彦根城下町と近辺で

■五郎兵衛と五郎四郎  丹羽軍が北近江に  将軍に被官  六角氏の没落  五郎兵衛*は黄母衣衆  五郎兵衛*はどこへ
■系図は語る
■町への憧れ  刀を鍬に替えるは過酷  城下町への憧れ  町屋の「奢侈」を戒め  農村出身の宮田家の場合
■彦根城下の有力商人  『彦根城下有力商人とその後』の松原姓を見る  旧領主筋はどこへ行った
■城下の有力商人の起源  有力商人はどこから  松原姓は五郎兵衛*の親戚・縁者  松原姓を調べる  我が家は
■裏に離座敷取建  上層町人が裏に座敷を  「町屋」へ足繁く通うお侍さん
■城下町の風景  町屋の役人  年寄と五人組帳  城下町で繁華な場所はあったか  出自を探す
■?  城下町からの出奔  私の父は

■五郎兵衛と五郎四郎 松原・米原へ戻る(?)まで
(丹羽軍が北近江に進駐)
 六角・京極(浅井)家が衰退し、織田信長の丹羽軍が北近江に進駐する。おそらく、天正10年(1582)6月の山崎の合戦、天正11年(1583)4月の賤ヶ岳の戦い(現、滋賀県長浜市)で、松原五郎兵衛*は丹羽家に従ったであろう。天正11年5月7日、松原五郎兵衛*(34才*)は、丹羽長秀の家臣として5、000石を受けている。

(松原五郎兵衛*家は将軍に被官)
 五郎兵衛*の曾祖父は「定頼公(1495-1552年没)二任官」、祖父は足利義晴公の御家人、父は「義輝公ニ任官、義昭公之御弟三好逆心之時討死(1565年没)」、そして彼の長男も「足利義昭公之近臣芸州へ供奉彼地ニテ卒ス(1581~1587年の没)」と、曾祖父以外は将軍の警護に付いている。一方、五郎兵衛*は、一族の生き残りをかけ警護から離れ、旧松原領主一族のある部分や彼の家臣達を糾合し、丹羽家に仕えた。

(六角氏の没落と五郎兵衛)
 これに先んじる、1568年9月13日の「観音寺城の戦い」で、六角義賢・義治父子は織田軍に敗れ、観音寺城を無血開城し甲賀郡に逃走する。六角側は、
  本陣の観音寺城 :義賢と義治、弟・義定と馬廻り衆1千騎
  和田山城    :主力6千
  箕作城     :3千
  観音寺城の支城18城 :その他被官衆
置いて態勢を整えた。
 信長軍は12日に箕作城を攻めあぐね、13日にやっと落城させる。13日に観音寺城を攻めたが六角義賢・義治父子や城兵は夜陰に乗じて甲賀に逃げており、残兵らが降伏した。当主を失った18の支城は、1つを除き織田軍に降り、ここに大勢が決した。結果、六角氏の家臣だった多くの国衆が投降し、江南24郡は織田勢に制圧されたという。
 松原の主家・弥兵衛賢治については『戦国期社会の形成と展開』の書状使者名に、義賢のときに「松原弥兵衛尉」、義治のときに「松原弥兵衛」の名がみえ、義治のときまで被官であったことがわかっている。その後、1570年6月の姉川の戦いで浅井方高宮豊宗に従って「松原弥兵衛」が討死にしている(『犬上郡史・高宮町史』)。このことから、弥兵衛賢治(や新三郎ら)は、「観音寺城の戦い」で、義賢・義治らと共に甲賀へ落ちのびたのでなく、六角家を離れて高宮家と行動をともにしたのでないか。姉川の戦いで討死の「松原弥兵衛」は「弥兵衛賢治」と同一家筋と思われるが、2代目かも知れない。

 一方、五郎兵衛*は、父が将軍家(義昭公の弟)に従って討ち死に(1565年)しているから(このとき16才*)、その後も父同様に将軍に従っていると思える。彼が将軍家から離れるのは、子が小姓として将軍に被官するのを見届けてからで、1582年(33才*)までのある年に、信長の丹羽軍に従うようになったのでないか。次に義昭の足跡を上げておく。[五郎兵衛と五郎四郎の略歴]

【足利義昭の足跡】(五郎兵衛とその子の足取りをつかむために)
 1565年(永禄11)
5月、第13代将軍であった兄・義輝が京都において、三好義継や三好三人衆、松永久通らによって殺害された。7月、覚慶(かくけい)は兄の遺臣らの手引きによって、密かに興福寺から脱出、近江甲賀郡の和田に到着。その後、京都に程近い野洲郡矢島村行く。
 1566年
2月、矢島御所にて還俗し義秋と名乗った。8月、六角氏の叛意や、三好側が矢島を襲撃する風聞も流れ、義秋は妹婿の武田義統を頼り若狭国へ移った。このとき、義秋は4、5人の供のみを従えるだけであったという。若狭から越前国敦賀へ、9月に義秋は朝倉義景のいる一乗谷に迎えられた。
 1568年
4月、朝倉氏の館において元服し義昭と改名。7月に美濃。9月13日の「観音寺城の戦い」のときは近江に入るか。その後、織田軍に警護されて上洛を開始する。9月22日に父・義晴が幕府を構えていた近江の桑実寺(近江八幡市安土町、観音正寺へと登る途上に位置)に入った。10月14日、義昭は畿内平定を受けて再度上洛し本圀寺に入った。10月18日、義昭は室町幕府の第15代将軍に就任。10月26日、畿内平定し、信長は宿将らを残して美濃に帰還した。
 1569年(永禄12)
1月、三好三人衆はこれを見逃さず、京へと進軍し、5日に京中に攻め入り、義昭のいた本圀寺を包囲・襲撃した(本圀寺の変)。奉公衆らが駆けつ6日にこれを撃退。4月、二条城の完成。
 1570年(永禄13元亀元年)
9月、本願寺に呼応して、浅井氏・朝倉氏が挙兵。
 1572年(元亀3)
12月、三方ヶ原の戦いで信玄の破竹の進撃に、義昭を信長離反に走らせる。
 1573年(元亀4天正元年)
2月13日、義昭は朝倉義景や浅井長政、武田信玄に御内書を下し、遂に反信長の兵を挙げた。義昭は義景に対して、5,000から6,000の京都郊外の岩倉の山本まで出兵するようにと催促。3月、義昭は三好義継と松永久秀の両名を赦免し、同盟した。武田信玄は4月12日に本国に引き上げる帰途で死去。7月、義昭は南山城の要害である宇治の槇島城に移った。7月19日、義昭は槇島城を退去して、20日に河内の津田に入った。これにより、室町幕府は事実上滅亡した。11月、義昭は主従20人程とともに堺を出て、由良の興国寺に滞在した。
 1576年(天正4)
2月、義昭は紀伊由良の興国寺を出て、西国の毛利輝元を頼る。
 1582年(天正10)
6月2日、本能寺の変。6月13日、山崎の合戦(五郎兵衛参加か)。

(五郎兵衛*は丹羽家から佐々家、そして秀吉の黄母衣衆)
 秀吉の越中(佐々)征伐の1585年、丹羽家が大減封のとき、五郎兵衛*が丹羽家を離れる。そのとき家臣達の中で、仕える先が替わったものがいるだろう。五郎兵衛*と彼に従う者達は佐々家に仕える。五郎兵衛*は成政の長女を娶り、熊本に従うが、1588年の佐々家改易に遭遇する。五郎兵衛*は、成政の孫五郎四郎をつれ京都へ戻る。その後、五郎四郎は岐阜の織田秀信(三法師)に、五郎兵衛*は秀吉の黄母衣衆となる。
 1600年8月、関ヶ原の前哨戦。佐々五郎四郎が西軍として岐阜城で戦う。敗戦後、大坂の五郎兵衛*夫妻(伯母)の所へ身を寄せ、五郎兵衛*の養子になる。五郎兵衛*(51才*)は黄母衣衆であったが「関ヶ原の戦い」ではその名がみえない。参戦をしたなら五郎四郎と同じく西軍であろう。関ヶ原の戦い以後、特に西軍では仕える家臣団も解体し多くの牢人が発生する。

(五郎四郎は法躰して休意、五郎兵衛*はどこへ)
 五郎四郎は大坂の陣でも西側につき戦うが、家康率いる東側の勝利に終わり、「洛陽隠士となり法躰して松原休意と名乗る」(『古都陽炎』)。「法躰(法体)して」は僧のような身なり・金銭がなく慎ましい姿。「洛陽隠士」は、洛陽は京都で、刀を捨てきれないで人目を憚り身を隠す士、牢人。「松原休意と名乗る」剃髪して仏門に入ったような名前を名乗る。
 一方の五郎兵衛*(五郎四郎の長男佐々権兵衛含む)らは、故郷の松原や米原に戻ったのであろうか。五郎兵衛*が病死したとも考えられるが。彼ら、松原一統の敗残兵が身を隠すは、やはり親族がいる松原・米原などの農村であろう。井伊直政が慶長6年(1601)2月に、石田三成の佐和山城に封ぜられたのだから、混乱した時期(1585~1600年の間)に舞い戻ったともいえる。そうして、ほとぼりが冷める頃には、結果、井伊家の藩士、松原・米原の農民、城下の町人と姿形を変え生き延びているのだろう。
[注意] 松原五郎兵衛が、「武士」と「町人」の五郎兵衛が存在するので、武士の方に*を付けた。

■系図は語る
 現・米原市の「松原住本家ヲ次」と称す松原家は、「松原成久」の一族で、江戸時代に大庄屋であったという。系図によれば、松原弥三右衛門成久の弟・通高の筋とある。そして、通高を初代としてこれより4代目に松原五郎右衛門がみえる(通高の弟に新三郎がいる)。五郎右衛門(松原五郎兵衛*に相当)は秀吉の黄母衆で1000石の俸禄を受けて、息子が2人いるとある。つまり、五郎兵衛*には成政の娘とは別に先妻がいたことになる。系図を残す松原家は、五郎右衛門の子の次男筋で、後に帰農したという。その後のあるとき雲州米原氏の血筋も加わっているとか。
 松原五郎兵衛*の俸禄については、『淡海温故録』に彼が松原出身で600石とある。また、五郎兵衛*の二男庸成流である山田家(『佐々成政資料の誤記・疑義』)に、五郎兵衛*宛て併せて700石の秀吉朱印状が伝わる。

--------------- 系図の部分は省略(許可を得ていない) ------------
「諸家仕官一家之名前右之内ヨリ別ル分」として、
 加州御家中     ?久子 700石
         御側用人 松原善右衛門(*1)
 織田有楽斉ニ       松原吉右衛門(*2)
   信長ニ仕官  松原清右衛門子也
 雲州松江     中老  松原定右衛門(*3)
 板倉周防守様ニ  家老  松原権左衛門(*4)
 □□□□守様   用人  松原又左衛門
 (省略)(上記、ほぼ丹羽家の大減封(1585年)以降の親族か)
 彦根御家中
    松原庄左衛門 (*5)
    細江政右衛門 (*6)
    田辺□右衛門 (*7)
[注意] 上記の資料、兄から頂きました。

(*1)加賀藩(石川県金沢市) 松原源右衛門 700石(寛文11年(1671年)金沢侍帳)か
 この加賀藩には近江国松原氏でない松原内匠(1604没)の一族もおられるようだ。
(*2)不明。信長が近江侵攻時代に被官した親族か
(*3)松江藩(島根県松江市) 18.6万石 松平氏 御中老 松原五郎太夫(明治元年武鑑)
(*4)板倉家「周防守」は重宗(板倉家宗家2代 関ヶ原の戦いで秀忠に従う 大坂の陣では冬・夏の両陣に出陣)、板倉重冬(板倉家宗家5代)、板倉勝澄(板倉家宗家7代)の3人。時期的には板倉重宗だろう。重宗の父・勝重が1601年京都町奉行(後の京都所司代)、1609年に近江国・山城国に領地を加増され1万6600余石余で大名に(幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧 父の好重が戦死、家督を継いだ弟・定重も戦死、家康の命で還俗して武士)。この辺りから被官し2代の重宗で家老に重用されたか。
(*5)六兵衛が1623年召出で18石3人扶持 最高80石『彦根藩侍中由緒』
(*6)政右衛門は松原の出身で、直継公に切米を頂戴し(?)、直孝公のとき(1626年)知行150石、算筆を達者とし勘定人として召抱えられた。九代目以外は次郎右衛門名乗る。最高350石『彦根藩侍中由緒』
(*7)田辺四郎右衛門か、直孝公に召出。切符拝領。松原の出身。およそ100石『彦根藩侍中由緒』

■町への憧れ 城下町への流入は避けられないか
(刀を鍬に替えるは過酷)
 幕府の「慶安の御触書」(慶安2年(1649年))にならい、彦根藩も元禄12年(1699)、家老木俣清左衛門らが、「農は国の本」ともちあげながら「一、百姓つぶし候も正道、又百姓をつぶし不申も正道、又百姓をつぶし候も非道、つぶし不申も非道、、」と、実際は過酷な農民統制を行った。
 彦根城下の町人は、築城前のお取り潰し村落の百姓であったり、石田時代の佐和山城下の移転者、井伊氏に従って箕輪・高崎よりの移転者、この地の旧家臣団で「彷徨っていた」元武士でったりする。松原・磯・米原の村のものが、いつ頃どの城下町へ入ったかなど具体的なことを知りたいが、探せどなかなか史料がみあたらない。
 今ひとつは、暖簾親類の例として上げているもの、『 通り町の"はりまや"を本家とする一統は元来松原村の出身と伝えられるが、それがお寄り講を結んで、少なくとも年一二回は一堂に会し懇親をはかる慣例があった。(彦根城下有力商人とその後)』というものも。また、『城下成立前の当地の住民に、佐々木・浅井・石田の残党のなかにも、町人となって地割りを拝領した者のあることがうかがわれる(長谷川家文書)が、この種の聞書をある程度、信用するとすれば、「お潰し」に遭い「御城下と成し分は田畑御取上げに付町人と成し者大分有之」ことになる』(「彦根近鄕往古聞書」滋賀大学蔵『彦史』上冊 P423)というものがある。
 やはり、元武士が刀を鍬に替えるには少々過酷で、いろいろ指示されるより自由度のある商人(町人)としてやっていきたいというものだ。

(城下町への憧れ)
 農村から城下町へでる憧れは「自分のスキルを磨く」、城下町の方が俄然自由度が高い、によるものだ。
 松原村は、「老分の者」の申し伝え、「年中(藩の)2つの御蔵出入に三ヶ月、舟渡世に三ヶ月、猟に三ヶ月、御百姓に三ヶ月」の話があるよう、農漁村でもあり、また城下町に準ずる町を抱える特異な村である。
 松原村(磯村も含め)は琵琶湖に開けた漁港としての土地柄でもあった。それが彦根藩がやって来て、彦根藩の年貢米(物資)と旅客とが出入りする湊となった。そのため松原の農民が定期的な御蔵米の出入れで湊町の前川へ駆りだされた。町の空気を体験していること、魚や舟の扱いにも手練れているから、村民が魚屋町に奉公人や住民として入り込むのも疑問の余地はないだろう。「松原姓」が古くから上魚屋町に見えるのも不思議ではない。町へでる憧れは、松原村に限ったことでないのだが。

(町屋の「奢侈しゃし」を戒め)
 領主は、田を耕す農民が減ることを恐れる。多少の農村から町への流入があったとしても、例年以上の年貢・収穫が上がれば藩財政が潤い結構なことなのだが。農村と町の人の出入りが活発になり、農村の秩序が損なわれると傾国の事態となり、領主にとっては警戒すべきこととなる。
 従って、商人が農村へ入り贅沢品を売りつけたり、農民が贅沢を求めて町へ逃れることを嫌がる。商人が農民と直接接触しないよう、取引は農民の注文を庄屋が代表して取るなど、庄屋を介して行っている。
 農閑期の町への奉公人も城内に請負人(保証人)がいなければ入れない。奉公人の増大に「町屋ニテ(中略)身分ニ不応下男下女召仕奢侈しゃし増長之者多分有之、甚以心得違之事ニ候、其渡世不相応之下男下女等暇ヲ遣シ以後一切召仕間敷云々(伝馬町文書)」とあるよう、藩は手を焼いている。
 つまり、農民が町への憧れをもたぬよう、町屋に「奢侈」を「身分ニ不相応」「心得違之事」と戒めている。もちろん、町には富裕な町人ばかりでなく、農繁期には農村へ奉公人としてでる人もいる。城下のこうした「人の出入りを抑制する」、一方で、城下の農民と町人は繋がり(親戚・縁者)をもつ者がいる。つまり、時代劇で見られるような閉鎖的な社会構造でないようだ。

(農村出身の宮田家の場合)
 一例として宮田四郎兵衛家をみる。初代久介は慶長10年(1605年)に、犬上郡川瀬村百姓だったが彦根城下へ移住、下魚屋町にて地割頂戴している。2代目は1657年に中藪下片原村家屋敷1ケ所、大藪畑1ケ所購入している。3代目は柳川の田附新助家から妻を迎え彦根藩との人脈などを期待される。5代目は1738年に45歳で年寄役に。7代目の1781年に代官役(二人扶持)になっている(一本紙、帯刀御免)。はじめ魚売(初代)で、3代のとき酒屋から薬屋(四十九町へ転居)。明治10年代では古物商となる。就任した役職は、5代の横目(1719年)をはじめとして、歴代で組頭、横目、年寄見習、年寄、代官見習、代官、地払役、綿見綿懸、綿見の職に就いている。『四十九町代官家文書』P226~231

■彦根城下の有力商人 分析は史料に見える者のみ
(『彦根城下有力商人とその後』を見る)
 『覚え書き』本文にも述べていることだが、彦根城下の商人(町人)について、零細なものから有力なものまで、まとまった文献はほとんどない。私としては”我が家はどこから”を知りたいがため、城下全てのものについての起源を調べ上げたいものだが、史料がないので不可能である。唯一の手がかりが、『彦根城下有力商人とその後』(西田集平著 昭和31年)だ。これは「城下」の総勢2,207人の藩租税(?)支払い等級(安政四年(1857年))を、上位から順に上々75人、上150人、上之中150人、上之下330人、中750人、下752人に分け、その内の「上之中」以上の計375名の名前を挙げ「その後(~昭和38年まで)」を調べ上げたものだ(下表は集計)。支払い等級自体は、「彦根藩が、四手の役人に命じ(頼母子講仕法の前提として)町方全部にわたり個々の経済力を等級別に調べた名前書を差し出させた」とある。『総勢2,207人は当時の家持の全部はもとより借家住まいの一部をも含んでいると考えて差し支えないと思われる。さてこの等級割は六等に区分されているが、そのうち町別に名の記されているのは「上之中」すなわち三等までの総計375名である。』(西田集平氏)。(西田集平氏の資料は等級の上位から375名の名前が記載され、また総勢2,207人については等級と町別に集計されている)
 これに拠ると、全体375名の中で「松原姓」は2軒のみ(★残念なことに「上之下」以下の名前など不明)。
 上々 上 上之中上之下 中  下    
本町1111517341896 安政四年十月資料
上魚屋町5331518751
油 屋 町51396-24寺院数家持町屋  借家
本町手   14町294645127151604586288498
四十九町手 15町144035591241504222266574
川原町手  16町263935632563107293476628
彦根町手  15町62535812192325987458720
総計    60町751501503307507522207181,4882,421
※表の見方:城下町を4手組と、本町手組14町の中の3町を取り上げた。

(『彦根城下有力商人とその後』の松原姓を見る)
 松原五郎兵衛家は本町手の上魚屋町の「上」
 松原久左衛門家は本町手の油屋町「上々」
     我が家は本町手の上魚屋町の「上々」(松原姓に近いか)
松原彦兵衛家は天明期の上魚屋町並絵図には町内随一で、多くの借家をもっているものの、安政四年十月の総計375名の史料にみえない。この史料も含めて、1695年(元禄8)辺りから幕末までの、家系の隆盛や衰退が、少ない史料の中でもみえるようだ。
 ところで、いま述べている彦根城下町の商人は、いわゆる「近江商人」と定義される者達ではない。彦根城下町の商人は依然として封建領主の支配を受けるが、「近江商人」の方は彦根城下より遠くにある地域、近江八幡などで、領主の支配がより甘く自由度が高い地域。本店は近江にあるものの、富を求めて多方面の国に赴いて商取引を行う者達だ。

 城下の町人として、1600年から幕末まで「松原姓」を拾い上げる。この地は旧領主が「松原姓」であるから、松原の親戚・縁者の者と考えてよいのであろうか。ただし、松原次郎右衛門 は、1604年から1621年までしか登場しない。上記の系図にこの商人達が記載されているかは不明。次は、いわゆる上層町人だけの史料で不十分だが。
・上魚屋町に
 松原彦兵衛 (※1) 1695年(元禄8)に「横目」
 松原庄右衛門 (※2) 1741年に「地払い役」、1746,7年に「町年寄」
 松原五郎兵衛 (※3) 1824年文政7図で五郎平、1857年安政4有と1864年に「町年寄」
・油屋町に
 松原久左衛門 (※4) 1857年(安政4)にみえ、明治5年には茶商という
・不明のもの
 松原次郎右衛門 (※5) 1604~1621年にみえる

出典:
 ※1 元禄8年は『彦根博物館 歴史展示ガイドブック』、天明5図
 ※2 天明5図、1741年『四十九町代官家文書』、1746,7年 奥野家文雄氏所蔵文章
 ※3 文政7図の「五郎平」、安政4有・元治元図「松原五郎兵衛」
 ※4 安政4有
 ※5 『井伊軍志』
ただし、『彦根博物館 歴史展示ガイドブック』は大洞弁財天祠堂金寄進帳(1695年)を参考にしている。また、天明5図、文政7図、元治元図は 『天明5年(1785) 、文政7年(1824)、元治元年(1864)の上魚屋町・家並絵図』で、安政4有は1857年の『彦根城下有力商人とその後』である。

(旧領主筋はどこへ行った)
 旧松原家の土地は井伊家の領内に取り込まれてしまい、結果、井伊家が松原家の面々を藩士として取り立てなければ、彼らは帰農、百姓をする、ということになるだろう。井伊家は三州岡崎が興りで、それ以降藩は日毎に藩が大きくなるから、近江でも、1620年代に旧松原領の者達を取り立てているようだ。その取り立てについては、領内はかって群雄割拠(佐々木南朝諸士帳の豪族)で国人・土豪が多く、進駐軍の井伊家にとって買い手市場だ。藩主は真に有能なものを高禄で取り立て、旧領主筋のものをあまり評価しない。これは当然のことで、今後配下の者を糾合し勢力を盛り返すことを恐れるからだろう。
 松原姓はまだ「マイナーな姓」であるから、もっと彦根領内にあってもしかるべきと思えど、藩士1軒、町人2軒だ。松原家の流れの藩士に、主家(?)とする「松原庄左衛門 」を除き「細江家」「田口家」があるが、この2家は姓を変更したかもわからない(要検証)。やはり、関ヶ原陣・大坂陣の西軍の「佐々家」との縁戚を「はばかった」ものかもわからない。流れを引くとしても、「家名を残す」より生きていくのが精一杯だから、本来の姓を「はばかり」、目を付けられ潰されることを恐れ、「改姓もやむなし」となったのか。もっとも、商人なら普通は屋号を名乗るのだが。

 井伊藩の「勝ち組」の姓名を調べていて、少し興味深いことを発見した。それは、ある本の作者の方が「松平」を「松原」に誤植したということだ。その松平家は、家康の「付け人」であって特別に許可されたものだった。井伊家の家臣でも、普通は「松平」を名乗ることはできないのだ。
 話しはここからで、いつの頃か、井伊家中に「松井」というもの、殿様が「松居」に変更させたとかいうのがありました。これは多分、井伊家の御旗でもある「井」を「家中」で使用すること、止めさせたと判断できる。それで、藩士の姓名を調べると「白井」→「白居」、「平井」→「平居」、「浅井」→「浅居」、「酒井」→「酒居」、「安井」→「安居」、「折井」→「折居」、「三井」→「三居」と全てなっています。で、「井」を使用しては「ならぬ」「従わねば家を潰す」ということのようだ。苗字や名前まで「うるさく言ってくる」藩主、領民は辛抱たまりませんねェ。

■城下の有力商人の起源 松原姓に絞る
(有力商人はどこから来たか)
 『最初に拝領いたせしは青根・北川(角)・田中(九)と云う』。青根孫左衛門は石田三成支配下の佐和山城下から、北川角左衛門は高宮から、田中九郎兵衛は三州岡崎より井伊家に従った。いずれも地割り拝領地、つまり殿様から城下の地を割り振って頂くというもの。地割りは、本町から始められ、先ずはじめに、内町四町といわれる本町・四十九町・上下魚町・佐和町が成立した。また、元武士らしいもの多少ある中で、「浅井備前守内、雨森信濃守末流」に雨森伝兵衛(武家の御抱え望 不運にて御抱えなく町人)、「一説佐々木ト云説有」の種村助左衛門、上田善左衛門は「佐和町役人也、元浪人」などが見える。しかしここでは目的が、松原家に近しいものを取り上げる。

(松原姓は五郎兵衛*の親戚・縁者の筋か)
 上記「彦根城下の有力商人」の町人、松原彦兵衛から始まり松原次郎右衛門まで、確証はないが「松原姓」の五郎兵衛*の「親戚・縁者の筋」ではないかと思える。松原姓・親戚縁者がいる中で「五郎兵衛」は名乗れないだろうから、町人の「松原五郎兵衛」は、松原五郎兵衛*と筋が近いと想像できる。

(ここ[松原氏]の通高以下のところ、許可をもらっていない。許してください。あげないと議論ができない)
[松原氏]
 定頼公に任う 定頼公に任う承禎・義治に任う 
-- 通久-----------|-成久(磯山城自刃)--弥兵衛賢治-□-□-□--(*)---|--- 松原庄左衛門:武家
 犬上 国人|  ?
 | --|--(〃庄右衛門,五郎兵衛)
 | 定頼公ニ任官  ?
 |-通高(弥次右衛門)--□-□--五郎右衛門----------| -- 義昭公仕い芸州死す
 |   (五郎兵衛*)-| -- 米原住 松原家
 |     |  (養子) 佐々
 |     |----五郎四郎--権兵衛--?-(    )-
 | 佐和山城城主    成政の長女 
 |-三郎 ------------  
 愛智・犬上 国人  -?----(松原久左衛門)-?
- 松原六 --------------?--------------磯村 庄屋八 --------?-(松原彦兵衛)-六-
- 松原次郎左衛門 ------------?--------------松原次郎右衛門-------?--

 [図の見方]
①松原姓の有力商人は、国人こくじん・土豪(豪族とも)に起源を持つと思われる。
②通久は、松原新六・松原次郎左衛門(1457~1465年)の時代で、このいずれとも特定できない。
③松原彦兵衛家が「松原新六」の流れを引くと思えるが(不明)。
④右端( )は、いずれも城下町在住である。
⑤国人「松原次郎左衛門」と、1604年「借用申米之事」、1621年「大網仕にてう(魚)をひく」の松原次郎右衛門の3つは繋がると思えるが(不明)。
⑥松原弥兵衛が「姉川の戦い」(1570年)で、高宮氏の家臣として討ち死にしている。この人は弥兵衛賢治(物頭)の可能性大。この人と六兵衛との間に3代空いているか。高宮に松原姓の住民がいるというが、弥兵衛の流れか。記号(*)の繋がりは『淡海木間攫おうみこまざらえ』に有りと。
⑦1450年代の国人・土豪である、松原新六、松原次郎左衛門の流れは村の庄屋におさまるか、城下町に入り商人となる他ないだろう。
⑧記号-?-は繋がりを予想するが明確でない。
⑨系図が正しければ、権兵衛家と米原住松原家は、松原五郎兵衛の血筋で繋がる。

(松原姓を調べる)
 彦根城下の上魚屋町では「年寄(町年寄)」(農村でいうと庄屋に相当)が2人「横目」1人がいて、その内の1人は松原姓からでている。上魚屋町の役人として文献にみえる「松原姓」を追う。
  1695年    横目:松原彦兵衛家
  1743年   地払役:松原庄右衛門家
  1746年    年寄:松原庄右衛門家
  1864年~幕末 年寄:松原五郎兵衛(五郎平)家
 松原彦兵衛家と松原庄右衛門家を比べれば、松原彦兵衛家の方が若干早くから文献にみられ、憶測だが、松原庄右衛門家が松原彦兵衛家から分かれと考えてもおかしくはない。これとは別に、松原庄右衛門家が、武家の松原庄左衛門家から分かれたとも考えられる。武家の二男・三男が商家に入ったとも考えられる。
 五郎兵衛(はじめ五郎平)家は屋敷位置から 庄右衛門家と重なり、通名が「庄右衛門」から「五郎兵衛」に変わったと理解できる。役人(年寄、惣代、横目、地払役)から離れると名字(苗字)が公称できなくなり、通称名(彦兵衛、庄右衛門、五郎兵衛)を使用する。通称名でも通し字がないと、史料から家の流れがみえなくなる。
 ところで、安政4年にみえる油屋町茶商の松原久左衛門は、上魚屋町の「久左衛門」と同一の家としたら、やはり上魚屋町「松原家」の一統であろう。上魚屋町の「久左衛門」は寛延元年、宝暦14年(1764)に朝鮮使節団の対馬藩通信下知役、通詞の宿泊先となっている(松原庄右衛門家も宿泊先なのだが)。富裕商人(有力商人)は、町をまたがって出店をもっことが多い。

(我が家はどこから)
 < 確証がなく創作になってしまう >
 舟で待機中の松原五郎兵衛(51才*)は、1600年の関ヶ原の役で、9月の三成の呆気ない敗北を知り、大坂へも戻れず親戚縁者のいる松原にも入れず、藪地に身を隠し、生き延びたのでないか。その藪地は佐和山城から南西の位置で水運に便利なところでないか。

 『滋賀県の地名』に「中藪村は天正19年(1591)4月の御蔵入目録(林文書)にその名がみえ、小物成のよし米2石・川米3斗が豊臣秀吉直轄領として代官石田三成の管理下に置かれているので、築城以前から集落があったことは確かである。慶長高辻帳では高860石余、うち6斗は小物成。寛文4年(1664)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で六ツ一分。元禄8年(1695)大洞弁天寄進帳では長曽根村分を除いた人数1029人、うち寺社方13。善利川では元和年間(1615-24)から毎年米4石を藩に納めて魚稼をしたが、これを合枡立といい当村が権利をみとめられていた」とある。中藪が石田三成の管理下に置かれたとすると、西軍の残党としては村に入りやすいのでないか。

 さて、井伊家は関ヶ原の戦功により加増され、1601年に佐和山城へ入る。藪地は佐和山城から遠く未開発である。二代目が1603年に彦根城の普請に取りかかるころ、里根村、彦根、長曽根の3郷が潰され、藪地が(湖岸から順に)大藪・中藪・小薮にできあがったのであろう。その中の中藪は「藪地潰し諸方より流浪の百姓集まり居住をなし新たに村を興せしと云」、また「中藪を寄合郷と云」と記され、その地は「古代より彦根中村領有りし故多くの彦根の者集まりしは有るべき事也」とある(『彦史』上359)。

 藪地に身を隠したと予想する五郎兵衛*と(次の者)の関係が不明だが、1604年7、8月、彦根城普請事業に松原次郎右衛門が84石(210俵)の米を貸し付けている。この人物の特定を急いでいるがなかなかその正体はつかめない。名前からして、旧松原の領主・国人に近い人物であろう。

 彦根城がほぼ完成したのが1622年頃である。この間に、大坂の役(1610,15年)があり、京都・大坂近辺ににいる二代目松原五郎兵衛(五郎四郎34才)は妻子があり禄を求めて大坂城へ入城する。が、不運は続き西軍は敗北する。仕方なく、五郎四郎は京都にて隠棲、「洛陽にて法体し休意と号す」という。
yabu  彼の長男・権兵衛(8~13才:1602,3年生)は、父(五郎四郎)のこと風の便りに聞くものの、祖父と藪地にて身分を隠し姿を変え生きている。大坂の陣(1615年)のころ、祖父五郎兵衛は66才*になり存命であろうか。
 1622年の彦根城がほぼ完成したころ、藪地は彦根藩の城下町に編入され、外堀と芹川の間中藪町といわれている。このとき、祖父五郎兵衛が73才*と孫・権兵衛は19,20才になるだろう。この当時の中藪は、言わば「新興住宅地」となり、住民も多少増加し、藩士の下屋敷も点在する。身を隠してからほぼ20年の権兵衛と祖父五郎兵衛*は、まだ身を潜(ひそ)めつつ川魚を商う「肴や」となっているか。

 権兵衛が早い時期から五郎四郎家族の「口減らし」と考えて、祖父五郎兵衛*と一緒に暮らしていると考えていた。その理由がいまいち定かでなかったが、より直接的な切っ掛けをつくったのは、父五郎四郎が妹を頼って徳川家に仕えることに「嫌気がさし」たのでないか。それで高齢になった祖父に合流したのあろう。そうすると、権兵衛が近江へ来たのは妹が家光に嫁いだ元和10年(1624)12月以降となるだろう。

[上図] 外堀の外、堀に沿って横長に家屋が見えるところが藪地の一つ、中藪といわれるところ。(図製作:まち遺産ネットひこね 図⑱中藪下片原町、⑰中藪上片原町)
▼ 祖父五郎兵衛が故郷に戻り身を潜めるは、松原から彦根城で隔てた中藪あたりでないか。先妻の子が松原にいるので、松原とは少し離れた中藪に隠棲したこと、十分に考えられる。生活の糧となるのは川魚であろう。

 ここで、我が家のルーツと重ねてみる。我が家の始祖は元禄4年(1691年)1月没の「行心」である。彼の家系で俗名が判明しているのは、文政7年(1824)の町並絵図(※1)にみえる高祖父「平八」(当時29才:1864年没)からであり、また「平八」は安政4(1857年)には御用商人として、よくいえば藩財政を支えている。「平八」の居宅、先の住人に「仁左衛門」という名がある。「仁左衛門」はどうやら中藪下片原町から、城内の上魚屋町へ移住したと考えられる『彦根市史(中冊)』。
 そのところを、彦根市史(中冊)から拾う。中藪(城下町の外町※2)のものが川魚を売る(川魚市を立てる)から城下町の魚屋(内町)との間でしばしば争議となった。魚の「市を立て売る」のは、争論の中で城下町の魚屋(内町)の利権となっていった。中藪の「仁左衛門」が
『万治(1658~1660年)年中、川肴納屋致し』
(※3)たのが城下町の魚屋との争議のはじめか。「仁左衛門」はいう
『川肴納屋致し候由申之候得共、未其節者下片原町家居も無之時節ニ候得者不慥(たしか)事ニ候』
(川肴納屋していたころは、まだそのころは多分下片原町に家もなきころ)と。元禄年間(1688-1704)、享保15年(1730)にも争議(中藪町内に川魚市が立てられ禁止され)があった。城下町の魚屋(内町)以外は、川魚でも雑魚しか売買の権利はないのである。その争議は
『肴納屋市売仕度ものハ、魚屋町江引越住宅仕候ハゝ可為勝手次第候』
と結審する(延享3年(1746)7月26日)。結果は、城下町の魚屋(内町)の勝利だが、「魚屋町へ引っ越せば勝手次第」と寛大とも思える措置であった。城外の者が城内の魚屋町へ引っ越しするというのは敷居が高くなかなかできないはず(城下町に保証人を必要とし藩に届け許可を得る必要がある)。このことを見通しての措置なのか。
 中藪(四十九町手組)の「仁左衛門」、その後(※4)に伝手もあって上魚屋町の西端に、延享3年(1746)7月26日の結審以降に引っ越したと思われる(1746年の39年後の天明5年(1785)10月の上魚屋町家並絵図に「仁左衛門」の名が見える)。
 それから、1785年から39年後、同じ場所に我が家の高祖父「平八」が居住している(文政7年(1824)上魚屋町家並絵図に「平八」の名が見える)。つまり、「平八」の先の住人が「仁左衛門」であり、普通に考えれば「仁左衛門」と「平八」は血筋で繋がっているとみられる(断定はできない)。
 そうとあれば、万治年間の「仁左衛門」は「行心」とも考えられる。この頃は通名を使用(仁左衛門の名が数代続く)し、一つの町や村で通名が重なることほぼないと見られる。結果、万治年間中藪の「仁左衛門」家が、天明5年(1785)町絵図の「仁左衛門」家であると思われる(さらなる確認作業が必要であろう)。
中藪町の納屋が上魚屋町へ入った「仁左衛門」家がわが家であり、城下町へ入る保証人(伝手)となったのが松原家でないか(確証がない)。延享3年(1746)の結審以降に上魚屋町へ転居したとして、111年後の安政4年(1857)には「有数の商人になっている」。確信に近いものとして、「平八」の一つ前の世代で、すでに何らかの力をもっていたことと、城下町や村の有力者との婚姻もあげられるだろう。

 我が家の始祖「行心」は、元禄4年(1691年)1月没するから、没年66才とすると誕生年は1625年頃ではないだろうか。五郎兵衛の孫・権兵衛(万治年間で権兵衛は55,57才、権兵衛は1602,3年誕生)が親として、その子が『万治(1658~1660年)年中』には33,35歳となり、男の働き盛りで一致するようだ。そうなると、年齢的には「行心」が初代「仁左衛門」になるであろうか(権兵衛55,57才を我家の初代としてもまだ可能性あるが)。さらに不思議な一致というか、「仁左衛門」の次の住人の「平八」が、2人(同じ家と思われる所に1827年平八の二男、(二男亡き後)1834年平八の五男)の息子を中藪へ養子として出しているところ。我家は中藪に縁者や親しい知人がいて繋がりあるようだ。
 (仮に)権兵衛が父五郎四郎のもと(京都)を離れるのが元和10年(1624)12月以降として、祖父五郎兵衛は急ぎ孫に(元和11年に)妻をもらい受ける。その子が「行心」とすれば辻褄が合う。「行心」没年66才で誕生年1625年は、憶測で実に勝手な話だが。

 ところで、松原家系図の「松原五郎右衛門」と「五郎兵衛*」が同一人物であるという。そうすると、養子五郎四郎と五郎兵衛*の先妻の子が義兄弟になり、権兵衛にとって五郎兵衛*の先妻の子が「伯父さん」ということになる。このことが、松原五郎兵衛*とその孫を、松原五郎兵衛*の故郷松原・米原に戻し、我が家と松原家をさらに関係づけた、と思わせる。上魚屋町で、松原家と佐々家が上魚屋町辺りで共存している状態は、どうしたものか。あり得ることだ。松原五郎兵衛*の養子五郎四郎、その子の権兵衛は「我が家の祖先」となってしまうのであるが~。権兵衛の子がちょうど我が家の始祖「行心」(元禄4年(1691年)1月没)になり、庶民になった初代に相当することになる、か。(★世に問うところで、さらなる調査が必要!)

※1 並絵図はどの町にもあるようで、天明年代から40年ほどの周期で描かれ「お上」に提出したようだ。
※2 城下町とは城の外堀より中の町と外堀の外でその周辺をさすようだ。大概が門扉で隔てられる。それが内町と外町の違いとなる
※3 魚の問屋のことを、納(な)屋というらしい。問屋には、舟問屋とか宿場に問屋(といや)があるから混同を避けたのだろう。当時の問屋(といや)は今でいう問屋(とんや)ではない。城下町の内町では広田七右衛門家が納屋であった。他の国や琵琶記で獲れる魚はいったんすべて納屋七右衛門店に集荷された。 ところで、
 延享4年(1747)3月5日の「長曽根村魚市は雑魚に限るべしとの裁許書が下される」
  本文(省略)
       (加藤)        (柏原)
 (差出人) 加    彦兵衛 (印) 、柏    忠右衛門 (印)
 (宛先人) 上魚屋町 納屋、肴屋、町役人共
       下魚屋町 納屋、肴屋、町役人共、かたへ
 「奥野家保管文章」(『新彦史』7-523)
 上魚屋町にも「納屋」の文言がみえる。年寄り、惣代、横目の名を並べてもよいところ。「納屋」をあげる必要があったようだ。上魚屋町納屋は(中藪から転居したばかりの)仁左衛門家でないか(下魚屋町納屋は七右衛門であろう)。
※4 元文元年(1736年)11月には19ヵ村の浸水被害があった。これも城内へ入りたい理由になるだろう。

□繋がりの強さ
  権兵衛--?--我家、仁左衛門--??--我家、権兵衛--???--仁左衛門
  権兵衛--?--我家、松 原 家 --?-- 我家、権兵衛--?--松原家
 (上記は「?」が多いほど検討課題が多い)

(松原家を深掘りすれば)
 ”我が家の出自”もさることながら、旧領主一族、松原本家との関係はいかに。この松原家を深掘りすれば、我が家も明らかになると思われる。
 松原弥兵衛が高宮氏に与し、1570年の姉川の戦いで討ち死にしていることから、高宮村に現存する松原姓はこの系統と思われる。彦根藩士の松原庄左衛門家はこの高宮から入った(帰ってきた)とも考えられる。それと、米原の松原家が本来の松原の地から米原に退いていることを考えると、井伊家入封にゅうほうの1600年初頭に、旧領主松原一族は松原の地を「引き払った」のでないか。つまり、彦根城下町に入ったものと米原に退いたもの、そして(松原・高宮(?)より)彦根藩士となったものの三通りだろう。従って、1619~25年(※大網仕にてう(魚)をひくの松原次郎右衛門)以降には松原村に主だった松原一族はいないのかも。(※城下町に在住しているか[私見])
 で、藩士の松原庄左衛門家については、ほぼ同じ時期に、藩士の「松原庄衛門」と町人の「松原庄右衛門(庄右衛門)」が現れているから、庄左衛門家から庄右衛門家が分かれたと窺える。その当時(1720年頃)の松原庄衛門家は40俵4人から50俵4人扶持と禄高も低く、やむなく二男・三男が商家に入った。「左」と「右」の一字違いで兄弟を表しているというのはよくある話し。その後、時代が下り「松原庄右衛門家」が栄え「五郎兵衛」を名乗るのもそう悪い話しではない。
 上魚屋町の「松原五郎兵衛」は明治初期に大坂へ移住したようで、わからなくなってしまった。
 以上、甚だ少ない資料で判断に危なっかしいところありますが。

■裏に離座敷取建 幕末に魚屋が客に酒肴をだす
(上層町人が裏に座敷を作り接待)
 城下町の生活も、年を経るにつれ著しく向上し、上魚屋町と下魚屋町そのほかの町で、特に町方上層町人の中に『両魚屋町並外肴屋共之内裏離座敷取建、客を請、酒肴為取囃、中ニハ三味線抔相用イ又ハ女子共ニ為舞候類も有之哉ニ相聞江当御時節柄を不相弁、殊ニ右料理茶屋躰之義者兼而不相成旨毎度触示シ置候義ヲ不相守、以之外不埒至極之事ニ候以来客ヲ請酒肴為取噺料理茶屋躰之義有之旨相聞候ハハ、無容赦其科申付、離座敷者取払闕所ニ可申付候 (伝馬町文書) 元治元年(1864)六月二十九日』(彦根市史』中冊 P505)(裏に離座敷を取り立て、客を請(こ)い酒肴を取成す噺(はなし)、中には三味線等を相用い、または女子供に舞わせる類い有るやに相聞く、、、(藩の対応は)『離座敷を取払い闕所を申しつける』『極めて不埒である』『容赦はしない』)とのこと。伝馬町文書に残された文章だが各町に通達されたと思われる。
 時の流れで下級武士や町人に情報交換の場を提供した(料理茶屋は出会い茶屋ではない)。この頃は、まだ”色ごとの場”を提供するまでには行っていないようだ(★この頃、彦根城下には時代劇に登場するような場面がないと思われる)がどうだろうか(※参照:宝永元年(1704年)6月の項目)。しかし、この手入れで財産没収や罰金刑がかなり出たような気がする。そのような史料はなかなか見られないが。闕所けっしょの刑とは、財産没収や追放まである。この手入れの後、元治元年9月の上魚屋町の家並図には、多くの屋敷で蔵か離座敷かも分からないもの(変更の形跡)が多く見受けられる。この頃の町家並図は、勤王の志士まで探索の必要もあり、間取りまで詳しく記されている。
 「取り締まり」にて料理茶屋の多くは、本来の魚屋に戻るか、規制の対象とならないような料理茶屋を営むか、になると思う。この当時、江戸時代を通じて、彦根領内で郭や料亭の開業を禁止していた。もっとも彦根藩の飛び領地の佐野(栃木県)には遊郭があったが、これも直弼時代に遊女廃止を断行させている。『彦根いまむかし』P82
 彦根においては、江戸・京都・大坂をはじめ他国の繁華な町などにおけるような公認の傾城町は見られなかった。だから、領内の者の中には京都あたりの遊郭に出入りする者もあったと思われ、また領内の女を祇園や二条新地(二条通鴨川東)へ売るような者さえ現れた。

▼元治(1864-1865)頃でも、彦根藩領内では、少なくとも公然とは郭や料亭を認めなかったから、上下魚屋町やその他の城下町では、料理茶屋はまだ飲食が中心のはず。
 「裏に離座敷取建て云々」、取締まる方の言い分(彦根藩は徳川譜代筆頭の立ち位置で、いかがわしく不埒)、と聞こえる。当時の不埒(いかがわしい、、勤王志士・浪士)の輩は料亭で密会をしていたのが普通。また、いろんな所で「不埒ふらち」と云う言葉を使用している。「藩の命にそぐわない」ほどと考えて良いのではないか。
 食い物屋は、めし屋 → 料理屋 → 料理茶屋 と様変わりすると考えてもよいのではないか。三味線や・女子に舞わせる、その店のお抱えのものがいたり、客の要望で外から派遣するのが「料理茶屋」だろう。「そういうのは一切ない、派遣の紹介もお断り」と健全さを示すのが「料理屋」でないだろうか。この派遣で、もっぱらナニを紹介すると「私娼」となり、お役人の手入れが入る。主(あるじ)のちょっとした差配で、店は大きく様変わりし、名を汚すことになる。

(「町屋」へ足繁く通うお侍さんも)
 ところで、文政12年(1829)退身のお侍さんが、『先年不埒之儀有之退身仰付候ニ付相慎可申処、又候町家之者与申合卑劣之取計致し、重々不埒至極ニ思召、禁足為致置候様親類共江被仰付候』 (先年不埒に付き退身したのに、又町家の者と申し合わせ卑劣な取り計らいを致し、重々不埒、、禁足致すようにと親類どもへ仰せられる)とあり、禁足の処分を受けたと。
 この某さんは、遡り『寛政10年(1798)12月23日、、不埒之筋相聞江、依之退身、』 (不埒と筋と聞き及び、これ依り退身に)とあるのだが。
 また、弘化4年(1847)11月9日には、『娘ニ三味線専為致懇意之者宅ニ而茂為弾、猶(尚)町家之者江茂為教、身持不宜者打集候趣相聞、兼而町々老分之向江、、、不埒至極ニ付、急度指扣被仰付候』  (娘に三味線を専ら致せしは懇意の宅にも弾く、尚町家へ教える為にも、身持ち宜しくないもの打ち集うと聞く、また町々の老分へ向う、、極めて不埒につき、必ず差控え仰せつけれ候)というのがあった。
 某さんはよほど「町屋」へ足繁く通う「ご執心のところ」があり、上記の「町方上層町人の中に、、」と符合するところがあるようで、身内的なところがあると考えると納得いきます。問題の某さんは「謹慎」で済み、藩主の一周忌に「大赦」で墓参御免、3年後には「此度格別之御憐愍愍を以願之通近辺歩行御免」してもらっています。『彦根藩侍中由緒帳』
 町方上層町人にとって、良く言えば、上記の某さんに商売上の「知恵を頂いた」と考えればよいのかもわかりません。

※ 宝永元年(1704年)6月、【御法度並風俗ニ付御指示留帳】(彦根藩老中、躍(おどり)・相撲・花火を禁じるとともに風俗について指示する)兼日御法度之通、躍・相撲・花火等堅ク可致停止候、かふき(歌舞伎)子共・遊女・博奕打之族並小歌・狂言・浄瑠璃之遊人等隠置申間敷候、並衆道事、門立用事無之ニ夜あるきてうちん(提灯)不埒持、ふら付歩行不行儀之仕形毛頭仕ル間敷候、、『新彦史6巻』P815

■城下町の風景
(町屋の役人)
 さて、『彦根城下有力商人とその後』に、我が家は屋号と「平八」の名で記載されています。「清八」の可能性もあるようです。幼名が「清八」なのか、別の場所でその名を名乗っていたかわかりません。その記録では、「町年寄」「惣代」「横目」「地払い役」など、藩が認める役人でしか苗字を名乗っていません。その他に名乗れるのは、藩に特別に金銭面で貢献した「一本紙」という家があります。ですから、上魚屋町の場合が町内に88軒あったとしても苗字を名乗れるのは、「町年寄」2、「横目」1、「一本紙」1で、4軒ほどです。これを「苗字が公称可能」な家といいます。役人から外れると苗字を公称できません。これに対して、「自称する」ことは可能でした。つまりは墓石に刻むなど個人的な使用は可能でした。
 百姓や町人が苗字がないというのは誤りなのです。明治初期に小学校が多数開かれますが、その教員の多くは元下級武士であるからそのところの事情がわからなく、「百姓や町人が苗字がない」としたものと考えます。そのところをもう少し述べます。明治3年(1870)9月に平民苗字許可令ものができますが、結果的には「公称できたもの」だけが苗字があるようになっていた(お上の言葉が下々まで徹底できなかった?)か、課税・徴兵のことを考え申し出なかったかと思えます。ともかく法令を出しても苗字を付けることが徹底せず、明治4年(1871)4月に戸籍法(壬申戸籍)発布を出しても、まだまだ徹底しなかったようです。その頃の戸籍が「壬申戸籍」(明治5年)です。結局、明治8年(1875)2月に「平民苗字必称義務令」にて、すべての国民に苗字を名乗ることを義務付けました。制度的に「公称できるできない」としたのは、江戸期の実質80年ほどの間だけです。このこと本文の『覚え書き』で少し述べています(私は歴史家ではないのですが、この情報は間違っていないと思います。結構、「教育上、間違った歴史を教えている(本人にその気がなくても)、と思うところがあります」)。

(年寄と五人組帳)
 農村における庄屋が、町屋における年寄(町年寄)です。どの町内も幕末まで、特定の家が「年寄」を代々引き継いでいます(1851年以降当番制の年寄になる)。よく似たものに町代、丁代または「惣代」というのがありますが、こちらは町民の総意にもとづく代表者というものです。「年寄」は'古参'や'名誉'という部分が加わり、明らかにお殿様から任命された役人なのです。上魚屋町の場合はその内の一人が松原家です。
 これは農村の庄屋でも同じ仕事ですが、藩からのお「達し」があると、その「達し」を皆の前で読み聞かせ、「五人組帳」に承諾の連名捺印を取る、というものがあります。上からの命令を下へ周知徹底させるというものです。
 その「五人組帳」には、幕末まで連綿と引き継がれてきた「関ヶ原御陣大坂御陣之刻、御敵方一手之大将分並物頭、其□仕出頭人之子孫、男女共壱人も無御座候事」(安政4年 川原町「切支丹御改五人組帳」)の記載があります。つまり、藩の意向「関ヶ原陣や大坂陣の敵方の大将分並びに物頭等の子孫を、男女共1人も」また「不審な輩(やから)」は領内に入れないということです。
 住民の側では「いらぬ詮議を受けぬよう」に、自分の出自に関しても気を抜けません。安易に出自を伝承すると子供の口から漏れ出る恐れもあります。

(城下町で繁華な場所はあったか)
 江戸時代というのは、藩主にとっても領民にとっても気を抜けない社会です。城下町に居住でるのも「殿様のお陰」と考えます。領民(住民)の出自は1660年代より寺に届けでます(寺請制度)。住民が転居・婚姻をするとき、お伊勢参りをするときなど、檀家のお寺に証(寺請証文)を出してもらう必要があります(または年寄でしたか)。それがため、お寺の機嫌を損なえないように日頃からの付き合い、お布施を憚ることはできません。
 また町内には(農村にも)、隣近所同士でくくられる五人組制度があります。「よからぬ輩を入れぬよう泊めぬよう、連帯して責任を負うよう」と、庶民を規制するものです。町役人や五人組頭が住民を縛る限りはまた信頼に応える必要も出てきます。城下町においても、農村のように、身元がわからぬものが入り込む余地はありません。
 街道の宿場町を藩内に取り込んだ伝馬町においても、客を泊める旅籠は許可されていなく、客を泊めるにも基本は一泊で、しかも事前に藩に許可をもらわなければなりません。ともかく、「身元のわからぬ輩は城下町へ入れない」(請人なき者は領内に入れない)に徹しています。庶民が通行可能な中堀と外堀にも通用門が有り、町屋から主とした武家の居住町への通過もままならず許可書が必要です。町と町の境界で、通用口には木戸があり、木戸番がいて夜間には閉ざすようになっています。
 このような監視社会の中で、はたして時代劇の「飯屋・料亭の賑わい」が、彦根の城下町にもあったのでしょうか。あの銭形平次に出てくる「飯屋・料亭の賑わい」は「大江戸」特有のものなのでしょうか。

 ▷余談(城下町のようす)元禄八年(1695年)の記載(四十九町手の部分欠けている)によると、米屋110、油屋59、塩屋56、八百屋14、魚屋76、茶屋27、糀屋22、めし屋4、酒屋34、味噌屋22、醤油屋3、酢屋8、豆腐屋29、菓子屋36 などがあり、その外に町料理人という者が3人いる。
 幕末になると食料品店の種類も増加し、例えば安政四年(1857年)の「川原町本家借家五人組帳」によると 元禄八年当時になかった業種である肴荷・塩肴・干物・昆布・餅・蕎麦屋などが見えている。武士を中心とする城下の消費者の食生活の需要に応じたのである。、、数々の名物や山海の珍味も少なくない。『彦史』中P448
◎しかし、この程度で、「大江戸の賑わい」までいかなくても、彦根城下の賑わいあったのでしょうか。 余談終わり△

 ただ、「裏に離座敷を取り立て、客を請い酒肴、、中には三味線等を相用い、、云々」を藩命において禁止する。また「闕所」という文言も見えるので、それなりの賑わいはあったのでしょう。どうもこの彦根藩というのは、『譜代筆頭である』という重しがあるようで、率先して「優等生」として振る舞わなければならない、といったところがあります。
 史料には見えないのですが、「十手持ちが」闊歩する町風景があったのでしょう。「十手持ち」が彦根城下では「町廻り」といわれる人が幾分か近いかと思います。あの派手な・粋な岡っ引(銭形平次)は時代劇でつくられたものでしょうが。実際、博打・隠子宿といった月並みな事件もあるので、時代劇に近いようなことが起こっているようです。彦根城下の、赤裸々な庶民の暮らしは、四十九町の『田中藤助の日記』(享保16年から明和5年まで(1731-1768)、彦根市図書館保管)が世に出るまで待つより他ないでしょう(田中藤助は松原の米蔵の蔵手代でした)。
 城下町の空気がどのようなものか、お分かりになって、また我が家の話しに戻ります。

(出自を探す)
 彦根城下の我が家は「古い家筋」との記載が残されているのですが、その出自の解明には当時の町屋の記録が残るところ、あるいは御用商人ですから藩の片隅の記録を探索するほかありません。藩の記録では未公開の部分があり公開されなくては探索できません。取りあえずの探索は「奥野家保管文書」(滋賀大学経済学部付属史料館に寄贈)でしょうか。
 これまで上記の史料館に3度通いましたが、なにしろ古文書なので手強いです。もちろん、古文書について行けるわけありません。滋賀大付属史料館にはご親切な司書さんがおられて、こちらの要望する史料を気楽に出していただきました。解読にも少し手伝っていただいたり写真を撮らせていただいたりしました。もう退官されているでしょう。
 『彦根城下有力商人とその後』を発見したのは、昭和62年(1987)8月?日、彦根市図書館でのことです。何しろ「もと家老」であった話しを親族から何度も聞かされていましたから、「商人」の範疇に高祖父の名前を発見し、愕然としました。「御用商人」というのも聞かされていましたが、子供心に「もと家老」が頭に占有し定着していたのです。このときを契機に「我が家」のことをより具体的に調べ始めます。どうも、出自を調べるというのは老人の域に達した人、時間的な余裕がある人がすることのようです。
 出自というものは、本人に関心が無かったり、親子でそりが合わなかったりすると、埋没してわからなくなってゆきます。

 もう後がないことを考えると、公表による見返りを考え、親族のものに叱られない程度に■?を明かす必要があると。明かすのはすべて物故者です(「返り」は1件ありました)。ここも点滅信号のように気分次第で以下の文章を隠す場合があります。

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