松原五郎兵衛と五郎四郎

 1.丹羽長秀の家臣団
 2.五郎四郎が織田秀信に仕える
 3.秀吉の「母衣衆」
 4.黄母衣衆の構成員の調査
 5.関ヶ原の役では
 6.大坂の役では
 7.五郎四郎 周辺の人物
 8.下間氏



【丹羽長秀の家臣団】
 尾張衆:
太田牛一戸田勝成溝口秀勝、上田重安、青山宗勝、大谷元秀、桑山重晴成田道徳村上頼勝、など
 美濃衆:
徳山則秀、青木一重、青木重直、太田一吉、揖斐光正、大島光義、大島光成、
 近江衆:
江口正吉、長束正家、長束直吉、浅見忠実、赤田堅、安養寺高明、猪飼秀貞、建部寿徳、など
 越前衆:
坂井直政、堤教利、松原直元
 若狭衆:
粟屋勝久、熊谷直之、武田元明、逸見昌経、白井政胤
 ※越前衆の「松原直元」が松原五郎兵衛である。越前衆となるは越前内に領地を宛(あて)がわれたからか。

【五郎四郎が織田秀信に仕える】
 1589年、五郎四郎の母(佐々輝子、成政二女で岳星院)が鷹司信房に嫁ぐ。翌年4月14日、母が鷹司信房(公卿)の子・信尚を産む。
*文禄2年(1593)、岳星院と先々夫・佐々清蔵の嫡子五郎四郎(13歳、600石)を織田秀信に仕えさせる(『福智院家文書』『古都陽炎』)。
・文禄3年(1594)10月17日、秀吉は成政の娘婿・松原五郎兵衛に摂津国で百石を与える『福智院家文書』。
 とすると、成政切腹(1588年5月14日)後から1593年までおよそ5年間、松原五郎兵衛夫妻とその甥・佐々五郎四郎は前田玄以宅にお世話になりましたか。その当時、前田玄以は織田信雄の下臣で、姪・岳星院の子・五郎四郎を三法師に推挙するのは容易いであろう。

【秀吉の母衣衆】
◎次に時期が異なる2つの秀吉「母衣衆」を取り上げる。『武家事紀』の方が『甫庵太閤記』より古いと思うが。10名ほど重なっている。
・治世以後の黄母衣衆(22名)『武家事紀』より
1.伊東丹後守(長次/長実)2.堀田図書(盛重)3.速水甲斐守(守久)
4.野々村伊予守(雅春)5.服部采女(一忠)6.荒川助八
7.荒川忠兵衛尉8.川尻九兵衛尉9.石尾下総守
10.森総兵衛尉(勝也/可政)11.郡主馬正(宗保)12.松原五郎兵衛尉
13.伊木半七(遠雄)14.中江為則15.長原次郎兵衛尉
16.青山修理亮(宗勝)17.青山雲宅18.長坂三十郎
19.井上忠右衛門尉(道勝)20.佐々孫十郎21.三好新右衛門尉(房一)
22.兼松又四郎(正吉)  

・文禄年間(1591-1595)、黄母衣衆(24名) 『甫庵太閤記』より
1.戸田民部少輔(勝隆)2.三好丹後守(房一)3.井上忠右衛門尉(道勝)
4.津田与左衛門尉(信任)5.郡主馬正(宗保)*6.松原五郎兵衛尉
7.野々村伊予守(雅春)* 8.長原雲沢軒9.尾藤甚右衛門尉(知宣)
10.青木民部大輔(一重)* 11.伊東丹後守(長次/長実)*12.毛利壱岐守(吉成/勝信)
13.一柳右近大夫14.速水甲斐守(守久)*15.赤美平七郎
16.中島式部少輔(氏種)* 17.服部采女正(一忠)18.山田久三郎
19.荒川助八郎20.山田忠兵衛尉21.長坂三十郎
22.近藤九介23.伊木七郎右衛門尉(遠雄)+ 24.石尾下野守(治一)
*印:七手組頭として大坂夏の陣参戦 +印:大坂夏の陣参戦
・七手組頭は、上記の速水守久、青木一重、伊東長実、中島氏種、野々村幸成、郡宗保の他に堀田盛高、真野助宗があがる。

【黄母衣衆の構成員の調査】
 番号は知名度がある順番だろうか。この中で大名に転出している人もいるし、所領没収切腹している人もいる。青木一重、戸田勝成と松原五郎兵衛は共に丹羽長秀の配下で長秀が死去すると丹羽家を離れる。五郎兵衛は成政へ、一重は秀吉へ仕え、黄母衣衆にて再度巡り会う。
1.戸田勝隆(三郎四郎):
はじめ丹羽長秀に仕える。天正10年頃、母衣改選のとき黄母衣衆で筆頭。文禄元年(1592)4月、文禄の役に出征。文禄3年頃、在陣中に発病、帰路の途中で病死。秀吉の蔵入地7万石の代官、慶長元年頃に秀吉から1万石を受け大名に。弟の戸田勝成は丹羽長秀の越前国で2万5,000石。家臣の大量離脱を機に豊臣秀吉の家臣。関ヶ原で戦死。
2.三好丹後守(房一):
文禄・慶長の役では肥前名護屋に出陣。秀吉死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いで東軍に属す(この時、1万石の知行『廃絶録』)。慶長19年(1614)駿府において死去。
3.井上道勝(忠右衛門尉) :
長井道利(父または兄弟)と共に斎藤道三に仕える。斎藤氏滅亡後は長井から井上姓に改め、豊臣秀吉に仕え、黄母衣衆。池田輝政に召し出され、度々御前に出て軍物語をし、98歳で病死。嫡男の長井新太郎は本能寺の変で先立って死去。
4.津田信任:
4.津田信任:天正元年(1573)に黄母衣衆。3万5000石の山城国三牧城主。伏見醍醐、山科における洛外千人斬り事件の犯人として逮捕される。家督は弟・信成が1万3000石(減封)で相続。
5.郡(こおり)宗保:
文禄・慶長の役では肥前国名護屋で兵糧船調査に携わった。関ヶ原の戦いで西軍として大津城の戦いに従軍。大坂の陣では旗奉行。5月7日に豊臣軍の敗戦のなか自害した。
6.松原五郎兵衛:
近江国松原出身。天正11年(1583)5月、丹羽長秀の家臣5000石。家臣の大量離脱のとき丹羽家を離れる。成政長女娶る。天正15年12月、肥後国一揆平定で奮戦(佐々家の家老)。天正16年佐々成政切腹の後、一族を肥後国より京へ連れ帰る。文禄2年(1593)に肥前国名護屋城三之丸御門番衆・御馬廻衆。秀吉から、文禄3年摂津国で百石、文禄4年播州で六百石。黄母衣衆の一員になる。1600年8月末、娘婿・佐々清蔵の子・(松原重勝)を養子に迎える。その後、行方知れず。
7.野々村雅春(吉保→雅春):
野々村三十郎の弟。三十郎は斎藤・織田家に仕え、最後は旧友の佐々成政のために1584年の越中の戦いで討死した人物。吉安は豊臣秀吉に仕えた黄母衣衆の一人で小田原征伐には諸城を攻略。秀吉死後、秀頼に仕え、大坂七手組の1人。3,000石の知行を賜る。大坂冬の陣では、大坂城惣構森村口を守備。夏の陣では兵1,200を率いて参戦。二の丸と本丸間の石垣で自害して果てたという(『大坂御陣覚書』)。七手組。
8.長原雲沢軒:不明
9.尾藤知宣:
天正元年、近江国長浜で250貫で、黄母衣衆に列す。草創期の秀吉家中において古参の家臣。軍事に通じていた。天正14年に讃岐国宇多津5万石。天正15年、秀長の下で3,000名を率いて九州征伐に従軍も、秀長に慎重論を訴えて援軍に赴かず。秀吉が怒り、所領を没収、追放。その後に処刑される(天正18年7月)。
10.青木一重:
天正13年に丹羽長秀が死後、羽柴秀吉の使番。後に黄母衣衆。摂津国豊島郡内に1万石を領し麻田城主(麻田陣屋)。天正15年九州戦役に従軍。天正16年に七手組の組頭の1人。大坂冬の陣に城の一角を守備。大坂夏の陣は不参加。秀頼からの礼謝使節として家康の許へ派遣されたところ、大坂には戻らず、剃髪して隠棲した。二条城に召し出され、家康に再び仕える。寛永5年1628年8月9日没。享年78。
11.伊東長実:
大母衣衆。黄母衣衆24人の一人に。天正19年(1591)に備中川辺に1万300石で大名に。文禄・慶長の役では肥前国名護屋に駐屯。慶長5年(1600)6月16日、会津征伐に向かう徳川家康にいち早く石田三成の挙兵を知らせる。大坂の陣では豊臣方大坂七手組頭の一人として家康に敵対するものの、青木一重と共に大名として存続。七手組。生誕永禄3年(1560)、寛永6年(1629)2月17日没、享年70。
12.毛利勝信:
古参の家臣で、黄母衣七騎衆の1人。肥後国人一揆では首謀者の隈部親安や甲斐親英の鎮圧の功をあげ、天正15年、豊前国の2郡、小倉6万石。この際に、秀吉より森姓を毛利姓に改めるように命じられ、毛利壱岐守を称す。文禄元年、秀吉による朝鮮出兵では四番隊の長。関ヶ原の戦いでは石田三成方につく。勝信・勝永は戦後改易されて、肥後国へ追放される。慶長16年(1611)5月6日没。
13.一柳可遊:
天正19年、伊勢国桑名の領主。文禄の役にも従軍するが、文禄4年(1595)の豊臣秀次事件に連座して徳川家康に預けられ切腹。
14.速水守久:
速水氏は近江国浅井郡速水城を拠点とする国人。当初は浅井氏に仕えた。お茶々らの家臣として羽柴秀吉に仕え、近習組頭、黄母衣衆。文禄・慶長の役では肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭。奉行として検地などにも活躍し、1万5000石を拝領。 後に4万石。大坂夏の陣では、千姫教育係であった守久は千姫を無事に徳川陣屋に送り届ける。自害する秀頼の介錯(毛利勝永とする説も)を務め殉死した。七手組。生誕元亀元年(1570)、慶長20年5月8日没46才。
15.赤美平七郎:不明
16.中島氏種:
豊臣家大坂七手組頭。禄高2万1712石。秀吉の勢力拡大に従って各地を転戦。秀吉の死後も豊臣家に仕える。慶長5年(1600)関ヶ原の戦い、石田三成の陣に属して戦う。慶長19年(1615)大坂夏の陣、兵2,000を率い奮戦するも落城を待たず自刃。七手組。子は河内国茨田郡岡新町村に帰農、江戸期に代々中島九右衛門を名乗り、近隣屈指の豪農として存続。
17.服部一忠:
尾張国の出身。織田信長の馬廻。永禄3年の桶狭間の戦いに参戦。本能寺の変、弟の小藤太が戦死。黄母衣衆の一員となる。天正19年(1591)伊勢国一志郡に3万5000石。羽柴秀次に付けられた。文禄の役において漢城に進軍。文禄4年(1595)、豊臣秀次失脚に連座して所領を没収され切腹。
18.山田久三郎 :不明
19.荒川助八郎 :不明
20.山田忠兵衛尉:不明
21.長坂三十郎 :不明
22.近藤九介  :不明
23.伊木遠雄:
天正11年(1583)、17歳で臨んだ賤ヶ岳の戦いで敵将(半七)を討ち黄母衣衆の一人に。文禄・慶長の役では肥前名護屋城三ノ丸御番衆の御馬廻。慶長4年に河内国志紀郡に300石。関ヶ原の戦いでは西軍に属し浪人となる。慶長19年大坂の陣で真田信繁の軍監。大坂冬の陣では真田幸昌と共に軍功を挙げる。大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦いで討死か行方不明。生誕永禄10年(1567)、慶長20年(1615)5月7日没か。享年48才か。
24.石尾下野守(治一) :
文禄元年、肥前名護屋城に駐屯。文禄3年(1594)、伏見城普請の奉行。普請奉行六人の一人。関ヶ原の戦いでは西軍に与して失領。慶長19年の大坂冬の陣で、有馬豊氏の軍勢に加勢。慶長20年より徳川秀忠に仕え、5月の大坂夏の陣で本多忠純隊に加わって従軍。荒木姓から石尾姓に改める。弘治3年(1557)誕生、寛永8(1631)年7月26日没、享年75。
★集計:黄母衣衆名前のみ7名 (29.2%)/24名
関ヶ原の戦い西軍:5名 東軍:2名 不明:10名 全体:17名(名前のみ7名)


【関ヶ原の役では】
▼成政自裁後、佐々五郎四郎母子は親戚縁者(前田玄以)を頼る。1593-1600年、松原五郎兵衛夫婦は秀吉の黄幌衆として摂津の知行地並びに伏見城周辺に居住。五郎四郎は600石にて岐阜城の織田秀信に従う。
 関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城が落ちると、母が鷹司家(公家)へ嫁いでいるから、五郎四郎はやむなく大坂の松原五郎兵衛夫婦に合流し、娘をもらい養子(松原重勝)になった。養父五郎兵衛は養子をもらって以降、彼の姿が見えない。五郎四郎と石田三成の不測の事態に備えて琵琶湖沿岸で「待機」していた可能性はある。しかし、不幸にもこれを結びつける明確な史料が見当たらない。
 三成の呆気ない敗戦。五郎四郎は妻があるのでいつの日にか京都に戻った。落ち武者は故郷へ戻り農村に身を隠すのが得策だろう。親戚縁者に迷惑をかけるから、こんなところもある?。さて、養父の五郎兵衛は故郷の近江国松原近辺に身を隠すこと、配下の者・親戚縁者の伝手で城下町へ入ったことも、大いに考えられる(松原には五郎兵衛の先妻と子がいること考えると)。


【大坂の役では】
▼関ヶ原の戦いの論功行賞では、五郎兵衛が行方知れずのため居宅・領地は没収される。大坂の陣まで10数年、重勝家族の暮らしは男子3人(長男権兵衛1602,3年生、他2名)をもうけているので暮らしは難渋し、親戚を頼る(?)ほかないだろう。さて、豊臣と家康の戦が始まるというので、これは好機と家族が心配する中、重勝(当時33才)は大坂城へ参陣する。
・関ヶ原当時では「秀頼、秀頼近習に謁見」の猶予もなく、養父に従い松原くんだりまで行ったのであるから、大坂城への参陣は普通の浪人扱いでなかったか。大坂陣の敗戦後、生き残り手段として「岐阜織田家士」と申し述べた、かもわからない。

◎重勝が家督相続をしていれば、上記の史料は「豊臣氏家士」で「出家」となるだろう。従って、関ヶ原の戦い直前から重勝に家督(秀吉・秀頼から受けた財産)が継承されていず、五郎兵衛は第一線から退いていないことになる。隠居ともなっていないし、死んだことも否定できないが。秀吉・秀頼の馬廻り、その中でも七手組頭の多くが、大坂の陣(夏の陣)第一線で指揮を執っている。従って、ごく普通に考えれば五郎兵衛(1615年大坂の陣、推定56歳)が他国(松原・米原辺り)にあっても、その地が故郷という特殊事情があったとしても、彼らと連絡を取り再び大坂城へ戻るものと思われる。その消息が史料に見当たらないのは、大坂陣の時には、この世にいない、或いは武士を止めたと解釈してもよいのだろう。
・重勝はどこで戦ったかは不明。敗戦後は『出家』とある。家光の正室である同腹異父の妹(本理院)を頼り、三代将軍家光に仕官を依頼するが、夫婦仲がうまくいっていないこともあり、よい返事はなかったようである。こちらは西軍の敗残兵、どう血迷ったか。


【五郎四郎 周辺の人物】  
 |-随泉院(長女)    
成政 -| :-------------------五郎兵衛女   
 | 松原五郎兵衛  :   
 | 清蔵(成政兄勝通子)  :-------------------|-佐々権兵衛 ---- 
 | :-------------------五郎四郎|-松原成清 -----松原庸成(佐々兵庫、後に福智院因幡舜恕)
 | :(↑松原五郎兵衛重勝)|-佐々信濃守 --|-佐々宇左衛門 
 |-岳星院(次女) |-女子 |-女子-西本願寺坊官・下間少進室
 | : |-女子 |-女子-石束源吾兵衛室(大石理玖父,但州豊岡)
 | : |-皆明寺権僧正   
 | :   |-一条兼香
 | :-----------------|-信尚・関白左大臣---------教平・左大臣--|-房輔・摂政関白 --|-兼凞・関白  ---------
 | 鷹司信房|-大乗院信尊・興福寺別当 |-三宝院高資  
   |-三宝院覚定・醍醐門主 |-九条兼晴  ----|-九条輔実(*)------
   |-宝鏡院・比丘尼御所 |-大乗院信賀  |-二条綱平
   |-本理院将軍家光正室 |-随心院俊海|-住如光澄・西本願寺15代門主
   |-真照院桑山左衛門佐室 |-端龍院・村雲御所 
   |-宝珠院播州本德寺室 |-浄光院殿五代将軍綱吉正室
     |-新上西門院殿・霊元天皇妃
 上記略系図は、『福智院家系譜』・『諸家伝』・『系図編纂』・『日本史総覧』(新人物往来社)・『宮廷公家系図集覧』(東京堂出版)等を参考、検討し作成したものである。『佐々成政の娘たち』P29
*鷹司信房は、関白・二条晴良の子。天正7年(1579)織田信長の勧めにより、鷹司忠冬の死により断絶していた鷹司家の名跡を継いで、これを再興させた。[藤原氏長者へ]

◎成政の次女・岳星院は清蔵との子・五郎四郎の他、上記公達七名を産みました。鷹司信房の子はここの七名を加え、合計17名いるとか。有名なのが、四男・鷹司信平で徳川将軍家に仕え松平氏(鷹司松平)と称しています。TVで馴染みの松平長七郎のようです。
◎九条(藤原氏)輔実(*)の6代後、九条道孝の(正室和子の後の側室)幾子との子で四女・藤原節子(さだこ、大正天皇妃)が昭和天皇の母です。
*福智院家は大乗院門跡坊官家の一つであり、かつ興福寺の寺務職を執行する家柄である。、、平安中期頃から、興福寺の寺域内に子院、院家が成立し、藤原氏の嫡流摂関家の子弟が入る一条院と大乗院が両門跡として、対立と抗争を繰り返しながらも、およそ交互に、興福寺の別当(長官)職につくよう次第に固定化された(但し、一条院は江戸初期に後陽成天皇皇子、、が入室してからは宮門跡となった)。『佐々成政の娘たち』
・18世紀初期には、近衛家以外の摂関家の当主の全てを鷹司教平たかつかさのりひらの男系の孫が占めていた時期があります。
  鷹司兼熙(かねひろ):鷹司家17代当主
  一条兼香(かねよし):一条兼輝の養子、一条家17代当主
  九条輔実(すけざね):九条兼晴の子、21代当主
  二条綱平(つなひら):二条光平の養子、二条家18代当主

▼五郎四郎は、関ヶ原の戦い(19才)、大坂の陣(34才)と西軍に参戦し、その後の子供の行く末が心配でした。通常なら、西軍に付いた者は残党狩りの探索に会い、家族ともども咎めを受ける(死罪にも至る)のです。幸い、鷹司家が親戚で、西軍としての働きが大したものでなかったのか悪い結果に至らずでした。
 これをよいことに、10年ほど経過した元和10年(1624)12月以降(※)に、五郎四郎は「家光公之御台所中丸様依る所縁、欲奉 御当家仕、中丸様御思慮未決之間不得待」(旧記)と、将軍の御台所になった妹に仕官の依頼をするのでした。「洛陽隠士となり法躰して松原休意と名のる」と、返答を待つのでした。だが家光との夫婦仲もうまくいっていない妹・中ノ丸殿に答えようがありません。五郎四郎(松原重勝)は夢かなわずして正保3年(1654)1月15日66歳で死去(青松院徹誉休居士)します。「洛陽」とは京都の異称で、「隠士」は俗世間との交わりを断ち隠棲する武士という意味です。「法躰し」は僧侶の身なりで「松原休意」と名のった、と。
 親父・五郎四郎は成政の孫であり『西軍の落ち武者』。妹を頼り徳川家に仕えたいという始末に、長男・権兵衛(このとき21、22歳)は「親父の気概のなさ、許せぬ、我慢ならぬところ」があったのでしょう。権兵衛がこの頃、父のもとを離れ祖父を頼り近江国へ。そう遠くない祖父の死後に姓を「佐々」へ戻した、と考えるのも不思議でないでしょう。権兵衛のその想い(創作)が弟達も姓を「佐々」に戻しています。
※中ノ丸殿は本理院の生前の名で、関白鷹司信尚の姫君。元和9年12月江戸に下って西ノ丸の秀忠のもとにあり、翌年12月本丸に移って家光と結婚した。このとき23歳であったというから家光より二つ年上である。中ノ丸殿は異父一腹(五郎四郎)の妹にあたる『古都陽炎』)

▼五郎四郎は鷹司家の伝手(つて)で、二男・松原成清を桑山藩へ、三男・佐々信濃守(従五位)を鷹司房輔公へ仕官させることに成功しています。
【五郎四郎 長男】:佐々権兵衛(不明、1602,3年生)。
【五郎四郎 二男】:松原勘兵衛成清(1659年10月13日、41才?没)は桑山修理太夫に仕え300石を領す。万治2年(1659)10月13日死去(子庸成20歳のとき)。父重勝(五郎四郎)の母の夫である鷹司信房の娘・真照院が桑山左衛門佐室になっている。桑山左衛門佐(1578-1636)は桑山家二代目一直氏のことか。松原成清が桑山藩(一万六千石の大名)に仕官できたのも親戚・縁者の伝手でのことだろう。ちなみに、成清の妻は、三宝院門跡坊官北村家の出である。この家の祖は江州栗本北村城主でのち醍醐に住んだという。
・成清の子、松原勘兵衛庸成(1640-1691、52歳)は主家桑山家改易(1682年5月)のための浪人中「佐々兵庫」を名乗る、当時の興福寺別当である大乗院門跡信賀大僧正(左大臣教平の男、成政子孫、庸成と「またいとこ」)の推挙(1686年2月)で、跡継ぎのない福智院因幡禅舜の養子となり、福智院因幡(いなば)舜恕(しゅんじょ)となる。
 なお、桑山重晴(1524-1606)は丹羽長秀の与力。嫡子一重は天正10年(1582)死去、その後は孫の一晴が継承。桑山藩は一晴(1575-1604,一代)、一直(1578-1636,一晴の子?弟?,二代)、一玄(1611-1684,三代)、一尹(1645-1683,四代)で廃絶。1682年5月、寛永寺において4代将軍・徳川家綱の法会のとき、院使饗応役を命ぜられていたが、勅使に対して不敬があったとして、5月26日に改易された。他説もあり。桑山重晴は丹羽長秀時代に松原五郎兵衛と同門である。
【五郎四郎 三男】:佐々信濃守(没年不明)が摂関家鷹司房輔公に仕え、従五位に叙せられる(福智院家系譜、但州石束家系譜)。五郎四郎から見て房輔は異父同腹の兄弟の子(甥)。
・信濃守の長男・宇左衛門は親戚・九条通房の娘を仲介して安芸広島藩浅野家に三百石使番として仕官した。
・信濃守の娘の一人が、西本願寺坊官(執事)下間少進家の室となった(福智院家系譜)。これは、摂家九条家と西本願との縁戚(九条兼晴の子が住如光澄(1673-1739)・西本願寺15代門主となる)によるものか。なお、西本願は九条家と同じ「九条藤」の紋を使用。 、、五摂家(近衛、鷹司、九条、二条、一条)は、鎌倉期より、藤原氏の嫡流に当たる公家の最高の家格で、摂政・関白までになりうる家柄である。また、皇妃は皇族およびこの摂家の娘から選ばれるのが慣例という時代である。いうなれば、代々の天皇の外戚である。大大名も室を五摂家から迎える場合もすくなくない。『佐々成政の娘たち』
信濃守の娘の一人が、石束源吾兵衛毎好に嫁ぎ、その子・理玖が大石内蔵助良雄の妻である。 石束、大石両家の婚姻関係は、もともと近江という同郷の縁によるものという(森林助 同論文)、、大石氏の祖先は佐々木六角氏に属し、大石庄(大津市大石町)の下司職をしていたという。
【五郎四郎 長女】:不明(織田信濃守家来、羽片太郎佐衛門妻)(『古都陽炎』)。
【五郎四郎 次女】:不明(津田四郎兵衛妻)(〃)。
【五郎四郎 四男】:皆明寺権僧正(住御室)(〃)。
以上『佐々成政の娘たち』P30などから編集

【下間氏】
西本願寺15代門主住如(じゅうにょ)、父左大臣九条兼晴、母待姫(九条道房の子)の3男として延宝元年(1673)10月10日に誕生。実兄に九条輔実、二条綱平がいる。3歳で本願寺に出され、14歳で寂如の養子となる。元禄2年17歳で得度し、享保6年には寂如の7女、常(瑞光院如浄)と結婚する。こうして寂如の子直丸がまだ幼かったので住如が第15世を継ぐこととなった(53歳)のだが、教団内の不和があったため、寂如の10男である直丸(第16世湛如)を養子にすることで彼らと和解した。『本願寺の系譜』を編集
下間(しもつま)氏は、摂津源氏を自称する一族であり、代々本願寺の坊官を務めてきた家柄である。戦国時代に一向一揆の指導者として活躍したものが一族に多い(一向宗は後に浄土真宗)。下間氏の初代とされる源宗重は源頼政の玄孫である。宗重が、承久元年(1219)、鎌倉幕府打倒の企てに連座して処刑される事となったとき、親鸞が処刑する事の非を説いた。その恩に報いて親鸞の弟子となった。その後、東国での伝道に随従する。親鸞が常陸国下妻(現在の茨城県下妻市)に庵を構えた時にこれを記念して宗重は「下妻」(しもつま)を名乗り、これが変化して「下間」になったのだという。

下間少進(1551-1616)は、本願寺坊官、能役者。少進は織田信長の信頼あつく、天正10(1582)年法印に昇進。金春流の大事を次々と伝授され、生涯に1200番近い能を演じるなど、くろうとをしのぐ活躍ぶりを示した。また豊臣秀吉・秀次、徳川家康らの寵遇を得、門下には諸大名が名を連ねた。信濃守の娘が嫁いだのは、下間少進家(仲孝を初代として)の3・4代目あたりか。下間家は本願寺の武門の棟梁です。
・佐々信濃守の娘(西本願寺坊官・下間少進室)にとって権兵衛は伯父さん。市井に埋もれた(?)伯父さんの死に駆け付け、枕経あげる・世話をする。、、