桂川と京南西部
 氾濫と開発 市街化の遅れ
 西岡の国人と11ヵ郷
 「筏流し」と材木屋
 丹波路へ向かう街道
 桂川に架かる橋



[桂川と京南西部]
■桂川の氾濫と開発
 桂川(葛野川)は東の鴨川に劣らず氾濫が多いです。
 5世紀頃に嵯峨や松尾など桂流域に入植した秦氏が、先進技術でもって桂川を渡月橋の北で堰き止め水量と流れを調節しました(5世紀後半のこと)。これを、葛野の大きな井堰から「葛野大堰(かどのおおい)」と称しました。[桂川の名称]

 井堰とは他所への流れをつくるため、川を「堰き止め水をためるところ」を意味します。井には「溜まる・集まるところ」の意味があります。
 井堰を設けるのは、「洪水をおこさせない」が条件で、「水資源の利用」のねらいがあるといえます。堰き止める部分が高いですと、そこで洪水が起こります。だから、水位を少しばかり高くし(堰)、水を溜め(井)脇へ流します。川の段差として堰(仕切り)をつくり、深い上流から脇に少し低い取水口をつくります。

 川に井堰を設けるには多くの経験則が必要とされます。つまり、川の上流がどのようになっているか、大雨の時にどれだけの水量がやってくるか、多くの調査や経験が必要となり、井堰は「にわかに」はできません。秦氏が数十年で井堰をつくったこと、十分な日数をかけたのでしょうか。葛野大堰の「水資源利用」については後世に多くの恩恵をもたらしているようですが、氾濫・洪水に関しては「たいした物でない」といっても過言でないでしょう。
 川を堰き止める部分が、一部か全体かも、川の利用を考える上で重要です。これが全体となりますと、舟や筏(いかだ)を流すことは不可能となります(舟通しが必要)。下の古図(「山城国桂川用水差図案」)では破線が井堰を現していて、川幅全体に及んでいるようです。また、川からの水の取水口はすべて「上流の脇」にあります。
 なお、今の井堰では「舟通し」の他、魚が上流へ行き産卵するなどのため「魚の道」もあるようです。

kinai  【岩倉川永田井堰の例】 川の流れは右から左。川幅全体に、縦に鉄杭・丸太を数本打ち込み、長い丸太を横に通し土嚢・砂利で水を止め、水位を上げています。ただし、川下でも多くの用水路があることや、日照りが続き川水が少なくなってきたときも考え、常時水を逃がしています。この井堰では「農作物の水利用」だけにねらいがあります。
 用水路の取水口は下で、鉄枠の上下げで鉄製の水門を調整し用水路に水を流します。写真では水路が閉まっている状態です。川の水量が多いとき少ないときも年間を通して井堰の土嚢・砂利を触らず、鉄製の水門で用水路へ行く水を調整します。大雨の時は水門を完全に閉め脇の用水路に水が行かないようにします。水門を閉めなければ水路の下流域で洪水が発生します。
 当方の農家では、井堰のことを「井出いで」(地域によっては井手)ともいいます。春先の水利組合総出による井堰の補修のことを「井出上げ」といっています。井出は水がたまったところから出る水の取水口。井出上げは井出の水位を上げる作業。井堰を井出というのもまんざら間違いではなでしょう。

 この葛野大堰の痕跡が、いまの農業用水路の取水口(一の井堰)の東辺りにあるとされます(脇谷芳招氏)。古図では一番目の破線が葛野大堰で、そこから分岐する水路、「一井」が桂川の西岸に、「二井」が東岸に伸びています。いまの取水口は「一井」の少し上流です。このうちの「一井」の一部が京都市西京区の松室遺跡で確認されて、5世紀後半に葛野大堰がつくられたことが判明したようです(『京都と京街道』63)。以後、この水路により桂や洛西の地域の開発を促しました。

 ※堀川についても追加している
 延暦19年(800)10月4日 山城・大和などの国民を徴発し葛野川の堤を修理させる
 弘仁15年(824) 鴨川・葛野川に監視する防鴨河使・防葛野河使を置く
 天長5年(828)5月23日 京中洪水激しく左右京に賑給する
 承和5年(838)5月28日 左右京の京戸に東西堀川杭料として檜柱一万五千株を出させる
 寛平6年(894)11月30日 検非違使に大井、予度(淀)、山崎、大津等を巡察させる
 延喜15年(915)7月 鴨川と東堀川をせきとめて、材木を運漕することを禁ず
 延長4年(926)5月7日 防鴨河使を廃して検非違使に付す
 延長5年(927)頃 『延喜式』に、嵯峨から梅津までを大井(堰)津と
 康保3年(966)8月19日 桂川氾濫五、六条以南が海のようになる
 安和元年(968)5月26日 京中が海のようになる
 天元2年(979)7月15日 大雨による洪水で京中が大河のようになる
 正暦5年(994)5月3日 堀川の水が死人によりあふれる
kinai  長治2年(1105)、鴨川、桂川が氾濫し、鳥羽殿が浸水
 長承3年(1134)、鴨川、桂川、西堀川などが氾濫
 久安5年(1149)、大雨により桂川浮橋が流失する
 建久元年(1190)、大風により鴨川、桂川などが氾濫する
 明応4年(1495)、桂川の井堰の設定状況(右図)
 右図に、上記「一井」、「二井」を含めた11カ所で取水口が描かれています。(山城国桂川用水差図案 『京都市の地名』)判読のもの『京都の歴史』3巻285

▼桂川の嵯峨、梅津、桂津で丸太材木が集荷され、多くはここで陸揚げ場となっていた(忠富王記)。多くの井堰がある中で筏を通過させるには、井堰を取り除くか別系統の流れを作る必要があります。
▼桂川に分流する井堰(田畑に水を取り入る)の数を増やせば、桂川の氾濫は減少します。

【山城国桂川用水差図案の補足】
①現在の渡月橋(法輪橋)は上から一番目の破線(葛野大堰)の南側に移動しています。
②破線(井堰)が桂川の吉祥院辺りまで見えます。各井堰の川上に取水口があり田に水を供給しています。
③図の中央辺りに「桂橋」が見えます。
④井堰が多いと「舟や筏流し」に困るはず。井堰を設けるには工夫が必要です。
 (河川で4月~8月の間、保津から川上、嵯峨より川下では農場用水として活用されるため、この区間での舟や筏の就航は行えません。舟通しはあったのでしょうか。)

 戦国から江戸時代になりますと、京都の豪商である角倉了以が大堰川(保津川)を慶長13年(1608)開削し、船運が現在の丹波町与木村から下流の淀や大坂まで通じることになります。
 享保6年(1721)、渡月橋畔に筏改所(運上所ともいう)が設置されます。

■川の氾濫による市街化の遅れ
 平安時代の当初から京都盆地の南西部分が栄えなかったのは、桂川の氾濫だけでなく、南へ行けば鴨川との合流で氾濫が倍加し、湿地帯となるからでしょう(土地は肥えますが)。平安京が大きすぎたことも原因があり、住民は東北に偏り南西部は未開発の状態で、住民が住んだ痕跡はほぼないといわれています。桂川を西へ横断するのも丹波路を利用するに留まるということでしょう。大坂へは桂川の水運を利用し、草津湊から大きな船で向かったといいます。
 「京都盆地の南西部分が栄えなかった」とは、当方の認識不足で、そこではしっかりと国人(土豪)達の農村経営が行われていました。それは京都市民の歴史から外れていただけで、南西部分の国人(土豪)達の「動き」を覗くと見えてきます。だがここも、信長の侵攻後は生き残ったものがほとんどいなく、まとまった文献がないようです。
 だが、農村住民はヘッド(領主)がどのように変わっても自分たちの土地として田畑を耕作し続けます。

■西岡の国人と11ヵ郷の農村
 西岡(にしのおか)とは山城国西部、京都盆地の西部の西山丘陵から桂川右岸にかけて、当時の広域地名。その中に、11世紀より勢力を維持した物集女もづめ氏がありました。秦氏の一族とされ、物集女荘の代官としてこの地域に物集女城を築いた国人・土豪であった(と推定できますか)。
 室町幕府においては、奉公衆の下に属する下級武士団(被官36人(『雍州府志』)の内の1人。この地に、それぞれに居城を構える国人・土豪たちのことを「西岡(被官)衆」と称しました。
 文献の早いものでは建武3年(1336)7月の「足利尊氏御教書」に山城国西岡が見えるといいます。尊氏は「西岡」を幕府直轄地とし軍事力を編成しました。これに動員された地元の土豪たちを「西岡衆」(御家人)と称しました。このときの手立てが、土豪たちに地頭職を宛行い荘園領(寺社領など)に半済を実施し、下地の半分を土豪に与える方法でした。
 西岡衆は、奉公衆に属する武士団であり、室町時代中期までは、山城国守護から半ば独立した存在でしたが、宝徳元年(1449)より、山城守護が畠山氏から選出され、西岡衆は畠山氏の影響を受けました。

 (農村では)
 本来荘園領主の管理下にあった用水を郷として管理する郷民が登場します。郷民は荘民としてではなく、地域的に団結した郷民として行動します。郷を単位とする惣として用水や肥料源としての荒野・山地を管理しましたが、惣の団結が荘園領主に対する日常的な年貢減免闘争によって強化されてゆきます。『京都府の地名』P293

 (国人は)
 応仁の乱では、西岡衆の多くは細川勝元の率いる東軍に属し、西軍には古くからの国人である鶏冠井かいで氏がいました。応仁3年(1469)4月、東軍は西軍に敗れて総崩れとなりました。
 応仁の乱後、文明12年(1480)には、西岡衆が再び結集できたようで、「むこう大明神」(向日神社)で蜂起の相談をしたり鐘を撞いたりしている『言国卿記』。西岡の地は古くから自治的な郷が発展し、応仁の乱が収束した後には、「国」と呼ばれる地域連合体が出現しました。この連合体ができたのも、桂川西岸用水路から得る共通の利益で結びついていたためでした。ここの「国」の有力者に名を連ねたのが「国衆」です。一人一人は弱くても、連合すれば戦国大名でさえ侮りがたい勢力でした。

kinai  (農村では)
 農村での惣の高まりは、一方で惣を封建的に支配しようとする国人を成長させます。西岡御家人は惣の構成員でなく、惣の支配を目指すものですが、惣内部には一般農民よりは上位の侍衆も含まれていました。1487年の土一揆で農民は国人・地侍・土豪が組織したものに加わります。その過程で侍衆と一般農民の利害が対立を始めます。『京都府の地名』
 西岡中心部の農村は、桂川から引いた灌漑用水を引いており、その用水を管理するために結束し「西岡11ヵ郷」(桂川用水差図は1495年頃)と称しました。
 農村部で郷の連合組織ができても、国人にはそれが利益共同体として理解できるし矛盾のないところです。それどころか、国人でも連携を組む意識が芽生えることになります。
 上六カ郷:徳大寺、上桂、下桂、川島、下津林、寺戸
 下五カ郷:牛ヶ瀬、上久世、下久世、大藪、築山

 (国人は)
 永禄11年(1568)、織田信長が畿内へ侵攻するとき、西岡衆からは、鶏冠井氏と能勢衆、秋山衆や野田衆が三好三人衆に従い勝竜寺城に立て篭もる。しかし、将軍足利義昭を奉じての上洛であったため、物集女氏、神足氏、中小路氏、革嶋氏などは織田軍に従います。西岡の国衆も真っ二つに分かれて戦うこととなります。
 天正元年(1573)、細川藤孝が桂川西岸一帯を信長から任されました。このとき、物集女氏がお礼に参上すべきであるのに拒絶したため(参上したものは領国安堵)、天正3年勝竜寺(城)で細川藤孝の手により誘殺されました。物集女氏は後に衰退、物集女城も廃城になります。「戦国大名のもとではその軍門に下るか、滅ぶか、帰農する他ない」と思いますが。
 江戸時代以降、「江戸時代を通じて、西岡には中世以来の寺社領も多く散在し、複雑な散在所領形態が残存した(『京都市の地名』)」と。中央政権が変わっても、寺社領というのはある程度に尊重され、温存されてゆくようです。

kinai << 西岡被官衆 >>(右上図、太字は国人・地侍)

<< 主要な西岡国衆、その後 >>
1.城趾があれば( )の現在地ですか
2.○印は西岡11ヵ郷の領主であったか
▲革嶋氏○:革嶋城主、子孫は細川・明智家臣の後に帰農(河島西京区)
・築山氏○:築山城主、細川家被官、子孫は熊本藩在京家臣(南区久世)
・神足氏:神足城主、子孫は熊本藩家臣(長岡京市)
・能勢氏:今里城主、子孫は義昭に仕え二条城討死(長岡京市)
■中小路氏:開田城主、子孫は開田天満宮(長岡天神)の神官や細川家臣のち藤堂家臣
・志水氏:志水落合城主、子孫は熊本藩家臣(伏見区羽束師志水町)
■調子氏:調子城主、近衛家に被官、子孫は調子村領主(長岡京市最南部)
・竹内氏:久我家被官、のちに堂上家(公家)となる(伏見区)
・鶏冠井氏:鶏冠井城主、三好家被官滅亡(向日市)
・物集女氏:物集女城主、子孫は細川藤孝に謀殺のち滅亡(向日市)
・竹田氏○:寺戸城主、三好家被官逃亡のちに野田氏(向日市)
※ ■印:在地(2)、・印:細川家(3)公家(1)変名(1)滅亡(3)、▲印:帰農(1)
※ 江戸時代まで続いた領主は調子・中小路・野田氏。それ以外ほとんどいない
(細川家その後、丹後から熊本へ)(wikiと『京の霊場』など)

 (農村では)
 つれづれ本文「天正15年(1587)9月」にて、洛中検地、特に天正17年の検地はとても厳しい検地で、、、洛中の都市の要素と農村の要素を分け、領主であった公家には洛外に土地をあたえ、市中から地子銭を取れないようにしてしまったのです。公家らは洛中からこちら(西岡)などへ領土を移させられたということです。
村  現_市,区江戸時代石高領主 享保14年(1729) 山城国高八郡村名帳にあり
徳大寺村 西京区311石すべて京極宮家領
上 桂 村 西京区847石三条西家領200石、日野西家領200石、禁裏御料153石余(※1)、清水谷家領100石など
下 桂 村 西京区1112石すべて京極宮家領
川 島 村 西京区1295石鷹司家領530石余、法皇御料403石余、竹屋家領180石、金蔵寺領59石余、禁裏御料46.7石余(※1)、橋本坊領25石余
下津林村 西京区721石日野家領253石余、禁裏御料150石余(※1)、徳大寺家領61石余など
寺 戸 村 向日市1750石禁裏御料334石余(※1)、幕府領8石余、妙法院宮領589石など
牛ヶ瀬村 西京区200石すべてが妙法院知行地、天保郷帳では250石に増大し、2石の天領(京都代官)を除き妙法院領
上久世村 南 区913石禁裏御料14石4斗(※1)、玉虫左兵衛京都代官所14石4斗、伏見宮領3石3斗、光照院宮領95石など
下久世村 南 区800石禁裏御料69石3斗(※1)、玉虫左兵衛代官所50石、権典侍御局領20石、千種家領80石、岩倉家領7石9斗など
大 藪 村 南 区532石中院家領200石、六条家領100石、松梅院領100石、飛鳥井家領63石3斗など
築 山 村 南 区484石玉虫左兵衛代官所159.5石、今城殿家領65石、権典侍御局領51.5石など
志 水 村 伏見区247石宝鏡寺宮領30石、飛鳥井家領150石、妙小路家領2石8斗、玉虫左兵衛代官所64石5斗に分割
鶏冠井村 向日市1003石伏見宮家領50石、櫛笥家領54石など14本所に配分され、庄屋も10前後いた
物集女村 向日市512石禁裏御料59石(※1)、一条家領158石余、随心院宮領200石、妙心寺領70石、金光寺領24石余に配分
調子村 長岡京市217石太閤検地により蔵入地。家康は調子家の由緒を認めつつも蔵入地。1601年正親町家領。江戸時代に217石余のうち147石余は正親町家領、70石は調子筑後知行(調子氏は正親町家領に対して代官的な役割)
『京都市・府の地名』より [京都や近江国の農村]
※1:宝永2年(1705)5代将軍徳川綱吉の禁裏御料加増献進
※2:上から11ヵ村は西岡11ヵ郷 江戸時代石高で小数点以下省略
※3:鶏冠井村、調子村で庄屋や代官の記載がありますが、他村でも領主から任命された年貢取り立ての庄屋や代官(武人)がいると思われる

■「筏流し」と材木屋
▣嵯峨・梅津・桂の筏浜
 嵯峨や松尾など桂流域に入植した秦氏は、5世紀後半に「葛野に大きな井堰」を完成させています。また8世紀終わりに平安京の造都もあって、大堰川上流に位置する丹波国の山国・黒田地域は材木供給のための杣山(そまやま)に設定され、丹波の木材「丹波材」が利用されました。
 これを契機にその後も継続的な需要があり、切り出された丹波材は産地で筏(いかだ)に組まれ世木・殿田・保津・山本各村の筏輸送問屋に中継され、保津川を下りました。下ってきた丹波材は嵯峨・梅津・桂の筏浜の材木屋で集荷され陸揚げされ、京都市中15カ所(堀川・堺町・河原町・六条・七条地域)の材木屋で売りさばかれました。
 薪(まき)は筏の「上荷」、後には高瀬船の「積み荷」としても輸送され、上記の「三カ所」のほか桂川筋の「薪屋」に移出され、京都市中に売りさばかれました。丹波薪は京都市住民の燃料として、極めて重要な生活物資のひとつでした。

kinai  木材の陸揚げ地の「三カ所」では、早くからその活動が確認されていて
 天暦10年(956)以前 禁裏修理職の「梅津木屋」が置かれ
 明応6年(1497) 嵯峨に運送業者の問丸(忠富王記)が確認
 永正16年(1519) 祇園社が四条橋架橋の材木筏を丹波国山国荘から運送の記録
 慶長2年(1597) 嵯峨では「材木屋16軒を有し市場すこぶる繁盛していた」
 江戸時代の初め 嵯峨の他・梅津6軒・桂11軒の材木屋があり
 延宝4年(1676) 商人材筏640,50乗、その他に貢納材もある
 延宝5年(1677) 筏数「合817半」(1カ年)、延宝中期以降1500-2500乗
 延宝9年(1681) 「筏の規格」筏間幅1間2尺(2.2m)、長さ30間(54m)/1乗
 享保19年(1734) 「三カ所材木屋」が株仲間として公認される
▼市内東西の水運が確認できません。中世期に問丸(運送業者)の存在ありますから、陸揚げ地点から市内供給地まで牛馬の利用が多かったと予想されます。丸太材木の北から南への移動は堀川を利用しましたか。(当方の推察)

▣堀川材木商
▂堀川は
 平安時代より市中の物資輸送の運河となりました。水源は、古代は賀茂川にあったと考えられ、旧鴨川の本流であったとする説もあります。中世以降は水源・流路の変更が見られ、紫竹付近に発するとされています。通常は水位も低いです。だが、しばしば溢水いっすいや洪水となり、天安2年(858)、長承3年(1134)など大きな被害を出しました。
 堀川は、古くは材木の運送に利用され堀川筋に材木商人が散在したといいますが、「堀川までの材木運送」の文献はみられないでいます。

▂材木商
 堀川周辺には、早くから材木商人が多く散在しました。通常諸国の材木は淀川尻を集散地としましたが、丹波材は桂川より堀川へ運送され、五条堀川に材木市が立ったためで、鴨川の運送制限がこれに拍車をかけた、、(途中略)、祇園社の「社家記録」に、堀川に近在する材木商人が祇園社に属し神人になった(元慶3年(879))ことを伝える(京都市の地名)
 堀川は、古くは筏も流れていた記録(※)がありますものの、次第に水源・流路の変更が加えられ水量も減り、流すためには、915年7月、鴨川と東堀川をせきとめて、材木を運漕することを禁ず(本朝世紀)とあるよう、川を「せきとめ」る必要がでてきたようです。
▼「915年7月、鴨川と東堀川をせきとめ」以後の鎌倉末期とされる(※)「一遍上人絵伝」には、五条堀川付近の材木市が描かれ、堀川を筏に組んだ木材が流されていた様子(京都の地名)があります。これは、丹波で筏に組んだものでなく何本かまとめて流したのでしょう。

 応永16年(1409)に、祇園社に属する堀川木材神人が木材座を作っていて、この神人は36人を数えており(社家記録)、洛中各所に散在(居住地が北は三条ー南は五条間、東は京極ー西は堀川間の地域に集中)していたとある(京都市の地名)。
 この時期、「土佐材木」「安芸榑(くれ:造船用木材)」や中国筋の木材は瀬戸内海の舟運を利用し、兵庫関を通過し京都へ上ったようです。しかしそれよりも、京都への木材の多くは山国荘などの丹波の木材が保津川を利用して運ばれ、その集散地が堀川でした。

 近世期に、堀川両岸には材木屋に加えて、染色業者の居住する一種の同業者町を形成するに至りました。堀川には農業用水路としても重要で、上流から下流にかけて冷泉・錦小路・四条・高辻・醒ヶ井の各井堰があり、洛中洛外農村の分水に大きな影響を与えたました(京都市の地名)。
 注)平安京の堀川(西堀川も)の川幅は4丈でその両側に2丈ずつの路があった(大路と同じ)。寛永14年(1637)の洛中絵図では、およそ5間半(約10m)、両側の道幅は3,4間(5.4~7.2m)と。

 結局、長くに渡り堀川周辺には材木商人が多く散在していて、丹波木材が集荷したことを述べています。

▼材木は、丹波産で桂川経由のもの、淀川・東の高瀬川を大坂・大津などから北上してくるもの、少ないが京都北山産(水害の経験値があるようで)のものがあります。
 丹波産の材木が桂川から堀川へどう繋がるか、東西の水運がわかりません。材木は需要があるからといって細かく切断すれば薪になり、家屋敷で使う丸太柱としての価値はなくなります。材木は重量があるから水運が必要になります。
 市中の思わぬ所に木場や材木屋、さらには材木町が複数存在していましたし、どのような水運があったのか考えさせられます。京都の西半分、千本通から西が農村と考えれば、「三つの筏浜」から荷揚げや牛馬の運搬も可能ではないでしょうか。注意深く資料を読みますと、「三つの筏浜で集荷され陸揚げし」とあります。『五条堀川に材木商人が多く市が立った』というから、三条堀川・四条堀川で集荷されたものが数本組んで五条堀川まで下ったものでしょう。
▼『京都の歴史3巻』の古地図(室町時代)を見ますと、桂川・鴨川の次に、紙屋川・堀川が太く描かれています。堀川の先は小川・若狭川で、小川は一条戻橋で若狭川の下りの先堀川で合流します。これに市中西部から千本通までを横断する七条の川、四条川、三条の川、二条の川がみえます。これを西の端から縦断する御室川、その東に紙屋川、市中央に堀川があります。今の紙屋川(天神川)は三条辺りで西に大きく曲がり御室川と併せ天神川として、御室川を天神川の支流としているようです。
 東西の水運、文言で探しても見当たらず。この図、多少は水運で運漕された所もある、といわば忖度したもか。都市化が進むと河川も暗渠にしたり付け替えたりして「見る影もない姿に」なったりします。三条の川・四条川がしかり、堀川もしかり、です。

▂材木のリサイクル
 「古屋こぼちや」という古木屋が、錦小路吉野町、西堀川通三条より南に店を構えましたが、古物商の中で唯一実数がわかる職種です。宝永3年(1706)8月に85軒、正徳5年(1715)には106軒とふえており、堀川筋、賀茂川筋に多かった(京都御役所向大概覚書)。『京都の歴史5巻』

▣角倉家と高瀬船
 高瀬舟(船)といいますと、鴨川沿い(東の)高瀬川を思い出します。角倉家が船運を開削し、材木屋が市中から伏見まで散在し、京都・伏見が活況を呈したことを。だが、実は保津川の開削(西の高瀬舟の興り)は1606年で、保津川の方が5年ほど早いです。この開削で、角倉家は丹波から京都への船運を可能にしました。「筏流し」がよりスムーズになり「舟の運行が可能」になったわけで、これまで以上に、丹波の木材・薪炭・米・蔬菜が市中に入荷したといいます。

▣西高瀬川
(丹波材が継続的に市中へ入荷していたが何か不都合があったのですか
 文久3年(1863)、納所村の河村与三右衛門の計画により西高瀬川が完成したといいます。西高瀬川は新たに堀削したものでなく従来の農業用水路を改修したもの、と但し書きもあるが、どの部分を新たに(力を入れ)開削したのかがわかりにくいです。『京都市の地名』の記載によると、
①【その運河は下鳥羽から堀川が合流する上鳥羽村に至り、天神川を利用して吉祥院村を通り、※堀子川筋に入って御所ノ内・梅小路の両村の間を通って七条橋を越え、夷森(現壬生森町辺り)に至り、壬生村内の四条川を西に西院村から天神川・御室川と交差し太秦中里村・生田村・下嵯峨の材木町を経て桂川に至っている。一方、夷森から四条川を東に進み千本通で北に折れて二条城の北で堀川に至るものもあるが、四条川と千本通の交差点に船着問屋、折れてすぐの所(現壬生御所ノ内町)に丹波からの木材が集積された木場があった。】
 なお、【 】のところ、別記載のところでは、
②【丹波・下鳥羽からの物資運漕を目的とし、西高瀬川が開通。この運河は四条通に沿い壬生村内を流れ、夷森で南に折れ、下鳥羽へ至った。(一方以下は同じ)】
▼①②を読み合わせますと、「西院村から天神川・御室川と交差し太秦中里村・生田村・下嵯峨の材木町を経て桂川に至っている」の部分は従来の水運で、(力を入れ)開削されたのは「夷森で南に折れ、下鳥羽へ」向かう部分となります。
takase
※堀子川は西院の東側、堀川の西側にあり、現在の西新道通で四条川(四条通りに沿った川:廃河川)と分流し南下していた河川です。堀子川という名前を冠した橋が架かっているのは、ほとんどが四条川との分岐地点から五条までの間であり、それより下流では、西高瀬川の名前が冠されています。四条川は四条堀川に堰を設け(水源とし)四条沿いに流していた川。 web『河の行方』
 この開発で、淀川を上る二条城への御蔵米の運搬、丹波から桂川を下った材木・薪炭しんたんなどの物資が市中へ運ばれました。
 これまでにも、四条通の夷森から桂川へ至る西の水路もあったようで、現在の古高瀬川と推測されている(『京都市の地名』)。

【右図について】天神川が改修されているため大まかな図となります。

 遡ること文政7年(1824)、『二条城の城米輸送にあたっていた鳥羽街道の車運衰微により堀川筋の冷泉井堰より用水を引き鍋取川に沿って天神川下流へ(別ルート)の開削が計画された』(結局は、堀川の水量は少なく田畑の水不足に悩む村々からの反対にあい頓挫した)とあることから、木材・薪炭の市中への搬入より「城米輸送」が第一目的で、西高瀬川の開発を急いだのでしょうか。

 明治3年6月京都府の竣工事の文章に「葛野郡太秦村区御室川より同郡千本通三条、四条迄新規西高瀬川掘割」となっています。つまり、下嵯峨・太秦・山の内を三条通沿いに流れ千本三条から南流し千本四条通へ向かう(千本通より西筋、現在もその名残の川筋がある)。その後は、四条通に沿い西へ向かい堀子川を下ったと思われます。(東の)高瀬川の材木運搬に規制がかかり、明治17年ころ、材木業者が千本通りの三条以南に集中し、「ノキヲ連ネテ殆ンド市ノ形状ヲ為シ」たといいます(京都市の地名)。

 昭和10年の京都大水害を契機に河川改修が進み、昭和19年には天神川の現流路が完 成します。その際に、西高瀬川は三条天神川の辺りで天神川に水を落とすようになってしまい、そこから東は全く水の流れない状態になりました。
▼以上、桂川・西高瀬川と堀川の水運の繋がりに欠きますが、丹波産の木材がどのようにして市中に入ったかの一端が伺えました。消えていた水運の状況がみえてきた思いがします。
以上、京都と京街道、京都市の地名、京都の歴史3、5巻などを参考にしました。


■丹波路へ向かう街道
 古くは、「鷹峯たかがみね」辺りから丹波路へ入りました。鷹峯へは京の七口の一つ、最も北の「長坂口」から行くようです。
 いつの頃か、丹波路へ出るのに「鷹峯」よりは下流の「桂川」を横切るのが便利となったのです。桂が材木の集散地となるのは平安京造営のときで、これより時代が下る院政・鎌倉・南北朝時代には、「桂と丹波路の往来」があったようです(『京都の歴史』第二巻の付録地図参照)。
 起点は七条千本辺りの七条口(丹波口)で、「桂川」を横切り樫原、その先は亀岡、園部、三和を経て福知山に達します。宿場は樫原宿、亀山宿(亀山城城下町)、園部宿(園部城城下町)、須知宿、檜山(ひやま)宿、菟原(とはら)宿、福知山宿と続きます。その後は、夜久野を経て山陰街道を進むと但馬国へ向かいます。
 現在でいえば、八条通から真西に進めば丹波路へ行けるのですが。たぶん七条通が平安京の中心部に近いこと、八条通が開けていませんでしたからか。その南の九条通の鳥羽口はまだ利用されていたようですが。
 七条口より北の六条通側を丹波口とする説もあります。いまのJR山陰線の丹波口駅は千本五条東に位置します。

 現在、七条千本から丹波路へ向かう
>七条千本の商店街を出発。すぐ権現堂(権現寺の前身)・為義塚あり、葛野七条を過ぎ川勝寺へ。
七条通の路は細く南西にカーブ。桂小橋にて天神川を渡ります。この地域は桂川と天神川による洪水に悩まされたところ。すぐ八条通に合流。
>桂橋(桂大橋)東岸は桂材木町、筏の陸揚げ地の桂筏浜。
>桂橋西詰は大きな常夜灯(弘化3年)がある。この一帯は平安時代に藤原道長の別荘があり、江戸時代には八条宮家の別邸。その後、明治16年に桂離宮となります。
>桂離宮の南の路を進みますと、桂春日町の地蔵寺(桂地蔵)があります。
>この先は、樫原を経由し丹波路へ向かいます。

・七条口(丹波口)の近辺は
 四神の一つを地名にする下京区の朱雀の町々で、江戸時代には葛野郡朱雀村でした。近世中期の『山城名跡巡行志』は、ここには旅籠・煮売り・茶店など多しと記す。七条千本に権現堂(権現寺の前身)・為義塚(1156年死)がみえます。ここは保元の乱で敗北した源為義が切られた場所であり、山椒太夫から逃れた厨子王丸が丹波路をへて、たどり着いたお堂としても登場する(姉の安寿1082年の死、童話)。現在は、七条千本繁栄会の商店街として、今も大いに賑わいを見せています。

■桂川に架かる橋
・桂橋(桂大橋)
 桂大橋は1889年(明治22年)に架け替え、現在の大橋が開通したのは1928年(昭和3年)で、はじめの国道9号線はこちらでした。9号線のバイバスができるに伴い西大橋(1961年完成)が架設され、その後に9号線が桂大橋から西大橋へ移りました。「桂の橋」も四条の橋(四条大橋)と同様、長くは「仮橋」「浮橋」であったのでしょう。始まりは、「桂津」とあるように、「舟着き場」から始まったのでしょう。

・古くの橋は2つ
 桂川に架かる橋は、古くは渡月橋と佐比橋の2つで、他には仮設の橋があったとされています。『都名所図会』によると、「渡月橋は大井川にありて法輪寺(834年建設か)に渡る橋なり。一名は御幸橋、法輪寺橋ともいふ」とあります。
 佐比橋は、桂川と鴨川が合流する辺り(塔の森)にあり、ここ佐比の河原(『賽の河原』(※))に佐比寺があったとされています。佐比の河原とは平安時代の葬送の地で、道祖大路(さひおおじ:佐比大路、佐井通)を南へ延長し桂川と交わるところだそうです。「今昔物語集」の延暦15年(796)8月10日条にそれらしき橋がでてくるといいます。佐比橋、佐比寺、佐比津というのも桂川の洪水による流路変更で消えてしまったようです。なお、「佐比大路」の佐比の名称は、平城京の同じ位置の通り名「佐貴路」からきたとされています。
※「賽」はころころと転がす双六(すごろく)のサイコロのことで、貝でできていました。賽の河原とは、三途の河原の手前で、幼子(おさなご)が、親より先に死んだ罰として、鬼に邪魔されつつ延々と石積みをして仏塔をつくる所とされています。積み上げるものが貝であったり、石であったりするのでしょう。

・その他の橋
『都名所図会』(安永9年(1780))より、3つの橋をあげます。
①「梅津川※1」(大井川の流れなり。この所に舟渡しあり。四条渡しという(梅津川のことを(梅津の)橋と称しているような)。材木を商う民家多し)[※1脚注:丹波国より大堰川を利用して搬出した材木を貯蔵した要津で、西国へ旅行する人の乗船場でもあり、古来交通の要衝地。]
②「桂川」(大井川の流れにして舟渡しあり。丹波道なり。(桂川のことを(桂の)橋と称しているような)上野橋は十町ばかり北にあり。梅津の南なり)「桂里(※2)」(川の西にあり。神代の時、月読尊降臨し給ふ。ここに桂樹あり。故に号(なづ)くるとぞ。飴の名物なり)[※2脚注:桂川右岸(西岸)に臨む聚落。昔は桂津と呼ぶ船着場で材木問屋街 ]
③「久世の橋」久世の里・蔵王堂の絵図に、比較的大きな橋が見えます。これに比べると「かつら川(橋)」「梅津川(橋)」は貧弱なものであったと推定できます。
 上記の「梅津川」「桂川」に「舟渡し」という文言が見えるから、橋としても「仮橋」「浮橋」など簡易なものだったんでしょうか。鴨川に比べて、ある程度の深さがあり「津」(湊)となったのでしょう。梅津から桂津にかけて「筏の寄せ場」が広がっていたこと推測できます。


・桂川に架かる橋 (京都市内、北から)
 名称 現在の状況備考
渡月橋とげつきょう府道29号元は1町ほど北、三条通と繋がる
松尾橋まつおばし 「四条渡し」といい四条通と繋がる
上野橋かみのばし府道132号 
 西大橋にしおおはし国道9号1961年新架設、五条通りと繋げる
 桂川橋梁 阪急電鉄 
桂大橋かつらおおはし府道142号旧街道の丹波口と繋がる、八条通と繋がる
 桂川橋梁 JR西日本 
 桂川橋梁 JR東日本 
久世橋くぜばし国道171号石原にあり、久世橋通、上鳥羽口と繋がる
 新久世橋しんくぜばし国道171号 
 称久橋しょうきゅうばし  
 桂川道路橋名神高速佐比橋?
 久我橋こがはし府道202号塔ノ森にあり、赤池通と繋がる、佐比橋?
羽束師橋はづかしばし京都外環状草津あり、現在の桂川と鴨川の合流点
 宮前橋みやまえばし府道204号