秀吉は
天正16年(1588) 遠藤兄弟、秀吉に逆らい領地没収
*天正10年(1582年)の山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れた後、美濃国岐阜城主となった織田信孝は秀吉と対立し、北濃東濃の多くの諸将は秀吉に従ったが、郡上郡の遠藤慶隆(兄)と胤基(弟)は、信孝に与し続けた。
*天正12年、小牧・長久手の戦い600騎を率いて秀吉方に参加。天正13年、秀吉の紀州攻め、天正15年、秀吉の九州攻めに兄弟で参加。翌16年、両兄弟は京の西京口に居所を与えられ、妻子と共に上京。
*天正16年、兄弟の領地没収。立花山の戦い(天正11年)などで秀吉に反抗したことを理由に、遠藤慶隆・胤基で2万余石あった領地を没収され、慶隆は小原7,500石、胤基は犬地5,500石に減封された。このため遠藤氏は家臣を養うのが困難となり、全家臣の三分の一は他家に仕えたり、帰農したり、浪人したりした(太田成和『郡上八幡町史』上巻)。
*慶隆転封後の八幡城には、稲葉貞通が郡上に武儀郡津保谷を加えた4万石で入っている(太田成和『郡上八幡町史』上巻)。なお、郡上が貞通に渡された後、両遠藤は替地の所領を貰えず関へ行き、
町人加取善左衛門の家を借りて住んでいたところ、太閤検地にやって来た小野木縫殿助と寺西筑後に出会い、代地の依頼をした。上洛した二人がこれを秀吉に伝え、ようやく小原・犬地の地を得て、天正18年(1590)に引っ越すことができたともいう。
*文禄元年(1592年)、文禄の役に胤基と共に100余人の兵を連れて織田秀信の下に属し、釜山・梁山・蔚山・鎮守城などを転戦しながら、2年間朝鮮に在陣した後、帰国した。だが、胤基は長門国国分寺で病死し、胤直(胤基の弟の胤重の子)が後を継いだ(兄弟仲が良いのだ)。
◎遠藤慶隆は主君を斎藤龍興→織田信長→武田信玄→織田信長→信忠→信孝→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光と換えている。大変な奉公先があったり、よく生き残れたものです。
【検地奉行の二人】
・小野木重勝(縫殿助:ぬいどのすけ):文禄3年(1594)丹波福知山4万石の城主。関ヶ原の戦いにおいては西軍に与(くみ)し、西軍敗北後、自刃させられた(享年38)。また、自刃の知らせを聞き、妻も自害して果てる。
・寺西正勝(筑後守)は豊臣秀吉の御伽衆。出自不明。知行1万石。関ヶ原の戦いの前に亡くなった。
◎検地奉行というのは秀吉お抱えの、だいたい1万~数万石以上の直臣である。秀吉は後年、多くの直臣を抱えている。それも多くの蔵入地を所有している所以である。
天正17年(1589)2月25日 秀吉の居、聚楽第の番所白壁に「落書き発見」
◎京都大改造(実質は天正15年(1587)の検地あたりから始まっているか)、この工事の最中、
同年2月25日夜、聚楽第の番所白壁に、秀吉や世相についての落書きが発見された。前田
玄以が密かに片づけたというが、秀吉の知るところとなって番衆17人が処分された。 まず、2月29日に鼻を削ぎ、2月30日に耳を切ったうえで逆さ磔にするという厳しい処分が下された。それで留まらず、この
聚楽第落書き事件に関与あるいは連座して追放された牢人たちを大坂本願寺の寺内(寺内町)で匿っているという疑いがかけられ、3月1日には増田長盛・石田三成を派遣し、本願寺の顕如に、寺内にいた
尾藤次郎右衛門(道休)を自害させ、その首級を差し出させた。さらには、
80を超えた者、7歳にも満たない者、男女の隔てもなく、本願寺の法師もいれば、諸国を往来する商人もおり、有罪の者も無罪の者も一切合切の処罰となった。京都へ送られた63人(3人自害、60人は六条河原で磔)、大坂でも50人、計113人の死刑となった。隠匿しない旨の起請文の作成が求められるなど、大変な騒ぎであった。『
言経卿記』には、「
寺内召人六十余人京都ヲ車十両ニテ被り渡、六条河原ニテ悉八付ニ被懸也云々、」(天正十七年三月九日)の記述が見える。
天正18年(1590) 秀吉、京都の大改造
*秀吉は1590年、91年に
京都の大改造を行います。最初は天皇の御所から手をつけています。■御所の周りに「公家町」を造り、公家を集める。鴨川の西岸に寺を集め、「寺町」を造る。強盛を誇った日蓮宗、法華宗の寺院を「寺の内」に集めてしまいます。妙覚寺は妙顕寺とともに上京の北の端に移動させられています。本能寺は寺町へ行きます。それから町屋の移転です。、、町人の家を解体して移動し、大騒ぎとなっています。聚楽第と禁裏と間にあった町屋が整理され、ここが大名屋敷になったようです。、、近江など近国の商人たちが出てきて新しい町ができ、大きな変革を遂げ、上京と下京が一体化していきます。
この京中屋敷替えの時、20日間に二千軒の家屋が撤去されたとフロイスは書いています。、、本願寺が下京の南の六条(本国寺の南)に移ってきます。、、1月余りでお土居ができ、その門は10あった。これは泥棒や反乱分子が生じた時に、お土居の10の口の門を閉めて閉じこめて逮捕するためだ、と書かれています。『京都の歴史3 町衆の躍動』120
文禄4年(1595) 京都、方広寺の大仏殿を再建、梵鐘の銘文が
*秀吉は、松永久秀の焼き討ち(1586年)により焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。文禄4年、方広寺を創建(東山区大和大路通七条上ル)する。■大仏は東大寺のものより大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという。
刀狩で没収した鉄は釘に再利用されている。大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造で造られた(『太閤記』)。
同年9月25日には秀吉自身の祖父母の供養のため、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、浄土真宗の僧が出仕による千僧供養会を行った。この大仏は完成の翌年、文禄5年(1596)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。このとき大仏殿は倒壊を免れている。以後、大仏は数度再建された(慶長17年が有名)が、寛政10年(1798)に落雷が大仏殿に落ち、火災で焼失。以後は同様の規模のものは再建されなかった。