磯・松原・米原・佐和山での松原氏の動静

 1.国人・土豪の成長

 2.磯・松原・米原・佐和山辺りの年表 >年表の先頭
  1069年 後三条勅旨田 1221年 信綱乱入 1456年 高頼 1457年 愛智・犬上国人
  1467-77年 応仁・文明の乱 1483年 多賀連署  1510年 成久 1561年 新三郎
  1570年 姉川の戦 1585年 久徳分と 1595年 五郎兵衛 加増 1600年 関ヶ原
  1623年 六兵衛召し抱え

 3.六角・京極氏主要家臣一覧
 4.国人・国衆の多賀氏 高宮氏 米原氏 松原氏 久徳氏 新庄氏 堀秀村氏
 5.松原・米原の周辺
 6.五郎兵衛と五郎四郎の略歴
 7.五郎兵衛の進退


■国人・土豪の成長 (結論を先に)
◎国人・土豪について、『新彦史』『彦史』から、その要所をあげる。私の言葉で繋ぎあげればよいが、いまではその能力に欠けます。
1。中世、近江国内では多数の武士が村に本拠を置き、活動していた。彼らは、国人・土豪(『彦史』では豪族)とよばれたが、両者の間に明確な区別があるわけではない。そうした武士たちの全容については、「江州佐々木南北諸士帳」などにうかがうことができる。『新彦史1巻』P594

2。彦根市とその周辺地域の国人・土豪の多くは、鎌倉時代以来、荘園の荘官などとして成長してきたものであろう。
 そうした状況を大きく変えたのが応仁の乱である。国人らからすれば、六角氏・京極氏に結びつくことで、荘園領主の圧力から一定度解放されることになる。
 十五世紀末以降、多くの国人が奉行人・使者などとして六角氏・京極氏に編成された。彼らは日常的には、自分の村の居館に居住し、村の指導者として生活していた。六角氏の観音寺城、京極氏の上平寺城(現米原市)や浅井氏の小谷城などに屋敷地を与えられたとしても、そこに出仕、あるいは居住するのは当主だけで、正妻や嫡子が住む本拠地はあくまでそれぞれの居館であった。『新彦史1巻』P603

3。十六世紀になると有力な国人はまわりの村の土豪を家臣として編成することもあった。十六世紀中葉、六角氏においては、十数名の年老としより、奉行などの有力家臣が当主の政治・軍事を補佐するようになる。彼らのなかには在地において比較的規模の大きな居館をきずき、実質上、数ヵ村の領主となる国人もいたが、それ以上に支配を拡大することはなかった。特定の国人だけが台頭することをきらって周辺の国人・土豪らからさまざまな牽制がなされたためであろう。
 このように、近江南郡の場合、在地には大小さまざまな規模の国人・土豪が存在し、由緒や六角氏とのつながりにもかなりの程度の格差やかたよりがあった。しかし、全体としていえば、自分の本拠地である村を基盤とする国人・土豪が集まり、ゆるやかに結びついて六角氏権力を構成していたといえるだろう。
 近江北郡においては、上坂氏、浅見氏などの有力者が次々とあらわれ、最終的に浅井氏が京極氏を圧倒することになる。このように京極氏の場合、少数の家臣が主家に代わって求心力をもったり、権力を掌握するなど、六角氏の家臣団にくらべて寡占性がつよいといえる。しかし、在地社会の構造は六角氏の支配領域と大差なかったであろう。『新彦史1巻』P605

4。天文11年(1546)正月、亮政が没し、久政が跡を継ぐ。この頃、浅井氏は奉行衆などの家臣団機構をととのえ、百姓支配も進めた。しかし、京極高広方によって浅井配下の城がしばしば攻められており、浅井氏は六角氏に援助を依頼する関係にあったらしい。六角方は、坂田・犬上郡の国人衆から人質をとって佐和山城へ提出させていた。天文13年には、そうした人質を金剛輪寺にあずけている。なお、伊香・浅井郡の人質は小谷城に集められていることから、佐和山城が坂田・犬上郡地域の中核として位置づけられていたことがわかる。『新彦史1巻』P611

5。戦国時代、村々に本拠を置く国人・土豪たちは二つの相反する志向性をもっていた。一つは自主自律を貫こうとする志向で、「自分たちで解決できる問題は自分たちで解決する。 上級権力の介入をできるかぎり排除したい」とするものである。、、もう一つの志向は、求心的かつ強力な権力に結集することで、武士階級を中心とする秩序をきずき、安定的な社会を実現してゆこうとするものである。『新彦史1巻』P617
 六角氏の重臣となった国人は観音寺城内に屋敷をもち、日常的に城内で生活していたが、「観音寺騒動」の時、城内の屋敷を放火して退出したことから明らかなように、彼らの本拠地はあくまで出身の村々であった。
 六角氏・京極氏や観音寺城・上平寺城という政治的結集拠点があり、国人たちはそこに集まっているが、それは限定された政治の側面だけのことであった。領内には、国人・土豪の所領・村がかなりの自律性をもって展開するモザイク状の構成であった。それぞれの核として国人・土豪の居館があった。彼らが個々の宿をおさえることはあったが、広く街道や舟運を掌握することは容易ではなかった。それゆえ国人城下町は発達せず、地域的な中心機能は港町や寺社門前町がにないつづけた。
 近江北郡の浅井氏とその配下の国人・土豪も基本的に同じであっただろう。しかし、員昌の佐和山城支配は新しい支配のあり方を生み出しつつあった。それまでモザイク状であった地域を、佐和山城を政治的・経済的中核とすることで編成しようとしていたからである。これは、先に述べた国人たちの第二の志向の実現でもあった。そもそも浅井氏の権力のあり方そのものが、第二の志向の表現であった。永禄年間(1558〜70)以降、浅井氏の勢力が急速に伸長し、それまで六角方だった多くの国人が浅井方に転じたのは求心的な浅井氏の権力やその社会編成方法が支持を集めたからであろう。『新彦史1巻』P618

▼結論を先に、国人こくじん・国衆というのは、実質的な農村の支配者ということだ。農村に居宅(居館)を持ち、ときには田畑を耕すこともある。その起源は、荘園領主のもとでの荘官や、鎌倉時代に多く設置された地頭に起源をもつ。最近では、国人領主という。大名は田畑の耕作をやめ国人・国衆を束ねるから、農民の苦しみがわかりにくい。国人・国衆は農民に寄り添うところがあるから農民の苦しみがまだわかる。国人・国衆が農地から離れない、農地を生活の基盤としているから「土豪・地侍」という言い方もある、というのだろうか。以上が国人・国衆と大名とで異なる違いであろうか。
 国人が近隣の国人を従え大名化すると、大概は戦国大名から潰される、滅亡する。農地から離れるところからすでにその「お家の崩壊」が始まっているのであろうか。こうなると、元の農村に戻れなくなってしまう。浅井家、磯野家、新庄家、堀家、久徳家などがそうではないか。松原家は細々と国人のままだから潰されることはなく、元の村へ戻ることができた。
 近江においては大名が六角氏や京極氏、それに浅井氏(国人から大名化)で、国人・国衆は松原家を始め数百も存在する。国人・国衆の力を軽視すると国が乱れ、その後は国を追われることにもなる。ところで、彦根にやって来た井伊氏も、遠江国井伊谷の国人・国衆であったが、徳川氏を後ろ盾に大名化し明治まで存在した。



■磯・松原・米原・佐和山で >支配者の変遷を見る (結論を先に)

【松原】“松原”という地名は、文字通り村の琵琶湖側、湖岸に沿い松並木があったことに由来する。松が植えられたのは、村を洪水から守るために、大化の改新(645年)の後といわれている。松は地中に根を長く伸ばし、その毛根は網の目のように張り巡らされるため、大波にも耐えることができた。現在の松並木は松原村役場によって明治42年に植えられたもので,その後3回にわたって追加で植えられている。松の種類としては、「クロマツ」「アカマツ」の2種である。(以上、松原内湖周辺の歴史と同内湖の干拓史)
・松原は犬上荘猿萩と共に興福寺領とある。古い歴史を『彦史』に見れば、、「近江国は極めて古い時代から近畿第一の穀倉であり、早くから政治家の注目する所であった。藤原不比等は国家への大功によって近江国を賜り、淡海公の諡号しごうさえもえたほどで、、(松原について)興福寺官務牒疎を披見すれば、、愛知郡鯰江庄100町は最も大なるもので、天平勝宝元年(749)閏五月廿五日、華厳経料として寄進されたが、この外に犬上荘及び猿萩荘が大定使の給分に宛がわれた。犬上荘に対しては千松原と号すとの注記もあって、これが大体彦根市の東北部から南東部の辺までに及び、松原内湖をふくんだものであったろうし、猿萩荘とは現在の多賀町猿木の名をもって残って居る地域である。
・全国に松原という地名が多く見られるが、上記の例のように防潮、防風の目的でマツを植えたと思われる。静岡県の駿河湾にのぞむ松原はその中でも有名で、天正年間の合戦で伐採され、その災害を防ぐため増誉上人長円が長い年月をかけて千本のマツ苗を再植したと伝えられる。



■磯・松原・米原・佐和山 関連の年表

大宝元年(701) 大宝律令の完成
・行政区画として七道の制が制定
 国司、郡司、里長(奈良時代以降 郷長)の役職、国府、郡家(駅家)の役所の成立。

 郡司の下に里(郷):郷の標準戸数は50戸以上、一戸の口数は平均50人として、一郷の人口は2500人見当。正倉院に現存する戸籍から、「大宝2年(702)の戸籍では、一人の戸主のもとに、戸主の母・妻・妾・兄弟姉妹・妻妾の子孫及び兄弟の妻妾・甥・伯叔父母・従父兄弟姉妹・外祖父母・外孫、その他戸主及び家族の同党・寄口・奴婢などを記載され、それら全部をひきくるめて、全家族員の総計が出されてい」た、と当時の大家族制を説明している。『犬上郡志・高宮町史』

【近江国】国司 >郡司 >里長(奈良時代以降 郷長)と郡家(駅家)
 淡海国造と安国造が廃止され
・近江国司:政庁の国府は(国分寺も)栗本郡 勢多(平安朝以降の記録)
近江12郡:滋賀・栗太・甲賀・野洲・蒲生・神崎(以上、江南)
      愛智・犬上・坂田・浅井・伊香・高島(以上、江北)
 後代の佐々木泰綱は守護地を、愛知川を境にして二分し、江南6郡をとり(六角氏)、江北6郡を氏信(京極氏)に与えたという。
・犬上郡の郷9つ:高宮郷、安食郷(阿志岐)、甲良郷(加波羅)、尼子郷(阿麻古)、沼波郷(奴奈美)、清水郷(志美都)、田可郷(多加)、青根郷、寶田郷(安奈多)、神戸郷
 犬上郡の役所の駅家所在地は、「大本地理志料』(1902)によると、郡の中央の旧河瀬村あたりらしい。『犬上郡志・高宮町史』

<京都府はどこの国がもと>現在は丹後、中丹、南丹、京都市、山城の区分。
【山背国】
・乙訓郡、葛野郡、愛宕郡、紀伊郡、宇治郡、久世郡、綴喜郡、相楽郡
・愛宕郡の郷:蓼倉郷(多天久良)、栗野郷(久留須乃)、上粟田郷(阿波多)、大野郷、下粟田郷、小野郷(乎乃)、錦部郷(尓之古利)、八坂郷(也佐加)、鳥戸郷(止利倍)、愛宕郷(於多木)、出雲郷(以都毛)、賀茂郷『和名類聚抄』

 7世紀の令制国成立に伴い、但馬地域が分国し但馬国となり、また和銅6年(713)4月3日北部5郡が「丹後国」として分国、そして都に近い郡は「丹波国」となった。
【丹後国】
・国府は舞鶴市または宮津市にあったと
・竹野郡、丹波郡、熊野郡、与謝郡、加佐郡
【丹波国】
丹波国は一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化した。地域性として亀岡・八木・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津と、福知山・綾部の中丹は丹後・但馬と、篠山は摂津・播磨と、氷上は但馬・播磨に密接に係わる歴史を持った。
・国府は亀岡市・南丹市にあった

和銅6年(713)頃「近江風土記」
 郡は郷(さと)の数によって郡を5等級に分けた。すなわち、20郷以下16郷以上は大郡、12郷以上は上郡、8郷以上は中郡、四郷以上は下郡、それ以下は小郡である。この標準によって、「和名抄」(正式名称は『和名類聚抄』平安中期(934)ごろに作られた辞書))が伝える近江国の各郡のそれぞれの郷数を計算すると
 上郡は浅井一郡だけで、人口は3万以上
 中郡は犬上・蒲生・坂田・伊香・高島、2万人以上
 その他は下郡で、1万以上の割合となっている。
そして、12郡合計で4500戸、一戸50口として、最大限20万から25万人内外だったろうと推定される。『犬上郡志・高宮町史』P71

和銅6年(713)3月の条 「続日本紀」、多治比真人水守を近江守と為す
*史に見る国司補任の初見、「正五位下多治比真人水守を近江守と為す。」と摂津大夫以下大宰師など29人と同時に任命された。

延久元年(1069)以降、後三条天皇の勅旨田
*延久の荘園整理令(延久元年(1069))によって、寛徳2年(1045)以降の新立荘園を停止させた後三条天皇であったが、自らの経済基盤の確立には積極的であった。後三条は各国に勅旨田ちょくしでんを設けたが、内実は荘園に他ならない。、、新立荘園としての勅旨田が拡大したのである。彦根市内に所在する後三条勅旨田も、荘園整理令によって収公された荘園が、後三条の後院(天皇が譲位後に移り住む御所)領に編入されたものと考えられる。後三条勅旨田は、現在の彦根市後三条町付近にあった。『新彦史1巻』P354

久寿元年(1154)12月、犬上荘が立荘された
*犬上荘は、現在の彦根市高宮町・安食あんじき中町、犬上郡豊郷とよさと町安食南・安食西などにあったと推定される。近衛領家。犬上東郡にあった故北政所位田いでん二十町は「無住」となっていたが、久寿元(1154)年12月、三位中将藤原基実の位田に改められることになった。、、関白藤原忠通の支持で、、摂関家の家司であった平信範に知行が命じられている。、、忠通が嫡子基実の位田を設定し、その知行を信範に委ねた、、この位田をもとに犬上荘が立荘されて、本家が近衛家、預所職あづかりどころしきが家司の信範というかたちで、出発したと思われる。
 そして、 基実から基通へ、さらに基通の妻北小路尼(最舜娘)から実子前(さきの)大僧正静忠(園城寺長吏)に譲られた。 静忠は、寛元二年(1244)、弟子の権僧正静基(静忠甥)に譲っている 。 そして、静基が創始した京都岩倉実相院がおさめる大雲寺領となり、建武三年(1336)9月3日、後光厳上皇によって大雲寺領「犬上位田」として実相院に安堵されている )。
 さらに、承久3年(1221)12月、興福寺が寺領犬上荘へ守護佐々木信綱配下の武士が乱入するのを停止するよう訴えている 。この犬上荘が近衛家領犬上荘と一致するものなのか、あるいは別の荘園なのかは判然としない。仮に一致するとすれば、近衛家が本家、興福寺が領家職をもっていたかとも考えられる。『新彦史1巻』P356
 位田:日本の律令制において、五位以上の有位者と有品の皇族へ位階・品位に応じて支給された田地である。

平治元年(1156) 平治の乱で敗北した源義朝の一行が小野宿を通る
*吉富荘は藤原定家領であった。、、吉富荘域を明示した史料はないが、彦根北部から米原にかけての、松原内湖・入江内湖の東側の地域と推定されており、荘内に中世東海道の小野宿を抱える要衝の地であった。小野宿がはじめて史料に登場するのは『平家物語』で、1156年の平治の乱で敗北した源義朝の一行は、鏡宿(現竜王町)から、小野宿へ経て美濃の小関をめざして落ちのびている。『新彦史』P420
松原の地は吉富荘にかかるか

文治元年(1185年) 源頼朝を大将とする軍は壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼす
*佐々木兄弟は鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。

承久三年(1221)12月21日、興福寺、寺領犬上荘への武士乱入の停止を要求
『 興福寺領 近江国犬上莊  (裏花押)   (春日神社文書)
件庄三升米弁之上、守護人佐々木四郎右衛門尉代敷居庄内責取所当等、兼搦取荘民男女七人、令取公、一荘之間有限寺莭用途、悉關如了、早可被止武士之乱入也、委細之旨、在別解 』と言う一通があって犬上荘に関する最古の文献であるから、諸書ほとんどこれを引用している(佐々木四郎右衛門尉とは佐々木信綱(1181-1242)に相当する)。『彦史』上冊P213

文和元年(1352) 幕府、半済令
正平23/応安元年(1369)12月30日、義満は第3代将軍となる
明徳3年(1392年) 義満(3代将軍)、南北朝の合体が実現

応永16年(1409)9月4日、松原が進士氏行の所領として見える
  守護六角満高遵行状
 進士九郎左衛門尉氏行甲、近江国松原事、御教書如此、早任被仰下之旨、
 於彼松原者、可加治罰之状如件、
   応永十六年九月四日          沙弥(花押)
    三上四郎左衛門尉殿        (六角満高)
○進士氏は鎌倉時代以来の御家人で、南北朝・室町時代には、近江をはじめ、諸国に所領を有していた。 『新彦史5巻』P441

応永23年(1416) 佐々木信高(中務少輔・三河守)、幕府軍の将として関東に下る
◎六角氏賴の三男信高は中務少輔・三河守を称して幕府に出仕し、四代将軍義持に仕えた。応永23年 (1416)、関東で起った「上杉禅秀の乱」に際し、信高は幕府軍の将として関東に下り禅秀討伐に功があった。応永24年、その軍功によって知行6万貫を受け、高宮・大堀・東沼波(のなみ)・西沼波・竹鼻の五ケ村を領した。信高が新領地高宮に入ったとき、二羽の雁が先導し館にとどまった。それに因んで四つ目結の家紋を「丸に雁」の家紋に改め、また地名より高宮氏と称するようになる。高宮氏は柴田勝家と同じ家紋。

【高宮氏】櫟(いちい)氏系の高宮氏を北殿、隠居家、先方といった。屋敷は妙蓮寺辺り。左衛門尉宗忠が元祖。紀伊国櫟出身で、姓は櫟氏、鎌倉時代の末近くに、地頭として高宮に赴任し、後、高宮と改姓したと伝わる。3代宗充まで城主として権威を誇ったが、4代高義の頃、佐々木六角氏から信高が高宮が封ぜられるにおよんで(信高も高宮氏と称した、これを高宮氏の南殿という)、次第に軍事にも携わらなくなり隠居家となった。北殿高宮氏は衰微し、南殿3代経宗の弟・清宗(?-1490)が6代目として養子に入って両高宮氏とも佐々木氏流となった。その後の北殿は、12代の宗忠(慶長3年(1598)卒)の子宗貞が帰農する。
 南殿の高宮氏は姉川の決戦(1570年6月)・小谷城の陥落(1573年8月)に奮戦し、ついには自らも落城の悲運に至るまで京極氏(浅井氏)に与し戦った。『犬上郡志・高宮町史』P90

康正二年(1456)、六角久頼が憤死する
 遺児亀寿が近江守護職を継承した。しかし亀寿が幼少だったため、文安の乱で被官に支持されながらも敗死した六角時綱(五郎、民部少輔)の遺児政堯(四郎)が後見になった。ところが長禄2年(1458)5月14日亀寿は突然近江守護を解任され、後見の六角政堯が近江守護に補任(ぶにん)された、、

康正2年(1456.10~1458)5月、六角高頼(亀寿丸) 1度目の近江守護
◎六角高頼(亀寿丸)の1度目の近江守護は1456年10月~不明。最後の4度目の近江守護は、1495年12月から1506年まで。1506年に嫡男・氏綱に家督を譲って隠居。しかし、氏綱は父に先立って死去したので、僧籍にあった次男・定頼を還俗させて家督を継がせている
(松原氏は)六角氏の庶流という。「六角高頼に仕え、松原の地を領す」とあるが、松原の地は古く(天平勝宝元年(749))から犬上郡猿萩と共に興福寺領で、三井寺円満院所蔵書、「興福寺務領十二大会等料所」の中に、、古くは犬上荘といい、現在の「松原町」及び「猿萩(今の猿木町)」といい、両町の氏神が共に春日神社であることも、その昔興福寺領であったことを物語るものである。松原氏は最初興福寺荘園の荘官であったが、次第にその実権を掌握していったのであろう。『彦史』上冊P267
【猿萩】今の猿木町は高宮宿の南東600m程のところ。多賀大社より西2.5km、東海道線ひこね芹川駅乗換近江鉄道高宮駅南下車1.0kmに猿木さるぎ神社(神紋「左三つ巴」))がある。猿萩左衛門尉宗行の祖先によって春日の大神を勧請し、猿萩氏代々の氏神とした。永正13年(1516)宗行滅亡以降村中の氏神として崇敬するに至った(滋賀県神社庁)。

▼【議論】「高頼に仕え」は誰のことを指すのか。松原弥惣右衛門の父親がその初代というが。史料に初めて見える「松原姓」の豪族は不詳。とりあえず1460年頃の松原新六、松原次郎左衛門の2名。あと、高頼の治世から考えると、松原藤次郎貞信が該当すると考えられる。複数名いるのも多分親族であろう。
・松原氏は、古くから「猿萩」の他に「松原」の荘官であったという。一方、六角・京極両氏の勢力の拮抗する磯・松原・佐和山に、高頼の代から「松原」を任され、本拠地を置いた可能性がある。一方、「松原氏は古くは荘官」とあるから、ここ松原に本拠地を置くまでの繋がりが見えない。母親の系統が見えないためかも知れない。何しろ血筋の半分は母親からなのに、ほとんど歴史には見えない状態だ。

(1457~1465年)年未詳9月14日、愛智・犬上両郡の国人等に要請
『 栗田古文書中に左の一通あり。年記なく九月十四日京極家の臣、下河原氏よ34人の地方武士に沙汰したるものゝ如し。始めに小倉実良入道が父祖の時より伝承せし岸下御厨公文職を同族の青山(寛政の子孫)氏と岸下新家(次郎実重の子孫)の二人が競望し武力を以て雌雄を決せんとせしかば下河原氏より小倉実良入道に一味すべきを沙汰したるものなり。
   稲村下岡部栗田幸平氏文書
 江州岸本御厨公文職事、小倉越前当知行所、同名青山並岸下新依成競望、
 可及弓箭与注進有之、於事実者、早打越彼在所、可有合力越前入道方人、
 青山・岸下有合力人体者、追而有御罪科候、猶々日限事、越前入道可依左右候也、
  安食美濃入道殿奉   河瀬九郎殿奉
  河瀬七郎殿奉     小倉左近将監殿
  高宮一族中奉     楢崎殿奉
  横 関 殿奉     安孫子六郎左衛門殿
  高橋新之丞殿奉    八重練殿奉
  新 京 殿      新開殿
  平岡新六殿奉     岡部刑部左衛門殿奉
  羽田次郎左衛門殿奉  安部井六郎左衛門殿
  松原新六殿      松原次郎左衛門殿
  同 橋 本殿     布 施 殿奉
  屋 守 殿      栗 田 六 郎殿奉
  伊庭源三郎殿奉    葛 巻 将 監殿
  杉立孫三郎殿奉    小倉左京亮殿奉
  河 井 殿奉     山 田 右 京 亮殿奉
  和 田 院      和 田 孫 六殿奉
  実 蔵 院奉     仏 眼 院奉
  養乗□□殿奉     後 宮 六 郎殿奉
  辻 丹 後 殿奉
     九月十四日   下河原   「近江愛智郡志(巻一)」 』
 ○この文書、『近江愛智郡志』(巻一)は「長禄寛正頃のもの」としているので、便宜上ここに収めた。なお、人名の下の「奉」は、同意の旨を記したものである。『新彦史5巻』P493
◎古文書に(私にとって)見える松原姓の最初かな。

寛正~応仁年間(1460~68年) 近江、佐和山城は佐々木六角政頼が領有
*六角家の家臣・小川祐忠が佐和山城主であったとされる。政頼は未詳の人物。六角政勝(生没年未詳)は、久頼の長男、『甲賀二十一家之由来』では「政頼」とされる。政頼は六角亀寿、四郎、治部少輔、大膳大夫であり、近江守護。

寛成7年(1466) 近江、一向宗による金森合戦

応仁元年(1467) 応仁・文明の乱(67-1477)
*【「覚書き」本文より再記載】近江はと言えば、同じ佐々木の六角氏と京極氏とは両派に分かれて京都に兵を送り、近江の地においても交戦状態に入ったので、近江国は上下を挙げて戦国時代の標識的な合戦場となった。、、彦根附近殊に佐和山をはさんで互に勝敗を繰返し、その勢を奉ずるこの辺りの小さな群雄達は、それぞれ磯山・松原・荒神山・平田山の諸城や犬上川・芹川等で戦闘を続け興亡を繰返した。『彦史』上冊 P261
◎松原氏は応仁・文明の乱にあっても果敢に戦っていたのであろう。

文明3年(1471) 政堯は三度目の近江守護
文明3年(1471)7月下旬 延暦寺の迫害を受け、蓮如が北陸の布教拠点吉崎山に建立
文明9年(1477) 京都、応仁・文明の乱の終息

文明15年(1483年)「多賀神社文書」に見える豪族
*「多賀神社文書」に見える犬上郡の豪族(←荘官)の中、彦根市に直接関係ある分を拾って見ると
 沼波与三左衛門俊盛  沼波館    小林次郎左衛門尉宗家  小林館
 沼波又次郎秀信           岡隼人佐貞吉      岡村館
 地蔵兵太郎      地蔵館
 河瀬四郎左衛門信勝  河瀬城
 河瀬菅兵衛
 河瀬七郎家資        『彦史』上冊P264

文明15年(1483年)4月25日、多賀社中連署置文 多賀大社文書
(多賀社中、神事違法により、河瀬菅兵衛を衆中より排除する)
「文明十五年」
  定 多賀大社御事書事
右子細者、今度河瀬菅兵衛方、背歳次第御法、依馬打次第并郡木座上相論、当日御察(祭)礼神輿御還幸被押候条、言語道断次第候、自先規被定置候歳次第御法上者、氏郡相共二不可有承引候、若背此旨於仁体者、可為同罪候、如此一味仕上者、万一以後菅兵衛方二同心仕候者、三所大明神可蒙御罰者也、仍為後日、事書之状如件、

 文明拾五(癸卯)卯月廿五日
今度神輿河瀬菅兵衛方江就可奉振、縱雖為末保仁体、菅兵衛方於令合力者、
交名注置、末代社家出入不可叶候者也、仍為向後之状如件、
  同座ニテ被定畢、
菅兵衛合力人衆
岡平六左衛門尉
岡五郎兵衛尉
土田孫七郎
土田彦三郎

 新開駿河守 資直(花押)     宮戸備前守 忠直(花押)
 土田藏人丞 資直(花押)     岡隼人佐 貞吉(花押)
 河瀨四郎左衛門尉 信勝     土田兵庫助 基資(花押)
 土田三郎左衛門尉 定資(花押)  大岡修理亮 忠宗(花押)
 土田新右衛門尉 資基(花押)   小林次郎左衛門尉 宗家(花押)
 土田左京亮 貞資(花押)     八重練五郎左衛門尉 高直(花押)
 中河原掃部助 久家(花押)    宮戸大郎左衛門尉 長直(花押)
 河瀬九郎左衛門尉 清定(花押)  土田九郎兵衛尉 清資(花押)
 新開大郎左衛門尉 貞綱(花押)  大岡次郎左衛門尉 直宗(花押)
 沼波与三左衛門尉 俊盛(花押)  土田新左衛門尉 高資
 新楽平五郎 盛清(花押)     沼波又次郎 秀信(花押)
 中河原三郎 高家(花押)     沼波又大郎 長盛(花押)
 岡刑部五郎 宗貞(花押)     河瀬七郎 家資(花押)
 新開小三郎  河瀬新四郎    土田与次郎 家資(花押)
 岡平次郎 貞久(花押)      松原藤次郎 貞信(花押)『新彦史5巻』P545
*室町・戦国時代、多賀社は郡内の土豪層からなる氏人の衆議によって運営されていた。 文明15年(1483)4月25日の史料(上記)によれば、多賀社中を構成する土豪として三十数名の名前があがっている。 このなかに、河瀬・沼波(のなみ)・松原氏などの名前がみえる。『新彦史1巻』P603
◎「『戦国期社会の形成と展開』P196」の表に「多賀社中連署置文」に、15名の名字がある土豪・地侍について康安2年~天文11年までの連署状況を記している。
上記の他に、
 康安2年1月11日連署者数16名     康安2年1月23日連署者数18名
 康安2年2月18日連署者数9名      明徳1年11月晦日連署者数12名
 文明15年4月25日(上記)連署者数31名  明応7年9月19日連署者数20名
 明応7年11月15日連署者数16名    永正1年7月2日連署者数29名
 永正4年11月28日連署者数34名    天文11年3月11日連署者数23名
なお康安2年(1362)~天文11年(1542)年間で松原氏の連署は文明15年のみ。明応年の2つは全員名字がない連署のようだ。
・多賀社は京極家(後に浅井家)の領域に入る(近い)神社だから六角家からの連署者は少ないのでないか。
【多賀氏】多賀から甲良(下之郷)地方の土着の豪族。中原氏の流れとするものがあるが不明部分多いらしい。鎌倉時代に北条氏に多賀地方を寄進、得宗家の直轄領としてもらう。京極道誉(1296-1373)の家臣となり京極家に仕え多賀社の「祭使役」(神主)を務める。室町中期に、多賀氏は家系が2つに分かれ、甲良町下之郷を拠点(犬上郡を本拠)とした一派は左衛門尉・豊後守を、もう一方は東浅井郡中野に土着(坂田郡を本拠)して右衛門尉・出雲守を名乗った。
 京極氏から豊後守家に入った多賀高忠は侍所所司代として京都の治安維持に力を発揮している。長享元年(1487)に宗直が京極氏に反乱を起こして敗死、出雲守家は断絶する。その子孫は高島郡に移り近江国人となったりし、結果、加賀藩藩士として存続する。

*同じ頃の「佐々木南朝諸士帳」に、さらに多くの豪族が見える
 高宮三河守  高宮城     沢 右京     小泉館
 蓮台寺主膳  蓮台寺館    安養寺三郎兵衛  彦根安養寺館 
 日夏安芸守  泉村館     松原藤次郎貞信  松原城
 今村掃部   今村      松原弥惣右衛門  松原城
 平田和泉守  平田城     松原善次郎    松原城
 武田氏    大藪城     彦根四郎兵衛   彦根館
 岡部清六   葛籠町城    百々越前守    佐和山東麓百々館
 猿萩左近太夫 猿萩館     磯崎 某     磯崎城
    『彦史』上冊P264
*『江州佐々木南北諸士帳 (1987.5滋賀県教育委員会)』で、松原姓は、
 磯山城主 佐々木浅井随兵   松原氏城代
 松原   住 佐々木随兵   松原弥惣左衛門、が見える
・小和田氏は、『江州佐々木南北諸士帳』を比較的信憑性が高いとするが、宝暦 3 年(1753)に成立した点には注意が必要で、さらに半郡規模の国人であるか、一村規模の土豪であるかという分類や、姉川流域・天野川流域を拠点とする家臣についても(調べるべきとしている?)。
・また、『佐々木南北諸士帳 近江国坂田郡志(巻2)』に(米原町)を見ると
(米原町)
 朝 妻 住  佐々木浅井随兵堀一族      新庄駿河守
 同   住                  朝妻左近衛門
 磯   住  宮 士             磯崎金平
 磯 山 城 主  佐々木浅井随兵         松原氏城代
        松原の住松原彌三右衛門成久
 多 羅 住  佐々木堀随兵          多良左近  が見える
▼【議論】「諸士帳」3点を考え合わせると、松原弥三右衛門(弥惣右衛門)成久が松原城に居住。磯山城には「松原氏の城代」とあるから、松原藤次郎貞信が松原の城代と思える。松原の地は、成久の親のとき六角高頼氏に任されたものだが、「浅井随兵」によると、京極氏(浅野氏)の勢いが勝ってきて難しい立場に立たされているというこであろうか。松原藤次郎貞信が成久の父としても否定はできない。松原城・磯山城はこの時代に城までいかぬ居館ていどのもの。
▼【議論】松原氏の家臣は少なく磯山の上では不便。松原城は海(琵琶湖)に囲まれ魚もすぐ手に入る。敵が攻めてきてもすぐ海に出て逃れられる。磯山より勝手がよい。よって、敵方の監視役として城代を磯山に居住させている。後代の彦根藩において、松原の屋敷跡は殿様のお浜御殿(下屋敷)となっている。なお、井伊家初代は三成の後に佐和山へ入封するが、彦根山よりも磯山が気に入っていて、磯山に城を造ろうと考えもした。

長享元年(1487)9月(~長享3年(1489)3月)、第一次六角征伐(鈎の陣)
*ときの将軍・足利義尚は六角高頼を討伐するため近江国へと出陣した(1487年9月)。応仁・文明の乱(67-1477)以降、将軍権力は著しく衰退し、各地の公家、寺社、奉公衆(将軍の直轄軍)の所領が守護・国人に侵略されることがたびたびであった。近江国守護である六角高頼も、そうした行為をする一人であった。高頼は、奪った所領を配下の国人らに与えていたのである。
 そこで、義尚は高頼を討伐し、公家領、寺社領、奉公衆領を回復しようとしたのである義尚は数万の幕府軍を率いると、たちまち高頼の軍勢を蹴散らした。敗北した高頼は、甲賀郡へと逃亡したのである。幕府軍の追撃は執拗で、その後も高頼を追い続けた。そして、ある事件が起こるのである。
 幕府軍が高頼を敗北に追い込んだ三ヵ月後の12月3日、甲賀郡に攻め込んだ幕府軍は、思いがけず数千という牢人の蜂起により、一時的に退却を余儀なくされたのである(『後法興院記』など)。この数千といわれる牢人衆は、間違いなく六角高頼を支持する領主層であったと考えられる。むろん彼らは純粋に主を失ったのではなく、幕府から反逆者とみなされた人々であったかもしれない。『牢人たちの戦国時代』P54

長享元年(1487年)頃 治郎左衛門様御引き払い尾州に御帰陣
*(織田)治郎左衛門(敏定)様御引き払い(江州六角高頼討伐から)尾州に御帰陣と(このとき佐々家のものが始めて尾州に入る)。

延徳3年(1491)8月-12月、第二次六角征伐
10代将軍 足利義植、近江大津三井寺光浄院に本陣を置く

永正7年(1510年)、磯山城の攻防と松原氏
  、、此山ノ嶺城跡アリ松原弥三右衛門成久居城ニテ六角方ヨリ江北押ヘノ城也京極ノ代官上坂景宗此城ヲ責取ント堀能登守新庄駿河守野村伯耆守同肥後守四頭ヲ指向責立ル成久防兼後詰ヲ江南ニ乞フ後藤但馬守楢崎筑後守平井加賀守三頭早馳付ケ処ニ城ノ麓ノ四ツ川ニ五月雨降り続キ水重増テ人馬ノ通叶ス俄ニ舟ヲ支度ス此体ヲ堀新庄見届テ一刻攻ニ急ニ乗入無理攻ニ責付ル故成久防戦ノ術付テ郎等皆討死死シ自身モ切腹ス助兵三頭了簡尽テ引返シ敵ニ城ヲ取レケル其後成久カ息弥兵衛賢治観音寺ヘ出テ近習物頭也一族ニ松原五郎兵衛ハ越中ノ佐々内蔵之介成政ニ属シ勇功ヲ顕シテ鬼松原ト称セラレル太閤記ニ詳し也、、『淡海温故録』

[つたない解釈]、、此の山ノ嶺(彦根市松原・米原の磯山の嶺)に城跡アリ。松原弥三右衛門成久ノ居城(磯山城)ニテ、六角方ヨリ江北ノ押ヘノ城也(六角方の(北の京極家に対する)押さえの城である)。京極ノ代官(浅井軍)、上坂景宗ガ此城ヲ責取ント(攻め取ろうと)堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守ノ四頭ヲ指向(四名を差し向け)責立ル(責め立てる)。成久は防兼後詰ヲ(防御と後詰めを)江南ニ乞フ(江南(の者達:定頼公を含めて)に伺いを求めた)。後藤但馬守、楢崎筑後守、平井加賀守の三頭が早馳付ケ処ニ(す早く駆け付けたところに)、城ノ麓ノ四ツ川ニ五月雨降り続キ水重増テ(城の麓の四ツ川は五月雨にて水かさが増し)、人馬ノ通叶ス(人馬が通ること出来ない)。俄ニ(にわかに)舟ヲ支度(用意)ス。此体ヲ(このようすを)堀新庄(堀と新庄が)見届テ(見届けていた)、一刻攻ニ急ニ乗入(直ぐさまこの二人が乗り入れ)無理攻ニ責付ル(難なく攻めかかる)、故成久防戦ノ術付テ(それ故、成久防戦の術つきて)郎等皆討死死シ(郎等皆討ち死にし)自身モ切腹ス(自身も切腹す)。助兵三頭(兵を助けることで、(攻め手と)三人(後藤、楢崎、平井)との間で)了簡尽テ(話がまとまり(城へ登らず))引返シ敵ニ城ヲ取レケル(引き返し城を取られた)。其後成久カ息弥兵衛賢治(その後、成久の息子弥兵衛賢治は)観音寺ヘ出テ近習物頭也((観音寺(六角氏)の近習物頭になる)。一族ニ(この一族に)、松原五郎兵衛ハ越中ノ佐々内蔵之介成政ニ属シ、勇功ヲ顕シテ(勇ましい武功をあらわして)、「鬼松原」ト称セラレル。太閤記ニ詳し也(秀吉の『太閤記』にその詳細がある)。

*(別の文献) 翌日十七日未明より浦手へ向ひし堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守此四人の人々磯山に楯籠る松原弥三右衛門尉成久か城へ押よせ鬨を憧と作ける。城中よりも、二百五拾騎にて打て出て、明神山の上にてしばしか程はさゝへしか。味方六百余騎面もふらず切てかゝればこゝは防ぎがたき所なりとて、城へ引取り門をちやうとうち城を丈夫にかためたり。観音城には佐和山表へ敵働き出るとて、定頼卿諸卒引具し出張し給ふ。(略)『浅井三代記』

◎新庄駿河守は、新庄直頼(1538-1613)のことか。直頼は賤ヶ岳の戦いに従軍。豊臣秀吉の御伽衆。関ヶ原の戦いでは西軍に与し失領したが、文武に優れた人物であり、徳川家康に召し抱えられた。巴/左藤巴/葉菱。直頼の曾祖父直寛は、足利12代義晴に仕えた。新庄氏は藤原北家秀郷流で、近江国坂田郡新庄から起ったという。(松原氏は佐々氏に仕え、秀吉の母衣衆、関ヶ原の戦いでは西軍(養子五郎四郎が西軍))

【藤原秀郷ひでさと】(別名、俵藤太:没991年)は一説に近江国栗太郡田原郷から出たというように近江と縁があり、近江北部には秀郷の後裔を称する武士が多い。 蒲生氏、今井氏、堀氏、泉氏、井戸村氏、小堀氏、そして新庄氏らは、すべて藤原秀郷の後裔季俊すえとしの末となっている。平将門追討の功(940年2月、下総しもふさ(千葉県北部)にて平将を討ち取る)により従四位下。「三上山の大百足(むかで)退治を瀬田の唐橋にて打つ」の伝説がある。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。父は下野大掾・藤原村雄であり藤原北家魚名流とされる。

永正13年(1516)、猿萩左衛門尉宗行滅亡
*永正13年、高頼に対して再び伊庭いば貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏のもとに降った。伊庭氏は同年、北郡の浅井氏の援助を得て南郡に侵入したが、 六角方は定頼(氏綱の弟)を中心にまとまって(くいとめた?)いた。『新彦史1巻』P592。
◎この戦で猿萩宗行が滅んだか。『江州佐々木南北諸士帳』犬上郡に、猿萩城主 佐々木末籏頭 〇久徳左近将監、猿萩城住 猿木左門、とある。猿萩(猿木)氏の祖先は久徳氏かな。

天文11年(1546)正月、浅井亮政が没す
 亮政は久政に家督を譲り、ついで病死してしまったのである。京極高広はこの機をとらえて、江北の武士を糾合し、久政を抑えようとした。久政は力及ばずと知ってか、定頼に援助を求めた。定頼はその願いをききいれて、進藤山城守貞治を佐和山につかわした。貞治は久政と相謀って、各々所属の武士から人質をとり、服従の如何を明確にさせた。貞治が坂田の今井権六定清に対し、人質を要求した書状がいまに伝っているように、坂田・犬上両郡の人質は佐和山に集められ、伊香・浅井両郡の人質は小谷城へ集められた。かくて、久政の軍は高広の軍と各地で争奪戦を展開した。この当時の佐和山城は六角氏の勢力下にあって、百々三河守が城主であった。
 さて、定頼は足利幕府にとっては近江の守護職であり、常に各地に転戦を余儀なくされていたため、いつまでも浅井久政を助けて京極高広と戦ってはいられなかった。『彦史』上306

永禄3年(1560)8月、野良田で六角方と浅井方の大規模な合戦
◎宇曽川の合戦ともいう。愛知郡肥田城主・高野備前守が浅井家に寝返った。戦場は野良田(地図)であり、両軍は宇曾川を挟んで対峙する。六角方25,000、浅井方11,000。
*六角方(先陣)蒲生、永原、進藤、池田らの有力国人
    (二陣)楢崎、田中、木戸、和田、吉田
    (後陣)承禎の馬廻り衆、後藤、箕浦、田崎、山田
 浅井方(先陣)百々、磯野、丁野
    (後陣)賢政、赤尾、上坂、今村、安養寺、弓削、本郷
 激戦の末、浅井方が勝利した。この後、浅井賢政は家督を継ぎ、名前も長政に改めた。この後、北部は完全に浅井氏の支配下になった。『新彦史』P613
*「(浅井)長政、佐和山に入る。 高宮勝義(頼勝嗣子(しし:跡継ぎ)) 来り降す。 久徳城を攻め、自ら効せんことを請う。長政、兵を遣して勝義を助く。 六角義賢、久徳城を扱うため愛知川に至る。長政、高宮川に屯し、之に備う。勝義、疾く攻めて城を抜く。 城将久徳左近自殺す。長政、 (新荘) 駿河をして高宮を守らしめ、還りて佐和山に入り、義賢と宇曽川に戦ふ。」(外史補) また、高宮寺文書に、「江南の兵来りて、高宮城を攻む。勝義、新荘駿河と城を守」るとあるところから、高宮城は、戦雲急の当時、一時、援軍が屯していたのであろうか。『犬上郡志・高宮町史』
【背景】京極高清の後継を巡って浅井亮政すけまさとの間で争いが生じ、これを境に江北の支配権は浅井氏に奪われていく。執権の浅井氏(2代久政)による江北支配も順調ではなく、京極氏を名目上の守護と仰ぐ時代が続いた。
・京極高吉(高清の子で高広(高延)の弟)が復権を画策して、定頼の死後、後を継いだ六角義賢氏と結び挙兵を企てるが、失敗して浅井氏に江北を追われ、京極氏の江北支配は完全に幕を閉じた。京極氏を追い落とした浅井氏も、当時南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れ、初代当主である浅井亮政(長政の祖父)の代に手に入れた領地も失い、六角氏に臣従する。
【その後の京極家】高広の子である京極高成は、御供衆として足利義昭の近習となり従う。京都へ戻ったり、将軍家に従い毛利輝元の客将、小早川家に仕えたり。小早川家が改易されると流遇する。また、高吉の子である高次は、初め織田信長に仕えるが、信長が明智光秀に討たれると光秀に属し、山崎の戦いで光秀を討った羽柴秀吉からの追及を受けたりする。しかし、姉妹の竜子が秀吉の側室となったことから許され、九州征伐の功により近江大溝城1万石で大名となった。関ヶ原の戦いの後、家康から、若狭一国8万5,000石へ加増転封。慶長5年10月に小浜に入り、翌年には近江国高島郡のうち7,100石が加増された。丸亀藩京極家は高次の子で京極高次流2代忠高の養子・高和が初代(忠高は伯父)。

◎高宮氏は一貫して(?)京極氏(浅井氏)方である。
・松原氏は、この後、一時、松原新三郎が佐和山城へ入るから、松原氏は浅井方に落ちていない。多分この頃、新三郎の長兄筋と次兄筋の行方は「其の子(長兄・成久筋の子)弥兵衛賢治は観音寺(承禎・義治の)へ出テ近習物頭也、(次兄・通高筋の)小三郎は公方義輝公ニ属ス」という(『彦史』上P267)。近習物頭というのは「承禎の馬廻り衆」でないか。その後、高宮家に属し「姉川の戦い」で死す。松原家の故郷である松原辺りは三男の新三郎が守っていたのでないか。

永禄4年(1561)閏三月、松原新三郎の佐和山城へ入城
 佐和山は六角氏北進の拠点であった。松原新三郎(勇功ヲ顕シテ六角義賢の将) の佐和山城主は一時のこと。すぐに浅井方が佐和山城を取り返し、磯野員昌が新たな城主となる。松原五郎兵衛はこの新三郎の兄通高筋で、 通高から数えて四代後。
◎磯の国土(松原は不明)は磯野員昌の支配地となる。

永禄6年(1563)10月1日、観音寺城騒動
*跡を継いだ義治は、配下の種村道成(三河守)、建部日向守の両名に対し、重臣である後藤賢豊と後藤壱岐守の父子の殺害を命令。種村と建部は主君を諫めたが聞き入れられず、観音寺城に登城するのを待ち受けて殺害させた。(wiki)

永禄8年(1565)5月19日、将軍・足利義輝が殺害される
*三好義継・三好三人衆・松永久通によって将軍・義輝が殺害され(永禄の変)、義晴の末子・周暠も松永らの命令を受けた平田和泉守に誘い出され、小姓とともに京都へ行く途中で殺害された。このとき、松原五郎兵衛(16歳*)の父久則(小四郎)が討死にしている(「義輝公ニ任官、義昭公之御弟(周暠)三好逆心之時討死」)。

永禄10年(1567)4月、南近江の六角家で六角氏式目(分国法)の制定
◎六角承禎・義弼父子と20名の家臣との間で起請文を取り交わす。大名(六角家)の権力を抑制する代わりに家臣団が大名を支えていくことを再確認したもの。

永禄11年(1568)8月、信長、浅井を通じて六角氏の多くの家臣を調略
永禄11年(1568)9月12日 信長、箕作みつくり城、観音寺城を攻める
◎織田信長は上洛への途上にある南近江に侵攻、観音寺城を包囲する。義賢(よしたか)は信長を共通の敵とする三好三人衆の助勢を得たが支城を攻められ、9月12日に本拠地の観音寺城を放棄。同時に観音寺城周辺の地盤も失う(観音寺城の戦い)。このとき、松原弥兵衛(賢治)は近習馬廻りであり、義治のときまで被官であった(戦国期社会の形成と展開)。その後は高宮氏に従い「姉川の戦い」で戦死している。
 六角義賢(剃髪後は承禎)・義治父子は甲賀郡(以後の本拠地)に後退、以降はゲリラ戦を展開した。承禎は甲賀と伊賀の国人を糾合して信長に抗戦する。天正9年(1581)4月には、長年独立を保っていた伊賀もついに信長に平定された(天正伊賀の乱)。同年、承禎はキリシタンの洗礼を受けている。
 その後、承禎は天下を掌握した豊臣秀吉の御伽衆となり、秀吉が死去する前の慶長3年(1598)3月14日に死去した。享年78。義治(前田利常の下臣になったか、1612年没)の系統は加賀藩士、弟の義定(1620年没)の系統は江戸幕府旗本となった。義賢(承禎)の位牌は嫡男・義治と共に、京都府京田辺市の一休寺(承禎は宇治河原で病死(京田辺市教育委員会))にある。当庵に1614年の大坂冬の陣の際、前田利常が休息している。
・信長の上洛作戦には、後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里の各氏が信長に通じていたことがわかっている。信長の近江侵攻は上洛通路の確保が目的であり、面的な広がりを持っていなかった(新彦史P631)。
【一休寺】正応(1288-93)年間創建の妙勝寺が前身。酬恩庵、臨済宗大徳寺派の寺院。本尊は釈迦如来。

元亀元年(1570)4月頃、信長の越前朝倉攻め
 妹婿の浅井長政は、長年の朝倉との交誼を重んじ、信長軍の背後を衝く。挟み討たれる格好となった信長は、命からがら脱出します(金ヶ崎の退き口)。

元亀元年(1570)6月28日、姉川の戦い
姉川を南北に挟んで対峙。北に浅井・朝倉連合軍、南を徳川・織田連合軍。
*同年(1570)6月28日の姉川の戦では高宮豊宗(1527~71)は、犬上郡の諸将とともに、辰の刻(午前8時)から午の刻(正午)まで激戦奮闘、討ちとった首級は、佐和山城主磯野丹波守員昌の295級(内採配首級3)についで、275級(内同じく2)の軍功を立てているが、高宮助左衛門・同与兵衛・同蔵人・同甚兵衛・同藤兵衛・同蟻助・北川権右衛門・藤野甚六・松原弥兵衛以下の家臣を失った。『犬上郡志・高宮町史』P120
◎松原成久自刃のとき(1510年)、弥兵衛5才とすると、1570年では65才だ。少し高齢だ、2代目もありうる。

【堀秀村】初めは新庄氏、近江国坂田郡北庄堀住。その後に鎌刃城城主。国衆の堀秀村は6月までは浅井長政に仕えていたが、同中頃、木下秀吉の家臣竹中重治の調略を受けた堀家の家老・樋口直房の勧めで、織田方に寝返った。そのとき15歳(『当代記』)。
 坂田郡は堀秀村・直房の支配権と信長・秀吉の支配権が重なる二元統治のような格好になっていた。天正2年(1574)に、越前朝倉攻めで木ノ芽城を守備任されたが、越前一向一揆に攻められて、樋口直房が防備すべき城を放棄。勝手に一揆衆と和睦して逐電するなどしたため、直房は秀吉に追われて討ち取られ、秀村もすぐに改易とされた。6万石とも10万石相当とも言われる所領を全て没収されて、信長に追放されてしまった。その後、秀吉仕えたとある(知行1千石)。

元亀2年(1571)2月24日、磯野員昌は佐和山城を信長に明け渡す
【磯野員昌】代々京極氏の家臣であったが、後に浅井亮政の配下に加わる。佐和山城を本拠とし、対六角氏戦で度々武功を重ね、合戦では浅井軍の先鋒を任されている。元亀元年(1570)6月28日の姉川の戦いでは、織田信長の本陣近くまで迫ったが、浅井側は総崩れとなり敗退した。その後、佐和山城で敵中に孤立する状態となった。8ヶ月にも及ぶ籠城に佐和山城でよく持ちこたえたが、元亀2年(1571)2月24日に信長に降伏した(佐和山城には丹羽長秀が入城している)。信長はその武勇をたたえ、佐和山城と引き換えに高島郡の領地を与えた。但し、信長の甥・津田信澄を嗣養子とさせる条件で(丹羽家譜伝)。天正6年(1578)2月、不本意にも員昌の領地・高島郡は津田信澄に与えられた(信長公記)。本能寺の変(天正10年(1582)6月)で信澄や信長が亡くなると高島郡に戻って帰農し、天正18年(1590)9月10日に死去した。享年68。
◎佐和山城主の磯野丹波守が降ると、浅井方諸将が織田方に屈服していった。そのような中で、高宮三河守は節を通し、一族とともに犬上郡河内の山間(多賀荘敏満寺村)に蟄居した。

天正元年(1573)8月8日~9月1日、小谷城の戦い、浅井氏の滅亡
*高宮宗光・その子の宗久は、8月28日小谷落城にて、浅井久政の幕下に宗光は戦死し、宗久は逃れて高宮城に帰る。翌29日、城に火を放ち一族は離散した。、、宗久はその後、美濃国高須城主徳永式部卿昌寿に扶助され、慶長5年の関ヶ原の戦に西軍に属し、黒田長政との軍と対戦したが、敗戦後、多賀荘敏満寺村に、内蔵助と変名して蟄居した。その後裔は、数家に分かれ、東京・大阪はじめ各地に現存している。
 また、郷宗は、天正18年(1590)、京極高次(1563-1609)が蒲生郡八幡山に封ぜられていた時、宗久とともに謁し、郷宗のみとどまり、大阪夏の陣(1616年)に出陣し、討死にした。なお、高宮城の落城によって(1573年のときをいっている)四散した旧臣の北川・馬場・湯浅・善利・島津・石田・辻・阿生・松原・松波・藤野・米谷・瀬理の諸氏中には、その後も高宮にとどまり、子孫が連綿と繁栄しているのも、北川氏など二、三にとどまらない。『犬上郡志・高宮町史』P121
◎京極高次は、関ヶ原の役(1600年)で途中東軍に寝返っている。大阪夏の陣でも東軍である。郷宗は、(京極高次のところでとどまり)『大阪夏の陣(1616年)に出陣し、討死にした』とあるから、京極高次に加わり東軍として死んだのであろう。宗久は、京極高次に加わらず、関ヶ原の役で西軍として戦い、大阪夏の陣への参陣は不明。
・二代目松原五郎兵衛(五郎四郎)が、大阪夏の陣へ西軍として参加するが「どこかの藩」に加わり参戦と考えたとき、高宮家とも考えられるが。以上を鑑みると「そうでもない」ようだ。
・松原氏成久流が高宮にも存在するか。
 高宮氏     |-秀宗---頼勝 
氏頼---信高---高宗--|-経宗---頼宗---綱宗---実宗--|-豊宗---宗存---郷宗--
 (高宮祖) |-清宗   |-宗光---宗久--|-宗勝--
   (北殿継ぐ)     |-宗次--
『犬上郡志・高宮町史』P100

天正10年(1582)6月2日 本能寺の変

天正10年(1582)6月10日 山崎の合戦、明智方に近江国の国人多賀・久徳氏

天正11年(1583)5月 松原五郎兵衛(34才*)、丹羽長秀の家臣5000石

天正13年(1585)8月 堀尾吉晴が4万石で佐和山城主に(~天正18年まで)
◎堀尾吉晴(秀吉の将、後の三中老の一人)は秀吉の小田原征伐に従う(天正18年(1590)3月1日発)。城は吉晴の弟の次郎助が留守居役として入る。
*秀政時代同様どのような領内統治をしたかわからない。ただ宿老の一人として秀次領の山論・水論などの民政に関わっていた点が知られているのみである(清水家文書)。
 堀尾吉晴領と山内一豊領については、知行目録が残されているので、その範囲がわかる(図によると長浜の北にも堀尾領が点在するが、長浜より南は堀尾領なし)。堀尾領については、浅井・坂田・伊香郡に広く分布し、佐和山城がある犬上郡は
  久徳きゅうとく分として3055石、
  堀監物(直政)分として松原村に650石
の計3705石があるのみである。久徳分というのは、天正11年(1583)8月に秀吉が久徳左近兵衛尉に与えた3000石のことを指す。久徳氏は、堀秀政に随い、越前に移ったと思われる。 堀直政も秀政の一族で、この人も越前に移っている。久徳氏の所領があった場所は多賀荘・一円荘・野田山村など現在の多賀町域を中心とするところであった。佐和山城近辺にはほとんど城主の所領がなかったことになる。(『新彦史1巻』P649)。堀尾吉晴の前佐和山城主は堀秀政で1582年入城。
▼佐和山城近辺とは、犬上・坂田郡の松原村、礒村、米原村のこと。1583年5月、松原五郎兵衛は丹羽長秀の配下(越前衆)になっている。地侍は当然のこと五郎兵衛に付き従い越前へ赴いた。五郎兵衛の故郷の農村は、領主がいない空白地。丹羽家と堀尾家はともに秀吉の配下で、堀尾吉晴にとっても(城代を置くが)、松原は4万石の内の650石程とわずかで、日頃の秀吉の指示で忙しい。松原五郎兵衛は丹羽家の大減封のため1585年8月末に、松原へ戻っているだろう。

【久徳氏】近江中原氏の流れ。久徳定高は多賀氏の一族として京極氏に仕えた。長享元年(1487)、諸処の合戦における功により現在の犬上郡多賀町久徳の地を賜り、芹川を外堀にした久徳城を築き久徳を称するようになったとある(異説あり)。久徳氏の居城久徳城は、(松原氏と同様)京極氏と六角氏の境目に位置し、その去就は困難を極めた。実時は娘を高宮城主の高宮氏、敏満寺の坊官新谷氏、多賀大社の神官犬上氏に嫁がせ、勢力の安泰を図っていた。久徳実時は母を人質に出して浅井氏に属した。巻き返しを狙う六角義賢(承禎)は久徳氏、高宮氏、新庄氏らに調略の手を伸ばし、実時は六角氏に転じたのである。
 実時が六角氏に通じたことを知った高宮氏は、ただちに浅井氏にその旨を報じた。長政は実時の母を処刑すると、新庄・磯野氏らに命じて久徳城を攻撃した。久徳城は六角氏の援軍を待つ間に、多勢に無勢、久徳城は城主左近太夫はじめ城兵ことごとく討死して落城した。その後、久徳一族は六角氏の庇護を受けたが、永禄十一年(1568)、織田信長の上洛に抵抗して六角氏が没落すると、織田氏に属するようになった。

天正13年(1585)8月 五郎兵衛(36才*)、越中征伐に丹羽軍として参加
天正13年(1585)8月 秀吉、越中征伐に丹羽長重の越前国・加賀国を召し上げ
◎長重は、若狭1国15万石となり、重臣戸田勝成、長束正家、溝口秀勝、村上頼勝、上田重安、太田牛一らその他多くのもの達も召し上げられた。松原五郎兵衛の領地(越前)もなくなるから、五郎兵衛は故郷の松原へ戻るか。

天正15年(1587)6月2日 佐々成政の肥後国主に

天正16年(1588) 松原五郎兵衛は五郎四郎(8歳)母子を京都へ連れ帰る
◎佐々五郎四郎は、成政自裁後、同家家老であり母の姉婿である松原五郎兵衛と共に熊本を去った。

天正19年(1591) 近江で太閤検地の実施
◎同年4月に石田三成が佐和山周辺の蔵入地代官として入城か。

文禄2年(1593) 成政二女の子・五郎四郎が織田秀信に仕える

文禄2年(1593)3月 文禄の役 李氏朝鮮へ15万軍を送り込む
*大肥前(佐賀県)の名護屋城に本陣を置く。
 同年7月、名護屋城本営 三之丸御門番衆 御馬廻衆、五番中井組(22名)の中に「松原五郎兵衛尉」の名が見える。

文禄3年(1594)10月17日、松原五郎兵衛は秀吉から摂津国菟原郡脇浜内中村 百石を受けている『福智院家文書』

文禄4年(1595)8月11日 秀吉、五郎兵衛に播州いほの郡ひらい村六百石『福智院家文書』
*『佐々成政資料の誤記・疑義』(浅野清)P37に次の記載あり
 文禄三年(1594)十月十七日 豊臣秀吉朱印状 摂津国菟原(うはら)郡脇浜内中村 百石
 文禄四年(1595)八月十一日 豊臣秀吉朱印状 播州いほの郡ひらい村 六百石
 延宝六年(1678)正月十五日 桑山一正尹判物 (略)  (福智院家文書)
◎この朱印状は秀吉から松原氏(五郎兵衛)に、判物は桑山一尹(改易)から松原家二男成清の子・庸成に宛てたもの。秀吉朱印状は五郎四郎の二男筋に伝わっている。つまり、五郎四郎の長男・権兵衛は家を出た(?)ことになるか。庸成は主家が改易後、(浪人中に)「佐々兵庫」と名乗る。
◎同年8月、石田三成が湖北四郡(伊香、浅井、坂田、犬上)を治める30万石の領主として佐和山城へ入城。

慶長3年(1598)8月18日 秀吉はその生涯を終えた、享年62

慶長4年(1599)閏3月 石田三成が佐和山城へ隠棲する
慶長5年(1600)6月16日 家康は上杉景勝を討つために大坂を発つ(会津征伐)
同年7月18日、西軍は家康家臣・鳥居元忠の守る伏見城を包囲。8月 1日に城は陥落。
同年8月23日、岐阜城開城、織田秀信(三法師)が降服。
*佐々五郎四郎重勝(19才)、岐阜退去後は摂津(大坂)へ。伯母婿である松原五郎兵衛直元の処へ身を寄せる。五郎兵衛の養子になり、松原五郎兵衛重勝と改名。五郎四郎が養子になったとき、松原五郎兵衛は立ち会っていると思うのだが、五郎兵衛は古文書に見えなくなる。1595年8月11日には、秀吉から「摂津国で五百石を加増」で間違いなく存命中。
▼松原五郎兵衛(51才*)は、五郎四郎(19才)とともに三成方に付くべく松原界隈にいたのでないか。故郷に舞い戻っているだろう。

慶長5年(1600)9月15日 関ヶ原の合戦
同年9月18日、東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城
同年9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
同年10月1日、家康の命により三成は六条河原で斬首された。享年41。

*是歳11月、味方セシ諸大名勲功ノ賞ヲ賜ハル明レバ6年2月直政ニ石田ガ領セシ近江ノ地賜ハリ六万石ヲ加ヘラレ十八万石ヲ領セシ云ウ(以下略) (以上井伊年譜)
つまり、論功行賞にて、慶長6年2月に井伊家は六万石を加封して近江国にて十五万石、上野国にて3万石、都合十八万石になる。
▼松原が彦根藩領に組み込まれると、これまでの土豪・地侍としてはその存在が認められない。藩士として抱えられないと帰農して「百姓」するしかない。もっとも、これまでの財力・土地があれば庄屋として暮らしていけるが。そうでなければ、何とか手を尽くして城下へ入り込み「商人」として生きてゆくか。彦根藩で郷士として認められたものは4人(文化年間)。

*関ヶ原の合戦で西軍が敗北し、徳川の支配体制が強まると、豊臣恩顧の大名の家臣となっていた近江の多くの武士は、家臣団の解体によってもとの古巣の村へもどり帰農せざるおえなくなりましたが彼らの中にはなお「すねふり」という株をもち姓をもつ村の特権階級層として生きつづけるものもいましたし、生活の道を求めて近在に麻布や編笠などを売りあるいてやがて大商人と、、『庶民からみた湖国の歴史』P109

【彦根藩士の出身別構成】
慶長5年頃(1600年頃)、旧臣など74名、関東浪人43名(家康付人)合計117名
年代不詳 上記よりやや時代は下る(木俣文書)
 甲斐51、駿河43、遠江15、上野15、三河3、越前1、伊勢1、近江3、河内4、
 美濃1、小田原北条の遺臣3、山城9  合計139名
元禄4年(1691)「藩士族譜」(井伊家蔵)
 1,000石以上 23名、1,000石 7名、・・ 100石 88名 合計452名(百石以上)
(上記から近江出身者を抜き出す
 西山隼人 2000石、青木五郎兵衛 1200石、内山十郎左衛門 700石、600石 1人、500石 3人、350石 3人、300石 3人、200石 10人、150石 9人、100石 8人 計40人(百石以上) 旧領主松原さま80石で番外だ!(初めは18石))

慶長6年(1601)、芦浦観音寺、佐和山城附の浦々の艜船等を書上げる
*慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで豊臣方に勝利した徳川家康は、陣の最中に寝返った京極氏とともに大津に籠城した百艘に対して、旧来からの船積み特権を追認し、関ヶ原の戦いでは西軍に味方した芦浦観音寺を赦免し、原則的に、この大津百艘船と湖水船奉行による湖上水運の統制体制を受け継いだ。慶長6年6月には、琵琶湖の全浦の船改めを実施し、同年、家康の側近であった大久保長安が、7月2日付で百艘に対する浅野長吉以来の権益を認めた大津浦の制札を発給するなど、旧来の体制を存続を示した。その際の船改帳は、「江州諸浦れう舟・ひらた船之帳」と「さわ山御城付分ひらた舟之帳」の二冊に分けられ、佐和山領内の船を別帳としていた。『新彦史2巻』P565
◎「さわ山御城付分ひらた舟之帳」の史料は「芦浦観音寺文書」233点のうち、『江州諸浦船数帳』(1冊、草津市・観音寺所蔵)の中にあるようだ。また似たものに「江州諸浦れう舟・ひらた船之帳」(1冊、草津市・観音寺所蔵)というのもある。
・「さわ山御城付分ひらた舟之帳」(『新彦史7巻』P662)は浦ごとに船持主をあげたものであるが、関ヶ原の西軍武将を思わせる船名が見える。「村ごとの船数」と「船持主の船芦数・浦名」を編集した。直政公は慶長6年(1601)7月に佐和山城へ入城している(2月説もある)。
 ★「村ごとの船数」
 ひらた舟猟舟鵜遣舟庄屋肝煎道場備考
朝妻内中嶋42     
筑摩村 7       
磯村106   新八、孫七6 2内、等級下11艘
松原村85  才次  内、新町6
佐和村361    内、松原12 佐和町5
大藪村3      
八坂村7  法喜院   
須越村7  新右衛門1  
三屋村18      
石寺浜10     
薩摩村29      
柳川村23  新兵衛   
新(海カ)飯村19  早助   
福堂浜23  二郎介   
乙女浜33  二郎右衛門1  
大(躰)光寺6      
佐野1      
山路村5      
合計422      
◎磯村は磯山近く佐和山城下の村(彦根城はまだ築城されず)

★「船持主の船数・浦名」
・松原五郎兵衛:五郎兵衛、五郎右衛門
  五郎兵衛→ 3艘松原1、佐和山1、薩摩1
  五郎右衛門→ 3佐和山1、乙女浜1、磯1
・松原五郎四郎重勝:五郎四郎
  五郎四郎→ 1松原1
・松原五郎兵衛先妻の子・二男:久貞、源右衛門
  源右衛門→ 4石寺浜1、三屋1、山路1、磯1
・石田正継(三成父):藤左衛門、藤右衛門、左吾左衛門、太郎右衛門、隠岐
  藤右衛門→ 3松原2、大藪1
  藤左衛門→ 1佐和山町1
  太郎右衛門→ 2石寺浜1,薩摩1
・石田正澄(三成兄):改名、弥三、弥三郎
  弥三郎→ 4磯2,佐和山1、松原1
・大谷吉継(別名:吉隆):紀之介、平馬、大谷刑部
  刑部→ 2磯1,筑摩1
  刑部四郎→ 4磯2,筑摩1、松原1
  刑部九郎→ 1磯1
・長束正家:仮名:新三郎、利兵衛
  新三郎→ 2佐和山1,乙女浜1
・関ヶ原終戦後、船持主の調査とすれば、船主も変わるし、敗戦武将を船名にもつ名は控えるだろうから、「さわ山御城付分ひらた舟之帳」の調査時点は、(船主の名は)関ヶ原の戦い前ではないか。それに、同一持主と思われる"ひらた船"が複数の村港に分散している。このこと(三成の援軍が待機していた)を裏付ける証拠と思われるがいかがであろうか。この記述が終戦後のもので、『誤解を生むほど、当時同じような名前が多かった』ですまされるものか。今後の研究が必要と思われる。慶長6年6月の船改めの実施は、『江州諸浦船数帳』を「江州諸浦れう舟・ひらた船之帳」と「さわ山御城付分ひらた舟之帳」に、帳面上分けただけではないか、と思うのだが。無理な憶測であろうか。

◎芦浦観音寺:天台宗寺院で、聖徳太子の開基と伝えられている。芦浦観音寺三傑僧と呼ばれた八世賢珍・九世詮舜(1540-1600)・十世朝賢らはそれぞれ織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった天下人と交わりがある。九世詮舜(せんしゅん)は、秀吉より琵琶湖の湖上交通を管理する船奉行に任命され、また、湖南・湖東地方を中心とした蔵人地の代官(3万8千石)を務める。秀吉の朝鮮出兵(1591年)の時には秀吉に随行し、琵琶湖水夫の徴発と兵糧米の徴収・輸送に努めた。秀吉没後の慶長5年(1600)に没す。
*関ヶ原の戦いより後は家康に従い、寺領550余石の安堵を受けている。湖上奉行も17世紀後期まで代々継承した。(Wikipedia)
*芦浦観音寺朝賢は関ヶ原の戦いで西軍。戦後は家康に許され同奉行を継続している『新彦史2巻』P18)。井伊直政(1602年2月1日没)は、朝賢配下の片岡徳万を井伊家湖水奉行として貰い受けている。
*関ヶ原の戦いで西軍として参戦しながら、戦後は家康によって存続を許された芦浦観音寺第十世朝賢が就任し、、『覇王信長の海 琵琶湖』P203
◎九世詮舜が関ヶ原の合戦の直前か直後に没し、十世朝賢が後を継いでいる。『江州諸浦船数帳』がいつの調査かが焦点だ。「松原・米原辺りで、三成の危機に待機していた」史料となれば、松原五郎兵衛と重勝(五郎四郎)の、「その後の立ち位置」は困難を極める(戦後は行方をくらます必要性がでてくる)ことになる。重勝は大坂・京都の妻の所へ戻っている

慶長17年(1612)10月22日 六角義治の死去
*甲賀郡の石部城を拠点に、義賢・義治父子の反信長の戦いは続いたが、天正2年(1574)頃を最後にその活動は見られなくなる。この頃は「佐々木次郎」を名乗っていたという。享年68。位牌は父・承禎(義賢)と共に、京都府京田辺市の一休寺にある。

▼磯・松原・米原・佐和山近辺の地域は、古くは六角家と京極家(浅井家)の境界地帯であり、支配者が幾度となく変わった。それ故、この地域は戦場としての性格はあるものの農村に対する強権的な支配者は出てこなかった。そんな中でも、堀尾吉晴、丹羽長秀、石田三成とい支配者もあったが、主君の命令で移動も激しく、内政にかかわる時間が無かったのが実情であろう。この地に黄金がでたなら話は変わりましたが。石田三成にとっても、ここを故郷とする松原五郎兵衛は秀吉の下で「同僚」だ。五郎兵衛は秀吉の下で黄母衣衆だったのだ。五郎兵衛が三成に賛同しておれば、松原への帰還もいとも簡単である。
 そんなことで、松原や米原において、永続的に細々と農村を支配を続けてきたのが松原氏であったのではないか。しかし、関ヶ原の合戦の後は、井伊氏が佐和山城に入封すると状況が一変するが。

元和5年(1619)より元和7年(1621年) 彦根、松原次郎右衛門らが大網仕立う(魚)をひく
*片岡徳満、松原次郎右衛門、兵右衛門、助三、四郎左衛門、等五人が、土州様(彦根藩家老)からも銀子かり、あミしたて大網仕立う(魚)をひく。『新彦史7巻』710

元和九年(1623) 松原六兵衛が彦根藩に召し抱えられる
松原六兵衛(万治3年(1660)頃没か)が彦根藩に七十人歩行として召し抱えられている。旗奉行配下に属して「御旗添」を担う職能集団らしい。 そのとき畳奉行を勤め、18石3人扶持(扶持の年収)。安政3年(1856)七代目が最高で80石で知行取藩士になる。松原家の本家筋にあたるらしい(彦根藩侍中由緒帳)とあるが、「松原弥惣右衛門成久の孫がその後彦根藩に任官する松原源十郎」と記されて、「源十郎」と「六兵衛」の違いに、わからない部分がある。
◎松原家の本家筋なら高宮から彦根藩に入ったと考えられる。

*彦根藩には、「侍中由緒帳」と同じように、「侍中断絶帳」というものがある。これには断絶、すなわち家禄を召し上げられ、家名の滅んだ士ばかりの名を挙げている。「不屈なる仕儀により断絶仰付けらる」というのが多いが、罪名はほとんど書かれていない。法度に度々背いたり、不行跡があったりした場合は、差控・遠慮・閉門・追放・斬首などの処分をされる。追放・斬首の場合は家は断絶する。遠慮・閉門の場合も、時により減知された。減知・断絶のもっとも多いのは養子縁組の不手際の場合とか、父死去の時、嗣子が未成年である場合である。嗣子がなければ勿論断絶する。知行取の断絶の場合はその給所は明所(あけしよ)と云ってその年貢は御台所入りになる。減知の場合も残りは全部御台所入りである。罪も無く、不手際も無いのに俸禄が減らされる場合もあった。『新史』上516


■京極氏主要家臣一覧
[浅井郡] 浅井氏、浅見氏、河毛氏、三田村氏
[坂田郡] 今井氏、上坂氏、下坂氏、垣見氏、新庄氏(箕浦城)、堀氏(新庄氏,鎌刀城)
[犬上郡] 多賀氏、久徳氏
  『新彦史 1巻』P595
◎新庄氏、堀氏、久徳氏を付け加えた。

■六角氏家臣本拠地一覧
oumigu [高島郡] ・永田氏
[坂田郡] 大原氏
[犬上郡] 赤田氏、高宮氏、楢崎氏、松原氏、・山崎氏
[愛知郡] 鯰江氏、小倉氏、・高野瀬氏、・平井氏、目賀田氏
[神崎郡] ・伊庭氏、神崎氏、小河氏、建部氏、種村氏
[蒲生郡] 池田氏、大塚氏、香庄氏、河井氏、瓦蘭氏、・蒲生氏、九里氏、小森氏、・後藤氏、須田氏、津田氏、速水氏、・布施氏、・馬淵氏、水原氏、吉田氏
[野洲郡] ・永原氏、進藤氏、欲賀氏、・三上氏、山內氏
[栗太郡] ・青地氏、駒井氏、下笠氏、長束氏
[甲賀郡] 大河原氏、儀俄氏、黒川氏、小佐治氏、・三雲氏、望月氏、山中氏、和田氏
  『戦国期社会の形成と展開』P58
◎六角氏の家臣、『戦国期社会の形成と展開』(平成8年)では50あげているが、『新修彦根市史』(平成19年)では・印を「主要家臣一覧」として、13に絞っている。

【米原氏】佐々木六角氏の流れを汲み、14代当主・六角定頼(1495-1552)の甥である六角治綱が養子となり近江国米原郷を領し、米原氏を称したのが始まりとされている(異論があるようだ)。主君・尼子晴久に寵愛され、天文9年(1540)吉田郡山城の戦いに参加、禄は備中国17,500石。尼子十旗の一つ高瀬城主。1613年没(相当な歳になるが)。子・綱俊は津和野藩士。(wiki)
z_maibara *米泉寺(べいせんじ:近世以降は清岸寺)の檀家であった米原(よねはら)氏は佐々木の一族で末裔の松原家に伝わる「松原文書」によれば、小野荘(吉富荘)内の磯の川橋・船を支配した。一族には出雲尼子氏の家臣となり尼子勝久の出雲尼子氏の再興にも従った米原綱寛がでた。米原平内兵衛綱寛は永禄5年(1562)7月毛利元就による出雲侵入に際して毛利氏に降伏し、、『米原町史(資料編)』
・中世の米原町域に成立した荘園は、箕浦荘(天皇領)、富永荘(青蓮院門跡領)、朝妻領(法勝寺領)、吉富領(八条女院領)など、他に筑摩御厨がある。米原とは米原湊から米穀を大津に輸送したためこの名があると。

【松原氏】久頼(?-1456)の子・六郎高久之男(通久:松原姓之祖)が松原を領し興す。このときが高頼の治世のとき。これも、米原氏と恐らく同様で、高頼が「奪った所領を配下の国人らに与えていた」と符合する。松原氏と米原氏の興りが違うし、1450年代以降に松原氏が国人として活躍しているとき、磯・松原・米原に国人・米原氏の姿は見えない
 米原に住む松原氏の系統は、松原氏が国人として近江で活躍しているとき、それ以前に、尼子氏(近江犬上郡尼子郷出身、京極氏の守護代として出雲に下る)と共に出雲へ下向したとも、出雲の京極氏の守護領国制が安定していた頃に出雲へ下向したというのもあるようだ。米原に住む松原氏に、米原氏の記述があるのは、米原綱寛の子孫の一部が故郷米原に戻り、松原氏と同化したということだろう。また、「松原氏」の影が薄くなっているのも、米原綱寛のとき「備中国で17,500石」の俸禄であったことが強調されて伝わっていることによる。
 この地域に知名度があるのは「松原氏」なのだ。松原一族は、米原でなく本来が松原地域であって、彦根城下に入ってしまった所に多く居住した者で、またその地に愛着をもつ者であろう。松原氏の旧領主のある者(松原弥次右衛門通高筋)は、城下から少し遠い米原まで退き、またある者は彦根城下へ入ったと思われる。松原本家筋の弥兵衛については姉川の戦い(1570年)にも高宮家に仕えていたようで、その後に子孫と思われる者が高宮に見られるようだ。
 慶長9年(1604)『鈴木、、』と元和5~7年(1619,21)『大網、、』に見える松原次郎右衛門は、国人・国衆として現れる最後の姿でなかろうか。それが、松原五郎兵衛であり、松原五郎兵衛でなくても。

【土肥氏】延元3年(1336)に土肥六郎兵衛尉心光が足利尊氏の命により、近江国の箕浦谷に蔓延る野武士を平定。その功によって箕浦庄を与えられ、醒井を拠点として室町時代前期に渡り安定した領土経営を行う。戦国時代への転換期に入ると京極氏に領土を脅かされるようになり、拠点を山間地の枝折へ移して戦国期の動乱を乗り切った。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に与したことから、当代の土肥六郎兵衛は土地資産や記録文書の全てを寺社に寄進し、鳥取に落ち延びて近江土肥氏は消滅した。家紋は左三つ巴。(Wikipedia)


■松原・米原の周辺
 米原の松原本家は、佐々木氏の庶流で成久の弟の通高流であると。その子方久 は「足利義晴公(1550年没)之御家人」(義晴は義昭の父)、 嫡子久則は 「義輝公ニ任官、義昭公之御弟(周暠)三好逆心之時討死(1565年没)」 (義昭の兄義輝と弟周暠の死)、またその子治久の長男が「足利義昭公之近臣芸州へ供奉彼地ニテ卒ス(~1587年までに没)」 と、六角氏被官の後は将軍の身辺警固に付いているようだ。 そんな中、 治久である「五郎右衛門(五郎兵衛*に相当)」が丹羽長秀の家臣になっている。
米原の松原家へ

■五郎兵衛と五郎四郎の略歴
永正7年(1510)  磯山城の攻防と松原氏(成久自刃)
大永5年(1525)5月24日 六角定頼、浅井亮政と戦うため大軍を磯山に進める
天文15年(1546)   六角定頼、足利義晴から管領代に任命
天文18年(1549)   【推定の修正】松原五郎兵衛この頃に誕生か
永禄2年(1559)   【推定】松原五郎兵衛この頃に誕生か
永禄2年(1559)2月2日 織田信長が上洛し、足利義輝に謁見
永禄3年(1560)6月12日 桶狭間の戦い。織田信長が2万5千の今川義元を破る
永禄3年(1560)8月  野良田で浅井賢政が六角軍を破る 義賢は出家(剃髪後は承禎)
永禄4年(1561)3月  浅野方百々隠岐守が切腹、松原新三郎が佐和山城に入る
永禄5年(1562)3月  六角承禎じょうていが京都を占領、将軍義輝や三好方を没落させる
永禄6年(1563)10月  観音寺騒動:六角義治が重臣後藤賢豊父子を城内で殺害
           (家臣団の人心は六角氏から離れる)
永禄8年(1565)5月19日 五郎兵衛(16才*)の父「義昭公之御弟三好逆心之時討死」(*1)
永禄10年(1567)4月   南近江の六角家で六角氏式目(分国法)の制定
永禄11年(1568)8月   信長、浅井を通じて六角氏の多くの家臣を調略
永禄11年(1568)9月   信長、岐阜を出発
永禄11年(1568)9月8日  信長、高宮へ到着
永禄11年(1568)9月12日 信長、箕作城、観音寺城の攻撃「観音寺城の戦い
元亀元年(1570)6月28日 姉川の戦い 徳川・織田連合軍が浅井・朝倉軍を破る
             浅井方の高宮豊宗に従った松原弥兵衛が没す
元亀2年(1571)2月24日 磯野員昌が佐和山城を退城、丹羽長秀が入城
元亀3年(1572)12月22日 信玄の三方ヶ原の戦いで、義昭を信長離反に走らせた
元亀4年(天正元1573)2月 義昭は兵を挙げ 朝倉義景に対して、5,000から
            6,000の京都郊外の岩倉の山本まで出兵するように
元亀4年(1573)4月15日 信長が佐和山城に立寄り、丹羽長秀に大船12艘建造命ず
           (松原内湖は織田軍の軍港であった)
天正元年(1573)8月8日~9月1日 小谷城の戦い、浅井氏の滅亡
天正4年(1576)2月   義昭は紀伊由良の興国寺を出て、西国の毛利輝元を頼る
天正9年(1581)     五郎四郎の誕生
天正10年(1582)6月2日 本能寺の変
天正10年(1582)6月13日 山崎の合戦 五郎兵衛参加でないか(*2)
天正11年(1583)4月21日 賤ヶ岳の戦い 五郎兵衛参加でないか
天正11年(1583)5月7日 松原五郎兵衛(34才*)、丹羽長秀の家臣として5000石
天正13年(1585)8月   成政の籠もる富山城を、秀吉10万の大軍で包囲
天正15年(1587)6月2日 秀吉、九州平定 同日、佐々成政は肥後国主に
天正15年(1587)10月  義昭は毛利氏の兵に護衛されながら、京都に帰還した
天正16年(1588)5月14日 成政、切腹 53歳
天正16年(1588)   五郎四郎(8才)母子は松原五郎兵衛(39才*)と共に熊本を去り姉婿前田玄以を頼る
天正19年(1589)   五郎四郎の母(佐々輝子、成政二女で岳星院)が鷹司信房(公卿)に嫁ぐ
天正20年(1590)4月14日 母が鷹司信房の子・信尚を産む
文禄2年(1593)   成政の孫五郎四郎が織田秀信に仕える 六百石
文禄2年(1593)7月 名護屋城本営三之丸御門番衆 御馬廻衆「松原五郎兵衛尉」(44才*)
文禄3年(1594)10月17日 秀吉、成政娘婿・松原五郎兵衛に摂津国菟原郡脇浜内中村で百石
文禄4年(1595)8月11日 松原五郎兵衛(46才*)に播州いほの郡ひらい村六百石
文禄4年(1595)   前田玄以、丹波亀山城主に
慶長5年(1600)8月23日 関ヶ原の前哨戦 岐阜城落城
慶長5年(1600)8月  五郎四郎重勝(19才)は伯母夫婦の摂津へ 松原五郎兵衛重勝と改名
慶長5年(1600)9月15日 関ヶ原の戦い
慶長5年(1600)10月1日 三成・行長・恵瓊 等大坂・堺を引回され京都六条河原にて斬首
慶長9年(1604)7月 松原次郎右衛門(五郎兵衛だと55才*)、彦根城普請に210俵の米を貸付け
慶長19年(1614)11月 大坂冬の陣
慶長20年(1615)5月 大坂夏の陣
元和5~7年(1619~21年) 松原次郎右衛門(〃70~72才*)琵琶湖にて『大網仕立うをひく』
元和10年(1624)12月 五郎四郎の妹(本理院)が家光に嫁いだ(五郎兵衛(75才*)
   五郎四郎は妹を通して仕官を依頼 → 長男・権兵衛は家を出る
正保3年(1654)1月15日 松原重勝(五郎四郎)、京都にて死去66歳(青松院徹誉休居士)
   家督は二男・松原勘兵衛成清(1659年10月13日死去(子・庸成20歳のとき))に継がれる

【勝手な類推】松原五郎兵衛は、1585年閏8月?(36才*)に丹羽家を離れるが、先妻に男子2人(1569年生,1572年生あたり)がいるという。養子になる五郎四郎は1581年生まれ。その子・権兵衛は1602,3年生まれ。(*)付きは修正済み。 慶長9年『鈴木、、』と元和5~7年『大網、、』の松原次郎右衛門が松原五郎兵衛*と同一人物と考えていたが、55才*と70~72才*と高齢になり、考え直す必要もあるか。

※1 永禄8年(1565)5月19日、三好義継・三好三人衆・松永久通によって将軍・義輝が殺害され、
周暠も松永らの命令を受けた平田和泉守に誘い出され、小姓とともに京都へ行く途中で殺害された。(wiki)

※2 天正10年(1582)6月 山崎の合戦 秀吉方、南方より打向ふ勢
一番 高山右近(摂州高槻之城主其勢2000)、
二番 中川瀬兵衛尉(清秀)(同茨木之城主、其勢2500)
三番 池田勝三郎父子(恒興、元助)(同有岡・尼崎・華熊三城兼知、其勢5000)
四番 丹羽五郎左衛門尉(長秀)(江州佐和山之城主、其勢3000
五番 三七殿(織田信孝)(勢州神戸之城主、其勢4000)
六番 羽柴筑前守秀吉(長秀)(播・作・但・因・伯、兼知此五州、其勢二万)
都合四万、、(太閤記)『新彦史5巻』P728
◎丹羽長秀の軍勢3000名。この中に、松原五郎兵衛(23歳ごろ?)がいただろう。

■五郎兵衛の進退 >勝手な推測になろうか
 1585年に秀吉により、丹羽家が123万石から15万石の大減封され、松原五郎兵衛(36才*)も長束正家や溝口秀勝と同じく丹羽家を去ったであろう。何しろ越中征伐の最中に大減封があったようで、丹羽家臣団の解体で家臣のものは帰路に向かったか、別の軍団に組織替えになったかその詳細は不明である。松原五郎兵衛については、次に仕えるのが佐々家で、成政の降伏が9月だから、行くあてもなく近江の松原に戻ったと思われる。

 松原の地は、古くから松原氏が国人・地侍として暮らしてきた故郷で、領主が六角氏・京極氏(浅井氏)、さらには丹羽氏、堀氏、堀尾氏と替わっても、村民と共に生活を維持できたようだ。五郎兵衛がこの松原へ戻るときは、堀尾吉晴が治めていたときで、丹羽氏と同様に秀吉の家臣だから、領内へ入るのも承諾を得やすいと思える。
 この松原に戻る前後に、長男・義久の死の一報を受けただろう。彼は義昭公に仕え「従芸州彼地卒ス」とある。義昭公が芸州にいたのが1576~87年10月であるから、どうやら、子の末期(まつご)と主家を失う時期とが重なり沈痛な日々を送ったようだ。松原では暫く召し抱えられる主もなく(形式的には堀家だが、実質上には独立的な色彩が強い)、悶々と残された子と過ごしたと思われる。

 そんな中、成政が『九州討伐を依頼され、従うものを募集している』と御伽衆を通して、五郎兵衛に伺いがかかる。成政と六角義賢、義治とは御伽衆で出会う。松原家は過去に六角家の配下でもあった。五郎兵衛にとって、この知らせは「渡りに船の気持ち」であろう。後で、嫁まで付いてくるとは心外であったが。何せ、成政の手元には出戻りの娘二人がいて、機会があれば御伽衆のものに、娘の婿の世話まで依頼している。長女は(先夫)佐久間勝之のち養子・佐々勝之、二女は(先夫)佐々清蔵で、五郎四郎の父である。
 五郎兵衛は身を立てるため(?)成政に従う。結果、五郎兵衛は新しい妻(成政の長女)を迎え、成政の肥後国一揆平定に「鬼の松原」(子を亡くし死に場所を求める気持ちでもあったか)として奮戦する。

 五郎兵衛不在の近江の松原では、松原が井伊家の直轄地になり、子(1572年?生)の流れがいつの日か帰農し代々農業を営むことになる。この家筋が、1620年代に彦根藩士になった松原六兵衛(松原庄左衛門家)とは同じ一族である。
 また松原が井伊家の直轄地になったことで、通高流の一部が米原氏と同化し米原村に入ったということであろうか。『彦史』『新彦史』の村高157.5石米原村の情報は少ない、ほとんどない。

▼(米原の)松原本家(五郎兵衛流)の系図が正しいとすれば、松原五郎兵衛の誕生年を修正する必要がある。
 五郎兵衛の生まれは1559年から(単純に)仮に10年前の「天文18年(1549)」とする。
★これまで考えてきた松原五郎兵衛の年齢に+10を加える必要がある。『覚え書き(本文)』が辻褄が合うか検討しなければならないが、暫くこのままにする。修正の年齢に(*)記号を入れる。

◎松原次郎右衛門が松原五郎兵衛*であるのか、松原次郎右衛門が松原の国人の血を引くものなのか。松原五郎兵衛*自体が国人の血を引くものであるから、大して違いが無いのであるが。特定したいものである。五郎兵衛36才*が成政の娘を娶るところは男として困らないだろう。


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