禁裏御料と法皇御料
1.
朝廷の財産
2.
徳川家の寄進
3.
禁裏御料と法皇御料
4.
岩倉村の村高を考える
5.
各村の特徴
【朝廷の財産】「
山城八郡領主別石高」からみえる、朝廷の財産は合計3万3千8百97.4石である。朝廷の財産としましたが、収入としたほうが宜しいのか。資産なら全国津々浦々にあるだろうし、朝廷を運営していく上での収入と考えればよいのでしょうか。
大政奉還直前の1867年、朝廷との関係をつなぎ止めようと、徳川慶喜は山城一国23万石を禁裏御料として献上を考えるが、失敗に終わっている。その後の戊辰戦争によって、朝廷は幕府及び佐幕派諸藩より禁裏御料として計150万石を没収し編入している。
・さて、江戸時代の
朝廷八郡合計3万3千8百97.4石が、徳川家の寄進した
禁裏・法皇御料4万石を下回っている。公家の合計5万6千8百26.2石へ、一部回っているのであろうか。公家の中には限りなく皇族に近い方がおられる。否、
屋敷地の石高がその差に表れているのか。私の軽輩さがゆえ分かりません。
【徳川家の寄進】
◎豊臣・徳川政権が、中世以来の
公家・社寺などの支配権を洛中から一掃し、徳川家康が、
禁裏御料を山城国内で付与する方針をとり、岩倉村もそのうちに加えた。これは、これまでの領主の状況を「安堵」しつつ、
配置換えを意味する。だから、洛中内では「御料地」が増加する。一方、これまでの公家領・寺社領は、相当する数の領地を洛外に設けることになる。
花園村の「禁裏御料6石・法皇御料1石(是は実相院御領岩倉村御屋敷替えに而上る)」は、「
洛中から一掃」の痕跡だろう。これと同様に、この外の領地とともに、岩倉村の実相院・大雲寺領(耕作地)が禁裏御料・法皇御料に吸収され、岩倉村が禁裏御料・法皇御料だけの1900石になったのでないか。農民の耕作権は領主が変わろうと「安堵」、保証され続ける。
・なお、岩倉村の一部(380石)が、この1729年より後のある時期に幕府領となり1861年から京都守護職領となった。(『洛北岩倉』P75) 結局、1729年より後は、岩倉村の農民は「禁裏御料・法皇御料」と「幕府領380石」を耕作することになる。これまで、岩倉で長く実権をもってきた
実相院の石高(1859年)は、屋敷地だけのようで確かに少ない。
【禁裏御料と法皇御料】
・『京都の歴史』五巻に、「山城国高八郡村名帳」よる「禁裏御料の村々」「霊元上皇(法皇)御料の村々」の二つの表があり、徳川家が洛中で合計4万石を配給(寄進)した各村の御料石高を示している。
■禁裏御料3万石を配給した村々
禁裏御料の石高 合計3万石(天皇)
家康による進献 慶長6年(1601)5月15日 禁裏本御料1万石
秀忠による進献 元和九年(1623) 新御料1万石
綱吉による進献 宝永二年(1705) 増御料1万石
・天皇は3万石を徴収(寄進前に御料かは不明)
▂本御料 1万石
▣[愛宕郡1978]:岩倉村953、中村188、高野村800石、田中村37
▣[宇治郡6528]:山科郷17村6273、北小栗栖村20、南小栗栖村235
▣[紀伊郡 58]:下三栖村34、深草村24
▣[相楽郡1455]:瓶原郷4ケ村1455
以上、単位は石余(小数点1位以下四捨五入)
総計10,019石余(実際値:10018,982石)
※宇治郡の
山科郷は特に多い
▂新御料 1万石
▣[愛宕郡 63]:八瀬村63
▣[葛野郡1000]:唐橋村1000
▣[宇治郡 511]:三室村341、志津川村170
▣[乙訓郡 116]:上野村116
▣[綴喜郡4533]:多賀村1013、宇治田原郷15カ村3520
▣[相楽郡3637]:和束郷15カ3637
▣小物成高入分:238
以上、単位は石余(小数点1位以下四捨五入)
総計10,098石余(実際値:10098,464石)
※綴喜郡、相楽郡は特に多い
▂増御料 1万石
▣[愛宕郡775.3]:高野河原村30、八瀬村0.3、田中村58、修学院村300、松ヶ崎村64、下鴨村47、幡枝村21、花園村132、市原村69、大宮郷5ケ村54
▣[葛野郡 350]:上桂村153、川島村47、下津林村150
▣[乙訓郡 570]:外畑村14、岩見上里村12、灰方村18、今里村50、物集女村59、寺戸村334、上久世村14、下久世村69
▣[綴喜郡1486]:普賢寺郷上村291、水取村228、天王村107、高木村152、江津村402、出垣内村106、奈嶋村200
▣[相楽郡4898]:菱田村457、植田村253、菅井村89、山田郷山田村91、山田郷乾谷村187、山田郷拓榴村54、相楽村195、吐師村582、木津郷上津村248、神童子村168、上狛村361、椿井村747、平尾村649、綺田村817
▣小物成高入分:262
▣[丹波国桑田郡村々1418]
以上、単位は石余(小数点1位以下四捨五入)
総計9,760石余(実際値:9,769.5153石)
※綴喜郡、相楽郡は特に多い
■霊元上皇御料1万石を配給した村々
霊元上皇御料の石高 合計1万石(法皇)
霊元天皇が譲位すると、貞享四年(1687)仙洞御料7,000石
宝永三年(1706)一月3,000石が増献
・法皇は次の八郡村から、1万石を徴収(寄進前に御料かは不明)
▣[愛宕郡1654]:一乗寺村29、修学院村272、岩倉村947、松ヶ崎村299、西賀茂村107
▣[葛野郡1400]:小野郷10村997、
川島村403.26
▣[乙訓郡 128]:浄谷村59、大原野村46、岩見上里村23
▣[久世郡2094]:寺田村2094
▣[綴喜郡 670]:内里村670
▣[相楽郡 351]:菱田村151、木津郷小寺村200
▣[丹波国桑田郡1798.813]
▣[摂津石島下郡1871.6606]
以上、単位は石余(小数点1位以下四捨五入)
総計9,966石余(実際値:9,969.384石)
・霊元上皇御料の名称が、その後に仙洞御料となっていくのであろうか。継承御領である禁裏御料とは異なり、上皇、法皇の御料はその在世・在位中に限って幕府から献進される。仙洞御料は仙人の「仙」を連想できるよう、天皇を譲位した後の上皇、法皇の御料。次の方への既得権益としてそのまま仙洞(女御)御料が引き継がれていくのであろうか。
[御料の多い村] 郡の横数字は禁裏御料+法皇御料、各村は合算
▣[愛宕郡2816+1654]:
岩倉村1900、高野村800、修学院村572、松ヶ崎村363
▣[葛野郡1350+(997)1400]:小野郷10村995、川島村450、下津林村150
▣[紀伊郡58+0]:下三栖村34、深草村24(御料が少ないが参考に)
▣[宇治郡7039+0]:
山科郷17村6272、三室村341、南小栗栖村235
▣[乙訓郡686+128]:
寺戸村334、下久世村69、物集女村59
▣[久世郡0+2094]:(寺田村2894.185の内 幕府領800、仙洞御料2094)
▣[綴喜郡6019+670]:宇治田原郷15カ村3520、多賀村1013、内里村670、江津村402
▣[相楽郡9990+351]:和束郷15カ3637、瓶原郷4ケ村1455、綺田村817、椿井村747
▣[丹波国桑田郡村々1428+1799]:
▣[摂津石島下郡0+1872]:
以上、単位は石余(小数点1位以下四捨五入)
※岩倉村はいつの日か380石余が幕府領(その後に京都守護職会津領)となり、1520石に
[岩倉村の御料]
「山城八郡領主別石高」(1729年)からは1900石がみえる。これは、徳川家からの寄進石高と一致するから、すべての土地が禁裏御料と法皇御料である。岩倉村の
禁裏御料は、本御料のみだから1601年の規定で953石が宛がわれた。一方、
法皇御料については、947石が宛がわれたが、その年は1687年から1706年の年で不明である。
山科郷は、これまで朝廷と深いかかわりがあり、本御料のみで1601年に計6527石が宛がわれた。
| 1729年見える | 本御料(1601年) | 新御料(1623年) | 増御料(1705年) | 法皇御料(1706年?) |
岩倉村 | 1900石 | 953石 | | | 947石 |
長谷村 | 551石 | | | | |
中 村 | 188石 | 188石 | | | |
花園村 | 625石 | | | 132石 | |
幡枝村 | 715石 | | | 21石 | |
計 | 3、979石 | | | | |
高野村 | | 800石 | | | |
山科郷17ケ村 | | 6272.87石 | | | |
南北小栗栖村 | | 255.16石 | | | |
| | 10018.98石 | 10098.46石 | 9769.51石 | 9969.38石 |
【岩倉村の村高を考える】
「村高」は
領主にとって、村の財産規模です。
岩倉村の領主は天皇と法皇(女院)です。「村高」は、米穀だけでなく、畑や山(岩倉では海・湖はありません)からも安定した収益があれば石高で計算され、合算されます。■領主は「村高」に応じてその住民に賦課します。村にどれほどの財産があるか、この調査が検地です。岩倉村では、寛保3年(1743年)6月に天正以来の検地が実施されたことが「岩倉村差出明細書」(片岡(与)家文書)でわかります。
「村高」は、領主の村の財産記録ですから、その村に皇室・公家の屋敷地があると、表高として「村高」に、
領主用地の石高が上乗せされます(
彦根藩の場合)。
ですから、「村高」から村の田耕作面積を推定する場合は、1900石からその他の部分(屋敷地など)を差し引く必要があり、その結果は予想に反して田の耕作面積は少なくなります。岩倉村は他の村と比較して、その他の収入が多かったのです。
岩倉村、田の耕作面積を計算する
[準備] その前に岩倉村の面積を計算します。
『岩倉今昔(上)』(竹田源)P29に岩倉の面積が、昭和50年の国勢調査で13,982km
2とあります。ただし、この値は幡枝地区の一部1,000km
2が加わったとあり、差し引き12,982km
2になります。さらに、ここから旧岩倉村だけの面積を計算しなければなりません。当時の旧岩倉村には幡枝(木野はこのあと分離)、長谷村、中村、花園村が含まれていないから、およそ半分以下の
6.0km2(旧岩倉村面積)とします。さらに森林が80%だから
住宅地・耕作地は1.2km2ぐらいでどうでしょうか。どんぶり勘定になってしまいました。
[上記データを元に計算]
寛保3年の『岩倉村差出明細書』中田で1反で2石2斗、下田で1石8斗の収穫
仮に、中田、下田が半々とする(1反につき2石の収穫)
①1900石の全部が田だとする、1900石÷2石=950反
②1900石の5割が田だとする、(1900石×0.5)÷2石=475反
③1900石の4割が田だとする、(1900石×0.40)÷2石=380反
※下田が多いと収穫が減るから田んぼの数は増加する
[考察]
①は、念のための計算です。岩倉村には950反の田、つまり950反×10a(アール)で、田の耕作面積 0,95km
2となり、屋敷地や畑の面積、またその収入から考えてあり得ないことです。
②の場合、田の耕作地は0.475km
2、③の場合は0.380km
2で、1.2km
2村の面積以内で条件に合う。
次は参考
「1778年の本郷高持百姓68軒」、1軒あたり②の場合、6.99反、③の場合、5.59反
[結論]
村高1900石の岩倉村は、村の面積と、その面積に応じた田んぼの数から考えて、400反当たりでないでしょうか。1900石の内、1000石程度は天皇・法皇の屋敷地、その他の収入でないかと予想します。
因みに、昭和26年(1951年)、下在地町の戸数31,田(稲の畝)1581とある(158.1反)。大正15年(1926年)、永田井出に関わる田の合計が54反でした。永田井出は岩倉村の一部(6村の1つ)です。
【村の特徴】
岩倉村は、農業・林業を中心にし、また、鞍馬から京都への薪の運送などもしていたが、実相院、大雲寺もあり参詣者や心の病の療養者のための宿屋があったりして、他の村とは少し異なり職業の種類も豊富で開けていました。
中村では、下鴨神社との関係で神人(奉仕者)が多く、葵祭や遷宮祭には、浄衣を着て、神事の役を勤めていました。皇室との特別な結びつきもあり、孝明天皇の妹の和宮が将軍徳川家茂に嫁入されるとき、その行列のおともの人足と馬を出しました。
長谷村は、聖護院とのつながりが深い純農村であり、結束の強い惚的結合を持っていました。
花園は、農林業の村で、「どろくっつぁん」の祭のような、他の村にはない祭を受けついでいました。
幡枝村も農林業の村でした。幡枝村から享保(1716-36) 年間に分村した
木野は、土器づくりで有名でした。このような暮らしは、江戸から明治、大正、そして昭和の30年ころまで、大きな変化がなかったのです。『洛北 岩倉誌』P62