山科言経

▼親・子・孫と三代にわたる貴重な史料、山科家に感謝します。ただ、検証も必要でしょう。石川五右衛門は実在の人で、当時の宣教使もあげています。
京都を出奔のとき、冷泉為益(上冷泉家8代当主:子に、隆昌、為満、言経室、准如室)の子・四条隆昌(室の兄)、冷泉為満(室の兄)も突然勅勘を被り、京都を出奔した。為満の妹が本願寺の11代門主・顕如(光佐)の次男興正寺顕尊(諱は佐超)の室であった縁を頼り、言経・隆昌・為満と共に本願寺に身を寄せた。慶長3年(1598)に為満が勅勘を解除され冷泉家に戻り、冷泉為満(9代当主、隆昌の弟)となる。同じく、慶長6年(1601)に隆昌が四条家に戻った。その間に本家を継いでいたものは、それぞれ堂上家、櫛笥家の別家を立てている。なお、本願寺の12代門主・准如(光昭)である。

 顕尊(1564-?年:佐超)は、4歳で興正寺16世証秀の養子。天正3年(1575)に実父顕如を戒師として正式に得度すると、直ちに法眼に。幼年のため、下間頼亮が補佐役を務めた。実父(顕如)の籠る石山本願寺を支えて、安芸の毛利輝元と図って兵糧を石山本願寺に運び入れる工作を行う。父が豊臣秀吉の斡旋で京都七条に本願寺を再興すると、その南隣に土地を与えられ興正寺を再建。

 下間頼亮:天正3年(1575年)から石山本願寺法主顕如の次男の興正寺住持顕尊付。石山合戦では門徒に顕尊の命令を伝え補佐を務めた。慶長6年(1601)に宗巴を名乗り、寛永4年(1627)に西本願寺に出仕したが、以後の消息は不明。子の頼良は東本願寺に仕えた。

【山科家 12,13,14代当主】山科家(京都山科荘に由来)は藤原北家四条流の公家。貴重な記録、日記を残している。
山科言継(1507-1579):『言継卿記ときつぐきょうき』大永7-天正4年(1527-1576)、50年間の記録
山科言経(1543-1611):『言経卿記ときつねきょうき』天正4-慶長13年(1576-1608)、30年間の日記
山科言緒(1577-1620):『言緒卿記ときおきょうき』慶長6-元和5年(1601-1619)、20年間の日記
『大日本古記録』(東京大学史料編纂所:2008年時点で既刊は121冊)に『言継卿記』全14冊、『言経卿記』全2冊所収

◎次に、『言経卿記』に頻出する人物を紹介します。
--山科言継 (山科家12代)--------|-言経 (山科家13代) 
    :  ----------------------------言緒 (山科家14代)
 |-娘(長女) 
--冷泉為益 (上冷泉家8代)--------|-隆昌 (四条家15代) 
 |-為満 (上冷泉家9代) 
 |-為子(三女) 
    :  -----------------------------准尊・興正寺18代
 |-(次男)顕尊(佐超)・興正寺17代(浄土真宗) 
--顕如(光佐)・本願寺11代(浄土真宗)--|-(長男)教如・本願寺12代・東本願寺1602年、本願寺の分裂
 |-(三男)准如(光超)西本願寺 
   
 下間頼亮(興正寺住持顕尊付)