長右衛門 (印)
         問屋惣代 助三郎 (印)
   御奉行様         (塩谷家文章)『新彦史7巻』622
◎1801年(苗字帯刀の禁令)以前で「名字帯刀の御免を願う」だから、これまでに(秀吉あたりが出したもので)民衆に徹底させる厳しい禁止条項があるはず。どの藩についても、不文律でやっていけたところ、何か腑に落ちない。 (出典確認中)

宝暦2年(1752) 京都岩倉、石座明神(現・山住神社)鳥居奉納

宝暦5年(1755) 大飢饉(天正以来の)翌年にも及ぶ『京都の歴史3 町衆の躍動』

宝暦6年(1756) 彦根藩、「宿々並往還筋」布令
*同年の布令では商人の存在を認めたばかりでなく、願い出れば吟味の上在郷商業も許したし、また町方商人の郷村への行商も許可した。ただし町方商人はあらかじめその目的と日程を筋方奉行へ届け出て行商鑑札の下付を受けねばならなかった。そしたら、筋方から村々の庄屋へ商人の行商予定を通知しておき、商人が村へ行くと、すでに庄屋が「あるき」に各家の注文をとらせてあり、「あるき」はまた現品引替で家々の買代金を集めて商人に渡した。庄屋が一時商家の機能を代行したわけである。このような面倒な手続がとられた理由は明らかではないが、あるいは農民が町方の商人と直接に結びつくのを嫌ったためかとも考えられる。
*農業の余暇に「糸・綿・学・布・畳表・炭薪・魚鳥之類」を産出販売することは、宝暦6年(1756)の布令において既にこれを奨励している。 上2つ『彦史』中冊P25
◎岩倉村への商人の出入りはいかに。牛や馬は四つ足になると忌み嫌って食べないから、鳥類はあるものの魚類の入手はいかに。茶屋のみが先行している。1690年以降、京や他国から来た参詣人、参籠人のものの出入りが激しくなるから、「門前町」では各種の店が出てもよいと思うのだが。団子、蕎麦なども茶屋が商っていたか。

宝暦11年(1761)10月、彦根藩 柳川騒動
*積銀御免の一揆。愛知川南筋の百姓が起こした百姓一揆。直接の役人であった柳川(田付)新介(愛知郡柳川村(現稲枝町柳川)の郷士)を襲撃し、五万余名に膨張した勢力が彦根表に進撃し、遂に藩庁をして積銀の停止を布令させることに成功した。
首謀者数名は捕らえられ、新助は謹慎を命ぜられた。その後、新助は謹慎を解かれ、入牢していた首謀者も罪を許されて釈放された。これは藩主直幸が、この事件を自らの政治の不徳としたものであると伝えられている。この騒動は彦根藩における最初の一揆である。 「稲枝の歴史」
・(彦根城下町の)下魚屋町で確認されるように、農村から城下町に移住してくる時に、武家奉公人となっているケースが多い。彼らの多くは町へ借家人として入り、その後に家屋敷を購入して家持となったり、また商売を始め町人として生活している。周辺の農村から城下町に移住する際に、武家奉公人という、「職」が受け皿の一つとしてあったことが分かる。『新彦史2巻』360
◎城下町へ入り居住するには伝手(保証人)がいる。城下へ入りたがる理由が分かりずらい。これも一つの答えか。

宝暦12年(1762)、六条、七条新地の24町
*宝永3年(1706)に正面通南側、正徳2、3年頃に正面通北側が開発され、、正徳3年(1713)「月堂見聞集」には「七条川原新地出来、高瀬川筋を掘替へ少々民家建つ、妙法院様御領地也」とある。
「京町鑑」(宝暦12年刊)に、正面通南側の12町を「七条新地」、北側の12町を「六条新地」とする、とある((『コトバンク』)。なお、昭和33年(1958)の売春防止法施行により遊廓としての幕を閉じ、「五条楽園」と名称を変えて2011年まで営業していた。

宝暦12年(1762)、松前藩の御用金の調達
*寛延4年~天明3年(1751~1783)の調達額は8,700両にのぼった。
恵比須屋(八幡)岡田弥三右衛門86両材木屋 (柳川)建部七郎右衛門83両
福島屋 (柳川)田付新助83両浜屋  (柳川)平田与右衛門83両
天満屋 (薩摩)巻渕勘兵衛83両 近江屋 (八幡)西川市左右衛門82両
住吉屋 (八幡)西川伝右衛門62両  :  以下略 
                『近江商人と北前船』123
◎上記は、近江商人で結成された「両浜組」からの調達額である。彦根藩の御用金はこちら

明和4年(1767)、若狭にて鯖の大漁なり
サバミチ *若狭の鯖は江戸中期には豊魚であったらしいです。『稚狭考(わかさこう)』は、若狭小浜の町人学者板屋一助が同年に著したもので、その中に「鯖のおほくとれる時は一人一夜に弐百本釣り、二宿一船に三千、もっとも大漁なり」とあります。また、小浜から京の鯖街道で知られる道は五つ上げています。(百街道一歩の道中記より)

明和3年(1766) 京都岩倉、八所明神・十二所明神社 社殿改造
・社殿は賀茂社の様式「一間社流造」
・また、天明3年(1783)には、十二所明神社「鷺之図掲額」奉納される。

明和6年(1769)7月 彦根藩、松原村庄屋左次兵衛、庄屋役引退を願う
左次兵衛は年貢米を扱う米宿の仕事に専念するため、庄屋役退役の願書を作成する。『新彦史7巻』247
*左次兵衛の屋敷と土蔵は東表町の前川に面した場所(松原御蔵の北側)にあった。『近江の商いと暮らし』243
◎「米宿」の仕事とは、領内の村や藩士の知行地からの年貢米をいったん自分の土蔵に保管し、松原湊の2つ御米蔵に収め保管するもの、藩士の屋敷に送るもの、大津蔵屋敷に送るもの、に仕分けをすることだ。左次兵衛は「庄屋」というと名誉な役柄をもっているのだが「米宿」の仕事が忙しすぎたのか、退役を申しでた。
・「米宿」の多くは「橋船」を持っていて、その「橋船」(御役艘)が、松原浦で丸子船から陸揚げまでの橋渡し、藩士知行地からの米の搬入、藩士屋敷へ米の積み出しに欠かせなかったという。

明和8年(1771)1月22日 京都岩倉、作物不作の状況
*一、去年旱損ニ付、神人仲間殊之外、及難儀候間、御合力被思召、
    (以下省略)
                     惣代  山本弥兵衛 (印)
  明和八年               一和尚 伊佐平三郎 (印)
     正月廿二日           一和尚 伊佐茂右衛門 (印)
  下鴨御会所
     御役人中様

*当村、近年打続不作ニ至、殊之外凶作仕、、(以下省略)
                     中村神人一老 今井 石見 (印)
  文久元年(1861年)酉                 山本 出羽 (印)
     三月              惣代     蔭山 加賀 (印)
  御会議所
     御役人中様
◎以上2つ『伊佐(功)家文書』(中町の伊佐家)は、下鴨神人の、領主下鴨社への口上書。蔭山家は解脱寺法師家西川家の弟筋です。旱損(かんそん)とは干ばつ。
・中村には下鴨の神人が60人いたとされる。小倉山東(現・岩倉中町通り)を挟んで住民の移動が見られる。

明和8年(1771)夏 宇治、伊勢おかげ参りが大流行
*4月11日、宇治から女・子供ばかりの集団が仕事場の茶山から無断で離れて、着の身着のままやってきたのが明和のお蔭参りの始まりと伝える。参詣者:200万人 当時の日本総人口:3110万人(1750年) 発生地域:山城の宇治 期間:4月~7月(5ヶ月間)
・京都の参加者は10日間に10万余名、多い日は1日で2~3万、全国からの参加者は①ヶ月間で150万(一説58万)をこえた。彼らの大部分は無一文にひとしく、施行をうけながら群れをなしてゆくから、それは、まさに壮観であったろう。『京都府の歴史』

安永4年(1775) 彦根藩、奉公人耕作田畠の年貢不納につき、藩への願書
*同年4月、彦根城下近在の十一カ村、彦根家中・奉公人耕作田畠の年貢不納につき、藩への願書を作成。村々:中藪村、後三条村、平田村、山之脇村、岡むら、西沼波村、大橋中村、大橋村、外町、安清村、里根村  『新彦史7巻』154
・安永5年(1776年)10月、彦根城下近在の五カ村、町方居住耕作者の年貢延納につき、彦根藩へ町触を願う。村々:大橋村二、大橋中村、外町、西沼波、安清村一  『新彦史7巻』155
◎家中の奉公人や城下町の住民が、隣接する村々の田畠を耕作するはよいのだが、年貢未納者や滞納者が多く、村が肩代わりをして上納している状況がある。放置しておくと、村の存続さえ危ぶまれる事態となる。
・町家・武家の奉公人が近在の村から城下へ、また町や家中の耕作者が城下から村々へ、人々の出入りがあったんだね。

安永7年(1778)4月、岩倉村内の家数と人数
棟数合百九拾八軒
  内
 六拾八軒    本郷高持百姓
 拾軒      寺庵高持寺
 三軒      隠居之寺庵
 四軒      本堂
 壱軒      客殿
 三軒      角殿
 弐軒      隠居
 弐拾九軒    土蔵
 九軒      請作 
 六拾九軒    小屋
 - - - - 
人数合四百弐拾人 内 男百九十九人 女弐百弐拾一人
  内
 三百八十四人 男 女 (不明か)
 六人      高持百姓 (?、下と別記載の理由不明)
 壱人      高持百姓
 三人         (?)
 廿六人     請作    (橋本(健)家文書)『史料京都の歴史』

◎上記の原文に水呑とあるものを「請作」としました。[近江国の松原村と比較]
・「本郷高持百姓」68軒は本百姓、「侍分中間」「明神宮役中間」「公人中間」の合計と考えてもよいのでしょうか。35年前の1743年には、八所・十二所明神(石座明神)の祭りで鉾五本、神輿二社がでています。
・農村自体は領主の違いもあり本来閉ざされた社会です。ですが、商人や他村からの流入もあるでしょう。その違いを「本郷」の文言で表現したものでないでしょうか。
 1690年には参詣人相手の茶屋が114軒出ていて、地方からの出店もあるでしょうが、定住する人も現れるでしょう。また岩倉と中、花園は領主に共通の部分があり、特に岩倉村は中村との関係が深いようで請作(小作)があり、「ひよっとして、祭りにも応援があったのでないか」と考えるのは私だけでしょうか。
▼上記の数値は、岩倉村の純農村の部分だけのようで、寄留や町屋(他郷から来て(?)つくられた、門前町)を除いているように見えます。100年後の、明治10年(1877)代の「京都府地誌」によれば岩倉村は、戸数132、人数1049と戸数は約2倍になっています。明治14年(1881)、「京都府郡政御役所」の寄留などは差し引いて227戸です。【長谷八幡宮

安永7年(1778) 彦根藩、「安永七年 彦根町方万留書」
・この資料で、彦根城下の各町内の町役人の数がほぼわかる。
 使用分類記号:(*)印:年寄横目の数、(2)印:丁代横目の2人、()印:丁代横目町並之役引
 丁代と町代(惣代)は同じと思える。すべての町に横目1名がいる(町代もほぼ1名いる)。
内町19町で611軒外町32町で1、262軒としているが内町18軒で1軒少ない(埋堀町を欠く)。以下、資料から町役人を数え上げる。太字の町は古町。( )の右数は軒数(大洞弁財天寄進帳による)。
内町本町(*4)217、上魚屋町(*3)88、元川町(2)、紺屋町()60、伝馬町()86、通り町(2)27、白壁町(2)51、内大工町()55、鍛治屋町()26、油屋町(2)39、佐和町(*3)95、上細工町()37、四十九町(*4)、石ケ崎町(2)、桶屋町(2)37、下魚屋町(*3)、職人町()18、連着町(2)
外町彦根町(*3)55、柳町(2)69、外船町(2)92、裏新町(2)85、瓦焼下横町(2)66、瓦焼下之町(2)78、瓦焼上之町(2)、瓦焼上横町(2)78、東新町(2)126、外大工町(2)58、小河町(2)128、安養寺中町(2)69、安養寺町(2)78、池須町()18、中藪上片原町()、中藪土橋町()、中藪下横町()、中藪下片原町()、土橋町(2)22、河原町(*4)193、橋本町(2)、袋町(2)164、安清町(2)103、善利新町(2)89、平田町(2)89、小藪町(2)、橋向町(2)、後三条町(2)93、善利中町(2)67、大橋町(2)71、岡町(2)62、沼波町(2)97

【内訳】
★本町:年寄3横目1 /上魚屋町:年寄2横目1 /佐和町:年寄1丁代1横目1 /四十九町:年寄3横目1 /下魚屋町:年寄2横目1 (以上は古町) 内町:年寄11名
★彦根町:年寄1町代1横目1 半軒鍛冶屋役、残り三十三軒半年貢地 /河原町:年寄2町代1横目1 外町:年寄3名 彦根町、河原町以外:すべて年貢地   『彦史』中冊10
◎年寄は村でいうと庄屋に相当する。横目は元来は藩からの監察、町代は町の利益者代表でまたは惣代、丁代と同じ。はじめは、本町、四十九町、魚屋町、佐和町の四町で始まり、次第に発展は外町にも及び、最終は四つの手組みに組織化されたのではないでしょうか。年寄の数が多いほどその町に有力町人が多く居住するということで、また古い町(地割り頂戴町)といえます。年寄がいるのは、内町の5町(古町)と彦根町、河原町です。

z_zyouka 【地図の解説】江戸末期のもの(出典不明)。(現在の堀埋立図の参照)
・南側一番下、青色で東西に延びるのは善利川(芹川ともいう、彦根城築城時に付け替えている)。その上で城を囲むのが外堀。その内側が中堀。またその内側が内堀。内堀と中堀は北の内湖と繫がっている。彦根城の出入り口は、琵琶湖へ「腕のよう」なものが延びているが(図の左端)、ここが松原湊の出入り口。ここから領内で取れる米・魚・特産物が入ってきたり、商取引の物資が出入りする。
・江戸初期には、外堀と内堀の間にある『本町・四十九町・佐和町・上下魚屋町を内町の四町と云て頭分の町といい』ここが中心であった。江戸中期以降は城下町も広がり命令系統を徹底させるため、本町手組、四十九町手組、彦根町手組、河原町手組の四つ手組みに分けられた。初期には上下の魚屋町は一つであったようだ。
・内町の本町手(各町を赤枠で示す)、四十九町手(各町は本町手の西側に位置する)は内堀と外堀の間に見える。外町は外堀の外で、彦根町(佐和町の北に頭町の彦根町)、河原町(通り町の南西に頭町の河原町)が見える。

sanhasi 安永9年(1780)9月 『京都武鑑』が刊行
 この年、『都名所図会』が刊行され、爆発的な売れ行きとなる。次は『都名所図会』記載の2枚。
[右図の説明] 下図の四条仮橋と違い石柱の三条大橋である。「石積」が見える。鴨川の流れは右から左。東岸から西へ見た図である。中央奥に「木や町」、三条通の先「高瀬川」に架かる「三条小橋」の文字が見える。橋を渡った左側に「瑞泉寺」、河川敷に人の往来が見える。行列らしいものが三条大橋を渡っている。大名行列は三条大橋を避けるはずだが。中州は小さい。
sizyouhasi [左図の説明] 鴨川の流れは左から右。鴨川の北西から東を見た図。右下から中央へ四条通が伸び、四条仮橋が2つかかり、中央一帯は「鴨川の中州」である。中州のあちこちに臨時の「芝居小屋」「見世物小屋」、人の賑わいがある。提灯を付けた「納涼床・川床」が夏の風物詩として、現在の四条以北の鴨川西岸に見られるが、川の東岸に多数見られ観光客で賑わっている。その川床は川の東岸にまで及んでいる。『「四条河原夕涼み」は6月7日より始り、同18日に終る』とある(祇園会期間が含まれる)。図の光景はこの期間のみであろう。新暦では7月12日~22日あたりに相当するか。

 常設芝居小屋は、延宝4年(1676)頃には四条通南側に3軒、北側に2軒、縄手(大和大路)四条上がる1軒(2軒のときも)、計6軒(7軒のときも)あった。数度の大火に修復されず、江戸中期には四条通の北と南、大和大路西側の3座になり、幕末期頃には「南座」とその北側の(道路拡張により明治27年廃す)「北座」になった。四条のみならず河原が猿楽田楽の勧進興行で興行地として利用されるのは、ほぼ応仁・文明の乱以前で、以後興行地は洛中に移り、室町時代中・後期には、河原での芸能はみられなくなる(コトバンク)。
 出雲阿国の興行地の変遷を見ると、五条橋東詰、北野社の東、三条縄手の東、祇園の町のうしろ、があった(1603年より前)。「京中これにうかされて、見物するほとに、六条の傾城町より、佐渡島といふもの、四条川原に舞台をたて、けいせい数多出して、舞をどらせけり」(東海道名所記)。四条河原に先立って五条河原が芸能興行の拠点となる時代のあったことを示唆するという。

天明2年~8年(1782-1788年) 天明の大飢饉
*東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減。天明3年3月12日岩木山が、7月6日には浅間山が噴火し、各地に日射量低下による冷害をももたらし、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状。しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどい。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減を招いたとされる。農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化した。それ以前の1786年には異常乾燥と洪水が起こっていた事も重なり1787年(天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われ、無法状態が3日間続いたという。その後全国各地へ打ちこわしが波及した。これを受け、7月に幕府は寛政の改革を始めた。(Wikipedia)

米1俵の値段 彦根御蔵売米一俵ニ付直段書(地域差あり、彦根藩の祖米は四斗詰)
  安永1年(1772):18匁
  天明2年(1782):28匁8分
  天明3年(1783):30匁5分
  天明4年(1784):36匁5分 ※天明飢饉4~8年
  天明5年(1785):42匁
  天明6年(1786):50匁    江戸時代中後期、金一両は銀貨六十匁
  天明7年(1787):68匁5分  米1俵を銀25匁 (1802年彦根藩より)
 ▲天明8年(1788):71匁3分  金一両 → 約75,000円相当とする
  寛政1年(1789):36匁5分  米1石(2.5俵)が銀62.5匁で金1両と2.5匁
  寛政2年(1790):28匁8分  
  寛政3年(1791):23匁5分  銀1匁は 75,000円÷60=1,250円(1両が7.5万)
  寛政10年(1798):25匁5分       130,000円÷60=2,167円(1両が13万)
   :             
  享和1年(1801):20匁8分  1俵(25匁)は1,250円×25=3万1,250円
  享和2年(1802):20匁6分    武士の俸禄は[扶持の年収]
  享和3年(1803):20匁8分
  文化1年(1804):23匁3分   「一分銀」と「一分金」とは等価
  文政7年(1824):22匁8分
  天保1年(1830):34匁
  天保3年(1832):30匁8分
  天保4年(1833):45匁
  天保5年(1834):54匁   ※天保飢饉4~10年
  天保6年(1835):67匁
 ▲天保7年(1836):98匁
  天保8年(1837):48匁5分  1貫=1000匁=10000分
  天保9年(1838):49匁5分  「一分銀」と銀1分(この分は量)は違う
  天保10年(1839):28匁8分  
  嘉永1年(1848):38匁
  安政1年(1854):37匁3分   『彦史』中冊P122

◎1802年の彦根藩歳入出表で、総歳出167,155両は銀で167,155×60匁=10,029,300匁 10,029,300匁÷401,137俵=25.00218匁で、1俵=銀25匁で計算している

天明5年(1785) 伏見奉行、小堀政方の悪政
◎小堀政方(在任:1761-1785)は、近江国浅井郡小室藩6代(最後の)藩主。天明の飢饉によって民衆が困窮する中、政方が行き詰まった藩財政と自らの浪費のために、伏見町民から総額11万両にも及ぶ御用金を不法に徴収する。、、悪政の一つをあげる。所司代久世広明が小堀家の家宝である明国伝来の茶釜"在中庵"をみたいといってきたとき、家計の不如意から1000両で入質してあったので、政方はおおいによわった。そのときめかけお芳が、伏見の豪商から御用金をとりたてることをすすめた。豪商27人がよばれ、茶釜は質屋から政方の手にもどった。
 天明5年(1785年)、悪政に耐え兼ねた伏見元町年寄の文珠九助、丸屋九兵衛ら7名が政方の非道を幕府(松平伯耆守)に直訴。政方は伏見奉行を12月27日に罷免された。文珠九助らは取り調べ中に獄死している(七人の同志のうち五人までもが死去(一人は江戸、四人は牢死))。「伏見義民之碑」が伏見御香宮南側門を入った左手に建っている。石碑は明治20年(1887)の百年祭に建てられ、碑文は勝海舟が撰文し、題字は三条実美が揮毫した。また、伏見の大黒寺には、江戸に赴いた伏見義民が死を覚悟して送ってきたという遺髪を寛政年間に埋めた「伏見義民遺髪塔」がある。
 翌天明6年に老中・田沼も失脚すると、政方は反田沼派であった松平定信から親田沼派として粛清の対象とされて、天明8年5月6日に伏見奉行在職中の不正を理由に政方・嫡子の政登も改易された。領地没収、家士の財満平八郎は死罪、小堀家の家来、伏見奉行与力、同心衆も処罰される厳しい裁決であった。
 祖先の小堀政一は小堀遠州で有名で、茶道・作庭の名人で二代目伏見奉行をつとめた。また曽孫(政方の父)政峯も奉行をつとめている。政方の妾お芳は江戸の医者半井立仙の女、その姉は田沼意次の妾であったから、政方が38歳で近江小室一万石の大名から伏見奉行に抜擢されたのは、田沼の推挙による。(伏見奉行所は、遠州が元和9年(1623)就任で、その在任中に、御陵石段の下から現在の桃陵中学校北の団地があるところに移転、いまの奉行町の町名が残っている)
 小堀政一--正之--政恒--政峯--政方(改易) 小室藩初代・政一は正次の長男。母は磯野員昌娘。本姓は藤原氏だが、居住して村名を姓として名乗った

天明8年(1788)1月30日 京都、大火、1424町を延焼し、二条城も焼失
*団栗辻子(どんぐりのずし/四条大橋から一つ南の団栗橋、鴨川東の東山区六軒町)から出火し、東は鴨川の東、西は千本通、北は鞍馬口通、南は七条通までの範囲(京都市街の大半)が焼失した。「天明の大火」と呼び、度重なる大火を経験した京都でも史上最大規模の火災であった。
【辻子(図子)】は 通りから家と家の間の細い道を行くと、次の通りまで行けるもの。これに対して、路地(ろじ、ろうじ)は突き当たったりコの字形で元の道へ戻ってきたりする。本来の路地は「露路」で表し、屋根がない路のこと。
heian08 [地図の解説](地図8)
①地図は、天明・文化の頃(1781~1817年)のようす。
②高野川のところ御土居が撤去。出水通から五条通で御土居が撤去で「石積」(石垣)としている(赤線)。
③本能寺の東側の紫線は御土居の残部です。
④禁裏、仙洞御所、公家衆を含めた大きさ・位置(黄色の部分)は、今の御所とほぼ同じです。
⑤寺町の寺院が出水から二条通でなくなっている。
⑥旧五条が松原通になり、万寿通の下の橋通が名称変更で新五条通になっている。
⑦現在の河原町通と木屋町通が見られる(川原通と樵木町通)。
⑧洛内外で農村の数が増えている。
⑨現在、鴨川以東の幹線道路は川端通・東大路通・白川通です。これら南北通が順次あらわになっていきます。鴨川すぐ東の川端通はその気配がある。以下、東へ順に、大和大路通は三十三間堂・方広寺・建仁寺すぐ西で、現在では三条で消えている。東大路通が妙法院・智積院の西、祇園社の西、熊野神社の東に、知恩寺の西へ伸びるのが見えるようです。白川通が岡崎村から吉田山の東へ、今出川通へ伸びるのが何とか見えるようです。白川通は東へ曲がりながら北上します。[延宝・元禄の地図へ]

寛政3年(1791)、高崎藩郡奉行 大石久敬が『地方凡例録』を著す
高崎藩主 松平輝和の命令を受けた郡奉行大石久敬によって『地方(じかた)凡例録』(地方書)が著される。明治になって孫の大石信敬によって補訂が加えられた。当時の武士・役人から高く評価され、水野忠邦もその写本を取り寄せている。更に明治政府の内務省においても研究され、近代地方自治制度にも影響を与えた。内容は総論から始まり、石高・検地・新田開発・度量衡・義倉など、領主及びその代官・役人が地方(領地)支配を行うにあたって重要な事柄についての解説がほぼ網羅されている。
*『地方凡例録』では、百姓の苗字帯刀が許された者と苗字を名乗る者が区別され、苗字を名乗ることも「免除なくては相成らざる処」と記されている。また江戸町人の苗字帯刀にもふれ、町年寄の場合には、徳川初代より帯刀を許されていたが、天和三年(1683)以降は「用達(ようたし)どもは一統帯刀停止(ちようじ)」になったと記されている。
◎『地方凡例録』は写本として全国に伝わるから、当時の「地方役人の手引き書」となったと思われる。
◎武家と庶民(農・工・商)の分離は、全国的な法令として「刀狩り」で始まり、享和元年(1801年)7月の江戸幕府発「苗字帯刀の禁令」で完結したのであろうが、実際には「地方書」などで一般的な見解となり、この年の決着となったのではないか。苗字禁止については、長く不文律であり、財力があり他所へ移動する町人より百姓で徹底していたようで、1801年に「帯刀」と抱き合わせで明文化されたのでないか。
◎庶民の「苗字帯刀禁止」のみならず様々な事(バテレン禁止令など)が、幕府の号令で全国へ普及するのは参勤交代に負うところが大きいと思う。江戸で実際の実務に携わるのは江戸留守居役であり、藩生き残りをかけて守居役の間で交流を図り、幕府の御機嫌取り外交が展開される。当時は木版印刷はあるものの、100頁にも及ぶ印刷はしていないであろうから、写本の形で全国に普及しただろう。主な地方書として、『地方の聞書』(1688 - 1704年)、『地方落穂集』(1763年)、『農政座右』(1837年)、『算法地方大成』(1829年)などが上げられる。
・『算法地方大成』については、天保8年(1837)5月許可を得て江戸で刊行されたが、同年8月専門知識の普及を嫌う幕府代官たちの意向により絶版になったといわれる。その内容は、租税の部、普請の部、量地の部の3部からなり、専門用語には仮名が付され、随所に解説図が挿入されている。著者とされる長谷川寛(57才 1782-1839)は天明2年江戸に生まれる和算家。日下誠に学び、長谷川数学道場を開く。弟子の名で数学書を多数刊行する。千葉胤秀(たねひで)の『算法新書』は著名。図形の性質をしらべる変形術,極形術という方法を創始した。

寛政8年(1796)2月、彦根藩主直中、[手跡指南職仲間十二株]を定める
*従来多くあった寺子屋を限定して、手習師匠を12名と定め、藩の教育方針を示して、これをまもらせることにした。
*城下の寺子屋手跡指南所が十二株と限定される以前から存在したし、城下以外にも存在した。士庶僧俗の別なく、四民平等に入学が許可され、男女共学が一般的。「よみ、かき、そろばん」師匠になる人は町人がほとんど。、、生徒数は20~60名ぐらい。男子は7・8歳、女子は6・7歳で入学。在学年限は男子が3年から5年(中には8・9年)、女子は1から4年ぐらいで、、 『彦史』中冊580

◎次は、手跡指南(寺子屋の師匠の名前)です。
 寛政8年(1796)文政9年(1826)安政年間(1854~1860)明治5年(1872)
上魚屋町喜右衛門若林又蔵若林又蔵若林又蔵
佐和町甚三郎西村甚三郎西村泰庵西村泰庵
彦根町与兵衛小倉与平小倉与兵衛小倉与衛
東新町瀬兵衛中西清平中西常三郎中西常三郎
袋 町弥左衛門力石金八上河原町:力石孫左衛門力石弥左衞門
中藪上片原町九郎左衛門 湯次寿貞八湯次寿貞八
安養寺町仁右衛門 西村留三郎西村留三郎
後三条町三平   
  富岡産平善利中町 富岡平三富岡平三
  西村清五郎連着町 西村静吾西村静吾
下魚屋町助左衛門   
本 町    
柳 町喜兵衛   
岡 町左近右衛門   
  中村イ?介  
  夏原数右衛門  
『新彦史2巻』628 、『彦史』中冊576
彦根城内・内町の子供達は上魚屋町と佐和町の2軒の寺子屋に絞られていく。他は人口が増加の著しい外町。師匠は代々引き継がれている。文政9年以降は苗字を名乗っている。はじめは既存のものを認め、以降は「公式に認め評価していること」を窺える。
・「十二株」の「株」というのがしばしば出てくる。「藩から許可書を授かったもの」または「藩から許可書」と考えて良いだろう。[手跡指南職仲間(てならいしなんしょくなかま)十二株]とは、彦根藩公認の城下の寺子屋、「手習いとして許可された仲間が12名」いるということだ。
・城下町で米屋、酒屋、魚屋、質屋を行うにも藩から許可されたそれぞれの株(許可書)がいる。それぞれの同業者のことをその株仲間といいそれぞれ定めがあった。これをやむなく譲渡(売買)する場合は町奉行宛の願書が必要であった。

寛政9年(1797)、彦根城下伝馬町、「婚礼の献立」
*同年、城下柳町の大工・村田家の「諸事留」から、伝馬町泉屋新七から嫁をもらったときの記録である。
二月二十六日道具が来たときの道具持宰領人の献立は、、(省略)、、
そして二十八日の婚礼の献立は次のようであった。
 鱠(なます) けんふな  汁(氷魚、とうふ) (※氷魚(ひうお:鮎の稚魚))
  香之物
 坪皿 くしかい 長いも 牛房 くわひ こんふ
 引而
  平皿  小鯛 かけしる
 大ちょく いか 黒あへ
 台引  焼玉子 披(ひら)キかなす
 酒 硯ふた  しいたけ もろこ 玉子 小むめ干 かまぼこ 揚氷魚 九年甫
 酒 ちょく  うるか
 酒 吸物  鯉切目
 酒 鉢肴  ぼうふた
 酒 鉢肴  ますニ花うど
相当な御馳走が並んでいる。
さらに二十九日には近所の内儀たちを招待して披露宴をひらいたが、その献立は、、(省略)、、また、同日部屋見舞の献立は、、(省略)、、という料理であった。祝儀の記録をみても酒二升をはじめ、八〇数人からの祝儀があり、町人といってもかなり裕福な町人の例である。
◎、、だから、分相応と(武家)にいわれてしまうことだろう。当時、大工の棟梁というのは高給取りなんだ。

寛政11年(1799)11月3日、彦根藩校、「稽古館」の発足
稽古館ができたので御家中・御知行取衆の家督及び部屋住で15才より31才までの者は毎日怠らず出校せよ。
一、稽古館にての素読は孝経と四書だから、書籍を用意すること。

一、子供衆が稽古館へ出入りする節は二十才以上のものが道中の世話をする。
一、毎月の休日は後で知らせる。
◎なんと、お急ぎのようです。         『彦史』中冊
・藩校の設立は城下の寺子屋より遅い。あわてて藩校を設立する始末。それ故、はじめは15才より31才まで登校。
・時流として全国で藩校が設けられる。時の為政者にとって「教育が大切」というのは大分遅いが、これを機に、国民全体が教育に熱心になるのは、アジアでは断トツに早い。これが明治維新へと繫がる。藩校は、寺子屋(庶民教育)に後押しされたかたちだろう。

【幕府直轄】
 昌平坂学問所、「昌平黌」(1790年)とも称す→一部、東京大学
【藩校】
 彦根藩:稽古館(1799年)→弘道館(1830年〜1868年頃)→現・彦根東高校
 岡山藩:花畠教場(1641年)→岡山学校(1669年)→現・岡山大教育学部など
有名なもの
 会津藩:稽古堂(1664年)→日新館→現・福島県立会津高等学校
 米沢藩:禅林文庫(1618年)→学問所(1697年)→興譲館(1776年)
 長州藩:明倫館(1719年)→新明倫館(1849年)→萩明倫館(1863年)
 中津藩:進脩館(1796年〜1872年)
 佐賀藩:弘道館(1781年)
 熊本藩:時習館(1755年)
 鹿児島藩:聖堂(1773年)→造士館(1786年)
*家光までの武断政治から文治政治への転換と共に、藩校が各地に設立されていった。全国的に藩校が設立された時期は宝暦期(1751年〜1764年)以後であり、多くの藩が藩政改革のための有能な人材を育成する目的で設立した学校が多い。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加わった。(Wikipedia)

享和元年(1801) 彦根藩、町人代官の廃止
常時十人前後の城下町の町人が代官を勤めていたが、機構が改編され知行取り藩士の役職となる。
*享和元年(1801)正月晦日、清凉寺で行われた法事において、彦根藩の家臣のみに許された拝礼を代官(町人)も行ったことが「不敬」「言語道断」、、と叱責を受け、「御紋付御上下」が取り上げられ、帯刀も差し止めとなった。、、この時の代官として、藤野五兵衛、高宮源三郎(不在)、宮田四郎兵衛、中村与次右衛門、片木弥次兵衛、村田久次郎、早崎吉兵衛が挙がっている。雨森伝兵衛、広瀬次良右衛門は病気ゆえか引き籠っていたのだが、同様の処分を受けた。、、体制自体を藩が問題視するようになった、、 (正徳5年の項目参照)『新彦史2巻』388
◎TV時代劇ドラマで見る代官は武家ですが、彦根藩では1801年まで有力町人が行っていたのです。御用金の献納も快く行ってきたのに、ここに来ていきなり「身分不相応」でなことで廃止されました。商人(町人)の台頭も全国的なはず、それが許せぬと。同年7月「苗字帯刀の禁令」、全国的な見解が示されました。

享和元年(1801)7月 「苗字帯刀の禁令」江戸幕府が発す
*百姓・町人の苗字帯刀禁止の御触書。領主や地頭に対し、近時やたらに増えている知行所の百姓、町人の苗字帯刀を取り締まるよう、、、通達している。 (出典確認中)
◎これまでは(帯刀は1683年令あり)不文律であったものが法令になった。間違いなく多くの庶民にも苗字があったのだ。明治3年(1870)9月平民苗字許可令、明治5年(1872)2月壬申戸籍の施行、明治8年(1875)2月平民苗字必称義務令、結局のところ法令として禁止されたのは70年間。

miyok 享和2年(1802)、彦根藩歳入出
米額金額摘要
彦根藩歳入326,912俵(136,213)両物成
 : : 
401,137俵(167,155)両収入合計
彦根藩歳出10,499表4,367 両内延費Ⅰ (奥方勝手方入用)
5,139表( 2,138)両内延費Ⅱ (奥方勝手方入用)
260,332表(108,470)両給与
15,112俵( 6,385)両諸扶持手当
6,700表( 2,790)両救恤(きゅうじゆつ)費 (被災者,貧困者等援助)
:(略):(略)
401,137俵(167,155)両支出合計
彦根藩歳入出 米額:401,137俵/2.5 → 160,452.8石(16万石)『彦史』上619
◎彦根藩の年間予算は、約16万7,155両、この内給与(10万8,470両)が64.9%であります。諸扶持手当(6,385両)を入れると68.7%になります。70%近くが人件費の出費です。
◎城附け米(幕府からの預かり米で、毎年新しい米と交換される)5万石を除けば、30万石あるはず。足りない14万石はご家来衆(知行取藩士)の取り分。16万石は知行取以外のご家来衆すべての給与を含めた、殿様の取り分であろう。本来なら知行取藩士の分14万石を含めた歳入歳出30万石を扱うべきであるが。 (1615年20万石、1618年25万石、1633年三十万石)
◎諸扶持手当とは、藩士・中間・小者・役夫・職人等に対する出張手当、旅費・日当・手間賃の支給、それに馬扶持(馬の飼料・大豆等:約7,000俵)の合計が15,112俵(6,385両)となっているようだ。

[[ 禄制 ]] 家臣への俸禄には土地を給与する、米穀を支給するものがある。
【知行取】
・土地(知行地、給所)を与えられた。
・比較的身分の高い藩士であった。
【切米取】
・御台所入地の蔵米を与えられる(切符(切米手形)と交換)
・身分の低い士(士以下の歩士・足軽など)に与えられる場合が多いが、新規に召し抱えられたか、引退して別の閑職につく時、一時の擬(あてがい)として与えられる。
・年三回(三月、六月、十二月に分けて)支給。春一、夏一、冬二の割合。
・勘定奉行に切符を提出し、裏印を受け、これを松原の米蔵奉行に渡して玄米を頂戴した。
【扶持米】
・御台所入地の蔵米又は現金を与えられる。
・何人扶持というように人数で示される。一人扶持は一日玄米五合、一ヶ月一斗五升とした。(扶持の年収)
・「何十人扶持を以て召し抱えられる」「何十石(俵)何人扶持を与える」など、士や歩行・足軽などの俸禄又は加俸として用いられた。
・下級の門番・手代・同心・各種人足・女中などの給料も扶持で支給される場合が多く、又士の出張旅費例えば、江戸詰、京詰の場合は士の身分、役柄に応じて「上り下り共何十人扶持」といったような具合に用いられた。
・元来玄米は一俵四斗二升であるが、便宜上一俵を四斗と定めて、別にその埋料として、二升を加え、これを指口といい、、
【馬扶持】
・50石高以上の士はすべて騎士が原則で、知行取はかならず馬を飼育しなければならなく藩から飼育料として馬扶持の大豆が支給された。100石より50石迄の記録がないので、当時100石以下の士はなかったからであろう。
【五畝畑】や【中屋敷】【下屋敷】
・直孝の時代に、千石以下の士に平等に「五畝(せ)畑」里根山又は平田山附近で山畑五畝歩ずつ与え、千石以上の知行取りの士に「中屋敷」「下屋敷」を与えた。中・下屋敷は本邸以外の広大な屋敷で、多くは外濠の外、中藪・池須・勘定人・北組などの軽輩の屋敷地もしくは長曾根・芹川・松原などの城下の村々に置いた。1畝=約99.17m2 ≒1アール=100m2
【加役料】
・本俸の他に、役職によって加俸される職務手当のこと。   『彦史』上P509
◎千石以上の士の数は、慶長12年(1607):25名、文化5年(1808):24名、明治1年(1868):24名。
◎御武家さんは、『千石以下の士には平等に「五畝畑」、山畑五畝歩ずつ与えた』とあるから、野菜の調達に八百屋へ行くことはさほどないということか。五畝畑は500m2ほど。ただし、知行取り藩士は、馬を飼育する必要がある。

享和2年(1802) 京都岩倉、鉾の吹散作成(中在地町)

文化元年(1804) 彦根藩、水路で米を大坂へ直送する計画 (断念)
z_ugikawa *彦根藩の勝手方西村彦之丞等は、佐和蔵の蔵米を売払うに当って大津の米商人等が故障を申立てたので、大津を経由せず(彦根からは、大津まで行かず唐橋下の瀬田川を利用)して水路によって大坂へ直送しようとする計画を立てた。この計画によれば「関の津」から宇治まで三里半(1,400m)の河道を開いて舟運を通じ、これによって彦根藩の城米10万石、勝手米3万石、同領内諸産物10万駄、その他諸藩の蔵米30万石、以上約53万石の輸漕が可能となる。従来のコースでは大津から六地蔵までの陸上運賃は、一石につき四匁五分であったのに、この舟運によれば凡そ一石につき二匁宛の運賃で済むから、経費は半額以下に軽減されると計算を立てている。文化二年十二月には丹波桑田郡山本・保津等の船夫を傭い西村等は千束岩辺まで下って実情を視察するなど、着々と準備を進めたけれども、各方面から苦情続出して目的を達することが出来なかったという。、、過去、元禄12(1699)年・同14年、幕府の企画によって、河村瑞軒が工を督して浚渫を行なったことがあり、また前出幸阿弥伊予等が敦賀・塩津間の運河開鑿を願い出た際に、瀬田川から伏見・淀に至るまでの水路を開くことも計画している。『彦史』中冊349

◎「関の津」とは、琵琶湖の南端から排出する瀬田川の南5㎞ほどの所。その先の瀬田川が750mほど川幅が狭くなり、右に左に蛇行しながら宇治川と繫がる。蛇行している部分がけっこう長い。慶長19年(1614)に幕府の力をもって角倉与市の技術を利用して行おうとしたようだが、詳細は不明。

【佐和蔵】は、大津港の多数の蔵屋敷の一角にある彦根藩蔵屋敷の蔵(幕府に次ぎ大きく9万俵もの米俵が収納できた)のことで、ここには彦根藩の役人や商人(居住区を多屋という)がいて、米を競りにかけて現金に換えている。こういった彦根藩の蔵屋敷が大坂にもある。「佐和蔵」は、彦根藩が石田三成から貰い受けたもので、佐和山城の「佐和」からくる。こうした取引の初見は正徳3年(1713)あたりか『彦史』中冊339
・「大津の米商人等故障を申立てた」とは、これまで北陸・北海道の産物や北陸地方の藩の米が、若狭・敦賀から九里半・七里半の峠を越え琵琶湖水運を利用して大津に入ってきたものが、西廻り航路が栄え、大坂へ直接運び込まれるから、大津港へ運んでも現金化に難渋することになってきた、ということ。で、経費節減のため宇治まで(その後は淀川にて大坂へ行ける)の水路を開く必要があり、実情を視察や準備を進めたが、各方面からの苦情があり頓挫したと。(当時、まだまだ貨幣経済の世ではなく、畿内や北陸の各藩は米の一部を現金化するため大坂や大津に運んで競りに出していた。)

・京都や大坂へ運ばれる近江の米・魚・その他特産物は、琵琶湖の水運で大津港(や坂本)に集積する。これを陸路の京都三条大橋や伏見港まで運搬する、これには相当な労力と運賃を要したようだ。ともかく、伏見港まで運べば、京都へは高瀬川(1611年開削)を北へ上り、大坂へは淀川を下る、が可能となった。

・坂本へ集積したものは、比叡山・日吉社の門前町である坂本地域で消費されるもの、余剰品は京都まで運ばれ現金化されるだろう。これは、馬借により雲母坂や志賀越道(山中越)を利用される。

文化2年(1805) 岩倉村から幕府の寺社奉行に提出した文書に
「氏神御旅石座大明神 境内長弐拾間 横拾弐間 岩立壱間半 横二間半 ・・・」と記載あり、これは、現・山住神社のことを指しています。注目すべきは、「石座大明神」となっているところ。
◎江戸期と思える(確証なし)現・山住神社の絵図に「石坐明神」ないし「石座大明神」の名称が記されたものがあります。
・御旅神主と宮神主の二人の神主がいて祭りを執り行ったとすると、神社・祭りは既に村民のもの(1699年村民が修繕をおこなう)になっていたのでしょう。二人の神主を立てたのも、これまで二人の力者棟梁が騎馬に乗り、祭りを差配した流れでしょう。

文化2年(1805)正月、彦根藩筋方役所等、村方に、、を禁ず
*村方商いの者の村方居住、木綿以外の着用、村方の請酒屋等を禁ずる
    昨年触書之写
  向後百姓共示シ方申渡
一、於村々商を致、田作不致者、向後村方ニ居住不指免事、
一、着用布木綿之外着用仕間敷事、(略)

一、近来村々ニ而婚姻ニ過分支度之趣以之外之事ニ候、向後百姓相応之支度ニ候、、
一、近来仏事ニ付百姓共甚心得違致、時節柄不相応之寄進物多致、、、
一、村々祭礼等之節酒喰ニ奢り、別而南之郡前々より大祭礼彼是心得違致候、、質素ニ致、、
     『新彦史7巻』82
◎庶民が大祭で酒をのみ騒ぐは心得違いをしている、か。婚礼と云い、仏事と云いこれに同じか。上記は領内の村方(農村)の例だが、庶民の生活全般は譜代筆頭大名だけに厳しい。(参照、大工・村田家の「婚礼の献立」)

文化3年(1806) 彦根藩・平田町で博奕(ばくち)の吟味が行われ、多数が領分払い、戸閉め処分
*文久元年(1861)には博奕の「宿」をかした者の名前が明らかになっている。「宿」とは博奕の興業者のことで、参加した者と同等以上に厳しく罰せられた。 『新彦史7巻』41

文化3年(1806)9月11日 彦根藩・伝馬町、魚屋町外で生魚店売をしたことを咎められる
*上・下魚屋町外で生魚店を営業すること禁止されていたが、同年に伝馬町の借家人が生魚を店売りし、料理茶屋のように客に酒肴(しゅこう)を提供する違反者が出た。
◎上・下魚屋町外で生魚店を営業すること禁止。しかも料理茶屋のようなことすべからず。[城下町図]

文化4年(1807)10月 彦根藩・伝馬町 兵次後家きの、隠子宿について取り調べを受ける
*通町才兵衛手代嘉兵衛与申者附近、、龍泉寺之女中ヲ一寸呼来り呉候様被相頼、則呼参り逢セ申候段奉申上候処、、、不埒不極之段、、
◎早い話が、逢い引き(?)。不埒。     上3つ 『新彦史7巻』400

文化9年(1812)7月 彦根藩、松原村前川通り土蔵の撤去命令
◎藩主直孝は「前川」辺りの景観を気にしていた。
*(土蔵撤去)命令に対して、同村役人、彦根藩にあて、土蔵存続の願書を作成する
『一、 、、其訳者村方老分之者共申伝ヘニ者、年中ニ両御蔵出入二而三ヶ月、舟渡世ニ而三ヶ月、猟ニ而三ヶ月、御百姓二而三ヶ月、其御百姓三ヶ月も御田畑足り不申候ニ付、隣村二而、
 磯村,古沢村,後三条村,平田村,野瀬村,西今村,開出今村,八坂村,大藪村,長曾根村,中藪村
右(上記)十壱ケ村之御田畑請作り仕候、、(略)
  松原村 庄屋 半左衛門
       同 卯吉
      横目 次郎兵衛
      組頭 太郎作
       同 庄次郎
       同 勘次   』 『新彦史7巻』246
◎「老分の者」の申し伝えるには、「年中(藩の)2つの御蔵出入に三ヶ月、舟渡世に三ヶ月、猟に三ヶ月、御百姓に三ヶ月」また御百姓三ヶ月も田畑が足りず隣村11ヵ村で請作(小作)をしている、と。蔵と百姓の前に「御」が付いている。結局のところ、「有り難くお殿様から頂いている仕事」という意味か。松原村小石高で、あくまで村方に属する村であるが、城に隣接し、かつ湾港施設を有する都市的な場所。ここ松原村には2名の庄屋(町なら町年寄)と2名の舟年寄がいる。

文化11年(1814) 京都、出版兼販売の本屋が183店、販売と貸本の本屋が17店

天保元年(1830)閏3月 全国的に伊勢おかげ参りが大流行
*阿波より京都や大坂にも広がる。『京都の歴史3』略年表
*文政のお蔭参りでは、60年周期の「おかげ年」が意識されていた。伝播地域は、明和よりも狭かったが、参加人数は大幅に増えている。参詣するときに、ひしゃくを持って行って伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。阿波の巡礼の風習が広まったとも言う。参詣者:427万6500人 当時の日本総人口:3228万人(1850年) 発生地域:阿波 期間:閏3月初~8月末 経済効果:86万両以上 物価上昇が起こり、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されている。

天保元年(1830)7月 京都大地震、けが人1300人、死者280人
*同年4月、僧尼の綱紀粛正により、京都の多数の寺院の破戒僧が逮捕され、三条大橋で晒される。『京都の歴史3 町衆の躍動』略年表
・僧尼とは僧と尼(あま)、出家した男女。破戒僧とは戒律を破った僧、なまぐさ坊主。

天保2年(1831) 京都岩倉、八所明神・十二所明神社拝殿再建
天保3年(1832) 京都岩倉、岩倉祭り 9月9日、15日実施
◎岩倉の祭り
 9/9「岩倉尻たたき祭」など
 9/15早朝(深夜)から大松明を燃やし(1743年、大松明は9日深夜)
 9/15「大松明・相撲・走馬」並びに、神輿の巡行
▼この年(1832)には「尻たたき祭」の庶民参加が見える。有力農民の祭りへの参加は、大雲寺・実相院の財政難が関係する1500年中頃あたりから始まり、「侍者中間」が、山崎の合戦(1582年)以降、「岩倉武士の帰農」があったことを考えると、岩倉が賑わった1690年の大雲寺・本尊の開帳の頃に顕著になるだろう(1743年には2人の神主が百姓から出ている)。この頃、有力農民の編成替えが神社の宮座にも現れているだろう。

天保4年(1833) 『東海道五十三次』(歌川広重画)が刊行され始める

天保4年(1833)3月 彦根、松原村の職業の種類
*以下は「御田畑作高小前印形取下張」(落合庄冶郎氏文書)による
所持石高でなく、個々の村人ごとに松原村および周辺各村における耕作面積を列記したもの。全部で142名が記載され、帳面の半分が欠けている可能性がある、と。
 <職種記載がある部分:68人>
魚猟師7人、米宿1人、酒屋1人、家大工1人、舟持5人、舟乗5人、御段平乗2人、船大工5人、桶屋職1人、瓦手伝取6人、紺屋手間取1人、御蔵手代5人、日雇挊(かせぎ)7人、神主1人、「御奉公」2人、手挊18人 魚猟師に九反を耕作するもの1人、また、船持、御蔵手伝、日雇挊、神主に四反を耕作するもの見られるが、総じて耕作面積が一反未満の零細なものが多く、耕作地を持たない非農業従事者も、女性の手挊18人を含む38人を数える。
 <職種記載がない部分:74人>
上記に比べて相対的に耕作規模が大きい。特に四反以上六反未満を耕作するものが43人多い。単純に農業専従者とはいかない。74人の名前を子細に見ていくと、「御除地」に居住し、「前川通り」に土蔵を所持しているものが少なからず含まれているのである。彼らの多くは年貢米を土蔵に預かる米宿であったと考えられる。なお、耕作地の範囲は、、松原村や彦根城に隣接する地域で、いずれの村へも松原村から船で通うことができた。『近江の商いと暮らし』渡辺恒一240
◎「土蔵を所持」(米宿)していても、田畑を耕作しているものがいる。

*17世紀における松原村の船数【表1】(1601年の村ごとの船数)
  丸子船 小丸子船 猟船 艘船
慶長6年(1601)       85
承応2年(1653) 22      
元禄3年(1690) 28 14 25 206
*19世紀前半における松原村の船数【表2】
  御免艘(御役艘) 大工御免艘 大艘 借艘 猟船 合計
文化2年(1805) 240 9 - 61 21 331
天保10年(1839) 264 10 44 68 - 386
天保11,12年(1840,41) 264 10,11 48 73,67 - 395,390
天保13,14年(1842,43) 264 11 50,53 65,64 - 390,392
弘化元,2年(1844,45) 264 11 56,55 65 - 398,396
弘化3,4年(1846,47) 264 11 57,61 69,70 - 401,406
◎【表2】大艘は【表1】の丸子船に相当か。
  〃  御免艘は【表1】の艘船に相当か。
  〃  大工御免艘は【表1】の丸子船や小丸子船に相当か。
  〃  借艘は、御免艘・大工御免艘・大艘の内数か。
*江戸時代を通じて、「御除地」の屋敷居住者が全て船持であったかというと、決してそうでない。、、「御除地」に含まれない中道出や北出組の地区居住者の内にも御役艘船所持者が少なからず確認できる。近世後期には「御除地」屋敷所持者と御役艘船所持者との分離が生じているのである。
*元禄3年「井伊掃部頭江州領内湖水船数改留張」より、丸子船は「彦根用事の役申し付け候」により役銀を免除、小丸子船は「田畑養い、その外諸事用とも達し」、役銀は一艘につき三匁五分であり、猟船は一艘につき二匁五分であった。艘船は「田畑養い耕作のため所持仕り候」とされ、役銀は徴収されていない。『近江の商いと暮らし』243 渡辺恒一
◎艘船(平田舟)の役銀免除の結果、艘船は今でいう乗用車と同じ感覚で、2軒に1台の割合で車(舟)が持てるようになったのではないか。

天保6年(1835) 西河原町岩倉川沿い道標「くわんおんみち」
*大雲寺への参籠者増加とかかわっているらしいとのこと。
*京都で豊年踊りが流行する。『京都の歴史3 町衆の躍動』略年表

天保4~10年(1833-1839) 天保大飢饉
*天保4年(1833)9月、有徳(うとく)人の救済行為。匿名施米。彦根城下で玄米99俵の手形を匿名で四十九町の年寄役宅へ投入した。そこには、「困窮者に分与されたし」と記されていた。『新彦史2巻』654
・天保7年(1836)8月、(彦根領内で)一揆 『江戸10万日全記録』334
・同年10月、藩ではまず天保七年十月に蔵米3,000俵の不時払米を行ったが、翌八年には彦根町内の困窮者を調査の上、6,972名に対し一人一日白米二合宛を五月から九月末日まで合計148日分5,414俵3斗弱を町年寄連署の建白によって算定し、一俵当たり20匁・15匁・10匁三つのうちいずれかれかの安値をもって払下げることとした。また同年八月には更に 500俵を払下げた。これらはいずれも彦根城下町のみの数字であるが、領内各村々や長浜町にも同様の救恤があり、藩庫の出費は莫大となったものと思われる。『彦史』中冊518
・同年11月、彦根領内において、農民騒動が江北で発生せんとした。坂田郡神照村今村の長五郎なる者を首謀として坂田・浅井・伊香三郡の農民が檄を飛ばして徒党を組み、反権力闘争を試みんとしたものである。、、この企ては結局旗揚げしないうちに失敗、『彦史』中冊499
◎飢饉に対する藩の貢献が見られます。(参照、享保の大飢饉)

z_hikosiro 天保7年(1836) 彦根藩、「御城下惣絵図」 城下の普請奉行によって作成
【図の解説】上が北、西に琵琶湖(当時は外海と称しています)。下で東西にまっすぐ延びるは芹川(せりがわ)、「善利川」とも表記する。その北へ順に城の外堀、中堀、内堀、天守閣とある。その北で青い部分は、現在は埋め立てられている、松原内湖が見える。その西には赤色に染まった地、ここの部分に船宿や米宿(民間の米蔵)が立ち並んでいる。この一帯を松原湊といいます(松原湊と松原内湖を併せ「松原浦」と呼ぶ)。その西へと琵琶湖へ出る所が松原湊の出入り口です。領内の米は松原湊口から舟で入り、いったんこの米宿に入れ、松原御蔵(新御蔵、御用米御蔵(城内))か大津蔵屋敷・大坂蔵屋敷行きかに仕分けされたようです。
・この松原湊口を通過するのは、米だけではなく、越前方面からの塩魚・海藻、近場の川魚、また大津・大坂方面の旅客と物資もあるわけで、電車がなく馬を使う時代で、松原湊はかなり賑わったと考えられます。城下町についてはこの図参照。

【松原村】は、赤い部分の御除地(年貢免除)と、地図で切れているが北へ延びている白い部分の農村(年貢地)があります。松原村の御除地は城下町に準ずる扱いを受け、11町で354軒ほどあったようです。松原村の表石高は369石8斗5升(内24石2斗 小物成)。ここから井伊家の「領主用地(お浜御殿)」分の184石8斗1升が引かれ、半分の185石4升でした。結局、松原村には町の部分と農村部分の合計で、町部分は御除地(藩の御用を担う船持が居住)で年貢免除、農村部分は田が89石3斗2升2合(面積:8町7反5畝9歩)、畑は95石7斗1升8合(面積:21町1反13歩)で、合計185石4升となります。田畑の等級は、田の九90%超が下田なのに対し、畑は約半分が下畑ではあるが、上畑も35%余りと多い(宝永五年(1708)) (『新彦史2巻』270)。まだ、筆頭家老・木俣土佐の下屋敷もあるがこれは指し引かれているか不明。「彦根城上空写真」、「彦根城堀埋め立て地図」も参照。
・結局、
 松原村の表石高 369石8斗5升(内24石2斗 小物成
 内訳  :農村部 田畑 合計:185石4升
           (内 田 89石3斗2升2合
              畑 95石7斗1升8合 )
     :町の部 御除地で年貢免除(無税)
     :領主用地(お浜御殿) 184石8斗1升

▼松原村の「暮らし」は「老分の者の申し伝える」が参考になる
z_matubara
【図の解説】この地図は天保11年(1840年)『松原村御除地絵図』(『御城下惣絵図』の一部か不明)のもの。左端の口が松原湊の出入口である。中央の南北に伸びた赤い部分(中島)は船の修繕が可能な「御船造所」(造船所)。その東北に北へ延びるは「松原橋」。橋の南側には「松原御門」があり南へ武家屋敷が建ち並んでいる。その東に水路を隔てて孤立した部分は「松原御蔵」(新御蔵(直中公1789-1812とき新設))。東側で赤い部分の先に灰色の部分が北へ延びているところが「水主町」で、藩の船奉行配下の水主(舟のこぎ手)の町である。この水主町については「1653年2月11日に松原下田を埋め立てること、井伊直孝公命じる」と記録にある。
・松原湊の出入口から松原内湖に繫がるところを「前川」と呼び、この前川沿いに船小屋や蔵が並びそのすぐ向側(北側)にその船持である住居が建ち並んでいた。蔵というのが「米宿」の米蔵のことだろう。船小屋は丸子船の数に相当するか。松原湊だけで丸子船37艘ほどあるようだ。

天保8年(1837)2月19日(3月25日) 大塩平八郎の乱

天保10年(1839) 岩倉具視、朝廷に出仕 100俵の役料を受ける
*天保9年、公卿・堀河康親の次男(京都に生誕)が岩倉具慶の養子になる。翌年から朝廷に出仕し、100俵の役料を受けた。嘉永6年1月に関白・鷹司政通へ歌道入門するが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。
*『愛宕郡長谷村記録(1830~1850年)』
庄屋年寄寺総代寺庵代長谷八幡宮 神主
111111
◎村方では庄屋(関東で名主)、年寄、百姓代を村方三役、町方では年寄・町代・横目である。岩倉村で代官1名、亀井氏?がいたとか。

天保13年(1842)5月 【彦根】商家の口銭 伝馬町、町内商家別の諸品値段届書を書留
氏名商品口銭
善次鱗魚15%
卯平呉服物8~9%
弥八青物・干物・柑類10%
善四郎米(搗(つき)賃(精米)、糠(ぬか)、俵代含む)6.6%
忠蔵古酒(御免値段)14%
            『新彦史7巻』544
・城下町では様々な商品が販売されていたが、いったい商家はどれほどの仕入れ値に口銭(こうせん) (手数料・利益)を上乗せしていたのだろうか。、、(省略)、、青物や魚類は振り売り(行商)されたが、魚行商の方が「儲けが多い」とされていることを証明しているともいえる。『新彦史2巻』499

天保13年(1842) 藩主井伊直亮は大洞湖畔亀山前に御茶屋を建立

天保14年(1843) 彦根城下町、中村全前 69歳没す
(※当時の城下町庶民の生活。少し長いですが、教訓となるところ多いので、上げておきます。書籍として公開されているので許されるでしょう。)
*[彦根商家 中村家]の閲覧

弘化2年(1845) 京都岩倉、石座神輿二基修復料寄進帳
弘化3年(1846) 京都岩倉、鉾作成(西河原)
嘉永2年(1849) 京都岩倉、八所明神社・十二所明神社拝殿「鷺之図掲額」奉納。
  同年      同  、吹散作成(西河原)
嘉永5年(1852) 京都岩倉、十二所明神社 神輿新調。鉾作成(下在地)
安政4年(1857) 京都岩倉、鉾作成(上蔵)
◎「山住神社」の名称が現れるのは、きっと「石座神社」の名称が現れた明治初年と思われます。

嘉永年(1848-53) 京都、三条大橋 物流の賑わい
kuruma *米輸送で、京都と大津を結ぶ東海道(三条・大津街道)は、北陸米を搬入する道路として、京都にとって重要な路線であった。幕末嘉永年間(1848-53)の統計によれば、年間40~50万俵の北陸米が運ばれている。平均すると次のようだ。
 年間 牛車による輸送(一輛九俵積み):39〜44%
    牛馬の背負い(一疋に二~三俵):52~58%
    人間の背による運搬(一人一俵):3~6%
 毎日 牛 車 :60~100輛
    牛 馬 :250〜330疋前後
    背負い:40~808人程度
なお、牛馬の背に二~三俵を付け米輸送を行うのは山科や北山村々の者たちで、大津人馬会所に鞍銀を払って運送を許されていた。同一路線を異なる手段の運搬人が競合していたのだ。宝永元年(1704)の紛争により俵物6分は大津馬借、4分は京都・伏見車と定められた。また、安永8~天明元年(1779-81)は、一俵背負いの稼ぎ人が問題になった。この稼ぎ人は毎年冬期に加賀・越前・丹後・但馬から米踏み稼ぎに到来した者たちで、春まで逗留して米運びを行っていたのである。彼らから口銭を徴収して、人馬会所の補助とすることになっていた。『京都と京街道』
◎上記は、大津から逢坂峠日ノ岡峠(山科)経由の三条大橋行の輸送である。そして、ここの数値は北陸の比較的に京都に近い藩や、近江国の彦根藩(35万石)・膳所藩(滋賀県大津、7万石)が、30万都市・京都の民を食わせていく米・酒造りの融通数である。京都近郊の農村から上がる米では足りず、西廻り航路が開発されても、近江米(彦根・膳所藩の米)の多くはこの経路をたどった。ここの輸送路は、依然として需要があるから牛車のための車道(車石が施設:上図参照)がつくられ利用された。西廻り航路の開発後は、多くの北陸米は、大坂まで行き淀川を遡り草津湊を経由し鳥羽街道(ここも車石がある)から京都へ入ったから、従来の三条大橋行の輸送は激減したという。伏見から六地蔵行き(更には彦根行き)の多くは生活用品のようだ。
[車石の説明・写真]

嘉永4年(1851)正月15日 歴代彦根藩主の名字および家老名前の使用禁止
*彦根藩筋奉行が村方へ触れる。
【御触書留帳】
 直
 政、孝、澄、興、通、恒、惟、定、禔、幸、中、亮、弼
 耀鏡院様、俊操院様、筑後様(井伊中顕)様
 右之通り文字名前堅不成事、
 土佐殿、助右衛門、伊予殿、小一郎殿、半弥殿、伊豆殿、倉之助殿、左馬助殿
 右之名前不成相除
 多司馬、五太夫、主計、雄助、喜八、左内、七右衛門、又七郎
 右之名前相除可申事
 右之趣相触候条、其旨相心得可申候、尤村方ニ有之寺院ヘも不洩様相達し可申もの也、
 庵原助右衛門殿 新野左馬助殿儀、此度御家老職被仰付候間、可存其旨、尤村方ニ有之寺院へも不洩様相達し可申もの也、
  (以下省略)    『新彦史7巻』94

*①歴代藩主、②家老、③筋奉行・代官の三クラスに分けられ、その文字、あるいは名前を町人、百姓が用いることを禁じているのである。この触書は、毎年、全領民を対象に実施される宗門改めにあわせて触れられた。この触れがいつの頃からはじまったのか定かでないが、18世紀末には確認できる。『新彦史2巻』284
◎彦根城下、庶民はの対応は[こちら]

【名付け方】
「名前」(通称)には、大別して[続き、、]
 地方の村には、昔から住む百姓しか「何右衛門」「何左衛門」を名乗らせないなどという。村独自の規定が存在することもある。但し、「吉助」や「久米八」より、「権左衛門」が偉いとかいった各付けが、普遍的に存在した事実はない。ちなみに本来の意味で言うと「太郎」は長男、「三郎」は三男ということだが、江戸時代には、親の名前や祖先の名前を名跡として襲用するようになったため、そんな意味とは何の関係もなく、代々当主になると「常三郎」を襲名したりする。むしろ「何三郎」だから三男だとか連想するのは、現代人、あるいは、中世人の感覚で、江戸時代にはあまりない。
『壱人両人』52

安政2年(1855)12月 幕府は彦根藩に内裏造営助役を命ず
*彦根藩に内裏造営費の負担を強いられる。
安政3年(1856)4月 彦根藩 58、000両の御用金を領内一般に命ずる決意
*8月、実額49、917両を献納。武士階級はその収入に応じて、彦根城下の町方には二万両、長浜町には一万両の割当てであり、地方(じかた、農村)は高百石について二十五両が課せられたといわれている。 『彦根郷土史研究9巻』10

財政窮乏が顕在化しはじめる18世紀前半には、いずれの藩でも御用金の名目で調達金・上納金が、、彦根藩の場合では、一時的な巨額の支出に際して課され、かつ多くは何年賦かでの返済を前提とする調達金であった。彦根藩の御用金の初見は、享保16年(1731)のものである。これは享保16年四月15日に類焼した江戸上屋敷の再建経費であり、その総額は不明であるが、町中(まちじゆう)、郷中(ごうちゆう)ともに賦課され、郷中では村高百石につき銀三百匁であった。、、その後の御用金賦課は次の表である。なお、藩財政運営のために一時的に有力町人などに課した調達金もしばしば「御用金」の名で史料に見えるが、これについては除いている。 『新彦史2巻』183 『彦史』上639
【彦根藩の御用金・冥加金・調達金】
種類金額備考
享保16(1731)御用金 今度類焼 町郷中 郷中100石につき300匁
享保17(1732)御用銀 町郷中長浜町 彦根中で16人
享保18(1733)指上銀 江戸作事のため 町中・郷中7300俵 5年賦
享保20(1735)御用金23,000両京都上使
元文2(1737)御用銀 彦根町11人
元文5(1740)銀250貫目 急の江戸参勤
宝暦10(1760)御用金33,000両京都上使 5歩利 5年賦
安永9(1780)御用金 京都上使
寛成5(1793)御用金御成御用・中屋敷類焼
文化5(1808)御用金朝鮮人御用金
文化6(1809)御用金12,000両京都上使
文化15(1818)御用金12,000両京都上使
文政7(1824)御用金 日光様御社参
文政10(1827)調達金12,000両京都上使 10年賦
文政11(1828)御用金約10,000両将軍嗣子宮参り後の御成 3年賦
文政12(1829)御用金4,400両八丁堀屋敷類焼 3年賦
嘉永5(1852)御用金上屋敷類焼 城下彦根については2,451両
安政3(1856)御用金上屋敷類焼・御所出火手伝・相州浦賀御備
元治元(1864)御用金京都へ御出馬
*御用金賦課の名目で、もっとも多いのが京都上使である。これは、幕府から藩主が京都への使いを命じられたもの。見積もり総額二万両である。、、一時的な巨額の支出に際して課され、かつ多くは何年賦かでの返済を前提とする調達金であった。 『新彦史2巻』183
◎安政3年8月の49,917両の額面の記載が表にないが。これは有力町人を対象としたか。藩の歳入が16.7万両だから、ほぼ3分の1を献納させたことになる。松原村の調査はこれの一環であろう。

安政3年(1856)、彦根藩 「安政三年 御用金帳」による四手
◎下記は「安政三年 御用金帳」から判明したもの。城下町を四つに分けている。その中でも、本町手は彦根城ができる当所からの古い町(地割頂戴町)で、四手の筆頭を占めていた。太字の町は各手組の頭町である。
四手各町
本町手本町(*)(+)、上魚屋町(*)(+)、元川町(+)、紺屋町(+)、伝馬町(+)、通り町(+)、白壁町(+)、内大工町(+)、鍛治屋町(+)、油屋町(+)、佐和町(*)(+)、上細工町(+)、池須町(+)
四十九町手四十九町(*)(+)、石ケ崎町(+)、桶屋町(+)、下魚屋町(*)(+)、連着町(+)、職人町(+)、中藪上片原町、中藪土橋町、中藪下横町、中藪下片原町、内船町、北野寺門前町、明性寺門前町
川原町手川原町、土橋町、橋本町、安清町、橋向町、後三条町、善利中町、大橋町、岡町、沼波町、善利新町、平田町、袋東町、袋中町、袋西町
彦根町手彦根町、柳町、外船町、瓦焼下横町、瓦焼下之町、瓦焼上之町、瓦焼上横町、東新町、外大工町、小川町、安養寺中町、安養寺町
上記で(+)付き町は内町(外堀の内)、他は外町(外堀の外)。(*)付き町は(1604年頃)の地割頂戴町。識別のため私が付けたもの。
 元禄八年の大洞弁財天祠堂金寄進帳に比べると小藪町、裏新町、明照寺門前通職人町が洩れ、北野寺門前町が増し、又袋町が三ケ町に分割されている。『彦史』上548

◎下記は、上と同様「御用金」徴収のため、町に準ずる「松原村」で行われたものと解釈するが。松原村の実態がわかり、ここに記載する。
・幕末期に藩の「御仕法銀」を配分する際に書き上げられた(松原村の)各地区の家数
東表町38軒 六軒町10軒 北出町31軒 横町26軒 大橋町25軒 東表町38軒
長浜町54軒 志案町22軒 中嶋町12軒 川向町35軒 西表町19軒
各町の合計354軒であり、松原の本家・借家数の全体を示すものでないが、おおよその規模と分布は把握できる。
 上の小地区は、次の四類型に分けることができよう。
 (ア) 前川に面して展開する:東表町、西表町
 (イ) 通りで向き合う:六ケ町、横町、大橋町、寺町、長浜町、思案町
 (ウ) 農村集落で形成される村組:北出組、中道出、川向
 (エ) 「御船造所」が置かれた島の区画:中嶋
 彦根藩領近江国松原村の社会構造と米宿の機能 『近江の商いと暮らし』(渡辺恒一)P238
*安政4年6月、松原村北出町住民、清涼寺前殺生禁断傍示杭内で魚漁・鳥猟を行わないことを誓約する。『新彦史7巻』259

安政4年(1857) 彦根、川原町「切支丹御改五人組帳」(後書きの分)
一、此壱町五人組連判之内、切死丹宗門伴天連いるまん、壱人も無御座候、、
: (省略)
一、御当家御代々御勘気人之子孫、男女共一人茂無御座候事
一、関ヶ原御陣大坂御陣之刻、御敵方一手之大将分並物頭、其□仕出頭人之子孫、男女共壱人も無御座候事
: (省略)
安政四年 丁巳二月  川原町 年寄 村岸佐兵衛
                〃 村岸善左衛門
                〃 北川長蔵
               町代 清八
               横目 甚平
                      『彦史』上556
*城下町にあっては「五人組帳」の前書きがない。しかし、これとは別につくられた「切支丹御改五人組帳」があって、これには各冊の語尾に遵守すべき条目が記載されている。上記は川原町に現存するもの。『彦史』上555
五人組帳には普通冒頭(五人組帳前書)に組員が遵守すべき法令が記され、次いでこれらの法令に違背しないことを誓い、、 五人組帳は奉行若くは代官より各町村に配付し、各町村においては庄屋・年寄等が部内の町村民に読み聞かせ各五人組の印形(組員が連名捺印)を取った後に、 これを代官に納付する例であった。『彦史』上554
◎250年経過しても「関ヶ原御陣大坂御陣之刻、御敵方一手之大将分並 物頭、、」の記載ある。

安政4年(1857) 彦根藩、藩船を建造する
*藩船建造により代官佐藤孫右衛門は御手船御用掛に任命される
 彦根→(湖上)→大津→京都        (海上)→松前 西廻航路
        大津→伏見→(淀川)→大坂→(海上)→江戸 東廻航路
                     (海上)→長崎 西廻航路
・湖上運送には正徳・享保(1711~1736年)年間2、078艘あった領内の船舶を用い伏見から大坂まではもっぱら雇船が用いられた。船には彦根藩の船印のある旗を立て、各地の船泊まりに寄港する際、後から着船しても先着の特権を持ち、出発にも先発するなど威勢を張った。そして大坂から江戸・松前・長崎などへの輸送も雇船によるのが普通であった。しかし、これは不便であり、失費も多いので、帆船を建造することとなる。 『彦史』中冊392
・安政5年正月、計画通り(700石積、550石積、60石積、計3、570両)建造され、収支計算をしている。(省略) かくして、国産の領外移出や他国産物の移入は大坂御船方の藩船によってなされることになった。 『彦史』中冊394

安政4年(1857)10月 彦根有力商人等級表
*彦根藩は、四手の役人に命じ(頼母子講仕法の前提として)町方全部にわたり個々の経済力を等級別に調べた名前書を差し出させた。
等級上々上之中上之下総数
人数751501503307507522207
*上記の「上之中」以上の375名に、その後の子孫の動向を付け加えたものが、西田集平氏の「彦根城下町の有力商人とその後」です。

安政5年(1858)4月23日 井伊直弼、大老に就任
*同年6月19日、ポーハタン号上でハリスとの間に日米修好通商条約が調印される。
*コレラの流行。流行はアメリカ軍艦ミシシッピ号が長崎に入港した5月にはじまる。原因も不明、まったく手のうちようがなかった。患者・死者は数10万人と推計されている。
・実はこれより先の文政5年(1822)、同じ長崎で日本初のコレラが流行している。患者・死者が推定10数万人とされている。
*中山道を通る荷物の中でも、御用荷物の筆頭は、例年初夏に京都から将軍のもとへ届けられる御茶壺である。湿気をきらい、東海道の桑名七里の渡しを避けて中山道が選ばれた。安政4年(1858)の通行では、閏5月に高宮を通過、御茶壺等荷物の総数は26棹であった。これを、人足333人・馬20疋で運んだ。これに加え付き添い役人の荷役があったため、含めて動員総数は人足524人・馬58疋にのぼった。『新彦史』2-533

安政6年(1859) 実相院の石高612石5斗余
*『雲上明覧大全』によると、、武士でいうと「武鑑」にあたる、、
「  御領六百十二石五斗余(612石5斗余)
          北岩倉 号石座御殿
          御里坊 寺町石薬師
              入谷大学
 御宋旨天台
 (家紋)実相院  御無住 
              坊官 芝之坊法印
                松尾法印
                蔵之坊中将
   院家
 (御印)最勝院       諸大夫 三好筑前守
 法被御印 南松院権僧正法印 侍   入谷駿河介  」

公家衆でいうと最高が摂家筆頭の近衛家が2820石余、冷泉家が300石、西園寺家が597石余とあるから、「御華族」とよばれる家格の公家衆とほぼ同じ収入のようである。『京都岩倉実相院日記』16
*大雲寺は中世の頃から実相院がその管理下において、ながく支配した。そのため大雲寺の寺領の支配管理も、みな実相院があたっていた。『京都岩倉実相院日記』26 [実相院領について]
◎実相院領が612石ほどになったのは1720年以前か。

安政6年(1859)、安政の大獄の処分
8月27日、10月7日、10月27日、28日、29日、12月6日の6回に亙(わた)ってこの事件に関係した大名・旗本・陪身・浪人・町人の処分を発表した。松平春嶽(隠居)、京都留守居鵜飼吉左衛門(死罪)と伜幸吉(獄門)、家老安島帯刀(切腹)、松平春嶽家来橋本左内(死罪)、長州藩吉村寅太郎(死罪)、浪人頼三樹三郎(死罪)、等の処分。浪人梅田雲浜(病死)、『彦史』中冊760

安政7年(1860)3月3日5ツ半(午前9時)桜田門外の変
*直弼を乗せた駕籠は(60余名の行列)、水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士計18名による襲撃を受る。井伊直弼、享年46(満44歳没)。3月7日夜半、江戸藩邸の側用人の早籠によって国元にもたらされた。[飛脚・早馬]

文久元年(1861)、彦根藩、「年中行事」(一般武士)
*彦根藩士の食生活、褻(け)の日(平常の日)は、町人や農民の場合と同様詳(つまび)らかでないけれども、晴れの日とか特別の日の料理は記録に残っていることも少なくない。年中行事と食事、正月元旦についてはそのままあげる。
[彦根藩士の食生活]の閲覧

文久2年(1862)3月24日 坂本龍馬の脱藩
*姉乙女が兄権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞別に授けたという。

文久2年(1862)6月 京都守護職できる
*幕末の江戸幕府の役職である。役料五万石。大坂城代、京都所司代、京都・大坂・奈良・伏見の各奉行の上位。非常時は畿内諸藩の軍事指揮権を有する。
・薩摩藩主の父島津久光が主導した新職である。京都には諸国から尊王攘夷派の過激志士らが集い、治安の悪化が懸念されていた。元来、江戸幕府においては京都所司代・京都町奉行が京都の治安維持の任についていたが、過激派による天誅や商家への押し込みなどの騒乱が横行し、所司代・奉行所のみでは防ぎきれないと判断した幕府が、洛中の治安維持及び御所・二条城の警備などを担う役割として設置したものである。同年閏8月1日、松平容保(陸奥国会津藩9代藩主、28歳)が京都守護職に就任する。本陣は金戒光明寺(左京区黒谷町121 法然の草庵が起源で1175年創建 浄土宗の七大本山の一つ)に置く。

文久2年(1862)10月4日 岩倉具視、洛北の岩倉村に隠棲
*文久2年8月16日には岩倉具視ら6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として親幕派と疑われ、8月20日に蟄居処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。逆らわず辞官して出家。朝廷を去った。9月26日、近衛忠煕は岩倉らは洛中に住んではならぬと追放令を発令。洛中への帰参が許される慶応3年(1867)11月までこの地で5年間も蟄居生活を送ることとなります。
*同年11月20日、(直弼の死の後)幕命により彦根藩は10万石減封される。「領地減封の命」が出た11月から町内各戸は門戸を閉ざして謹慎、、城下町も文字通り火の消えたようであったという。 『彦史』下13

文久2年(1862) 彦根藩、木俣清左衛門、庵原(いはら)助右衛門は謹慎
上記2人の家老は謹慎を命ぜられ、長野主膳は四十九町の牢屋に繋がれ、、言語道断につき苗字帯刀取り上げ牢内において斬首(8月27日)、、 宇津木六之丞も拘禁され、主膳と同じく苗字帯刀を取り上げられ、、斬首に処せられた 『彦史』下8,9
*島津久光、薩摩藩を率兵しての上京。幕政刷新に伴う圧力に対して、彦根藩が自主的に対応したもの。
*10月15日、長州藩士伊藤俊輔(後の博文)と井上多聞(後の馨)等がひそかに藩命を帯びて彦根藩の動静を探るべく、わざと彦根を避けて多賀大社々家車戸造酒(宗功)方に来て滞在した。
*近江八幡の志士西川吉輔の仲介によって来意を知った家老岡本半介は、寺社奉行中谷左源太を長として足軽川上吉太郎、外村省吾、北川徳之允、町医者渋谷騮太郎(後に谷鉄臣)等を士分格に登用し他所向御用掛として彼らに応接せしめ、長野主膳の処刑、二人の主席家老の免職をはじめ尊皇攘夷の方向に努めつつある政情を具に報じてもって尊攘派の諒解を得るに努めた。 『彦史』下11
◎彦根藩は秘密裡に、「勤王」か「佐幕」かは曖昧にし、尊攘派(尊王攘夷派)へ舵を切り出したか。尊王攘夷とは、君主を尊び外敵を斥けようとする思想(水戸学や国学の影響)で、後には尊皇攘夷となるか。藩内部では開国派から攘夷派が主流をなすと、これまで藩主直弼に従順であった長野主膳や宇津木六之丞が処罰を受ける。
◎彦根藩は、主に下級武士や町人により「至誠組」なるものが組織化され、家老岡本半介のもと藩の舵取りをすることになる。上記の川上吉太郎(鉄砲足軽)、外村省吾(鉄砲足軽の養子)、北川徳之允(御普請方役夫手代)、渋谷騮太郎(町医)、さらに大東義徹(足軽)は第1次大隈内閣では司法大臣に就任しているが、いずれも「至誠組」である。

文久3年(1863)2月 江戸、200余名の「浪士組」を結成し将軍に先がけ上洛へ

元治元年(1864)5月 新撰組が本拠地を西本願寺に移転
*新選組は200名まで増強され、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。

元治元年(1864) 彦根藩、近江商人より借金
*当時の借財70万157両の中には近江商人からの借入れも少なくなかったであろうし明治3年(1870)には八幡町梅村甚兵衛より、金一万両の借入れを行っている。 『彦史』中冊413

元治2年(1865) 相模国三浦郡八幡久里浜村の「宗門改帳」
【相模国】家数は153、寺、修験などを除いた百姓家は148軒、人口は男477人、女419人、合わせて897人である。この名前を調べてみると、、男性はすべて漢字、女性の名前はすべて二文字の平仮名である。、、戸主は148軒の百姓のうち、同名はわずか1件、二人だけであった。ほぼ六〇%の農民が同名を付けているのに、戸主だけがほとんどすべて違った名前を付けている。戸主の名は、家を代表し、家族を含めた人間関係を表現するもので、戸主になる可能性をもつ、つまり家を相続する条件をもつ者の名前を付ける場合には、戸主になった時に同じ村の中に同じ名前が重ならないように配慮されていたものと考えられる。、、一方、町人の場合は、百姓と異なり行動半径も広く、屋号を付けることが多く、苗字をもつ場合にも屋号を名乗ることが一般的であった。町人の屋号は、家業とその信用を表すものであり、苗字よりも大切にされたのである。 『名前と系図・花押と印章』16

慶応3年(1867) 大政奉還 天領の大部分を明治政府に奉還
*同年12月9日、王政復古の大号令 幕府や朝廷から白眼視された彦根藩を今日まで引きずってきたのは、河上吉太郎、外村省吾、渋谷騮太郎、北川徳之允などの足軽や町人出身の人々であった。彼らは、、洋学を修め、鉄砲・大砲・火薬の製造に従事し、勤王諸藩の志士と隔意なく交わり、朝廷を擁した諸藩の動きを最も簡便に知り得た。、、 『彦史』下P18
◎「安政の大獄」まで主導した井伊直弼の藩であったから、勤王志士にとって、彦根藩が「勤王」につくのか「佐幕」につくのか、今後の流れに大きく左右するところ。

慶4年/明治元年(1868)1月 鳥羽・伏見の戦い 彦根藩は官軍につく
*同年1月3~6日の鳥羽・伏見の戦いは、戊辰戦争の初戦となった戦いである。
・彦根藩は大老も出す譜代筆頭の大名で、幕府の体制を維持する「佐幕派」として従ってきました。「鳥羽・伏見の戦い」にて、幕府軍を攻撃し、官軍に付く態度を明確にしました。これに従った大名は多いといいます。
z_husimi 【御香宮】伏見地区の産土うぶすな神。貞観4年(862)に社殿を修造した記録があります。「御香宮」の名は清和天皇から賜ったものです。湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されています。豊臣秀吉は、伏見城築城の際に城の北東・鬼門を守るため当社を移し、社領三百石を寄進しました。
 1605年、徳川家康によって元の位置に戻され、本殿は京都所司代板倉勝重が普請奉行として造営し、表門は伏見城の大手門を移築しました。幕末は官軍(薩摩藩)の本営となりました。秀吉の移した地は現在でも古御香ふるごこうとして残るっています。

 古御香宮は、貝原益軒(1630-1714)著作「京城勝覧」(京都ガイド書)の宇治見物コースの1つに登場します。今そのコースを辿ると、伏見街道を南下し、藤森神社の西門へ入り、神社の中を抜けて南参道から外に出ます。東の山手へ進みJR線に突き当ったら右へ進み墨染通にでます。その通りを登っていくと古御香宮(いまでは御香宮の御旅所)があります。そこから南東へ暫く行くと八科峠やじまとうげ(矢島嶺(とうげ):秀吉家臣の名の矢島)へ出ます。ここからは下りで六地蔵へ、さらに宇治へ進むというものです。古地図(1670年)は[こちら]。
◎京都市中心部と伏見をつなぐ街道を西側から順に紹介します[伏見街道図]。

慶応4年(1868)4月 神仏分離令
*江戸期の水戸学や国学において、神仏分離を唱える復古神道などの動きがおこった。中でも平田派は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与することになった(廃仏運動)。
*[幕末の寺社領]の閲覧
*大雲寺と実相院が分離する(Web大雲寺歴史年表)。

明治2年(1869)6月17日 版籍奉還 全国の藩が、土地と人民を明治政府に返還
*藩主は知藩事に。支配地の総収入高を調査し過去五カ年間の平均をとって、、「現石十分の一」をもって知藩事の家禄と定め、、(彦根藩の)現収入高は九万四千三拾石という、、、知事の家禄は 9、403石と決まった。、、 『彦史』下P37
*【明治新政府】にとって、近代化を推進する上で、財政問題が大きな障害になっていました。新政府の地租収入は2,005万円です。他方、士族に支払う秩禄(俸禄・家禄・賞典禄)は、1607万円でした。地租収入の80%が士族へのサラリーです。
*11月、彦根城内には民政所が設けられ、領内の「社寺市農之者」も裏御門より「不敬之筋之様」出入できた。
*慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められ、 同年10月13日に天皇が東京に入り、政府が京都から東京へ移された。
*明治2年(1869年)12月2日、中央政府公布「大夫士以下禄制ヲ定ムル事」に規定された禄制基準
10,000石未満~9,000石迄250石 800石未満~600石迄55石
9,000石未満~8,000石迄225石 600石未満~400石迄45石
8,000石未満~7,000石迄200石    : : :
    : : :100石未満~80石迄13石
3,000石未満~2,000石迄105石  80石未満~60石迄11石
    : : :60石未満~40石迄9石迄
1,000石未満~800石迄65石 40石未満~30石迄 8石
    : : :30石以下~ :是迄ノ通
『彦史』下P39

明治3年(1870)5月、彦根の禄制改革すすむ
*「彦根藩々士録」より
木俣 幹10、000石(旧)275石(新) 庵原乾三郎5、000石(旧)150石(新)
宇津木猛雄2、500石(旧)105石(新) 河手 円1、000石(旧) 75石(新)
◎家老の方々、当然のことですが激減です。

明治3年(1870)9月19日 平民苗字許可令
◎庶民(農・工・商)は箪笥の引出から家名を探すことになるが、なくしたものは新たに付けることになります。ただし、申し出ることは新政府に登録することとなりますから、課税・徴兵を恐れ申し出るものは少なかったようです。結局、明治8年の法令まで待つことになる。たぶん秀吉あたりから庶民は苗字を取り上げられています(不文律)。それが法令となったのが1801年。庶民としては永遠に苗字を取り上げられたものと解釈し箪笥の引出しにも見当たらなくなってしまったものも多少いたようです。明治になって新たに付け替える家もあったように思えます。実質的には新たに苗字をつけるのは少ないようです。
*明治3年(1870年)5月、士族の帰農と卒の帰農工商が許される。

明治3年(1870)11月13日 徴兵制の実施
*徴兵規則が制定され、各府藩県より士族・卒族・庶人にかかわらず1万石につき5人を徴兵することを定めた。
*同年11月19日『国名・旧官名使用禁止令』が布告された。名前に国名(例えば但馬守や阿波守)や旧官名(衛門や兵衛)の使用が禁止された。

明治4年(1871)1月5日 太政官布告、寺社領上知令
*全国の寺社に対して、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。
【岩倉の廃仏毀釈】
*実相院は、門跡制度も廃止された上、寺領のほとんどを明治政府に納めさせられた。収入は激減。殿舎を維持することも出来ず、明治4年8月には宝物98点を売却。10月には持仏堂と土蔵と小座敷を除く外の建物すべてを府立療病院に献納させられました。
*京都府は明治4年に、大日堂や地蔵堂など路傍の祠堂を取り除き、祠堂売却の代金を小学校に納付することを命じています。また、岩倉川の川沿いの「目無し地蔵」の石仏が埋め立てられる(明治8年)ことも起こっています。ほとぼりが冷めたころ住民が復元しています。
*中(現、中町)の人々は、宝蔵寺(明暦4年(1658)創建 現、梅宮神社の地)と縁を切り神道へ。木野では、福昌院、正福庵(禅宗)、善法寺が明治初年に廃寺。木野は神道になる。『洛北岩倉』
◎全国的に見ても、役人が直接派遣されて、住職の懇願するも聞き入れず、寺・仏像を燃やしたり、仏像を破壊したり、川に投げ込んだりする事態が発生しています。当時、全国的にも小学校を立てる時期にありましたから、その資材を寺を潰したものを利用するなど多くありました。あちこちで寺院が燃え過去帳がなくなったというのがあるようです。

*現在は国宝に指定されている興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円で売りに出され、薪にされようとしました。伊勢国(三重県)では、伊勢神宮のお膝元という事もあって激しい廃仏毀釈があり、特に、神宮がある宇治山田(現:伊勢市)は、1868(明治元)年11月から翌1869年(明治2)年3月までのわずか4ヶ月間で、196の寺が廃寺となりました。これは宇治山田に存在した寺院の4分の3が整理されたことになります。神仏分離が廃仏毀釈に至った原因は、廃仏思想を背景とするもの、近世までの寺檀制度下における寺院による管理・統制への神官・庶民の反感、地方官が寺院財産の収公を狙ってのことがあるようです。

◎岩倉住民は、新政府による「御一新」を期待していたものの、暮らしは、領主が皇族・公家・寺社から国になっただけで、「開いた口が塞がらない」の気持ちでいっぱいだったでしょう。その後の生活に変化はないように思われます。それに兵役というものが、この後ついてきます。
*岩倉具視公への嘆願もやむなきものと思われます。(岩倉住民の)嘆願内容は、
 ①就職の斡旋、
 ②精神障害者寮養地としての紹介、
 ③里子の紹介、
 ④都市中心部への交通利便、でした。
◎村民の生活が改善されるのは、ずっと後の、昭和の農地改革後のことです。

明治4年(1871)4月4日 戸籍法(壬申戸籍)発布
* 太政官布告第170号 (5年2月実施) 「予メ区画ヲ定メ毎区戸長並ニ副ヲ置キ長並ニ副ヲシテ其区内戸数人員生死出入等ヲ詳ニスル事ヲ掌ラシムヘシ」と。 『彦史』下P76
*6月、士族卒の常職を解き、その農工商への転業や平民との婚姻・養子等を許した。
*7月、廃藩置県。彦根藩は廃せられ、彦根県が置かれた。田畑勝手作りが許可。廃藩置県にともない、各藩の士卒の家禄を中央政府が負担。その額は、国家歳出の3分の1を占めました。
◎戸籍法発布により寺請制度が廃止されました。

明治5年(1872)2月 『戸籍法』(壬申戸籍)の施行
◎壬申戸籍(明治五年2月)作成に、納税・兵役等を恐れて苗字を名のっていないものが全国で多いようです。城下町の人達は上意下達に慣れっこになっているようで、彦根有力商人375名中253名が苗字を名乗り、屋号は一つもありません。不明者の122名は明治五年までに転居したようです。よってこの時点で、城下町のものはほとんどすべて苗字を名乗っています。
*8月24日『改名禁止令』(太政官布告第235号)。
*明治5年(1872年)12月3日、改暦。太陰太陽暦の天保暦「旧暦」から「太陽暦」(グレゴリオ暦)に切り替えた。
廃仏毀釈運動により、寺が燃やされ過去帳が燃えたりしました。その代わり新たに壬申戸籍なるものが作られることになりました。寺の梵鐘・仏像が処分され廃寺も少なくないようです。島津家が治める鹿児島では、藩主の方針で梵鐘等が大砲などに化け、幕末では全ての寺が無くなったとか。今ではその数の半分まで回復していると。島津家の菩提寺まで廃寺になったようです。

明治5年(1872) 彦根城下町の人口が激減
元禄8年明治5年明治22年戸数
35、000人25、000余人17、000人 (最低記録)
*士族・平民を問わず、政治都市でなくなった彦根を捨てて他国へはしった。★48.6%に減少(51.4%他の地方へ) 『彦根郷土史研究9巻』50
*同年8月、滋賀県では第156号達によりそれまでの(村で)庄屋を戸長、年寄を副戸長と改称、市街地では町年寄を戸長とし、副戸長は設置の必要なしとしたほか、、
*同年8月24日『改名禁止令』(太政官布告第235号)

明治7年(1874) 維新後の彦根城下町に、まず士族街が荒廃
*士族を顧客とした商人も、武士の購買力が激減しては、店を仕舞うかあるいは他所に出て新しい時代に副った商売を始めるより外はなかった。 『彦史』下P137
*維新政府の要人達はほとんどが薩長藩の出身者で占められ、、政府と結んで大きな利権を獲得した政商にも、財閥にもなれなかった。、、士族の職業といえば手近かに求められる卑近な小学校の教員や神官・巡査などで、、、彦根には明治以来軍人になるな、官吏になるなという不文律があった。、、青少年の夢を妨げた。 『彦史』下P147

明治8年(1875)2月13日、「平民苗字必称義務令」
*すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けた。

明治9年(1876)8月5日 華族・士族の秩禄処分
*家禄にかわって金禄公債を貰う、、その額は僅少にして到底一家を支えるに足るものではない、、多くは縁故を求めて所在の神官・小学校教員・警官となったので、近江各郡の小学校教師や神官は彦根士族が相当数を占めたと云われている。、、これらはまだ良い方で、なかには事志と違い轗軻(かんか)不遇に泣くものも多く、、「士族の商法」で失敗に帰し、折角貰った公債証書も人手に渡り、その日の生活に追われるものも多かった。『彦根市史』下冊P52
*彦根では禄を失った武士が4,760人いたが、一家に五人とすると、その家族で23,800人ぐらいいた。、、彦根藩では廃藩以前から、帰商帰農の制度を立案し、愛知郡九条野・市原野、犬上郡守野、坂田郡大原野・春照野などに移住し開墾に従った。また、彦根藩は幕末に択捉島の一部を守備していたので北海道へも移住した。「開拓見込書」によると、明治4年に112人が択捉島へ渡り農業と漁業に従事したとある。『滋賀県の歴史』P229

明治10年(1877) 岩倉具視公、花園村に50円、岩倉村に300円を寄付
*寄附金をもとに農業収入を確実にするために、明治9年に花園の「はぶの新池」、明治10年に金井谷の池(「権土(ごんど)池」、1850坪)が造られたのでした。
◎ 岩倉村の300円は現在のお金でいくらかを計算する。明治10年の米10kgが37銭、令和2年米10㎏を3700円で計算すると、物価が10,000倍で300円×10,000=300万円、よって300万円相当になります。明治10年の1円は、ほぼ10,000円

◎このとき(明治10年)に、神社境内の大幅修理・社殿の配置換えが行われたようです。岩倉具視公の寄附云々は記録にはありませんが、広く寄付を募り行われたのでないだろうか。
*今井家蔵さん明治10年の日記(資料6)に『一言神社を字正津山(正水山でないか)より門前石座神社に遷す。石座社も復す。』とあるので、明治10年末に大修理が加えられたのではないか。『岩倉今昔(上)』(竹田源)
*摂社(本社と縁の深い神を祭ってある神社。両社とも境内地へ遷座された。)の一言神社、福善社(猿田彦神、愛宕神)が、二社とも旧地から、岩座神社境内へ移った折(明治10年)社殿が拡がって建てられており(資料8)社殿配置の均整上の必要か、、 もと境内地山にあった(城守古文書)
*末社(勧請して付け足した神社)は、東社(北から熊野・貴船・出雲各神社)と西社(北から稲荷・鹿島・香取各神社)がある。いつ勧請されたか不明。
◎『京都市の地名』(京都府地誌)によれば、明治10年代の、岩倉村:戸数132戸、人口1049人 長谷村:71戸、386人 中村:68戸、386人 花園村:43戸、230人 貴船村:18戸、93人 静原村:96戸、561人

明治11年(1878) 京都岩倉、一言神社を村松の正水山(しょうずやま)から遷座

明治14年(1881) 『京都府地誌』による各村の人口など
人口男女の数戸数馬・牛中小車
岩倉1049男502 女547227(士族18・平民198・寺11)馬49牛313
中村151男74 女7719 (平民)馬0牛0 
長谷386男193 193女69 (平民68・寺1)馬23牛020
花園230男111 女11946 (士族1・平民41・寺4)馬0牛0 
長谷130男65 女6532 (士族1・平民28・寺3)馬4牛0 
*明治14年(1881)の岩倉村(京都府郡政御役所)
戸数:本籍216戸(士族18戸、平民198戸)寄留4戸(華族1戸、士族3戸)社4戸(村社2坐、摂社2坐)寺11戸(浄土宗6宇、禅宗1宇、天台宗1宇)総計232戸。
人数:(男502口(士族12口、平民490口)、女547口(士族7口、平民540口))
◎上記の表(『洛北 岩倉誌』)との違い。寄留4戸は除き、社戸4戸は村から出すから計算せず、ですか。安永7年(1778)の岩倉村は[こちら]です。

明治17年(1884) 京都岩倉にて 岩倉癲(てん)狂院が設立
*「村の有志者」と「土地旅宿者」が和解し、岩倉癲狂院が設立。明治25年には私立岩倉精神病院と改称。 明治38年には私立岩倉病院として再出発(現在の洛陽病院の地)。明治40年放火による焼失。明治42年実相院の南側で株式会社済修岩倉病院として再出発。『洛北岩倉誌』

明治18年(1885) 京都、第一疎水の着工
*東京遷都で人口減少、産業も衰退した。このため、第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画、主任技術者に工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ、設計監督にあたらせた。明治23年(1890)、大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成した。第2疏水は明治45年(1912)に完成。
【疎水の道】蹴上から北へは大きくは2つに分かれるようで、「哲学の道」へ向かうコースと「南禅寺」へ向かうコースとに分かれ、最終は松ヶ崎浄水場で出合う。蹴上から伏見へは、京都市動物園南から夷川発電所(銅蛇美術工芸高東、平安神宮西)を経由し、鴨川東岸で京阪線の西を並走南下し、京阪鳥羽街道駅の南辺りから京阪線の東を並走南下し墨染駅北で京阪線の西を並走南下し墨染変電所(この辺に「伏見インクライン」があった)で地図から消える(暗渠?)。ここより西300mで再び現れ南下する。その後は濠川(伏見城外堀)と合流する。京都の右京区へは夷川発電所からほぼ西へ延び山ノ内浄水場で行きあたる。山科へは、蹴上から少し大津よりで分水し、東山の山麓を南下(暗渠)し新山科浄水場で行きあたる。
【電力】日本初の電気鉄道である京電の開業もあった。今は、関西電力に頼っている。
【舟運】大津からの下りは米・砂利・薪炭・木材・煉瓦など、伏見からの上りは薪炭などであった。しかし競合陸運(主として鉄道)の発展により衰退し、伏見行き下りは1935年にゼロとなり、大津行き上り貨物は1936年以降なくなった。
【水道】現在は蹴上、新山科、松ヶ崎、山ノ内の浄水場が疏水から取水している。
【水運】琵琶湖と京都、さらに京都と伏見、宇治川を結んだ。落差の大きい蹴上(高低差36m)と伏見(15m)にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。

明治19年(1886)、コレラによる死亡者一番多かった
*明治19年には1年中、伝染病は猛威をふるい、コレラをはじめ赤痢、腸チフス、痘瘡(天然痘)で14万6,000人が死亡。日露戦争の戦死者と肩をならべる人数でした。

明治22年(1889) 六カ村が合併し、愛宕郡(おたぎぐん)岩倉村の誕生
*六カ村とは岩倉、木野、幡枝、中、花園、長谷をいう。その役場は岩倉小字湯口町27番地(小倉山西麓)で、そこには岩倉尋常小学校もありました。役場は、明治25年に湯口9番町へ移転した後、明治32年に岩倉診療所の北へ、さらに昭和24年に京都市に属し左京区役所岩倉出張所と名称変え、昭和53年に岩倉中通りの現在地に移りました。

*明治22年7月、東海道本線、新橋駅ー神戸駅間が全通。

明治28年(1895) 京都岩倉、「京街道」が拡張改修
*平安建都1100年を記念して村の東側を通り上高野・修学院へと抜けていく「京街道」(現在の白川通旧道 - 川端通 - 大原道)が拡張改修された結果、村から京都に向かう荷車の往来が格段に便利になって急増し、逆に「八丁街道」(現在の十王堂橋西 - 岩倉1号踏切 - 椿の道 - 京都グランドプリンスホテル横 - 宝ヶ池旧道 - 狐坂旧道 - 松ヶ崎通旧道)などの古い街道は次第にさびれていった。

◎明治28年2月1日、京都電気鉄道(民間企業)により第1期区間、伏見-京都駅が開業。日本最初の一般営業用の電車となった。4月1日には七条-岡崎の路線が開業。運賃は1区2銭、半区1銭、伏見線全線で6銭。大正7年(1918)に京都市に買収され京都市電の一部となった。 ・初の路線は、東洞院塩小路下ル(京都駅近く)-伏見下油掛(京橋のすぐ北)間の距離約6.4km、定員16人、指定された停留所はなかった。路線は全線単線で運転技術の未熟さもあり正面衝突もあった。電力は琵琶湖疎水による蹴上発電所(明治24年運転開始)を利用した。

明治33年(1900)1月15日 ペスト予防、東京市、ネズミを1匹5銭で買い上あげ
ペストの流行は明治32年(1899)~昭和元年(1926)で、感染者2905名、死者2,420名。致死率83.3%。
・明治以前の発生は確認されていない。最初の報告は明治29年に横浜に入港した中国人船客で、同地の中国人病院で死亡。大小の流行は複数回あり、明治32年11月が最初の流行で、台湾から門司港へ帰国した日本人会社員が広島で発病し死亡。その後半月の間に神戸市内、大阪市内、浜松で発病、死者が発生した。最大の流行は大阪府の1905-1910年とされる。
・明治35年(1902)9月13日、京都吉田コレラ発生。同年10月このコレラ(もしくはペスト)にて、彦根から転住した我が家の二男の家系が絶えています。
・明治35年、日本最初のコレラ予防接種も始まった。それでも明治年間、コレラによる死者37万人あまり。この数は日清・日露の戦死者をはるかに上回る被害だったとのことです。

明治36年(1903)1月 疫病猛威
*同年1月、東京市内でペスト流行 。7月、京都市 コレラ発生 患者216人、うち死者178人。明治37年ペスト患者ピーク、患者数は646人。

明治38年(1905) 『岩倉村史』による明治38年産物
産物菜種材木土器石灰マツタケ合計
生産高4252石1289石210石1790尺790棚80束40万枚5万貫300貫8万貫 
収入55,276円8,801円2,100円2,330円3,950円60円200円1,200円900円6400円81,217円
◎岩倉の当時の田は二毛作。土器というのは、奈良時代の幡枝地区、岩倉共同墓地西に多く見られます。
・データは、新岩倉村(岩倉、木野、幡枝、中、花園、長谷が合併(1889年))の合計です。米4252石は、1729年の合計が3979石だからほぼ近い値です。否、1905年は米の生産高、1729年のものは村高で偶然そのような近い値になっただけです。大正7年(1918)の『岩倉村概誌』によると、わら葺き屋根は全体の6割であった。わら葺きの減少は、田の裏作(昭和26年の例)として麦を作らなくなってきたのが原因のようです。

*明治元年~平成10年までの[10kgあたりの米価の図]

明治10年の1円は今の10,000円、明治38年の1円は今の4,302円相当
[計算]明治10年の米10kgが37銭、令和2年米10㎏を3700円で計算すると、物価が10,000倍で1円×10,000=1万円。当時の1円は10,000円になります。
明治38年の米10kgが86銭、また、物価が4,303倍、1円×4,303=4,303円。当時の1円は4,302円になります。

明治40年(1907) ペスト予防、ネズミ買い上げ48万5、760匹
この1年間、横浜市が買い上げたネズミは48万5、760匹になりました。

明治41年(1908) 京都岩倉、『愛宕郡村志』による職業
職 業職農業工 業商 業日稼ぎ雑 業公務・自由業無 職合 計
戸 数35212180070384
人 口156236651354911142844
(農業戸数91.7%)
*明治38年の石高は4232石で、1729年(享保14)の石高3979石とそんなに変わりません。岩倉では明治38年に近い状態が長く続いていた。『洛北岩倉誌』

明治44年(1911)に始まる道路拡築事業
*丸太町通(千本通以東)・四条通(大宮通以東)・七条通(大宮通以東)・烏丸通(今出川通~七条通)・大宮通(四条通~七条通)・千本通(今出川通~三条通)などが拡幅された。 web『花の都』より

大正7年(1918)1月~1920年12月 スペイン風邪(米国発)
*第1波:1918年3月、カンザス州の米陸軍ファンストン基地の兵士より
・第2波:1918年8月、米国、仏国の3つの湾港都市でほぼ同時発生
・第3波:1919年1月、第2波による被害を免れた豪州から発生
・世界の人口:18~20億人 感染:5億人 死者:1,700万-1億人
 日本 〃 : 5,500万人 感染:2380万 死者:39万人(後に48万人)
 米国 〃 : ?    感染: ?万 死者:50万人
◎当時、第一次世界大戦(1914.7-1918.11)中であり、米国発のウィルスが戦線へ送り込まれた兵士により、ヨーロッパから世界へ拡散したとされる。当初、各国は情報を隠蔽し、不明の風邪扱いをしていた。戦争の中立国であったスペインで情報が大きく報道され、スペイン風邪とされた。 人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)。第一次世界大戦の終結が早まったといわれている。そうすると、今年(令和2年)の新型コロナの命名に"中共ウィルス"もありかな。
【日本の被害】
1918.8-1919.7:患者:2116万8398人 :死者:25万7393人 :致死率1.22%
1919.8-1920.7:患者: 241万2097人 :死者:12万7666人 :致死率5.29%
1920.8-1921.7:患者: 22万4178人 :死者:3698人   :致死率1.65%
・国を開く(大正7年で開国より65年)と、どうしたものか新たな疫病が流行りまして、多数の方がお亡くなりになるものです。赤痢、腸チフス、痘瘡(天然痘)、梅毒、コレラ、ペスト、インフルエンザ等を疫病というようですが、当時次々と流行を繰り返しました。これまでに記録に残らない"病"、言わば新種に、外国からの"もらいもん"としてしまう傾向がありました。日本古来からよく流行るものに、痘瘡・麻疹(はしか)があり、その根本原因が分からずただただ神仏のご加護にすがる他ありませんでした。特に幕末以降、新たな新種の疫病にかかりバッタバッタとお亡くなりになり、その症状・原因が特定できず恐怖におののきました。また迷信もはたらきまして転居する方々もありました。こうしたものの根本原因を突きとめる疫病菌の発見は、意外にもはやく19世紀後半にやって来ます。
・平穏な社会で、上記のような疫病にかからなければ、人の人生は60年は超えるようです。平均寿命については40代、50代のときがあったようですが、高齢者については、江戸時代であっても60歳、70歳、珍しいが80歳もあったようです。
*[幕末の疫病]の閲覧

大正8年(1919)、京都 草津湊に魚市場
s_husimi *明治10年の鉄道開通後、草津湊が衰退したことから、魚市場は明治21年(1888)に京都の七条の京都駅に付近に移転した。大正8年(1919)に、魚市場があったことを示す記念碑が土手に大橋家により建設された。[草津湊の古地図]

大正12年(1923)9月1日、関東大震災 11時58分32秒

大正14年(1925)頃 岩倉本通りの拡張整備
*村の東部から中心部(忠在地町など)を結ぶ道(現在の府道105号岩倉山端線)が拡幅されてバス路線が延伸した。

昭和3年(1928) 鞍馬叡山鉄道が開通 岩倉まで伸びる
京都市のバス事業は昭和3年(1928)5月10日出町柳-植物園間、2.5㎞の運行で開始した。12月1日、鞍馬電鉄(山端~市原間)開通。村内には岩倉・木野の2駅が開業。

昭和4年(1929) 同志社高等商業学校(現・同志社大学商学部)が京都市内から岩倉村に移転する

昭和4年(1929)1月15日 京都岩倉、万年岡の「社有財産トシテ國有林野拂下出願ニ付許可申請」(写)
「京都府愛宕郡岩倉村大字岩倉小字萬年岡
 一、國有林野反別壱町貳反六畝拾歩 
    此拂下代金壱千四百九拾六円参拾銭也
  右山林儀ハ當社境内ト接續シ社観ノ維持並ニ史跡保存上必要、国有林萬年岡ハ明暦年間後水尾天皇ニ於カセラレテハ皇女顕子内親王ノ為メニ山荘ヲ御造営アラセラレ後水尾天皇及ヒ皇后東福門院並ニ明生天皇等屡次後臨幸アラセラレ使用緒アル史蹟ニシテ□都度本神社へモ御参拝被當社五縁故モ有、社有地トシテ保護手入ヲ加へ風致ノ潤色仕リ度、、、由緒アル史蹟地、、氏子等ノ保存スル共有金ヲ充當金可能、、石座神社 社掌 狩野金次郎 、」 国有林「万年岡」の石座神社への払下げ許可 昭和4年1月23日
◎明暦年間は1655~58年とあるが、「後水尾上皇は、寛永18年(1641)以降には、洛北方面へ足を向けることが多くなり、、、顕子内親王の山荘のなかに岩倉殿、、、女院としばしば御幸があった。」とされていますし、「正保四年(1647)には東福門院とともに松茸狩に出かけた」とされています。

昭和5年(1930) 豊作による米価下落により、農業恐慌は本格化
*1929年世界恐慌によるアメリカの窮乏化、生糸の生産(対米輸出)が激減した。その結果生糸価格の暴落を引き金に他の農産物も価格が崩落した。この年は農村では日本史上初といわれる「豊作飢饉」が生じた。米価下落には朝鮮や台湾からの米流入の影響もあった。 農作物価格が恐慌前年の価格に回復するのは1935年(昭和10年)であったと。

昭和6年(1931) 東北地方・北海道地方が冷害により大凶作

昭和8年(1933) 京都、巨椋池の干拓始まる
◎京都の南部、東西4㎞、南北3㎞、周囲約16㎞あった巨椋池の干拓が、昭和8~16年まで実施され農地に変わった。池というより湖に近い広さであった。

昭和9年(1934) 記録的な大凶作となって農村経済の苦境はその後もつづく
*昭和10年(1935)6月29日の大水害で、 岩倉川が氾濫し、目無し橋・御旅橋が崩れ落ちました。村民の生活を直撃し、岩倉村がこのダメージから回復するには長い時間を必要としました。
・同年6月の鴨川水害でも、死者12名・負傷者71名・家屋の全半壊482戸を出している。この地が安全な地域になったのは、昭和22年(1947)の鴨川改修工事や、昭和30年(1955)の河床掘り下げ工事がなさてからか。

昭和13年(1938)1月 京都岩倉、権土池の堤防が決壊

昭和15年(1940) 京都岩倉、里子
*岩倉は、北白川、梅畑とともに、里子の村として有名です。明治年間に22名、大正年間に42名、昭和年間に51名ありました。特に、岩倉具視、東久邇宮稔彦王が有名とのことです。
*次の表は昭和15年の場合です。
岩倉長谷木野幡枝花園合計
人数166321230
男女別男10,女6男3,女3男2,女1男2,女0男0,女1男2,女0男19,女11
北野神社神官 山本興三郎(定阿)による『岩倉村概誌』の編纂
◎里子は戸籍をいじりませんから里親の遺産相続する権利はありません。養子はこれに対して戸籍をいじり、養親の摘出子の身分を得て遺産相続の権利を得ます。また猶子は他人と親子関係を結び、家督相続を前提としない親子関係です。豊臣秀吉が近衛前久の猶子になる例があり、関白に就任できました。

昭和16年(1941)12月8日 太平洋戦争開戦(日本、英米に宣戦布告)

昭和18年(1943))『京都古習志』(井上頼壽)より、「宮座の位置」
*東の座、北から社殿に近い順に、下在地・忠在地・西河原。西の座、北から同様に上蔵・忠在地・村松の順。今(令和元年)とは、東西が反対で南北が反対です。

昭和20年(1945)8月6日広島市、同9日長崎市に原子爆弾投下 同8日ソ連軍参戦

昭和21年(1946)2月16日 日本における預金封鎖
◎戦後、政府は金がなく幣原内閣は、2月16日(土)夕刻に「預金封鎖」「新円切替」「臨時財産調査令」公布。インフレーション対策として施行され、銀行などの預金を封鎖し、同時に新旧紙幣を切り替えた。翌17日実施。封鎖預金からの新円での引き出し可能な月額は、世帯主で300円(現在の20万程度か)、世帯員は1人各100円とした。一世帯月の引き出し額を500円以内(33万程度か)に制限。旧紙幣は3月7日までに、銀行等に預け入れる。
[財産税] 1946年11月11日施行 次の( )は現在の相当額
 10万円超-11万円以下(0.67億-0.73億円)--25%徴収
 15万円超-17万円以下(1億-1.13億円)------45%徴収
 100万円超-150万円以下(6.67億-10億円)--70%徴収
 1,500万円超(100億円超)-------------------90%徴収
申告期限:1947年1月31日 納付期限:1947年2月28日
・旧紙幣は使用不可で、タンス預金も含めいったん銀行に預ける。そして銀行から引き出すのだが制限が出来る(上記)。タンス預金の放置は紙切れになる。銀行などの財産は上記の割合で、国のものとなる。(土地や株式については省略)
▼2024年7月に新紙幣が発行され、「預金封鎖」云々を噂する人もあります。過剰反応はしたくないですが。

昭和22年(1947) 農地改革は総司令部 (General Headquarters) 、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた
*京都市の農地改革は昭和22~25年(1947~50)に行われたようで、その 後は1軒で所有できるのは6反までとなったようです。
*岩倉では次のようです。「自作農家が自分で耕作している農地に関しては、そのまま所有を認める。所有者が小作に出している農地に関しては、6反までは、所有者にそのまま所有を認めるが、これを越える場合は、越えた分を所有者は解放する。解放された農地を買った小作農家は、それを売ることができず、耕作を続ける。」機械のない時代、家族だけで頑張って耕作できたのは6反まででした。解放された農地は、耕作に不都合な湿田や家から遠い田であることが多かったようです。『洛北岩倉』

昭和24年(1949) 京都市に編入され、左京区岩倉とされる
*宝ヶ池競輪場(昭和24~33年)人工池があったところを市民の憩いの場として宝ヶ池公園が作られ、その中に京都市により競輪場が作られた。叡山鉄道も乗り入れた。市の財政が黒字になり始めてからギャンブル施設運営に対する異議が相次ぎでて、高山義三市長の決断により廃止となる。今は子供の楽園になってる。
*この年の5月24日、満年齢の義務化。年齢のとなえ方に関する法律(昭和24年5月24日)がでます。

z_umetate 昭和24年(1949) 彦根市、彦根城の外堀を埋める
*マラリヤ予防条例。戦前より彦根市ではマラリヤが猛威を振るっていて、堀はマラリヤ原虫を媒介とするマハダラ蚊の発生源の一つだったため埋めることになる。昭和28年までの5年間で、下片原・中藪・長曽根町、外馬場町、二番町、水流町などを埋める計画で、市街地のゴミが使われたようです。昭和29年にはマラリヤ患者がゼロになりました。
◎地図は、天保7年(1836) 「御城下惣絵図」 城下の普請奉行によって作成されたもので、緑色に塗った外堀(昭和29年)・松原内湖(昭和19~50年)を埋めました。

昭和26年(1951) 岩倉下在地町31戸、主要作付作物の構成  
産物大麦裸麦小麦菜種サツマイモジャガイモ里いもナストマト大根他(略)
戸数317231651511110114 
田(畝)1581813476118213 9111 
畑(畝)   16 29716 7 
『洛北岩倉』P164より
◎どの農家も、田の裏作として麦を栽培している(稲:6月下~10月下・11月上、麦:11月中~6月中)ようだ。10(=30歩)を1反としているか。単純には1581畝=158.1反となる。
◎岩倉本通りは大正14年に拡張整備、叡山鉄道岩倉駅が昭和3年に出来るものの、花園地区の宅地開発は昭和29年からで、下在地町への外部からの定住は昭和29年以降のように思える。

昭和27年(1952)4月28日、日本の主権が回復
◎米国など48ヵ国と日本が、サンフランシスコで署名(昭和26年(1951)9月8日)が発効。旧ソ連と旧チェコスロバキア、ポーランドは拒否。
【住民登録法施行】この法律は、法施行(昭和27年(1952)4月28日)の日から施行。
つまり、住民票の作成が開始される(法施行の日から五日内に届けでる。罰則有り)。これまでは明治5年の壬申戸籍が本元で、昭和26年まで戸籍(いまでいう戸籍謄本)一つでした。住居を変える度にこの戸籍に線を引き書き換えていました。当局からの番地変更でもその都度そこに変更を加えていました。また姓に振り仮名はありません。それゆえ住民票の開始の昭和27年に、姓の読み方が決まってしまいました。逆にこの時に変更も可能でした。
▼主権は回復すれど、「米国に利するような仕組みをGHQが残していった」のでないか、と。このことが正しければ、最近の日本社会の混乱が、比較的良く理解が出来ます。

昭和27年(1952) 京都岩倉、岡山保養所が(新)岩倉病院に
*明治から続く岩倉病院は第二次世界大戦にともなう食糧難により、突然、終わり迎えます。昭和29年、城守保養所が37床で北山病院として発足します。

昭和28年(1953)2月4日、韓国海軍による日本民間人殺害、虐待事件
*この前年(1月18日)韓国は李承晩ラインを設定し、竹島(対馬も含む)海域における韓国の主権を主張し始めた。
*一大邦丸事件。公海上で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(57トン)』及び『第二大邦丸(57トン)』が、韓国の漁船『第一昌運号』及び『第二昌運号』(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕され、第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎(当時34歳)が被弾して死亡した事件である。翌1953年4月より独島義勇守備隊と名乗る民兵組織を常駐させて実効支配をはじめた。
*「海上保安白書」(昭和41年版)によると、「日韓が国交を回復する1965年までに、韓国当局は327隻もの日本漁船を拿捕。3911人の漁師を拘束し、うち8人が死亡しました。」とあります。

昭和29~31年(1954~56) 京都岩倉、花園地区の宅地開発
*花園地区:昭和29年1坪1,200円、昭和34年1坪2,200円、昭和40年1坪30,000円で売られる。
*10年ほどで、土地の価格25倍。農家は土地を売った得たお金で、家を2階建てにしました。つまり「くずやおろし」と呼ばれる作業をして、わらぶき屋根とそれを支える小屋組を撤去し、その部分に2階を増築しました。、、2階部分を使って学生下宿を始めるところが、昭和30年代に多く出てきたのです。同志社大学、立命館大学、京都大学などの学生がたくさん岩倉に下宿し始めたのでした。、、下宿代は6畳の間で月6、000円(部屋代2,000円・朝夕の食事代4,000円)でした。

昭和30年(1955)3月2日、第三清徳丸襲撃事件(日本と台湾)
*尖閣諸島の魚釣島近海で操業中の第三清徳丸に中華民国旗を掲げた2隻が救助を求めたため、曳航しようと接舷したところ、兵隊のような格好をしたもの2名が第三清徳丸に飛び移るやいなや、船長と船員合わせて2名を射殺した。残りの船員7名は海に飛び込み、2海里離れた魚釣島まで泳いで逃げようとしたが3名しかたどり着けず、4名は行方不明となった。

昭和39年(1964) 滋賀県、琵琶湖大橋完成
◎琵琶湖の最狭部に琵琶湖大橋が架けられ 、東西の距離は大幅に短縮しました。

昭和43年(1968)、壬申戸籍の閲覧禁止
◎他人の出自を探り出すために壬申戸籍が用いられようとした事件が発覚し、同年3月29日民事局長通達により閲覧禁止となりました。これにより、自分の先祖を辿ることが難しくなりました。
・「出自研究のため」平成16年(2004)8月、遠くを厭わず役所へ行きました。繋がり(直系)を証明する資料が必要と伺っていたため、除籍謄本・戸籍謄本などを持参し彦根市市民課を訪ね、壬申戸籍閲覧を請求しました。暫く待たされ、結局、除籍名簿で明治30年以前のものはない、とのこと、閲覧できませんでした(上の方に相談されたのか、暫く待ちました。明治30年以前云々を申し立てるなら即答できるはず)。こちらは『彦史』に、保管されていると記載されているから行ったのですが。ただ、彦根市教育委員会事務局市史編纂室のK氏から『事前に電話を入れて行って下さい』といわれたこと、悔やまれます。それでは妻の方はどうかと、役所を訪ねましたが、こちらも明治30年以前云々の答えが返ってきました。壬申戸籍は今の戸籍とは違って、檀家の寺等の記載があります。檀家の寺が分かれば、そこから過去帳をたどり、と。この件以前に、檀家の寺らしいき寺を訪ねましたが、調べるのが邪魔くさいのか、焼けて古い過去帳がないのか(廃仏毀釈関連)、聞く方にも問題があったのか、親切な答をもらえませんでした。
▼まあ、自分も含めて、先代、先々代などなどが『ぼ~としている』と、祖先のことがわからなくなってしまいます。

昭和60年(1985)5月20日、京都岩倉、大雲寺 寛永18年建立の本堂が消失
*寺宝・必仏の全てが散逸。平成10年、現住職により散逸した寺宝178点全てが大雲寺へ戻る。
◎大雲寺は焼失し、石座神社の東に移りました。

令和2年(2020) 新型コロナ、パンデミック
◎中国武漢市発祥による、新型ウィルス発生。世界に蔓延。
(私のメモによる)
2019年12月8日、中国湖北省武漢市、原因不明の肺炎クラスターが発生
1月1日、中国での肺炎流行の中心地とされる河南省海鮮卸売市場が閉鎖
1月16日、神奈川県で中国感染者を確認
1月26日、中国発のコロナウィルス。感染者日本人3人。中国死者54人、27日より団体は中国から出さない。
2月1日、香港でクルーズ船ダイヤモンドプリンセス号乗船感染が確認される
9月29日現在、日本感染者82,503人、死者1,560人、世界感染者33,236,052人、死者154,327人。

令和2年(2020)11月3日 米国大統領選挙

令和3年(2021)1月5日 新型ウィルス 第3波が発生
日本感染者数:248,443名、死亡者:3,679名 /世界感染者数:85,624,961名、死亡者:1,851,448名
世界の人口:61億3,000万人
1.米 国 :20,800,517名 353,328名 2.インド :10,340,467名 149,649名
3.ブラジル: 7,753,752名 196,561名 4.ロシア : 3,226,758名  58,203名
5.イギリス: 2,721,622名  75,547名 6.フランス: 2,717,059名  65,549名
・イギリス、南アフリカで変異種の新型ウィルスが発生

令和3年(2021)1月6日 米国、次期大統領を認定する会議の前日(1/5日)
・バイデン候補が当選確実とするが、明らかにトランプ氏をおとしめる企てがあり。背後に中共の姿が見えている。CIAの投票集計サーバーを確保しようとするFBIとCIAとの銃撃戦。死亡者がでる衝突、尋常でない。米国、日本のTV・新聞等の報道がおかしい、情報操作されている。トランプ大統領、何を信じてよいか分からない状態。私は再選を信じている。これまで傲慢と考えられてきたが、彼の成してきたことはほとんど正しかった。南北戦争以来の、内戦化する恐れあり。日本においても、権力中枢に暗雲が立ちこめていること然り。

令和3年(2021)1月7日 米国、上下両院合同会議(1/6日)
1月20日、バイデン大統領が就任。

令和3年(2021)5月7日 新型コロナ、第4波が発生中
日本感染者数:621,887名、死亡者:10,611名 /世界感染者数:155,650,258名、死亡者:3,251,960名
世界の人口:61億3,000万人
1.米 国 :32,603,943名 580,054名 2.インド :21,077,410名 230,168名
3.ブラジル:15,003,563名 416,949名 4.フランス: 5,789,283名  106,011名
・変異種(英国型)の新型ウィルスが多し

令和3年(2021)8月6日 東京オリンピック2020開催中、デルタ株の猛威
◎7月23日、日本の1日の新規感染者数5,014名。23日の夕方、東京オリンピック2020の開会式(~8日)。パラリンピックは25日~9月5日。当初の新型コロナウィルスはイギリス型から、今の多くはデルタ株(インド型)に置き換わっていいるという。

・8月6日、日本の1日の新規感染者数15,636名で第5波が進みつつある。6日のネットニュースで、米報告書(米下院外交委員の共和党スタッフ)によれば新型コロナウィルスは「中国から流出」と断定したとある。2019年9月中旬に、武漢ウィルス研究所(1956年に設立)からウィルスが流出し、これが2019年10月18日、「軍人のオリンピック」の第七回軍事スポーツ大会で世界に拡散したと。報告書では参加国の、イタリアとブラジル、スウェーデン、フランスの4カ国で、2019年11月から12月にかけての感染例を示している。なお、武漢ウィルス研究所には、2015年のオバマ大統領の時代に、アメリカ国立衛生研究所の研究委託として370万ドルものアメリカの国民の税金も投入されていたという。
・なお、SARSが流行した翌年(2004年)、「中仏共同プロジェクト」にて、専門性の高い10数社のフランス企業が参加した、武漢ウィルス研究所の『P4実験室』(2015年1月完成)から発生したのではないかと疑惑がもたれる。フランスは米国へ、中国が独自に取り組みだし「『P4実験室』は将来、生物兵器庫に変容するのではないか」と警鐘を鳴らしていた矢先だという。

令和4年(2022)1月20日 日本では新型コロナ、第6波が発生中
世界の人口:61億3,000万人
1.米 国 :68,569,600名 857,768名 2.インド :38,218,773名 487,693名
3.ブラジル:23,425,392名 622,125名 4.イギリス:15,610,069名  153,378名
日本感染者数:1,975,761名、死亡者:18,458名
◎オミクロン株は第5波を超える勢い。1日の新規感染者41,377人(20日14時現在)。岸田総理の公約違反も甚だしい。国政では、日中国交50年への動きが微妙だ。これほど苦しんで、まだ親中であり続けるのか。人権を前面に掲げればぶれることはないのだが。

令和4年(2022)2月4~20日 北京冬季オリンピック
◎ロシアのプーチン大統領は、開会式に出席するため、4日北京を訪れ、習近平国家主席と会談を行う。中ロで密約が交わされたか。

令和4年(2022)2月24日 ロシアがウクライナへ侵攻
◎ドローンが効果的に使用され、戦闘のあり方が変化したようだ。

令和4年(2022)7月8日 安倍元総理、参議院選応援演説中狙撃される

令和4年(2022)7月13日 新型コロナ、第7波が叫ばれる
◎Web NHK(7/12報)に『コロナ“第7波” オミクロン株BA.5「行動制限不要も対策徹底を」』とある。

---------------- 後編おわり ----------------


文頭(*)印は引用した事項、ほぼ触らず記述。(◎)印は、私見や私の言葉に組み替えたもの、(・)は(*)(◎)に追従のもの(〃)と同じです。(▼)印は特に強調したい記述です。




■【参考文献

許可なく、複写・転載を禁止します。

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