1日の歩く距離はおよそ8里から10里強(約32~40km)といえそうです。
もちろんこれは成人男子の場合ですが、歩行速度を時速4kmとすると、単純計算で約8~10時間も歩くことになります。そのためには、夜明け前に出発し、夕方日が暮れないうちに次の宿に着くようにしていました。『東海道への誘い』。
街道の旅人を宿泊させたり、荷物の運搬をする人馬を用立てたりするところが宿場や宿、または宿駅と呼ばれています(宿泊設備がない宿駅もあった)。平安末期から宿駅は整備され始め、江戸時代には
宿駅伝馬制度というものにまとめあげられました。
旅籠が多く備わると一つの町、宿場町となります。
江戸時代には大名の参勤交代も行われ、その宿泊に該当する宿駅は藩が落とすお金で潤い栄えることになります。
1.[近江路]
(近江の宿駅)
京都から発して、近江の宿駅は(三条大橋から大津まで2.2里ほど)
数値単位は里
大津--(3)--勢多--(50町)--
○野路--(2)--守山--(2)--鏡--(2)--○武佐--(1)--蒲生野--(2)--
愛知川--(1)--○四十九院--(2)--○小野--(50町)--万場(
番場)--(50町)--佐目加井(醒井)--(50町)--
○柏原 と13宿を数える『
実暁記』。○印の宿駅は宿泊可能。50町=1.8里
(中山道の完成は1694年
google mapは旧中山道がでます)
◎京都・三条大橋から出発するとして、7里先(約27km)野路辺り(JR南草津駅辺り)で宿泊。次は10里先(約39km)の四十九院で宿泊。次は7.4里先(約29km)の柏原で宿泊。 当方にとっては、これぐらいのペースと思えるが。どうもこれは女性の足の場合のようで、男性の足なら6里を加え京都から野路を通過し武佐(合計13里)まで行ったようです。その後に11.4里先(約44.5km)の柏原まで。その宿駅が
宿泊可能かも考えなければならない。
源頼朝(武士)の上洛では
美濃から入って
柏原宿、次に野路宿に泊っている。京都からの帰路は(記述なくおそらく武佐宿で泊まり、)柏原の北で摺針峠を北に避けて箕浦宿に泊まっている。
飛鳥井雅世(公卿)は、
京都からから(往路で)逢坂の関・草津・野洲川・守山・鏡山・武佐まで13里の行程を終えたとある(武佐宿で泊まる)。飛鳥井雅世は堯孝法師と同行で13里(50.7km)の疲れ、法師が元気で雅世はたまったものでなかったろう。今でいうと、京都市から奈良や大阪までが50kmに相当する距離だ。[
こちらも参照]
鯖街道の鯖は、若狭で一塩した鯖が京につく頃にはちょうど加減良くなったという[
15貫を背負い80kmを2日で]。昔の人は逞しいものだ。
(今の地図で辿る)
【旧中山道】1号線・大津--瀬田--1号線--JR手原駅北-から8号線 --伊呂波から旧中山道---近江鉄道と交差--武佐本陣跡--旧中山道--老蘇の森(奥石神社)--五箇所清水鼻--愛知川の御幸橋--不飲橋・愛知川宿一里塚--愛知川宿本陣跡--旧中山道・542号線--旧中山道・223号線---旧中山道・528号線--正法寺町交差点信号--旧中山道--鳥居本(佐和山東)--中山道・北国街道分岐道標(近江鉄道フジテック前駅南200m)--旧中山道が柏原をすぎ今須峠でも続いている
(紀行文から)
・源頼朝が建久元年(1190)11月の上洛には、美濃から入って柏原に宿し、たぶん
小野と小脇の二宿をへて、野路宿に泊っている。帰路は小野から本道の摺針峠を北に避けて箕浦宿に泊まっている(険しい摺針峠を避けて北に進み箕浦宿へ)。
・『実暁記』と同じ鎌倉時代の『東関紀行』(1242)では、京都から発して、相坂の関・打出浜・粟津原・勢多の長橋・野路・篠原・鏡宿・武佐・笠原・老蘇の森、醒ケ井・柏原から美濃路に入っている。
・『十六夜日記』(1280)には、守山・野洲川・鏡・小野・醒井の地名が見られる。中世の東山道の宿駅がみられ、中山道の宿駅制定後も宿場機能が続く。高宮と鳥居本は、江戸時代になって新しく宿場が設置される。
・関白二条良基が文和2年(1353)7月、東山道を下った紀行文に、
(逢坂山か山中越)
坂本から舟で対岸につき、守山から街道を、野路・鏡山・老蘇・小野と過ぎ、その間、床の山・不知哉(いさや)川(芹川の古名)の古を偲びつつ醒ケ井にすすんでいる。
・飛鳥井雅世(1390-1452:足利義満に仕えた公卿、正二位)の「富士紀行」では、
京都>(往路) 逢坂の関・草津・野洲川・守山・鏡山・武佐(一泊)---13里
翌日、老曽・山の前・四十九院・犬上・小野・摺針峠の順 --- <美濃路入り>
美濃>(帰路) 垂井、柏原・醒井・小野・梓関、往路同様、武佐(一泊)--->京都
・一条兼良(1402~81)文明5年(1473)5月、奈良をたって美濃にでた「藤河の記」
往路>甲賀郡朝宮の山中の小屋(仮泊)、信楽川沿いの難路を石山にでて、坂本から舟で、堅田・八坂に寄港して、朝妻に上陸し、醒井・柏原から美濃へ。
帰路>番場・摺針峠を越えて、小野(小庵に泊)、高宮・四十九院・愛知川・観音寺、老蘇の杜・武佐と東山道筋から水口をへて、南下して伊賀にでる。
・仁和寺の僧正尊海、天文2年(1533)冬、「あづまの道の記」に、逢坂山から坂本にでて湖上を島・筑摩により朝妻港から東山道にでて美濃に入る。
(紀行文から言えること)
・蒲生野は佐々木氏の在館地の小脇だが、その居館移転後は迂回しなくなった。また、京都からの下りは、摺針(すりはり)峠を避けて遠回りで平坦な箕浦へでる(荷物が多いときは摺針峠を避けて箕浦へ:彦根藩は1700年代に新道を改修したと)行路も依然使用された。
・箕浦が北国街道の分岐点である。このころ湖東第一の要港は朝妻港であった。
・
湖東の朝妻に対して湖南での埠頭の中心は坂本だった。
・
草津・武佐・四十九院・小野はいずれも
旅宿の設備のある宿駅であったことが察せられる。
「高宮宿」が見えるのを(著者が)初見(1473年)としている。 以上『犬上郡志・高宮町史』
【老蘇(おいそ)の森】万葉の昔から歌に詠まれてき。繖山(観音寺山)をご神体とした安産延寿、狩猟、農耕の神である
奥石神社(国指定重要文化財)がある。観音山と箕作山に挟まれた位置。
【摺針峠】北国街道と中山道の分岐点。鳥居本宿と番場宿の境。山林の中山道を西へ進んで来ると琵琶湖絶景が見える。青年時代の弘法大師が折れそうな精神状態でここを通ったところ、斧を磨いて針を作っていた老人の姿に勇気付けられ修行に励んだという。「道はなほ学ぶることの難(かた)からむ 斧を針とせし人もこそあれ」(弘法大師)。
【小野宿】『平家物語』に始めて登場するという。平安末期に鳥籠(とこ)駅から移ったか。鳥籠山(床の山)、現在は鞍掛山の近くにあったという。佐和山城落城後、慶長7年(1602)7月幕府の命(彦根の地割りの都合)によって小野宿は廃止されることになり、慶長8年(1603)鳥居本に宿場が移り、小野で代々本陣を務めていた寺村家が鳥居本宿の本陣を務めるようになった。[
近世、近江の宿駅]
2.[大名行列は京都のどこを通過したか]
参勤交代では、2年ごとに江戸に参勤し正室と世継ぎは江戸に常住する。事前に、幕府に行程や日程を届け出て許可が下りてから参勤交代をしたようです。江戸までの旅費は自己負担で、江戸での滞在費まで負担させた。街道の宿には大きなお金が落ちます。
藩邸がある宿駅には必ずそこを通過します。薩摩藩の場合は必ず伏見宿に寄ります。4000の人数を藩邸には収容しきれないですが節約にはなります。土佐藩、長州藩も伏見藩邸がありましたね。
確か、彦根藩の場合は藩主が大老を仰せつかり、江戸常勤の状態で参勤交代はほとんどなかったでしょうか。その代わり
京都関係の御用金で出費がかさんでいました。どの藩も「見栄っ張り」のところがあり、財政難で疲弊していきます。
(参勤交代にかかった費用)(1両を10万円として)
伊達家 | 仙台藩 | 宮城県 | ?里(?km) ?日 | 3000〜5000両 | 3~5億円 | 人 |
前田家 | 加賀藩 | 石川県 | 119里(464km) 13日 | 5333両 | 5億3千万円 | 4000人 |
池田家 | 鳥取藩 | 鳥取県 | 180里(702km) 22日 | 5500両 | 5億5千万円 | 人 |
島津家 | 薩摩藩 | 鹿児島県 | 440里(1716km) 40~60日 | 17000両 | 17億円 | 1880人 |
・参勤交代の人数の規定(享保6年(1721年))
1万石以上:約50人/5万石以上:約170人/10万石以上:約240人/20万石以上:約450人
(大名行列が京都を通過する)
【伏見宿を通過する(近江→京)】
①
髭茶屋追分で「伏見宿行」を選び、山科盆地を南下し、
勧修寺から稲荷山の南麓に抜ける大岩街道を通って伏見街道から伏見宿へ目指します。参勤交代の
西国大名が都に入り朝廷と接触することを嫌って、江戸幕府がこの大岩街道を造ったとされています。大岩街道を通過後は、
藤森神社の鳥居前で、後水尾天皇の勅額が挙げられていたため、参勤交代の大名も下馬・一礼しなければならなかったようです。
②上記同様「伏見宿行」を選び、山科盆地の外れ
六地蔵まで南下し、ほぼ真西の伏見宿へ行きます。
伏見城は廃城となっていて比較的起伏も少なく伏見に入りやすいです。
六地蔵には
馬借が多く、近辺から水路伏見宿への可能性もあるようです。
③髭茶屋追分で「三条大橋」を選び、その先の「五条別れ」で
渋谷峠を経由し京都へ入る。内裏や清水に近く避けるでしょう。
④現近江神宮から今道の下口(荒神口)に出てくる志賀越道(山中越)は、より内裏に近く起伏が多く避けるでしょう。
【樫原宿を通過する(近江→京)丹波・因幡・伯耆の藩】
⑤伏見で宿泊しないなら、大津から山科へ向かい、(おそらく)「
久世の橋」経由で、
樫原を通り
老ノ坂を越え山陰道を通ります。樫原は丹波口(七条千本の東側付近)に発した
丹波路と、大坂方面へ向かう
物集女街道の交差する交通の要衝です。樫原も
本陣(玉村家=現存)がある宿場町となっていました。
※山科から三条へ入ると、縄手通下る(京都を南下)しか選択肢なし。その後、1.京都を横断(□□通?から久世の橋を渡る)し樫原へ 2.伏見街道から伏見宿へ 以上2つ方法(時代が下ると、三条大橋通過も可能?)。
結局、近江→京や京→近江で、
ほとんどが大岩街道を通過するようです。
【物集女街道】北摂高槻から島本・山崎・長岡京・向日市を通り、京都市西京区、嵐山と続く主要幹線道路。
▼長州藩の場合(京→近江)
元禄10年(1697)の毛利吉広の参勤は、萩から三田尻まで陸路、そこから御座船(御召船)万祥丸で大坂へ、さらに
淀川を遡り、伏見へそこから伏見街道で京都へ、京都からは陸路東海道で江戸に向かった。
文政8年(1825)の毛利斉元の参勤は、三田尻から陸路山陽道を通り、京都へ出ている。
(ともに大岩街道を通過)
▼薩摩藩の場合(京→近江)(1700㎞、40~60日、1880人、1700両約13億円)
1.陸路鹿児島から大口または串木野経由で水俣へ出、あとは熊本、小郡を経て小倉に出、船で下関に渡り陸路山陽道を通り
大坂、伏見、京都へ出、陸路東海道または中山道を通って江戸に着く。
2.陸路鹿児島から都城を経て日向の細島へ出、そこから海路豊後水道を通り瀬戸内海へ入り、海路大坂へ着く。あとは陸路。
(伏見には藩の屋敷があり必ず泊まる、大岩街道を通過)
▼宮津藩の場合(丹波→京→近江)
宮津から、普甲峠・大江・福知山宿(山陰道)へ、そこから菟原宿・須知宿・園部宿・亀山宿--(丹波)--(老ノ坂)--樫原宿を経由して、大岩街道から近江へ行くか。
【東海道の京都の西の起点(終点)はなぜ三条大橋】清水寺・祇園社が近い「五条大橋」がなぜ起点(終点)にならなかったか。家康が秀吉を嫌った思惑があるといいます。
三条河原は罪人を処刑・晒し首にした場所、「三条大橋」から一望できます。秀吉の悪いイメージを思い出させると。観光目的の弥次郎兵衛と喜多八(『東海道中膝栗毛』)は、さぞ清水寺に近い街道で京都へ入ることを希望するでしょうが。
3.[桂川と京南西部]
(桂川の氾濫と開発)
桂川(葛野川)は東の鴨川に劣らず氾濫が多い。 [
桂川の名称]
5世紀頃に嵯峨や松尾など桂流域に入植した秦氏が、先進技術でもって桂川を渡月橋の北で堰き止め水量と流れを調節しました(5世紀後半のこと)。これを、葛野の大きな井堰から「
葛野大堰(かどのおおい)」と称しました。
井堰とは、
他所への流れをつくるため、川を「堰き止め水をためるところ」を意味します。井には「溜まる・集まるところ」の意味があります。
井堰を設けるのは、「洪水をおこさせない」が条件で、「水資源の利用」のねらいがあるといえます。堰き止める部分が高いと、そこで洪水が起こります。だから、水位を少しばかり高くし(堰)、水を溜め(井)脇へ流します。川の段差として堰(仕切り)をつくり、深い上流から脇に少し低い取水口をつくります。
川に井堰を設けるには多くの経験則が必要とされます。つまり、川の上流がどのようになっているか、大雨の時にどれだけの水量がやってくるか、多くの調査や経験が必要となり、井堰は「にわかに」はできません。秦氏が数十年で井堰をつくったこと、十分な日数をかけたのでしょうか。葛野大堰の「水資源利用」については後世に多くの恩恵をもたらしているようですが、氾濫・洪水に関しては「たいした物でない」といっても過言でないでしょう。
川を堰き止める部分が、一部か全体かも、川の利用を考える上で重要です。これが全体となると、舟や筏(いかだ)を流すことは不可能となります(舟通しが必要)。下の古図(「山城国桂川用水差図案」)では破線が井堰を現していて、川幅全体に及んでいるようです。また、川からの水の取水口はすべて「上流の脇」にあります。
なお、今の井堰では「舟通し」の他、魚が上流へ行き産卵するなどのため「魚の道」もあるようです。
【岩倉川永田井堰の例】 川の流れは右から左。川幅全体に、縦に鉄杭・丸太を数本打ち込み、長い丸太を横に通し土嚢・砂利で水を止め、水位を上げています。ただし、川下でも多くの用水路があることや、日照りが続き川水が少なくなってきたときも考え、常時水を逃がしています。この井堰では「農作物の水利用」だけにねらいがあります。
用水路の取水口は下で、鉄枠の上下げで鉄製の水門を調整し用水路に水を流します。写真では水路が閉まっている状態です。川の水量が多いとき少ないときも年間を通して井堰の土嚢・砂利を触らず、鉄製の水門で用水路へ行く水を調整します。大雨の時は水門を完全に閉め脇の用水路に水が行かないようにします。水門を閉めなければ水路の下流域で洪水が発生します。
当方の農家では、井堰のことを「
井出」(地域によっては井手)ともいいます。春先の水利組合総出による井堰の補修のことを「井出上げ」といっています。井出は水がたまったところから出る水の取水口。井出上げは井出の水位を上げる作業。井堰を井出というのもまんざら間違いではなでしょう。
この
葛野大堰の痕跡が、いまの農業用水路の取水口(一の井堰)の東辺りにあるとされます(脇谷芳招氏)。古図では一番目の破線が葛野大堰で、そこから分岐する水路、「一井」が桂川の西岸に、「二井」が東岸に伸びています。いまの取水口は「一井」の少し上流です。このうちの「一井」の一部が京都市西京区の松室遺跡で確認されて、5世紀後半に葛野大堰がつくられたことが判明したようです(『京都と京街道』63)。以後、この水路により桂や洛西の地域の開発を促しました。
※堀川についても追加している
延暦19年(800)10月4日 山城・大和などの国民を徴発し葛野川の堤を修理させる
弘仁15年(824) 鴨川・葛野川に監視する防鴨河使・防葛野河使を置く
天長5年(828)5月23日 京中洪水激しく左右京に賑給する
承和5年(835)5月28日 左右京の京戸に
東西堀川杭料として檜柱一万五千株を出させる (東西堀川の改修工事は915年の材木運漕ことか)
寛平6年(894)11月30日 検非違使に大井、予度(淀)、山崎、大津等を巡察させる
延喜15年(915)7月 鴨川と東堀川をせきとめて、材木を運漕することを禁ず
延長4年(926)5月7日 防鴨河使を廃して検非違使に付す
延長5年(927)頃 『延喜式』に、嵯峨から梅津までを大井(堰)津と
(いつの頃か江戸時代まで)当方の、筏がどのように井堰を通過するかという、疑問があるものの、桂川の嵯峨、梅津、桂津、草津は林産物の集散地として栄えます
康保3年(966)8月19日 桂川氾濫五、六条以南が海のようになる
安和元年(968)5月26日
京中が海のようになる
天元2年(979)7月15日 大雨による洪水で
京中が大河のようになる
正暦5年(994)5月3日 堀川の水が
死人によりあふれる
明応4年(1495)、桂川の井堰の設定状況です(右図)。上記「一井」、「二井」を含めた11カ所で取水口が描かれています。(山城国桂川用水差図案 『京都市の地名』)
【山城国桂川用水差図案の補足】
①現在の渡月橋(法輪橋)は上から一番目の破線(葛野大堰)の南側に移動しています。
②破線(井堰)が桂川の吉祥院辺りまで見えます。各井堰の川上に取水口があり田に水を供給しています。
③図の中央辺りに「桂橋」が見えます。
④井堰が多いと「舟や筏流し」に困るはず。井堰を設けるには工夫が必要です。
(河川で4月~8月の間、保津から川上、嵯峨より川下では農場用水として活用されるため、この区間での舟や筏の就航は行えない。舟通しはあったのでしょうか。)
戦国から江戸時代になると、京都の豪商である角倉了以が大堰川(保津川)を慶長13年(1608)開削し、船運が現在の丹波町与木村から下流の淀や大坂まで通じることになります。
享保6年(1721)、渡月橋畔に筏改所(運上所ともいう)が設置されます。
(川の氾濫による市街化の遅れ)
平安時代の当初から京都盆地の南西部分が栄えなかったのは、
桂川の氾濫だけでなく、南へ行けば鴨川との合流で氾濫が倍加し、湿地帯となるからでしょう(土地は肥えるが)。平安京が大きすぎたことも原因があり、住民は東北に偏り南西部は未開発の状態で、住民が住んだ痕跡はほぼないといわれています。桂川を西へ横断するのも丹波路を利用するに留まるということでしょう。大坂へは桂川の水運を利用し、草津湊から大きな船で向かったといいます。
「京都盆地の南西部分が栄えなかった」とは、当方の認識不足で、そこではしっかりと国人(土豪)達の農村経営が行われていました。それは京都市民の歴史から外れていただけで、南西部分の国人(土豪)達の「動き」を覗くと見えてきます。たがここも、信長の侵攻後は生き残ったものがほとんどいなく、まとまった文献がないようです。
だが、
農村住民はヘッド(領主)がどのように変わっても、
自分たちの土地として田畑を耕作し続けます。
(西岡の国人と11ヵ郷の農村)
西岡(にしのおか)とは山城国西部、京都盆地の西部の西山丘陵から桂川右岸にかけて、当時の広域地名。その中に、11世紀より勢力を維持した
物集女氏があった。秦氏の一族とされ、物集女荘の代官としてこの地域に物集女城を築いた国人・土豪であった(と推定できるか)。
室町幕府においては、奉公衆の下に属する下級武士団(被官36人(『雍州府志』)の内の1人。この地に、それぞれに居城を構える国人・土豪たちのことを「西岡(被官)衆」と称した。
文献の早いものでは建武3年(1336)7月の「足利尊氏御教書」に山城国西岡が見えるという。尊氏は「西岡」を幕府直轄地とし軍事力を編成した。これに動員された地元の土豪たちを「西岡衆」(御家人)と称した。このときの手立てが、土豪たちに地頭職を宛行い荘園領(寺社領など)に
半済を実施し、下地の半分を土豪に与える方法であった。
西岡衆は、奉公衆に属する武士団であり、室町時代中期までは、山城国守護から半ば独立した存在であったが、宝徳元年(1449)より、山城守護が畠山氏から選出され、西岡衆は畠山氏の影響を受けた。
(農村では)
本来荘園領主の管理下にあった
用水を郷として管理する郷民が登場する。郷民は荘民としてではなく、
地域的に団結した郷民として行動する。郷を単位とする惣として用水や肥料源としての荒野・山地を管理したが、惣の団結が荘園領主に対する日常的な年貢減免闘争によって強化されていゆく。『京都府の地名』P293
(国人は)
応仁の乱では、西岡衆の多くは細川勝元の率いる東軍に属し、西軍には古くからの国人である
鶏冠井氏がいた。応仁3年(1469)4月、東軍は西軍に敗れて総崩れとなった。
応仁の乱後、文明12年(1480)には、西岡衆が再び結集できたようで、「
向大明神」(向日神社)で蜂起の相談をしたり鐘を撞いたりしている『言国卿記』。西岡の地は古くから自治的な郷が発展し、応仁の乱が収束した後には、「国」と呼ばれる地域連合体が出現した。この連合体ができたのも、桂川西岸用水路から得る共通の利益で結びついていたためであった。ここの「国」の有力者に名を連ねたのが「国衆」だ。一人一人は弱くても、連合すれば戦国大名でさえ侮りがたい勢力であった。
(農村では)
農村での
惣の高まりは、一方で惣を封建的に支配しようとする国人を成長させる。西岡御家人は惣の構成員でなく、惣の支配を目指すものだが、惣内部には一般農民よりは上位の侍衆も含まれていた。1487年の土一揆で農民は国人・地侍・土豪が組織したものに加わる。その過程で侍衆と一般農民の利害が対立を始める。『京都府の地名』
西岡中心部の農村は、桂川から引いた灌漑用水を引いており、その用水を管理するために結束し「
西岡11ヵ郷」(桂川用水差図は1495年頃)と称した。
農村部で郷の連合組織ができても、国人にはそれが利益共同体として理解できるし矛盾のないところだ。それどころか、国人でも連携を組む意識が芽生えることになる。
上六カ郷:徳大寺、上桂、下桂、川島、下津林、寺戸
下五カ郷:牛ヶ瀬、上久世、下久世、大藪、築山
(国人は)
永禄11年(1568)、織田信長が畿内へ侵攻するとき、西岡衆からは、鶏冠井氏と能勢衆、秋山衆や野田衆が三好三人衆に従い勝竜寺城に立て篭る。しかし、将軍足利義昭を奉じての上洛であったため、物集女氏、神足氏、中小路氏、革嶋氏などは織田軍に従う。西岡の国衆も真っ二つに分かれて戦うこととなる。
天正元年(1573)、細川藤孝が桂川西岸一帯を信長から任された。このとき、物集女氏がお礼に参上すべきであるのに拒絶したため(参上したものは領国安堵)、天正3年勝竜寺(城)で細川藤孝の手により誘殺された。物集女氏は後に衰退、物集女城も廃城になる。「戦国大名のもとではその軍門に下るか、滅ぶか、帰農する他ない」と思うが。
江戸時代以降、
「江戸時代を通じて、西岡には中世以来の寺社領も多く散在し、複雑な散在所領形態が残存した(『京都市の地名』)」と。中央政権が変わっても、寺社領というのはある程度に尊重され、温存されてゆくようだ。
<< 西岡被官衆 >>(右上図、太字は国人・地侍)
<< 主要な西岡国衆、その後 >>
1.城趾があれば( )の現在地か
2.○印は西岡11ヵ郷の領主であったか
▲革嶋氏○:革嶋城主、子孫は細川・明智家臣の後に帰農(河島西京区)
・築山氏○:築山城主、細川家被官、子孫は熊本藩在京家臣(南区久世)
・神足氏:神足城主、子孫は熊本藩家臣(長岡京市)
・能勢氏:今里城主、子孫は義昭に仕え二条城討死(長岡京市)
■中小路氏:開田城主、子孫は開田天満宮(長岡天神)の神官や細川家臣のち藤堂家臣
・志水氏:志水落合城主、子孫は熊本藩家臣(伏見区羽束師志水町)
■調子氏:調子城主、近衛家に被官、子孫は調子村領主(長岡京市最南部)
・竹内氏:
久我家被官、のちに堂上家(公家)となる(伏見区)
・鶏冠井氏:鶏冠井城主、三好家被官滅亡(向日市)
・物集女氏:物集女城主、子孫は細川藤孝に謀殺のち滅亡(向日市)
・竹田氏○:寺戸城主、三好家被官逃亡のちに野田氏(向日市)
※ ■印:在地(2)、・印:細川家(3)公家(1)変名(1)滅亡(3)、▲印:帰農(1)
※ 江戸時代まで続いた領主は調子・中小路・野田氏。それ以外ほとんどいない
(細川家その後、丹後から熊本へ)(wikiと『京の霊場』など)
(農村では)
つれづれ本文「
天正15年(1587)9月」にて、洛中検地、特に天正17年の検地はとても厳しい検地で、、、洛中の都市の要素と農村の要素を分け、領主であった
公家には洛外に土地をあたえ、市中から地子銭を取れないようにしてしまったのです。公家らは洛中からこちら(西岡)などへ領土を移させられたということです。
村 現_市,区 | 江戸時代石高 | 領主 享保14年(1729) 山城国高八郡村名帳にあり |
徳大寺村 西京区 | 311石 | すべて京極宮家領 |
上 桂 村 西京区 | 847石 | 三条西家領200石、日野西家領200石、禁裏御料153石余、清水谷家領100石など |
下 桂 村 西京区 | 1112石 | すべて京極宮家領 |
川 島 村 西京区 | 1295石 | 鷹司家領530石余、法皇御料403石余、竹屋家領180石、金蔵寺領59石余、禁裏御料46.7石余(※1)、橋本坊領25石余 |
下津林村 西京区 | 721石 | 日野家領253石余、禁裏御料150石余(※1)、徳大寺家領61石余など |
寺 戸 村 向日市 | 1750石 | 禁裏御料334石余、幕府領8石余、妙法院宮領589石など |
牛ヶ瀬村 西京区 | 200石 | すべてが妙法院知行地、天保郷帳では250石に増大し、2石の天領(京都代官)を除き妙法院領 |
上久世村 南 区 | 913石 | 禁裏御料14石4斗、玉虫左兵衛京都代官所14石4斗、伏見宮領3石3斗、光照院宮領95石など |
下久世村 南 区 | 913石 | 中院家領200石、六条家領100石、松梅院領100石、飛鳥井家領63石3斗など |
大 藪 村 南 区 | 532石 | 禁裏御料69石3斗、玉虫左兵衛代官所50石、権典侍御局領20石、千種家領80石、岩倉家領7石9斗など |
築 山 村 南 区 | 484石 | 玉虫左兵衛代官所159.5石、今城殿家領65石、権典侍御局領51.5石など |
志 水 村 伏見区 | 247石 | 宝鏡寺宮領30石、飛鳥井家領150石、妙小路家領2石8斗、玉虫左兵衛代官所64石5斗に分割 |
鶏冠井村 向日市 | 1003石 | 伏見宮家領50石、櫛笥家領54石など14本所に配分され、庄屋も10前後いた |
物集女村 向日市 | 512石 | 禁裏御料59石、一条家領158石余、随心院宮領200石、妙心寺領70石、金光寺領24石余に配分 |
調子村 長岡京市 | 217石 | 太閤検地により蔵入地。家康は調子家の由緒を認めつつも蔵入地。1601年正親町家領。江戸時代に217石余のうち147石余は正親町家領、70石は調子筑後知行(調子氏は正親町家領に対して代官的な役割) |
『京都市・府の地名』より 享保14年の[
岩倉村][
山科郷]
※1:宝永2年(1773)5代将軍徳川綱吉の加増献進
※2:上から11ヵ村は西岡11ヵ郷 江戸時代石高で小数点以下は省略
※3:鶏冠井村、調子村で庄屋や代官の記載があるが、他村でも領主から任命された年貢取り立ての庄屋や
代官(武人)がいると思われる
(「筏流し」と材木屋)
長岡・平安京の造営の際、大堰川上流に位置する丹波国山国荘は材木供給のための杣山(そまやま)に設定された。切り出された材木の大部分は筏に組まれて
保津川を下り、嵯峨・梅津・桂辺りまで運ばれた。木材の陸揚げ地では、かなり早い時期から問丸などの運送業者の活動が確認される。天暦10年(956)以前に禁裏修理職の「梅津木屋」が置かれ、、明応6年(1497)には嵯峨にも問丸が確認される。永正16年(1519)には、祇園社が四条橋架橋の材木筏を丹波国山国荘から運送している。丹波材は桂辺りから堀川へと運送され、五条堀川辺りの材木市で取引されたと考えられる。以上『京都と京街道』126
高瀬舟や筏で運ばれた丹波産の薪・林産物は嵯峨・梅津・桂の三カ所の材木屋に集荷された後、京都市中15カ所の材木屋に売りさばかれた。江戸時代の初め嵯峨に16軒・梅津6軒・桂11軒の材木屋があり、享保19年(1734)には株仲間として公認されている。以上(『京都と京街道』143)
(丹波路へ向かう街道)
古くは、「
鷹峯」辺りから丹波路へ入りました。鷹峯へは
京の七口の一つ、最も北の「長坂口」から行くようです。
いつの頃か、丹波路へ出るのに「鷹峯」よりは下流の「桂川」を横切るのが便利となったのです。桂が材木の集散地となるのは平安京造営のときで、これより時代が下る院政・鎌倉・南北朝時代には、「桂と丹波路の往来」があったようです(『京都の歴史』第二巻の付録地図参照)。
起点は七条千本辺りの七条口(丹波口)で、「桂川」を横切り樫原、その先は亀岡、園部、三和を経て福知山に達します。宿場は樫原宿、亀山宿(亀山城城下町)、園部宿(園部城城下町)、須知宿、檜山(ひやま)宿、菟原(とはら)宿、福知山宿と続きます。その後は、夜久野を経て山陰街道を進むと但馬国へ向かいます。
現在でいえば、八条通から真西に進めば丹波路へ行けるのですが。たぶん七条通が平安京の中心部に近いこと、八条通が開けていなかったからか。その南の九条通の鳥羽口はまだ利用されていたようですが。
七条口より北の六条通側を丹波口とする説もあます。いまのJR山陰線の丹波口駅は千本五条東に位置します。
現在、七条千本から丹波路へ向かう
>七条千本の商店街を出発。すぐ権現堂(権現寺の前身)・為義塚あり、葛野七条を過ぎ川勝寺へ。
七条通の路は細く南西にカーブ。桂小橋にて天神川を渡る。この地域は桂川と天神川による洪水に悩まされたところ。すぐ八条通に合流。
>桂橋(桂大橋)東岸は桂材木町、筏の陸揚げ地の桂筏浜。
>桂橋西詰は大きな常夜灯(弘化3年)がある。この一帯は平安時代に藤原道長の別荘があり、江戸時代には八条宮家の別邸。その後、明治16年に桂離宮となる。
>桂離宮の南の路を進むと、桂春日町の地蔵寺(
桂地蔵)がある。
>この先は、
樫原を経由し丹波路へ向かう。
・七条口(丹波口)の近辺は
四神の一つを地名にする下京区の
朱雀の町々で、江戸時代には葛野郡朱雀村であった。近世中期の『山城名跡巡行志』は、ここには旅籠・煮売り・茶店など多しと記す。七条千本に権現堂(権現寺の前身)・為義塚(1156年死)がみえる。ここは保元の乱で敗北した
源為義が切られた場所であり、
山椒太夫から逃れた厨子王丸が丹波路をへて、たどり着いたお堂としても登場する(姉の安寿1082年の死、童話)。現在は、七条千本繁栄会の商店街として、今も
大いに賑わいを見せている。
(桂川に架かる橋)
・桂橋(桂大橋)
桂大橋は1889年(明治22年)に架け替え、現在の大橋が開通したのは1928年(昭和3年)で、はじめの国道9号線はこちらでした。9号線のバイバスができるに伴い西大橋(1961年完成)が架設され、その後に9号線が桂大橋から西大橋へ移りました。「桂の橋」も四条の橋(四条大橋)と同様、長くは「仮橋」「浮橋」であったのでしょう。始まりは、「桂津」とあるように、「舟着き場」から始まったのでしょう。
・古くの橋は2つ
桂川に架かる橋は、古くは渡月橋と佐比橋の2つで、他には仮設の橋があったとされています。『都名所図会』によると、「渡月橋は大井川にありて法輪寺(834年建設か)に渡る橋なり。一名は御幸橋、法輪寺橋ともいふ」とあります。
佐比橋は、桂川と鴨川が合流する辺り(塔の森)にあり、ここ佐比の河原(『賽の河原』(※))に佐比寺があったとされています。佐比の河原とは平安時代の葬送の地で、道祖大路(さひおおじ:佐比大路、佐井通)を南へ延長し桂川と交わるところだそうです。「今昔物語集」の延暦15年(796)8月10日条にそれらしき橋がでてくるという。佐比橋、佐比寺、佐比津というのも桂川の洪水による流路変更で消えてしまったようです。なお、「佐比大路」の佐比の名称は、平城京の同じ位置の通り名「佐貴路」からきたとされています。
※「賽」はころころと転がす双六(すごろく)のサイコロのことで、貝でできていました。賽の河原とは、三途の河原の手前で、幼子(おさなご)が、親より先に死んだ罰として、鬼に邪魔されつつ延々と石積みをして仏塔をつくる所とされています。積み上げるものが貝であったり、石であったりするのでしょう。
・その他の橋
『都名所図会』(安永9年(1780))より、3つの橋をあげます。
①「梅津川※1」(大井川の流れなり。この所に舟渡しあり。四条渡しという(
梅津川のことを(梅津の)橋と称しているような)。材木を商う民家多し)[※1脚注:丹波国より大堰川を利用して搬出した材木を貯蔵した要津で、西国へ旅行する人の乗船場でもあり、古来交通の要衝地。]
②「桂川」(大井川の流れにして舟渡しあり。丹波道なり。(
桂川のことを(桂の)橋と称しているような)上野橋は十町ばかり北にあり。梅津の南なり)「桂里(※2)」(川の西にあり。神代の時、月読尊降臨し給ふ。ここに桂樹あり。故に号(なず)くるとぞ。飴の名物なり)[※2脚注:桂川右岸(西岸)に臨む聚落。昔は桂津と呼ぶ船着場で材木問屋街 ]
③「
久世の橋」久世の里・蔵王堂の絵図に、比較的大きな橋が見えます。これに比べると「かつら川(橋)」「梅津川(橋)」は貧弱なものであったと推定できます。
上記の「梅津川」「桂川」に「舟渡し」という文言が見えるから、橋としても「仮橋」「浮橋」など簡易なものだったんでしょうか。鴨川に比べて、ある程度の
深さがあり「津」(湊)となったのでしょう。梅津から桂津にかけて「筏の寄せ場」が広がっていたこと推測できます。
・桂川に架かる橋 (京都市内、北から)
| 名称 | | 現在の状況 | 備考 |
・ | 渡月橋 | とげつきょう | 府道29号 | 元は1町ほど北、三条通と繋がる |
・ | 松尾橋 | まつおばし | | 「四条渡し」といい四条通と繋がる |
・ | 上野橋 | かみのばし | 府道132号 | |
| 西大橋 | にしおおはし | 国道9号 | 1961年新架設、五条通りと繋げる |
| 桂川橋梁 | | 阪急電鉄 | |
・ | 桂大橋 | かつらおおはし | 府道142号 | 旧街道の丹波口と繋がる、八条通と繋がる |
| 桂川橋梁 | | JR西日本 | |
| 桂川橋梁 | | JR東日本 | |
・ | 久世橋 | くぜばし | 国道171号 | 石原にあり、久世橋通、上鳥羽口と繋がる |
| 新久世橋 | しんくぜばし | 国道171号 | |
| 称久橋 | しょうきゅうばし | | |
| 桂川道路橋 | | 名神高速 | 佐比橋? |
| 久我橋 | こがはし | 府道202号 | 塔ノ森にあり、赤池通と繋がる、佐比橋? |
・ | 羽束師橋 | はづかしばし | 京都外環状 | 草津あり、現在の桂川と鴨川の合流点 |
| 宮前橋 | みやまえばし | 府道204号 | |