佐々木家~六角家~佐々家~佐々・松原家
・
六角満綱から
・成政の歩み
1.
長篠の戦い
2.
本能寺の変
3.
賤ヶ岳の戦い
4.
成政包囲
5.
丹羽家の大減封
6.
御伽衆
7.
肥後国主
8.
尼崎浄土宗法園寺にて切腹
9.
鷹司信房の北の方、父成政の菩提を弔う
・
成政の妻子
・
成政周辺の系図
【六角満綱から】
*--満綱 ---
時綱(文安3年9月5日(1446年)没)
---政堯,四郎(文明3年10月12日(1471)没)
---成義,孫四郎(大永元年6月14日(1521)没)→虎夜叉(丸)が成義であり政堯の実子と。
---成宗,伊豆守,
佐々木権左衛門(天文23年12月8日(1554)没76才 )
---成吉(政次)永禄3年5月15日桶狭間討死38歳(弟に成政(天正16年、没53才))
---清蔵,妻に成政次女,天正10年(1582)6月2日於本能寺討死
---五郎四郎,正保3年(1646)没66歳,養子松原五郎兵衛重勝
---佐々・松原氏 『成政ファン』83号 P18 など
-- 満綱-- | |-持綱 | | | | | | |
| |-時綱 | -政堯 ------ | -成義 ----- | |-成宗 -------- | |-成吉 -- | |-吉勝 -- | -五郎四郎 |
| | | (四郎) | (孫四郎) | |(佐々木権左衛門) | |(政次) | |(清蔵) | |
| | | | | | | | | | | |
| | | | | | | |-女 | |-成忠 ---- | |-吉利 |
| | | | | |-成秀 | |-女 | |-女 | |-忠次 |
| | | | | | | | | |-成行 |
| |-久頼 - | |-政頼 ? ------ | -高頼--- | | |-成経(孫助) | --行政 | |
| | | |-通久(松原祖) | | | | | | |
| |-高久 | --通久 | | | |-成政 | | |
『諸系譜』を編集。
◎佐々氏の興りは、佐々木氏からであり、時代を戻ってこの系統をすべて「さっさ」とすべきでない。佐々頼起は「ささ よりおき」、佐々成義は「ささ なるよし」だ。「ささ」を「さっさ」としたのは、信長と成政の間に由来する。これで、多数おられる「ささ」家の方もうかばれる。
天正3年(1575)5月 長篠の戦い
・9月、北陸方面の軍団長・柴田勝家の与力・目付として■佐々成政、前田利家、不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中3万3,000石が与えられ、成政は小丸城を築いて居城とした。天正9年(1581)2月、正式に越中半国を与えられ、翌年に神保長住の失脚により一国守護となり、富山城を居城として大規模な改修をおこなった。
天正10年(1582)6月2日 本能寺の変
[佐々成政] 成政の属する北陸方面軍は、魚津城を3ヶ月の攻囲の末に攻略の後、上杉景勝の本城である春日山城に迫る勢いであった。信長の死の報が届くと、(柴田勝家、前田利家を含む)各将は動揺しそれぞれの領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。
[丹羽長秀] 大坂で四国出陣の準備中だった丹羽長秀と織田信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていた。このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった。本能寺の変の直後には長秀の佐和山城は明智方についた荒木氏綱父子に入城されてしまったが、山崎の戦いの後に回復した。
天正11年(1583)4月 賤ヶ岳の戦い
◎佐々成政は上杉軍(上杉景勝)の魚津城を攻略したばかりで、防戦で身動きできず。賤ヶ岳へは叔父の
佐々平左衛門が率いる兵600を勝家の援軍として出す。
天正13年(1585)8月 成政の籠もる富山城を10万の大軍で包囲
【越中攻めの陣立書】(天正13年)
七月十七日付け加藤作内(光泰)宛て秀吉朱印状『陸奥棚倉藩主阿部家文書』
一番:前田利家10,000人
二番:丹羽長重20,000人
三番:木村重茲3,000人、堀尾吉晴1,000人、山内一豊700人、佐藤秀方200人、遠藤胤基200人、遠藤慶隆200人
四番:加藤光泰1,000人、池田輝政3,000人、稲葉典通1,500人、森忠政1,500人
五番:小島民部少輔2,500人、蒲生氏郷3,000人
船手衆:宮部継潤 因幡衆2,000人(木下重堅、磯部康氏、垣屋光成、亀井茲矩、山名豊国・豊政)、細川忠興2,000人
(番外)織田信雄5,000人
都合:57,300人
9月11日、娘を人質に出し剃髪する事で秀吉に降伏 減封(げんぽう)にて新川一郡 富山城に蟄居 新たに仕えた武士は勿論、譜代の臣も暇を乞うて、他国へ流れ住むものが多くなった。
11月 、雪深く、殊に戦乱の後であったので、米も実らず農民は疲弊した。成政は感慨旨に迫り、ある日述懐の歌を詠んだ。
「何事もかわりはてたる世の中に、知らでや雪の白く降るらん。」
天正13年7月以降8月 丹羽長重が123万石から若狭1国15万石になる
◎
長束正家や
溝口秀勝、
村上頼勝が召し上げられた時期については、「堀秀政が四国攻めの軍功により1585年丹羽長秀の遺領越前国北ノ庄に18万石を与えられ」とあり、「この与力に加賀小松の村上義明、加賀大聖寺の溝口秀勝が付けられた」とあるので、1585年の年内のことのようだ。つまり、
1585年の年内で、8月26日の成政降伏辺りに丹羽家では大減封にて家臣が大幅に減少したのであろう。村上頼勝は、堀秀政の与力大名と位置付けられ、、同年閏8月13日、加賀国能美郡に6万6000石を与えられたが、これは長秀時代の知行高から変更はなかったようである。
*
成田道徳が佐々成政と共謀したと密告したのは、同じ丹羽家臣の戸田勝成と長束正家であったと伝えている。その後、道徳は伊勢国に潜伏していたが、天正15年(1587)、秀吉の意を受けた蒲生氏郷の手勢によって討たれ、
首を京の一条戻橋に晒された。後継は成田重忠(正成、兵庫、弥左衛門)。重忠は丹羽家臣として長重に仕え続け、子孫も代々丹羽家(二本松藩)に仕えた。
丹羽家(長重)は、この後にも、天正15年(1587)の
九州平定の際にも家臣の狼藉を理由に若狭国も取り上げられ、加賀松任4万石の小大名になります。
天正13年(1585)11月 成政、上方でも1万石
*閏八月十三日に一族の
佐々与左衛門あて新川郡の「黒崎・寺津村・布尻・青柳・岩木」で四千俵の知行を宛行っている。(富山県史)。
◎一万石しか残らなかった知行地、うち四千俵の知行を宛行っている。
*九月九日 (佐佐成政)秀吉、成政を京師にとどめ、引いて譚友(だんゆう:かたる友)となす。 (織田大名衆) 上2つ『佐々成政関係資料集成』P316
◎秀吉の懐は大きい。成政が「猿といい」見下げたり、嫌がったりするが。(文献の年月日はいろいろある)
・
秀吉の御伽衆にいるのはどう考えても、九州討伐の前だろう。後なら、成政は熊本の国主となり、国人一揆と切腹しかないから、御伽衆としての動きはない。
天正13年(1585)暮れ~天正14年始め 成政、征伐の前に九州勢説得
*[立花宗茂] 天正十四年三月、佐佐陸奥守成政、蜂須賀阿波守家政を使者として豊後へ遣わし、宗麟[大友]に、、秀吉の下知に従ったのは、大友義統(宗麟の嫡子)・立花統虎・高橋招運・筑紫広門の四人だけであった。[富山県史]天正14年五月二十三日付けの秀吉の佐竹氏への使僧の伝馬申し付けには「分領中羽柴陸奥守侍従」という文言があるので、成政は大坂在住で、新川郡支配は分領という扱いで理解されていたものと思われる。そして、福田甚五郎のような代官が藏納分を支配していたのであろう。『佐々成政関係資料集成』317
◎
娘の嫁ぐ年月日を確定するため、成政の行動を追っているが、いろんな資料があり、月日が確定できない。どこにいたのかも確定的できない。数百年前の事項とはこういうものであろうか。まあ、名前が出てくるだけでも有り難い。岳星院(成政二女で佐々輝子)は1589年に鷹司信房に嫁いでいる。長女はいつ松原五郎兵衛に嫁いだか。五郎兵衛の九州での活躍を見ると九州征伐前と思うのだが。
天正15年(1587)1月9日 成政、宗久の邸で茶会に呼ばれる
*[宗湛日記]十五年正月九日条に、
「九日朝、一、宗久老ニ大坂ニテサッサ内藏助殿ト御会」との文言が見え津田宗及の邸で成政が茶会に呼ばれていたことがわかる。宗久に招かれている成政に、それなりの力があったのだろう。■成政は大坂において、新川郡を代官に支配させていたことになる。『富山県史』
*(九州征伐先発) 秀吉は二十四州に軍令を出し、二十万の大軍が正月中旬から発向し、大坂から船出をして豊前・豊後の諸港着岸し、後陣は(二月五日に続く)『立花宗茂』(★秀吉の大坂出発は、二月説と三月説あり)
*同年三月、成政は、宮部法印等と共に、先発隊に加わっていたので、法印と共に、赤間の関(下関の旧名、赤馬関)へ迎えに出たと思われる。「石川清佐々年表」
天正15年(1587)6月2日 秀吉、九州平定 同日、佐々成政の肥後国主に
◎松原五郎兵衛が成政の長女(随泉院)を娶っのが九州討伐前と考えていたがわからない。九州討伐の後で、五郎兵衛の戦ぶりに惚れ込んだのかもわからない。ただ、五郎兵衛の名が登場するのが後半戦のため、祝言を済ませて駆けつけた、としたのだが。
天正16年(1588)5月14日 佐々成政、切腹 53歳 尼崎浄土宗法園寺
*天正16年(1588)、五郎四郎(8歳)母子は、成政自裁後、同家家老であり母の姉婿である松原五郎兵衛と共に熊本を去った。
■母子はそののち伯母むこである京都所司代、前田徳善院玄以法印(後の豊臣五奉行の一人)方に身をよせた。
秀吉は成政の娘親子を哀れがったかして、母を鷹司関白信房に再婚せしめた。母岳星院は七人の子女を生み、寛永七年四月二十日逝去した。岳星院殿月窓恵光大姉。娘中ノ丸殿、名前はどうしたものか三代将軍家光の正夫人であるのに、死後は本理院、一本には孝子。 (古都陽炎)『佐々成政関係資料集成』P378
天正16年(1588) 鷹司信房の北の方、岳星院が父・佐々陸奥守成政の菩提を弔う
*当初は慈眼庵とよばれ、京都市上京区の西陣地区には慈眼庵町の地名が現在も残っている。その後間もなく、二条京極東街の北の地に移転、この地は鷹司家の屋敷跡地である。ところが、この地が公用地であったため、1663年(寛文3)に現在地(上京区出水通七本松東入七番町358)に移転、再建された。成政の孫で岳星院娘の徳川三代将軍家光公正室本理院(鷹司孝子)が、大きく力を注いだと思われる。本尊は聖観世音菩薩座像。成政夫婦、本祝宗源和尚の位牌をはじめ、岳星院・本理院および鷹司信房・信尚らの鷹司家の位牌が祀られている。境内墓地には、成政夫婦の五輪塔が歴代住職の墓と並んで現存している。(京都観光オフィシャルサイトNavi)
◎ずいぶん前に兄に連れられて慈眼寺へ行きました。境内の墓地に成政と妻慈光院の墓(五輪塔・供養塔?)、本堂には一族の位牌の中央に、一際大きな成政夫婦の位牌、右隣に岳星院殿(子)、左隣に本理院殿(孫)の位牌がありました。その後、平成14年(2002年)『(前田)利家とまつ』の大河ドラマもあり、少し知られる寺となり新しい碑が建っているようです。
*岳星院は、本能寺の変で夫の佐々清蔵が織田信忠に従い討ち死にした(
太田牛一著『信長公記』)後、豊臣政権下、関白秀吉の推挙で、当時権大納言の鷹司信房の継室となる(福智院家系譜)。
天正17年(1589)2月25日 秀吉の居、聚楽第の番所白壁に「落書き発見」
文禄2年(1593) 成政二女の子・五郎四郎が織田秀信に仕える
*同年、岳星院と先々夫・佐々清蔵の嫡子
五郎四郎(13歳)を織田秀信に仕えさせる『福智院家文書』『古都陽炎』。
【成政の妻子】
◎成政には娘が多く、憶測だが、御伽衆のもの達に娘の婿の世話まで依頼しているのでないか。長女から一人目の庶子までがお世話になったのでないか。ただし、次女は秀吉のすすめで鷹司家へ。
妻 :慈光院 村井貞勝
(織田政権下の京都所司代)の娘
長男:松千代丸、天正2年(1574)長島一向一揆で討死
二男:早川雄介、外祖父早川主水の養子
長女:随泉院
松原五郎兵衛室、佐久間勝之(1568-1634)前室(養子縁組解消)
次女:岳星院
佐々清蔵室、五郎四郎の実母、鷹司信房後室
三女:光秀院 織田信高(1576-1603享年28、信長の七男、主君は豊臣秀頼)室
四女:松寿院 神保氏興(1528 -1592、父氏張)室
五女:山岡景以(1574-1642、山岡景隆の七男で景友(
道阿弥)の養子、甲賀組預かり9千石)室
庶子:
狩野孝信(1571-1618、永徳の二男、子に
探幽)室
庶子:当時9歳(秀吉の人質、乳母と京都
粟田口で磔刑)
---
妻の姉妹:
村井貞勝の娘で
前田玄以室(豊臣政権下の五奉行、
京都所司代)
◎何人かの養子がいたが家督は継承されず。成政は孫の五郎四郎をそばに置き跡継ぎにと考えていたらしい。
◎三代将軍徳川家光の周辺には、成政の血筋、正室:孝子(1602-1674、成政孫、岳星院(?-1630)の娘)、絵師:狩野探幽(1602-1674)、忍びの頭:山岡景以(1574-1642) がいたことになる。
◎成政の長女・次女が「出戻り」であるということ、あり得る話。松原五郎兵衛が松原に先妻の子が二人いるのも真実味がある。佐久間勝之が佐々家を離れるのは養子縁組解消。1583年の賤ヶ岳の合戦で、成政が秀吉に降伏すると(このとき9歳の成政娘が乳母とともに粟田口で磔刑にされた)、勝之・安政の兄弟は降伏に反対し、徹底抗戦を主張したらしい。勝之・安政の兄弟はともに佐々家を離れたとある。安政の方が兄らしいとあるが分からない(また、岳星院と安政との婚姻はよく分からない)。佐々家を去った後は蒲生氏郷に仕え、氏郷の危機を救った。
◎成政実姉の子孫に水戸光圀に仕えた佐々宗淳(「水戸黄門」佐々木助三郎)、佐々淳行(元内閣安全保障室室長)がいる。
【成政周辺】
| |-成吉(加賀守) ---- |
|-清蔵 ------------- |
--五郎四郎 ------- | |-佐々権兵衛-- ?京都・近江 |
| | (政次,勝通) | | | (松原家へ養子) | |-松原勘兵衛成清 --勘兵衛庸成 (奈良の佐々・松原) |
| | | |-女,別喜右近室 | | |-佐々信濃守 --佐々宇左衛門(広島の佐々) |
|-盛政- | | | (簗田広正*6) | |
|(成宗) | | | | | |
| | |-成経(孫助) ------ | |-成忠(行政*7、淡路守)- | |-孫十郎吉利*9 | |
| | | | | (子皆家康仕)→ | |-喜藤次忠次 | |
| | | | | |-十左衛門成行*X |
| | | | | | |
| | |-女,前野加賀守室*1- | |-宗能 ----------- | --某 ----------- | ←(阿波の佐々) |
| | | | |-直勝*8 -------- | --直尚 ----------- | |-宗淳 -- ←(熊本・柏原・水戸の佐々) |
| | |-女,山田重国室*2 | | | |-宗明 |
| | | | | | |
| |
|-成政(陸奥守) | |-松千代丸 |
--× |
|
| | | : -------------- | |-女,松原五郎兵衛室-- | --五郎四郎(松原)-- | --佐々権兵衛-- ?京都・近江 |
| | | 村井貞勝・娘 | |-女,清蔵/鷹司信房室- | |-鷹司信尚 ---- | --教平 -- |
| | | | |-女,神保主馬室 | |-孝子(徳川家光室) | |
| | | | |-女,織田信尚室 --- | | |
| | | | |-雄助 (早川氏) -- | ←(愛知県) | |
| | | | |-女,山岡景以室 | | |
| | | | |-女, | --狩野探幽室 | |
| | | | | | (丸亀藩京極家家老) |
| | |-長秋(政勝)*3 -- | |-権左衛門 | -- | --九郎兵衛←(松江・丸亀の佐々) |
| | | | |-正明 | ←(秋月の佐々) | |
| | | | | | |
| |
|-勝右衛門*4 ----- |
|--孫十郎成冶*9 ----- |
--甚右衛門 -- |
←(加賀・富山?の佐々) |
| |
| (長治) |
|--長成(喜三郞,旗本)- |
|-権兵衛長次 ---隆直 --成澄(喜三郎) --喜之助(旗本,断絶) |
| |
| |
|
|-四郎三郎正成---権四郎長盛(旗本)- ←(上記と、江戸の佐々) |
| | |-女,毛利秀頼室 | | | |
| | | | | | |
| | |-信宗(宗綱) ------ | |-成善 -- ←(愛知一宮市森本の佐々) | |
| | | |-宗貞 -- ←(尾張徳川家臣の佐々) | |
|--宗長 | |-与左衛門 | | | |
| |-平左衛門(養子)*5 | | | |
(佐々洋氏作成、に追加編集)
*1.前野加賀守(小兵衛勝長):前野氏は良峯氏の系統で、高成の子・高長が尾張国丹羽郡前野村に住んで、前野氏を称したとされる。2代宗長、3代宗安は、平忠盛、忠度の家臣となって
北面の武士となり滝口の姓を許される。その後、斯波武衛氏、織田氏に仕える。父小坂正吉(宗康)氏は長男・二男を織田信長に預け、三男を佐々成政に預ける。長男は小坂氏(雄吉,宗吉)を、二男(将右衛門長康)三男は前野氏を名乗る。三男は前野加賀守勝長(雄長)と名乗り、佐々成政の家老。越中国砺波郡井波城主15000石を領す。佐々成政の鉄砲奉行を務める。成政の雪のアルプス「さらさら越え」に従う1人。
二男・長康は小右衛門(のち将右衛門)、受領名は但馬守。秀吉に仕え、1584年の小牧・長久手の戦い、翌年の四国征伐などで、但馬国出石城主、五万石となる。小田原征伐、文禄の役には朝鮮に渡り、京城まで進軍。1595年、豊臣秀次事件に連座して改易、長康自身も切腹。子景定も同じく切腹させられ、この系統はここで断絶。『武功夜話』は愛知県江南市の旧家(旧庄屋)吉田家の祖先として伝わる前野家文書。そのうちの五宗記は二男・前野長康の著者とある。
*2.山田重国:山田治部左衛門尉重国、織田家家臣に名が見える。
*3.佐々長穐と長秋は別人か。長穐は織田氏家臣・佐々良則(一兵衛尉主知)の子という説。簗田広正の与力として加賀国檜屋城代となり一揆平定に苦心する、とあり。父は成政ともある。佐々良則は成政と同族でしょうが、不明。
*4.勝右衛門(長治):成政の庶兄ともいう。
*5.
平左衛門(1529-88?):丹羽氏次(勘助)の子(疑問が多いと)喜藤次で宗長の養子。成政の肥後転封に従った。
*6.梁田広正:(?-1579)父政綱は、信長の桶狭間の戦いの戦功によって3,000貫文の知行と沓掛城を与えられたとしている。広正は天正3年(1575)、羽柴秀吉・明智光秀や塙直政らとともに叙位任官を受けて右近大夫となり、九州の名族である別喜の姓を下賜された。天正4年、大聖寺城を与えられて
加賀一向一揆の討伐に当たるが、討伐は失敗し、尾張に召還される。
*7.行政:織田信長の鷹匠。1596年2月、豊臣秀吉の家臣佐々正孝として、秋田氏と浅利氏の紛争(浅利騒動)の停戦を命じる調停役(浅利軍記『新編弘前市史 通史編2』)。羽柴秀吉の鷹匠頭、1597年頃には6000石の知行、豊臣政権の十人衆の一人。関ヶ原の戦いでは東軍。 その後、家康に仕えていたが、「慶長18年(1613)10月25日、富田信高に連座して、、佐々淡路守行政、佐々孫助、佐々内記が改易にされた」(行政、孫助、内記が兄弟とされているが)(以上『戦国人名事典』)。 1614年
大坂の陣で、豊臣方の人物として「佐々淡路守(正孝)」が船奉行として活動(『寛政重修諸家譜 第5編』)してしている。不明の部分多し、誕生年、没年不詳。孫助に子はいないとされるが、政次(清蔵の弟)より孫助の子とする方がより妥当か。
*8.直勝:宗能の弟。成政没後、佐々姓となり宗能の後を継ぐ。加藤清正・広忠に仕える。実は、兄は丹羽氏次(勘助)の次男で、前野家へ入り佐々与左衛門宗能と称したという説あり。叔父宗長の実子が与左衛門、養子が平左衛門。平左衛門と与左衛門宗能、同じく丹羽勘助の子としたら、丹羽家で両家は繋がるが。((宗能は)成政姉子良峯なり、後に成政家号を与え同姓とする『佐々成政関係資料集成』P338)
*9.孫十郎:孫十郎成冶(鳴尾村領主)と孫十郎吉利の2人がいるが『武家事紀』の秀吉黄母衣衆は「孫十郎成冶」と思われる。
*X.十左衛門:秀吉の馬廻、文禄元年(1592)名護屋城在番速水組の「佐々十左衛門」とは年齢的に合わず別の人物か。
◎議論あるところは、その道のものでないもの(私のようなもの)が軽々しく記すべきでないようですね。