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2019/12/26(木) ~   ■ 滋賀(彦根中心)・京都の歴史

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紀元前5000~2000年頃、世界の四大文明?がおこる
◎世界の文明のおこりが、「大河のある四大文明からはじまった」としたのは、どうも戦後の日本の高等学校教科書や、中国清朝末期に日本への亡命経験のある梁啓超(1873ー1929年)に、由来があるようです。梁啓超は学者でなくジャーナリストであり政治家でありました。この四大文明を、世界史の冒頭でとりあげ延々と展開しているのは、どうやら日本と中国の教育界だけのようです。、、[続き♥]

神武天皇元年(伝 BC660年) 常陸国、鹿島神社が創祀
神武天皇18年(伝 BC642年) 常陸国、香取神社が創祀
◎鹿島と香取はともに常陸国で、前者が茨城県鹿嶋市、後者が千葉県香取市で20kmしか離れていない。

崇神天皇7年(BC91年) 近江、日吉大社の東本宮が創祀
滋賀県大津市坂本にある。日吉大社の東本宮が起源、崇神天皇7年。日枝山(比叡の山)の山頂から現在の地・山麓に移されたと伝えられる。西本宮と東本宮を中心とする400,000m2の境内がある。
・古くは「日吉」を「日枝の山」の由来もあり、”ひえい”と読んだが、第2次大戦後は”ひよし”を正式読みとするようだ。[日吉大社]
▼日本は「八百万やおよろずの神の国」。全国の主なる神社は早い時期に創建されたようだ。これに対して寺は、次々と新興宗教が現れる。

垂仁天皇25年(BC5年) 近江、白鬚神社の創建
近江最古の大社か(再建?)。滋賀県高島市鵜川にある。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべる、「近江の厳島」とも称される。祭神は猿田彦命(さるたひこ・の・みこと)。[白鬚神社]
▼縄文・弥生時代を考えると、奈良・京都の文化は「まだまだ産声も上げていない」。地方にこそ古い神社・遺跡があることは当然と頷ける。

紀元1世紀 小国分立の状態
*「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云う。」(『漢書』地理志)
*「建武中元二年(57)、倭の奴国、貢ぎを奉じて朝貢す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年(107)、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。桓霊の間(147~189年)、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相攻伐して歴年主なし。」(『漢書』地理志) 印とは「漢委奴国王」のようで、倭の奴国の国王が漢の光武帝から金印を授かった、と。(山川の日本史)

紀元2世紀終わり 邪馬台国の卑弥呼による小国連合
*倭国では紀元2世紀終わりころ大きな争乱が起こり、なかなかおさまらなかった。そこで諸国は共同して邪馬台国の卑弥呼を立てたところ、ようやく争乱(倭国大乱)が収まり、ここに邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国連合が生まれた。(山川の日本史)

成務天皇元年(131) 近江、日牟禮八幡宮の草創
近江八幡市宮内町に大嶋大神(大国主神)を祀ったのが草創とされる。秀次が八幡山城を築城するとき、上の八幡宮を下の社に合祀した。1595年に八幡山城が廃城となったが、城下町は近江商人の町として発展し、当社はその守護神として崇敬を集めた。昭和41年(1966)に「日牟禮(ひむれ)八幡宮」と改称した。[日牟禮八幡宮]
*ヤマト政権は、小国家の統合にあたり、もとの支配者たちを、国造(くにのみやつこ)とか、県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)等の名称で、土地の豪族として残し、その土地や住民の上にたって、政府への貢租や労力の提供を司らした。豪族の官職は世襲で、なかには中央にでて、国家の政治に携わる有力者もあった。
・旧来、「大和朝廷」とされてきたが、戦後、適切ではないとの見解が1970年代以降に現れ、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」、「ヤマト政権」の語などが用いられはじめた。

239年、卑弥呼は、魏の皇帝に使いを送る
◎266年〜413年を中国の文献に現れない空白の150年という。この間、百済に支援を要請され朝鮮に出兵し、高句麗と交戦(400、404年)し負け、朝鮮から引き揚げてきている。広開土王碑など倭国の動向が記録されている。

神功皇后、応神天皇の時代(3世紀~)に 秦氏が倭国に渡来
*神功皇后(201-269摂政)、応神天皇(270-310:第15代)の時代に秦氏 (数千人から1万人規模、否、もっと多いのでないか)が当国に帰化したとの記録が残っており、 天皇家に協力して朝廷の設立に関わったとされている。
 日本へ渡ると豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦と云われ、山背国(山城国)においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現、京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。秦氏は松尾大社(701創建)、伏見稲荷大社(708-715創建)などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社(867創建)とならび、山背国では創建が最古の神社となっており、秦氏の末裔はこれらの社家となったとの説もある。推古天皇30年には当時の中心的人物であった秦河勝はたのかわかつ広隆寺を建立(603年)している。(Wikipedia)
▼これまで、「秦氏が半島由来の民」で朝鮮と関連付けられてきたようですが、遺伝子DNAの研究成果(Y染色体D系統)から、「朝鮮とは無関係」のことが判明したようです。秦氏が日本へ渡来する直前まで百済国に留まったとしても、独自の文化を失うことなく、その後に日本で彼らの文化を花咲かせたようです。秦氏のルーツは紛れもなく中央アジアからやって来たユダヤの民に由来するようです。

古墳(391年) 好太王碑の碑文、倭が高句麗と交戦
*高句麗が南下策を進めると、(倭国は)朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために、はやくからかっての弁韓の地の加耶諸国と密接な関係を持っていた倭国も高句麗と争うことになる。高句麗との交戦記録は好太王碑の碑文「百残(百済)新羅は旧是属民なり。由来朝貢す。而るに倭、辛卯の年(391年)よりこのかた、海を渡りて百残を破り新羅を□□し、以て臣民と為す」にある(現、中国吉林省集安市)。(山川の日本史)
・高句麗の広開土王碑について改竄説が否定された。「任那日本府」が「加耶」「加羅」という言葉に変わっている。
▼倭国の古墳は、特定の時期だけに造られたといいます。倭国が統一される前に多く存在すると。またその前方後円墳が朝鮮半島にも存在すると。このころ倭国の統一は進むがまだ。

古墳(5世紀初め) 倭の五王の存在
*『宋書』(宋代 421-478年) 倭国伝に、5世紀初頭から末葉まで約1世紀のあいだ、讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)としるされた倭の五王が、、[つづき]

古墳(5世紀後半から6世紀) 倭王武が勢力を拡大
*大王(おおきみ)を中心としたヤマト政権は、関東地方から九州中部におよぶ地方豪族を含み込んだ支配体制を形成していた。、、478年に倭王武が勢力を拡大して東・西・海北の地方豪族たちを服従させた(『宋書』倭国伝)、、この大王は倭王武であり(第21代)雄略天皇にあたる(山川 詳細日本史 2023年発行)。
◎まだ倭国(日本)は統一されていない。統一は大化あたりか。

古墳(5世紀半) 京都岩倉、本山・幡枝・八幡・ケシ山に古墳群。
s_iwakura *円通寺の位置を取り巻くように、上記の古墳群が存在。古墳は言わば墓場。その被葬者は植物園北遺跡とも考えられるが、3世紀前半の忠在地遺跡(同志社小学校付近)が発見されたから、岩倉盆地でもまだ先の住民の生活の痕跡が発見される可能性があるとされる。小倉山の北に中在地遺跡もあるのだが、少し遠いのか時期が合わないのか。
*古墳群からの推定で、5・6世紀には岩倉の西(幡枝)に加茂氏(賀茂神社)、岩倉の東(上高野)には小野氏が勢力を広げていたと考えられるようだ。
*岩倉盆地に住む、古くからの住民はどこから来たのか。4~5世紀に京都盆地北部に存在したらしいカモ県主(あがたぬし)、さらには秦氏の可能性もあると。

z_torai 【渡来人】
土師はじ氏とはた氏は鉱山技術、土器製造、土木工事、葬送の儀式など同一分野で専門とし、居住地も重なっており、土師氏は秦氏の後裔とは思われていたが、同一であった。平安遷都以前の山背の豪族分布について、、仲良く分布しており、実はみな秦氏と言っても差し支え無い。渡来系氏族で共通祖先(出雲氏、土師氏)、分家関係(賀茂氏、八坂氏、秦氏)、親子関係(秦氏、土師氏)など同族であろう事の指摘は既に得ている。『日本の歴史と日本人のルーツ』(山本和幸氏)
・秦氏は3世紀から7世紀頃に大陸から日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団で、そのルーツは秦の始皇帝ともいう。秦河勝はたのかわかつは7世紀に活躍した人物であり当時の秦氏の族長的人物であり、聖徳太子に強く影響を与えた人物とされる。
▼秦氏は中国(チベット除く)や朝鮮の民族ではない。秦氏は中央アジア由来の人たちである。それから、秦氏を含め日本人全体で考えても、その遺伝子DNAは東南アジア人の中で特異な存在である。
・右図は京都市内の豪族分布図。市南部に、昭和8~16年に埋め立てた巨椋池がある。[渡来人秦氏]

▼現在のゲノム(遺伝情報)研究まで踏み込んでみると。[日本人の起源]

古墳(512年) 継体天皇、百済・加耶に進出

飛鳥(592~710年) 京都岩倉、幡枝で窯業生産が始まる
*岩倉では、良質の粘土と燃料の木が豊富にあり、7世紀になると岩倉の窯で生産された瓦が豪族の氏寺に供給された。

推古天皇元年(594年) 厩戸王(聖徳太子)の政権掌握
厩戸うまやと(聖徳太子)は、推古天皇(天皇家史上初の女帝)のもと、蘇我馬子と協調して政治を行う。5回の遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定める。推古天皇8年(600年)、新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。日本と朝鮮の関係、今後も歴史は繰り返すことになるんですね。まあ、陸続きのヨーロッパの方が凄いですが。[政権掌握]
▼これまでの朝貢外交を「対等の外交」にしたという点、非常に意義深いものです。

・『詳説 日本史』(山川)にて、聖徳太子を探せどなかなか見つからない。やっと「厩戸王」にたどり着きました。「聖徳太子」は、彼がなくなってからつけられた尊称ないし諡号しごうで、その初見は奈良時代・天平勝宝3年(751)「懐風藻」のようだ。1300年使用していたものが変更と。 学者による変更なら頷けるが、隣国のように為政者の思惑絡みなら反対すべきだ。

大化元年(645年) 蘇我入鹿が厩戸王の子の山背大兄王を滅ぼす
*王族中心の政権をめざし、中大兄皇子なかの・おうえの・みこは中臣鎌足の協力を得て、蘇我の蝦夷・入鹿を滅ぼす(乙巳いっしの変)。王族の軽皇子が即位し孝徳天皇となる。孝徳天皇時代の諸改革を大化の改新という。
・翌年(646年)正月の「改新の詔」で、豪族の私有地である田荘(たどころ)や私有民である部曲(かきべ)を廃して、土地も民もすべて天皇のもの「公地公民制」への移行が示された。その結果、地方行政組織の「評(こおり)」が各地に設置された。地方豪族たちが中央から派遣された惣領に申請して新しい評を設けたことが『常陸国風土記』などに見える(山川 詳説日本史)。
◎「評」は大宝律令制定(701年)以降の「郡」のことのようだ。
▼最近では、皇女の「ひめみこ」にそろえ、皇子のことを「みこ」というらしい。

斉明天皇2年(656年) 京都、祇園社の創祀か、東山八坂郷に素戔鳴尊を祀る
*(祇園社の創祀については必ずしも明確ではないが、)『来朝した高句麗人が現在の東山八坂郷一帯の土地を与えられ八坂造やさかづくり家となり、その地に朝鮮半島由来の祖先神を祀ったことに淵源を有する。この高句麗人は日本書紀に記載のある伊利之(いりし)とされ、この子孫が八坂造として八坂郷及び祖先神の祭祀を継承してきたところ、これを紀百継きのももつぐが婿養子として継承(*)し、八坂造家と紀氏が統合され紀姓を名乗るようになって以来、この地は紀氏の祭祀の地になった』とされ、これが八坂神社の公式見解である。
・伊利之は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖であった。八坂造は崇峻天皇2年(589)八坂塔で知られる法観寺を建立している。貞観18年(876)天竺の祇園精舎の守護神であった牛頭天王を常住寺の僧円如が播磨国広峰より八坂郷の樹下に迎えたともいう。さらに、摂政藤原基経が元慶年間(877-84)、ここに精舎を造り観慶寺と称し、祇園天神堂を建立したとも、承平4年(934)感神院社壇を建立したとも伝える。
・(別の記述)「伊利之の子・保武知は八坂の里に居住して八坂保武知と称す。以後、子孫は八坂の里に住したという。真綱に至って、紀長谷雄の曾孫忠方の娘を妻として、二人の間に生まれた貞行は剃髪して行円を名乗り、永保元年(1081)祇園社執行となった。以後、かれの子孫が代々祇園社執行を務めたとある。」は上記の(*)と異なる。
【紀百継】(764-836年) 平安時代初期の公卿。右兵衛督・紀木津魚の長男。官位は従二位・参議。
◎斉明天皇2年(656)は、高麗より来朝した使節の伊利之が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まる、年という。(社伝)

斉明6年(660年) 百済が新羅と唐に攻められて亡んだ。
*中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。

天智2年(663年) 白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗
◎倭(4万2千)・百済(5千)遺民の連合軍と、唐(13万)・新羅(5万)連合軍との戦いで、唐・新羅連合軍の勝利。唐・新羅連合軍が日本本土へ攻めてくると真剣に考えて、667年に天智天皇は都を飛鳥から近江大津宮に移したようです。

◎大津京の跡地には、皇紀2600年を記念して、昭和15年(1940)に近江神宮創祀そうしされました。三井寺から北北西5~6kmの位置です。主祭神は、ここに遷都を営んだ天智天皇です。京都市からは、白川通を東へ入りバブテスト病院の前を通過、山を越えて出てきたところが近江神宮です。この山道を「志賀越え」(山中越え)と称しますが、この山道を滋賀県側へ出たところに大津京があったことになります。東山道へ出るには、さらに南に2~3kmほどあり、大阪へ出る水運にも恵まれない所です[地図参照]。

天武天皇6年(667)年 上高野にて飛鳥時代の官人、小野毛人が没す
山城国愛宕郡小野郷(現左京区上高野)にある崇道神社近くの山(裏山の小野神社であろう)で慶長18年に、遣隋使小野妹子の子・毛人えみしの石室の中から金銅小野毛人墓誌(位牌 長58.9cm 幅5.8cm)が発見される。盗難の恐れがあり大正3年に保存のために取り出された(国宝に指定)。墓誌は鋳銅製で、文字を刻んだ後に鍍金してある。墓誌が作られたのは奈良時代になってからのこと。(京都国立博物館)『(表)飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上(裏)小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬』とある。今でいうと大臣級の人。平安時代の歌人小野小町も同族。

弘文元年(672)7月、壬申の乱が起り
天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発。大友皇子崩御。大津京滅びる(都はまた飛鳥へ戻ります)。この頃、大友村主家によって園城寺(後に三井寺と改称)建立される。

文武2年(698年)3月21日、賀茂別雷神社(通称:上賀茂神社)の紀事
賀茂別雷かも わけ いかづち神社、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事(文武2年3月21日)が国史の初出。賀茂御祖かも み おや神社、通称:下鴨神社)と両者を賀茂神社というが、加茂氏を祀る氏神で、奈良時代には強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社とされる。天平の頃(729-749年)に、下鴨神社が上賀茂神社から分置されたとされる。式内社、二十二社(上七社)の一社。

大宝1年(701) 大宝律令 行政区画として機内と七道の制
【機内と七道の制】全国を機内と七道に区分し、国・・里(後に郷)がおかれ、国司・郡司・里長(後に郷長)が任じられた。役所には国府、郡家(駅家)ができた。
 機内は大和・山城・摂津・河内・和泉、七道は北陸道・東山道・南海道・東海道・山陽道・山陰道・西海道であった。なお、明治2年に北海道が新設され五畿八道となる。
 それに伴い、①3~4世紀に成立した県主(あがたぬし)や国造(くにのみやつこ)・伴造(とものみやつこ)の廃止 ②国司:中央の貴族が派遣され /郡司:国造などの伝統的な地方の豪族に任せる ③京に左・右京職、難波に摂津職、西海道を統括する太宰府ができる

・七道は行政区画であるばかりか、畿内から伸びる国府を順に結ぶ駅路の名称でもあった。七道駅路は大路、中路、小路に分けられ、原則として30里(約16キロ)ごとに駅(駅家)を置き、駅ごとに駅馬が常備された。
 小路:北陸道、山陰道、南海道、西海道(駅家ごとに5疋)
 中路:東海道、東山道(駅家ごとに10疋) [近江路]は東山道の一部
 大路:山陽道(駅家ごとに20疋)(←重視された)
・飛鳥時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位のである令制国りょうせいこくが律令制のもとにつくられ、律令国ともいった。以後増加し蝦夷国を含め69国になるが、現在の都道府県47の原型になる。令制国の行政機関を国衙こくがといい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府といった。

【京都岩倉の条里制】奈良時代から平安時代の初め頃まで、条里制の行われた土地に班田農民がいましたが、岩倉の地域はしだいに大雲寺、解脱寺、下鴨神社などの荘園になっていったと思われます。『洛北 岩倉誌』
・木野、栗栖野(幡枝)にて土器・瓦の生産が行われていたようです。小野(上高野)(官営瓦窯がよう)では平安宮の瓦を焼いていました。(岩倉上空撮
◎条里制の痕跡が、京都岩倉の小倉山北東から南へ国際会館まで、東西では幡枝から三宅までの地域に広がっている。忠在地町と下在地町の一部がその区域に入っている。岩倉川の西の丘陵地帯、現在の石座神社とその周辺はまだ開発されていないと思われる。

【班田収受】班田は天皇のもの、一時的に田を民に授ける。できた米の一部を税として納め、民が死んだら返却。その後、人口が増加するから必然的に口分田は不足する。それゆえ、ある種の開墾地だけは一定の枠内を守れば私有を認め、それが荘園制の母胎となり、また皇室領としての勅旨田も現れた。

和銅年間(708~715年) 京都、伏見稲荷大社の創建
◎京都市伏見区深草にある神社。式内社、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。秦氏の祖霊として創建。伏見稲荷大社の神宮寺に、真言宗東寺の末寺の愛染寺があったようだ。
【皇朝十二銭】唐の「開元通宝」を手本とし、貨幣制度を整えるため、また、平城京遷都に必要となる莫大な経費を賄うため、「和同開珎」が708年に発行される。その後、万年通宝760年、神功開宝765年、隆平永宝796年、富寿神宝818年、承和昌宝835年、長年大宝848年、饒益神宝859年、貞観永宝870年、寛平大宝890年、延喜通宝907年、乾元大宝958年と続く。皇朝十二銭は新貨のたびに銅貨の含有率が下がり、朝廷や通貨制度への信用は低下して銭離れを招く。このために流通が限られ、いったん硬貨の発行は停止した。再開は1608年である。[宋銭の活用]

和銅3年(710年) 奈良、春日大社と興福寺の創建
*春日大社は平城京に遷都された同年、藤原不比等が藤原氏の氏神(茨城県鹿島から武甕槌命たけみかづちのみこ)を春日の御蓋みかさ山に遷して祀り、春日神と称したのに始まる。式内社、 二十二社は[こちら]。
興福寺(法相宗)は、鎌足の妻が夫の病気平癒を願い夫発願の釈迦三尊像を本尊とし、669年に京都山科の邸宅内に山階(やましな)寺を建立。その後、鎌足の子の不比等が672年に藤原京の厩坂(うまやさか)に山階寺を遷し厩坂寺とした。710年には、平城京遷都に伴い不比等が「興福寺」と名付けた。
 山階寺(京都山科)→厩坂寺(奈良厩坂)→興福寺
平安時代には春日社の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して、事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。(南都:興福寺、北嶺:延暦寺)
*嘉祥3年(850)には武甕槌命・経津主命が、天慶3年(940)には、朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。なお、春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。

天平9年(737)  天平の疫病大流行
◎藤原四兄弟(不比等の四人の息子)が天然痘の流行により相次いで病死
・武智麻呂(680 -737年):南家祖 右大臣 ・房前(681- 737年) :北家祖 太政大臣
・宇合  (694 -737年):式家祖 大宰帥 ・麻呂(695- 737年) :京家祖 参議
 藤原四子政権は終焉を迎えた。その後、四兄弟の子が若かったため、政権は光明皇后(不比等の娘)の異父兄弟で臣籍降下した橘諸兄たちばな の もろえ(葛城王)が右大臣として担うことになった。

天平12年(740)  九州、藤原広嗣の乱
◎天平9年4月から8月にかけ、朝廷にて圧倒的権力を誇っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなった。藤原広嗣は宇合の長男。広嗣は、9月に従五位下に叙爵、天平10年4月からは大養徳守(大和国)も兼任する。しかし、同年12月、朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に、大宰少弐に左遷される。740年,広嗣は勅に従わず1万余の兵力を率いて九州で反乱を起こした。
 これを契機に平城京を離れた聖武天皇は,伊勢,美濃,近江をめぐった後,12月15日(橘諸兄の本拠地)山背国南端の久仁郷の地に至り恭仁京の造営に着手した。翌年11月21日の勅によって宣された正式名称は大養徳恭仁大宮(やまとの/くにの/おおみや)。造営開始から丸3年を経た743年末には,並行して紫香楽宮(しがらきのみや)が造りはじめられたことなどのために費用がかさんで造作が停止され,翌年2月20日,紫香楽へではなしに難波(なにわ)への遷都が行われて廃都になった。恭仁京は奈良時代中ごろの都城。現在の京都府南部の木津川市加茂地区。『改訂新版 世界大百科事典』

天平15年(743)  墾田永年私財法 新しく開墾した耕地の永年私財化を認める
*初期荘園は奈良時代末から平安時代にかけてのもので、墾田永年私財法によって自墾を許された貴族や寺院が自分で開墾し、自分のものとした土地のことです。ただし、税は土地の大きさで決まりますから、大きな土地を持てば持つほど多くの税を払わなければいけなかったのです(自墾地系荘園)。多くは10世紀までに衰退すします。

天平21年(749)  宮城県北部の涌谷で金が採掘される
◎遠田郡の涌谷町で初めて金が産出され、陸奥国守の百済王敬福が聖武天皇に鍍金(めっき)料として金900両(約13kg)を献上。聖武天皇は感極まり天平から天平感宝へ改元した。奈良時代までの日本は金を産出せず、朝鮮半島の新羅や高句麗からの輸入に頼っていた。このころ東大寺盧舎那仏像の建立に合わせ、鍍金のために全国で金山の探索が行われていた。8世紀後半からは逆に中国や朝鮮などへ輸出され、遣唐使の滞在費用として砂金が使われるなど、後の「黄金の国」のイメージの原型が形作られた。
 銀山については、これより早く『日本書紀』天武天皇3年(674)に、対馬国司守 忍海造大国(おしぬみの・みやつこ・おおくに)が、「この国で初めて銀が出ましたので、たてまつります」と報告している。これが文献上の国産銀の初見とされ、飛鳥時代から銀が産出されるようになった。中世に至ると金山・銀山などの鉱山は、時の権力者が直轄するという形を取っている。

神護景雲3年(769年)7月頃、神託として、天皇になろうとした道鏡
宇佐八幡宮の神官が神託として、道鏡(太政大臣禅師、法王)を皇位に就かせれば天下太平になる、と奏上する。称徳天皇(女性、749年に譲位により孝謙天皇として即位、764年二度目の即位)は神託を確認するため、側近の尼僧・和気広虫を召すが長旅は堪えられず、代わりに弟の和気清麻呂を召して宇佐八幡宮へ赴かせ確認するように勅した。清麻呂は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」の神託を朝廷に持ち帰り天皇へ報告。道鏡は怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷、さらに大隅国へ流罪とした。同4年8月に称徳天皇が崩御の後、道鏡が失脚する。9月に清麻呂は入京を許される。その後、清麻呂は平安京への遷都を進言、延暦12年(793)には造宮大夫に任ぜられ建都事業に尽力する。延暦15年に従三位、公卿の地位に昇っている。[和気清麻呂の神護寺]

延暦4年(785年)9月23日夜 長岡京、造宮監督中に藤原種継が矢で射られる
種継は翌日死亡。山背国乙訓郡長岡の地へは種継が中心となって、遷都を建議した。種継が造宮使に抜擢された理由の一つには、種継の母の実家が秦氏でその協力を得たいという思惑があったようだ。この後、桓武天皇はこの事件の首謀者として処分した弟早良親王の祟りを恐れ、794年に平安京へ遷都している。

延暦7年(788) 最澄が比叡山に延暦寺を建立
*延暦寺(天台宗)は比叡山(標高848m)全域を境内とする寺院。高野山金剛峯寺(真言宗)とならんで平安仏教の中心であった。比叡山の地主神である日吉社を、天台宗・延暦寺の守護神とした。
*このときの天台宗(や真言宗)は南都六宗(インドや中国で生まれた奈良時代の国家の安定をはかる鎮護国家の思想)に対して新興宗教であり、南都の諸宗から激しい反対を受け、最澄は『顕戒論』を著し反論した。

◎日本土着の神道と仏教が融合した現象を神仏習合(本地である仏が衆生救済のため,仮に日本の神となって現れたと説く:本地垂迹説 奈良時代に成立し,平安時代に発展。)といいますが、この頃からか明治初めまで続きます。江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のことを別当寺(別の所で当たる寺)といいます。神前読経は神社の祭祀を仏式で行う。その主催者を別当と呼ぶようです。別当がいる寺が別当寺です。神宮寺、神護寺、宮寺も同じようです。
神道は土着信仰で、全てのものに神が宿るという八百万やおよろずの神が対象で、こちらの所在は、もともと人がいない閑散としたところです。そこに寺を創建すると、寺が神社を管理することになるでしょう。寺が単独で先に創建した場合は、人寄せという意味で、他の地から神を勧請するのでしょう。神仏習合のご時世では、信仰の対象として、神社と寺は持ちつ持たれつですが、財政的には寺の方が優位になり神社を管理することになるのでしょう。延暦寺は日吉社を守護神とし、大雲寺は石座明神を勧請して、寺の方が主(管理する方)になるようです。
◎寺請制度ができてからは、財政的下支えがあるから、神社より圧倒して寺(旦那寺)が優位で、単独で寺が創建できます。とにもかくにも、神社や寺は、人が集いお金が落ちなければ維持できません。

◎「宗教が我々の精神世界を支配するもの」と捉えると、その門徒の活動に我々は理解に苦しむ部分があります。信長にいわせれば「宗教とは利権も追求する厄介な存在」とするでしょう。名だたる寺社が、税を逃れる者から土地を寄進され、その領地を全国に広げていくことも顕著に見られます。その利権を脅かされると、必死で利権を守ろうとし政権を危うくすることもありました。

延暦11年(792)8月4日、山城国紀伊郡深草山西面での埋葬禁止
◎現、伏見区深草山で、王城に近いとという理由で埋葬禁止される。『類聚国史』554

延暦13年(794)頃 都の平安を祈るため、都の四方の山に「いわくら」ができる
z_heian ◎平安遷都により都の東西南北に岩蔵をつくり王城鎮護を目的に一切経を入れた筒をおさめようです。四つの内「北岩蔵」だけが現存し、京都「岩倉」名称の由来とされています。
・『洛北岩倉』では、北岩蔵の位置が、昭和初期に建造された碑『皇城鎮護埋経地』のある「現在の大雲寺背後の山上」としています。
 これについては、出典が見いだされないまま「山上に碑を建造した」ようで、何か割り切れない部分、政治力が働いているように思えます。『皇城、、』の文言の中に「岩蔵御殿が碑の北であってはならない」が読み取れます(以上、勝手な私見)。
 3世紀前半、村松地域の中在地遺跡がこの地より数百m先の北側で発見されています。だが、碑を建造した平安遷都当時は遺跡のことなど忘れ去られ、山には木々がうっそうと茂り、その東には荒野が広がっていたことでしょう。もちろん、まだ大雲寺や岩蔵御殿もありません(地図)。普通なら「山住神社」の御神体である大岩が北岩蔵そのものと考えたいところです。
 これ以降、この地域に「北岩蔵」や「北岩倉」なる文言が登場します。これは岩倉の北という意味でなく、京都の中心・政庁の位置から北の岩倉という意味とです。政庁のこの地域の公式な名称は「北岩倉」で、1695年の元禄郷帳でもこの地域を「北岩倉村」としています。ですから、上記の「北岩蔵」は岩倉の北に限らないのです。

・平安京の地の選定は、陰陽道(風水)に基づく四神相応の考え方を元に、当時の山背国の葛野かどの愛宕おたぎ両郡にまたがる地に建設されました。この四神とは次の霊獣をいうが、それぞれ当地のものにあてています。
        (北)玄武 ■山:船岡山
 (西)白虎 ■道:山陰道     (東)青龍 ■川:鴨川
        (南)朱雀 ■澤:巨椋池

◎「やましろ」を「山背」「山代」といったものを、「奈良山のうしろ」で、山河が襟帯して自然に城をなす地域とし、延暦13年(794)11月8日「山城国」に改称したといわれます。長岡京からの遷都は、桓武天皇が同年10月22日に行われました。 【平安京の大きさ

【日本の都 遷都】
飛鳥板蓋(643〜 )→難波宮(645〜 大阪市)→飛鳥宮(655〜 )→近江大津宮(667~ )→飛鳥浄御原宮(672〜 )→藤原京(694〜 飛鳥の北西)→平城京(710〜 )→恭仁京(740〜 )→難波京(744~)→紫香楽京(信楽 745〜 )→平城京(745~)→長岡京(784〜 京都の南西)→平安京(794〜 )→東京(1868〜 )

【社会のようす】8世紀にすでに遙任(国司となっても京にいて現地におもむかず、収入だけ取るもの)の風があった。、、京都の貴族は政権争いや遊興をこととしておれば、地方官の横暴・農民の困窮は当然である。、、讃岐・日向では国司の暴政を訴え、対馬では国司が郡司に殺された。そればかりか、女賊が内裏に潜入して天皇の衣類をうばっている。昼は華やかな帝都、夜は暗黒街、、取り締まりの検非違使までが加わるというから始末がわるい。『京都府の歴史』29
・軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、桓武天皇は(陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く)諸国の軍団・兵士を廃止し健児制(こんでいせい:郡司の子弟と百姓のうち武芸の鍛錬を積み弓馬に秀でた者を選抜する)を導入し百姓らの兵役の負担は解消される。しかし、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。その結果として、9世紀の日本列島は無政府状態となり、有力な農民が自衛のために武装して、武士へと成長することとなった。(Wikipedia)

【東西の市】その中心が七条以北で、大宮大路東と西大宮大路西に、それぞれ数十軒の店が立ち並ぶ(図の紫色参照)。全国からの物資は水運を利用し、淀川を遡り鴨川・桂川から、東西の官営の2つの市で、市司(いちのつかさ)の管理下、毎月15日までは東市が、16日以降は西市が開かれた。西市は低湿地にあり、早くも10世紀には衰退し始め、東市の役割が大きくなった。

▼平安京の当初計画は、あまりにも規模が大きすぎた上、財政難のこともあり途中で断念されたかのように見えます。計画で想定される町数が左京・右京計1136町になるのに、開発された町数は580余町といいます。特に、右京南部は、桂川が近くを流れるため(時に氾濫したことも考えられる)に低湿地帯のこともあり居住に適さないようで、発掘調査でも街路ができたのは平安中期以降になってからで、その上、右京南部の八条・九条地域では遺構や遺物が発見されておらず、とのこと。開発が最後までなされその地に住民が居住したか、疑問視されているようです。web『花の都』など

大同5年(810年) 京都、薬子くすこの乱 平城上皇と嵯峨天皇とが対立す
◎「平城太上へいぜいだいじょう天皇の変」ともいう。嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇(愛妾の尚侍・藤原薬子が乱の中心人物とされる)が出家して決着する。平城上皇は未練がましく都を平城京に戻そうとした方です。これを契機に、新たに天皇の秘書的役割を果たしす蔵人所が設置される。

天長10年(833)10月) 京都、嵯峨天皇が洛外の離宮・嵯峨院を新造
z_sagano *嵯峨野(786-842)は太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称。古来、太秦を根拠地としていた豪族の秦氏によって開発が進められたとされ、平安遷都後には、風光明媚なため、天皇や大宮人おおみやびとたちの絶好の遊猟、行楽地だった。嵯峨天皇が離宮を営んでいた庭には、中国の洞庭湖を模した人工池である大沢池が造られている。嵯峨天皇崩御後は、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が、離宮を寺・大覚寺に改めた(創建876年)。後宇多法皇(1267)が、この大覚寺を再興しそこで院政を執ったため、大覚寺殿と称される。
◎この近くは、京都最古の寺である秦氏の広隆寺(弥勒菩薩で有名)や蛇塚古墳で有名な太秦の地である。また、現在は時代劇撮影でよく知られる太秦映画村がある。
*桂川を夾んで南側を嵐山、北側を小倉山というらしい。古くは、この地域のことを小倉山、そびえる標高296mの山を「亀山」といったのかな(現在この地域を嵐山というものもある。いまの地図では小倉山というのが見えない)。その上流の先に亀岡がある。勝手な想像だが、京都の東の岩倉の地にも小倉山がある。混同を避けたかな。この辺り名称もいろいろ変わる。渡月橋を夾んで上流を保津川、下流を桂川といったり。桂川が淀川に合流するまでを葛野川、また大堰川(桂川の両者の古名)ともいう。

嘉祥3年(850)頃 京都、小野篁の夜毎の怪しげな徘徊
「六道の辻」伝説】六道珍皇寺ちんのうじ辺りは、平安京の火葬地であった鳥辺野の入口にあたり、古くから現世と他界の境にあたる冥界への入口と考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。小野たかむら(802-853年)が、この辻の井戸(本堂裏庭)を通ってこの世とあの世を行き来し昼は宮中に仕え、夜は閻魔大王(地蔵菩薩の化身)の書記官を務めたという話があります。(『今昔物語集』など)
ido ・小野篁の夜毎冥府通いと思える怪しげな徘徊が、その後になって伝説ということになったのでしょうか。深夜の怪しげな徘徊は禁物ですね。このことは、藤原道長の日記にも出てきます。『御堂関白記』の長保6年(1004)3月12日条に、「珎光寺」が珍皇寺を指すようです。また、近世の地誌類には「珍篁寺」と書かれることもあり、「ちんこうじ」の読みがよいのではと思われるとのことです。
・小野篁は、平安時代前期の公卿・文人、小倉百人一首では参議篁として知られ、政務能力に優れていました。漢詩文では白居易と対比されるなど、平安時代初期の屈指の詩人で、書においても当時天下無双で、草隷の巧みさは王羲之・王献之父子に匹敵するとされ、後世に書を習うものは皆手本としたといいます。非常に母親孝行である一方、金銭には淡白で俸禄を友人に分け与えていたため、家は貧しかったといいます。子供は6人程もうけています。日毎のお寺参り、母親の健康・子供の教育に悩んだかな。小野小町(や小野道風)は小野篁の孫で、出羽の国司を務めた小野良実の娘であるとされています(『群書類従正編』)。

六道】仏教の教義で地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六種の冥界をいう。
 人は六道の世界で生死を繰り返す(六道輪廻)。来世も人間で生まれてくるかわからない。どの六道の世界でも寿命があり、特に地獄は1億数千年と最も長い。人は行為の善悪に応じてその報いがあり(因果応報)、死んで次に生まれてくるところは「現世の行いで左右され」、閻魔大王の裁きにより決まる。六道の各世界で苦しむ人達を救うため、観音や地蔵が特別に割り当てられている。
ido  輪廻の輪(生死苦悩の繰返)から抜け出す(解脱)には、まず「殺生」をしない。仏教を学び、六道輪廻の要因ともいえる妬みや怒り、欲などの煩悩を無くし、悟りを得るために修行すること、と説いています。解脱に成功すれば、新しく生まれ変わることが無くなります。これは「永遠の死」としています(下図)。

[六道輪廻図の六道の位置]
rokudou お釈迦様が亡くなられた、解脱された(煩悩の火が消えた状態)絵図を「涅槃図」といいます。沙羅双樹の下で「頭北面西」で横たわっています。
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[右図について] 閻魔大王については、中国から伝わったものでは十大王がおられるらしい。閻魔大王はその代表者と考えてよいのだろう。「六道輪廻」という文言もあり、転成の後の来生・六道が示されており、大王の下の部分である輪廻との関係がよくわからない。中陰の期間中に遺族は中陰法要を行い、閻魔大王(他9大王)によって生前の罪が裁かれる(審判を受ける)が、追善の功徳を故人に廻向(成仏を願って仏事供養)すると赦(ゆる)されたりする。罪が重く廻向がうまくいかないと、転成後に地獄に落とされるという。転生とは何十、何百年後の世界か。息子は姿を変えどこかで生きているというのか。
 なお、宗派によって違いがあり、浄土真宗は故人は阿弥陀仏の本願力によって臨終と同時に極楽浄土に往生すると考えるので、中陰は、故人を通して求法の生活をする期間である、としている。(wiki)
 「中陰」から満中陰・四十九日(三十五日)を迎えるまで、白木(しらき)または白い布をかぶせた祭壇を別に用意し遺骨・野位牌(白木の位牌)、遺影、白い陶器製の三具足(香炉・花瓶・燭台)、鈴(りん)などが置かれる。

六道珍皇寺の六道まいり
「六種の冥界」を輪廻する先祖の霊を十万億土の冥界へも響き渡るといわれる由緒ある梵鐘の「迎え鐘」で御精霊(おしょうらい)を現世へ迎え入れ供養するお盆の行事。精霊迎えの鐘をつくため多くの参詣者が訪れ、この期間中、重要文化財の薬師如来はじめ寺宝の地獄絵等も公開される。
 「六道まいり」は、六道珍皇寺の他「千本釈迦堂の六道まいり」(七本松の大報恩寺まいり)もある。
◎京都では、「六道まいり」で祖先や亡くした子供の霊を家に向かえ、8月16日の「大文字の送り火」で死者の霊をあの世へ送り届け見送る、といわれています。従って「大文字焼き」ではないのです。
六地蔵巡り
・京都では、8月22日・23日の両日に、都の入口(旧街道)六ヵ所にあるお地蔵さんを巡拝して、家内安全、無病息災を祈願する「六地蔵巡り」が行われます。各寺で授与された六種のお幡(はた)を家の入り口に吊すと、厄病退散、福徳招来すると言われています。室町時代に、庶民に地蔵信仰が広まって以来800年も続いている伝統行事だそうです。

・852年、小野篁が桜の大木を用いて六体の地蔵菩薩像を彫ったとされる。篁は地蔵菩薩像を大善寺、当時は紀伊郡木幡の里(現在の京都市伏見区)に祀った。この後、後白河天皇の勅命により、平清盛が疫病退散のため保元年間(1156-1159年)に西光に命じて街道口6カ所にそれぞれ六角堂を建て、六体の地蔵菩薩像を一体ずつ分置した。これらを「京都六地蔵」と呼ぶ。京都の七口と重なってもいいように思うが。
・奈良街道 伏見区桃山町    浄土宗 大善寺( 705年創建) 伏見六地蔵
・大坂街道 南区上鳥羽岩ノ本町 浄土宗 浄禅寺(1182年開基) 鳥羽地蔵
・丹波街道 西京区桂春日町   浄土宗 地蔵寺(1157年創建) 桂地蔵
・周山街道 右京区常盤 臨済宗天龍寺派尼寺 源光寺(811年創建) 常盤地蔵
・鞍馬街道 北区鞍馬口 深泥池畔 →浄土宗 上善寺(863年創建) 鞍馬口地蔵
・東 海 道 山科四ノ宮  臨済宗南禅寺派 徳林庵(1550年開創) 山科地蔵

【地蔵信仰】平安中期から行われた地蔵菩薩の信仰で、地蔵は地獄に落ちて苦しみにあう死者を地獄の入口で救済すると信じられている。地獄の入口を村境にあてはめて、道祖神、地蔵、あるいは峠などに祀る柴神などがあり、そこを通る者は必ず参らないと祟られるとする道祖神信仰で、さらには、現世と他界の境界を守護するさいの神としての性格も帯びるようになる。また、地蔵は弱者を救うとする信仰から、子どもの守護者の性格が付加され、子安地蔵の信仰に結びついてゆく。
塞の神(境の神)は、村落の境にあって他からの侵入を防ぐ神邪悪なものを防ぐとりでの役割を果すところからこの名がある。村外れ、町外れ、誰が祀ったか不明の石仏・お地蔵様が「ひっそり」と立っています(道祖神信仰と結びついた)。京都では各町内に(町内外れ?)、こちらは有り難く手入れされた「お地蔵様」がもうけられ、子供達・町内の方々・道行く人を見守ってくれています。毎年の盆には、地蔵盆(旧暦7月23日で、現在8月23・24日を中心)が町内会の催しで、お地蔵様のまわりにテントを張り、子供達が主役の会を設けています。その中で、年配の方の念仏も披露されます。そういう意味で、地蔵菩薩は庶民の多くの願いをかなえてくれる仏なのでしょう。六地蔵、しばられ地蔵、笠地蔵、田植え地蔵など多数あります。

天安2年(858) 近江、円珍が比叡山の別院として荒廃していた園城寺を再興
*天台寺門宗の宗祖であり、第5世天台座主の円珍(814-891)は、讃岐の生まれで空海の甥にあたるという。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。
 当時は、中国は唐(618 - 907年)の時代。[園城寺(三井寺)][円珍]

貞観5年(863)5月20日 京、疫病の流行を鎮めるため御霊会を執り行う
◎同年、疫病の流行を鎮めるため朝廷は神泉苑御霊会ごりょうえを行う。翌864年、富士山の大噴火が発生した。御霊会が生まれた背景には、平安京がもともとが内陸の湿地であったこと、大雨による鴨川の氾濫、鴨河原の河川敷住民の増加、上下水道の不備などにより疫病が大流行したことがあげられる。
【御霊信仰】人が死ぬと魂が霊として肉体を離れ人々に様々な災いを起こす。怨霊は、怨み・恨みを残して非業の死をとげた者の霊で、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災いをもたらす。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を得るという。平安期を通してこうした考え方があり、流行った疫病も「怨霊の災い」の1つと考えた。(Wikiなど)

*この御霊会が、上御霊神社(現「御霊神社」:京都市上京区)および下御霊神社(京都市中京区)の創祀であるとしている。
・貞観11年(869)5月、陸奥で貞観地震が発生、津波によって多数の犠牲者が出る。社会不安が深刻化する中、神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社の位置)にて、鉾に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓うとし、66本(当時の律令制度の国の数)の鉾を立てて、祇園社(現・八坂神社)から3基の神輿を出し、牛頭天王ごずてんのうを祀り御霊会を執り行った。
・これ以降、御霊会は祇園会(ぎおんえ)となる。当時の祇園祭の名称は「祇園会」である。よって、869年の御霊会をもって今の祇園祭の起源とされる(安和3年(970)からは官祭として毎年行うようになる)。祇園社は当初は興福寺の末社であったが、974年(天延2年)の戦争により延暦寺が本寺とされ山門(延暦寺)の洛中支配の拠点となった。
・令和元年(2019)には祇園祭の1150周年を祝う。明治に神仏分離が行われた際、仏教用語の「祇園」や「牛頭天王」が外され、総本社である京都の祇園社も八坂神社と改名された。二十二社の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
▼祇園社は神仏習合によって神社的性格と寺院的性格があった。神社的性格があったことは二十二社の一つに数えられたことでわかる。寺院的性格があったことは祇園社に社僧がいたこと、社内に仏像や仏具などが置かれていたことでわかる。さらには、一時に観慶寺が建立されたことがあったこと、また、絵師隆円が元徳3年(1331)に描いた古図に、本殿の西に楽師堂や鐘楼や常行堂、東に経所や北西に多宝塔があったことで窺える。これまで感神院、祇園社、祇園寺と呼ばれていたものが、明治2年の神仏習合により、社内に祀られていた仏像や仏具を取り除くなどし、八坂神社の名称に統一された。祇園社の社域は 49903.78m2が明治5年には20073.9m2と半分以下になった。(エォトヴェシ・ロラーンド大学大学院言語学科 日本文献学博士課程 レスチャン・アニタ氏より)

【神泉苑】創建794年。大内裏の南東に位置し、南北4(500m)東西2町(240m)の規模を有する禁苑でした。桓武天皇が愛でてしばしば狩猟や宴会をもよおし、ときには雨乞いの祈祷をしたこの地も、当時存在した池を利用したものであろうといわれている。王朝時代は禁池として貴族が遊んだ、、江戸幕府の二条城建設によって、現在のように縮小され、、今日では東寺派の寺院となっている。

・律令制の統治機構は【こちら

貞観16年(874) 京都、聖宝が笠取山頂上を「醍醐山」と名付ける
◎これが醍醐寺の興り。細い山道を「下醍醐」から「上醍醐」まで行くのに1時間要する。桜の花見は、秀吉以前の歴史がある。「1194年3月30日 醍醐寺桜会の時、、」(『京都の歴史』十巻年表)の記載をみる。

9~11世紀 朝廷、国司に政治を丸投げ
*王朝貴族は地方政治を放棄し、県知事にあたる国司(受領)に政治を丸投げした。、、国司は四年限定の独裁者として君臨し、法外な税率を勝手に決めて中央にはその一部しか送らず私腹を肥やし、事実上略奪を専らにした。、、国司が襲撃を受けたり郡司・百姓が上京して国司の非法を訴えて罷免を要求したりすることが繰り返された。上京した百姓はそのまま居ついてしまうこともある。百姓に協力した郡司は支配階級の末端であるが、、村の貧窮した実情が理解できるのだ。、、京都の治安悪化や様々な不安定要因をもたらした流入民は、結局はもともと朝廷の悪政が原因で 地方から上京した難民である。『寺社勢力の中世』57

元慶4年(880)10月13日 京都岩倉、石坐の神が「従五位下」に
◎この記述は現在の山住神社(石座神社御旅所)のことのようです。
◎『日本三代実録』は日本の平安時代に編纂された歴史書で、天安2年(858)8月から仁和3年(887)8月までの30年間を扱い、詔勅や表奏文を豊富に収録し、先例のできあがった慣行を記載する。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平で、延喜元年(901)にできる。全50巻。
 このとき、石坐の神が「正六位上」から「従五位下」に、日吉大社が「正一位」(元慶4年)に、多くの神社が神位をもらったようです。
▼「石坐の神」は京都の北、この地方の「産土神」で、当時の知名度は幾分高かったようです。平安京の王城鎮護の目的で「北岩蔵」に一切経を埋めたもの。とどちらが早いかは不明です。私見としては、「石坐の神」の方が古いと思います。

元慶4年(880) 近江、日吉大社の西本宮の祭神が「正一位」となる
・同4年に西本宮の祭神が、寿永2年(1183)に東本宮の祭神が、それぞれ正一位に叙せられた。式内社、二十二社の一社。

仁和4年(889) 京都、仁和寺の創建
◎仁和2年に始められ、宇多天皇が仁和寺を完成させた。出家後には、伽藍の南西に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建て住んだことから、御室御所とも称せられた。門跡寺院はここに始まる。応仁の乱が勃発すると伽藍は全焼した。ただ、被害を被る前に本尊の阿弥陀三尊像は運び出され、いまは双ヶ丘の西麓の西方寺にあると。家光の支援を得て伽藍が整備されはじめ、1624 - 1645年の御所(現・京都御所)建て替えに伴い、御所の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築された。仁和寺は明治時代に至るまで、皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括した。1591年、秀吉によって860石、1617年に秀忠によって1,500石、それぞれ朱印地を得ている。

寛平年間(889-897年) 京都、内裏の警護は「滝口の武士」が管轄する
薬子の変を契機として、宇多天皇のときに、蔵人所から内裏の警護を行う「滝口の武士」が創設される。彼らは、御殿や塀などに沿って庭へと流れる、水の流れ始める”滝口”の、渡り廊下を詰め所(清涼殿東庭北東の近くの渡り廊下辺)としていた。射芸に優れた摂関家や公家、侍などが選ばれた。
【滝口の武士】平将門(? -940:滝口小二郎)、斎藤時頼(滝口入道)、三善惟孝、滝口俊綱、滝口家綱、滝口家次、長谷部信連  後に、御所警護:「北面の武士」「 西面の武士

寛平6年(894) 新羅の入寇
*唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻を始めた。対馬守の文屋善友は郡司士卒を率いて、数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。賊は計300名を討ち取った。
・捕虜の証言ではこれは民間海賊による略奪ではなく、新羅政府による襲撃略奪であった。捕虜曰く、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。
◎「唐人も交えた」など、日本人による歴史は、「より客観的な事実に根ざした」歴史を思わせるもの。某国は「これまで他国を侵略したことはない」と言うが、あるんだよ。
この後に、
延喜6年(906)7月13日の「延喜の新羅の賊」
長徳3年(997)「長徳の入寇」は、高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。奄美島人も賊に参加か。

延喜2年(902)3月 醍醐天皇の荘園整理令
*土地を開墾して大きくすればするほど税が増えていきます。10世紀頃から、税を逃れるため自分が開墾した土地を貴族や寺院に寄進しだします。この時代、大きな土地所有者である貴族や寺院は役人に賄賂を渡して、荘園が免税になっていることが多かったのです。名目上は免税された貴族や寺院に寄進しつつ、自分はその下で働いて税を取られずに米を収穫する、ということが流行りだします(寄進地系荘園)。(以後、荘園整理令は1156年まで10回ほどでている)

*困窮した農民のなかには、口分田を捨てて戸籍に登録された地を離れて 他国に浮浪したり、都の造営工事現場などから、逃亡して地方豪族などのもとに身をよせるものもふえました。一方、有力農民のなかには、経営拡大を目指し浮浪したり、勝手に僧侶となったり(仕度僧)、貴族の従者となって、税金を逃れるものがありました。 『詳説日本史(山川出版)』46
商人の起源は時期的にこの辺りだろうか。隷属的な土地支配者から逃れ、彼らは支配者と生産者を取り持ち、生産者からの委託を受け物資を売り捌いたり、物資を他所へ運ぶ便宜を図ったり、自らも他所へ運び売り捌いたりする。支配者側から見れば『浮浪者』、かの地から離れる『逃亡者』であるが、為政者たちに利益をもたらすようになると、彼らの立場が追認されたりする。後の世で、本人達にはその自覚がないが『先覚者』であったりする。こうしたものが商人の興りでないのか。
・都の遷都を可能とし、その後の都人たちの物資的需要を満たすには、役人と労働者だけでは事がすまない。彼らの仲立ちをする商人の力が不可欠だ。そういう意味で、国家的な事業が計画される時から商人の協力が打診されたり、それを束ねる者が現れたりする。言い換えれば、「にわかに」商人が現れたのでなく、国家的な事業に「必然的に」現れるものである。人と物を動かすのが「金の力」とするなら、有得人が現れ、「徳」を持った者のように振る舞う有徳人の出現もおかしくないだろう。有徳人の出現は「借上」とか「土倉」とか呼ばれる者の出現と重なっているようだ。

*日吉神人について
 有力な神社には、古くから俗体をもって神社に奉仕し、祭儀その他の雑事につとめるものがあった。神賎の系統をひくものもあり、平安時代にはこれを神民といい、鎌倉以後は神人と呼ぶことが多くなった。この神人は、平安末から鎌倉にかけ、神典や神木をかついで、僧兵とともに、朝廷に強訴した。その一方、彼等は身分を保証されて種々の営業に従事し、ゆたかな資金をもって高利貸に従事した。
 この神人は、平安の中期以降、社寺領の増加とともにその数を増加した、、神社は膨脹する神領の経営と神事の執行に、特定の奉仕者をおき、これを兄部このこうべ(「子の上部(このかみべ)」の音変化:中世、院・門跡・武家などに仕えて雑務に従った力者の長)によって統率することを必要としたのである。、、平安末期より鎌倉時代、南北朝時代にわたり、叡山の権威をその身に負い、到るところに活躍していたことである。そして山僧が高利貸として活動することの多かったのに対し、(神人は)高利貸ばかりでなく、種々の商品を持歩く商人として広く各地に姿を現わしていた、、地方に分置された日吉社に奉仕する神人も、国衙の役人としばしば衝突し、、この神人の商業活動は、大山崎や祇園社の神人のそれにくらべて、時代的には南北朝の後半期を下限とする。その点山僧の金融活動が応仁の乱ごろまでめだっているのとは多少事情を異にする、、
 山門や日吉社にあっては、さらに日吉の本社や地方の荘園内末社に神人を置き、これを座に編成して、神事の奉仕にあたらせた。、、地方の農民の中には、山門の神威をかりるため、進んで日吉社の神人になるものが少なくなかったが、山門としても勢力拡張のために荘民を強制的に日吉社の神人とすることがあった。、、日吉社の神人はそれぞれ所属する神社の名によって十禅師宮神人、、などどいわれ、、その神社の祭礼に御供を献納するをならいとし、他の課税を免れた。『延暦寺の山僧と日吉社神人の活動』(豊田 武)
<まとめ>俗体(僧でない一般人)→ 平安時代:神民 → 鎌倉時代以降:神人
     神領の経営と神事の執行に兄部(力者の長)で統率 力者は神人に由来?
     神人:高利貸、種々の商品を持歩く商人 山層:高利貸

天暦元年(947)6月9日 京都、朝廷の命により菅原道真を祀る社殿を造営
*右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の讒言にあって左遷され、903年に大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まる。没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。朝廷の命により、現在地の北野の地にあった朝日寺を道真を祀る社殿を造営し神宮寺とした(947年が北野社(現・北野天満宮)の創建年となっている)。 ・大宰府での生活は厳しいもので、大宰府の「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかった。住居は、大宰府政庁南の、荒れ放題で放置されていた廃屋で、侘しい暮らしを強いられていたという。また、藤原時平の差し向けた刺客が道真を狙って周辺を絶えず徘徊していたという。二十二社の一社。

天徳 3年(959)3月13日 京都、祇園感神院が清水社と乱闘、検非違使が制止

dairi 天徳4年(960) 村上天皇、大内裏・内裏焼失
◎大内裏の中、主なものに次がある。
①内裏:天皇が居住する
②朝堂院:大内裏の正庁で、政務や儀式の際に使用する
③豊楽院:朝堂院の西にあり、節会の宴や外国使節歓待などが行われる
④太政官府:太政官らが詰め執務する
⑤大極殿:朝堂院の中の正殿、天皇が政務や国家的儀式(即位式など)を行う
⑥左右兵衛府:天皇やその家族の近侍・護衛を行う
造酒司:宮内省所管の酒・醴(あまざけ)、酢を醸造する

*大内裏・内裏は10世紀後半以降、たびたびの焼失に見舞われた。最初の焼失は村上天皇の同年のことである。天皇は冷泉院を里内裏(さとだいり:天皇の在所で内裏以外の邸宅(皇居))とし、翌応和元年(961)に大内裏が再建されると還幸した。、、当初は1~2年程度で行われた再建も、一条天皇の寛弘2年(1005)に発生した焼亡からの再建に6年を要したのを皮切りとして間隔が長くなる傾向が見られ、天皇の里内裏暮らしが常態化するようになった。
・天永3年(1112)に鳥羽天皇の里内裏である高陽院が焼失した際には、本来の内裏が存在して使用可能であるにもかかわらず「次の里内裏」を選ぶ議論が行われた。
・白河法皇が「内裏の殿舎は甚だ広博なり」(内裏は広すぎる)という理由を挙げて幼少の天皇の内裏住まいに反対したといい、孫である天皇を法皇の御所である小六条殿に同居させてた。大内裏全体は荒廃の一途をたどったが、特定の建物は儀礼の場(特に大極殿は天皇即位式)として維持された。

・安元3年(1177)安元の大火(太郎焼亡)では朝堂院(大極殿を含む)が焼失するなど、大内裏に壊滅的被害を与えた(内裏は焼失を免れた)。焼失範囲は東が富小路、南が六条、西が朱雀以西、北が大内裏で、京の三分の一が灰燼に帰した。大内裏の大極殿の焼亡は貞観18年(876)、天喜6年(1058)に次いで三度目であった。
・承久の乱(1221)で内裏を含めた大内裏が焼失。その再建途上の安貞元年(1227)に火災によって全焼し、これをもって大内裏の再建は放棄された。
大内裏の廃墟になった部分は内野うちのと呼ばれるようになり、平安時代中期には大内裏が夜間通行可能な荒地と化し、そこに「内野通」という道路が作られていた。「内野通」は、当時の市街地であった左京北部と西の嵯峨方面とを結ぶ道のひとつであった(『今昔物語集』 巻第27,第33)。
・内野は鎌倉時代には武士たちの馬場として利用され、室町時代には、内野の北に位置する北野社が内野や朱雀大路を占拠して農地を開発し、室町幕府に社領として認めさせた。
・天正15年(1587)、豊臣秀吉は内野に聚楽第を建設したが、その後豊臣秀次失脚の余波で取り潰された。近世には聚楽村という農村となり、近代には市街地の一部となっている。(Wikipedia)

応和 3年(963)8月 京都、空也が鴨河原で大規模な大般若経供養会を行う
*922年頃、尾張国分寺にて得度し空也(903-972)と称した。948年、比叡山で受戒する。空也は諸国を遍歴し、、民衆に念仏をすすめ、市中に念仏をとなえてまわった。このような俗人を「沙弥(さみ)」という。また、阿弥陀聖とか市聖とかよばれた。、、空也は、生涯超宗派的立場を保った。
 当時の宗教界を支配していた密教は庶民には近づきがたいものであった。そこへ、「南無阿弥陀仏さえとなえれば極楽浄土へ行ける」という新しい教えが出現し、社会勢力までなった庶民をとらえたのである。、、疫病が蔓延している当時の京都で、空也が観音様を荷車で引きながら念仏を唱え、病の人に茶を振る舞って救ったという逸話が残る。平安時代、鳥辺野は貴族の葬送地で、庶民の遺体は山裾まで運ばず、鴨河原に捨てた鴨河原は遺体の捨て場で、葬送の場でもあった。こうした状況で、空也が鴨河原に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会だいはんにゃくようえを行った。空也の思想は御霊会と同様なもので、浄土教の先駆者とされている。
 空也は死骸を一ヶ所に集め焼いて供養、そこに六波羅蜜寺の前身の西光寺を建立した。鳥辺野の寺(伝:時宗・四条道場 金蓮寺 末寺の宝福寺)に付属した火葬施設(古地図で「火屋ヒヤ」)は、火葬の煙と臭気が忌まれ、慶長4年(1599)に建仁寺門前に移転させられた。その「古葬人之場」は寺もなく、竹林に四方を囲まれ外からは見えない場所で、六体の地蔵があったことから南無地蔵と称された。珍皇寺門前から西大谷方面に通じる小道の途中に、その「南無地蔵」はあった。(京都歴史研究會のブログ)
 空也の信仰を受け継いだ空也聖堂が、鉦をたたきつつ五三昧(五ヵ所の共同墓地)をめぐることを修業にしたのも、怨霊を慰めるためであった。それはのちに一遍の踊り念仏につらなる。
 浄土の教えは、叡山横川の僧源信(942-1017)によってさらに発展した。彼の有名な「往生要集」は、多くの経論から極楽往生の教行を選集したもので、それを根拠に地獄・極楽を説いた視覚的・形象的方法は浄土教美術に大きな影響を与えた。『京都府の歴史』44

康保3年(966) 京都、慈恵大師良源が第18代天台座主に
*このころから、文武を兼ねることが天下を治める道であるとし、学問し修行に堪えられない僧侶を選んで、仏法を擁護させるために武芸を練習させたのである。良源は「愚鈍無才の僧侶を抜きて、武門一行の衆徒と成さん」(『三家要記浅略』)といったとされる。『法師武者悪僧軍団の興亡』今井雅晴
gensan ◎比叡山延暦寺の中興の祖、良源は935年の大規模火災で根本中堂など多くの堂塔を失い、荒廃していたが、村上天皇の外戚の藤原師輔の後援を得て、焼失した堂塔を再建した。「僧兵」「おみくじ」の創始者は良源だと言われている。朝廷からの諡号(しごう、おくりな:死後に贈られる)は「慈恵」(大師号はない)であるが、命日が正月の3日であることから、「元三大師」(がんざんだいし)の通称で親しまれている。また、慈恵大師・良源をかたどった護符には「角大師」「豆大師」「厄除け大師」などの魔除けの護符は広い信仰を集めている。右は大原三千院と廬山寺の護符。
*8月28日、桂川が氾濫し、五、六条以南は海のようになる。9月9日洪水によって、京中、畿内の人々に振給する『京都の歴史』十巻P51

安和2年(969)4月 2 日 京都、安和の変 藤原氏による他氏排斥事件
◎平安時代の初期100年は、藤原氏による権力奪取が着々と進められた時代である。その手段が 天皇の外戚となること、有力な他の豪族を排斥することであった。
 大同2年(807) 伊予親王の変(藤原南家の勢力が大幅に後退)
 弘仁元年(810) 薬子の乱(藤原薬子、兄藤原仲成ら式家が処罰)
 承和9年(842) 承和の変(北家の藤原良房による他氏排斥事件の初め)
 貞観8年(866) 応天門の変(大納言・伴(大伴氏)善男父子が流刑)
 元慶8年(884) 陽成廃帝(宮中の殺人事件に、北家の藤原基経から迫られ退位)
 仁和3年(887) 阿衡事件(藤原基経と宇多天皇の間での政治紛争)
 延喜元年(901) 菅原道真の配流をへて
 安和2年(969) 安和の変(左大臣源高明の失脚)で終わる
 これらの事件をつうじて興味を引くのは、藤原氏の陰謀的性格であり、ついで、これらの陰謀によって排斥された人々の怨霊に、天皇や貴族たちが、いかに悩んだかということ、皇室内部に近親結婚がさかんであったこと、民衆の貧窮や苦悩を無視して豪奢な生活が展開されていることである。『京都府の歴史』28

天禄 1年(970)4月 2 日 京都、祇園御霊会が官祭として行われる

天禄2年(971)4月 2 日 京都岩倉、大雲寺の建立 東側に石座明神を勧請
*大雲寺は紫式部の曾祖父藤原文範(ふみのり:日野中納言文範)が娘婿藤原佐理(さますけ:実頼の養子)の出家に際して、その山荘地の一部に建立したもので、園城寺の別院。この頃、長谷に普門寺・解脱寺など天台宗の多くの寺院がつくられた。解脱寺は藤原道長の姉である東三条院藤原詮子(せんし/あきこ:円融天皇女御)が園城寺観修を開山として建立された。
・この地域は高台でまだ開発が進んでいなく、人々は現在の下在地町附近に住んでいるようです。
◎この大雲寺が守護神として現・山住神社の石座明神を勧請しました。「岩倉山」「石座」の文言は、恕融が元禄11年(1698)『大雲寺堂社旧跡纂要』著作のときに使用しています。その後に、八所明神となります。

天元 3年(980) 京都岩倉、岩倉大雲寺観音院を御願寺とする『小右記目録』
◎上記から970年代に建立と予想されます。
*[御願寺]は平安時代に盛行した、天皇・上皇・皇后の御願を修する寺院です。、、あくまでその天皇一代の御願のみを修する寺院でした。主に都があった京都近郊にありました。、、御願寺となると、定額寺として一定の寺料・所領が給付される。 Web『かげまるくん行状集記』

寛和 4年(985) 京都岩倉、昌子内親王が大雲寺 観音院を供養する『日本略記』
・冷泉天皇皇后・昌子内親王(950-999)が、大雲寺の十一面観音を厚く信仰された。観音院には講堂をはじめ、五大堂・灌頂堂・法華堂・阿弥陀堂・真言堂の六堂を備えていました(『扶桑略記』)。観音院は昌子内親王陵である、今の岩倉陵あたりにあったとされます。

正暦4年(993) 大雲寺、延暦寺の余慶僧正に率いられ門弟千余人が逃れてきた
*寛和元年(985)延暦寺天台座主をめぐり、第三代円仁の門弟と第五代円珍の門弟が激しく争う。
*円珍の門弟が西暦4年比叡山から逃れ琵琶湖畔園城寺(三井寺)へ走り、さらにその一部が岩倉の大雲寺へ逃げてきた。以後、延暦寺の山門派と寺門派(三井寺・大雲寺)とに分かれる[雲母坂 Map]。赤山禅院前の雲母坂を通って来たのであろう。[円珍と余慶]
◎(平安京、東寺・西寺の)西寺が焼亡する(『小右記』)。貞観6年(864年)までに薬師寺から僧綱所が西寺に移転された。

正暦5年(994)5月3日 京都、堀川の水が死人によってあふれる
*看督長らが死体を掻(かき)流す。5月15日疫病の流行によって、官人宅や京中の辻ごとに設けた高座で仁王経を講じる。同月、三条南、油小路西の井戸水を飲めば、疫病を免れるとの噂が立って、京中の男女が争ってこれを飲む。6月16日疫神が横行するとの噂によって、京中の人々はみな門戸を閉じる。6月27日疫神を船岡山に祀って今宮社とし御霊会を行う、この年、疫病が流行し、京中の死者は五位以上の貴族だけでも67人に及ぶ。(出典『本朝世紀』)『京都の歴史』十巻年表より
◎「6月16日疫神が横行、、」は、祇園会(祇園祭)は、970年より官祭として旧暦6月7、14日に行われていますから、祇園会の直後になります。
・(平安遷都~1270年頃までの調べ 『京都の歴史』十巻年表)鴨川堤の決壊、氾濫が6月に多い。それに大風・大雨により火災、倒壊、そして神社・宮殿・民家の焼亡が甚だ多し。焼亡という文言がやたらと出てくる。内裏に始まり有名どころ悉く寺院はほとんど焼けなくなっている(再建しているが)。台風といわず大風といっている。ともかく、火事、鴨川の氾濫、疫病、大風、地震、そして盗賊、群盗という表現もある。僧徒、大衆、神人の文言が頻繁に出てくる。
[京の風水害など]

長徳3年(997) 京都岩倉 大雲寺の石座明神に七明神を勧請、八所明神社となる
*大雲寺(慶祚阿闍梨)鎮守石座明神に高徳の七明神を勧請し、八所明神社となる(恕融)。
*先の石座明神に、八幡、賀茂、松尾、山王、春日、住吉、新羅を加える。

*平安から鎌倉時代にかけて、荘園領主は、自分の荘園に神社を勧請するのを通例としていた。勧請社には、領主にゆかり深いものが選ばれるのが普通で、藤原氏の場合は氏神の春日大明神、山門の場合には守護神の日吉社といったぐあいである。このように神社が勧請されるのは、農民に対する精神的支配を意図してのことであった。たとえば、農民は年貢を未進みしんしないということを領主に約束するためには、この神に誓う起請文を領主にさし出さなければならなかったし、また、領主の指示に反するときには神の怒りを覚悟せねばならなかったのである。荘民にとって勧請社の神は、領主権力そのものであったとさえいえる。このように領主の権力の守護神として出発した荘園の神社は、室町時代になると村の鎮守に変質し、農民結合の紐帯ちゅうたいに移り変わってくるのである。『京都の歴史』三巻 近世の胎動292

長徳5年(999) 朝廷、僧侶が理由なく京に住み住宅を構えること禁ず
*僧侶を装って寺を構え仏像を置くもの、またその従者のような顔をして、僧の乗用の牛車を置く施設、車宿と称するものを建てて、そこに住み着いているものが多い。都じゅうが牛だらけで放牧地のようになっている。朝廷・摂関家の祈祷命令で来るもの以外は入京を禁止する。『寺社勢力の中世』58
都の人の糞尿(屎尿)はいうに及ばず、牛も糞に蠅がたかり疫病発生の原因になるか。

長保3年(1001年) 京都、清少納言の「枕草子」がほぼ完成
清少納言せいしょうなごん(966?-1025年?)、平安時代中期の女流作家、歌人 。「枕草子」は妄想を多く含む創作。天元4年(981)頃、陸奥守・橘則光(965-1028年)と結婚し、翌年一子則長を生むも、武骨な夫と反りが合わず、やがて離婚した。1000年に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。『春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。、、』「枕草子」の冒頭。清少納言の「枕草子」は、鴨長明の「方丈記」、兼好法師の「徒然草」と並んで日本の三大随筆の一つとされる。
・「もののあはれ」は、江戸時代後期の国学者本居宣長(1730-1801)が、紫式部(970?-1019年?)の著作『源氏物語』にその頂点があると提唱した。紫式部の墓と伝えられるものが(現、堀川北大路下ル西側)に残されており、小野篁の墓とされるものに隣接して建てられている。また、紫式部邸宅址とされる廬山寺(ろざんじ)に歌碑が残されている。

長保3年(1004年)7月、深刻な干魃が続く『御堂関白記』
◎安部晴明(921誕生)は陰陽師賀茂氏に陰陽おんみょう道を学ぶ。のちに両家は二大陰陽道宗家となる。961年6月以降に陰陽師(官職)に任じられた。一条天皇や藤原道長の信頼を集めたことが、道長の日記『御堂関白記』などから覗える。
 1004年、一条天皇は、安倍晴明に雨乞いの五龍祭を行わせところ雨が降り、晴明の力によるものと認めた。陰陽師として名声を極めた晴明は、左京権大夫(京職)、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇った。1005年没(83,4歳)。「墓所」は京都渡月橋の近く。一条戻橋近くの「晴明神社」は屋敷跡で、大阪市阿倍野区の「安倍晴明神社」は生誕地であるという。

長和5年(1016) 藤原道長、摂政に就任
【藤原道長】(966-1028) 藤原北家、兼家の五男(または四男)。長徳元年(995)6月に左大臣。長女彰子(紫式部がつかえた)を12歳で一条天皇の女御とした(999年)。すでに道隆(兼家の長男)の娘で皇后定子がいたので、彰子はその翌年2月に中宮となった。、、次の三条天皇(眼病を理由に退位)には次女の妍子を入れて中宮となす。、、1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇(彰子の子)には三女の威子を入れて中宮となし、、後一条天皇の即位を実現し摂政となる(1016年)。一家で三后をだすことになる。このとき"この世をば 我が世とぞ 思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば"(この世界は自分のためにあるようなものだなあ。満月のように欠けたところがない)を詠む。
土御門第つちみかどていは、摂政・太政大臣になった藤原道長の邸宅で、拡充され南北二町に及び、上東門第、京極第と呼ばれる(邸宅は藤原朝忠が建てる)。一条天皇の里内裏となった当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、ここで誕生しました。上記の歌は、この邸で催された宴席で詠まれました。1016年の火災で焼失したので、二年後に改築しましたが、その寝殿は一間ずつ国司にわりあてられました。
・道長54歳ですでに老衰して「容顔老僧の如し」、、まもなくして法成寺(東京極大路の東、京極御堂とも称され、京都府立鴨沂高校校庭の塀際に法成寺跡を示す石標がある)建立の工事をはじめる。その阿弥陀堂は、桁行11間の一間ずつを受領に割りあてた。子の関白頼道が、国家の税はともかく、堂の造営に尽力せよと命じたと伝えられるのもこのときである。諸国の荘園からは毎日500~1000人の人夫が、また国司からは人夫・木材などが送られた。仏師100余人、大工300余人もはたらいていたという。、、法成寺の壮麗さは頼道のつくった宇治の平等院でしのぶよりほかない。『京都府の歴史』36
◎「一間ずつ国司(受領)にわりあて」は、秀吉による全国布告の名護屋城築城や家康による天下普請の江戸城・彦根城築城などの先例だね。
・道長は1019年出家し、土御門殿に隣接する地に、九体阿弥陀堂の建立を発願。無量寿院が1020年完成し、1022年法成寺と寺号を改めた。
法成寺の位置(地図参照)は、京極殿の南東、鴨川西岸、鴨川が氾濫すれば川の中だよ。

藤氏長者とうしのちょうじゃ】藤原一族の代表者として、氏の政治・財務・宗教など全般に関わる。氏領としての荘園や動産の管理、氏寺の興福寺や氏社の春日社・大原野社などの管理があげられる。

  |-武智麻呂*(南家)|-魚名-(-藤成--豊沢-)-村雄--秀郷- -奥州藤原氏
中臣(藤原)鎌足 ---藤原不比等--|-房前*  (北家)--|-真楯-- 内麻呂----冬嗣▽-
  |-宇合*  (式家)----広嗣
  |-麻呂*  (京家)不比等の*四人息子天然痘により737年死亡

 |-長良-基経 --|-時平 ----実頼 -|-頼忠 ---{公任}     
-冬嗣 -|-良房  | |{佐理}       
 | |          
 |-良世 |  |-兼家 --|-道長 --|-敦通    |-頼長
    |-忠平 ---(師輔) -|-兼通||-頼通- --師実---師通- -忠実-|-忠通▽-
      |-伊尹|-道兼      
      |-   (西園寺祖)   
     |-公季 ----------(9代略)--通季---公通--実宗--公経-

 |-近衛基実(近衛家祖)---基通 ---家実 --|-近衛兼経 (近衛家)
  -忠通 -----|-基房 ----------------師家 --× |-鷹司兼平 (鷹司家祖)
 |   
 |-九条兼実(九条家祖)---良経 ---道家 --|-九条教実 (九条家)
    |-一条実経 (一条家祖)
    |-二条良実 (二条家祖)

◎冬嗣(775-826)から全て氏長者。藤氏長者の初代、藤原不比等(659-720)をもって初代とする説などあるが、藤原冬嗣・良房・基経(836-891)の3代いずれかに起源を求める説が強い。{ }付き公任(きんとう)、佐理(さますけ:実頼の養子)は岩倉史に登場するので記した。
藤原文範は長良流で、長良-- 基経(長良三男)の弟・清経(長良六男)-- 元名(清経三男)-- 文範(元名二男) となる。
◎藤原房前の長男は鳥養、三男は真楯。

寛仁3年(1019) 壱岐や対馬、刀伊の入寇
*満州の女真族という民族によって壱岐や対馬が侵略され、そして、筑前まで侵入されたという大事件。女真族とは、12世紀に金を、後の17世紀には満洲族として後金を経て清を建国する民族。
・同年5月4日、刀伊といは賊船約50隻に3,000人をのせ来襲し、いきなり対馬を襲う。お年寄りや子供を殺害し、働ける者は誘拐、、家を焼き略奪を繰り返し、島の人間を346人を連行。国司の対馬守遠晴は島から脱出して太宰府まで逃れた。その後、対馬を離れた50隻の船は壱岐に向かい、ここでも400人もの人々を拉致。襲撃の一報を受けた壱岐の国司「壱岐守藤原理忠」は147名の兵を連れて戦うが、圧倒的な数の差になすすべもなく破れる。次に、4月9日に博多を襲う。しかし、博多には防御施設が整っていたので、3000人の軍勢は侵略がかなわず、大宰権帥だざいのごんのそち藤原隆家と大蔵種材によって撃退される。博多襲撃に失敗した後、今度は、長崎県の松浦に向かうが、松浦党水軍(松浦祖の源知)に破れ、壱岐・対馬まで撤退しする。そして、刀伊は対馬に再来襲のあと撤退し、高麗沿岸にても同様の行為を行うが、高句麗の水軍に敗れてしまう。拉致された日本人300人ほどは高句麗によって保護され日本へ送還された。
【対馬の被害】殺害36人、連行346人(男102人、女・子供244人)この時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され、対馬に帰還
【壱岐の被害】殺害365名、拉致者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名
【朝廷の対応】藤原隆家は4月7、8日に報告書を送り、京都に届いたのは10日後。4月17日のことであり、4月18日には恩賞を約した勅符が発給されているが、主要な戦闘はすでに終結していた。恩賞が約された勅符が出されたのは戦闘の後だったため、6月29日の陣定めで、藤原行成・藤原公任が恩賞不要の意見を述べた。今後のことを考え、、藤原実資は寛平6年(894年)の新羅の入寇の際の例を上げ、、戦闘で活躍した大蔵種材が壱岐守に叙任された。
◎満州の女真族は中国人。高麗は朝鮮人で、日本人によくしてくれた例だ。

万寿3年(1026) 京都岩倉、藤原公任が解脱寺で出家し長谷に隠棲
藤原公任(きんとう)が解脱寺で出家し(『日本記略』)、長谷町から瓢箪崩山へ向かう長谷川沿いの谷(「朗詠谷」)の山荘で、漢詩・和歌を詠む。ここで『和漢朗詠集』が編纂されたようです。解脱寺跡の位置は地元の伝承によると長谷東方の小松原の地とされています。Web 『平安京探偵団』参考

長元元年(1028)9月2日 京都、鴨川氾濫、富小路以東、海のごとし
*同 3日大風雨によって、官舎、民屋が多く被害を受ける。『左経記』491

永承2年(1047)9月2日 木津川市、浄瑠璃寺の創建年
 浄瑠璃寺は平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。

永承6年(1051) 釈迦没後1500年、これより末法に入る
*東国の反乱、天変地異、強盗の横行などは、いよいよ濁世の感をふかめた。浄土教とは、"南無阿弥陀仏"をとなえれば極楽往生ができると説くのであるが、それでは一日に何回となえればよいのか、供養はどの程度にすればよいのか、院政時代の仏教崇拝をみれば、当然起こるべき問題であろう。数で勝負!
 蓮華王院:三十三間堂、1001体の木造千手観音立像がある。後白河上皇が建てた法住寺殿の中に1163年創建。
 法勝寺:白河天皇が1076年創建。六勝寺の一つで、百体仏の供養をおこなった
 得長寿院 千体観音堂:平忠盛が1131年に鳥羽法皇のためにつくる
 白河 千体阿弥陀堂:平清盛が蓮華王院に先だって平治元年(1159)につくっている
 知恩寺(百万遍知恩寺):京都大学北門向かいの(法然が念仏道場として号す)があるが、これはもと今出川釈迦堂と称し、今の相国寺あたりにあったもので、後醍醐天皇の世、疫病退散のため七日間念仏百万遍を修し、、『京都府の歴史』72
◎今出川釈迦堂(現、知恩寺)と千本釈迦堂(「おかめ像」でも知られる大報恩寺、創建1221年:七本松通今出川上ル溝前町)とは別のようである。

【浄土信仰】「阿弥陀仏信仰」のことで、阿弥陀仏を対象とする信仰のこと。阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され、「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない、宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想。

【末法思想】釈迦の教えを受け継いだ人がいる時代(正法)が過ぎると、外見だけの修行僧がいるだけで悟った人がいない(像法)。次の時代は人も世も最悪の時代(末法)となる。末法は、釈迦が入滅した紀元前544年を仏滅紀元1年とし、1500年(紀元1051年)、2000年(1551年)以降の時期ともされる。特に、1051年という年は、摂関政治が衰え武士が台頭しつつもあること、治安の乱れや民衆の不安が増大したことなどが重なった。

永承7年(1052年) 藤原頼通、宇治殿を寺院・平等院に改めた
*9世紀末頃、光源氏のモデルとされる左大臣嵯峨源氏の源融みなもとのとおる(父嵯峨天皇)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となった。これを藤原頼通(道長の子)が寺院・平等院に改めた。鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続し、ユネスコ世界遺産である。

延久元年(1069) 後三条天皇、荘園整理令
*貴族や寺社の荘園が、国司の支配する公領(国衙領)を圧迫しているとして、朝廷は荘園整理令を出す。国司は国内を郡・郷・保など新たな単位に再編し、彼等を郡司、郷司、保司に任命して徴税を請け負わせた。
藤原頼道の娘に皇子が生まれなく、時の摂政・関白を外戚としない後三条天皇が即位。

【座のおこり】由緒ただしい百姓の中から貴族や社寺の寄人・神人・供御人などと称され、荘園から米・魚・貝などを運搬する階層が生じ、彼らは朝廷や社寺の儀式・法要などに特定の座席を占めていたが、俸禄が少ないので、余暇に特定の生産物を取り扱うようになり、やがて荘園領主から特権をあたえられ、寺社を本家として"座"を結成した。そのおこりは、11世紀から12世紀頃で、山城・大和に集中した。山城では寛治六年(1092)の八瀬座、仁平三年(1153)の宇治田原の田楽法師座などが知られている。朝廷諸官衙や貴族に属するもの、大舎人織手座、釜座、藍座などがあり、京中でも、"有徳人"(うとくにん)とよばれる富裕商人が、座を結成している。座のうちで、もっとも有名なものは石清水八幡を本所とする大山崎の油座である。、、

・座で商品が生産・販売されると市が多くたち、貨幣経済が普及し、為替が発達し高利貸商人としての借上かしあげ土倉どそうも発生した。14世紀はじめ、京都の土倉数は300余におよび、そのうち240余(80%)は叡山の支配下にあった。それは叡山の地理的条件や、朝廷の庇護のほか、僧侶中にも祠堂修理のために集めた銭で高利で貸した"山僧"の経済活動があり、、『京都府の歴史』68
祠堂金】 祠(ほこら)、堂(本堂)の修理・管理のため金。「祠」は小さく「社」は比較的大きい。
◎この有徳人が町衆の起源であり、祇園会(祇園祭)の山鉾の出資者でもありました。
【寺社を本家とする座】
 祇園社:柑類、練絹座、綿本座・新座、材木座、生魚座、袴腰座
 北野社:酒麹座 (天授5/康暦1年(1379)初見か)
 大山崎離宮八幡:油座
 石清水八幡:麹座(延慶2年(1309)初見か)
 一条院:塩座、材木座、火鉢造座、槽糖座 『京都府の歴史』68

延久4年(1072年)、白河天皇、後三条から譲位され、20歳で即位
白河天皇(1053-1129)以降、代々の天皇や女御が「勝」の字つく寺を六つ建てた。これを六勝寺と総称する。とりわけ法勝寺(落慶は1077年)の豪華さは法成寺や平等院をしのぐといわれ、、高さ82mにおよぶ八角九重の新意匠の大塔は、東から山をこえて京都へはいると第一に目についたという(法隆寺五重塔は高さ31.5m)。本堂には100の仏像を安置して、、、法勝寺の塔跡は動物園中央(観覧車辺り、噴水池の中に基壇石ありと:京都市動物園、月曜休館日)にあり、敗戦後進駐軍のジープ置場としてこわされた、、『京都府の歴史』52

承暦2年(1078)頃から 比叡山、行人の組織が現れるか
*数が多くても結束がなければ行人は力を持たない。『源平盛衰記』によれば比叡山の行人が組織を持ったのは、1078~1081年の間のことで、金融活動がその台頭原因であったという。、、文章・日記にも11世紀後半以後、行人・堂衆・夏衆という語が頻繁に現れるようになる『寺社勢力の中世』142

 源平盛衰記四には、「そもそも堂衆と申すは、本学院匠召仕ひける童部の法師に成りたるや、もしくは中間法師などにて有りけるが、金剛寿院の座主覚尋僧正御治山の時より三塔に結番して、夏衆と号して花奉りし輩なり、近来行人とて山門の威に募り、切物寄物責めはてり、出し挙げ借り挙げ、入りちらして徳付、公名付きなんどして以ての外に過分に成り、大衆をも事ともせず、師主の命を背き、斯様に度々の合戦に打勝って、いとど我慢の鋒をぞ研ぎにける。」とある。

・寺院の金融活動は、平安時代初期からあり、歴史は古い。『源平盛衰記』は、行人の台頭原因として高利貸活動をあげている。金融業者としては、比叡山・熊野・高野山などが有名である。俗人の金融にくらべて寺社のそれが有利だったのは、仏神のものを借りたのに返済を怠ったりしたら仏罰・神罰があたるという恐怖があったためで、遅滞なく取立てができた。年率100%を超える非常な高利であった。『寺社勢力の中世』115

永保元年(1081) 延暦寺(山門派)が園城寺(寺門派)を攻撃
園城寺の被害:御願寺15・薬院79、塔3・経蔵15・丈六仏18・鐘楼6・神社4・僧房621・舎宅1493が焼失 園城寺の反撃による延暦寺の被害:堂院20・経蔵5・神社9・僧房182を焼きはらう 『京都府の歴史』48
◎同じ天台宗。想像以上に根が深く、武家の衝突にも劣らない死闘を繰り返す。京都では、山門派が祇園社、寺門派は岩倉の大雲寺。

永保元年(1081)4月15日 京都、稲荷祭
*(『帥記』永保元(1081)4月15日条)によれば、七条大路と町小路(現、新町通)との交差点、七条町の南東には稲荷祭(稲荷社、現伏見稲荷大社)の見物場所としての桟敷があり、七条大路を隔てた北側には家がなく、荒畠の状態であったため祭礼見物に来た人たちが牛をつないだという。七条町には鍛冶・鋳物師・金銀細工などの職人や借上などの金融関係者が多数集まり、大いに繁栄した。『明月記』天福2年(1234)八月五日条には、七条町を中心とした地域の焼亡の記事があるが、この地域が日本の財宝を集めたかのような繁栄ぶりであったと。『花の都』

寛治元年(1087) 白河上皇が鳥羽に離宮を建てる
z_heinagaoka *白河天皇が上皇になったとき、院の近臣である藤原季綱すえつな(藤原南家貞嗣流)が鳥羽の別邸を白河上皇に献上し、白河上皇は離宮を建てる。都の西南にあたるので鳥羽離宮(鳥羽殿)・城南離宮ともいう。白河法皇が没すると鳥羽上皇がここで院政をとり、離宮は拡張された。現在の城南宮じょうなんぐうを中心に、東西1㎞、南北1.2㎞におよび、、公卿その他もこの土地をもらって家を建てたから、その移転は、さながら遷都のようなさわぎであったという。ここに従来草津とよばれた草深い鳥羽地方が開けたのである。『京都府の歴史』52など
・鳥羽は、平安京の南約3kmに位置し朱雀大路(現、千本通)を延長した鳥羽作道も作られていた。
・鳥羽殿造営後、平安京から鳥羽への街道は「鳥羽の西大路」と呼ばれた。この時代に平安京の右京は荒廃して朱雀大路は京都市街の西側の道となっていた。淀まで行くと、淀川水運を利用して東は(近江の)草津、南は奈良、西は大坂方面に出る要衝と考えられるが、その後の戦乱で荒廃しどこまで利用されたか不明。 [長岡京はこちら]
城南宮】創立年代は不詳。方除の大社。白河天皇が鳥羽離宮(城南離宮)を造営してからはその一部となり、離宮の鎮守社として代々の天皇や上皇の行幸があった。後代に京都御所の裏鬼門を守る神となったことから貴族の方違かたたがえの宿所となる。方除けや厄除けの神としても信仰される。
【鳥羽作道】遷都以前からの道、鳥羽殿が造営した際に築かれた道とあるが、平安京建設時に淀川から物資を運搬するために作られた道であると考えられる

草津湊】滋賀県の草津でなく、平安~明治時代の初めごろまで、現在の伏見区横大路付近、桂川(葛野川)と鴨川が合流する辺り東岸に草津湊があった。河川改修で、河川の流路が大きく変わるから特定は難しい。草津湊の名前は、現在の伏見区横大路草津町に引き継がれている。運転免許書の更新で「京都府警自動車運転免許試験場」へ行くとき、東側から羽束師橋(高架)を渡るがこの辺り。横大路小学校の北に横大路草津町、その北に下鳥羽南三町がある。
 江戸時代の草津湊は、大坂からの百石船(30石~100石船)が出入りしていて、これより上流は鴨川が浅くなり、荷をここで陸揚げするか小舟に積み替えるようだ。ここには、大坂・和歌山・四国から生魚・米・豆・雑穀・材木などが陸揚げされ、生魚は湊の浜問屋で取り引きされ、「走り」とよばれた仲仕なかし(陸から船へ荷を運ぶ作業員)によって京の都へ運ばれた。魚や野菜の初物を「走り」とよぶ語源とされている。夏の京都を代表する食材に鱧(はも)があるが、鱧は生命の強い魚なので、夏も生きたままで京都に届けられ珍重された。[現在の草津湊]
 次の方は草津湊から乗船したとされる人物とされる。
 菅原道真が九州太宰府に流された(901年)
 藤原道長が宇治の別荘に出かけた
 崇徳上皇が讃岐国に流された(1156年)
 平家一門などが福原遷都に移った(1180年)
 法然上人が讃岐国に流された(1207年)
・秀吉の伏見城築城高瀬川の開削にともない伏見湊(大坂からは三十石船が出入り)が栄えだすが、ここ草津湊は明治10年頃まで伏見、宇治、さらには大津への交通の要衝として栄えた。
◎府立洛水高校の場所が通学・通勤手段少なく陸の孤島と呼ばれていましたが、皮肉にもこの頃は交通の要衝、草津湊でありました。

寛治7年(1093)8月22日 興福寺大衆、近江守高階為家の流罪の要求
*春日神社領近江国蒲生郡市荘に使者を放って荘家を損亡させ、同荘の春日神人を禁獄したと訴える。院近臣為家の行為は、荘園整理令の執行に伴うものであったと思われる。
・同年8月25日 山階やましな寺(興福寺)大衆、「神輿を舁いて入洛するから藤氏の人々は奉迎に参られたし」と関白師実に通告。師実は古今に例なしとして、従わなかった。
◎「神輿を、、藤氏の人々は奉迎に参られたし」とは、たいそうな言い分である。師実は藤原氏の藤氏長者で、関白であるはず。関白他もろとも「奉迎せよ」とは何事か。
*同年8月26日 数千人と称される興福寺大衆が春日神人を率い鋒神木を捧げ鏡鈴を随身して入京し、神泉苑の西隣にある勧学院(藤氏の大学別曹)に集合した。これが伝えられる最初の春日神木の入洛である。
・同年8月28日 為家は土佐へ配流。数日後、大衆は凱歌をあげて引き上げた。「いみじき非道の事も、山階寺(興福寺)にかかりぬれば、又ともかくも、人ものいわず、山階道理とつけておきつ」といわれた。
・大衆に対抗できる武士が登場するのは、嘉保二年(1095)以降であった。
以上、『京都の歴史』二巻中世の明暗 P36など
◎叡山では「堂衆」という文語よく使われるが、高野山と共通に「大衆」としている。

嘉保2年(1095)10月24日 日吉社神輿の動座
*(前日の23日)、延暦寺大衆が訴訟のため宮中へ押しかけるという風聞が伝わったので、殿上で詮議、、新関白藤原師通もろみち以下の公卿は、大衆が参洛するならば、まず検非違使・武士を遣わし、鴨川の河原辺りで防御し、もし日吉神輿をかついで寄せるならば、防ぐに当たって「全く神輿を憚るべからず」と。
・(次の日)24日、美濃国の山門領荘園と山門とのいざこざで、追捕に向かった源義綱が、叡山根本中堂久住者(長期滞在者)の円応験者を殺害してしまった。これに山門大衆は、義綱を流罪に処せられたいと奉書でもって訴える。
・同日、少数の山僧神人(六、七人あるいは三十人ばかり)が参洛したが、河原にて武士がさえぎり、、矢を射て僧3人禰宜ねぎ1人を傷つけたので、他は逃走した。、、それを聞いて大挙下山しようとした山門大衆らは、西阪本に布陣した軍兵に阻まれたので、三千大衆は山王七社の神輿を山上の中堂に振り上げ(根本中堂のことかな)、関白師通を呪詛した。これを「、、神輿登山(日吉の神輿の動座)の初度なり」と記されている(『天台座主記』)。『京都の歴史』第二巻

[背景など]
・1093年3月、熊野山僧が内裏に乱入。8月22日、興福寺大衆が数千人春日神人を率い、鋒神木を捧げ鏡鈴を随身して入京勧学院に集合、強訴する(春日神木入洛の最初)
・1094年5月、少納言藤原家俊が青侍を率いて田楽を行い京中を横行する「嘉保かほうの大田楽」
・1096年6月、京中に田楽が大流行する「永長の大田楽」
 社会不安を反映して、この二つの「大田楽」間でしかも祇園会の日をクライマックスに、人々が熱狂的に田楽に踊り狂い洛中を興奮の渦に巻き込んだ。そんな中、1095年10月に山僧の強訴があり、日吉神輿を担いでいた。神輿動座の最初である。神輿は神の乗物であり、動座とは、座して決して動いてはならぬ存在、神や天皇が動く非常事態である。、、この神輿を射ることを命じた関白師通(父師実は藤原頼道の六男)は、報いとして神矢を眉間に受けて38歳の若さで没した。恐怖の伝説となり、受けつがれることになる(『愚管抄』)。『寺社勢力の中世』53
・師通は腫れ物により38歳の若さで没したのは日吉山王の罰である、と(『京都の歴史』)。[藤原氏]

祇園会は旧暦6月7、14日に行われ、夏の終わりで疫病シーズンの最中である。祇園社境内を流れる鴨川の河原鴨河原には流入民が多く住み着いた。一雨降れば洪水となるこの地域には、病死した人々の死骸が腐敗して地獄絵を展開し、さらに疫病を再生産した。職人たちはここに住んでいたのだ。『方丈記』は、ここを現世の地獄と見た。最高の疫神たる祇園社境内にある鴨河原は、皮肉なことに疫病の発生源でもあった、と記す[1106年の京都、疫病]

*寺社のみが持つ武器が神威である。その積極的な発動が神輿・神木動座であり、それに加えて個人を狙った攻撃性の強い呪詛じゅそ・調伏という恐るべき手段もあった。叡山が語る神罰には、
①神矢を受け死んだ藤原師通(1095年)
②1177年鹿ヶ谷の陰謀の張本人として清盛に斬られた西光(藤原師光)
③神輿を阻止したため狂い死にした佐々木高信(高島始祖)、八王子権現の放った鏑矢に当たって死んだ富樫太郎
④霜月騒動にて滅亡した安達泰盛(1285年)
⑤突然死の足利義詮(1367年)、等を上げている。『無縁所の中世』47

*寺社勢力の僧兵や神人は、仏罰・神罰や武力を振りかざして、朝廷や幕府に対し自らの要求を通そうとした。「南都北嶺」と称された奈良の興福寺と比叡山延暦寺は強訴の常連。興福寺は春日大社の神木(興福寺の宗徒が榊に数枚の鏡をつけた春日神社の神木(『一揆』(勝俣鎮夫))、延暦寺は日吉大社の神輿をかざして(神輿振り)洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置。政治機能を停止させるなどの手段に出た。強訴は1095年が最初とされる。

【僧兵の強訴】勝手に僧兵が集団になり朝廷に押しかけるものでなく、事前に、東塔・西塔・横川の三塔の3,000人の僧侶が大講堂の前に集い、三塔僉議せんぎを開いた後、賛同が得られればその後に実行されるというもの。そのときの議案説明者を僉議者というが、顔や頭は破れた袈裟で包んでいて「鼻を押さえ、声を変えて」発言するので、誰が発言しているのかわからない。また、強訴は、はじめ「嗷訴」と書き、その意味は「ごうごうと威嚇的な声を張り上げて、、相手に認めさせる」という意味だそうだ。どうも、僧侶という教養ある人物だけに、だれであるか特定されぬように、ということであろうか。山上で赤々とたかれる篝火かがりびは、京都のどこからでも仰ぎ見ることができ、しかも篝火が雲母坂を下山する様子は、京の人々にとって「神輿の入京」と恐怖が走った。

【強訴の道】僧侶の大群は、大講堂から西へ、滋賀から京都へ入り、雲母坂を下り西阪本の赤山明神を経由し洛中へ向かう。あるいは、大講堂から東へ向かって山を下り、坂本から大津を経由し白河方面へ出、洛中を伺う。これに対応する朝廷の側が北面の武士の源氏や平氏の武士が多かった。上2つ『法師武者悪僧軍団の興亡』今井雅晴

長治元年(1104) 白河院が院政を開始し10年 京都は騒然
2月、石清水八幡の神人が強訴を企てる
3月、延暦寺と園城寺との間で紛争
6月、越前の気比社の神人が上洛し、越前の国司、高階為家の非法を訴える
10月7日、道長の曾孫で内大臣能長の息、藤原長明が、洛中の自宅で強盗に殺される
10月30日、朝廷は3月以来続く叡山の争乱を鎮めるため、在京する叡山悪僧を捉えさせる
11月、天皇が宮中で伊勢神宮などを遙拝して、諸寺社の僧徒・神人の乱行が鎮まるよう祈願
 当時、京は経済の上では「叡山門前としての京」という性格が濃厚であった。、、王朝国家が行った地方政治は、国司に一国の全権を委ねて放任するものであった。国司(任期四年)は税制や税率さえも勝手に決定できる独裁者であった。、、藤原長明の子のうち二人は山層(阿闍梨定範・腰(?)禅師信賢)、一人は興福寺僧になっている。皮肉なことに、長明は山層の家の始祖でもあるのだ。寺院に入ることは、国司になることならび、傍流貴族の子弟にとってもう一つの花道だ。彼らは寺内で学侶身分になる。 『無縁所の中世』22~31

*白河法皇は、院の御所に「北面の武士」(康和年間(1099〜1104年頃、上皇の警護)を組織したり、源平の武士を側近にするなど、院の権力を強化し、ついに堀河天皇の死後には本格的な院政をはじめた(山川)。胸中は賀茂川の水、双六のさい、山法師。これぞ朕が心にままならぬものと延暦寺の強訴を嘆いた。
白河上皇は二つの御所(北殿と南殿)を行き来しながら政務を執った。
[白河南殿]:1090年頃、白河天皇が建立した法勝寺別当・覚円の僧院が元で、白川泉殿または白河御所と呼ばれた。1115年、白川泉殿改築。1118年の白河北殿に対して南殿と呼ばれる。
[白河北殿]:1118年に白川泉殿の北に新たに御所を造立。
【北面の武士】嘉保2年(1095)、白河上皇は居住の北側に常駐させる。範俊(護持僧) 、平忠盛(清盛の父)、源重時、源義朝(頼朝の父)、藤原秀康など数百人いたという。

白河天皇の在位は1073-1086年、上皇として1087-1095年、法皇として1096-1129年(77歳崩御)。
 子の堀河天皇(5歳で即位、1107年崩御)が幼少、さらに孫の鳥羽天皇(1123年退位、崇徳天皇在位1123-)がやはり幼少で即位後は、藤原摂関家の当主藤原忠実が若年だったこともあり、1087年以降は、ほぼ独裁的な権力を行使する。これが「院政」の始期とされる。白河上皇は1096年に出家、これ以降を法皇と後世称している。大治4年7月7日、77歳(数え年)をもって崩御。

【歴代天皇と藤原氏
40代天武天皇・夫人に藤原氏(中臣鎌足(614-669)の娘五百重)
42代文武天皇の妻・藤原宮子(藤原不比等の長女)
44代元正天皇独身女性にて天皇、結婚なし
45代聖武天皇の妻・藤原光明子(不比等の女)
46代から48代まで藤原氏と無関係か
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49代:藤原産子の父親は不明だが、藤原百川(式家祖の八男)という説がある
50代:藤原乙牟漏は父・藤原良継で藤原式家出
51代:藤原帯子は皇太子であった安殿親王(後の平城天皇)の妃となるも、平安遷都に当る延暦13年(794)病没する。子女は無し。父は藤原百川
57代:摂政・藤原基経(836-891)と陽成母である高子の兄妹間の不仲と権力争いがあったと

49光仁50桓武51平城 52嵯峨53淳和54仁明  55文徳56清和57陽成
 高野新笠 藤原乙牟漏 藤原帯子  橘嘉智子 正子内親王 順子   明子 高子  ?
 藤原産子     高志内親王 沢子  多賀幾子 多美子 
           
58光孝59宇多60醍醐 61朱雀62村上63冷泉 64円融65花山66一条
 班子女王 温子 穏子  煕子女王 安子 懐子  詮子 忯子 彰子*
 佳美子 胤子   慶子  超子   姚子 定子
           
67三条68後一条69後朱雀 70後冷泉71後三条72白河 73堀河74鳥羽75崇徳
 妍子* 威子* 嬉子*  寛子 馨子内親王  賢子  篤子内親王 泰子 聖子
   禎子内親王  歓子 茂子   苡子 得子 
           
76近衛77後白河78二条 79六条80高倉81安徳 82後鳥羽83土御門84順徳
 多子 琮子 姝子内親王   平徳子(入水)  九条任子藤原麗子 九条立子
   育子        
[解説]
・藤原冬嗣(北家)の長女順子が54代仁明天皇の女御に(833年11月)なって以来、78代二条天皇まで、藤原氏(すべて北家と思われる)の女性が皇后、中宮、女御となって傍らにいる(最大2名まで記す)。藤原冬嗣(775-826)は55代文徳天皇の外祖父。左近衛大将。没後まもなく正一位を追贈。850年の文徳天皇即位にて太政大臣を追贈。
・上記の49代から51代と、54代から78代の姓なし夫人いずれの方も藤原氏出身。66代から69代の(*)印は、いずれも藤原道長の娘。70代後冷泉天皇の寛子は藤原頼道の娘、歓子は関白藤原教通の三女、いずれも男子ができなかった。そればかりか71代に疎遠な後三条天皇(母は禎子内親王)が即位(1068年)。
・79代:天皇若崩御。80代:平徳子は平清盛の娘にて、はじめて藤原氏と無関係摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士が台頭する時代へと移ることになる。

長治2年(1105) 京都、長治の強訴
*史上初めて山層が日吉神輿をかついで入京し(天台末寺の祇園神人が神輿をかつぎ出して参加(『京都の歴史』二巻中世の明暗))、祇園社を拠点に大内裏の正門である陽明門に迫った。要求は、太宰府で比叡山の悪僧を追捕した太宰帥季仲と、京都で神輿動座を阻止した検非違使憲政の罷免である。検非違使別当の宗忠は憲政をかばい山層を激しく非難。(嘉保の動座の際は神輿は入京せず)、、京都のみならず、九州の諸社や紀伊国鞆淵荘でも神輿が振られている。『無縁所の中世』35
『中右記』藤原宗忠著:宗忠26歳の元旦(1087年)から1138年まで書いた日記。「中御門右大臣の日記」を略して『中右記』と呼ばれる。

嘉承元年(1106) 京都、疫病が流行
*疫病が流行し、街や河原に骸骨が積みあげられたにもかかわらず、連日のように田楽踊りが興行され、街では刹傷事件があちらこちらでおこるという末期的症状をていしていた。『京都府の歴史』51

【田楽】古くから田植に田植歌や囃(はや)しをすることは各地にあり、それが芸能の域にまで達したもの。とくに中国地方の山間部や、四国の一部では近年まで盛んに行われている。社寺の祭礼(田植え神事)などに、田楽躍りを中心に奉納芸能を演じた芸能者集団は、法師形をしていたことから、田楽法師の名で呼ばれた。
 時代が下ると、祭礼奉仕の職業芸能者は座を結成して社寺への勤仕権を確保した。田楽においても同様で、平安時代末期には複数の田楽座が結成された。京都の祇園御霊会、宇治の離宮祭(宇治神社)、奈良春日若宮御祭(おんまつり)をはじめ、延暦寺、園城寺、東大寺など大社寺の祭礼にはかならず田楽座が出勤している。
 『日本紀略』長保1年(999年)4月10日条には、京都松尾社の祭礼に山崎の津人による田楽が恒例として演じられ、このとき大がかりな喧嘩のあったことが記されている。淀川河原の山崎津(やまさきのつ)は、芸能者などの集まる散所(さんじょ)の一つといわれ、この田楽は専業芸能者の所演であったと思われる。
 平安時代後期、貴族御覧の田植行事や職業的な田楽芸能者が世に迎えられると、都の貴賤がその姿をまねて練り歩くことが爆発的に流行した(風流田楽)。『ジャパンナレッジ』

永久元年(1113)閏3月20日 京都、延暦寺が神木を奉じて入京
3月20日、興福寺がその末寺清水寺の別当に叡山出身の円勢を任じたのは不適当と主張。延暦寺が神木を奉じて入京 (殿暦)
3月22日、朝廷はこれに屈し、円勢に代えて永縁(興福寺系)を補任 (殿暦)
3月29日、延暦寺大衆数千人が清水寺を襲撃、堂舎・僧房100余を打ち壊し、法皇御所に参集。興福寺衆徒による祇園社神人暴行を訴える。白河法皇、権少僧都・実覚を流罪として延暦寺を慰撫 (殿暦)
4月5日、裁定の撤回を求め、京中で延暦寺大衆と対峙 (中右記)
4月10日、朝廷が両寺に勅命。僧徒が兵仗を帯びて上京する事を禁止 (中右記)
4月29日、延暦寺攻撃を企図。朝廷、平正盛・平忠盛・源重時を宇治に派遣 (中右記)
4月30日、合戦となり衆徒追却(永久の強訴)(中右記)

・入れ替わり立ち替わり南都北嶺の興福寺と比叡山の悪僧たちが、朝廷に強訴を繰り返した(永久の強訴)。法衣でなく甲冑で身を固めた悪僧たちが合戦寸前の状態でにらみあったという。朝廷は検非違使と源平の武士、つまり警察と軍隊を動員してこれを制止しようとした。このときの源平の武士と言っても傭兵である

保安2年(1121)5月27日 京都岩倉 山徒が大雲寺観音院と一乗寺の房舎を焼き払う
◎大雲寺観音院と一乗寺の房舎を、延暦寺の僧兵が焼き払う『百練抄』
◎「1121年閏五月、三井寺僧徒による延暦寺修行僧の殺害を発端に、山徒、三井寺の塔堂を焼き、廃墟と化す」と園城寺(三井寺)Webページにあり。大雲寺まで延暦寺僧兵が行きましたか。
*「僧兵」は大寺院を守る下級の僧で、延暦寺・園城寺・東大寺・興福寺という畿内の四大寺院には最も多くの、それぞれの僧兵を抱えていた。平安・鎌倉時代のどの記録や文書を探しても「僧兵」という言葉が見当たらない。それも道理で、江戸時代になっての造語である。実際には「法師武者」と呼ばれていた。、、袈裟で頭を包み、甲冑を着け、薙刀を手に持ち、太刀を腰に吊るしている。 (『法師武者悪僧軍団の興亡』今井雅晴)
◎この頃、武器を持って戦う相手は同じく僧。戦国期は一向宗(浄土真宗)・切支丹が武器を持って戦うが相手は戦国大名。[僧の強訴]

保安4年(1123)7月、 延暦寺の僧兵、源平の武士に撃退される
*強訴をかけてきた延暦寺の僧兵を、京都の賀茂河原で源平の武士が撃退する。この時、僧兵は神輿を振り捨ててにげてしまった。、、神輿には日吉の神が乗っていらっしゃる、、困った朝廷では、結局、延暦寺の要求を承認し、神輿を新しく作り替えて日吉神社に送り届けたのである。『法師武者悪僧軍団の興亡』今井雅晴
・このとき、山僧は日吉七社の七基の神輿を奉じて京都へ入ったが、平忠盛(清盛父)・源為義(義朝父)らに打ち破られ、鴨河原に神輿を打ち捨て帰山している。『京都の歴史』二巻中世の明暗

保延元年(1135)、 藤原敦光(下級貴族)の嘆き
*同年、前年の風水害と今年の春夏の飢饉の被害を分析し、「諸国の土民が、税を逃れるために、あるものは神人じにんと称し、あるものは悪僧あくそうとなっている。わがもの顔に横行して国司の職務を妨害している。天災でなく人災だ」と嘆く。官吏の立場からの発言なので、国司の悪行には一言も触れていない。この「神人」「悪僧」が寺社勢力の正体である。僧侶・神人は課税されない身分である。『寺社勢力の中世』59

*京都府下は、、有名な荘園は少ない。山城では階層化が進み、豪族の勢力は解体して名主層が進出するが、力が弱いから名田を権門勢に寄進するか、その寄人・神人・舎人・供御人となって貴族の邸宅や行列に奉事するとか、産物を貢献するとかした。これからを公事という。そして"供御人の座"のように、商工業者の団体が発生し、武士になるものは少なかった。『京都府の歴史』40

【12世紀ごろの平安京】
z_heian まず、右図で現在の京都駅・府庁の位置(緑○印)を確認してください。
[地図の解説](地図2)
①桂川や鴨川の通過や合流で、右京南部(地図では左下)は低湿地で早くから荒廃し、貴族の邸宅は左京北部(右上)に集中する。
②北山から市街地にかけては急斜面で、都市部の開発には北山の樹木が伐採された。大雨になれば水の流れは激しく蛇行しながら鴨川に流れ込む。低湿地の東洞院通(高倉通)と大和大路ではさまれた帯状地域(緑色)は、常に洪水の危険性があった。市街地は、南北の堀川小路辺りから東京極大路辺りで、堀川小路より西は荒廃し田畑になってしまった。
③東京極大路の一本東に、新しく、東朱雀大路(近衛通から二条まで)ができた。
④今の「河原町」は、まさに鴨川の河原だった。ここに多くの流入民が居住していて、水害の被害に遭い、疫病の発生源にもなった
⑤今の「寺町通」は、三条以北では東京極通と一致し、以南では少し西にずれている。この通りの由来は、天正18年、秀吉が通りの東側に約80ほどの寺院を集めたことによる。この北域は、特に平安京屈指の高級住宅街であった。

『、、中世の京、、かって鴨川の西にあった平安京は、完全に消えてしまった、、内裏、大内裏が荒野になったが、それだけでない。宅地はもちろん大路・小路さえ廃絶して多くは田畠となり、わずかに残った大路・小路の路面には、民家の田畠がはみ出して道幅を狭めた。、、平安京の東限だった東京極大路の一本東に、新しく、今朱雀大路(東朱雀大路)ができた。場所としては鴨河原の真ん中にある。、、今朱雀とは「今」の「朱雀」、当時の人にとって「現代の朱雀大路」であり、中世の首都のメインストリートと位置づけられる。(寺社勢力の中世P33)』
『大ざっぱにいえば京は、上京、下京、河東の三つの都市の複合体である。ただ南北朝時代の上京はまだ小さく、ここが発達するのは、1378年、足利義満が幕府を花の御所に移転してから以降である(寺社勢力の中世P36)』と、「応仁の乱」以前、すでにその規模を縮小し、東寄りの市街地になっている。

【法勝寺の八角九重塔】は承元2年(1208)に落雷による焼失。 五年後に栄西により再建されるが康永元年(1342)に近隣からの延焼により再び焼失。北朝により再建が計画されるが再建には至らず。法勝寺は応仁の乱最中の1468年8月21日、青蓮院などとともに焼失。

【六勝寺など建立年】
 法勝寺(1076年)、白河天皇の在位 岡崎公園、京都市動物園周辺
 尊勝寺(1102年)、堀河天皇の在位 岡崎最勝寺町付近
 最勝寺(1118年)、鳥羽天皇の在位 岡崎グラウンド西側から京都会館までの間に位置
 円勝寺(1128年)、「勝」を後から付ける。京都市美術館の位置と推定
 成勝寺(1139年)、崇徳天皇の在位 推定地はほぼ京都市勧業館の敷地
 延勝寺(1149年)、近衛天皇の在位 京都市勧業館敷地西端から東大路通の西端付近
※ 円勝寺は女院である待賢門院が建立で、これを除くものを「五勝寺」と呼んでいた。5代にわたる天皇が「在位中」に建立を始めた「天皇の御願寺」。後に、上記六つを六勝寺という。いずれも中心伽藍として金堂をもつ。後世の維持管理は停滞し、応仁の乱以降はほぼ廃絶した
その他に
 法住寺(太政大臣藤原為光が986年頃建立) 三十三間堂廻り町655に現存。
 法成寺(藤原道長が1020年の建立) 鎌倉時代の大火・兵火等の災難より伽藍は荒廃。
吉田兼好(1283?-1352)は『徒然草』の中で、無量寿院(法成寺の別名)およびその9体の丈六仏と法華堂のみが残っていることを記し、「世の無常」の例えとしている。現在、京都府立鴨沂高校校庭の塀際に、この辺りに法成寺があったことを示す石標が残る。最盛期には、諸国受領の奉仕を受け、十斎堂、講堂、経蔵、西北院、金堂、五大堂等と次々に堂舎が建てられ、その規模は東西2町・南北3町に及ぶ。
[高野山参り・熊野参り]

保延2年(1136)3月12日 延暦寺僧兵が大雲寺観音院の堂舎を焼き払う『中右記』
保延6年(1138)3月 山門派(延暦寺の僧兵)、三井寺(寺門派)を焼く
永治2年(1142)3月 寺門派、延暦寺を焼く

保延4年(1144) 西行、出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲
*保延6年、西行法師(1118~1190年)出家23歳。俗名は佐藤義清。武士であり、僧侶、歌人。出家後は心の赴くまま諸所に草庵を営み、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。河内国石川郡弘川(現、大坂府南河内郡河南町弘川)の弘川寺(現、龍池山瑠璃光院弘川寺)入寂。享年73。『千載集』に18首、『新古今集』に94首。後鳥羽院、宗祇、芭蕉など、後世に与えた影響は極めて大きいとされる。
「都にて 月をあはれと おもひしは 数よりほかの すさびなりけり」
「飽かずのみ 都にて見し 影よりも 旅こそ月は あはれなりけれ」
「心なき身にもあはれはしられけり鴫立しぎたつ沢の秋の夕暮」。

中国の宋銭が日本に流入し、宋元通宝、太平通宝などが本格的に流通したのは12世紀後半からであった(ほぼ全アジアで流通)。それ以来中国の銭貨を使用しているが、元では銅貨不足により紙幣が基本通貨であったため日本への流入はほぼなく、次の流通は明銭である。明(1368~1644年)の初期には銅貨を中心としていて、日本にも永楽通宝や洪武通宝が入ってきたようだ。鎌倉幕府の流通禁止も効果がなく13世紀には黙認されるようになったという。
 鎌倉時代から南北朝時代・室町時代にかけて幕府や朝廷による貨幣の発行はなく、民間では輸入銭をもとに硬貨の発行を始めた。しかし、金属貨幣の流通は不足していて、そのたびに物品貨幣(絹、布、米)が重要となった。東国は絹と布、西国は米が用いられる傾向があった。[元との交易]

保元元年(1156)7月 保元の乱
◎崇徳上皇と近衛天皇(崇徳の弟)、藤原家内部の対立である。同月9日夜、崇徳上皇と藤原頼長が白河殿(北殿南殿、図はこちら)にうつると、天皇方は東三条邸にうつり、11日夜明け白河殿に矢討ちをかけ勝敗はいっきょに決した。勝利は天皇方で藤原忠通(関白)、武将に源義朝(200騎)・平清盛(300騎)らと他に信西、敗者の上皇方は藤原頼長(藤氏長者)、武将に源為義(義朝父)・平忠正(清盛叔父)らがいる。上皇方は13日よりぞくぞく自首、崇徳上皇は讃岐へ源為義は伊豆へ流され、源為義・平忠正らは斬られた。源義朝は"親殺し"と悪口され、恩賞やその後の昇進で清盛が有利となり、平治の乱の原因が形成される。この乱で、武士が実力者であることわからしめた。
 崇徳  上皇:藤原頼長(藤氏長者),源為義(義朝父),平忠正(清盛叔父) → 配流
 後白河 天皇:藤原忠通(関白),源義朝(河内源氏),平清盛(伊勢平氏),源頼政(摂津源氏)

保元元年(1156)閏9月 保元新制(保元の荘園整理令)
*古代に創建された東大寺・興福寺・延暦寺・高野山などが、中世には似ても似つかない存在に変質した、、寺院のメンバーに大量の行人・神人が加わり、僧侶の構成が根本的に変わってしまった。後白河天皇は施政方針として保元新制という法令を出す。第一の側近、藤原通憲、法名信西の立案である。[保元新制の法令]『寺社勢力の中世』59

平治元年(1159年) 平清盛の反撃に遭い六条河原の戦いで、源氏が敗れ
◎同年12月4日、平清盛が一家をあげての熊野参りに出発したすきに、藤原信頼・源義朝らは9日夜半クーデターを決行。藤原通憲(信西)は事前に脱出し、宇治田原の山中の穴に身を隠していたが発見され、斬首された。、、16日夜半に、清盛は六波羅邸へ戻る。、、鴨川をはさんで両群乱闘となる。、、義朝の妾常磐は奈良へ落ちのび、、二児今若・乙若をつれ、牛若(義経)を懐にして雪中をさ迷うところを捕らえたという伝説があり、(平治の乱)
*鎌田政清は源義朝が討死するのを制止し、義朝の子や大叔父の源義隆、従兄弟の源重成と共に東国を目指して落ちた。1159年12月、義朝は、郎党わずか八騎と、27日の夜、洛北八瀬・大原から近江の堅田についで、近江路を野路・森山(守山?)の宿・安(野洲?)の河原・鏡の宿と落ち延びていった。 「平治物語」(1220年?)『犬上郡志・高宮町史』
◎「野路駅(宿)」の跡地、旧東海道沿いに復元された萩の玉川跡(草津市野路四丁目)に「あすもこむ野路の玉川萩こえて 色なる波に月やどりけり」と詠った源俊頼の歌碑がある。
【平氏】平正盛 -- 忠盛 -- 清盛 -- 重盛

長寛元年(1163)6月 山門派、三井寺を焼く
◎叡山の僧徒について述べている。長いが、多くのことを教えてくれるので、ここにあげる。[叡山の僧徒]

長寛元年(1163) 延暦寺僧兵が護法寺(北岩蔵に移築)と大雲寺を焼き払う『洞院部類記』
*1163年、叡山側の鞍馬寺と園城寺側の大雲寺が合戦、大雲寺の堂舎・僧房の焼失。その際、近隣の鴨御祖太神宮(下鴨神社)領や家々が灰燼と化し、財産・牛馬が掠奪された。その後鞍馬寺と大雲寺の僧が路頭で争いとなり、同年7月3日に鞍馬寺側が狐坂を封鎖すると、行き来していた鴨御祖太神宮の番役・神人の往還が不可能となり、しかも神人の吉友が斬首されてしまったため、番役・神人が恐れて参勤しなくなったため、鴨御祖太神宮は鞍馬寺に対して、大雲寺との抗争を停止するよう求めている(「鴨御祖大神宮政所牒」林康員文書〈平安遺文3262〉)。
 大雲寺は中世期には荘園のみならず、大雲寺内の検断・水利権を雑掌が有していた(中世期の12世紀後半~16世紀後半で、1467年実相院が現在地に移り、1484年香西氏岩倉へ侵入するまでは)。門跡支配が強化される以前は大雲寺の子坊が合議制で運営していたらしく、その子坊として、、彼らは尚任(尭雲坊)・尚賢(尭仙坊)・尚超(密乗坊)と、教生坊(承舜)以外はいずれも「尚」字を系字としていた(「頼尚等連署起請文案」実相院文書)。
【鞍馬寺】本尊は「尊天」。鑑真が唐から伴ってきた高弟8名のうちの弟子、鑑禎が宝亀元年(770)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。

承安3年(1173)6月、興福寺僧徒と多武峯(延暦寺の末寺)の合戦
*(25日一山消失)同年の果たし状1件の際、藤原基房が、氏長者の立場で氏寺の興福寺に使者を送り院宣いんぜんを伝えた。その模様を『玉葉』(九条兼実の日記、1164~1200年)で見ると、、興福寺トップの僧侶43人が金堂の前に集まった、、延暦寺の末寺である多武峯とうのみね(奈良県桜井市南部)を焼き討ちにした興福寺の非をとがめられる院宣と基房の書簡を伝えた。、、武闘派の学侶のほか行人(東西金堂衆)が大湯屋おおゆやに集まった。だんだん人数が増え、、その数は四、五千人、みな甲冑姿であった。頭は甲で隠れてしまうから、外見上武士と全く同じ姿で区別はできない。彼らは延暦寺側が悪いと言い張って聞かない。、、承久の乱頃まで、行人は公家の日記や叡山の『天台座主記』に、専ら「堂衆」で表現される。『寺社勢力の中世』142
◎集まる場所で仕分けしているようだ。金堂に僧侶43人、大湯屋に武闘派の学侶のほか東西金堂衆が四、五千集まった。いわゆる野蛮・粗暴な「武闘派の学侶」も東西金堂衆と一緒にくくりたい『玉葉』作者の意図が見える。

『多武峰略記』によると、祭神である藤原鎌足(669年)の没後、摂津国に葬られたが、その長男定慧が唐から帰国し、多武峰に改葬し、墓上に十三重塔(今の塔の再建年代は1532年)を建て、多武峰妙楽寺(創建680年、神仏分離以後は「談山だんざん神社」)とした。天暦10年(956)には延暦寺の末寺となる。以後、南都興福寺との関係が悪化し、10数度の興福寺衆徒の襲撃を受けることとなる。

治承2年(1178)3月24日 京都、「治承の大火」または「次郎焼亡」
*東洞院大路との交差点付近から出火し、この大路沿いに朱雀大路までが延焼した。

治承3年(1179)11月 京都、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉
・翌年4月、以仁王(後白河天皇第三皇子)は、源頼政の勧めに従って、平氏追討の令旨

治承4年(1180年)5月 朝廷、平宗盛らを遣わし、源氏方についた三井寺・延暦寺を焼く
◎5月16日、以仁王と源頼政が園城寺に逃れてくる。乗円房阿闍梨慶秀という僧が「窮鳥懐に入り、人倫これをあわれむという本文あり」と叫び、王を匿い平家と戦う、と、、士気を鼓舞。園城寺と対立していた延暦寺の協力を得ることができず。以仁王は南都寺院へ落ち延びる途中、南山城の加幡河原で討死に。園城寺の全所領は没収された。
◎まだまだ園城寺(三井寺)と延暦寺の応酬が続きます。★応酬の記載はこれで止めます。

*京都・奈良・鎌倉などの中心的都市には高級品を扱う手工業者や商人が集まり、定期市のほかに常設の小売店(見世棚)も見られるようになった。これらの商工業者たちは、すでに平安時代の後期ころから、大寺社や天皇家に属して販売や製造についての特権を認められていたが、やがて同業者の団体である座を結成するようになった。大寺社に属したものは神人、天皇家に属したものは供御人と呼ばれた。 『詳説 日本史』102
◎神人が商工業を営むことはすでに承知しているが、逆に、商工業者が「大寺社や天皇家に属して」特権を利用し、商売を営むこともありそうなことだ。
寺僧は複数の寺院に属するにとどまらない。1191年、朝廷は「凶悪の僧徒が寺を離れた後、幕府に属して本寺を悩ますことを禁ず」と命じた。寺を離れることはよくあることなのだ。有利ならは幕府とも結ぶ。1239年の鎌倉幕府法は、山僧を地頭代官にすることを禁じ、任命した地頭は罷免と定める。ただし、叡山を離れた後、永年を経た山僧なら、地頭代に任命しても罪に問わないという但書が付いている。『寺社勢力の中世』174

治承4年(1180年)6月26日 平清盛、都を福原へ
*京から摂津国の福原へ安徳天皇(母、平清盛の娘・徳子:父高倉天皇)・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれる。平氏政権は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画した。計画は行き詰まる。7月には福原をしばらく皇居とする。11月23日には京への還幸となった。京への還幸は源氏の挙兵に対応するため清盛が決断したといわれている。

【変貌する京】「平安京」の市街地が変貌
①平安京の初期は、朱雀大路を中央にして左京(東側)と右京(西側)の市街地からなる(地図1)
②『低湿地の右京南部は早く荒廃し、貴族の邸宅は左京北部に集中していた』この時期は10世紀後半からのように思う。鴨川東の白河北南殿・六勝寺の創建は12世紀に集中する。白河上皇は二つの御所(白河南北殿)を行き来し政務を執った(地図2)
③平清盛の福原遷都の試み(1180年6月)は、平安京荒廃に決定的な影響がある。同年11月京へ戻るが。市街地は、残された左京の部分が上京と下京に2分されている(地図3)
④「応仁の乱の前」の状態(地図4)
⑤応仁の乱(1467-78)、法華一揆(1532)を経過、本能寺の変(1582)当時(地図5)
⑥「桃山時代・秀吉の都市改造前」の状態(地図6)
⑦延宝・元禄の頃、秀吉による御土居が出来ている(地図7)
⑧天明・文化の頃、御土居が部分的になくなっている(地図8)

・大洪水はそんな頻繁に起こるものでない。京の河東(かわとう)に、近江から東山越えの物流街道がある(志賀越え、三条・東山道)。このため、東の地は開けたと思われる。鴨川から伏見への水運はまだない。鴨川の一本西、高瀬川が1611年に角倉了以によって開削され、はじめて高瀬川から伏見を経由し大坂へ物流の水運が開かれた。まあ、鴨川は洪水はあるものの、安定した水量がなく水運として適さないということだろうか。当時の市街地が東へ延び、南へは逆に九条から七条まで後退している。これは京・市街地から伏見までの水運がまだないことを意味する。

s_husimi 【鴨河原の水害や火災】大きな水害は、1098年、1108年、1228年、1427年、1441年とあり、1530年には「声聞師村」(しょうもんじむら)という一つのブロックが流されている(相国寺北東の声聞師池:平安京(地図4)参照)。火事の記録も1125年、1219年、1331年など多数ある。、、洪水時に流されてもいいような仮設的な建物がほとんどだけれども、鴨河原は人家密集地だったのだ。1203年に六条坊門高倉で出火した火は五条坊門京極の河原院を経て、川を渡って河東の六波羅邸を焼いた。河原の民家を伝わって類焼したものであろう。洛中・河東は連続した一つの都市であり、雨が降ると分断される二つの都市でもあった。『寺社勢力の中世』43

治承4年(1180)8月17日 源頼朝が挙兵
*挙兵を前に、頼朝は工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行う。、、[続き]

    |-頼朝(三男)
  |-義朝 ---|-義経(九男)
(河内源氏)-- 源為義 -------|
  |-為義の娘|-定綱(長男)
    :-----|-経高(二男)
(近江源氏)-- 佐々木為俊 ----秀義|-盛綱(三男)
    :|-高綱(四男)
    : | 
    :----- |-義清(五男)
  --重国の娘 

治承4年(1180)12月 近江国、山本義経の本拠地、山本山城を平知盛・資盛が攻める
*山本義経は園城寺と深い関係のあった源頼義の三男新羅三郎義光の流れに属する。父・義定の代にこの山本山の南ふもとに居館を構え、陸路の東山道と水路からの北陸道ににらみをきかせていた。北面の武士として都に出ていた義経は、安元2年(1176)、延暦寺根本中堂の衆徒を殺害した罪によって佐渡に流罪となる。、、治承4年4月、平家打倒という以仁王の令旨が伝えられると挙兵する。、、つづき
◎上記の山本義経の弟・義弘が、京都岩倉の山本氏に繋がるようだ。また源義兼は源義光の弟とある。

文治元年(1185年) 源頼朝を大将とする軍は壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼす
*元暦2/文治元年(1185)4月2日、壇ノ浦で生け捕りにされた平家の者たちが六条大路を引き回され、後白河法皇は六条東洞院(東洞院大路との交差点)でこれを見物した。六条大路の東端の河原は「六条河原」と呼ばれ、罪人の処刑地である。寿永3年(1184)2月14日にも、奈良を焼き打ちにした平重衡はこの大路を引き回されている。後白河法皇は、建久三1192年に六条殿で波乱の生涯を閉じている。『花の都』

*佐々木兄弟は鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。[続き]
【佐々木氏】の系図は[こちら]、佐々木氏の山僧・山徒の関連は[こちら]。[秀義の死後、その子]

文治4年(1188年) 京都、藤原俊成、『千載和歌集』を撰進、名実とも歌壇の第一人者
寂(さび)に積極的な美を見出したのは平安時代後期の歌人藤原俊成しゅんぜい(1114-1204)であると一般に言われる。藤原定家の父。
 去来は「老人の甲冑を帯し戦場に働き,錦繍きんしゅをかざりて御宴に侍りても老の姿有るが如し。」と。
侘(わび)に関する記述は古く『万葉集』の時代からあると言われている。禅宗の影響もあって、満月よりも雲の間に見え隠れするかすかな月をでるようになり、完全ならざるものの美を発見した。藤原定家ていかの「見渡せば花も紅葉もみじもなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」に象徴される無一物の境涯であった。関連用語:佗び茶。

建久年間(1190年~1198年) 佐和山(左保山)砦の名見える(文献の初見)
*最初の築城は、鎌倉時代の近江守護職・佐々木定綱の六男・佐保時綱であるとされる。

建久2年(1191) 延暦寺の強訴
定綱が近江守護になってからは、、貢米を一粒も延暦寺へ納めさせない。怒った延暦寺側では、日吉神社の社僧数十人を出動させ、佐々木庄小脇の定綱邸を襲い、門を叩き割り、城壁を破って邸に放火した。このとき、定綱は京都にいて留守だったが、二男の定重はじめ家来達が防戦して社僧二、三人を殺した。社僧たちは、さっそく、お得意の神輿を担いで京洛になだれこみ、朝廷は山門衆徒の勢いに屈し、、二男の定重は対馬国へ流罪、(その他は下記と同じ)と決定した。叡山の僧兵は、、おさまらず、ついに唐崎付近で定重を梟首の刑に処した。幕府が設立して日が浅いこととて、頼朝は朝廷に抗することができず、『佐々木六角の系譜』19
*[別記] 同年、佐々木荘で千僧供料の貢納を巡り延暦寺との争いが生じる。延暦寺は配下を定綱邸に乱入させ、これを次男の定重が刃傷し神鏡を破損してしまう。この騒動により強訴が起こり、定重は衆徒によって梟首され、長子広綱は隠岐国、三子定高は土佐国、定綱は薩摩国へと配流となる。(wiki)
◎父定綱:薩摩国へ 長子広綱:隠岐へ 二子定重:梟首 三子定高:土佐国へ

◎この頃、比叡山で修行した僧が新興宗教の祖となる
 浄土宗  開祖:法然(1133-1212年)
 臨済宗  開祖:栄西(1141-1215年)
 曹洞宗  開祖:道元(1200-1253年)
 浄土真宗 開祖:親鸞(1173-1262年)
 日蓮宗  開祖:日蓮(1222-1282年)
・鎌倉時代に、親鸞による浄土真宗、日蓮による日蓮宗、栄西による臨済宗などが現れると、既得権益者である天台宗は新興宗教に対して激しい抵抗を繰り返しました。

建久3年(1192年) 源頼朝が征夷大将軍
・栄西(臨済宗の開祖)、建久6年(1195年)、頼朝公より地を給わり博多に聖福寺を建立。
*鎌倉幕府は、新興の臨済宗を保護する政策をとり、政争や戦乱によって勢力下に入った荘園や領地を御家人に分け与える一方、一部を寺社領とし、幕府の領地も含めてその管理を禅寺に委ねていた。

【頼朝時代】    |-政所 (公文所)| (諸国) (公領・荘園) 
     |        |→ 守護→ 地頭・御家人  
  将軍 |-問注所     |   
     |        | (京都)  
     |-侍所      |→ 京都守護  
      
      
比叡山の主な収入源は関所と金融と荘園でした。琵琶湖は北陸の物資を畿内に届けるための「シーレーン」だったので、比叡山は「湖上関」という関所を幾つも設けて膨大な通行料を徴収していました。、、金融業は主に日吉神社の神人たちによって営まれ、比叡山の荘園から納められる米を日吉上分米として月利8%という高利で貸し出ししていました。1年間借りれば金利が元本と同額になるほどでした。 『経済で読み解く日本史 室町・戦国』113
*この日吉大社が、平安時代に私出挙を開始する。出挙(すいこ)とは、国が貧農に種籾を貸し付け、秋に利息とともに返納させる制度である。本来は貧農救済制度の一種だったが、利息に目をつた貴族や豪族が私的な出挙、つまり私出挙を行うようになり、暴利を貧った。、、貨幣経済の進展につれて、穀物ではなく銭を貸し付ける「借上」(かしあげ)も登場した。平安時代から南北朝時代にかけて活動した高利貸しのことで、私出挙との関連も深い。土で壁を塗り固めた倉に質草(しちぐさ)を保管したことから、高利貸しは「土倉」と呼ばれるようになる。鎌倉時代の末には、京都にある335軒の土倉のうち、280軒が延暦寺の支配下にあったという(正和年間(1312~16)『京都の歴史』10巻)。こうした延暦寺配下の土倉は「山門気風の土倉」と呼ばれた。彼らは武装集団を囲い、ときには家に押し入って暴力的な取立を行ったという。また、質草として荘園を出す者もおり、債務不履行となった場合は延暦寺のものとなった。応仁の乱で、、僧侶による土倉は姿を消し、族人による土倉がほとんどになってゆく。『あなたの知らない戦国史』104
*琵琶湖の水運をはじめとする交通を押さえた延暦寺は、陸上・水上に無数の関所を設けていた。、、陸上運送業者の馬借や、水上運送業者の問丸(陸上の要所にあったのでは?)も、比叡山の山徒の支配を受けていたようである。さらに、延暦寺配下の清蓮院が、京の呉服商人に課税をかける権利を持っていたことも考えられるという。『あなたの知らない戦国史』105
*長屋王家木簡から「車借」や「馬借」が八世紀前期に存在したことが知られ、運賃を支払って馬や車で運ぶ例は正倉院文章にも散見する。しかし、、、大きく発展するのは、、平安京の出現以降である。『京都と京街道』77

臨済宗が時の権力と結びつき勢力を拡大できたのも、旧来の寺院の権益を削ぎたい幕府の思惑と重なるところがあったのでしよう。大和一国の守護権をもつ興福寺=春日社と、近江の大半に広大な荘園を持つな延暦寺が厄介どころでした。

建久7年(1196年)6月 平知盛の遺子が法師原を糾合
*平知盛の三男知忠が法性寺・清水・白河辺りの法師原を糾合し、早朝一条の藤原能保を襲わんとしたが、鎌倉幕府にいち早く察知されて、知忠とその主従はことごとく討たれてしまった。享年17。二男増盛は僧侶(中納言律師)。早くから出家させられ、1183年の平家一門都落ちの際は、知盛に寺に留められたようだ。増盛自身は罪を問われることはなかったと。

正治2年(1200年)頃 京都、後鳥羽上皇が「西面の武士」を結成
*院御所の西面に詰め所などがあったので、この名がついている。鎌倉幕府の軍事力に対抗して結成したとも考えられる。すでに上皇警護には白河上皇によって創設された北面武士があり、ともに院軍事の中枢を担った。1221年の承久の乱の後、上皇の配流に伴い廃止される。
【西面の武士】河野通政、仁科盛遠、後藤基清、佐々木広綱、加藤光員、土岐光行、藤原秀康(承久の乱の朝廷方主将)、藤原秀澄(秀康の弟)、藤原秀能(秀康の弟)

建仁3年(1203年) 叡山にて学侶・堂衆の合戦が勃発
*どこの寺院でも湯屋の入浴順は、身分により厳しく規定されていた。学侶が先、堂衆が後である。ところが堂衆が先に入浴し、それを学侶がとがめたところ、それに対して堂衆が暴言を吐いた。、、このため叡山の全ての行事、鎮護国家祈祷は、全面的にストップすることになる。、、普段は京都で暮らしている座主が登山し説得するが聞かなかった。、、また堂衆は堂衆専用の湯屋の建設を強行した。、、学侶の行人に対する敵意は、身分差別に基づく偏見に根ざしたものだ。、、1203年に始まった堂衆合戦は10年余り続いた。、、寺院の内部には、学侶がくりょ、②行人ぎょうにん、③ひじりの三身分がある。
①は「学」を本務とし、学侶・衆徒・学匠と呼ばれる、
②は「行」を本務とし、寺院や朝廷の公式行事の場で雑務を勤める下級僧侶、、行人・堂衆・法師原・夏衆・花摘などの雑多な名称で呼ばれる。
③は、寺に定住せず全国を遊行するものが多く、、山伏も聖と同じである。
 『寺社勢力の中世』143
◎高野山では、確かに聖の活躍が多いようだ。叡山の三層ではこちらの見解がよいか。
*建仁3年(1203)10月10日、比叡山堂衆が八王子山に砦を築いて幕府に反抗したので、15日に京都在番衆に出陣が命じられ、葛西重元らも出陣して散々に斬り込んだが、葛西四郎重元、豊島太郎朝経、佐々木太郎重綱など三百名の死者を出した(『吾妻鏡』建仁三年十月廿六日条)。これは、堂衆との合戦で負けそうになった叡山学侶の要請により(幕府が)援軍を送ったのである。学侶にとって堂衆問題は、恨み重なる幕府の手を借りねばならぬほどの大問題であった。『寺社勢力の中世』150 学侶に対して行人が優位になっていく。
弁慶は、叡山堂衆の人物像に該当する。寺院での「行人」は神社の「神人」に相当するということか。

行人・堂衆・衆徒
・「行人」という文言が現れるはけっこう古い
・時代により多少変わるが、堂衆は学侶より下、行人より上で、中下級の貴族や武家・荘官などの出身者が多かった。僧兵を構成したのもこの層だ。13世紀中頃から「堂衆」の語が消えるようで、「行人」の文言にくくられてしまうのか。
延暦寺では、堂衆を行人と同一視されている。
興福寺が守護職を務めた大和国では、国内の武士を自寺の衆徒として組み入れたために同国の武士(大和武士)を指して衆徒と呼ぶ場合もある。
金剛峯寺では、宝徳2年(1450)に学侶(学侶方)・行人(行人方)間で1,000人もの死傷者を出す衝突を起こし、一時木食応其もくじきおうご(出家前は六角氏に仕える武将。「客僧」という立場であり、学侶や行人、高野聖とも異なる存在)や徳川家康の尽力で和議も行われたものの長続きせず、以後も250年にわたって両者の対立が続き、元禄2年(1689)と享保元年(1716)に江戸幕府によって行人に対する弾圧が行われている。明治維新以後、行人・行人方は解体されることになった。
[木食] 木食(もくじき)とは煮た食物を絶ち、木の実を生で食して仏道に精進する困難な苦行である。秀吉のころの木食応其が名高い。

建仁3年(1203年)、北条時政が初代執権に就く
◎1225年、鎌倉幕府の第2代執権・北条泰時が「評定衆」を設置し、幕府政治を有力御家人による合議とする。「評定衆」は、幕府の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを司っていた。その長が執権であり、その地位は北条氏が独占することになる。
【執権時代】
    |-政所         | (東国) (公領・荘園)
    | ↑   → 問注所  |→ 守護→ 地頭・御家人 
  将軍 --執権 |-評定会議       |  
    | ↓   → 引付会議 | (京都) 
    |-侍所         |→ 六波羅探題 
    |      |   ↓ 
        |  守護→ 地頭・御家人 
        | (畿内・西国) (公領・荘園)

【御家人】武士が、源氏の大将義家や義朝や頼朝の幕下になろうとする時には、その所有する土地(これを当時の言葉では所帯と言った)と自己の名を署した名簿(みょうぶ)とをその主君たるべき人に提出する。主君の方ではこの二つを受取って、名簿だけを自分の手に収め、提出された所帯の方は、一旦掌中に収めた形式を採って、改めてその武士にこれを恩給する。それを恩給地という。こうした儀礼的な手続を経たものを御家人と言い、この手続を経て居ないものは身分は武士であっても、それを非御家人となるのである。
 多賀氏が幕府の御家人に加えられたのは、その多賀庄の所領を将軍家(このときは執権北条氏)に提出したからであったという。その所領を、多賀氏は「徳宗領」(得宗領ともいい北条高時の所領のこと)であると言っている。多賀氏としては、鎌倉幕府の支配下に完全に隷属しさえすれば、普通荘園の形式から外れて、複雑にして多岐な課役から脱れることができた。神社寺院権門勢力の荘園においては、本所・領家の系列からの賦課が莫大な数量に達した。 『彦史』上237

【鴨長明】(1155-1216)、鎌倉前期の歌人。下鴨神社禰宜ねぎの家に生まれ、後鳥羽院からの取りなしや、1211年には飛鳥井雅経の推挙を受けて、将軍・源実朝の和歌の師として鎌倉へ下向したものの、受け入られず。失意のうちに出家(近江国甲賀郡大岡寺)。東山、次いで大原、そのあと山城国日野の外山(とやま)に方丈の庵にて、隠遁生活を送った。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、、」『方丈記』1212年成る。(冒頭の一節)。方丈記は、日本人の無常観を表した作品といわれる。
 無常観とは、世の全てのものは常に移り変わり、いつまでも同じものは無いという思想のこと。「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされる。「無常」「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう、と。(wiki)
  安元3年(1177年)都の火災
  治承4年(1180年)都で発生した竜巻、6月福原京遷都
  養和年間(1181-1182年)の飢饉
  元暦2年(1185年)都を襲った大地震
 自ら経験した天変地異をも書き連ねた。歴史史料としても利用される。

z_oumi 【八坂】(はっさか)の地名がはじめて文献上に現れるのは、鎌倉時代に入ってからである。確かな史料としては、多賀社の神官と八坂の庄官との間に紛議、『鎌倉初期八坂庄(その荘官は多賀社の「郡座」衆で御家人でもあった)は日吉社領となっていて、建長頃(1249~1256年)から庄内に新規の神社(日吉大社)を勧請し、その神役を勤任しているという口実で、多賀神社の神役を拒否した』(多賀神社文書)というのがある。
 八坂が中世(鎌倉時代と戦国時代まで)の間、湖岸の要港として、かなり繁昌していたことは、大体が想像がつく次第であるが、、近江商人の先駆として有名な、いわゆる五箇商人の成員として、相当早くから琵琶湖を渡って若狭方面へ通商していた(今堀の日吉神社文書)。 『彦史』上P284

【松原】“松原”という地名は、文字通り村の琵琶湖側、湖岸に沿い松並木があったことに由来する。[続き]

・近畿神社の多くは、鎌倉時代の中期になって、村内氏子の人々によって組織された「座」を持ち宮座)、それによりて年中神事の大小を無事斎行しおわすと共に、村内の秩序維持にも役立てたのであって、、座衆を有した。、、多賀大社の座については、、氏座は氏人と称する多賀氏が神官兼御家人という身分の人々で「祭使役」を奉仕することを目的とし、郡座は多賀氏でない犬上郡内郷々の御家人とか庄官又は土豪の輩を以て組織したもので、専ら、年一度の大祭に「馬上役」を勤仕することを目的としたものである。、、氏座の方が主導権を握ったらしいのは、両座衆の身分から来る差であろう。 『彦史』上241

承久3年(1221年)5月14日 後鳥羽上皇,討幕の兵をあげる
朝廷方が、後鳥羽上皇を中心に、皇権回復を目的として討幕(北条義時2代執権)の兵をあげるが、鎌倉軍は、北陸道・東山道・東海道の三方から京へ向けて進軍する。道々で徐々に兵力を増し『吾妻鏡』によれば最終的には19万騎に膨れ上がった。一方、上皇らの京方は幕府軍の出撃を予測していなく狼狽し総崩れとなり鎌倉幕府軍に鎮圧された(承久の乱)。

官軍:北尾張守護小野盛綱、近江守護佐々木広綱、検非違使判官三浦胤義、幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の長男)、藤原秀康・大内惟信(近畿6ヵ国守護)
参戦拒否:京都守護の伊賀光季は招聘を拒む。親幕派の大納言西園寺公経は幽閉(公経は頼朝の姉妹・坊門姫とその夫一条能保の間にできた全子を妻、頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫) [続き]

寺社勢力は検断不入権を持つ無縁所であった。、、平治の乱(1159年)の時には、敗北し謀反人になった源義朝の叔父を、近江で叡山が討ち取っている。、、承久の乱(1221年)の時には、叡山・南都が張本人の捜査を約束する代わりに、幕府兵による山内捜査を拒絶した。『寺社勢力の中世』106

承久三年(1221)12月21日、興福寺、寺領犬上荘への武士乱入の停止を要求
『 興福寺領 近江国犬上莊  (裏花押)   (春日神社文書)
件庄三升米弁之上、守護人佐々木四郎右衛門尉代敷居庄内責取所当等、兼搦取荘民男女七人、令取公、一荘之間有限寺莭用途、悉關如了、早可被止武士之乱入也、委細之旨、在別解 』と言う一通があって犬上荘に関する最古の文献であるから、諸書ほとんどこれを引用している。 上P213
*信綱は、守護の地位や武力を利用して、強引に多数の所領を獲得したと思われ、「近江一国の内、武威を募りて知行の所領廿一箇所に及ぶ」とまでいわれている(『鎌倉遺文』)。 承久の乱のすぐ後の(上記の漢文の部分)承久三年(1232)12月、犬上荘では信綱の代官が荘内に入り込み、年貢を責めとり、荘民の男女七人を搦め取って荘園を奪ったとして、荘園領主興福寺が武士の乱入禁止を求めている 。一族を倒して権力を集中した信綱の勢威は、きわめて大きなものだったのである。 『新彦史1巻』404
◎佐々木四郎右衛門尉とは佐々木信綱(1181-1242)に相当するようだ。佐々木家で四郎が付くのは当主に多いと(信綱以来のことか)。「搦取」(からめとる:捕縛する)
・古くから犬上荘といい、現在の松原町及び猿萩、すなわち今の猿木町(高宮宿の南東600m程)の氏神が共に春日神社であることも、その昔興福寺領であったことを物語るものである。松原氏は、最初興福寺荘園の荘官であったが、次第にその実権を掌握(荘官→豪族化)していったのであろう。 『彦史』上P267

承久3年(1221年) 近江、佐々木信綱が地頭にて堅田に入領
*承久の乱(1221)の後、佐々木信綱が現地の地頭に任じられたが、佐々木氏比叡山延暦寺下鴨社が漁業権および航行権を巡って激しく争うことになる。
・下鴨神社の御厨が置かれ(1090)、「堅田網人」が「供御人」になったのが端緒で、湖魚を献上する代わりに琵琶湖の漁業権・通行権などを一手に握り莫大な利益を得る。一方、延暦寺山門は堅田周辺に荘園「堅田荘」を成立させ、14世紀後半に堅田の土地支配権を持ち、警察権・関料免除許可権が賦与され、堅田の権限を強化する。三つ巴で争うか。

嘉禎元年(1226) 京都、醍醐寺住僧が勧修寺を襲う
*同年6月19日、醍醐寺住僧200余人が勧修寺を襲い客舎および在家を焼く。
[勧修寺かじゅうじ] 通称名は「かんしゅうじ」。山科区ある真言宗山階派の大本山。本尊は千手観音。創建900年。905年定額寺に指定。開基は醍醐天皇、開山は承俊。皇室と藤原氏にゆかりの深い門跡寺院。1336年の「勧修寺寺領目録」は、その寺領が加賀国郡家荘をはじめ、三河国、備前国など18カ所と伝える。書院前庭には水戸光圀寄進という石灯籠がある。

嘉禎元年(1235年) 藤原定家、嵯峨野の小倉山荘にて『小倉百人一首』を選ぶ
*藤原定家(藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の二男)は、小倉山に時雨亭という山荘を営みここで百人一首を選出したとされる。その時雨亭跡の候補として寺院・厭離庵えんりあん)、二尊院(創建:834-847年)、常寂光院があがっています。そこで、障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫(きごう)して欲しいとの要望を受け、天智天皇から順徳院に至る100人の歌人の和歌を1首ずつ選んで宇都宮頼綱に書き送ったとされています。1241年8月20日崩御。1241年没、享年80。

嘉禎元年(1235年) 佐々木高信と日吉神社との喧嘩で神輿動座
高信は内裏守護の御家人として嗷訴(強訴)を防ぎ神輿を担いだ張本人を捉えた。このため叡山は高信の流刑を要求し、彼は豊後に流された。、、北条泰時はこの処分に異議を唱えた。
・佐々木高信はこの年(1235年)高島郡田中郷の地頭となっている。

嘉禎2年(1236年)、石清水八幡宮と興福寺で荘園の奪い合い
*大和・山城国境の荘園の奪い合い。両者の喧嘩は激しくなる一方で、もてあました朝廷は幕府に救援を求めた。、、それまで全国で唯一、守護・地頭を置いていなかった大和に、守護を設置し興福寺領荘園に地頭を置く構えを見せて威嚇した。[石清水八幡宮]

延応元年(1239) 鎌倉飛脚・六波羅飛脚「吾妻鑑」
*京・鎌倉の幹線道路の飛脚や早馬も考案され
  飛脚:六日か七日  毎日17里(66.8km)乃至20里(78.5km)
  早馬:延応元年(1239)年5月20日未刻(午後2時)に京 23日申刻(午後4時)には鎌倉に着いた。人馬を変えながらのリレー輸送)。

建長7年(1255年) 東福寺が完成する
*1239年から、天台・真言・禅の三宗兼学の寺院として建設が行われ、16年経過し完成する。寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って東福寺とする。摂政九条道家は、当時、宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾を開山(初代住職)に迎えた。元応元年(1319)2月、大火災で伽藍は全焼し、高さ5丈(15.2m)の本尊・釈迦如来像も焼失した。1丈は約3.0303メートル。

弘長2年(1262年) 鎌倉時代の奥島荘 農民の「惣」結合
(現、近江八幡市に属する大島神社・奥津島神社を中心とした村落)が「敬白庄陰規文事」と題する衆議規約を残している。これは庄民14名が連署して庄内の悪口をなすものがあれば、本人はもちろんのこと、妻子・子息もともに追放してその住家も焼き払うべきことが定めてあった。農民の「惣」結合が進むと、村の氏神の社がはじめて農民のものとなりました。、、神社やお堂に集まり、、荘官排斥の決議もそこできめたのです。 『滋賀県の歴史』107 『庶民からみた湖国の歴史』66

文永5年(1268年)1月16日、蒙古と高麗の国書が九州の太宰府に到着
*日蓮は、同年蒙古国書の到来を外国侵略を予言した「立正安国論」の正しさを証明する事実であると受け止める。日蓮は1221年に生まれ、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学する。鎌倉での宗教活動を理由に、得宗北条時宗によって佐渡に流罪にされる。流罪を赦免後、胃腸系の病により入滅。

文永6年(1269年)1月10日、延暦寺梶井青蓮院僧徒、神輿を奉じて入洛
*梶井青蓮院僧徒、日吉神輿三基を奉じて入洛。六波羅、兵を発してこれを防ぐ。僧徒、神輿を途に捨てる。命じてこれを祇園社に遷す。2月17日院是を下して僧徒の訴訟を裁許する。次いで神輿帰座する。6月14日祇園御霊会(祇園祭)で兵士と神人が闘争し死傷者が出る。12月29日これより先、延暦寺僧徒、中堂に拠り神輿を破壊する。北条時宗、使を遣わし奏する。法皇、梶井青蓮院僧徒に宣諭し、僧徒、誓詞を六波羅に出す。
◎僧徒のやりたい放題だ。暫くこのようなことが続くが、足利義教、それに次ぐ織田信長の登場で、散々僧徒たちは打ちのめされる。

文永11年(1274年) 元寇 文永の役
*モンゴル帝国は1231年高麗を降伏させ、六回の通商使節団を日本へ送るが従属させることが困難とみて、クビライは5年に及ぶ南宋との戦いに勝利し、日本に専念し戦闘を開始した。蒙古・漢軍15,000~25,000人の主力軍と高麗軍5,300~8,000人、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が朝鮮半島の合浦(がつぽ)(現在の大韓民国馬山)を出航した。(刀伊の入寇へ)(弘安の役へ)

建治元年(1275年) 佐々木頼綱、京都若宮八幡宮社の新宮建築に70貫の提供
*頼綱(2代当主:1242-1309)は泰綱の子。兄に経泰、弟に佐々頼起(良輝、園城寺(三井寺)、権少僧都)がいる。建治3年(1277)の北条貞時(時頼の孫)の元服式に立ち会い、六波羅評定衆に加わった。近江に郡代を設置したり不入だった竹生島の寺社領徴税を行うなど守護権の強化も進めた。ところが、1307年に興福寺(領鯰江庄民)と領土問題で対立、興福寺衆徒が神木を奉じて強訴する騒ぎに発展したため、1308年七月興福寺の訴えによって頼綱は尾張に配流され、2年後の延慶3年12月24日(1309年1月22日)に失意の内に死去。享年69。『興福寺略年代記』
・また別に、1307年12月5日、興福寺衆徒は、近江守護・佐々木頼綱、達磨寺・仙海を訴えて、神木を宇治平等院に遷座。官兵は宇治橋を壊して防備。翌年7月12日、頼綱を尾張、仙海を三河へ配流 (『古今最要抄』)とある。
*六角頼綱は(北条)時頼の邸宅で元服したことが『吾妻鏡』建長2年(1250年)12月3日条に記載されており、時頼が烏帽子親となって「頼」の一字を与えたと考えられている。良輝(頼起)の場合も時頼の邸宅で元服した兄・頼綱に導かれて同様に「頼」の字を受けたものと考えられる。
◎頼綱、頼起は時頼の邸宅で偏諱(へんき)を受けるのだから、遠い鎌倉へ行っているのだ。北条時頼は、2度にわたるモンゴル帝国の侵攻(元寇)を退けた北条時宗の父だ。

建治2年(1276年)7月 叡山の門跡である、妙法院と青蓮院の紛争
*意外なことに、佐々木氏からは多数の山僧・山徒が出ていることがわかるだろう。、、幕府評定衆の(京極家の祖)佐々木氏信の子・信賀が青蓮院に属して妙法院を訴えるとは何事か。幕府は、信賀を、幕府と青蓮院の二君に仕える裏切り者と見なしたのだ。信賀は佐々木田中氏の祖である。その子洪賀も山僧で、20年後に叡山でまたも紛争を引き起こす。彼らは悪僧の典型だ。という話が『建治三年日記』(1277年の1年間のうち、68日の日記のみ『続史料大成』10巻に収録)にある。『寺社勢力の中世』199(佐々木氏の山僧・山徒の関連はこちら

*(時は遡るが)定綱には、男子に広綱、定重(鏡)、定高(沢田)、信綱、広定(馬淵)、時綱(佐保)、行綱(伊佐)、頼定(山中)、僧定厳、僧定賀がいた。また女子に、西園寺公経(1171-1244)の弟公暁室(北野別当公澄権僧都母)、春華門院大進(閑院流八条実俊室)、沙々貴神社神主平井定景室がいた。(web 佐々木哲氏による)
「佐々木氏からは多数の山僧・山徒が出ている」は、佐々木定綱の娘「西園寺公暁室」にも由来するか
公経(きんつね):西園寺家(藤原北家閑院流の祖)4代当主(実質的な祖)。官位は従一位、太政大臣、贈正一位。
公暁(くぎょう):公経の弟 延暦寺、西塔院主[法中補任宝幢院検校によると建永2年5月任]、法眼[法中補任]、法印、妙上房法印[法中補任]
・子の公澄(こうちょう):母は佐々木定綱女子(岡崎左大臣僧正公澄母)。西園寺家公暁の子、延暦寺、法印権大僧都、西塔院主、北野別当、曼殊院の記述 (以上はweb『公卿別譜』)
※上記、公暁や公澄の( 、、)は生涯の順に付いた職と思われる。曼殊院は平安時代以来、近世末期に至るまで北野神社と関係が深く、歴代の曼殊院門主は北野神社の別当(管理責任者)を兼ねている。西園寺の家紋は「左三つ巴」。
◎次は、佐々木氏の山僧・山徒を調べてみた。『寺社勢力の中世』200の図に加筆
   |-重綱|-経泰- 
 |-定綱------ |-広綱 近江・長門守護| (大原祖) |②頼綱 近江守護 --③時信 近江守護
-秀義-|-経高|-定重 (鏡祖)|-高信 |-長綱- 
 |-盛綱|-定高| (高島祖) |-輔綱 
 |-高綱|-信綱 評定衆・近江守護 --|①泰綱 近江守護--------|-綱賀 山 阿闍梨 
 |-義清 |-広定 (馬淵祖)| (六角祖)|-頼起 良輝僧都-----時綱(頼綱養子)
  |-厳秀|-時綱 (佐保祖)|  (佐々祖)  
 ||-行綱 (伊佐祖)|(一)氏信 評定衆--------|-頼氏 
 |-能恵|-頼定 (山中祖)| (京極祖) |-範綱|(四)宗氏--------
 (僧,高野山)||-二階堂行方妾 ---行章|-満信-------------|-祐信
  | |(二)宗綱-----------(三)貞宗 
  |-定厳 山徒常陸坊 --------円信 ---厳仙 ---綱山|  
  |-定賀 山徒伯耆僧都 -----尊経(少納言房)|-信賀 山徒 -------|-洪賀 山徒
  |-西園寺公暁室 -----------岡崎左大臣僧正公澄 (田中祖)|-猷賀 山徒
  |-閑院流八条実俊室 |-成賀 山徒
  |-沙々貴神社神主平井定景室  

◎信綱の死後の遺産は、長男・重綱の幕府に対して異議申し立てもあり、4人の子に分けられた。しかし、泰綱・氏信は母が北条泰時の娘であるため分配比率は大きい。その他、信綱に娘4名いた。
・土屋左門尉平光時(土屋光時)妾で遠経(土屋遠経→相模土屋氏)母
・二階堂和泉守藤原行方(二階堂行方:幕府評定衆)妾で行章(幕府引付衆)母
・長井備前守大江泰秀(長井泰秀:大江広元の二男時広の長男)妾で時秀(有力御家人)母
・千葉介平胤綱(千葉胤綱(千葉氏の第6代当主)幕府御家人:通称は千葉介)妾
 「妾」は側室と同意で、れっきとした配偶者の一種で、昔の訓読みは妻と同じで「つま」だったといいます。
なお、二階堂家は、行政 --行村(検非違使→山城判官、隱岐入道) --行方(1206-1267年)--行章(1235-1274年)と続き、二階堂行章の子に、行員、中条頼平室、佐々木頼綱室、二階堂行清室がいる。

◎佐々木氏で山僧・山徒などあげる(叡山の山徒はこちら参照)。伊藤氏と『公卿別譜』を併記した
・秀義の三代先(義経の弟に頼禅(興福寺。大乗院。長谷寺別当。*系図纂要による))
・秀義の子 ①( 能恵 僧。高野山 )
・定綱の子
 ②定厳 山徒常陸坊 (延暦寺。常陸坊) 円信、厳仙、綱山も山僧か
 ③定賀 山徒伯耆僧都 (延暦寺。伯耆公。権少僧都。為舎兄信綱子) 尊経(少納言房)も山僧か
・泰綱の子
 ④綱賀 山 阿闍梨 (延暦寺。阿闍梨)
 ⑤頼起 良輝僧都 (園城寺。権少僧都) 子・時綱は僧にならず、頼綱の養子になり「佐々」を興したともいう。
・田中氏(家系は山徒のようだ)
 ⑥信賀 山徒 (号田中。延暦寺。権少僧都。信濃)、⑦洪賀 山徒(延暦寺。権律師。播磨)
 ⑧猷賀 山徒(延暦寺。信濃)⑨成賀 山徒(延暦寺。三河)
 『寺社勢力の中世』200で②③⑥⑦⑧⑨を「山徒」としている。追加した④綱賀が山僧、①能恵は高野山・⑤頼起は園城寺の僧侶である。デジタル大辞泉によると、「山徒は比叡山延暦寺の衆徒、寺の雑事や警護をしたが、非常時には僧兵となる。山僧は比叡山延暦寺の僧」とある。なお、山門使節については、世界大百科事典では「南北朝時代末期に室町幕府が延暦寺の衆徒統制のために作った組織。メンバーには,当時山徒と呼ばれていた衆徒らのうちで特に強勢な者が選ばれた」と。

弘安4年(1281年) 元寇 弘安の役
*元・宋・高麗軍の合計、約140,000~156,989人・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった。
▼幕府は、御家人達に多大な犠牲を払わせる一方、十分な恩賞を与えることが出来ず御家人達の信頼を失う。中央から地方への行商人が現れ、各地の交通の要所に問、問丸(といまる)が発達した。荘園領主や地頭の圧迫や非法に対する農民の動きが活発となり、団結して訴訟を起こしたり、集団で逃亡したりする例も多くなった。(文永の役へ)

弘安8年(1285年) 霜月騒動で高島頼綱が武勲を立て出羽守に
*霜月騒動とは北条氏と有力御家人との間の最後の抗争。この騒動の結果、有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官勢力の覇権が確立した。高島高信の次男・頼綱が平頼綱側に参陣し武勲を立てた。高島郡の所領のうち本家高島氏から朽木谷を分与され、子の義綱の代から正式に朽木氏を名乗った。
takasima 【高島家】佐々木信綱の次男・高島高信を祖とする。居城は清水せいすい山城(滋賀県高島市新旭町熊野)。1高島氏は以後も2朽木氏のほか3永田氏・4平井氏・5横山氏・6田中氏などの分家を輩出、別系の7山崎氏を一族に加え高島一族は高島七頭を形成し西近江に勢力を張った。戦国期には田中氏、朽木氏とともに六角氏の傘下に入り勢力を維持したが、信長の侵攻により六角氏や浅井氏の滅亡により没落した。
*「高信の母は長男重綱と同じく川崎五郎為重女であろう。為重は比企能員の乱で滅亡したため、母が北条義時女である三男泰綱(六角氏)・四男氏信(京極氏)にくらべると所領は少なかった。」
・「行綱のもう1人の娘は、越中四郎範綱に嫁いでいます。行綱の子行信で高島家は断絶しますので、高島惣領の地位は越中家に移りました。越中家が四郎とも八郎とも名乗るのは、高島氏惣領の四郎と、越中家惣領の四郎のどちらも名乗れたからです。」『佐々木哲学校』

  |-(三男)永田胤信 |-有信 
  | (永田祖)|-(三男)朽木義綱(朽木祖)   
  ||-(二男)田中氏綱(田中祖)  
  |-(二男)頼綱 ------|-(長男)横山頼信(横山祖)  (平井祖) 
  (高島祖)| |-平井師綱 
佐々木信綱---|-(二男)高信 ---|-(長男)泰信 ------|-(二男,高島惣領)行綱 ---行信 ×|-範綱 -------信顕--
 | (六角祖)||-(長男,越中家祖)泰氏 -------------|-氏綱 
 |-(三男)泰綱|   

◎泰信の長男、泰氏は従五位下越中守に補任され越中家祖となる。二男行綱は四郎となり高島惣領家を継ぐ。佐々木家の惣領家は代々四郎を名乗ります。
 上記の範綱(越中家と高島家の惣領)の子信顕の後-高顕-高頼-高泰-高兼(越中守,永享13年(1441))-高俊(近江守,文明13年(1481))-頼高(越中守)-六角八郎(近江守護,明応元年(1492))と続く。六角八郎は高島頼高(佐々木越中守)の子で六角政堯の猶子(ゆうし)になり近江守護に就いた「虎千代丸」ともいわれる。(信長の侵攻に遭い史料が失われたか)(『戦国期社会の形成と展開』219 Web戦国大名探究「高島郡誌」)。
・戦国時代に入ると、高島氏は六角氏の傘下で田中氏・朽木氏とともに勢力を維持したが、六角氏の滅亡(1568年)とともに没落した。

幕府の弱体化
*幕府の財政は、御料所からの収入、諸国の分担金、地頭・御家人に対する賦課金などでまかなわれた。
・1331年、後醍醐天皇が2度目の討幕運動を笠置で起こす。鎌倉幕府は、父貞氏の喪中の足利高氏(後の尊氏)に派兵を命じ、高氏は天皇の笠置と楠木正成の下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、佐々木道誉は笠置の鎮圧軍(幕府軍)に従軍。結果、後醍醐天皇は廃位され隠岐島に配流。
・1333年5月7日、足利尊氏は道誉ら反幕府勢力を糾合し、六波羅探題(鎌倉幕府の出先機関)を滅亡させた。
・同年5月9日、道誉は、近江番場で東国へ退却中の北条仲時の軍勢を阻み、蓮華寺(米原市番場)で一族432人と共に自刃させた。その際、光厳天皇や花園上皇を捕らえ、天皇から三種の神器(八咫鏡やたのかがみ天叢雲剣あめのむらくものつるぎ八尺瓊勾玉やさかにのまがたま)を強奪している。
同年5月、関東では新田義貞が北条高時を自刃(享年31、満29歳没)に追い込む。(鎌倉幕府の滅亡)
佐々木道誉】(1296-1373) 1304年に京極氏五代当主。鎌倉幕府で、1322年検非違使、執権北条高時の御相供衆。高時が1326年病のため出家した際には共に出家して高氏(足利高氏(尊氏)と同じ高氏)から導誉と号した。

大長元年(1311) 京都、叡山の光宗が『渓嵐拾葉集』を著す
*叡山の光宗が応長元年(1311)~貞和四年(1348)にかけて叡山天台の行事・作法や口伝法門などを『渓嵐拾葉集けいらんしゅうようしゅう』に集録した。
・鎌倉末期の比叡山僧の光宗は、上記の本で、仏教以外に、武術・医学・土木・農学などの俗学を学んだと述べている。中世寺院は学問や技術に優れた僧侶を多く輩出した。鎌倉時代、漢字を書ける武士は少ない。武士の文章は多くの平仮名で書かれている。対して学侶で漢字を書けないものなど一人もいない。文化度は段違いである。寺院では高度な手工業技術が研究され、実際に製品の大量生産が行われた。寺院は先進文明・先進文化を生産しつづける場であった。最高の先生が集まっている教育の場であり、多数の人材を輩出した。、、ルイス・フロイスは、叡山を「日本の最高の大学」とみた。ヨーロッパの大学都市の姿を見たのであろう。『寺社勢力の中世』86
◎当時の僧は中国へ留学し多くの事を学び帰国している。僧は知識人である。
*人々が都市に流入(城下町に流入)する理由はいろいろある。雇用機会の多さがその最大の理由だが、スキルを身につける機会の多さも魅力的である。寺院はそうした技術を学びうる場でもあった。 『寺社勢力の中世』86
*中世、宮殿を越える前衛空間たる寺院境内には、ありとあらゆる老若男女僧俗貴賤が、中心聖域にまで立ち入ることが許されていた。東大寺大仏殿・興福寺南円堂などは、それぞれ大仏安置の地、観音霊場として、誰でも立ち入り可能であった。身分制が厳しかった時代に、これは驚くべき事である。一方、院御所・内裏・幕府御所、あるいは寺院でも皇族や摂関家の子弟が入る門跡寺院は、、許可なく入ることはできない。庶民の立ち入りが、自由に、そして原理的に可能だったのは、無縁所たる寺院境内だけだった。、、(高野山は)、、行脚あんぎゃ・乞食・路上生活者などの弱者が、食物をめぐまれつつ数多くすんでいた。、、境内での居住は認められているのだ。、、過酷な社会のなかで唯一の、優しい空間である『寺社勢力の中世』90。
・戦国時代の一向宗・日蓮宗寺院の境内も同じもので、「寺内町」として以前からも知られていたが、これは平安時代から存在する境内都市の一形態に過ぎないのである。『寺社勢力の中世』91

正和2年(1313) 京都、吉田兼好が遁世とんせい
*吉田兼好(1283-1352)、本名は卜部兼好。従五位下左兵衛佐にまで昇進した後、30歳前後で出家。その後の生活については修学院や比叡山横川などに籠り仏道修行に励む傍ら和歌に精進した様子などが自著から窺われる、明確でないがと。
・『徒然草』に、野辺送りをしない日、つまり人の死なない日はないと記した通り、鳥辺野から火葬の煙が立ちこめない日は一日たりともなかった。、、この鳥辺野界隈は、、平安時代には送葬地であり、冥土への入口をなしていることから人が容易に近づける場所とは言い難かった。

鳥辺野とりべのの伝説】六道珍皇寺から東大路へ向けて坂道を上ったところに一軒の飴屋がある。ある日の夕暮れ、店の主人が店終いをしようと思ったところ、若い女が飴を買いに来た。以来、女は毎晩飴を買いに来るようになった。その様子が尋常ではなかったため、主人は女の後をつけてみた。女は鳥辺野の墓地へ姿を消したという。そこで主人は寺の住職とともに最近埋葬された女の墓を掘り起こしてみることにした。すると、墓の中から生きた赤ん坊がみつかり、脇には女が買い求めた飴が散らばっていた。
【京都三大葬地】平安時代以来、鳥辺野、蓮台野、化野、宇太野、神楽岡、深草山、木幡といった墓地があった。上記3つが三大葬地である。
・東の鳥辺野:(東山区の清水寺から大谷本廟に通じるあたり)近所に大谷本廟がある。
・北の蓮台野れんだいの:船岡山から紙屋川に至る一帯の野。朱雀大路はその蓮台野へ死者を運ぶ道であった為、通りに沿って千本の卒塔婆そとばが立ち並んでいて、鎌倉時代には「千本通」と称されるようになる。船岡山の手前に「閻魔えんま前町」という地名がある。紙屋川は、江戸時代までこの名称であったが、それ以降に下流域では天神川という名称になる。古くは西堀河とも称したという。
・西の化野あだしの:(嵯峨鳥居本化野町)化野の名は「無常の野」の意。近所に、化野念仏寺があり、境内には約8,000の無縁仏を祀る。

正和3年(1314)5月1日、京都、新日吉社の祭礼にて、六波羅武士と日吉神人が喧嘩
*六波羅武士3人と神人多数が殺され、新日吉いまひえの宝殿が破壊された。比叡山には赤々と篝火が焚かれ、六波羅探題には金沢貞顕との合戦が始まるとの風聞がたって京中は騒動し、多くの武士が六波羅に馳せ向かった。6月になると、関東から急使が上京し、座主を罷免し、青蓮院・妙法院・円融坊の三門跡ほか、門主らに(院が)命じて、喧嘩の張本人を差し出させる方針が決まった。24名が張本人と認定され、9名が武士の館に軟禁され、15名は許された。新日吉社は院の御用神社といってよい。、、院の御前で流鏑馬が執行され、、承久の乱後は六波羅武士が射手を勤めた。、、軟禁者は上林坊・行住坊・実光坊・南岸坊・金輪院など。全員法名である。室町時代に「大名山徒」といわれる大きな勢力を振うことになるボスたちの祖先である。次世代の担い手がすでに出そろっていたわけだ。、、「神人と武士の喧嘩」と見なされたのに、処罰されたのは「大名山徒」(武門一行之衆徒)で、、山徒と神人は同じ者である。、、(張本人等は)高野山行人の院号・坊号の名称に似ている。、、「大名山徒」の多くは堂衆の末裔である可能性が高い。『寺社勢力の中世』160
◎神社は「神人」、寺院は「行人・堂衆」と区別している。新日吉社は、朝廷・幕府・叡山の一触即発の接点であった、と。結果、処分は堂衆(行人)と。まあ、神人・行人は武士と渡り合えるほどになっていたということであろう。

元亨3年(1323) 東福寺の貿易船が沈む
◎元から博多へ向かっていた貿易船が、韓国の全羅南道西岸の新安海底で発見される(1975年)。この船は、幕府公認の東福寺の依頼船で、慶元の中国船(推定34m、乗組員50~70名)でした。東福寺が、元応元年(1319)2月の大火災で伽藍全焼のため祠堂修理を名目に、中国で安く仕入れたものを日本で売りさばく交易が目的のものでした。中国の寧波(ニンポー:現在の慶元)を1323年に出港し、博多へ向かっていた途中沈没しました。
 主な積み荷は、約21,000点の陶磁器、8,000貫文の銅銭(総重量28トン)、青銅杯などの金属製品約700点、香木である紫檀(1.8m前後に切られた)約1,000本、木簡、硯や茶臼などの石製品、ガラス製品、書画の軸、銀錠でした。当時の日本では通貨は発行せず、輸入して使っています
・東福寺は創建から100年程しか経ってなく、寄付等を募っての交易でしようが、臨済宗・東福寺の人と金を動かす凄さが見て取れます。1貫文が現在の貨幣価値で10万~20万とすると8~16億円に相当します。当時は10艘ほどの船団(15世紀中ごろまで制限はない)を形成していたとすると、80~160億円もの大金を運んでいたことになります。 『経済で読み解く日本史 室町・戦国』99を編集

・地方の中継地点もさることながら、多くの交易商品が水運・陸運を利用し京都へ運ばれること考えると、京都が商都として非常に賑わったことでしょう。
・元に滅ぼされた南宋(1279年に滅亡)から日本へ渡来した禅僧は多く、また師が学んだ元への留学を望んでいた僧も多い。
・1341年12月23日、足利直義、夢窓国師等と協議し元との交易によって天竜寺造営の資を得るため造天竜寺船を元に派遣することを定める(『京都の歴史』10巻)。
【寺社造営料唐船】14世紀前半に、主要な寺社の造営費用を獲得することを名目として、幕府の認可の下に元に派遣された貿易船群のこと。半官半民的な交易船。
 1306年  称名寺(現横浜市)が造営料獲得
      この頃に建仁寺の禅僧雪村友梅がスパイ容疑で捕まる
 1315年頃 極楽寺(現鎌倉市)の祠堂修理
 1325年  勝長寿院・建長寺(現鎌倉)の祠堂修理
 1332年  住吉神社(現大阪市住吉区)が造営料獲得
 1342年  天龍寺(現京都市右京区)が造営料獲得 夢窓疎石の勧め
◎なぜ「寺社造営料唐船」の名称に「唐(618 - 907年)」を付けたか。元は他民族国家で、正式な交易をしていないからか。
・1294年に皇帝クビライが死去、テムルが即位すると元寇計画は中止された。日元は正式な国交がないものの交流が盛んだった。元の末期に、宗教的農民反乱である紅巾の乱(白蓮教徒の乱)が、1351年(~66年)に起こり、元は漢民族の明軍に撃退され北部のモンゴル高原へ退く。1368年に 朱元璋しゅげんしょうが南京で大明(~1615年)を建国する。[明との交易]

正中元年(1324) 鎌倉幕府が朝廷に要求
*南都北嶺以下、諸寺諸社の僧侶は、住山して鎮護国家祈橋に専念すべきなのに、法にそむき在京しているようだ。実情を調査せよ。また諸社の神人の人数がわからな毎年提出すべき名簿が提出されていない。必ず出させよ。調査を確実に実行するために、まず座主・別当など、諸門主自身が住山して、寺僧管理を徹底せよ。『寺社勢力の中世』64
◎注目すべきは、寺社を離れて多くの僧・神人が在京して、商いをしていること。神輿振り・強訴などになれば、ここから素早く呼応し参加するということだろう。幕府は、僧・神人は本来の寺社に戻るべきだと主張している。神人の多くは神社におらず座をなすところに住んでいるのか。僧たちでも、五山などの禅僧は朝廷に庇護されているから対象にならず、いろいろと神威を振りかざす興福寺と叡山の全国の僧・神人が対象となる。よく山僧の強訴には最大のところ3千人という数字がでるから、在京する僧たちは数百~千人ほどいるのではないか。

元弘3年(1333)5月9日 後醍醐天皇 京都へ戻り 建武の新政
*天皇は幕府も院政も摂政・関白も否定し、権力集中を図る。尊氏が政権に参加せず、武士層の支持を集められなかった新政に対して各地で反乱。1335年7月、北条高時の子・時行が反乱を起こし鎌倉を占拠。足利尊氏、討伐に向かい、その後、新政権に反旗を翻す。
◎同年3月、後醍醐天皇の皇子の護良親王は、延暦寺に援軍を求めた。天皇が困ったときに頼る興福寺は遠いから延暦寺しかない。このときもこれからも、延暦寺らは天皇の駆け込み寺的存在であった。[叡山僧兵の武勇]

建武2年(1335年)7月、京都から鎌倉まで125里、63宿「実暁記」
oumi 京都 - 鎌倉間:125里×3927m≒490.9km [1里とは]
京都 - 柏原間:大津・勢多・野路・守山・鏡・武佐・蒲生野・愛知川・四十九院・小野・番場・醒井・柏原、200町×109.8m+15里×3927m≒80.865km(二泊)
[近江路] [近世、近江の宿駅]

建武2年(1335年) 湖北、菅浦の供御人役の記した文書
*鎌倉期から供御人(くごにん)として天皇の食膳にのぼせるものを朝廷に貢納した。御厨(みくり、みくりや)とは朝廷や神社の所領で、供御の食料品などを貢納する住民が供御人である。 『滋賀県の歴史』107
*中世の近江では供御人と呼ばれ特権を与えられ、朝廷に進納する湖魚などを扱って活躍した人々がいました。そうした人々は御厨と呼ばれる特別の地域に居住していましたが、古くは勢多(瀬田)、和邇、筑摩の地は御厨でした。粟津供御人は、、、湖で魚を自由に獲る特権をもって、、次第に獲った魚を販売しだし室町も中頃になると関税特権をも手にして魚以外に塩や紙などを売り捌く、、、京の都にでて商業活動を行うようになりました。、、室町戦国期を通じて、、に署名している20名で、いずれも法名を名のるか、大夫別当、検校などの名をもつ上乙名(かみおとな)とよぶ人々です。乙名は有力者で、、宮座の運営のすべてに責任を負った人々です。しかし菅浦の発展を根底で支えた、、力は「末の若衆」(小農民)であったとみられます。、、菅浦の人々の、、強い自治の体制がついに崩れさったのは戦国大名浅井氏の勢力がこの地に及んだからです。 (菅浦文書) 『庶民からみた湖国の歴史』70
【宮座】神社の祭祀に携わる、村落内の特権的な組織及びその資格をもつ集団。専任の神職を持たず、宮座の構成員が年番で神主役を務める当家制(とうやせい)を取る。当家とは、神社や講において行事の執行に関して、中心的な役割を果たす人もしくは家。当屋・祷屋・当家といわれる場合もある。京都岩倉では当家や当役と言っている。
◎神輿がでる神社では、村の氏子による座衆をかかえるようだ。「座」とは、「いる」「すわる場所」の意味がある。京都・石座神社の宮座は[こちら] [京都の上久我宮座]

建武3年(1336年)4月 法勝寺宮某が高野山堂衆に荘園領主権を与える
南北朝時代には、行人の武力を動員することが普通になる。武士の世界における下剋上は有名だが、一歩先に寺社でおこっており、行人がすでに大きな勢力を持っていた。
 法勝寺宮某:同年4月、高野山堂衆に勲功の賞として和泉国麻生荘の荘園領主権
 後醍醐天皇:同年7月、粉河寺行人に勲功の賞として紀伊国井上新荘の荘園領主権
 懐良親王 :同年8月、高野山堂衆に勲功の賞として土佐国宮崎別府という土地
 懐良親王 :1348年正月、高野山夏衆等に恩賞として、和泉国甲斐渡という土地
それぞれ与えた。このような恩賞給付や軍勢動員の文章が非常に多く残っている。、、いずれも宛先になっているのは平民身分の行人である。、、従来天皇家・摂関家・南都北嶺、そして武士では将軍のみ、つまり最高の家柄か最高の格式のものしか持つことを許さなかった荘園領主権を与えている。叡山堂衆が持っていた木戸三ヵ荘(滋賀県湖西で蓬莱から比良南辺りか)に対する権限は、おそらく武士が持つ地頭職と同レベルの荘園管理権にとどまっていただろう。『寺社勢力の中世』154
◎こんなにも、「行人」「神人」と文言がでてくるのに、当方の高校時代から今の(高等学校の)教科書にも出てこない。なぜだろうか。鎌倉・室町時代の認識が深まるのだが。

建武3年(1336年)11月7日 足利尊氏、京都を制圧 建武式目を発表
・建武3年正月、後醍醐天皇は比叡山に駆け込む
・同年5~11月、後醍醐天皇は比叡山に駆け込む
・同年5月25日、湊川の戦いで足利軍は新田義貞・楠木正成の軍を破る
・同年6月、尊氏は京都を再び制圧
・同年9月、佐々木道誉は後醍醐天皇の逃れた比叡山包囲に当たる
・同年11月2日、天皇は和議に応じ、光厳上皇の弟光明天皇に神器【北朝】を譲った
尊氏は征夷大将軍に任じられ室町幕府を樹立
・同年12月、後醍醐天皇は京都を逃れ大和吉野の山中にこもる【南朝】(新暦1337年1月23日) [南北朝の統一は3代将軍義満のとき]
・翌年正月、尊氏・直義・高師直・上杉重能ほか評定衆にて、叡山の責任は「窮鳥きゅうちょう懐にはいらば狩り人もこれを殺さず」の諺があり、不問に [三成も家康の懐に飛び込んだ]
   |-評定衆 --引付(所領の訴訟を審理)
 (中央)|-管領(*1) -----|-政所(執事)(将軍家の家政・財政)
 将軍 - | |-侍所(所司)(*2)(京都の警備・刑事裁判)
 (地方)|-鎌倉府 -----------関東管領 -------|-評定衆
  |-九州探題 |-政所
  |-奥州探題 |-侍所
  |-羽州探題 |-問注所
  |-守護 ------------地頭  
*1.三管領:細川、斯波、畠山の3氏が交代で任命される
*2.四 職ししき :所司(長官) 赤松、一色、山名、京極から任命されるが慣例
 六 職:上記四職に、土岐、今川を含める(上記4家が相伴衆、比べて2家は国持衆)
※守 護:領国に守護代に統治させ、自身は在京して幕府に出仕するが原則
※奉公衆:足利氏の家臣、守護の一族、有力な地方武士からなる直轄軍 平常時は京都在勤、諸国に散在する御料所(直轄領)の管理

祇園社執行の日記】〈社家記録〉の表題をもつ康永2年(1343),貞和6年(1350),文和1年(1352),応安4年(1371),同5年の5冊は執行顕詮(けんせん)の日記。鴨河原・河東(鴨河原、祇園社境内)の商人・職人をあげている。執行(しぎょう)は祇園社の次官。この顕詮は、1333年に足利尊氏の御師(おし:信仰上の師匠)になっている。

康永4年(1345年) 京都、足利尊氏が亀山殿を寺に改め天龍寺とす
*後嵯峨天皇(在位1242-46年)とその子・亀山天皇(在位1259-74年)が離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山(現、嵐山)のことで、山の姿が亀の甲に似ていることからこの名がある。足利尊氏が後醍醐天皇(1288-1339)の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。足利尊氏は、1338年に征夷大将軍となった。

観応2年(1351)2月12日 大雲寺領の税金を免除し、寺の支配を保証(尊氏の花押有り)『実相院文書』

文和元年(1352) 幕府、半済令
*観応の擾乱(1349-1352)は、足利尊氏と直義の兄弟争いに、南朝と北朝の構図が加わった複雑な内乱で、3年にわたって全国を巻き込む。同年にはじめて発布された半済(はんざい)令は、室町幕府が荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたことを指す。1年限りで、動乱の激しかった近江・美濃・尾張の3国に限定されていたが、やがて全国的に、また永続的におこなわれるようになり、しかも年貢だけでなく、土地を分割するようになった。

*動乱のなかで地方武士の力が増大してくると、これらの武士を各国ごとに統括する守護が軍事上、大きな役割をになうようになった。
幕府は地方武士を動員するために、守護の権限を大幅に拡大した。とくに半済令は、軍費調達のために守護に一国内の荘園や公領の年貢の半分を徴発する権限を認めたもので、その効果は大きかった。守護はこれらの権限を利用して国内の荘園や公領を侵略し、これらを武士たちに分けあたえて、彼らを統制下にくり入れていった。 荘園や公領の領主が年貢徴収を守護に請け負わせる守護請もさかんにおこなわれた。守護は幕府から任命されるものであったが、、国衙の機能をも吸収して、一国全体に及ぶ地域的支配権を確立するものもおり、、世襲されるようになり、、守護大名と呼ぶこともある。、、
地頭などの領主で当時国人と呼ばれていた地方在住の武士には、なお自立の気質が強く、守護が彼らを家臣化していくのには多くの困難があった。、、国人たちは自主的に相互間の紛争を解決したり、力をつけてきた農民を支配するために契約を結び、地域的な一揆を結成した。これを国人一揆という。(以上 山川)

文和2年(1353年) 近江の民衆、日本最初の土一揆

正平17/貞治1年(1362) 高野山領が四つ谷ブロックに分配
*山領のすべての荘園が、四ヵ院と呼ばれる西院・南谷・中陰・谷上の四つの谷ブロックに、くじによって等分に配分された。この四地区は学侶居住地域である。、、南北朝末期には、千手院谷・往生院谷・五之室・小田原谷・蓮華谷など、行人・高野聖の居住ブロックが政治的に独立し、高野山の運営に参加する。『寺社勢力の中世』224
*高野山では、平安時代以降、江戸時代まで存在した僧徒の三派を「高野三方」といい、学侶、行人、聖で構成され、明治になり廃止、統合された。

貞治6年(1367) 園城寺衆徒、南禅寺設置の関二ヶ所を破壊
*南禅寺が、楼門を造営する費用を捻出するため、東海道に関を設ける。園城寺(三井寺)の童僧が関銭(通行量)を払わなかった。このため喧嘩になり童僧が殺された。報復として園城寺はこの関を破壊した。幕府は南禅寺に加勢し、園城寺所管の関山・四宮河原・松崎峠の関を破壊して報復した。いずれも園城寺の主要財源である。ついで園城寺の三門跡、聖護院・実相院・円満院の所領を没収した。、、この時代、関は警備上のものというより、関銭、通行料を取る施設なのだ。、、園城寺は延暦寺・興福寺・東大寺に使者を遣わし、共同して朝廷に抗議した。、、突然の将軍義詮が没した。、、「幕府が禅宗を庇護し、、園城寺の鎮守新羅明神が祟りをなしたのでないか」という。『無縁所の中世』50

・応安元年(1368)の神輿振りの後も日吉社にかえらず、祇園社に留まっていた神輿は、1369年4月20日、再び内裏に振られた。甲冑に身を固めた山僧ら数千人は、内裏に向かい西の唐門のところで合戦した。、、7月27日、南禅寺の楼門は、山僧監視の下、佐々木氏頼と資脩の責任で一木も残さず取り崩され、礎石に至るまで、根こそぎに撤去された。大工150人要した。京都の全ての禅僧は涙を流し抗議の意味で隠居したという。(後愚昧記)『無縁所の中世』69
(度重なると)神輿は神人が振り回しやすい形に作られていたし、神輿が日吉大社からわざわざ来たのでなく、日吉大社の末寺の祇園社から来たのだ。、、住山せず首都で活動する僧侶が多いのは、彼らが商工業主体だったからだ。、、山僧の多くはもともと京に住んでいるのだ。『寺社勢力の中世』64
◎叡山の僧侶ですらだから、叡山神人はもっと多く京に住んでいたのだろう。

正平23/応安元年(1369)12月30日、義満は第3代将軍となる
・1370年、山門の公人が貸金の催促を無理に行うことを禁止(高利貸活動に大打撃)
・1374、75年、観阿弥が新熊野神社で催した猿楽能に12歳の世阿弥が出演、このとき将軍義満の目にとまった(当時の都では猿楽より田楽のほうが評価が高い)
・1378年、義満が北小路室町に幕府の政庁を移し「花の御所」と呼ばれる
   同年、祇園会では将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)
・1386年、延暦寺を始めとする京都の有力寺社に対し、私的な権力行使への制限令を発布
・1392年、南北朝の合体(1336年12月~)が実現
・1393年、京都の土倉・酒屋に対し座への加入を問わず一律に幕府への課税を義務付け
◎『京都の歴史』10巻に、「1370年12月16日、山門公人等、負物譴責おいものけんせきと号して洛中所々に乱入し狼藉をなす。武家これを制止する、1393年11月26日、幕府、洛中辺土散在ならびに酒屋役の制をさだめる」を見る。土倉・酒屋の衰退はこちら

【猿楽】散楽、申楽、猿楽とも書く。散楽は西域が起源で、軽業・曲芸・手品・舞楽などの少人数で行う滑稽なわざとして、奈良時代に伝わり、公的な雅楽(日本の古典芸能)に対して俗楽として扱われた。伝来して雅楽寮の散楽戸に保護されていたが、延暦元年(782)に散楽戸は廃止になり、以後は民間で自由に行われるようになった。猿楽は散楽の流れを引くようで、はじめ申楽と呼ばれていた。申楽・能楽の始祖とされる秦河勝が「六十六番の物まね」を創作して紫宸殿にて、聖徳太子の前で舞わせたものが「申楽」のはじまりであると『風姿花伝』(ふうしかでん:世阿弥著 能の理論書)に記されている。平安時代には滑稽な仕草を猿楽と称していた。
 宮中では相撲(すまい)の節会(せちえ)、競馬(くらべうま)の節会や内侍所の御神楽(みかぐら)の余興などにも演じられ、民間では寺社などで行われ、やがて寺社に属する職業的な芸能人を生んだ(→ 座)。春日大社の四座(結崎(観世流)・外山(宝生流ほうしょう)・坂戸(金剛流)・円満井(金春流こんぱる))、日吉神社に属する近江の三座、伊勢神宮に属する二座、京都の法勝寺(1590年頃坂本西教寺(正式名:兼法勝西教寺)に併合される)に属する三座がある。内容的には、平安末期ころには「せりふとしぐさ」とを有する喜劇(狂言)となり、鎌倉時代には歌舞の要素も加わって猿楽の能と呼ばれる楽劇()が成立した。能の大成に大きな役割を果たしたのは、室町時代の大和の結崎(ゆうざき)座の観阿弥・世阿弥の父子である。『日本古典風俗辞典』222

康暦元年(1379年) 幕府、大名山徒を取りたてて山門使節に任命
*山門使節は山門領において、諸国の守護に相当する権限を与えられた。、、山門使節は世襲の僧の家である。、、義満が1394年に、貴族・諸大名を引き連れて日吉社に参詣したときには、山徒から盛大な歓迎を受けた。、、大名山徒の子供は、将軍や守護の子息のように、岩松殿(上林坊の子)・鶴光殿(辻本坊)・德寿殿(座禅院)などという敬称で呼ばれる御曹司であった。1449年に、三宝院・常光院などの「高野山御使節」がいたことが知れる。使節制度は多くの有力寺社に設けられたようだ。
 幕府財産の管理・出納は、公方御倉という機関が行い、その下部機関で京都の土倉から選ばれた納銭方が実務を行った。、、税を納める土倉の中から徴収担当者が選ばれたわけである。彼らは徴収した幕府の税を自分の土蔵に保管した。幕府から公共事業への支出命令を受けて、保管している銭のうちから国家予算の執行を行った。『寺社勢力の中世』215

康暦元年(1379年) 近江坂本の馬借、1000余人が京の祇園社に討入る
*円明坊(山徒の一員でありながら幕府と結託して権勢を振るった)が設置した関所のことについて坂本の馬借が抗議し、祇園社におしかけた事件である。馬借が登場する初見のようだ。
・これ以降にも、坂本の馬借は、度重なる抗議活動を行っています。だが忘れてはならないのは、坂本の馬借は延暦寺の支配下で、しばしば同寺の重要な軍事力ともなっていたことです。
*近江は都に近い交通の要地で、この頃、坂本(酒屋・土倉が数十もあった)や大津、草津などの要衝には、沢山の馬借がたむろ。商業と運輸の分化しないこの頃は、馬借は運輸のかたわら商品(米)の販売も行うことがあり、一種の商人でもありました。、、馬借も土一揆勢も京都へ入ると祇園社や東寺にたてこもって要求をつきつけました。『庶民からみた湖国の歴史』82

*京都の経済は叡山なしには成り立たないのだ。米は叡山領荘園の多い越前・加賀、さらに膝元の近江から来る。それを運ぶ琵琶湖の船運は叡山に握られている。その米を京都に運び入れる運送業者もまた、叡山の支配下にある大津・坂本の馬借である。、、(京都の)土倉の八割は叡山無縁所『寺社勢力の中世』73
*叡山の門前といえば、反射的に滋賀県大津市坂本、「東坂本」を考える人が多い。これはやや不正確で叡山の正面玄関は西阪本である。叡山から雲母きららを下ったところ、現在の修学院離宮にほど近く、京都の北東の鬼門とされる赤山禅院周辺が西坂本である。隠れた紅葉の名所として知られている。叡山の強訴や日吉神輿の動座は、必ず雲母坂を経由する。朝廷から叡山に遣わされる勅使もここから登るのが例である。幅15メートルほどのやせ尾根の中央部を強引に掘り下げて参道を造っている。花崗岩が剥き出しになり、文字通りキラキラと光る雲母坂の景観は圧巻である。現在遊歩道になっているこの道を登りきると比叡山山上である。振り返ると京の様子が手に取るように見える。一方京から山上の様子は全く見えない。、、ここは京都を一望する絶好のスポット、、山上と山下の絶対的な戦略上の有利不利を意味する。『庶民からみた湖国の歴史』71
sekizn 【赤山禅院】延暦寺の塔頭。天台座主安慧が建立888年。京都の表鬼門にあり、王城鎮守、方除けの神。叡山電車で修学院下車、徒歩約20分。因みに、京都の裏鬼門(西南の方角)は石清水八幡神社。
【雲母坂】雲母橋の登山口に親鸞ゆかりの石碑が立つ。叡山へ修学のために登り、六角堂へと百日参籠を行うために下山した道。西坂本合戦(1336年:籠もる後醍醐天皇軍と足利軍の戦い)で千種忠顕が討ち死にした地。延暦寺の千日回峰行が行われる行者道でもある。

【馬借】鎌倉時代以降に発達し、室町時代ごろから専業化するが、農民が農閑期に行って、馬の背に荷物を乗せ、人が手綱を取って運ぶもの。近江では、若狭・敦賀からの物資を陸揚げし、七里半街道・九里半街道を通り琵琶湖沿岸まで運ぶものが多く見られた。
・坂本の「馬借一揆」は京都の方々からは恐れられた。それは背後の神々を恐れたようだ。坂本の住民は産土神と仰ぐ延暦寺の守護神である日吉社を崇めており、日吉祭りには神輿の他に神馬(しんめ)が随伴する。この神馬は祭りが終われば持ち主に返され馬借が利用する。比叡山の衆徒たちが京都へ神輿を担いで示威行動「神輿振り」が効果を発揮できなくなると、衆徒たちは神馬をもつ馬借の力を借りたのであろうという。『馬借 神馬に乗る土一揆』下坂守
・高瀬川の開削がない頃、大坂から水運で伏見まで運ばれた物資は、馬借が京都へ運んだのだろう。小浜から若狭街道、近江坂本から志賀越えで、京都へ入る物資も馬借に運ばれたのだろう。馬借による商品の流通があってこそ、多くの土倉・酒屋が栄える
・馬借に似たものに車借もあった。これも同じく中世・近世の運送業者。こちらも牛馬を使用するが、車を引かせるので荷の分量が増す。清水寺に属した清水坂車借北野社の支配下にあった西京の車借などが知られ,主として畿内周辺の水上交通路を京・奈良に連結する道で活動した。江戸時代には京都に三条組・四条組,京組外では東寺・上鳥羽伏見などに車借組の組織があった。[車借と車石]

【酒屋】平安時代以前には、朝廷には造酒司(造酒寮)が、神社には酒殿が置かれて、民間では製造・販売する業者の記録はないようだ。やがて杜氏の先駆にあたる酒師(さかし)が民間で自分で酒を造り、売るところを酒屋というようになっていった。このなかで醸造業を主とする「造り酒屋」と、金融業を主とする「酒屋」に分化していく。民間の酒屋は鎌倉時代に全国的に発生し、当初、幕府はこうした業者を禁止していたが、京都の朝廷では財源不足を補うために酒屋を認めて酒造役(壷銭)を徴収した。室町時代には、酒屋は隆盛を極め、応永32年(1425)には洛中洛外の酒屋の数は347軒に達していたことが記録に残っている。文安の麹騒動(1444年)以後は京都においては、酒屋が麹屋業も吸収合併した。
◎「酒屋」の起源は酒を造り・売るところだろう。それが、"金があつまるところ、よく儲かるところ"から、金融業を興し、専業とするところも増えていったのだろう。
・世の中、朝廷・幕府、武家、寺社だけで動いていない。あまり陽があたらない土倉、酒屋、馬借・車借、神人(寺社の範疇)が、"商人の先駆け"となると考えてよいか。

康暦元年(1379年) 義満、五山派禅林を統率する僧録可を創設
*京都のみならず全国の五山派禅林を統率したのが、僧録可そうろくすである。僧録司は義満により創置され、初代僧録には義満が信頼した春屋しゅんおくが補任された。僧録の職掌は五山・十刹・諸山の住持の任免、東西両班の位階昇進にいたるまで五山禅林の人事権を一手に握り、寺領の経営そのほかあらゆる幕府との交渉も僧録をへなければならなかった。、、僧録は春屋のあと、絶海・空也・瑞渓など夢窓門下の重鎮が補任され、、相国寺塔頭の鹿苑院の院主が歴代みな僧録可となる慣例ができた。『京都の歴史』三巻 近世の胎動P121

弘和3/永徳3年(1383年)付け 「今堀郷結鎮頭定書案」
・今堀村は、14世紀、「得珍保(とくちんほ)」8郷(保内郷という)、7ヵ村の中心的な存在であった。当時どの郷も日吉大社を勧請して社を創建しているが、今堀村の日吉神社に当時としては珍しい「今堀郷結鎮頭定書案」(弘和3/永徳3(1383年)の日付)の文書が残されていた。これには、遅くとも鎌倉時代に宮座を中心とする惣結合の実態や保内座商人の活動の詳細が記されていたという。
・「得珍保」(保:行政単位)は近江国蒲生郡(現東近江市)に存在した荘園で、その名は、比叡山延暦寺の僧が平安時代後期に愛知川から用水路を引いて農地化した僧の名に由来するという。

【惣結合の実態】この定書案が宮座の衆議で決定されたことが分かる。しかし、中人(ちゅうにん)・間人(もうと)などと称された農民は宮座に参加することはできたものの3歳年下の扱いを受けるなどの差別もあった。座の閉鎖性はこれに限らず、旅人を村内に留めることを禁止したり、養子に関わる様々な規程を設けるなどの規制も定められている。

【保内座商人の活動】保内郷8郷の下4郷(琵琶湖より)は水利が悪く、水田化が遅れたことも、商業に従事するきっかけとなった。彼らは
 琵琶湖を西へ出て九里半街道・七里半街道を若狭小浜港へ出るルート
 鈴鹿山脈の八風街道・千草街道を越えて伊勢桑名港へ抜けるルート
 東山道を美濃へ向かうルート
などを利用し、東は美濃・尾張から西は京都まで広い行商区域を網羅しており、美濃・伊勢・若狭の物産を京・近江へ運んで売るという、畿内近国の流通を担っていた。取り扱った商品としては美濃紙・陶器・木綿・麻苧・呉服・馬・塩・干魚などが中心であった

『座商人とは』は中世全期に亘って活躍した代表的な中世商人で、権門寺社の庇護による営業上の特権を得るために「座」を組織した商人たちであるが、彼らの前身は朝廷・貴族に食物や生活用品を献ずる供御人、あるいは、寺社の神人(じにん)・寄人(よりうど)・供祭人(ぐさいにん)といった下層階級に属するものが多かった。(はてなブロッグより)

至徳3年(1386年) 足利義満、1386年の五山
・五山の決定及びその住持(住持職の省略形が住職)の任免権は足利将軍個人に帰するという慣例が成立する。どの寺を五山に選ぶかは、鎌倉と京都を一緒にするなど、いくらか変動があったようです。
 五山の上:南禅寺(亀山法皇の禅林禅寺が元、1291年創建)
 京都 五山:天龍寺(1345)、相国寺(1382)、建仁寺(1202)、東福寺(1236)、万寿寺(1097)
 鎌倉 五山:建長寺(1253)、円覚寺(1282)、寿福寺(1200)、浄智寺(1283)、浄妙寺(1188)
・万寿寺は火災にあい一転二転し、永享6年(1434)の火災後、五山第4位の東福寺の北側にあった三聖寺の隣地に移転し、合併。明治19年、万寿寺が東福寺の塔頭となる。
*五山に限らず、当時の寺院では宗教活動を主とする禅僧集団を西斑、寺社の経理や財務、および荘園経営を担当する禅僧集団を東斑(とうばん)と呼んでいました。、、臨済宗の東斑衆はその徴税能力や金融技術を駆使した資産運用などが高く評価されていました。、、15世紀に入ると五山の資産規模は文字通り「室町幕府を食わせられる」状態まで膨れ上がります、、荘園の数は南禅寺だけで加賀を中心に29ヵ所、東福寺だけで22ヵ所(戦国時代の記録)もありました。、、五山、十刹(じつせつ)とその下の地方の末寺まで含めた荘園数は合計で数千ヵ所に上り、それらが全国各地に点在していたとのことです。これらは荘園ですので、基本的に幕府からの徴税は免除されています。、、将軍や管領など幕府の有力者の財布として財政面をバックアップするという持ちつ持たれつの関係でした。『経済で読み解く日本史 室町・戦国』128

*五山・十刹などの東班衆は、農民から収奪した富を資本に土倉と結合して質屋や金融を行なったり、あるいは日明貿易(明国:1368~1644年)に投資することさえあった。これらの現象は、在地の土豪や下層の民衆のなかに、五山に対する平素からの反感を醸成した原因になったと思われる。『京都の歴史』三巻

・室町幕府(1336年~)は五山禅寺に対して不入権や諸役免除などを認める一方、五山禅寺は幕府の事務の代行や上納金などの財務支援を行う、幕府の訴訟制度や対中貿易などを通じて勢力を伸長していきました。
◎幕府は、酒屋・油屋の財力に目をつけ、叡山からの切り崩しをはかります。洛中の業者の多くが日吉社の神人でありながら、幕府直属の「五山より上」の南禅寺に属しました。彼らは叡山から幕府に鞍替えしたことになります。しかし、彼らが完全に幕府御用の商工業者になったわけではないのです。嘉吉の乱(1441年)、応仁の乱などで幕府の力が衰えるたびに、叡山との関係を復活させます。
*叡山は洛中と河東に、祇園社・北野社・京極寺・壬生寺などの末寺・末社を持つ。また京都の北の山々、鞍馬寺・神護寺なども、叡山の動きに同調するのが普通であった。嵯峨にも叡山の悪僧の拠点があり、鎌倉末期には山層の一部が、数百人の悪党を引き連れて城を構えた。京の南、東寺のあたりには、「日吉田」と呼ばれる領地が多かった。叡山の担保として獲得した土地である。『無縁所の中世』60

【関所】鎌倉時代以後、朝廷や武家政権、荘園領主・有力寺社などが、内裏や寺社の修繕のために一定の通行税・通行料(関銭)を取る関所を設置した。陸路と海・湖路があり、陸路(街道)では峠や河岸に設置されることが多い。内裏率分関りつぶんぜきは朝廷が収入を確保する目的で置いたもの。室町時代には京都の出入り口に設けられた京都七口関がある。これら高い通行料に苦慮した京都や山城国など周辺部の民衆は、度々一揆を引き起こし(当時の運送業者である馬借が関与)て関所の廃止を要求し、実力で関所を破壊することもあった。文明10年(1478年)には内裏再建を名目に再度関を設置したが実は将軍足利義政正室、日野富子の収入となっていたことが明らかになると、民衆の不満が爆発し、同年の山城土一揆のきっかけとなった。

【京の七口】律令時代に、五畿(近畿圏)から地方に整備された幹線道路が伸びており、国府やその地域を繋いでいた。 その道路、東海道 ・ 東山道 ・ 北陸道 ・ 山陰道 ・ 山陽道 ・ 南海道 ・ 西海道 を「七道」という。その京からの七道の出入り口を「京の七口」という(7つとは限らないとするのが有力)。この7口をもとに、秀吉は御土居の出入り口を築いている。
nagasak  長坂口(清蔵口→丹波道):北区鷹峯旧土居町(写真右:手前が川)
 大原口(小原口・八瀬口→北陸道)
 鞍馬口(出雲路口→鞍馬街道):賀茂川の出雲路橋の西詰
 粟田口(東三条口→東海道)
 伏見口(五条口→南海道)
 鳥羽口東寺口→西海道)
 丹波口(西七条口・七条口→山陰道):千本七条東側
※秀吉・御土居の入口は上記7つの他、寺之内口、荒神口、八条口、東寺口、竹田口があがっている。
nagasak ◎近世中頃の京都奉行所が記した覚書(『京都御役所向大概むきたいがい覚書』7巻1717年ころ成る)では16ヵ所ある。これをほぼ同じ場所で整理すると、①鳥羽口(東寺口)、②五条橋口(伏見口)、③四条大宮口、④竹田口、⑤粟田口(三条橋口)、⑥大原口、⑦長坂口(清蔵口)、⑧丹波口(七条口、千本口?)、⑨若狭口、⑩荒神口(今道の下口)、⑪鞍馬口、の11ヵ所になる。
・地点名が多い中、竹田口、丹波口、若狭口などは行き先名に因むものもある。
・上記の七口の位置を地図で追ってみると、現在の市街地の中にあることに気が付く。当時の市街地がいかに狭いものだったか、また平安京の計画図から東に、北東に拡がっていることが分かる。
「七口」に向かってきた街道はみな「京街道」「京道」であり、逆にこれらから各地に向かう際には、また別の名が付いている

明徳3年(1392年) 義満(3代将軍)、南北朝の合体が実現
z_heian [地図の解説](地図3)
①中世の京は、上京、下京、河東の3ブロックからなる。
②鴨川の流路は一定せず、東洞院大路と大和大路の間の広い範囲を、季節により時代により、広くなったり狭くなったりしながら蛇行する。
③今の「寺町通」が旧平安京の東限だった。
④町(尻)小路(現在の新町通)は、商家と工房が建ち並ぶ洛中一番の高台で、鴨川に氾濫があってもこの辺りは絶対の安全地帯であった。祇園祭りの山鉾の多くがここからでる。現在は第二日赤十字病院の東の通り。四条通りでは烏丸通から西へ2本目の北行き一方通行の通り。京都駅前の塩小路通では「京都中央局」(郵便)に突き当たる南北通りである。
⑤四条通の西から鴨川を渡ると、(領地が近くまであり)そこは祇園さんで、その橋を「祇園の橋」と呼んでいたようです。一の鳥居が四条京極の鴨川西岸にあったが洪水で流出、二の鳥居は四条大橋東詰あったが応仁の乱で倒壊といいます。
⑥五条通の西から鴨川を渡るとき、(こちらは清水まで少し距離があるが)架かる橋を「清水の橋」と呼んでいたようです。

◎京都の地名は、「東西通名」+「南北通名」で呼ぶ。「二条大路」+「小路」では「二条+町」となり、地図の赤い部分の名称は、同様に、三条町、六角町、錦小町、四条町、五条町、七条町などとなる。
・なお、東西の路について、一条大路~二条大路の間の距離は、二条大路~三条大路間の2.5倍あり、その間は大路と小路が順に繰り返されている。大内裏の南に朱雀門がある。([平安京の大きさ]へ)

町小路は商店街
[二条町]:米の販売市場
 1330年、後醍醐天皇が飢餓の時に、暴利をむさぼる米商人に、強制的に米を安く売らせた。
[四条町]:日本最大の武器市場
[五条町 前後八町]:当時の繁華街
 延暦寺が地主で、北は高辻小路、南は五条大路、東は西洞院大路、西は室町小寺に囲まれた広大な土地。南北120m、東西240m。叡山が地主として地代を徴収する土地・家屋台帳が、応仁の乱を夾んで1466年、1477年の2冊残っている。大工、銀細工、、武士は一人も住んでいない。
 秀吉が、五条大路の二筋南(六条坊門)である綺麗な松並道に橋を架ける。これを「五条松原」と呼んでいたが、その後「五条通」だけが残った(※五条大路が松原通に、六条坊門が五条通になった)。
[六角町]:60人の生魚商人(全員女性)
[三条町・錦小路町・四条町・七条町]:祇園社に属する綿座商人80人が住む

*七条町の干魚座、六角町の生魚御供人、四条町の直垂座、綾小路町の紺座、三条町の綿座・鎌座などの町座があった。特に三条町・四条町・七条町が栄えたという。
【町小路の名称】北側を「町口」南側を「町尻」に由来し、平安時代後期から末期にかけて、「町尻小路」と「町小路」とが併称され、次第に「町小路」に定着していったようである、と。
【町小路に水路の発見】町小路の路面中央部に幅約10mの水路があり、水路の東側に幅1.6~1.8mの路面が、西側に幅1.1~1.2mの路面がそれぞれ設けられたことが判明した。これは雨水や地下水を排出する目的であったと考えられている、と。堀河の川幅4丈で約12m。上2つ『花の都』
◎多分、他でもこのような水路が掘られたりしていて2つの堀河に繋がったりしているのであろう。

町小路には土倉が建ち並び、祇園会(ぎおんえ:祇園祭のこと)の山鉾を出す「有徳人」とよばれる金持ちが多くいた。洛中では内裏も武家屋敷も、鴨河原よりは水害の危険が少ないけれども、町小路よりはずっと危険な東京極~東洞院の間にあった。京では商人・職人が一番偉いのだ。『寺社勢力の中世』42

明徳4年(1393年) 朝廷、諸寺諸社の神人が持っていた免税権を否定
*ついに、無縁の人が課税対象になったのだ。室町幕府は洛中洛外の土倉・酒屋への課税を開始し、これが室町幕府の主な収入源となる。土倉役・酒屋役は年間六千貫、祇園会二十回分に相当する金額だ。祇園会(祇園祭)1回で300貫必要。

応永年間(1394~1428年) 堅田、漁業権と湖上関にて、他浦と争論
堅田は菅浦との漁業権や、堅田が設置した「今堅田関」や「堅田関」をめぐって、運送業者である大津馬借との争いを引き起こしている。この争いのなか、比叡山の支配を受けながら 自治が芽生え てきた。その中心は地侍である殿原とのばら衆であった。この殿原衆に加えて商工業者からなる全人もろうど衆を加えた形で、堅田の裁判や警察権の行使が行われた。町の「惣」組織が、この地にできあがっていった。 『覇王 信長の海 琵琶湖』27
◎町の「惣」組織も戦国大名により破壊されてしまう(ここでは織田氏)。

応永4年(1397) 3代将軍義満が西園寺を譲り受け北山殿の創建
 足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この時を金閣寺(鹿苑寺ろくおんじ)の創建年としている。当時、「北山殿」または「北山第」と呼ばれ、ここで義満は政務を執っていた。臨済宗相国寺派。

応永5~天文14年(1398~1545年) 法隆寺の播磨国鵤荘記録
◎法隆寺の領国(荘園)支配が、農村の一揆にあって、その調停に戦国大名の力を借りる事象が見られる[播磨国鵤荘の記録]。

応永8年(1401)から1549年まで、日明貿易、19回の交易
*倭寇や密貿易でない証しに"勘合符"を使用した貿易で勘合貿易とも呼ばれる。貿易は対等取引ではなく、明の皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていた。明からの輸入品は輸出品を大きく超過するのが通例だった。応仁の乱以後、室町幕府は博多や堺などの有力商人に抽分銭(輸入税)を納めさせて遣明船を請け負わせる方式を取る。
 輸出品 - 硫黄、などの鉱物、扇子、刀剣、漆器や屏風ほか
 輸入品 - 明銭(永楽通宝)、生糸、織物、書物ほか
・日本の銅は非常に高値で明に輸出された。それは、中国での慢性的な銅の不足の他、日本の銅には少なからずの銀が含有していて、銀を抽出する技術を持っていたからと言われる。
・明で購入した糸250文が日本で5貫文(=5000文)で売れ、反対に日本にて銅10貫文を1駄にして持ち込んだものが明にて40-50貫文で売れたと記している。
【永楽通宝】明の永楽帝の時期(1411年)から作られた銅銭で、室町時代後期に大量に輸入され、伊勢・尾張以東の東日本を中心に江戸初期まで使用された。16世紀の東国で用いられたものは、日本の東国地域で鋳造されたともいう。尚、永楽通宝には秀吉が作らせた、恩賞用の銀銭、金銭がある。[通用禁止令]

応永10年(1403) 京都、東寺南大門前に喫茶店の元祖なる茶屋
*常設の店舗「一服一銭茶」と呼ばれる茶屋が庶民相手に営業していた。、、だが多くの場合、縁日などを対象にとした振売(行商)が普通であり、常設の茶店による営業形態は稀であった。、、常設茶店があるということは相当数の人びとが日常的に往来していたと推察される。、、重要なことは、庶民の間での喫茶の流行巡礼の流行(西国八十八ヵ所との関係)である。
*東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集める。、、毎月21日の御影供みえくの日(弘法大師・空海の命日:3月21日、延応元年(1239)以降は毎月21日)には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。、、宣陽門院(1181-1252:後白河天皇の第六皇女)は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。、、文明18年(1486)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。 上2つ『京都と京街道』114
[弘法市] 毎月21日に、骨董品・古道具・衣類・食べ物・植木などを販売する1,000店以上もの屋台露店が立ち並びます。

応永13年(1406) 京都岩倉、大雲寺の所領を安堵する文書(室町幕府)
*大雲寺の寺領が「甲乙人」(近隣の土豪)に侵犯され、大雲寺の取り分が減少(『実相院文書』)、下鴨神社の神領を中心に、社寺領や公家領が増加しました。「大雲寺法師十五家」「解脱寺法師十家」は荘園の管理を任されていたが次第に有力になり、土着の有力な武士のリーダーになったものもいました。西川家(屋号「八左衛門」)は解脱寺の法師家の一つです。 [京都岩倉の法師家]
解脱寺は永正年間(1504-1521)まで寺は(長谷に)存在したと、天保年間(1820-1844)まで寺門派として寺は存在したともいいます。1840-1842年、解脱寺の修理が行われ、本尊の遷座が行われ、大護摩を修めた際に、園城寺御堂衆2人が加わる、といいます。また、1867年華王院権僧正により「解脱寺閼伽あか井」碑が建立された、と。Mapは[こちら]

法師家は天皇が亡くなった際に、泉涌寺(せんにゅうじ)の浮橋より御葬所まで、御宝輿の護衛の役を任じられていた。長谷には聖護院に属した10人が解脱寺法師としており、ほかに岩倉・大雲寺に15人、宇治・平等院に5人、延暦寺に60人、園城寺(三井寺)に36人が置かれ、合計126人が存在したという。(平安時代、1000年の聖護院宮執事の文章)
「浮橋」 水上にいかだや多くの舟を浮かべ、その上に板を渡した橋。
力士(力者)たちの仕事は、あくまでも行列の供奉であって、『実相院日記』をみても、園城寺の方で行列の供奉の人数が足りないからでかけるといった程度のもので、決して武装する集団になったりはしない。また、実相院に残る文章も、園城寺から力士(力者)の派遣依頼のものが多い。『京都岩倉実相院日記』176
◎法師家の御宝輿の護衛は「泉涌寺の」「浮橋」なっており、泉涌寺がかなり広かったことが予想されます。廃仏毀釈で寺の境内が狭くなったようです。
*浮橋は、鎌倉時代の第87代・四条天皇など歴代の天皇、皇后などを葬る泉涌寺へ向かう葬送のためのものであり、葬送の度毎に架け替えられていたという。1500年、第103代後土御門天皇が亡くなり、葬送は、夜間に松明を持って行われた。葬送は、七条河原に架かる「浮橋」を渡り、東行し、法性寺を南行、その後、泉涌寺に向かったと記されている『和長御記』。1684年、天皇が亡くなると御車は、禁裏門より、大和大路、落橋を渡り泉涌寺に向かっていたという。橋は葬送用に架け替えられていた『雍州府志』。1697年、橋は架け替えられた『京都御役所向大概覚書』。
s_sentera泉涌寺】東山区、真言宗の寺院。空海が天長年間(824-34)に草創した法輪寺がおこりとも。南北朝時代から安土桃山時代までの歴代天皇の葬儀を一手に行う。霊明殿には歴代の天皇や皇后、皇族の尊牌(位牌)があり、月輪陵には歴代天皇、皇族の陵墓群(25陵・5灰塚・9墓)がある。皇室の菩提寺として御寺(みてら)と呼ばれている。仏殿の大涅槃図は毎年3月14日~3月16日に公開。仏殿が鍋底に位置するのは比叡山延暦寺と同様で、それを見上げるよりも、重厚さを感じる。

*「中」村の人々は、自分達は賀茂の中村郷から移ってきたのでないかという。「中」の人は下鴨社の社人なので、細川氏、三好氏、明智氏の岩倉乱入どき軍役、人夫などを免除されたか。『洛北岩倉』

応永17年(1410) 京都岩倉、解脱寺は山僧の焼討、西川氏の荘園収奪に衰退
*未開の地を開墾するかたちで、伊佐氏(近江の佐々木氏の出自)が岩倉中部・北部に入って来たのでしょうか。
◎西川氏と伊佐氏、この両家には1410年時点で、婚姻関係(雅綱の母が西川安房資治女)があり争いがないようです。西川氏は解脱寺法師家のリーダーとなり武士化、一時に小倉山を拠点にするときもあったようです。

応永20年(1413)、高野山が定めた一味契状
聖の激増:行人より身分の低い聖の活動はどうだったのか。境内都市ではどこでも人口増加が深刻な問題になった。参詣者なのか一時逗留の聖なのか判然としない人々が、「宿借人」として居つくことが多かった。流入民の増加は、旧住人にとっては異人の激増と意識されて不安を醸し、平安時代の京都における車宿の増加と同様、都市秩序の危機と受け取られた。1413年に高野山が定めた次の一味契状(一揆契状)がこの不安を物語る。、、高野聖のおかげで参詣者が増加し学侶も潤っているのだが、恩に着るようすはさらさらない。
【一味契状】当山は真言宗の霊峰である。他人を雑住させないのが先例だ。門徒でないものが雑居することは、高祖弘法大師の厳しい禁令がある。近年、覚心という荒入道が萱の庵を結び念仏三昧を行って以来、「高野聖」と自称し、諸国を回って行く先々で食を乞い野宿をして、仏道修行だと称するものがいる。誰にもできるお手軽な易行なので、世捨人の類が、こぞってこの門下に入っている。今や高野山は念仏の寺のようになってしまった。今後、外来者の住宅建設を禁ずる。2つ『寺社勢力の中世』144

応永23年(1416) 京都岩倉、大雲寺の領地は、『実相院文書』によると
*大雲寺の領地として「東は限る安禅寺坂万年岡直通、西は限る篠坂大道西端直通、南は限る木行坂峠、北は限る静原氷室北谷河越・・」(『実相院文書』)と書かれ、旧岩倉のほとんどを占めるばかりでなく、長谷、修学院、一乗寺にもわたる広さであったようです。『洛北岩倉誌』31

応永25年(1418)6月 近江で最初の馬借一揆
*同年6月25日、大津の馬借が祇園社の神輿を奉じて強訴した一揆。

*月三回開かれる三斎市を普通としたものが、室町時代に入ってからは月六回の、いわゆる六斎市も現れるようになった。、、問丸は今日の問屋の前身をなすものであって、、一種の荘園役人というべきものであった。、、この問丸は交通の要所におかれ、、、年貢の委託販売おも引受けるようになった。、、商人のための旅宿も営めば、為替の取組みにも応じるという、、問丸は荘園の役人たることを止めて、、中継商業の機関と変わってきた。、、坂本、大津、今津の問丸は有名であるが、湖西にあっては舟木、湖北では朝妻、八幡(今浜、秀吉は信長の長を取り長浜に)、海津なども問丸が存在したことが知られている。 『彦史』上282

応永25年(1418)9月 播磨国、法隆寺の鵤荘支配状況
◎法隆寺の荘園鵤荘いかるがしょうでは、法隆寺から派遣された4人の僧侶が領国を治めていた。その下に、給米を受けた農民代表である公文がいた。年貢は、当時は金と同等であるから幾分かは大坂で日用品に交換されたのであろうが、大坂を経由し奈良の法隆寺に運ばれた。記録の150年間に、農民による2度の逃散があったが、それは、家の外側を囲って中に住み「篠・柴を引く」ものであった。[法隆寺領鵤荘]

応永26年(1419) 北野麹座、京都全域で麹の製造販売の権利を獲得
◎室町時代には、300以上の酒屋が使う麹は「麹屋」が卸していました。酒屋はまだ麹造りを行っておらず、「麹屋」が別個に存在していて、酒屋はここから麹を仕入れていました。北野天満宮は、「麹座」と呼ばれる麹屋の同業者組合(北野麹座)を結成し、麹の製造や販売の独占権を取り仕切っていました。しかし、酒屋全体が急成長し始め、その中でも資本力のある酒屋が麹造りに取り組み始めます。これに反発した麹座は、同年、京都全域における麹の製造販売の権利一切を幕府から獲得し、京都の酒屋が自身で麹を造ることを一切禁じます。[北野社]

z_heian [地図の解説] (地図4)
①旧平安京の朱雀大路が千本通といわれています。
②旧平安京の大内裏の西部の多くは荒廃し内野と呼ばれ、そこを横断する道ができています。
③神泉苑は、できた当時の威容を誇っています。
④粟田口からの三条街道(東山道へ繋がる)と渋谷(汁谷)街道(渋谷峠)とは先の「五条別れ」で繋がります。その先には髭茶屋追分があり大津へでます。

応永32年(1425年)、京都 土倉や酒屋が繁昌
【京のようす】社会政策の無策は、多くの難民をだした。彼らのうち、餓死をまぬがれたものは、どうしたか。
一は、人買いに売られ、、一家をあげて身売りすることを"身曳(みひ)き"という。
二は、流亡であるが、浮浪・浪人もさかんに史料にあらわれる。
三は、賎民で、特に多いのは河原者・散所・娼聞師であり、、
 一方に貧者あれば他方に富者あり、とくに酒屋などは利益も多かった。たとえば応永32、3年(1425,6)の洛中外の酒屋347軒、その大半が土倉を経営した。、、幕府は土倉役・酒屋役をかけたが、酒屋役の単位は酒壺で、応仁の乱後の衰退期でも一軒に15~120の壺数をもち、もっとも有名な五条坊門の柳酒屋は720貫の酒屋役を収めている。、、平安期に天皇の乗物をかつぐ仕丁(しちょう)たちの集団、四府駕輿丁座(しふかよちょうざ)がその実権をにぎっていた。、、造酒と米は全国から京都にあつまる。その市場は三条室町七条あたり、、僧侶が土倉をいとなむことも、、当時としても富裕商人は"有徳人"とよばれ、幕府の建築や臨時の行事に"有徳銭"の差しだしを命ぜられた。、、この有徳人が"町衆"のおこりであるが、畿内では小農の独立、生産の進歩から商業活動も活発化し、、
・町をつくって集団生活をいとむ人を町衆という。そのなかには、商工業者、町住みの武士や農民、公卿をもふくみ、富裕階級が多く、文化人も多く輩出して民衆芸能のにない手となり、庶民文化の発展に貢献した。、、
・町衆は、自衛面では支配者に協力しても、地子銭(地代)や年貢の減免などでは、自分たちの要求を支配者にみとめさせようという動きもしめした。16世紀はじめの天文法華の乱(法華一揆)のころは、彼らは自ら武装して戦い、また町の敵にたいしては、人民裁判で犯罪者を処刑したりしている。、、
町衆の起源が"有徳人"すなわち豪商である」と言い切っている(『京都府の歴史』)。富商も多く輩出し、室町時代からは"室町衆"とか"三条町衆"とか住む町の名を冠して呼ばれるようになったと。

*平安時代の"町"は条坊の最小単位で、一町(約120m)四方あり、それは他の町と区別された領域であった。道路に面して家がたち、その四面を"頬(ほお)""面(つら)"とよび、各家の裏口は共有の空閑地で、この空閑地を通じて相互につらなっていた。ところが、商業の発達とともに、郭頬は道路をはさんで隣の町の"頬"と一つの商業区を形成するようになり、僧兵や土一揆の襲撃などに対抗して、治安の面でも自然的な連帯組織が生まれた。
 室町時代には「町屋まちや」とよばれる市民住宅が増加した。このことは、京都が都(みやこ)から町(まち)へ変化してきたことを示すものである。すなわち、町屋は間口2~3間(1間=6尺=1.818mで、3.6~5.5m)、奥行2間くらいの小商店で、正面には店棚とよばれる商品の陳列棚をつけ、入口にのれんなどをかかげた。家の中が、片がわが土間で他の一方が板敷きの部屋を片土間住居、土間の両側が部屋になっているのを中土間住居と称した。畳は公家や武家が用い、町屋ではほとんど使用されず、屋根はわらぶき萱葺かやぶきの"クズ屋"であった。二階屋が出現したのは、応仁の乱後かなりのちである。  町衆は、自衛面では支配者に協力しても、地子銭(地代)や年貢の減免などでは、自分達の要求を支配者に認めさせようという動きも示した。『京都府の歴史』98

z_zyoub 【条坊制と条里制】条坊制は都市計画上のもので道路の配置が含まれていて、条里制は農村計画上のもので土地の分割が目的。左右両京及び条・坊・保・町などに区切られていた。大路に四方を囲まれた区画を坊と呼び、1坊の1/16を町と称した。1/4坊=1保=4町。
◎東西の大路(条)、南北の大路(坊)で囲まれた中に、条坊の最小単位の街区("町")が16ある。この街区の一辺は1町(=60間)、距離にして約120mある。中央は庭、空地及び農地である。間口4.0m(奥行き2間)の町屋で考え、東西側と南北側に配置すると、一辺に約30軒だから、一つの街区に約120軒が建ち並ぶことになる。
 もちろん、通路に面する側に出入口があり店舗、奥が住居や台所や便所、庭となる。平安京以来の「町割り」ではどうしても、"町"の中央部分に庭や空地、農地や共同の井戸・便所などが集合し、この部分がかなり広かったように思える。井戸・便所は一軒一軒あるはずはなく、多くは共同のものと考えてよい。時代的な差があるが、18世紀の彦根城下町の店舗の場合と考え併せると、大通りに面した所、また角地であるほど家賃が高いことになる。また富裕な商人ほど数軒分の敷地をもっていたりする。

z_kyoumachi  "町"が幾つか集まって"町組"ができるようだ。応仁の乱前に40基の鉾や作山つくりやまがあったというから、京都の町衆の心意気は実に素晴らしい
 ところで、大路の名称についてだが、平安京の坊条制の横通の「条」、一条大路、三条大路などの名称はある。しかし、縦道の「坊」、西一坊大路、東一坊大路、東二坊大路などの名称はなく、西大宮大路、大宮大路、西洞院大路の名称になっている。
 また、大路と大路の間には三つの小路(道幅約12m)があるが、東西の中央の小路を坊門小路という。坊門とは「まちの門」という意味があるようで、朱雀大路からこの小路に入るときに東西14の門があったという。ここに由来するらしい。北から南へ順に、二条大路と三条大路の中央は三条坊門小路、三条大路と四条大路の中央は四条坊門小路、三条以下九条まで以下続く。北から見て、「坊門」を冠した名称は「○○坊門小路」が「○○大路」より先にくる。

*五山が権力とむすんで繁栄をほこればほこるほど、民衆との距離はとおくなる。そして京都庶民の心をつかんだのは『京都の半分は法華宗』と豪語した日蓮宗である。『京都府の歴史』102
・この頃、日蓮宗日親(1407-1488年)が法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく、京都一条戻橋(現:上京区堀川下之町)で辻説法をはじめるから、比叡山延暦寺や将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの他宗派から激しい弾圧を受けた。
*日親は、足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、永享12年(1440)『立正治国論』を著して直訴を試みたが、投獄されて、舌先を切り取られたり、真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けた。
・将軍義政の実母日野重子(孫に日野富子)を信者に成功してから、破竹の勢いで信徒を獲得し、応仁の乱の前までに、妙顕寺、妙覚寺、妙満寺など10ヵ所が京都市内に建立されました。、、本能寺(はじめ本応寺)もこの頃に建立される。『経済で読み解く日本史 室町・戦国』206

応永33年(1426)6月8日 近江国、坂本の馬借が北野社の公文所を焼打ち
◎酒屋が麹を造れなくなったことで米余りが生じ、その結果米価が暴落。延暦寺の影響下にあった近江国の坂本の馬借が米を輸送する仕事が無くなったとして北野社の公文所を焼打ちにしようとした一揆である。
・多くの人口を抱える京都。主食や酒造りに多くの米穀を必要とする。坂本の馬借がどの街道を利用したか興味を引く。坂本から最も近いのは比叡山寄りの雲母坂、かなり険しい。それでは志賀越。ここは車で通ったが起伏・カーブが激しい(たぶん今の車道でないだろう)。それでは三条・大津街道となるが、逢坂と日ノ岡の峠がある。江州米を運ぶのにどこがベストか判断に迷うところ。この頃は東山道というのが瀬田を起点として整備されている。

正長元年(1428年)、正長の土一揆
*8月から9月に、凶作、流行病(三日病)、将軍の代替わり(足利義持から義教へ)などの社会不安が高まる中、近江坂本や大津の馬借が徳政を求めた。その一揆が畿内一帯に波及し、各地で借金苦に耐えかねた農民たちが酒屋、土倉、寺院(祠堂銭)を襲う。徳政一揆(借金棒引き)。農民が起こした初めての(惣村の結合をもとにした)一揆でもある。

永享6年(1434)、伏見、山門の神輿入洛に朝廷の依頼を受け防戦
◎伏見荘は淀川水運の起点として早くから栄え、室町時代に三木村・舟津村・山村・森村・石井村・野中村の存在が知られ、秀吉の頃には伏見九郷と呼ばれ九村からなっていた。荘園の中心には、領主伏見宮家の居所伏見殿があり、伏見荘の政所には地侍の小川氏があたっていた。下司の三木氏は、三木村を根拠とした地侍であったが、御香宮の神主をも兼ねていた。
 1434年、山門の神輿入洛に朝廷の依頼を受け、伏見荘民は醍醐の人々ともに防戦した。このとき御香宮に集まったのは、三木・小川などの地侍七人とその下人(農民)五十人、さらに舟津村六十三人、三木村百人、山村三十人、森村十五人、石井村十人、野中村十人の農民たちといわれる。、、この荘園には地侍・農民・下人の区別があったことが知れるが、地侍はまた、沙汰人・殿原とも呼ばれていた。また、地下下人の間には、おとな・若衆の組織があったこも知られている。、、御香宮が、農民たちの鎮守となり日ごろ農民統合の中心となっていた。祭礼は農民たちが親しみを持って、中心になり運営された。『京都の歴史』三巻 近世の胎動P294

永享6年(1434)、幕府、動座を実行した山層、包囲し討ち取り刑罰与える
*山名・小笠原・畠山の諸氏に命じて、、逃げたものは山科などの土民に命じて討たせ、甲冑を剥ぎ取らせた。当時は、警察権を行使した者(検断権者・検断執達吏)が犯人の財産を自分のものにできる。、、1451年、室町幕府評定にて、神輿を動かすこと禁止。張本人を捜し逮捕・所領を没収。 『無縁者の中世』37
◎このころから動座がなくなっていくようだ。

2月14日、六角室町より出火、都合二百八十余町焼亡。因幡堂・万寿寺など焼亡.
5月、世阿弥が佐渡に配留される。
6月17日、高倉永藤、硫黄島に流罪。このころ廷臣の処罰が相次ぐ。
7月、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀し、義教を呪詛じゅうそしているとの噂が流れた。
7月17日、相国寺、建仁寺の僧各一名六条河原で処刑される。
8月、義教はただちに近江の守護である京極持高・六角満綱に命じ、近江国内に多くあった延暦寺領を差し押さえさせ、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨いだ。
10月14日、山徒入洛により諸将に警固させる。山徒等神輿を修学院辺りに棄てて帰る。
11月6日山徒、山門使節杉生坊を坂本に敗死させる。

永享7年(1435)1月 足利義教、延暦寺の有力僧を誘い出し斬首
【これより先の背景】
・1419年より天台座主であった足利義宣(義満の子、義持の弟)は、青蓮院しょうれんいん門跡(知恩院の北側)より還俗後すぐに弟の義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図った。正長2年(1429)3月、義宣は義教と改名し征夷大将軍となり、幕府権力の強化と社寺勢力への介入を積極的に行った。 [門跡寺院についてはこちら]

・永享7年2月5日、延暦寺の僧侶達は義教を抗議。義教、根本中堂に火を放つ。24人が焼身自殺。根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼し、義教は延暦寺の制圧に成功した。叡山を焼討した人物としては、他に、室町幕府を事実上滅ぼした細川政元、織田信長がいる。
・永享11年(1439)6月14日、祇園会で喧嘩あり、祇園祭神輿に矢が射かけられる(ただごとでない)。この年、日新が帰洛し将軍義教を諫暁しようとして投獄される(永享の法難)。
・永享12年(1440)2月、天台座主に園城寺の明尊が任命され、延暦寺は激しく抗議し約3,000人の山層が関白頼道の邸にせまる。明尊は1ヶ月後に天台座主の座を降りた。
・嘉吉元年(1441)4月2日、盗人、禁中に侵入して宮人の衣を奪い去るなど禁裏盗犯が連続する(京の治安はよくない)。5月10日六条法華堂が炎上、11日六角満綱第が炎上する。5月10日大雨洪水により四条・五条の両橋が落ちる。

嘉吉元年(1441)6月24日 将軍義教、宴の座敷にて殺される
・義教、結城合戦(同年6月)を終え慰労に家臣の館に招かれる。猿楽を観賞中、武者ちが宴の座敷に乱入。赤松氏配下の安積行秀が義教の首をはねた(嘉吉の乱)。享年48(満47歳没)。義教が殺されると、延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻った。

【京の混乱】同年9月3日、京畿の土民数万人が徳政令と称して蜂起する。6日、土一揆洛中洛外の社寺に立籠り、放火をほのめかして徳政を強請する。10日、土倉が襲撃や炎上(放火)にあう。土倉衆、幕府に賄賂千貫を出し一揆鎮圧を求める。畠山持国等不同意によりこれを返却。12日、幕府、徳政を土民に限ろうとするが、一揆、総並みの徳政を主張し、この日、幕府、一国平均徳政令を下知する。13日、山徒馬借等、六角満綱第(京都屋敷)を襲撃する。満綱は近江へ逃げ帰る。
 このころ、京都の酒屋三百二十七軒を数える。これより先、徳政令によって土倉酒屋役(税)が減少する(14世紀後半の禁止令や課税は、土倉酒屋に打撃を与えたものの、それで廃業するなどの影響はなかったようだ)。1442年2月、幕府は酒屋に課税する。

【足利将軍】1尊氏 -- 2義詮(あきら) -- 3義満 -- 4義持(もち) -- 5義量(かず) --(※)義持 -- 6義教(のり) -- 7義勝(かつ) -- 8義政 -- 9義尚(ひさ) -- 10義材(き)(のちの義稙(たね)) -- 11義澄(ずみ)(初め義高) -- 10義稙(再) -- 12義晴(はる) -- 13義輝(てる) -- 14義栄(ひで)(初め義親) -- 15義昭(あき)
※ 義量の早世に伴う将軍代理

文安元年(1444年) 六角氏の内紛
*満高のあとは満綱、持綱とつづくが、文安元年持綱は、被官人すなわち部下のものから、行儀心操無道であると幕府に訴えられている。これは、六角の被官たちが持綱派と弟の時綱派に別れて勢力争いをしていたためで、翌年持綱は父の満綱とともに時綱を攻めたが、逆に時綱に敗られ、六角の菩提寺の慈恩寺(今の浄厳寺)の威徳院で父子が枕を並べて自殺した(1445年)。幕府は二男時綱の六角家の相続を許さず、満綱の四男で、相国寺の僧となっていた末弟の久頼還俗げんぞくさせ六角家十代目の当主にすえた。久頼は、京極持清の援助で、愛知郡高野の飯高山にこもる時綱を攻めて自殺させた(1446年)。このとき家人千人余人が時綱に殉じて切腹した。時綱が父、兄を攻めたのも、重臣にそそのかされてやったことで、六角佐々木家の内紛は頂点に達したといえる。
・六角を継いだ久頼は、、京極持清のため、、引きずり回されるような目にあい、康正2年(1456)10月2日憤死したと記録されている。、、久頼の嫡子高頼は、このとき生まれたばかりの赤ん坊であったので、さきに久頼にほろぼされた時綱の子・政堯まさたかが後見した(1458年)が、、、応仁の乱が起こった(1467年)のはこの頃で、、 『近江源氏の系譜』48

*[歴代の近江守護]の閲覧(室町幕府成立どきから)

◎下図の守護職についた順序番号については多少意義のある部分です。また政勝は不詳の人物で、久頼と高頼の間に年齢差があり、この間に入るだろうと予想されています。

<六角氏>        
  |--頼明    |⑧持綱 |--虎夜叉丸 
|②頼綱--|--宗信   |⑨時綱--政堯-------|--虎千代丸  
|-  |--成綱   |    
|-  |--宗綱   |   
|-  |-時綱(*) |⑤義信---× |⑩久頼--|-政勝(政頼)-|⑫高頼-- 
||③時信 -----④氏頼-|--高経 | |⑫高頼--  
|--頼起---時綱(*) |⑥満高---⑦満綱-|--高久 (亀寿丸)  
      (三井家へ)  
<京極家> |--秀綱      
--④宗氏--⑤高氏(道誉)-|--秀宗  |⑧高光--|⑩持高---|⑫勝秀 ----|⑮高清--
  |⑥高秀--|⑦高詮---|⑨高数|⑪持清|⑭政経|(乙童子)
   |--秀満  |⑬政光|--孫童子

注)1:氏頼が観応の擾乱(足利政権の内紛)で進退に窮して、観応2年6月25日に出家したので、父から義信に家督を譲られたが、幼少のため叔父・山内信詮(定詮)が近江守護となる。内紛により、代わってもう一人の叔父である直綱が近江守護になった。

注)2:六角当主④氏頼(佐々木宗家、妻は道誉の娘)の嫡男・義信が1365年、17歳で早世。兄二人を亡くし、京極家当主となった高秀(道誉の三男)は、嫡男である高経(後の高詮)を養嗣子ようししとして六角氏を継がせ、次男の秀満(満秀とも)を京極氏の跡取りと定めた。その後、氏頼は1369年に亀寿丸(後の六角満高)をもうけ、翌年には死去(1370年)してしまう。高経が京極家へ戻るも跡目争いが生じ、幕府は高詮たかのりに対して亀寿丸が成人するまでの後見役として、六角氏が代々務めていた近江守護へと任じる。なおこの間、高秀は、1368年に評定衆へと加わり、従四位下大膳大夫に任ぜられ、1373年には父道誉が亡くなり家督を継いでいる。高詮は、1377年に近江守護職を解かれ京極氏へ戻る。

注)3:満高の正室は足利尊氏の四男基氏の娘。佐々木氏傍流の京極高詮が父の猶子として家督を継いでいたが、1377年に追放され、満高が家督を継いだ。満綱は、正室が3代将軍義満の娘であることから6代将軍・足利義教の信任を受け、1434年に京極持高と共に延暦寺攻撃に加わり、近江国内の延暦寺領を没収している。1441年の嘉吉の乱で義教が赤松満祐に暗殺される(6/24)と後ろ盾を失い、同時に発生した嘉吉の徳政一揆(京畿の土民数万人とある)で領内は混乱。山徒馬借等が京都屋敷を襲撃する(9/13)と近江に逃亡した。同年に近江守護を解任されて、同族の青木持通が任ぜられたがすぐに復帰する。その後、家督と守護職を嫡男・持綱に譲ったが、1445年、反対勢力に擁立された次男・時綱によって持綱と共に自刃した。

注)4:「亀寿丸」と称した人は、六角満高、六角政勝(政頼)、六角高頼が幼名として用いていたようである。

文安元年(1444年) 京都、文安 (~1449)の麹騒動
◎[背景:麹を、「座」をつくり北野社神人独占するので、酒屋が麹を造れいない(酒が造りにくい)ことで米余りが生じ、その結果米価が暴落した。延暦寺の影響下にあった近江国坂本の馬借は、米を輸送する仕事が無くなったとして北野社の襲撃を計画する事件も発生する(1426年)。一方、北野麹座は、酒屋の麹造りに強く反発した。この北野麹座と酒屋の対立は、背後の北野社と延暦寺(酒屋には延暦寺を本所とするものある)の対立に、さらには運上金をあてにした幕府をも巻き込み紛糾はエスカレートする。]

*不満を持つ延暦寺は、文安元年4月7日(1444)西塔釈迦堂に立てこもり、次いで京都に向けて強訴。北野麹座に属する神人らは北野社に立てこもった為、管領畠山持国は5月13日に鎮圧の兵を北野社に差し向けた。このため武力衝突に発展して死者も出した上、西京神人が放火し北野社を含む一帯(少なくとも4棟の社殿)が焼失し、幕府側が付近を鎮圧した。 嘉吉の乱以後、政治的影響力を衰退させていた幕府はこれに屈して、北野麹座の独占権の廃止を認めてしまう。その結果、酒屋側に屈服した麹屋側は京都において衰退した。

・天文14年(1545)になって再び、北野麹座による麹の独占が許されるものの、室町幕府の権威が完全に失墜した状況下では時は既に遅く、やがて麹造りは酒屋業の一工程となった。またこの事件は、近江の『百済寺酒』などの僧坊酒(そうぼうしゅ)が台頭する一因ともなった。

【西京神人】1379年が初見。北野所領である西京七に居住。西京神人として、祭礼を奉仕する(「保」ごとに北野祭の馬上役を負担するなど)ことによって、課役免除の特権をもち、朝廷の造酒正が課した酒麴役さえ免除される特権を有した。

【麹、糀(こうじ)】米、麦、大豆などの穀物に食品発酵に、有効なコウジカビなどの微生物を繁殖させたもの。コウジカビは、デンプンやタンパク質などを分解し様々な酵素を生産・放出し、分解したとき生成するグルコースやアミノ酸を栄養源として増殖する。これら各種分解酵素の作用を利用して日本酒、味噌、食酢、漬物、醤油、焼酎、泡盛など、発酵食品を製造する。「麹」は中国由来で、「糀」は江戸期には確認できる和製漢字で、特に米糀を指す。

文安2年(1445年) 兵庫(神戸港)の繁栄
*東大寺が兵庫に設置していた北関における税関帳簿(『兵庫北関入船納張』)によると、文安2年の1年間に兵庫へ入港した船は約二千隻にも及んでいたことが判明する。これは1日五隻という大変な数であるが、これらに積まれていた物資の大部分は京都へ持ち込まれていたと考えられている。、、西国街道を経由して東寺口(鳥羽口)などから洛中へ流入する人と物の量がいかに膨大なもの、であったか、、東寺口の関の管理人は万里小路家に年間200貫文の請負料を払っているが、この額は、たとえば若狭方面からの入口にあたる長坂口の請負料30貫文(応永13年(1406))などと比較しても、桁違いに大きな額であったことがわかる。『京都と京街道』117

・この時期の「洛中」の西南方向の境界は、西は大宮通、南は七条通辺りで、東寺界隈は「洛外」に属していたことになるが、西国地方の玄関口として相当な賑わいであったことがわかる。東寺寺内が、往来する商人達の、洛中への「通り抜け」通路として利用されていたり、明・朝鮮使などの外国使節団の入洛どきは、東寺界隈は見物客で溢れかえった
 永享6年(1434)、「唐人五百人ばかり入洛す、貴賎東寺辺りに見物、六条法華堂(本国寺)に入らる」(『東寺執行日記』)とある。、、東寺五重塔は、上京する人びとにとって一種のランドマーク的役割を果たしていたらしい。、、応仁・文明の乱を契機に兵庫は東西両軍の争奪の地となり(衰退)、、
 長享2年(1488)、兵庫南関を領していた興福寺は「近年大乱以降、往来の船なく、関務一向招待なし」(『大乗院寺社雑事記』)と述べ、、兵庫の著しい衰退に代わって、この時期に急速に興隆してくるのがであった。『京都と京街道』118

康正2年(1456) 坂本で馬借が主体として蜂起
*徳政令の発布を要求した土一揆(坂本の馬借)が日吉社に閉籠。山門使節並びに山徒等の攻撃を受けて自焼している。『師郷記』

長禄3年(1459) 京都、台風が直撃し、賀茂川が氾濫
*同年2月4日、所司代多賀出雲守清忠、餓人の衣類を強奪しようとした三人の男を斬る。9月10日、大風雨、鴨川が漲溢(ちょういつ)し家屋・人民に多くの被害が出る。『京都の歴史』10巻
◎全国的な干ばつ、畿内の台風の被害が発生。賀茂川が氾濫して多数の家屋が流出し、数え切れないほどの死者が出たほか、飢饉がより深刻化した。

長禄3年(1459) 高野山、検断は行人組織が行う
*室町時代以降、高野山・根来寺周辺地域の文章に、学侶に対して行人という語は多く見られるが、衆徒・学侶などの言葉はほとんど見られない。寺外の一般社会における行人・聖の社会的影響力は、学侶のそれを完全に上回っていた。、、鎌倉時代の高野山では、学侶の命によらず行人が独自の判断で行う「私検断」の禁止令が数多く出された。ところが1459年頃には、一転して検断は原則として行人組織が行う、と定められていたことが確認される。ただし、容疑者が学侶である場合だけが例外で、行人でなく学侶が追捕する。、、境内都市の実権者は、貴族や武士より下の身分に属する名もない「庶民」の、行人である。『寺社勢力の中世』147

境内都市から、次の段階でこの自治都市に移行する。自治都市に一向宗・日蓮宗が浸透して、寺内町となる場合が多かった。
 坂本に隣接する叡山門前の港湾都市であり、山門使節の護正院が奉行人を勤める堅田は、蓮如が移住し本願寺の寺内町となった。南都では興福寺境内都市である奈良町の中心にある中市郷が、一向一揆の拠点となった。一方、上京・下京の町組は、本能寺・妙顕寺などに指導されて、法華一揆を形成した。日蓮宗の境内都市は「法華寺内」と呼ばれる。
 自治組織は境内都市と無関係に現れたものではない。自治都市の中心には必ず神社・寺院があり、その祭は一年で最も重要な行事である。祭礼の執行組織を宮座という。ここで祭礼のことだけでなく、自治体の基本政策を決定する寄合が行われる。祇園会の時に開かれた六角堂の寄合が代表的なものだ。多数決による決議など、寺院集会と似た手続きに従って会議は行われる。『寺社勢力の中世』222

寛正2年(1461)1月、天下大飢饉
◎同年1月の山城大飢饉には、大量の流民が市中に流れ込み事態はより悪化した。このとき京都にはすでに乞食が数万人いたとされ、この年の最初の2か月で8万2千もの餓死者が出ている。
・京都六角堂の南に舎屋を設けて粟粥(あわがゆ)などを流民に施し、連日八千人規模の慈善活動を行ったという。しかし餓死者は減らず、ひと月足らず(2月6日から30日まで)でこれを撤収、次いで四条五条の橋下に、ひと穴千体あるいは二千体ともいわれる屍体を埋め、鴨川の河原に塚を築いてこれを弔った。願阿弥が施行を断念した翌月、将軍義政は五条橋(今の松原橋)橋上での施餓鬼(せがき)を建仁寺に命じて、餓死者の慰霊を行わせた。また翌4月にも五山の相国寺(10日四条橋)、東福寺(11日四条橋)、万寿寺(17日五条橋)、南禅寺(20日四条橋)、天龍寺(22日渡月橋)がそれぞれ施餓鬼せがきを行っている。[鴨河原の水害・火災][1675年の鴨川洪水]

【施餓鬼】六道の餓鬼(飢えと渇きにもがき苦しんでいる)に落ちた霊や、生前食べ物を粗末にしたり、俗世で供養してもらえなかったりして無縁仏となってしまった霊を救うため、食物や飲み物をお供え物として捧げ施しをおこなうこと。施しを行い、この世にいる自分たちの極楽往生を願うのが施餓鬼です。時節を選ばずに行われていたが,今では盂蘭盆会うらぼんえ(お盆)とともに行われることが多く両者が混同されている。

【六角堂】(地図6頂法ちょうほう寺(中京区六角通東洞院西入:伝創建587年、天台宗系、本尊は如意輪観音)、西国三十三所第18番札所で本堂が平面六角形からこの名称もある。特に応仁の乱の後、町衆の生活文化や自治活動の中核となる町堂(寺地が下京の中心)としての役割を果たした。室町初期から江戸時代末まで、当寺で祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式が行われる。江戸時代末まで下京町組代表の集会所になったりしている。また、華道、池坊の発祥の地とされる。1462年2月15日、池坊専慶、京極持清の招きで花を挿している。

寛正3年(1462)6月7日、市中物騒ぎのため将軍の祇園会見学中止
同年2月28日に木屋町焼亡、3月28日に三条町焼亡する。9月土一揆起蜂起により錦小路、綾小路より東洞院より町に至る三十町放火される。10月28日下京土民一揆、上京相国寺辺に侵入する。

寛正~応仁年間(1460~68年) 近江、佐和山城は佐々木六角政頼が領有
*応仁年間(1467年~1468年)は、六角家の家臣・小川祐忠が佐和山城主であったとされる。政頼は未詳の人物。六角政勝(生没年未詳)は、久頼の長男、『甲賀二十一家之由来』では「政頼」とされる。六角亀寿、四郎、治部少輔、大膳大夫、近江守護。
・康正二年(1456)父久頼が憤死すると、遺児亀寿が近江守護職を継承した。しかし亀寿が幼少だったため、文安の乱で被官に支持されながらも敗死した六角時綱(五郎、民部少輔)の遺児政堯(四郎)が後見になった。ところが長禄2年(1458)5月14日亀寿は突然近江守護を解任され、後見の政堯が近江守護に補任された、、

寛成4年(1463) 京都岩倉、長谷の長源寺(浄土宗)が創建
山号は朗詠山、浄土宗鎮西派の寺院。昭和38年(1963)、左京区岩倉長谷町から小倉山山麓(現在地)に堂・庫裡を新築移転。

寛成6年(1465) 延暦寺、本願寺と蓮如を「仏敵」と認定
◎同年1月8日、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定。1月10日、同寺西塔の衆徒、蓮如兼寿(天台宗青蓮院の末寺であった大谷本願寺(現、知恩院塔頭崇泰院付近)で存如の長子として誕生)の東山大谷の房舎を破却する。蓮如は祖像の親鸞御影を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。

寛成7年(1466) 近江、一向宗による金森合戦
*京都・大谷の地を追われた本願寺派の指導者・蓮如は、高弟の道西のもとに身を寄せた。さらに、付近の門徒衆を結集し比叡山の山徒衆に反抗。これを金森かねがもり合戦(初めての一向一揆)という。
・郡衙として移り住んだ川那辺かわなべ氏は、地域の土豪として金森城を擁して金森(野洲川流域下の守山市の集落地)を支配、(その後に、佐々木一族の下で支配を任されるか)。14世紀には、川那辺厚春が本願寺五代目法主の綽如に帰依し、金森は天台宗から浄土真宗に信仰の基軸を大きく変える。その子川那辺在貞の時代には金森惣道場が開かれる。さらにその子川那辺矩厚は、存如(本願寺第7世)に帰依し道西と名乗る。金森惣道場(金森御坊)を中心として民家を環濠で取り囲んだ寺内町が形成されたのは、この道西の時代であると考えられている。
文正元年(1466)11月には「報恩講」を勤修した。蓮如は1469年は対岸の堅田へ移動したが、金森は本願寺派の中心地として栄え、金森御坊を中心とする計画都市が形成された。後に飛騨国高山城主となる信長家臣の金森長近(1524-1608)は天文10年(1541)までこの地で育ち、父の姓大畑から改名し、金森を名乗っている。
・戦国時代には、近在である三宅の蓮生寺と連携した城としての機能が整えられ、湖南地域の一向衆徒の拠点となっていた。金森の一向衆徒は、織田信長の近江入国・比叡山焼き討ちの直前に、1571年6月から9月にかけて反抗した。以上2つ web 『ニッポン城めぐり』

文正2年(1467)3月5日、応仁と改元 実相院はこの年、戦火を避け現在地に
*京都市北区紫野に寛喜元年(1229)、静基僧正により開基。紫野から上京区今出川小川(現・実相院町)に移転、その後に応仁の乱を逃れるため、大雲寺境内の現在位置の岩倉に移転する。当時、実相院義運が大雲寺の成金剛堂の事務管領していたことが縁であった。大雲寺は、もともとは石座神社の西の台地(北山病院の位置)にありました。昭和60年に、現在の位置に移ります。

(1457~1465年)年未詳9月14日、愛智・犬上両郡の国人等に要請
(下河原氏、小倉実志に合力すべきことを要請する)
    下河原某廻状案
  江州岸本御厨公文職事、小倉越前当知行所、同名青山並岸下新依成競
  望、可及弓箭与注進有之、、(以下省略)
       安食美濃入道殿奉   河瀬九郎殿奉
       河瀬七郎殿奉     小倉左近将監殿
       高宮一族中奉     楢崎殿奉
       横 関 殿奉     安孫子六郎左衛門殿
             (省略)
       松原新六殿      松原次郎左衛門殿
             (以下省略)25名の「奉」 / 連名35名
出典は『近江愛智郡史(巻1)』長禄(1457-)寛正(-1465)頃としている(『新彦史5巻』493)。人名の下の「奉」は、同意の旨を記したもの。

応仁元年(1467) 京都 応仁・文明の乱(1467-1477)
*室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。
*京都における戦闘は11年にわたり、都を焼野原にしてなお止まらず、戦禍は地方に拡大した。これより百年の間はいわゆる戦国時代となるのである。
*近江はと言えば、同じ佐々木の六角氏と京極氏とは両派に分かれて京都に兵を送り、近江の地においても交戦状態に入ったので、この国は上下を挙げて戦国時代の標識的な合戦場となった。、、彦根附近殊に佐和山をはさんで互に勝敗を繰返し、その勢を奉ずるこの辺りの小さな群雄達は、それぞれ磯山・松原・荒神山・平田山の諸城や犬上川・芹川等で戦闘を続け興亡を繰返した。『彦史』上261
◎文明年間の方が9年と長いので、「応仁の乱」を「応仁・文明の乱」とするという。

応仁2年(1468年) 応仁の乱の中で、観音寺城での戦い
*細川勝元率いる東軍に属していた京極持清、一方、六角高頼は西軍に属した。
* 4月1日一次、京極持清の長男勝秀(東軍)は観音寺城(高頼陣代 伊庭行隆)を攻撃、東軍の勝利
 11月8日二次、六角政堯・持清連合軍(〃)は観音寺城(高頼方 山内政綱)を攻撃、東軍の勝利
 翌年5月三次、六角政堯・持清連合軍(〃)は観音寺城(高頼)を攻撃、西軍の勝利
六角政堯と六角高頼は従兄弟同士か。否、久頼と高頼の間に政勝(政頼)が入るかも。いずれにしても近しい親族。政堯の子に虎夜叉(成義)、さらには政堯の養子虎千代(八郎)もいる。政堯は、こうした戦乱で3度近江守護を、虎夜叉虎千代は各1度近江守護を任されている。六角八郎は猶子、六角虎夜叉丸は政堯の子カ(『戦国期社会の形成』218)。
【その後の観音寺城の戦闘】
 1502年、高頼の被官である伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱。高頼は音羽城に退避。その後和議。
 1516年、再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱。観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏に降った。
 1525年、定頼が江北に出陣していた隙をつき、伊庭氏が3度目の観音寺城を攻撃。 この時は留守居役の後藤左衛門が対処した。
【観音寺城】繖山きぬがさやま(433m)の山上にある。支城に和田山城、佐生城、箕作城、長光寺城などがある。『太平記』に、南北朝時代の建武2年(1335)、六角氏頼が篭もったという記述がある。この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかとされる。
【観音正寺】繖山にある天台宗の寺。聖徳太子が人魚のために開基したという。鎌倉・室町時代には、佐々木六角氏の観音寺城の居城の一部であり庇護を受け、三十三の塔頭を擁したといわる。本尊は千手観音。西国三十三所第32番札所。

応仁2年(1468年) 京都、山科七郷
【山科七郷】山科は、その大部分が禁裏御料である。平安末期に、後白河上皇が大宅おおやけに院御所を営み、周辺を領有したことに起源をもつと考えられている。、、冷泉(山科)教成へ伝領され、これにより同地と山科家は深い関係を有するようになった。、、応仁2年(1468)の記録(『山科家礼記』)によれば、七郷とは、野村・大宅・西山・花山・御陵・安祥寺・音羽であった。ところで、この時点で山科家が実際に知行していたのは大宅のみであったのだが、実態としては七郷全体の「惣郷成敗権」を掌握していたらしく、山科七郷への朝廷の賦課や幕府の命令なども、同家を通じて処理されていた。、、神無森の地に関を設け、、徴収した関銭の三分の二を郷中の取り分とし、残り三分の一は山科家雑掌に渡すことが決められた。、、「郷中関」とも呼びうるものであった。、、わずか一ヶ月足らずの間に消滅、、関銭の経済的利益に目をつけた幕府が、神無森の西に隣接する御陵に「内裏修理料」を名目とした関を設置し、郷中関の廃止を命令してきた、、1486年、山科七郷を含めた山城国は幕府御領地となるが、その後、彼らは徳政などのさまざま要求を揚げて蜂起し、、関との関わりには以前から長い歴史があった。、、四宮河原関(現在の山科区四ノ宮あたり)があり、禁裏内蔵寮の支配する率分関であって、内蔵頭を世襲した山科家の管領するところであった。元弘3年(1333)の内蔵寮領目録には関収入として毎月御公事一貫五千文と薪三百把が記されている、、『京都と京街道』122 [ 禁裏山科七郷]
京都へ入るには、何だかんだで通行税を取られた。

応仁3年(1469年) 西芳寺(苔寺)、西軍の攻撃により焼失
*当初は法相宗「西方寺」で、創建は天平年間(729-749年)と伝わる。1339年、作庭の名手でもあった夢窓疎石(むそう そせき:祖父は佐々木経泰)を招いて臨済宗(禅宗)「西芳寺」(西京区松尾)と改める。庭園は約120種の苔に覆われ、苔寺(こけでら)の通称で知られる。応仁の乱(1467-1477年)で東軍の細川勝元の陣が敷かれたが西軍の攻撃により焼失。1485年には洪水により被災し、本願寺の蓮如により再興された。その後も焼失・洪水による荒廃がある。龍安寺の石庭などと枯山水(江戸時代末期に元枯山水が苔で覆われたか)でも有名。ユネスコ世界遺産に登録されている。
【枯山水】池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式。今日残存する室町時代の庭園は全国で29庭。うち枯山水が12庭で、その9つまでが京都市内にあり全て禅寺である。

文明3年(1471)7月下旬 延暦寺の迫害を受け、蓮如が北陸の布教拠点吉崎山に建立
*京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立した。【彦根への普及はこちら
◎本拠地:東山大谷→金森、堅田、大津など→吉崎→山科→石山京都(分裂)
◎主な一向一揆:
 近江・金森合戦(1466年(文正元年))…史上初の一向一揆
 越中一向一揆(1480-1576年):加賀一揆衆が越中に落ちのびる
 加賀一向一揆(1488-1580年):加賀守護の富樫政親が討たれる
 長島一向一揆(1570-1574年)
 大坂石山合戦(1570-1580年):このあと本願寺が分裂
*一向一揆は、僧侶、武士、農民、商工業者などによって組織された、浄土真宗本願寺教団の一揆である。本願寺派に属する寺院・道場を中心に、蓮如がいう「当流の安心は弥陀如来の本願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に従う土豪的武士や、自治的な惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成していた。1580年(天正8年)、信長との抗争に敗れて顕如が石山本願寺を退去した後は、本願寺の分裂騒動(1602年)もあって一向一揆という名称は見られなくなる。
*「加賀、能登、越中の三カ国は本願寺の領地となりて、年貢を山科に差し上げる」(真宗懐古抄)と記されています。、、首都のような役割を担ったのが京都の山科本願寺であり、後の大坂石山本願寺でした。
*1465年、比叡山延暦寺の僧たちによって東山大谷本願寺を破却され京都を追われた蓮如は、近江国堅田、ついで越前国吉崎へと移るなど、各地を転々としていたが、1475年頃には畿内にもどり、、天文13年(1544)には阿弥陀堂も完成し、山科本願寺はほぼ完工をみた。

*近世の古地図(「野村本願寺古御屋敷之図」などから復元される山科寺内町は、第一郭御本寺、第二郭内寺内、第三郭外寺内の三重構造をもち、それぞれが土居と濠でかこまれた還濠城塞都市であった。第一郭の御本寺部分に本願寺の主要な建物がたちならび、寺内町の中核を形成していたが、そのまわりを坊官や僧侶達の居住区が囲み(第二郭)、さらにその外側には、「在家もまた洛中に異ならず」と称された一般の信徒や商人・手工業者などが居住する区域(第三郭)があったと考えられている。もっとも蓮如の段階では、第一郭の御本寺部分のみの建設であったらしい、、上2つ『京都と京街道』123

文明3年(1471年) 政堯は三度目の近江守護
*孫童子丸(京極氏当主。京極勝秀の子)死後に、政堯は三度目の近江守護に任命されたが、同年10月に亀寿丸に清水鼻にて破れ、戦死した(文明3年10月12日)。
*実子の虎夜叉が近江守護に任命されたが、京極騒乱に巻き込まれ、文明5年(1473年)に守護職を京極政経に奪われてしまった。養子・虎千代は明応元年(1492年)に長享・延徳の乱で近江から逃亡した六角高頼に代わって幕府から近江守護に任命されたが、翌明応2年(1493年)の明応の政変で後ろ盾を失い、没落した。佐々成政は政堯の後裔と伝える。
今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典(下)』新人物往来社(1988年)を元に編集

・六角氏 (丸数字は六角宗家歴代 )
|--経泰|--頼明         
|②頼綱-|--宗信         
|--長綱|--成綱    |⑧持綱 |-虎夜叉(成義)  
| |--宗綱--|--宗氏  |⑨時綱--政堯--------|-虎千代(八郎)  
| |--時綱(*) |⑤義信---×  |    不詳 
| |③時信--④氏頼-|--高経|⑩久頼--|--政勝(政頼)-|⑫高頼--|⑬氏綱-----義実--義秀
|   |⑥満高--⑦満綱-||⑫高頼-- |⑭定頼---義賢--義治
|--頼起----時綱 |--信高--  |-高久 (亀寿丸)    
   (高宮氏) (三井家へ)     
     『近江源氏の系譜』182など

注)1. 頼起(良輝)の子・時綱が頼綱の養子になり佐々を興したと。
〃 2. 道誉の孫でもある京極家嫡男・高経(高詮)は養嗣子として六代近江守護になる。その後、氏頼に亀寿丸(満高)ができたため京極家へ戻る。
〃 3. 政堯に実子・虎夜叉(成義)、養子・虎千代(六角八郎、高島氏からの養子)がいる。
〃 4. 高頼の父は久頼となっているが、年が空きすぎで政頼(詳細不明)でないかという(有力説)。
〃 5. 高頼の子氏綱、その子義美が主筋でないかという説あり(大論争有り)。
〃 6. 岩倉の岡山氏の出自は氏綱、義美、義秀の弟・義頼(岡山家の祖)からとある。

文明9年(1477) 京都、応仁・文明の乱の終息
*応仁の乱で、五山の各寺は壊滅的な被害を受け、東斑衆の基盤が失われた一方、各地では守護大名の力が強まって五山の荘園管理は難しくなり関所の自由通過権なども失われた。東班衆の去った荘園では守護大名が国人に管理させる守護請が多くなった。また、五山勢力が去って空白地となった北陸地方には一向宗の勢力が進出し新たな拠点を築いた。
▼応仁の乱後(私見)
①「惣的」な村、町が破壊される。②神人、僧兵が消えていく。③寺社の荘園管理は難しくなる。④武士が政治を動かすようになる。


文明13年(1481) 京都、足利義政が長谷の聖護院に入室 聖護院の整備
*義政は解脱寺観世音菩薩を創建以来の開帳、専用の山荘(聖護院長谷山荘)を作り客人を招き連歌の会を催す。現在の御殿町や飛騨池がある付近[Map]。
*聖護院は1487年盗賊により殿舎焼失。その後、秀吉により上立売御所八幡町へ移り、長谷の地は聖護院門跡の山荘になる。

文明15年(1483年)4月25日「多賀神社文書」に見える豪族
*室町・戦国時代、多賀社は郡内の土豪層からなる氏人の衆議によって運営されていた。 文明15年の史料によれば、多賀社中を構成する土豪として三十数名の名前があがっている。 このなかに、河瀬・沼波(のなみ)・松原氏などの名前がみえる。(多賀神社文書)『新彦史1巻』603
*同じ頃の「佐々木南朝諸士帳」に、さらに多くの豪族が見える
 高宮三河守  高宮城     沢 右京     小泉館
 蓮台寺主膳  蓮台寺館    安養寺三郎兵衛  彦根安養寺館 
 日夏安芸守  泉村館     松原藤次郎貞信  松原城
 今村掃部   今村      松原弥惣右衛門  松原城
 平田和泉守  平田城     松原善次郎    松原城
 武田氏    大藪城     彦根四郎兵衛   彦根館
 岡部清六   葛籠町城    百々越前守    佐和山東麓百々館
 猿萩左近太夫 猿萩館     磯崎 某     磯崎城
  『彦史』上P264

◎『江州佐々木南北諸士帳』(1987.5滋賀県教育委員会web)に、
 磯山城主 佐々木浅井随兵  松原氏城代
 松原   住 佐々木随兵  松原弥惣左衛門、が見える
「松原藤次郎貞信 松原城」でなく、「松原弥惣左衛門 松原城」が見え「右衛門」でない。「書き間違えか、読み取り間違えか」よくわからない。しかし「松原弥惣右衛門」が多い。『佐々木南朝諸士帳』と同じものと思うが。

文明16年(1484)11月 京都岩倉、細川氏の家臣香西元長が岩倉へ侵入
*香西氏の乱入を防ぐため、小倉山城主西川氏の援軍として静原より山本氏が岩倉へ入る。
*西川の家臣 花園越前、中村但馬、市原丹後、大原肥後、岩倉大和らは山本の使者の言い分を聞く。このとき、西川資信の弟に蔭山治郎左衛門がいる。
*山本氏は寛延3年(1750)になった山本氏系図(山本寿家文書)によれば、近江佐々木氏の被官で、各地を転戦しているが、文明年間(1469~87)に岩倉に定着、かなりの勢力をもつにいたったものと思われる。、、若狭街道の京都出入り口を押さえている、、山本氏は岩倉へ移ってからも近江衆との連絡を密に保っていたらしく、山本氏系図によれば浅井長政の支配下にあったと思われる、、『京都市の地名』

iwakura 文明17年(1485)9月15日 京都岩倉、近衛政家が実門(実相院)の藪にて祭礼を見物
「9月14日、石蔵殿に参る。夜に入り祭礼を見物せしむ。
 同月15日、実門(実相院、実相院領)の藪に於いて、祭礼を見物せしむ。
 同月16日、聖門に向かい馬を見る。(中略)黄昏に及び帰宅する。夜に入り実門参られる。十種香あり。」『後法興院記
 近衛政家は、しばしば石蔵殿へ足を運び、長谷(八幡宮)の祭礼(8月16,17日)の猿楽・能を見学したようです。ここの石蔵殿は「岩蔵殿」でもよいようですが、その所在が不明です。やはり万年岡の南東辺りなのでしょうか。
◎政家は、応仁の乱が終熄した文明11年(1479)に関白左大臣となり(35歳)、同15年(1483)関白を辞したときのころ(39歳)。その後、長享2年(1488)太政大臣に任命されています(翌々年辞去)。

・同じ頃と思われる京都の東寺領荘園 [山城国乙訓郡 上久我荘の祭礼]のようすが興味深いです。

▼「嘉吉の乱(1444年)」「応仁の乱(終結1478年)」にて、幕府・五山禅寺は衰え、領主の権威の象徴であった祭礼も、有力農民中心の運営になりつつあります。

文明17年(1485) 山城国の三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国一揆(惣国一揆)
*国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った。
長享元年(1487年) 西岡11カ郷国一揆(乙訓国一揆)
*同年11月、応仁の乱の際に西軍についたことを理由に闕所となっていた所領が細川政元に与えられてその被官に分けられることを知った鶏冠井雅盛・物集女光重・神足友善・野田泰忠ら地元の武士(国人・地侍)たちが結集、「守護不入」を図ろうとした。
*中世には、一つの地区のまとまりは「郷」、いくつかの郷の集まりを「惣」、さらに広域のまとまりを「国」または「惣国」といった。西岡の地は、強力な守護大名によって上から直接的に支配されることが少なく「国」と呼ばれる地域連合体となっていた。(wiki)

長享元年(1487年)9月12日 近江、鈎の陣
z_oumi *領主化を進める守護や国人によって一円知行化が進められ、公家や寺社の荘園は横領されていく。さらに幕府の権威低下により、遠国などの幕府の権力が届かない地域の荘園・国衙領支配は絶望的になり、荘園制度の崩壊が加速する。、、応仁の乱以降、諸国で荘園が退転したにもかかわらず近江に対してだけ「征伐」がおこなわれたのは、①将軍近習・奉公衆の所領が近江に集中していたこと、②幕府に近しい五山禅院や山門領が多く近江に分布していたことによる『新彦史1巻』589。
足利義尚(9代)は将軍権力の確立に努め、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5ヶ月もの間、近江のまがり(滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされた。
◎将軍は2万の兵を率いて近江に入場するが、反高頼の旗頭は成義(虎夜叉、将軍から「義」の一字をもらった?)のはず。将軍義尚は成義が命を受け奮戦するものの、彼の意に反して近江守護をあっさり自分の寵愛する結城尚豊(1488年(長享2)1月)に任命する。成義は、これを縁切れと考え、斯波氏に従い尾張に入った、のでないか。
◎忘れられていたものが煽てられ、また近江守護におさまるかと思いきや、将軍の寵愛する結城尚豊にもっていかれた。愛想を尽かし近江国から離れる。これが尾張佐々の始まりだよ。
鈎の陣所は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど華やかな儀礼も行われた。六角征伐によって幕府権力は一時的に回復したものの、義尚は次第に酒色や文弱に溺れるようになって政治や軍事を顧みなくなった。長享3年(1489年)3月26日、近江鈎の陣中で病死した。享年25(満23歳没)。死因は過度の酒色による脳溢血のういっけつといわれるが、荒淫こういんのためという説もある。義尚には継嗣(けいし)が無かったため、従弟(義視よしみの子)である足利義材(のちの義稙)が義政の養子となって、延徳2年(1490年)に10代将軍に就任した。

◎将軍の代がかわり、六角高頼が近江守護に返り咲くが(1489年)、義材により高頼の追討。1492年に近江から逃亡した高頼に代わって、将軍が虎夜叉でなく虎千代(高島氏からの養子六角八郎)を近江守護に任命したという(1492年11月)。上記の考えによると、虎夜叉は近江に不在、戻る気もないということになる。残留組の政堯の縁者同族が近江守護にこだわり、虎千代を担ぎ出したということになる。政堯を支持する一族(反高頼派)が、虎夜叉に従うものとで二分されることになる。
虎夜叉をして、近江に失望し尾張に行かせる何かしらの想いがあったのか。それは、上記で述べた将軍への失望と、近江守護が叔父の筋に流れたこと(政堯と高頼では、政堯の子の自分の方が主筋、それを将軍が主筋でない方を選択した)、佐々木支流の京極家の台頭が上げられるだろう。過去に、佐々木頼綱(六角氏二代目)が徳治3年(1308)7月に尾張国に配流されてた(弟佐々頼起が僧になり従ったかは不明)こともあるが。

長享元年(1487年)頃 治郎左衛門様御引き払い尾州に御帰陣
*(織田)治郎左衛門(敏定)様御引き払い(江州六角高頼討伐から)尾州に御帰陣と。
小坂、余語(滋賀県長浜市余呉町中之郷)の両人伴仕り尾州へ入国、、余語、小坂に御台地の 代官職を仰せ付けられ、春日井郡柏井吉田なる処に屋敷を給わりこの地に居候なり。
*当時の近江国、佐々木六角主流で勢力を占めていた。余語庄は一時は京極流の勢力下でもあった。余語在住の佐々木末流の不満一族は、佐々木六角高頼の敵に廻り、将軍方、斯波方かつ織田方として活躍。認められて、織田氏と共に、又は斯波氏と共に尾張へ入部したと考えのは妥当と思われる。この時の中心人物は、佐々木権左衛門か余語盛政かは別として、有力な一団が尾張入りをし、直接斯波氏の配下又は斯波氏に仕える織田氏の配下となったことは確実である。 『佐々成政関係資料集成』10
◎つまり、「成政研究会」は、信長に仕えることになる佐々一族(政堯の筋)は、近江から入ったことを支持している。、[六角満綱からの没年][系図]

長享2年(1488) 加賀の一向一揆、守護を倒す
*本願寺の蓮如の布教により近畿・東海・北陸に広まった浄土真宗本願寺派の勢力を背景とし、加賀の門徒が国人と手を結び、守護富樫とがし政親を倒したもので、一揆が実質的に支配する本願寺領が、以後、織田信長に制圧されるまで、1世紀にわたって続いた。
彦根藩、定今堀地下掟之事
合(あわせて) 延徳元年(1489)十一月四日
 一 神仏田納事、大家小家不寄、安室ニテ可納事。
 一 塩増(えんそ)雑事(ぞうじ)ハ、神主可有用意、代ハ惣ヨリ可出候。
 一 薪・すミハ、惣ノヲタクヘシ。
 一 ヘツイニ参タル米、惣へ取候て、惣ヨリ五升、神主方へ可出候。
 一 惣ヨリ屋敷請(うけ)候て、村人ニテ無物不可置事。
  : (略)
◎南北朝の動乱の中で村がしだいに各地に拡がって、農民たちが自らつくりだしたこの自立的・自治的な村を惣とか惣村という。

延徳3年(1491) 10代将軍 足利義植、近江大津三井寺光浄院に本陣を置く
*10代将軍義稙(義材)も管領細川政元に再三諫止されたが、延徳三年(1491)8月六角氏追討を再開(『後 法興院記』『尋尊大僧正記』など)。明応元年(1492)11月幕府軍は甲賀に進軍したが高頼を見つけることができず、12月16日本意を達成できないまま、六角政堯の猶子六角八郎(高島頼高(越中守)の子息)を守護に補任して帰陣した。『尋尊大僧正記』(もう1人の養子・虎千代は明応元年(1492年)に長享・延徳の乱で近江から逃亡した六角高頼に代わって幕府から近江守護に任命された)
足利将軍の近江入りは、長享元年(1487)の足利義尚が諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて出陣、それ以降続く。
・歴代の将軍の本陣(宿所)
  9代 義尚:鈎の陣
 10〃義材:逃亡中(義尹)、三井寺光浄院の本陣(義材)、将軍復帰後(義植)
 11〃義澄:朽木谷・蒲生郡水茎岡山城
 12〃義晴:観音寺城山麓桑実寺境内・近江坂本・朽木谷
 13〃義輝:霊山城(京都市東山区清閑寺霊山町)・近江朽木谷
 15〃義昭:甲賀郡の和田城・野洲郡矢島村の矢島御所など
・将軍が近江入り、戦を構えた年
 長享元年(1487) 義尚   天文10年(1541) 義晴
 延徳3年(1491) 義植   天文16年(1547) 義晴
 明応8年(1499) 義植   天文18年(1549) 義晴
 永正7年(1510) 義澄   天文22年(1553) 義輝
 永正10年(1513) 義植   永禄8年(1565) 義昭
 大永8年(1528) 義晴    → 1568年織田信長の侵攻 [六角氏の没落]
これ以前に、応仁の乱(1467-1477年)があったことを考えると、京都と比較して、近江は戦乱に明け暮れた地である(1490年より、義材が足利10代将軍 義植となる)。

【三井寺】元は園城寺。672年創建。天台宗の寺門派。境内に天智・天武・持統の3天皇が産湯に使った閼伽井(閼伽:功徳水、井:くみ取る所)と呼ばれる霊泉(井戸)があったため「御(み)井の寺」から「三井寺」になったという。円珍入滅以後の正暦4年(993)、その門弟たちが師の遺骨・彫像・主要な典籍などを奉じて叡山を下り、この別院に拠って天台寺門派の法燈をかかげた。
 1180年、以仁王と源頼政の平氏討伐に加担したため(5月同寺で匿う)、平家の攻略にあって金堂のみ残して一山堂塔ことごとく灰燼に帰した。4代将軍・徳川家綱は寺領4,600余石を寄進している。
 金堂の北に位置する「光浄院」は山岡景友が道阿弥と号して寺住を務めた、三井寺では格式の高い子院。国宝の光浄院客殿は1601年に道阿弥が建立。桃山時代の書院造りを代表する遺構。

明応4年(1495) 近江守護は六角高頼(大膳大夫、5度目)

永正3年(1506年)~4年正月 有力な天台宗の寺院の僧八人が浄土真宗に
*【彦根】天台宗江州八門徒が浄土真宗実如(蓮如の子)に帰依して七昼夜にわたって、祖師親鸞の報恩講を盛大に行った。
 22日 円西坊、後の平田町、一妙寺
 23日 若狭坊、後の大薮町、西福寺
 同日 明秀坊、後の長曾根町、教禅寺
 24日 真蔵坊、後の芹川町、最勝寺
 25日 光勝坊、後の稲枝町、長照寺
 26日 養浄坊、後の西沼波町、光明寺
 27日 道珍坊、後の平田町、教導寺
 28日 照光坊、後の豊郷町四十九院、唯念寺  『彦史』上P297
*本願寺八世蓮如が、近江中郡といわれる犬上・坂田・愛知・神崎・蒲生の五郡を巡歴布教中、天台衆徒から真宗に改宗し、その直弟子となることの約を結んだ人々がすこぶる多かった。 、、、江戸時代に入ってからの近江国衆徒色別図(滋賀県史付図)によると、旧彦根町の一部を除き、中郡ほとんど真宗一色に塗りつぶされている。 『彦史』上P295~300
◎蓮如には妻5人、子供27人(男13人、女14人)。精力が凄すぎる、これでも宗教家か。親鸞にも7人の子がいる。

永正7年(1510年) 彦根、松原弥三右衛門成久が磯山城にて自刃
*永正年間(1504〜21)松原成久は磯山で討死し、同通高は六角高頼に仕えたと「松原家譜」(松原文書)は伝え、当初城主は松原(現彦根市)を本拠とする松原氏であったとみられる。『日本地名大辞典(25)滋賀県(角川)』
◎琵琶湖東岸、松原・米原の間にある磯山城(現、米原市磯)は同族の六角氏と京極氏で争う、六角氏にとっては押さえの地である。ここを六角氏の将である松原氏(六角氏の庶流)が居城としていた。(『淡海温故録』による 磯山城の攻防と松原氏
s_hikone 【写真の説明】彦根城の北、琵琶湖へ突き出た山が磯山。磯山城は彦根市松原を本拠とする松原氏の居城であった。その東の山並みは佐和山で、写真の真中右端で山が少し剥げた部分に佐和山城(成久・通高の弟松原新三郎、1561年短期入城 )があった。井伊直政が石田三成の後、佐和山城へ入封にゅうほう(1601年)するがその時の彦根城の地は山に寺があるのみ。芹川(善利川、写真下東西に延びる)も流路は違った。松原村の集落と耕地は、琵琶湖沿いで彦根山の北から磯山へ、さらには内湖を隔てた東側の佐和山の山裾にも耕地が存在した(渡辺恒一氏)。磯山城の位置からすると、古くのその領地は磯山の北にも展開するに違いない。この図も参照。

【淡海温故録】木村源四郎によって編纂された近江国の地誌で、貞享年間(1684~88)に彦根藩井伊家へ献上されたことがわかっています。主として戦国時代に地域で活躍した武士や土豪のことを詳しく述べている。

【松原氏】
・六角氏の庶流という。「六角高頼(?-1520)に仕え、松原の地を領す」とあるが、それ以前に、松原右門(右ェ門?→右衛門)なる人物が松原城(現、御浜御殿)の城主であったこと古図に見える。松原右門は省略した名称か。
*古くは(この地の)興福寺荘園の荘官(犬上荘)であったが、次第にその実権を掌握していったのであろう。松原弥三左衛門(弥惣右衛門(やそううえもん))成久の時には「当国守護佐々木氏の旗頭也」と『三群録』に見える。「其の子・弥兵衛賢治は物頭、小三郎は公方義輝公ニ属ス」とあって、小三郎は義輝公が三好氏のため暗殺(永禄8年、1565年)された時討死している。成久も永正年間、南北佐々木の抗争によって磯山において討死(1510年)した。次子・弥次右衛門通高は六角高頼に仕え、三男・新三郎は犬上郡内に土地を賜っている。『彦史』上P267

【三井氏】藤原道長の六男「長家」の五代孫右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりとされるが、史料の裏付けはない。12代出羽守乗定が近江半国守護六角氏から養子高久を迎え、以降六角氏に仕えるようになり、「高」を通字とした。しかし高久から三代先の越後守高安のとき、織田信長の上洛によって六角氏とともに三井氏は逃亡し、伊勢国津付近の一色へ移り、その後、松坂近くの松ヶ島に居住するようになったとされる。慶長年間には高安の子高俊が武士を廃業して松坂に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業された。

永正12年(1515) 実相院門跡と大雲寺門徒の対立激化

永正15年(1518)頃 彦根、平田山で矢戦あり、六角定頼と上坂景宗(京極軍)
◎磯山・松原の地は、六角氏と江北軍(京極軍、後に浅井軍)との一進一退の前線であった。

大永年間(1521~28) 鴨河原の景観
中世の鴨河原は洛中と洛外を区切る境界でしかなく、課役を逃れて住着いた河原の民の生活が営まれていた。上杉家の『洛中洛外図屏風』(1521~28年間の景観を示す)などは、荒涼たる河原に川狩の者を描くのみである。

大永2年(1522)8月6日 実相院領 北岩蔵西八郷の名主沙汰人へ、、『実相院文書』
『実相院御門跡領城州北岩蔵西八郷以下の事。代々の御判御下知当知行の并(並び)に任せて、 弥 (いよいよ)領知を全うせられるべきの段、安堵の御下知を成され訖(おわ)んぬ。宜しく存知せしむべきの由、仰せ出さる所の状、件の如し。
 大永弐八月六日
        [飯尾] 貞広
        [諏訪]長俊
   当所名主沙汰人中  』
・(上記は、実相院が保存する、)室町幕府発行の公式文書ですが、それは「北岩蔵西八郷」などいくつかの郷が間違いなく実相院領であることを保証すると同時に、それを「当所名主沙汰人」(幕府文章の受取人)に知らせています。、、北岩蔵の名称の由来は、都の四方の岩蔵からくるようだ。
◎「名主沙汰人」、「名主」が付くから、名田を耕作する農民の代表で、給米をもらう下級役人だろう。地侍由来の沙汰人もある。

・1521年12月に、義晴は11歳で12代の将軍に就任、政務を行うには未熟。「北岩蔵西八郷」が実相院領であること、疑わしい部分がある。大永元(1521)の幕府奉行人(家も固定化されて右筆方とよばれる幕府体制を支える官僚集団:10数名)に上記の、飯尾貞広と諏訪長俊の名が見える。天文年間までにも名は見られる。
・岩倉が郷に分割され、郷は、自衛、灌漑用水・入会地の管理などを行う「惣」の機能を持ち、祭りの運営にも反映されていたのではないでしょうか。
・上記の「山城北岩倉西人郷」は「北岩蔵西八郷」のことで、中在地、門前、湯口、上蔵、御旅、西河原、忠在地、下在地の八郷の可能性が高い。「門前」とは、神人の商業活動により、神社の前にできたものであろうか。
▼郷が「惣」の機能があるところから、8以上の荘民が(あって?)8郷に絞られたのでないでしょうか。

大永5年(1525年)5月24日 六角定頼、浅井亮政と戦うため大軍を磯山に進める
*佐和山城をめぐる激しい戦いが何度も繰り返される。 『彦史』上P304
*大永元年(1520)頃、浅井亮政は村々に夫役を賦課し磯山城(現米原市)を普請し、南方進出の橋頭堡としようとしていた。『新彦史1巻』592
京極氏の4ヶ国あった領地は高清(1460-1538)の治世時に、応仁の乱と家督相続の混乱で、出雲・隠岐・飛騨は奪い取られ、北近江(近江半国)のみとなってしまう。出雲・隠岐は同族で守護代の尼子経久に、飛騨は国司・姉小路済継と同族の三木直頼に支配され失ってしまった。そして、最後の北近江も京極高清のとき、御家騒動から国人一揆へと発展し、京極氏の被官であった浅井亮政すけまさ(1491-1542年)の時、実質的に浅井亮政が実権を掌握

天文元年(1532) 法華一揆、本願寺と法華宗との宗教戦争
法華宗(日蓮宗)は鎌倉時代末より、京都へ進出し、六条本国寺などを中心に、多くの町衆、特に財力のある商工業者に信者が多く、京都の町政をほぼ掌握していた。
・同年7月、大和(奈良)から飛び火した一向一揆が爆走して、河内、摂津、和泉を席巻し、京へ侵入。『本国寺を襲撃か』という噂が町衆(法華衆)に拡がる。町衆は細川晴元・六角氏らの軍勢と手を結んで一向宗(本願寺教団)の寺院を焼き討ちにした。このとき山科盆地の土塁に囲まれた伽藍・寺内町のある山科本願寺も焼き討ち(8月23-24日)にする。天文2年(1533)以降は、石山本願寺が一向宗の本寺となる。
・その後、法華衆は京都市中の自治権を得て、地子銭を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。延暦寺が「宗教問答」を契機に法華衆を訴える。1536年7月、法華衆(2万)が延暦寺・六角氏ら(6万)と京都市中で衝突。六角氏は日蓮宗21本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる人々を殺害した「天文法難」。結果として、法華衆徒は堺へと落ち延びるまでの5年間、京都の治安を維持し外敵から守った。追放された衆徒が京都へ帰還を許されるのは天文11年(1542)になる。法華衆の勢力拡大を他の宗派から「法華一揆」と呼ばれている。[法華宗 本国寺]
・「一揆」の「揆」とは"はかりごと"の意で、「一揆」は、皆が一つになって行動を供にする、目的を達成しようとする、こと。または、政治的共同体を結成した集団、とある。

◎宗教教団のトップは時の政権と繋がっている。臨済宗、浄土真宗もこれに如かず。
寺内町は室町時代に浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落のこと。濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者などが集住した。

天文6年(1537)正月3日 京都下京の町組、足利将軍に年頭の挨拶
*足利将軍に年頭の挨拶をするために、五組の組から五人が花の御所(室町幕府)に出向いて畠山殿に割り当てのお金を渡した、また祇園会の見物のために桟敷を作り、この費用を下京の町組が負担したという内容です。この中には、中組、西ノ組、巽の組、七町半之組、艮組の五つの組がでてきます。、、この五組の町組を包み込むかたちで下京という一つの地域団体があったことが読み取れます。、、(※『六角町文書』後生の人が写し取った史料、町組の初期史料)、天文6年という時代は全国的に戦乱の真っ只中という時代ですが、京都の町中自体が戦乱の場というわけではありません。、、案外町中は平穏で、桟敷を建てて将軍が祇園会を見物するような状況です。、、上京についても、、天正17年(1589)7月23日という秀吉が京都を支配していた時代に、やはり五組あった史料があります(『上京文書』)。秀吉に対する贈り物の費用を各町組で割り振っているという記録です。、、上京家数として軒数と五つの組が出てきます。、、十四町組(386軒)、中筋組(203軒)、小川組(215軒)、西組(350軒)、一条組(241軒)という町組が上京でもできていたことがわかります。、、上京の中には、狭い意味での上京と西陣という二つの地帯があったのではないかと思われます。西陣は戦国時代以降織屋さんが集まってきて作った独特の地域で、西陣組という町組ができています。、、各組の中に町があるという組織になっていたと思います。、、将軍や秀吉、信長という支配者のだした文章というのは上京とか下京あてになっています。、、ここに命令を出せば各町組に伝達され、その町組から各町内に伝達される。そしてそれぞれの町内の年寄が一つ一つの家へ伝達する組織になっているわけです。『京都の歴史』160

*一つ一つの個性的な独自の働きをもつ町があり、それが集まって町組ができており、さらにその上に町組が集まって上京、下京という地域団体(地図3)ができてきているというレベルです。『京都の歴史』171
・道路をはさんで形成された一町単位の町がいくつかあつまった"町組"が、天文6年(1537)ころから形成された。、、町組の世話役は月行事つきぎょうじとか年寄とかよばれ、、その指導的役割を果たしたのが、応仁の乱ころからは月行事が連合して総代が出現した。このころ、祇園祭りは厄払いから、余興本位に転化してきた。それらが総代や月行事の指導ですすめられたことは容易に想像できるし、鉾や台をかざり、車をつけ、神輿渡御とぎよは変じて山鉾巡行となった。神輿・祭鉾・田楽猿楽・風流(作り屋台)などがつきしたがう。この祭礼の費用は、鎌倉時代には一部の富商が負担するようになって、庶民的色彩をまし、室町時代に入ると、町単位で鉾や作山つくりやまをだし、白河・山崎辺りからも参加した。こうして、応仁の乱前には、約40基の鉾や作山があったという。『京都府の歴史』96
◎当時の京都は数十万の都市。多くの人々も出入りし多額な金銭を落として行きます。市街地(町)の人々は、禁裏、公家、幕府に地代を支払って生活している。しかも武家の介入はないと、見ましたがどうでしょう。その後、秀吉の治世以降は地子銭は免除となっています。村でいう、惣村的な社会が町衆を中心に、過去「座のおこり」あたりから長く続いています、か。「道路をはさんで形成された」町は、彦根城下町にもそのことが言えます。
【撰銭令】宋銭や明銭の劣悪な貨幣を禁止する、撰銭令が出された。1485年~1582年までの主な撰銭えりぜに令は55回。罰則は生命刑(死罪)や財産刑(私宅没収)など厳しかった。

天文7年(1538)正月9日 近江、佐和山合戦
*六角定頼は佐和山城が北進第一の関門であることを熟知していたが、攻略は容易でなく、包囲、1ヶ月余りを費やしてやっと陥落させた。「親俊日記」にあると。
【その後の佐和山合戦】
天文10年(1541)、京極高広は定頼に援助を求め、浅井亮政のあと久政と戦う
 この当時の佐和山城は六角氏の勢力下の百々三河守が城主であった。
天文19年(1550)、京極高広は六角義賢と戦う(途中、定頼の死天文21年)
 佐和山城は15年にわたる六角氏の支配から離れ、京極氏の占領するところとなった。
永禄4年(1561)、浅井久政の子賢政(後の長政)と六角義賢が戦う

天文7年(1538)9月17日 京都岩倉、山本氏が岩倉支配『実相院文書』
山本氏が岩倉支配するも、天文15年(1546)1万余の細川国義、天文20年(1551)2万の三好長慶、元亀4年(1573)明智光秀、と度重なる侵入によって没落していった。いずれの戦いの時も放火され、大雲寺も神社も民家も焼かれ、ひどい被害を受けた

永禄12年(1543) 京都に南蛮寺ができる
◎はじめの名称は、その年号の永禄寺であったが「南蛮寺」を固有名称とした。中京区蛸薬師通室町西入北側の位置。豊臣秀吉により、天正16(1588)年の伴天連追放令に伴い破却された。

天文15年(1546年) 近江、六角定頼、足利義晴から管領代に任命
*六角氏の最盛期、伊賀・伊勢国の一部まで影響力。1549年居城である観音寺城の城下町石寺に楽市令を布いた。
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【絵図の説明】 井伊家の「彦根山旧絵図」は花居清心(金阿弥)などの「彦根古絵図」を源流とするようで、慶長の彦根城築城以前の景観である。絵図の「図註」「附札」内容は享保(1716-36)ころ、または化政年代(1804-30)に加筆したと考えられている。彦根市立図書館蔵ノ絵図(「彦根山旧絵図」ヲ参考筆写(昭和35年 上田道三)とある)。
・中央の黒い部分は彦根山(別名、金亀山)。北西に磯山、城主磯野丹波守(員昌:1523-1590)の文言がある。その東に(佐和山に)古城あり。その山裾西の清涼寺から「百間橋」(500m)が松原の武家屋敷や米倉に、途中三折して伸びている(百間橋は石田三成の時代のものかも)。ここに「松原城主松原右門 蔵所三成ノ代タツ 古代武士屋敷」(松原城主・松原右門は15世紀中期頃の人か)の文言が見える(彦根城下になってからは松原村の一角である)。南に東西に伸ているは善利川で、北へ内湖と繫がっている。善利川を横断し彦根山へ通じる道が見える。松原内湖から琵琶湖へ注ぐ川を、北から一ツ川、二ツ川、三ツ川、四ツ川という。四ツ川の西口「コノ川口至ツテ能く漁ツキシ所也」というが、江戸期の松原湊の出入り口である。右下の山は平田山で、平田山城があった。
【彦根城下町建設以前の地形】
築城前後の地形上の変化(一)芹川(善利川)の附替、(二)尾末山の切り崩し、(三)松原の四ッ川の開通であろう。松原附近の地形の変貌を伝えるもの、、
一、此四ッ川口は至って能く魚のつきし所也。、、善利川の河口付替りし故に四ッ川の魚のつき少なくなり、古代石田家時分迄は四ッ川の年貢として生鮒三千余納めし由。直政公御代にも始めの内は鮒を奉りし由末に至りて米納となり今は十三石余と云う。
一、千松原は今よりは八町沖なる由。
一、長曽根の庄 直政公直継公御城御取立の前、近郷の村方潰され御取立有り、其時近郷の百姓共集り、今の三藪中藪村の地其藪畑又は荒地にて有りしが、其所へたよりて村を立て新に興したる中藪なり。其内おも立たる者共は皆中村より参りしとの由。それ故中村に中村を苗字に付けたる者多かりしと云ふ。もつとも其頃は此辺迄も藪地の竹ありしと也。村の名を中藪村と名付けたり。
一、中藪此所藪地なり。村に非ず。三藪のその一なり。国主軍用のかこひ藪と云ふなり。(図註) 『彦史』上P358

◎織田信長が佐和山城を包囲したときに、「西彦根山」と云われている尾末山に築いた尾末山砦が存在したという。井伊氏が彦根城を築いたときに尾末山は切り崩され、残土は周辺の地ならしに使用されたために丘ごと消滅している。
・彦根藩ができてから三湊(長浜、米原、松原)が出来たが、その内の二つ、地図の磯山の北東で大洞山の北北西の所に米原湊が、四ツ川の所に松原湊が開かれる。

天文15年(1546)10月29日 京都岩倉 山本修理、細川国慶との抗争 八所明神焼失
*「細川玄蕃允げんばのすけ国慶(1万の兵)、当山に発向し、山本修理に対して合戦を挑む。この時、仏閣・神殿・寺務の招提・衆徒の房舎・山林・民屋、兵火の為に猥燼となる」『大雲寺堂社旧跡纂要』
・兵火で岩倉の村ともども焼かれてしまい、荒廃した(『京都岩倉実相院日記』)。仮堂はできるが、大雲寺本堂の復興は百年先になる。[天文の法難]全山灰燼となる(Web大雲寺歴史年表)。

◎『言継卿記』(天文二十年三月二日)に「三好人数、岩蔵山本館へ取り懸かり」とある。「山本館」は「小倉山」にあるのでしょうか。

岩倉村の推移へ

天文20年(1551)3月2日 京都岩倉、三好長慶軍(2万の兵)の侵入
・同年9月4日、三好長慶軍の侵入。小倉山にあった山本館に火を放つ。里家屋、社寺、山林焼失。石座神社・大雲寺(立て直された仮堂)灰燼となる。
・実相院草宇が営まれる

天文22年(1553)4月 京都岩倉、八所明神再建 『岩倉村誌』(1905)

弘治元年(1555) 将軍足利義輝、 佐々木義秀に鉄砲製造を命ず
◎種子島に鉄砲が伝来(天文12年(1543)8月)してから12年後の同年に、将軍は中国人・長子口を介して、近江観音寺城の城主義秀に鉄砲と射撃を教え、鉄砲の製造を命じた。義秀は、長子口に200貫の領地を与え、坂田郡国友村(長浜市)で鉄砲を作らせた。 同時に蒲生郡中野(日野町)でも近江の鍛冶職人を集めて鉄砲を作らせた。 これが近江の日野鉄砲である。国友村は豊臣政権の時代まで鉄砲の産地として天下に知られる。肥前の有馬鉄砲、堺の桜町鉄砲と並んで有名であった。
佐々木義秀】(秀義でない)六角氏綱またはその子である義美の子とされる。家督は氏綱の弟・定頼が継承し、以降、定頼の子孫が六角氏の家督を継いだと考えられてる。義秀の系統を説く江源武鑑(沢田源内)などは信頼性が低く、江戸期の系図改変のなかで創作されたもの、との主張がある。しかし依然として、六角義秀の実在説を唱える佐々木哲氏の説、他ある。

永禄2年(1559)2月2日、織田信長が上洛し、足利義輝に謁見
*同年2月2日、信長は約500名の軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した。
◎これに先ずる弘治2年(1556)8月、織田信長とその弟信行(信勝)との家督争い・稲生合戦が生じ、これに勝利している。なお、佐々成政の次兄の孫助(小豆坂七本槍の一人)はこの戦いに信長方の武者大将として出陣し奮戦するも討死を遂げた。孫助の子に佐々行政がいる。信長方700人、信行方は柴田勝家が1000人、林秀貞が700人の合計1,700人。

永禄3年(1560)8月 北近江、浅井賢政が六角軍を相手に野良田の戦い
◎この前年の1559年に家督を子の六角義治に譲っていた義賢は、この敗戦を契機に出家する(剃髪後は承禎)。一方、戦いに勝利した浅井賢政(15歳で軍を率い)は、六角義賢の一字をもらい「賢政」と名乗っていたものを「新九郎」の名に戻し、さらには小谷城主となり名を「長政」に改めた。こうなると圧迫を感じるのは六角承禎の方で、美濃の斉藤氏と連絡をとる。永禄4年閏3月、松原新三郎が佐和山城主になるが、すぐに佐和山城は浅井長政の勢力下に戻り、城主に磯野員昌が置かれた。この後、近江佐々木氏の家中問題も絡み、承禎の近江における六角家の権威は低下した。[背景]

永禄3年(1560)6月12日 桶狭間の戦い。織田信長が2万5千の今川義元を破る
◎三男・成政の長兄である佐々政次(隼人正、勝通)が桶狭間の戦いの前哨戦、善照寺砦にて討死。子に清蔵(吉勝)がいる。兄たちの戦死により父・成宗(盛政?:斯波氏の重臣)から家督を継ぎ、比良城主となる(25才か)。光通寺(名古屋市西区比良3丁目)の一帯が比良城跡で、寺の境内地に佐々成政城址の碑がある。

永禄4年(1561)閏三月の一時期、松原新三郎は佐和山城主
◎浅野方の百々隠岐守が切腹、六角義賢の将の松原新三郎が佐和山城に入る。佐和山は六角氏北進の拠点であった。佐和山城主は一時のこと。新三郎は成久の弟。

*日本海の北国海運は古くから発達(信長・秀吉らの商業振興政策の前)し、日本海の海産物は敦賀・小浜に陸揚げされ京に運ばれていた。若狭の船は積極的に北海道にでむき北海道の海産資源を持ち帰り、また京に運んだ。若狭から京に鯖を運んだ街道は、琵琶湖の西岸の山中を走り、若狭で一塩した鯖が京につく頃にはちょうど加減良くなった。この街道は鯖街道と呼ばれ、街道沿いの朽木市場では「鯖のなれ鮨」や鯖ずしを販売する店がある。『近江商人と北前船』147

永禄6年(1563)  観音寺騒動、六角義賢の後を継いだ義治が重臣を殺害
◎義治が最有力の重臣で人望もあった後藤賢豊を観音寺城内において暗殺。浅井氏が六角氏を攻める動きを見せたことで、浅井方につく者まで現れ始めた。不満を抱く一部家臣団によって、父義賢と共に一時的に観音寺城を追われてしまった。本家と義賢ら陣代家の間は対立関係で非常に危うい状態。

永禄8年(1565)5月 将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害される
◎応仁の乱に関連する佐々木一族の内紛将軍の近江出陣、江北と江南の内紛(六角氏と京極浅井氏の対立)、信長の近江への侵攻などで湖東・湖南が戦場化し、”武士とも農民ともなり得ない多くの民”が世にあふれだされ、地の利(琵琶湖)もあり多くの商人が出現したのでないか。
 この後も、江北と江南は「関ヶ原の戦い」「大坂の陣」と続く戦乱と土地の荒廃、徳川幕府の下で(井伊家を除いて)小国の分割統治が、商人の輩出を助長したであろう。

 彼ら「戦争難民」が帰農するより、自由ある商人の活動に感化され、身分を偽り、城下町に入ったり、他国へ繫がる街道を荷をかつぎ渡り歩く、あるいは、海・湖を渡ったり、商人に化けたのではないだろうか。為政者から見れば『浮浪者』や『逃亡者』であるが。結果、為政者は自分の懐具合が良くなれば、反逆者の首謀者でない限り彼らの活動(商業活動)を追認してしまう。彼らにしても、支配される側の苦悩を知っているから、いまさら農民はやらないだろう。

・『彦史』によれば、「彦根城下では、築城のため取り潰された農村の住民が町家へ入ったこと、佐和山城からの商人が移住を勧められたこと、またどこどこ配下の武士と思われるものが築城期に身を隠し町家へ入ったらしい。」が、散見できる。

永禄11年(1568)9月7日 織田信長が上洛 足利義昭を奉戴し上洛
*織田信長が足利義昭を奉じて入京したが、その時(岩倉の)山本氏を攻撃目標の一つと定めた。このときの様子を「信長公記」の「岩倉落城の事」として(略)、、小倉山城の攻撃はかなりの大規模、長期戦にわたったものと思われ、、山本氏は再び近江に走り、小倉山城の命運は尽きた。『京都市の地名』
◎この後の山本氏は織田氏の軍門に降り、山崎の合戦にて明智軍につき破れる、ということですか。[信長の近江侵攻]
*永禄11年に足利義昭は、当初本国寺(六条堀川)を御座所とした。しかし、翌12年の本国寺の変で三好三人衆らに京が襲われ危機に陥ったことから、信長は本格的な義昭の城の必要性を感じ、同年に旧二条城を築いた。、、義昭が信長に叛旗を翻すと、信長は元亀3年(1572)に新たな城(二条御新造と呼ばれた)を築き、義昭に対抗した。二条御新造の造営は佐和山城や安土城の普請と並行して行われ、天正5年(1577)に信長が入城した。二条御新造は、2年ほど信長の京の居所として機能したが、天正7年(1579)に工事が完了した後、誠仁親王へ献上され二条新御所となった。
◎信長は常に妙覚寺に泊まる。
旧二条城  → 二条御所(現、第二赤十字看護学校・平安女学院中・高と御所に掛かる)
二条御新造 → 二条新御所(現、平安女学院中・高の北、護王神社辺り)
・現存の二条城は、これまでのものと異なり徳川家康が宿所として造営した城。

永禄12年(1569)1月、三好三人衆、京都に侵入し、足利義昭を本国寺に襲う
◎永禄7年(1564)の三好長慶の死後、甥で後継者の三好義継は年若すぎ、長慶の弟達も死去していたため、義継の後見役として、三好長逸、三好政康、岩成友通の三人が台頭した。永禄8年(1565)には、長慶の死に乗じて将軍親政を復活させようとした室町幕府13代将軍足利義輝を暗殺し、永禄11年(1568)、信長の上洛に反発し抵抗するも相次いで敗退。

永禄12年(1569) 織田信長、延暦寺領の荘園を没収
*平安時代から鎌倉時代にかけては、延暦寺では国家鎮護の責を担うという自覚が強かった。しかし、しだいにその社会的役割を果たすべき努力を怠るようになる。そのうえで宗教的権威や経済的特権にしがみつこうという執着は強かった。僧兵が社会から嫌われていくのは、このような延暦寺の姿勢があった。
・驚き騒ぐ延暦寺に正親町天皇は次のような論旨を下している。
「昔、世のための祈橋を重ねていた時は、強訴を企てて無理なことを朝廷に申し入れるのも、延暦寺の習慣として許されていた。しかし今は何の努力もせず、特権を持っているという心だけは昔のままで勝手なことをしている。この災難は「てん(天)のせめ(責)又は神りょ(慮)」と反省しなさい。」『法師武者悪僧軍団の興亡』今井雅晴

元亀元年(1570)6月28日 姉川の戦い
姉川の南北に挟んで対峙。北に浅井・朝倉連合軍、南を徳川・織田連合軍。[続き]

元亀元年(1570)9月6日 顕如、(石山)本願寺重鎮の檄文
就信長上洛此方令迷惑候、去々年懸難題申付随分扱、(以下略)
  九月六日
 江州中部門徒中へ               蓮如(花押)
 (信長との交渉も空しく談判破綻して、この上は不退転の決意を以て打倒信長の戦闘を始めるについては、真宗門徒たるものは身命を惜しまず宗団のために尽くすべきである。)

以密使令進達候、、仏敵信長め、大群をもて石山の御営へ押寄候趣注進これあり、(以下略)
  九月六日
                      楠太郎右衛門
                      下間与四郎
近江国犬上郡左女谷道場へ(さめがい道場)

・宛名の中部門徒中とは即ち番方講の門徒達である。両通とも年記は無いけれど、一向一揆最後の拠点となった大坂石山本願寺が信長と交戦(1570-1580)を始めた(九月十二日)元亀元年のものであろう。手紙はその六日前の檄文である。
◎連名の場合、後ろ(あと)の方が身分が高いらしい。
*檄文を見ていると真宗教団がこの時代、もはや信仰団体の域を脱して、政治団体・武力団体化していた性格が如実に窺(うかが)える。『彦史』上P300

*「密使をもって知らせる。雑賀の三緘(みからみ)衆と根来の杉の坊が、仏敵信長に降参して、雑賀への道案内を引き受けた。秋田城之助(=織田信忠)ら、、その勢三万余りが雑賀に押し寄せてきたと注進があった。徐々に味方の軍勢もはせ集まり、防御の準備をしている。そちらも国中の門徒を、夜を日に継いで急ぎ到着させ、加勢してくれるよう、取り計らっていただきたい。浅井方、鈴木孫一(=雑賀孫市)」(天正5年(1577)2月5日)
*本願寺の要請を受け、近江の国四十九院(犬上郡豊郷町)の一向宗唯念寺でも、門徒二百人が、住職の巧空に率いられて大坂に向け出陣したが、安土で信長の軍勢に取り囲まれ、多くが殺された。米原市の福田寺には、信長に殺された一向衆徒を弔った「万人塚」が残っている。六角氏、比叡山、一向宗が支配した近江は、上洛を図る信長によって蹂躙され、大勢の犠牲者を出したことがわかる。 2つ『根来滅亡』(片木啓)
◎成政は、大坂石山合戦(1570年9月20日)の春日江堤の戦闘で、織田軍の先陣を切り迎え撃ってでたが怪我をして退いている。また、天正2年(1574)の長島一向一揆との戦いでは、長男・松千代丸を失っている。

元亀元年(1570)9月 信長、叡山を焼き払う
*叡山の堂塔をことごとく焼き払い、すべての山中の僧俗を殺し、滋賀郡以外の山門領を没収し武将に配分している。 以上『彦史』上P312
・『松平記』第四巻に、「三千の衆徒一々に首を切給ふ。尤山門法師の悪逆は普通にすぐれたれども、かく亡し給ふ事前代未聞の事也」とある。こうして、延暦寺の僧兵も滅びたのである。

元亀2年(1571)2月 佐和山落城、磯野員昌は高島へ退く
◎浅井方城主、磯野員昌は、信長との8ヶ月におよぶ戦闘の後、高島へ逃れる(1571年2月24日)。丹羽長秀が佐和山城城主(天正10年(1582)まで)になる。
*同年、比叡山焼き討ちの後、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして坂本城を築城した。
◎坂本は湾口をもち交通の要衝である。ここに城を築くことは比叡山と山中道の物流を管理することができた。山中道(山中越え)は中世、近世において頻繁に利用された。
*同年、このころ、京都の町数は上京47町、下京50町を数える。『京都の歴史3 町衆の躍動』略年表

元亀3年(1572)5月 信長、丹羽長秀に命じて兵船を建造
*佐和山城に陣した信長が兵船を建造を命じている。湖上水軍を利用して義明を討つため。木材は芹川を利用して佐和山の港松原に運び、国中の鍛冶、番匠、杣等が集められ作業が行われた。信長はこの大船に乗り坂本から京へ入り義昭を亡ぼした。芹川は松原内湖へ通じていた。『彦史』上P314
・湖という浮力のない淡水で、しかも遠浅の湖辺部分が多いという琵琶湖の特性上、巨船は役に立たず,ほどなくしてそれを建造した松原内湖で解体されている。

天正元年(1573) 京都岩倉、正行院(村松・浄土宗鎮西派)創建
*織田信長配下の明智光秀軍に大雲寺が焼き討ちにあう。(web大雲寺)
*同年2月、義昭は兵を挙げ、朝倉義景に対して、5,000~6,000の京都郊外の岩倉の山本まで出兵するようにと催促した。
*同年7月、村井貞勝、京都所司代に就任する。
【村井貞勝】(1520?-1582) 近江国に生まれる。早期より信長に重用される。信長より京都所司代になる。京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待、信長の京都馬揃えの準備など、およそ信長支配体制下における、京都に関する行政の全てを任される。本能寺の変にて、長男、二男と共に討死。娘は佐々成政と前田玄以に嫁ぐ

天正元年(1573)9月 長秀は若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名に

天正2年(1574)9月 信長、伊勢長島の一向一揆を滅ぼす
*天正2年4月に本願寺顕如が信長に対して兵を挙げ、5月には甲斐の武田勝頼が遠江に出兵してきたため、信長はその対処に追われていた。しかし同年9月、伊勢長島の一向一揆を滅ぼすと、翌3年5月、長篠の戦いで武田軍に勝利し、次の目標を越前一揆に定めた。『福井県史』通史3
◎石田三成は、羽柴秀吉が近江長浜城主となった天正2年(1574)頃から、父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓(14才)として仕える(天正5年(1577)説もある)。近江国坂田郡石田村(現・長浜市石田町)の土豪とも言われる。大原観音寺(米原市朝日)の小僧だった三成が、鷹狩りで立ち寄った秀吉に茶を献じて、「三椀の才」で見出されたという逸話が残っています。

天正3年(1575)5月 長篠の戦い
◎3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦で、佐々成政は、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政と共に鉄砲隊を率いた。
・9月、北陸方面の軍団長・柴田勝家の与力・目付として、、[府中三人衆]

天正4年(1576) 前田利家が1,000人ばかりを生捕り磔刑や釜ゆでの刑
*勝家にとって、北の加賀一向一揆と上杉謙信の軍勢に対する備えが必要であることはいうまでもないが、越前国内においても軍事的緊張が続いていた。武生市小丸城址から出土した瓦に、5月24日に一揆が起ったので、前田利家が1,000人ばかりを生捕り磔刑や釜ゆでの刑に処したことが記されている。この一揆については他の史料で確かめることができないが、天正四年のことと判断される。『福井県史』通史3

天正4年(1576) 信長、安土城築城をはじめる
*佐和山城主丹羽長秀は召されて総奉行となり、国内の諸将も安土に集って、石材運搬に参加した。、、だから、天正十年までは信長が本能寺の変で倒れるまでは近江が日本の中心であった。

天正4年(1576)、織田信長、保内商人の牛馬商売の掟を定める
*安土城下における掟を定める。保内商人の牛馬商売の特権を停止。続いて豊臣秀吉による検地(太閤検地)を受けて以降、得珍保は近世的な村落として13箇村に再編されていったことで、保内商人の座商業は消滅した。しかし商人たちは村落に留まることなく、従来の流通ルートをさらに拡大し、近世以降も近江商人として活躍することとなる。
近江商人とは、、近江の全国から出たけれども、とくに、、近江の中郡、すなわち蒲生・神崎・愛知・犬上の四郡、とりわけ前の三郡のいわゆる湖東三郡であった。 『彦史』中冊P401
【整理】「中世の近江の商人」と「(近世の)近江商人」の区別は、領内のものを持ち出し売り捌いてよいか、駄目かの違いか。
 ①八坂(若狭と松前ルート)が先駆的、保内商人の存在
 ②五箇商人(若狭ルート)と四本商人(伊勢ルート)
 ③近江商人は四本商人からの流れがあるのか
上記、①②が中世に、③が近世に、こんな流れでよいのか。

天正5年(1577) 織田信長が森田三郎左衛門から船の提供受ける
*敦賀湊・三国湊の初期豪商・森田三郎左衛門は同年織田信長が能登へ兵を動かすに当たって、船を提供している。兵粮米と武器等の調達・輸送のためである。
◎武士だけで「国は動かない」。「考え方も違い、武士とはその範疇も違う、ものを動かす人達」が必要になってくる。それが「商人」ということだろうか。

天正9年(1581)5月 京都大洪水、四条橋が流失

天正10年(1582) 織田信長が安土築城
*安土築城後、「掟書」を下して通行の商人は中山道の素通りを禁じ、上がり下りとも城下を通行の上、城下に寄宿せしめた。『彦史』上P289
・織豊時代による全国統一、次いで幕藩体制が確立していく過程で、統一政権も各地の大名も兵粮米や武器の運搬、年貢米の売却などのために船を持ち蔵を持つ商人を必要とした。それにこたえたのが初期豪商である。初期豪商は、領主権力との強い結び付きのもとで海運と商業とによって巨大な富を蓄えていった。なかでも畿内と北国とを結ぶ流通の結節点として発展を遂げた越前敦賀・三国、若狭小浜は多くの初期豪商を生み出した。 (森田正治家文書)『福井県史』通史3

天正10年(1582)6月2日 本能寺の変
z_heian ◎本能寺に滞在していた織田信長を、家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃。
 信長は寝込みを襲われ火を放ち自害。嫡男・信忠は、宿泊していた妙覚寺(図の橙色)から二条御新造(図の赤色)に移って抗戦したが、まもなく火を放って自刃。
 成政の二女の夫・佐々清蔵が信忠に従い討死(子に五郎四郎あり)。また、成政の義父村井貞勝は、本能寺向かいの自邸にいたが、二条新御所に立て籠もって抗戦、信忠とともに討死。貞勝の子の貞成・清次も同所で討死している。当時の本能寺は中京区元本能寺南町(蛸薬師通小川通西南角)、また二条御新造はその東南がほぼ烏丸御池に位置し、室町・御池・烏丸・二条の各通りに面する規模があった。
・本能寺(日蓮宗、法華宗)はこのとき、日承(伏見宮第5代邦高親王の子)本能寺8世の時代であり、畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらには種子島まで布教し、本能寺を頂点とする本門派教団が成立していた。早くから種子島に布教していたことから鉄砲・火薬の入手に戦国大名との関係が深かった。織田信長は日承に帰依していた。
[そのときの成政と長秀]

天正10年(1582)6月13日 秀吉と明智光秀による山崎の合戦
【京都岩倉】悲しいかな岩倉の武士、山本・伊佐氏など多くは光秀に従い討死、残党となりほとんどが帰農しました。
*農村に於いては、元武士で在ったという意識を持ち続け「侍者仲間」に集った。
*南方より打向ふ勢[秀吉方の勢力]
◎丹羽長秀の軍勢3000名。この中に、松原五郎兵衛がいただろう。

天正10年(1582)から太閤検地
*秀吉は信長を襲った明智光秀を山崎で討った(天正10年6月)後、山崎周辺の寺社地から台帳を集め権利関係の確認を行うなど検地を本格化させていく。
◎検地は、まず山城、播磨から、天正11年には近江、山城、摂津河内、若狭。慶長5年(1600)秀吉の死まで、太閤を名乗る天正19年(1591)以前からのものを含め、秀吉が関わった検地を太閤検地と呼ぶようだ。従来は三百六十歩(十畝)1段(反)の原則であったのを、6尺3寸(=1間(約191cm))棹で三百歩(十畝)1段と定め、地所の等級をも精査した。
・戦国大名は戦費調達に多額の資金を必要とするようになり、小額貨幣である銅貨は用途に適さなかった。そこで金山と銀山の開発が進む。金山は数少ない。佐渡金山での生産は江戸時代になってからか、と不明の部分が多い。何しろ、発見と生産は隠蔽するのが多かったのだろう。銀山は、大内氏の石見いわみ銀山が灰吹はいふき法により、1530年代により銀の生産が盛んになり、中国との交易に利用された。この時代に各地でつくられたものを領国貨幣という。
 江戸時代になると、幕府により金・銀・銭(銅貨)の三貨の鋳造を命じ、貨幣制度が統一された。

天正10年(1582)6月、清洲会議により織田家督は嫡孫三法師が継ぐ
*近江は長浜城を柴田勝家が手に入れ、佐和山城には堀秀政が入ることになる。

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