・文明の起源(私の学習道場) 検索:

1.世界の文明のおこり
 ・四大文明 ・日本は世界最古の文明か
2.日本人の起源
 ・縄文人 人骨の研究手法 ・縄文人骨発掘と核DNA解析
 ・Y染色体による日本人の起源 ・結論を先に

3.文明のおこりから年表の先頭■ Topics
 200000年前 旧石器 アフリカで現生人類が誕生
 125000年前 旧石器 人類が火をおこす技術を獲得
  38000年前 旧石器 日本列島に縄文人
  35000年前 旧石器 岩宿の旧石器遺跡(群馬)
  22000年前 旧石器 港川人(沖縄)
  18000年前 旧石器 浜北人(静岡)
  16500年前 縄 文 大平山元遺跡 世界最古の弓矢(青森)
  9000年前 縄 文 垣ノ島遺跡 世界最古の漆塗り(北海道)
  7000年前 縄 文 糸魚川ヒスイの産地 世界最古の加工文化(新潟)
  6000年前 縄 文 黒曜石の産地 星ヶ塔黒曜石原産地遺跡(長野)
  6000年前 縄 文 陸稲栽培の証拠 朝寝鼻貝塚(岡山)
  5900年前 縄 文 三内丸山遺跡 大型掘立柱建物(青森)
  4000年前 縄 文 三貫地貝塚 100体超人骨 火焔型土器(福島)
  4000年前 縄 文 水銀朱の生産 加茂宮ノ前遺跡(*)(徳島)
  2700年前 縄 文 水稲栽培の証拠 板付・菜畑遺跡(福岡、佐賀)
   前660年 縄 文 神武天皇即位『記紀』による
  2350年前 縄 文 日本最古の鉄器 石崎曲り田遺跡 (福岡)
  2300年前 弥 生 吉野ヶ里遺跡 大規模な環壕集落 (佐賀)
  2250年前 弥 生 田植え 百間川遺跡 (岡山)
  2000年前 弥 生 鍛冶炉の鉄器製作 加茂宮ノ前遺跡(*)(徳島)
   150年   弥 生 倭国大乱
   2世紀末~4世紀前半 三輪山裾野に広がる 纏向遺跡
   239年   弥 生 卑弥呼が魏の皇帝に使いを送る
   270年   弥 生 空白の150年と倭の五王
   285年   古 墳 弓月君の民の渡来
   607年   飛 鳥 厩戸王(聖徳太子)の政権掌握
   701年   藤 原 律令制施行 国名:倭国→日本
   713年   平 城 各国に「地誌」(風土記)の作成を命じる
   720年   平 城 『日本書紀』の完成


1.世界の文明のおこり
【世界の四大文明】
 世界の文明のおこりが、「大河のある四大文明からはじまった」としたのは、どうも戦後の日本の高等学校教科書や、中国の梁啓超(1873ー1929年)に、由来があるようです。梁啓超は、清朝末期に北京で立憲君主制としての革命に加わり、その後日本へ亡命。日本語を通じて西欧の思想を積極的に吸収したジャーナリストであり、後には政治家でもありました。従って、梁啓超は学者ではなく、四大文明を説く説得力はないようです。
 この四大文明を、世界史の冒頭でとりあげ延々と展開しているのは、どうやら日本と中国の教育界だけのようです。■この四つの文明に絞り展開するのは、確かにわかりやすい部分があります。また、「なぜ中国でも」という部分は、日本の明治維新以降の発展を考えれば、「日本でやっていることが中国へ逆輸入した」と考えても不思議ではないです。
 いまの世界で、その数は未確定なもので、「四つ以上」を支持しているようです。その数は、複数の箇所が、お互いがさほど影響されずに単独で興ってきたところをさすと思えるのです。
 米国政治学者(歴史学者でない)のサムエル・ハンチントンは、彼の著書『文明の衝突』で、西欧、東正教会、ラテンアメリカ、ヒンドゥー、アフリカ、イスラム、中華、日本文明の「八大文明」としています。彼の提示する図を見ると、日本文明を中国のそれから枝分かれしているところ、日本の起源が中華にあることになり、「文明のおこり」に少し意味合いが違うように思えます。
 これまでの、日本の教育界が四大文明にこだわったこと、このことが我々の世界観にどのような影響を与えたか、どういう「流れ」や「思惑・意図」でそうなったか、考える必要があります。

【「四大文明」という語句をつくったのは】
 実は、日本で「四大文明」という語句をつくったのが考古学者で東京大学名誉教授・江上波夫氏(自分の造語だと主張)によるもので、初出が確認できるのは、彼の携わった、昭和27年(1952)発行の山川出版社の教科書『再訂世界史』だとされています(wiki)。
 身のまわりの高等学校教科書・参考書を見てゆくと、昭和49年発行の山川「新編世界史」では「四大文明」の文言はなく、その箇所でマヤ・アステカとインカが地図のみで追加され、この2つは後の部分でその文明の内容説明をしています。六大文明の立場だと思います。昭和40年発行、数研出版の参考書は高らかに「四大文明」を取りあげています。昭和46年発行の山川「詳説日本史」には、もちろん世界史でないから四大文明の記載はありませんが、縄文文化は約1万年前からはじまったとする記述があります。庶民に普及するのは、やはりそのときの教科書であり参考書になってきます。

【最近入手した教科書・参考書】
 最近入手した令和5年発行の山川「詳説日本史」では、「この(縄文のこと)文化は約1万3000年前から、水稲農耕をともなう弥生時代が始まるまで約2500年前までの期間にわたった(縄文時代)」とあります。そのページの枠内説明に、日本で用いられている年輪年代法と炭素14年代法の説明があります。そのなかで、欧米では広く用いられている較正炭素年代法によると、「縄文時代の始まりは約1万6500年前、弥生時代のそれは約2800年前になる」とあります。なぜ初めから欧米の較正炭素年代法を用いないのか不思議に思います。
 それも、日本国の教科書検定に定められている『近隣諸国条項』、近隣アジア諸国間の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること、があるためのようです。「私どもは、日本にも縄文文明・文化があり早くから栄えている事実が判明してきており、もうその事実を国民は認識してもよいのではないかと思うのですが。近隣の国とは他でもなく機会あれば「反日」を唱える国々です。歴史もそのときの政治体制の思惑で微妙に曲げられたりするようです。

【文明のおこりといえるのは】
 これまで、文明のおこりといえるのは、(欧米の考えによると)「食糧生産の開始」と「余剰生産物の備蓄の開始」が必要で、環境に左右されない定住生活に入るのが「文明」に必要であり、それも、農耕や牧畜が前提としておこなわれているものでした。その点、日本列島の縄文遺跡では、農耕や牧畜をしていたものでないし、とても「文明」の仲間入りができないものでした。
 ところが、縄文遺跡が、良好な環境のもと、 1万年以上にわたり狩猟・採集・漁労を生業(なりわい)として定住生活をしてきた事実を勘案し、これも「文明のおこりの一つ」(世界最古の文明か)と認めざるおえなくなった、というのが事実でしょう。
 「縄文文化の研究」は、日本語に熟達していない欧米での研究が、日本を凌ぐほどに進んでいるといいます。そうであればこそ、縄文文明を『世界の文明のおこりに加える動き』(世界遺産への承認など)、があると考えるのが現状のようです。現在(令和5年)、日本の縄文遺跡の「世界遺産登録」は25件、文化遺産としては20件目にのぼるようです(私にはその違いがいまいち把握できません)。その中でも北海道、青森県が多いようです。

【歴史も変わる、修正される】
 新しい解釈、その時の最新科学を取り入れることで「歴史も変わる、修正される」ということです。数と量ではからなければ、歴史は科学よりも厄介な学問です。「どこで飯を食らう」か、どの期間・どの場所で・どれだけをとりあえず特定しなければ、その歴史上の人物の「考え方や位置情報」がつかめず、歴史に「ずれ幅」が拡大します。人の存在位置が雲のような「存在確率」でしかわからないとすれば、今後の文明社会の方向性について『量子力学と歴史考』なる書籍が誕生してもおかしくありませんね。

【日本は世界最古の文明か】
 [日本に旧石器時代の遺跡]
・昭和21年(1946)頃、考古学者であった相沢忠洋によって岩宿の旧石器遺跡が発見された。約35,000~25,000年前の遺跡である。打製石斧2点の他、掻器類、2次加工のある刃器状剥片、石核があり、石材には主に頁岩である。これ以降、日本全国において旧石器時代の遺跡の発見が相次ぐことになります。
 世界最古の、縄文土器や漆塗り製品をつくり、ヒスイ加工技術や弓矢の使用などがある。さらには、黒曜石や水銀朱顔料の一大産地・生産拠点としても最古級といえるなど、「日本は世界最古の文明か」と思わせるところがあるものの、まだまだ異議があるところで、さらなる研究成果を待つ必要があるようです。


2.日本人の起源
【縄文人 人骨の研究手法】
◎これまでの人骨の比較では十分なことがわかりません。これからの方法は遺伝子DNAを解析する分子人類学の手法がベストなようです。その方法も、ミトコンドリアDNA、Y染色体、核DNAの解析と分かれているようです。現在では情報量のより多い、核DNAの解析が主流のようです。
 「ミトコンドリアDNA」は、細胞の中にある細胞小器官ミトコンドリアのDNAの研究で、この方法で母系のルーツを探れるそうです。
 「Y染色体」とは性染色体の1本を研究します。細胞の核には、XXの22対(合計44本)の常染色体の他、1対の性染色体(2本)があります。女性の場合、性染色体がXXの2本で、男性はXYの2本です。『X染色体は父・母親由来のもの』に対して、『Y染色体は父親由来のもの』で代々父親から引き継がれてゆき、雄を決定づけます。「Y染色体」を研究すると、父系のルーツを探れます。
 「核DNA」は、核の中23対(合計46本)ある染色体全部が対象で、これを全部解析します。父系・母系のルーツを探れます。ただ、この遺伝情報はミトコンドリアDNAの情報量の約20万倍を調べることになります。

【縄文人骨発掘と核DNA解析】
・福島県の三貫地さんがんじ貝塚の人骨が、60年以上前に発掘され(昭和27年(1952))、100体を超える人骨が出土しました。その全容が昭和63年(1988)に『三貫地貝塚』(福島県立博物館出版)として発表され、それは約3000年前の縄文時代後期の遺跡でありました。
 その人骨の核DNAの解析は、東大総合研究博物館所蔵(館長 諏訪元(げん)教授)の男女の頭骨から奥歯(大臼歯だいきゅうし)を1本ずつを取り出し、ドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出(解析担当:神澤さん)し、それを、コンピューター駆使して、さまざまな人類集団のDNAと比較・分析(国立遺伝学研究所の斎藤成也教授グループ)されました。その結果、縄文人から受け継いだ遺伝情報は、ヤマト人が12%でした(アイヌは50%、沖縄人は20%である)。
・斎藤成也教授は語る(2017年12月15日の読売新聞)
①20万年前にアフリカで誕生した現生人類は、7万~8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。
②縄文人の祖先が分岐したのは、2万~4万年前の間ではないか。
③日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代。
④縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。
⑤日本列島への渡来の波。第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない。


【Y染色体による日本人の起源】
・父系のルーツを辿ることができるY染色体に、特異なD系統というものが「アイヌ人」「琉球民族」「本土日本人(ヤマト人)」にあり、一方、朝鮮人や中国人(漢民族)には全くないらしい。チベット人や東南アジア人も比較的近いD系統の遺伝子をもちますが、上記の3集団がD1a2aであるのに対し、違う型D1a1a のDだといいます。
 「アイヌ人」「琉球民族」「本土日本人(ヤマト人)」 → D1a2a D系統
          チベット人や東南アジア人 → D1a1a E系統
 日本人でD系統をもつ人は、ほぼ100%がD1a2aです。このD1a2aやD1a1a(さらにはE系統)には、特徴的な変異「YAP」(ヤップ)(とよばれる挿入部分(300塩基))があります。
 イスラエルの失われた(今はそこに居住しない)12部族のうちの、エフライムとマナセの2部族だけがD系統で日本人と同じくD1a2aをもち、他の10部族はYAPをもちますがE系統です。YAPをもつD系統とE系統はいわば親戚といいます。(★チベット近辺の民が、アミシャブが認めている「マナセ族の末裔」である、と。また、マナセ族、エフライム族はヨセフ族から分かれたという。
『アミシャ ーブ (Amishav)』:1975年に設立されたイスラエルの失われた10支族に関する調査機関。)アミシャブともいう。

【ハプログループ】染色体上のDNA配列のグループ分け
・現代ユダヤ人のY染色体のハプログループ(系統)
  20-30%E系統(YAP)/ 約30% J系統/ 20-30% R系統/ 残り その他
・日本人のY染色体のハプログループ(系統)
  約40% D系統(YAP)/ 約50% O系統(アジア系多い)/残り10% C,N,Q系統,他
・それでは、日本人の40%がどのようにしてその「YAP」をもつに到ったか。日本列島へは3度に渡り渡来人がやってきました。
1度目は、縄文人の渡来で、彼らは中東から比較的早い時期にやって来ます。
2度目は、北イスラエルのいわゆる失われた10支族が日本へやって来ます。その痕跡が、シルクロード各地に伝説として残っていると。
3度目は、南イスラエルの2支族が先の北イスラエルの10部族を追いやって来ます。
キリストの時代、エルサレムには南イスラエル2支族、そのユダヤ人しか住んでいません。原始キリスト教徒であるネストリウス派キリスト教徒のユダヤ人である秦氏は、中国の西にあった弓月の国(キルギス・カザフスタン辺り)を建国し(さらに『秦を建国(始皇帝はユダヤ人)』しては、少し議論の余地があるようです)、先の10部族を追い、この日本で出会い再会したのだといいます。
(以上、出典わからなくなりました)

◎正直言いまして、D1a1a の遺伝子型や、YAPがある変異を示すといいますが、私には門外漢で、その詳細がわからず限界を感じます。これ以上深入りせぬようにと思います。日本人にE系統の遺伝子の方がもう少しいてもよいのではと思いますが。
・「日本人の40%が特異なD系統」はY染色体で調べた値である。日本はこれまでに他国からの侵攻・占領を受けることがなかったから、男女の比率1対1と考えてよく、母系を調べるミトコンドリアDNA研究でも40%に近い値が出るといわれている。
・「秦氏の渡来」によって「日本人の40%が特異なD系統」になったとしても、"その渡来の規模"と"経過年月"を考えると、さほど間違いではなさそうと思います。

【ミトコンドリアDNAによる日本人の起源】
ミトコンドリアDNAは稀に男性のDNAが混じることがあるようで、他の資料と共に考察する必要があるとのこと、省略します。

▼結論を先に
アフリカで発生した人類の祖先の早い時期に、より幹に近い部分で分かれた「縄文人」が、日本列島まで行き着き、半島へも逆流した。その証拠、弥生時代の半島人や 弥生時代の半島系渡来人も先住の「縄文人」の末裔であり、その遺伝子を持っている。それなら日本人の遺伝子と共通する部分があるのでないかと思われ、先述の「日本人が持つ特異なD系統の遺伝子が朝鮮人や中国人(漢民族)には全くない」と矛盾するように思える。実は、この部分については、上記の朝鮮人や中国人については、北方からの侵入者・征服者によるY染色体に置き換わっている、と考えられる。このころの侵入者・征服者は、支配地域の男性を殺し生け捕りにし、女性は配偶者とする、のが普通だ。
・(さらに、Y染色体で判断すると)「半島人の女性は日本人(と同じ祖先の縄文人)に近いが、男性の遺伝子は日本人のものとほど遠く、大陸系のものに近い」を耳にするも、矛盾はなく、大陸系の男性との交雑が多いことによる。さらには、中東から来た秦氏が、日本へ渡来する直前まで百済国に居座ったようだが、朝鮮民族との交雑はほとんどなかったと考えれば十分説明が付く。
・話は遺伝子から離れるが、近年に明らかになったもので、日本独自と言われてきた前方後円墳が、朝鮮半島南部にも存在する。これはヤマト王権に関係する遺跡とされるようだが、さらなる研究成果が待たれる。
・歴史を捏造する国にとっては、触れて欲しくない箇所がこれから続々?と出てくるようです。

[現代日本人]
弥生人の遺伝子分布は広く、渡来弥生人が縄文人を駆逐し、置換するように列島全域に広まった、という説は根拠のない過去のもの。 縄文人を祖先として、外部からの侵略・征服といった大きな変化圧力もなく、渡来人たちを受け入れて ゆるやかに(日本の遺伝子は)現在に至っており、(遺伝子的には)東アジア集団とは隔たった位置にいる。(2019年7月『弥生人DNAで明らかになった日本人と 半島人の起源ー朝鮮半島に渡った縄文人ー』国立科学博物館人類研究部研究グループ長 篠田謙一氏)


3.文明のおこりから 年表
・縄文時代区分(遺跡の相次ぐ発見により年代はずれてくる)
草創期早期前期中期後期晩期
12000年前~9000年前~6000年前~5000年前~4000年前~3000年前~2200年前
B.C.10千~7千年7千~4千年4千~3千年3千~2千年2千~1千年1千~200年
日本考古学小辞典     
   
16500年前~11100年前~9000年前~7000年前~5700年前~3300年前~2400年前
B.C.14.5千~9.1千年9.1千~5千年5千~3.7千年3.7千~2.6千年2.6千~1.3千年1.3千~400年
Underhill & Habu 2006     

【文明のおこり 年表】
kakusan 20万年前、アフリカで現生人類が誕生
*人類の歴史は今からおよそ700万年前、地質時代区分でいう新第三紀の終わり頃に始まるが、猿人・原人・旧人の段階を経て、現代人と同じ新人(現生人類、ホモ・サピエンスともいう)が出現するのは約20万年前と考えられる。『詳説 日本史』(2023年発行)
8万~7万年前、アフリカを離れ現生人類が各地へ広がる
4万~2万年前、縄文人の祖先が分岐

38000年前、日本列島に現生人類が現れる
*渡来第1波が、アフリカを離れ分岐したもの(縄文人の祖先)が日本列島へ到達した。

◎田中英道氏によれば、人類の移動は「温暖な気候」や「獲物を求めて」だけではなく、太陽が昇る所をめざすという「知的好奇心」もあったという。人類が発生したのはアフリカだが、当時のアフリカは現在のような沙漠でなく、緑に覆われていて生活には困らなかったという。そこを離れて日本列島や中・南米まで移動するのは、太陽が昇る所を探す知的好奇心があったという。
 北極に近いベーリング海峡(当時は陸続きのようだ)を経由し先へ行く道中は厳しい寒さで凍死する危険もある。それでも、その好奇心のたにも4~5人乗りで、石斧で巨木を切り倒し中をくりぬいた丸木舟を利用したりして、海峡を越え中・南米まで人類は移動している。アラスカの地では太陽が昇る所は南寄りに見え、海路陸路に関わらず極寒の地の真東へ進むのは避けるであろう。アラスカから南へ下れれば、東にロッキー山脈が立ちはだかるから、普通に南下することになる。このとき、人類は自ら火をおこす技術を獲得していて、彼らは火で調理を行い、暖を取り、獣から身を守った。
 「太陽が昇る所を探す、太陽を求めて人類はやって来た」という根拠には、日本列島に旧石器時代の遺跡が多いのもその一つだ。2010年の日本旧石器学会によると、日本旧石器時代の遺跡が1万百五十遺跡とされる。一方、朝鮮半島では旧石器時代の遺跡発掘は五十程度にとどまるという。日本の旧石器時代の遺跡は日本各地にあるものの東半分に偏る。人口の集中が日本列島に、その中でも東日本に多く見られるという。
 さて、3万8千年前に「太陽が昇る所を求めて」日本列島までやってきたものは、その後に縄文文化を築きあげ、縄文人と称される。そのものの中には、この地に満足せず陸続きの寒冷地の北へ進み、(2万3千年前以降に)陸続きのベーリング海峡を渡り、先の中南米まで進んだものもいるだろう。日本列島も、いってみれば東端であり行き着いた地であった。彼らの子孫達は縄文・弥生のいつの日か、日本列島の蝦夷地や関東地域の辺りに、日高見国(ひだかみのくに)をつくったという。まさに太陽が昇る所を見る国なのだ。この日高見国は『日本書紀』や鎌倉時代の『常陸国風土記』(現・茨城県)さらには『釈日本紀』、平安時代の『延喜式』にも見える。それで、縄文人の血筋を引く我々の内には、太陽崇拝・自然崇拝からアニミズムの精神世界に浸り、そして現在の神社信仰にも通じる部分がある。こうした底流には「太陽を求めて」があるように思われる。よって、日本の村落共同体は言わば古くから祭祀共同体であった。  『日本国史』(田中英道)より(作者に意に沿わなければゴメンナサイ)

 確かにこれまで、狩猟の対象であるナウマンゾウを追いかけて、人類が日本列島にやって来たともいわれていて、それはそれで正しいのだろう。ナウマンゾウは、肩高2.5m〜3mで現生のアジアゾウと比べやや小型、皮下脂肪が発達し食糧としては適していたようだ。ナウマンゾウは野尻湖畔など日本各地からその骨器が発見されていて、約2万年前に絶滅したとされる。
 なお、マンモスについては約4万8000年前 - 2万年前のものが、日本で13点(北海道12)の化石が確認されている

35000–25000年前、日本で初めて確証された旧石器遺跡
*昭和21年(1946)頃、考古学者であった相沢忠洋によって、群馬県みどり市にある岩宿の旧石器遺跡が発見された。打製石斧2点の他、掻器類、2次加工のある刃器状剥片、石核があり、石材には主に頁岩であった。

22000年前、沖縄島出土の港川人の人骨
◎沖縄島南部出土の港川人(約22000~20000年前沖縄に存在していたとされる人類)のほぼ全身の人骨を発見。また、沖縄市山下町で、約32000年前の8歳程度の幼児の人骨(第一洞穴遺跡 山下洞人)が発見される。港川人、次にアイヌ人は縄文人の中でもより近いとされる。

18000年前、静岡県出土の浜北人の人骨
◎旧石器時代の人骨はなかなか発見できない。これは、日本本土では酸性の土壌が多いため骨や有機物が保存されないためである。本土で確実な旧石器時代の人骨は「浜北人」(全国初の炭素14法、約1万4000年~1万8000年前、20代女性)で、静岡県浜北市の岩水寺採石場・根堅洞窟で出土している。
 同じ静岡県の、三ケ日町(現・浜松市北区)の石灰岩採石場において、頭骨片5点、寬骨(腸骨)、大腿骨など複数の成人の骨が発見された(三ヶ日人)。炭素14法により9000年前の縄文時代早期の人骨であることが判明した。なお、縄文時代からは新石器時代に入る。

【土壌が酸性に傾く】雨が多いことに関係している。雨水が大気中の二酸化炭素と反応し、炭酸水素イオンなどを生成することによる。火山の噴火による「火山灰」や上記の「石灰岩採石場」は弱アルカリをしめすので、酸性に傾くのをやわらげ人骨が残りやすい。
【炭素14法】放射性炭素年代測定法のこと。半減期約5,730年の14C( 炭素14)を使用する。自然界ではたえず14Nから放射性炭素14Cがつくられ、14Cの存在がほぼ一定(*)である。これが大気中の酸素と結合して放射性二酸化炭素となり、光合成によって動植物に取り込まれる。動植物の「死」で、外界からは隔絶され14Cが別の核種に変化していく。はじめの量から半減期の5,730年で半分の量の14Cになる。発見した古生物やその断片の14C量を測定することで動植物の存在した年代を測定する。信頼できるのは最大で約5万年前までに限られるといわれている。ただ、火山の噴火など環境の変化で(*)の値が若干ずれるので較正することになる。
 その較正した測定値は、「最新の放射性炭素年代測定法」とか「炭素14法の較正したもの」とか表現しているのであろうか。

18000年前、最終氷期おわり オホーツク海から北海道に歩いて渡れなくなる
・約20000年頃は、日本列島の北と南は大陸と陸続きであったようだ。

16500年前、世界で最も古い弓矢の使用
 つい最近、「日本の縄文時代は、今から13000年前から2300年くらい前までの、約1万年間続いた時代」といわれてきました。それが、青森県東津軽郡外ヶ浜町内の中学生が拾った(昭和46年)石器を契機に、学術調査が実施され重大な発見がなされます。その遺跡は大平山元おおだいやまもと遺跡と名付けられました(2013年、国の史跡に指定)。
 その土器に付着した炭化物を、最新の放射性炭素年代測定法で算定すると、最も古いとされるもので16,500年前の可能性があるとされました。遺跡からは石斧や石核なども発見されており、その中の石鏃(せきぞく)も世界でもっとも古いもので、世界で最も古い弓矢の使用を示すとのことです。時代区分では、16,500年前、紀元前14,500年で、旧石器時代終末から縄文時代草創期のものとされています。
 草創期に見られる土器は縄目文様がない土器です。これも広義に縄文土器(世界最古の土器は、12000年前の土器が佐世保市瀬戸越町泉福寺洞窟から出土、2002年4月現在)という。

 縄文遺跡については、北海道南部に遺跡群15と青森県北部に遺跡群7をはじめ、岩手遺跡8、秋田遺跡12、宮城遺跡16、山形遺跡6、福島遺跡6、関東地方50数カ所など多数発見されています。北方の北海道南部と青森県北部に存在していた集落は、海を挟む同一の文化圏のようで、寒冷化が北から南へ移動してきたため、栗が採れなくなりより南方へ移住したといいます。すでに最終氷河期が終わって、全体が暖かくなっていけども、多少の寒暖の周期があったようです。

9000年前、漆塗りの副葬品が出土
・北海道函館市の垣ノ島遺跡の調査(2000年)で、出土した漆塗りの副葬品が約9000年前に作られたものであったことが明らかになった。世界最古の漆塗り製品である(中国の井頭山遺跡で発掘された木器・漆による副葬品(約8200年前))。これまで、漆塗りの技術は中国から伝わったとされていたが、どうも起源は日本か。日本列島の漆の利用は、土器の接着・装飾に使われているほか、木製品に漆を塗ったもの、装身具に塗ったものも出土している(*)。9000年前から、駒ヶ岳噴火による集落断絶があるものの、約3500年前まで5500年間続いたとされる。令和3年(2021)、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。
・垣ノ島A遺跡:縄文時代早期で確認された遺構は、墓と思われるもの54基を含む土坑墓群316基(足形付土版など)/縄文時代中期の地面を掘り下げて床面とする竪穴建物18軒/後期の竪穴建物19軒である。
・垣ノ島B遺跡:縄文時代早期前半(約9000-8000年前)の竪穴建物5軒と土坑墓12基(*漆による装飾品)/約6500年前の縄文時代早期後半の土坑墓38基/年代不明の土坑墓が42基が発見された。

7300年前(前4000年)、鬼界アカホヤ噴火
 薩摩半島から約50 km南のカルデラ・海底火山、直径は約20 kmある。7300年前の噴火による鬼界(きかい)アカホヤ火山灰は、九州から遠く離れた東北地方の南部まで確認できるようだ。この火山灰の降灰によって、森林は完全に破壊され(回復には200年以上必要とされ)、縄文人の主な狩猟目的のイノシシやシカなど森林動物は姿を消し、エビやカニなどの多くも死滅し、その連鎖で魚も激減しただろう。南九州の縄文人は食料が調達できなくなり、平底土器を使用した進んだ文化が姿を消したといわれる。この突如として消え去った文化は「もう一つの縄文文化」ともいわれる。平底土器(草創期の主流の丸底深鉢土器)は住居の中での調理や貯蔵にも使うことができ、この土器の出現は、縄文人のライフスタイルが定住型に変化した証拠だとされている。(巽好幸氏)

7000年前、糸魚川ヒスイの産地
 日本のヒスイ(翡翠)の産地は新潟県糸魚川姫川流域、富山県の宮崎・境海岸そして岡山県新見市の大佐山などに限られていて、利用されたのは主として糸魚川周辺のもののようだ。
 糸魚川市の海岸近くの大角地(おがくち)遺跡(約7000年前)では、硬いヒスイで蛇紋岩を叩いて荒削りし、最後に磨き上げて石器道具を作っており、そのヒスイの敲石(たたきいし)が発見された。富山市呉羽町の小竹貝塚(約6000年前)では、製作途中の胸の垂(たれ)飾りとして使われはじめた。宝石として使用された世界最古のものであると。糸魚川市一の宮の長者ケ原遺跡( 約5000年前)では、ヒスイで加工する前の原石や勾玉や大珠(たいしゅ:楕円形で穴が空いている)、石斧などが発掘されており、硬玉ヒスイ工房跡と見られる。
 ヒスイの加工はその硬さのために穿孔や研磨などが困難であり、多大な時間と手間を要した。その価値が分かってから加工や穿孔技術習得まで2000年かかったことになる。ヒスイ大珠(装身具?)が約5,000年前に造られ始め、北海道から九州まで交易商品として流通し始めた。因みに、三内丸山遺跡にもヒスイ製大珠が出土している。山梨県で世界最古のヒスイ大珠が見つかっている。

【ヒスイ利用の歴史】糸魚川のヒスイは縄文時代中期にその加工が始まり、弥生・古墳時代においても珍重され、祭祀・呪術に用いられたり、装身具に加工されたりしていた。中国の魏志倭人伝(280 - 297年に記された 歴史書『三国志』の中の『魏書』第30巻の烏丸鮮卑東夷伝倭人条にある)よれば、邪馬台国女王の臺與(いよ)から魏への進貢品に「孔青大句珠二枚」があり、ヒスイ製勾玉であろうと推測されている(進貢時期は248年-266年の間)。しかし、奈良時代に入り仏教が伝来する頃になると、何故か王朝ではヒスイの利用が避けられていく。以後はヒスイの加工文化のみならず日本国内で産出することも忘却されていった。
 皮肉にも「日本でヒスイの再発見」がなされるのは昭和初期のことで、国内の遺跡から出土するヒスイの勾玉を見いだしてからだ。そのヒスイの勾玉等は海外(ユーラシア大陸)から持ち込まれたものと考えていたのだ。2016年時点、研究の結果では日本国内のヒスイ加工史は7000年前とされ、世界最古のようである。『ものづくりとことだまの国』と(wiki)

【勾玉(まがたま)文様と巴紋】勾玉は、首に一つをひもでつるしたり、勾玉と管玉を交互に配置し首飾りにしたりして、災難や悪い霊を払う魔除けを期待しての装身具として利用しました。皮膚に角が当たると痛いのでカーブさせているのであって、形に特別な意味はないと思うのですが。ヒスイ大珠は棒状や楕円形状で、角っこに曲がりはありません。大珠の方が古いと考えたらよいのか。たまたま「勾玉」が「ああいう形」になったとして、「勾玉」の形と、それが一つから三つある「巴紋」との関連性を考えるのですが、たぶん「勾玉」の形は日本独自の文様として、家紋などに利用されるようになったということですか。

【ヒスイの硬玉と軟玉】その堅さゆえ先史時代のヨーロッパではヒスイ製の石斧が出土する。中国ではヒスイは美しい宝石の代名詞であり「玉(ぎょく)」ともいい、なかでも高品質のものはロウカンと呼ばれ珍重された。ヒスイは中国や中南米(アステカ文明)で、金や他の宝石以上に価値が高かったこともあり、装飾品、器、置物などに加工され利用された。墓の遺体に添える副葬品としても利用された。しかしながら、硬玉ヒスイの現在の生産地は日本、ミャンマー(18世紀に発見)、ロシア、グアテマラに限られ(縄文の時代に硬玉ヒスイは日本糸魚川のみでないか)、中国では軟玉しか採れず。「硬玉」が軟玉によく似ていたから、中国では17世紀末まで軟玉がヒスイとして使用されていたという。中国で「硬玉」と軟玉を区別するようになったのはミャンマーから硬玉ヒスイが入ってきたからであろうか。「硬玉」がヒスイ輝石(jade、ジェイド)であるに対して、軟玉は緑閃石系の角閃石(nephrite、ネフライト)で、全く別物である。考古学でヒスイとは「硬玉」のことをいい、日本でもヒスイという場合はすべて「硬玉」のヒスイである。ヒスイは日本の国石となっている。
【モース硬度】
  ダイヤ10、水晶7.0、ヒスイ6.5~7.0(軟玉6.5)、オパール5.5~6.5、黒曜石5.0
  身近な物の硬度として、銅製硬貨3.5、木工用の釘4.5、ガラス5.0、鋼鉄のやすり7.5

6000年前(前4000年)、星ヶ塔黒曜石原産地遺跡
*星ヶ塔(ほしがとう)黒曜石原産地遺跡は、霧ケ峰山塊北西部の最高峰である鷲ヶ峰(標高1797m)の西方に位置する。大正9年の鳥居龍蔵氏の調査で黒曜石の原産地遺跡であることが明らかになった。当初は、和田峠が信州黒曜石原産地として著名となったが、実際にはこの星ヶ塔の遺跡を指す。星ヶ塔に産出する黒曜石は、関東、中部地方を中心に、東北地方から東海地方までの極めて広い地域に供給されたことが明らかになった。
鉄器が現れるまで、黒曜石が石器として用いられたのは画期的なことで、広い地域からの交易の対象品となる。それはあたかも戦国時代の鉄砲のごとくである。

【黒曜石の産地】流紋岩質マグマが噴出し、急激に冷やされるとガラス質を多く含む黒曜石が生じると考えられる。外見は黒くガラスとよく似た性質を持ち、脆(もろ)いという欠点はあるが、割ると非常に鋭い断面を示すことから、先史時代より世界各地でナイフや鏃(やじり)、槍の穂先などの石器として長く使用された。採掘には鹿角などの道具で産出したと想定できる。縄文前期では原石から剥片(はくへん)を得るような剥片剥離作業は行われておらず、原産地からは採掘された原石がそのまま搬出されていたものと考えられる。この黒曜石は旧石器時代と縄文時代を通して朝鮮半島やサハリンにも運ばれていた。
 日本では約70カ所ほどの産地があるが、良質な産地はさら限られる。縄文時代では、北海道の十勝・白滝、長野県霧ヶ峰周辺の和田峠、静岡県伊豆の柏峠、神奈川県の箱根、東京伊豆諸島の神津島(ここの黒曜石が紀元前2万年の南関東の遺跡で発見)、島根県の隠岐、大分県の姫島、佐賀県伊万里市腰岳などがある。(山川 詳細日本史)

6000年前(前4000年)、縄文稲作の有力な陸稲栽培の証拠
*日本列島における「稲作は弥生時代に始まる」というのが定説だったが、近年では縄文時代から稲を含む農耕があったとする説が出てきた。
陸稲栽培の可能性を示す岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器が見つかっている。
・稲の栽培に水田や畑が利用される。水田での栽培は水稲(すいとう)、畑地の栽培は陸稲(りくとう、おかぼ)とよばれる。水稲栽培(水田栽培)は陸稲より時代はかなり下る。
・日本へ伝わった稲には、大きく分けて「ジャポニカ(温帯ジャポニカ)」「ジャバニカ(熱帯ジャポニカ)」「インディカ」の三つの種類がある。朝鮮半島や中国から伝わったジャポニカは、日本や北東アジアの水田で栽培されている品種の祖先となり、東南アジアから伝わったジャバニカが陸稲の祖先、インディカはタイ米などの熱帯地域で作付けされている品種の祖先にあたる。『米穀機構 米ネット』
【プラント・オパール】植物が土壌中の水に溶けたケイ酸を根から吸収したものが、特定の細胞の細胞壁に蓄積しガラス質の極微の塊を形成する。イネ科植物は葉の中に、このプラント・オパールが残りやすく、稲作の起源(局所的な環境と植生の分析)を探る研究に使用される。しかし、イネのこの粒径が小さく雨水と共に他の地層に浸透することも考えられ、すぐさま発見地層の時代の「栽培の証拠」とすることはできない。年代推定の精度を上げるため、プラントオパール中の14Cを利用した放射年代測定も試みられる。

sandai 5900-4200年前、縄文中期 三内丸山遺跡
*青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡。集落には掘立柱建物(高床)、堅穴建物、墓、捨て場、祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物、大型堅穴建物(10棟以上)、貯蔵穴、盛り土、道路などが、計画的に配置されている。遺跡は約40ヘクタール(400,000m2、1ha=100a=10反で400反)の広さに及ぶ。2021年7月27日に「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。5900年から1700年ほど続き、栗が採れなくなりより南方へ移住したと思われる。
・出土遺物は土器や板状土偶などの土製品や石製品が多く、他にも日本各地域を中心とした交易(丸木舟利用)で得たと推測される黒曜石(北海道産、長野県産)、琥珀、漆器、糸魚川のヒスイ製大珠などが出土している(重要文化財に指定)。出土した動物遺体は、縄文集落で一般的なシカ、イノシシが少なく、7割弱がノウサギとムササビであり、三内丸山遺跡においてはノウサギやムササビの肉を食料としていたと推察でき、彼らの食生活の一端を窺い知ることができる。背景には巨大集落を支えるシカ、イノシシ資源が枯渇していた可能性が考えられている。(wiki)

縄文時代後期 5700年前から、大湯環状列石
秋田県北東の鹿角市十和田大湯(おおゆ)にあり、約130mの距離で東西に2つある大型の配石遺跡。河原石を円形に並べた組石が、外と内の二重の同心円状に配置され、その形から「日時計」を連想させられる。大きい方の遺跡の環状直径は46mもあり、現在発見されている中で日本で最大のストーンサークルである。それぞれの配石遺構の土坑から副葬品が検出されたため大規模な共同墓地と考えられている。その外側に掘立柱建物跡群が巡らされていて、墓地に附属した葬送儀礼に関する施設でないかとされている。周囲辺には竪穴建物跡、貯蔵穴、捨て場などが存在する。

4000年前、縄文中期 三貫地貝塚の火焔型土器
*福島県相馬郡新地町長駒ヶ嶺字三貫地で、貝類、縄文土器、人骨(百数十件)などが発見され、約4000年前~2500年前(縄文後期~晩期)という長い期間、この場所で人々が暮らしていたことが分かりました。『新地町HP』
・父系・母系両方の遺伝情報が入った核DNA解析の結果(三貫地貝塚人骨)、「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシア(東アジアと東南アジア)の人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」(伊藤譲治氏)「2017年12月15日の読売新聞の記事」には約3000年前とありますが。『新地町HP』では約4000年前~2500年前と幅がありますが、古くは1000年遡(さかのぼ)りましたか。
・火焔(かえん)型土器は、縄文時代中期を代表する日本列島各地で作られた土器。把手(とって)の装飾が、燃えあがる焔(ほのお)のように見えることから、その名が付けられた。
4000年前、縄文中期 加茂宮ノ前遺跡
*この遺跡(徳島県阿南市加茂町)の最大の発見は、縄文時代の遺物包含層や遺構内から出土した水銀朱を生産するための道具類です。赤色顔料である水銀朱の付着した石杵(いしきね)、石臼(いしうす)が300点以上、原料となった辰砂(しんしゃ 硫化水銀(II)(HgS))原石も多量に出土しており、「縄文時代後期(約4千~3千年前)の水銀朱関連遺物の出土数としては国内最多。顔料の一大産地、生産拠点としては国内最大、最古級」であることが明らかになりました。
 その他、弥生時代中期末(約2000年前)の竪穴住居跡から鉄器を製作した鍜治炉(かじろ)が発見されています。ということは有に2000年以上継続した文化が存在したことになりますか。

【水銀朱は何に使われたか】 朱は原始古代社会において神聖なものとして非常に重要なものでした。炎や血と同色の赤色は呪術・霊力があるものと信じられ、土器に塗られたり、魔よけや防腐剤として木棺や石棺に塗られたり古墳のなかにまかれたりして使われてきました。 また、庶民が高貴な方にお目通りする場合は顔に塗ってから拝謁したり、天皇の船は朱で塗られていたため、「赫船」(あかふね)と呼ばれていたといわれます。水銀は「朱」に使用する他(毒性があるのだが)不死の薬として珍重された。以上2つ『徳島南部ライフサポートセンター』
◎水銀は金属と混ざる(アマルガム)ところから、仏像などの銅または銅合金の製品の表面に、金や銀などを付着させる鍍金(金メッキ)に、古墳時代以降利用されました。
【その他の水銀鉱山】三重県多気郡多気町の丹生(にゅう)鉱山があり、縄文時代から丹生とその近辺で辰砂の採掘が行われていた。8世紀の奈良の大仏鋳造の建造の際には、熟銅73万7560斤とともに、金メッキ用に金1万436両、ここの水銀を含め5万8620両、さらに水銀気化用に木炭1万6656斛が調達されている。大仏再建どきの水銀は全て伊勢産であった。(Wiki)

3500年前(前1500年)、縄文後期 稲作の有力な水田栽培の証拠
*縄文稲作の有力な証拠として、縄文時代後期(約3500年前)に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内からプラント・オパールがでる。確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかることである。
*約3000-4000年前(前1000~2000年)中国伝来の水田栽培が行われていた可能性が高い(2016年に農林水産省の研究成果)。

2700年前、縄文晩期 稲作の有力な水田栽培の証拠
*福岡県の板付(いたづけ)遺跡や佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見されています。水流をせき止めて調整する柵(しがらみ)もありました。『米穀機構 米ネット』
◎水稲稲作の伝来経路は、①中国から朝鮮半島を経由、②長江流域から直接(中国人が結核菌と稲作技術を直接もたらした)、③東南アジア・南アジアを経由した、の3通りあるようだ。

前660年、神武天皇即位
【神武天皇】『記紀』上の人物。45歳時に兄や子を集め東征を開始(神武東征)。日向から宇佐、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。そして事代主ことしろぬし神(大国主神(大物主神)の息子)の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめを正妃とし、翌年に即位して初代天皇に成る。兄に彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命がいる。稲飯命は新羅(前57年 - 935年)王の祖ともされる。
・2代綏靖天皇(即位前581年)から9代仲哀天皇(崩御190年)までの天皇は、『記紀』の記載も少なく後で追加したとも思えるから欠史八代といい存在を否定する説があります。しかし、この内の2代~7代天皇は一豪族の磯城県主の娘を妃にしているとある(wiki)。地方豪族との婚姻で影を薄くしているのか。
▼初期頃の天皇が127歳などはあり得ず、稲飯命が新羅王の祖を考え、神武天皇即位は紀元前60年とする説がある。
 (天皇の年齢:1神武127、2綏靖84、3安寧67、4綏靖77、5孝昭114、6孝安137、7孝霊128、8孝元天皇116、9開化天皇111、10崇神119、11垂仁天皇139、12景行天皇143、13成務天皇107、14仲哀天皇53、15応神天皇111、16仁徳天皇56、17履中天皇70 『日本書紀』)
 さらには、日本では半年を1年とした時期があり、中国との交流でその後に1年の数え方を中国にあわせたとし、これにより神武天皇即位をAD83年とする説がある。17代履中天皇以降は通常の数え方になるか。これにより中国・朝鮮との整合性がとれる、と。これより騎馬民族説の江上波夫氏と繋がる、、私にはどうしたものかわかりませんが。

・大国主神の妻が卑弥呼(248年死亡)とされるところがあり、さすれば神武天皇は「卑弥呼」の義理の孫となってしまう(★思考が止まる)。記紀の中、卑弥呼と比定される人々に、
 ①神功皇后(?~269年) (14代・仲哀天皇の妃)
 ②倭姫 (11代垂仁天皇の第四皇女で、前5年天照大神を伊勢の地に祀った)
 ③倭迹迹日百襲姫命 (7代孝霊天皇(崩御前215年)皇女で、大物主神との神婚)
 ④天照大御神  がみえる『図解 古事記・日本書紀』
▼卑弥呼をヤマト王権に繋げるからおかしな事になるんじゃないか。

2350年前頃:縄文時代晩期
最も古い鉄器が、福岡県糸島郡二丈町の「石崎曲り田遺跡」で発見されました。縄文時代晩期(紀元前3~4世紀)にあたるもので、板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。また、稲作の始まりを裏付ける土器群や石器、竪穴住居、支石墓、甕棺墓などが発掘されました。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを示すようです。
◎鉄器の使用による水田耕作は、収穫が多くなり村落の長が絶大な権力をもち始めます。

2300年前頃(~紀元後300年まで):弥生時代の始まり
吉野ヶ里遺跡は、紀元前4世紀頃に、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に集落が形成され始め、これが弥生時代に110数haの大規模な環濠集落(環壕集落)へと発展する。弥生時代後期には、外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5kmの外壕が囲んでいる範囲は約40haにもなる。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施され、環濠内には見張りや威嚇のための物見櫓が複数置かれていた。
 竪穴建物、祭祀を行う祭殿、斎堂は内郭で見つかり、周辺には食料を保管する高床倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡なども発掘された。
 多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺(かめかん)、石棺、土坑墓(どこうぼ)は、住民や兵士など一般の人の共同墓地だと考えられている。甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとれる。
 遺跡からは多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土している。勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鐸、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなどが発見された。銅鐸は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器、日本では紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。(以上、wiki参照)

弥生時代前期、今から2000数百年前
・岡山県の百間川遺跡群(発見は昭和52年以来、現在10数遺跡)では、稲作ですでに整然とした水田が営まれおり、これまでの教科書のように、稲作りは原始的な湿田から乾田開発へ移行していったのではなく、当初から乾田耕作していたことが明らかになりつつある。また、規則性の認められる稲株痕跡(水田と用排水路)が発見されておりこの時期にはすでに田植えが行われていたと考えられるようになった。これまで教科書で教わってきた縄文時代=狩猟・採取の時代、弥生時代=鉄器の普及・水田耕作の開始期という図式は大きく揺らぐこととなった。(2019年10月、岡山県古代吉備文化財センター 江見正己氏)
◎この稲作技術は経験則から生まれたのでなく、渡来人が直接持ち込んだとしかいいようがない。この技術で、富の格差が増大し王国の形成に助長されるか。

弥生時代の始まりは、「弥生土器の出現」と「水田稲作の開始」(鉄器の普及は水田稲作と同時とされています)に関係付けされてきたようです。弥生土器の定義にもよりますが、後者の方が時期的に早いとされています。弥生土器が使われた時代を弥生時代の指標と考えると、水田稲作の遺跡が時代を遡(さかのぼ)り「縄文時代にも稲作が行われていた」というい記述になり、水田稲作の開始を弥生時代の指標と考えると、弥生時代の始まりが1世紀ほど早まることになります。従って、弥生時代の始まりが未だに確定できにくいところです。私的には、平底土器を使用した「もう一つの縄文文化」を考え合わせれば、水田稲作の開始を指標にするのがよいと思いますが。なお、ここの稲作は陸稲でなく水稲で、水田に稲をまくものです。
 日本の教育界の歴史認識や対応も慎重です。別の例ですが、遺跡の研究成果として「日本の縄文時代はほぼ16500年前から始まる」となっても、教育界で縄文時代は「1万数千年前」や「14000年前」となっています。

2000年前、弥 生 加茂宮ノ前遺跡
*弥生時代中期末(約2000年前)の竪穴住居跡から鉄器を製作した鍛冶炉(かじろ /鍛冶炉は直径30~40cmで、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工する)が発見されています。その周囲から加工のために使用した道具や製品なども出土しました。日本列島に鉄器製作技術がもたらされた時期のものであり、初期の鉄器製作と利用を考える上で貴重な成果を得られました。この地は4000年前、縄文中期に水銀朱の生産が行われていました。
 なお、世界においては、鉄の利用は紀元前3000年頃のメソポタミアで知られており、最初の鉄器文化は紀元前15世紀頃にあらわれたヒッタイトとされています。日本では、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入し、『魏志(「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条)』などによればその材料や器具はもっぱら輸入に頼っていた。純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのはたたら製鉄の原型となる製鉄技術が朝鮮半島から伝来し、確立した6世紀の古墳時代に入ってからとの考えが一般的でした。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在します。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及します。(以上wiki)
【たたら】製鉄の際に火力を強めるために使う鞴(ふいご)のことをいう。
【鍛造と鋳造】鍛造(たんぞう)は金属を叩くこと(鍛えて造る)で内部の空隙をつぶし、結晶を微細化し、結晶の方向を整えることで強度が高まるのが特徴です。鉄は叩くことで介在物を除去し強くなることが古来から知られています。鋳造(ちゅうぞう)は金属を溶かして液体にし、型に流し込む加工法です。
◎上記「日本では、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入」は、別の記事から「鋳造鉄器が紀元前3世紀に北部九州に持ち込まれた」とあります。上記2つ(「*」から始まる文、「なお」から始まる文)に整合性があるのか。日本と世界で、鉄利用の技術の普及・伝搬速度に、遅延の差はほとんどないような気がします。

紀元前2世紀から紀元前後ごろ 倭人が定期的に(前)漢王朝へ朝貢
◎倭人が定期的に漢の植民地楽浪郡を介して朝貢しており、多数「100余」の政治集団(国)を形成していたことが知られている。
 1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国邑すなわち囲まれた町のこと)の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封され(文書を封じて)て、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。

永初元年(107年) 倭国王帥升が後漢へ遣使
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」(『後漢書』東夷傳) 倭国王帥升(すいしょう)が生口(奴隷)を160人献呈している。まだ倭は統一国家でない。帥升は、文献に名を残す日本史上最古の人物。大宝律令施行直前701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められた。

2世紀後半(1850年ほど前)、倭国大乱
◎倭国大乱(国王の座を争う内乱)がおこる。邪馬壹国が勝利し、邪馬壹国の卑弥呼を王とすることで国中が服した。邪馬壹国は約30の国からなる倭国(連合国)の都があった国。中国の複数の史書に記述が見られる。

2世紀末~4世紀前半、三輪山裾野に広がる纏向遺跡
s_kohun ◎三輪山の北西麓一帯、奈良県桜井市 巻向に広がる遺跡が昭和12年に発見された。規模としては奈良県磯城郡田原本町 唐古・鍵遺跡の約10倍である。当初は太田遺跡とされ注目されなかった。昭和46年、運河状の構造物(総延長200m以上)が『万葉集』(759-780年)に登場する「巻向川」の跡ではないかと注目され、平成25年(2013年)に「纏向まきむく遺跡」として国の史跡に指定された。
 位置的には、蘇我馬子の明日香村・石舞台古墳の北約10kmのところである。前方後円墳発祥の地とする研究者、邪馬台国の中心地に比定する方もいる。纏向遺跡では、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓はしはか古墳と、それより古い5つの纒向型前方後円墳が分布する。これを纏向古墳群といい、つぎの二つに分類される。

纏向型前方後円墳:円丘部に対して、前方部の長さが円丘部の1/2ほど短く高さも円丘部より低い
 ■纏向石塚古墳93m ■纏向矢塚古墳96m ■ホケノ山古墳90m
箸墓型前方後円墳:円丘部に先端部をバチ型に開く、長三角形の前方部をもつ
 ■纏向勝山古墳100m ■東田大塚古墳100m ■箸墓古墳280m
①纏向型が箸墓型の時代を先行する。
②ここの纏向型前方後円墳が南は九州から北は福島まで全国に広まった。
*箸墓古墳は大神神社の祭神の大物主神(別名で大乙貴命おおあなむち・の・みこと)の妻・倭迹迹日百襲姫命やまと・ととび・ももそひめ・の・みこと(卑弥呼?)の墓である。この古墳は、この当時としては最大規模であり、全国にもその影響を与えたようだ。その名称は「箸で陰部を突いて死んだ巫女を葬った」から箸墓と伝わる。
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 この近場に全長200m以上の次の古墳が出現する
渋谷向しぶたにむこう山古墳300m(12代景行天皇) ■行燈あんどん山古墳242m(10代崇神天皇)
西殿にしとの塚古墳219m(台与) ■桜井茶臼ちゃうす山古墳270m  ■メスリ山古墳224m
*西殿塚古墳は、宮内庁陵墓治定(陵墓の被葬者を特定すること)によると「26代継体天皇の后の手白香皇女」とするが、明らかに箸墓古墳の次にくる古さで卑弥呼の後継者「台与または壱与」(とよ)とする説がある。卑弥呼248年死亡。10代崇神天皇は前97即位~前30年崩御、12代景行天皇は71即位~130年崩御(古事記・日本書紀)。

 日本列島で、この時期にこれほど大がかりな古墳の出現は奈良県桜井市・三輪山の西北に広がる扇状地で、しかもそのほとんどが、JR巻向駅一帯に広がる地域にある。この地域は2世紀末~4世紀前半にかけて栄えた最初の王都でないかと注目されている。その理由として、全国で造られた土器が出土すること、農耕がなされた気配がなく建物や水槽遺構が出土し、また遺跡が柵や砦で囲まれた都市らしいことなどである。纏向遺跡は11代垂仁天皇の「纏向珠城宮」、12代景行天皇の「纏向日代宮」(*)などと伝承する初期のヤマト王権の王都があったと考えるばかりでなく、三世紀のごく初頭に出現することから、「倭国の大乱」を経て西日本各地の勢力が卑弥呼を共立して「新生倭国」を建設した際の首都だったともみなす。女王・卑弥呼の王都でもあった、とする。

 この地方の名称は現在、「巻向」であるが、古くは奈良盆地の東南部に磯城(しき)、磯城邑(むら)があった。兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)なる兄弟が統治者として磯城を治めていた。これを初代・神武天皇が下し、弟磯城を磯城県主あがたぬしに任命したとされる(神武天皇2年)。10代・崇神天皇はこの磯城の地を足がかりにし国家の基礎をかためたといわれる。崇神紀には「箸墓を大市に造営した」と見えるから、この地域は奈良時代に「大市」(おおいち)でもあった。現在の纏向遺跡の「纏向」は上記の宮殿(*)の纏向からとられた。
 こうした、「まきむく」の南北を奈良盆地東の山沿いに走る古道、南は三輪から北は天理南部を抜け春日山のふもとまでを「山のの道」(全長約35km)が走っていた。『奈良を知る 日本書紀の山辺道』(2009.10)など

239年、卑弥呼は、魏の皇帝に使いを送る
*卑弥呼は239年、魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と多数の銅銭などを送られた。卑弥呼は巫女として神の意志を聞くことにたけていたらしい。247年に邪馬台国が南に位置する狗奴国と交戦する。卑弥呼は248年に亡くなった。そののち男の王が立ったが国内が治まらず。卑弥呼の同族の女性壱与が王になってようやくおさまったという。

後3世紀中頃:古墳時代の始まり(~7世紀頃まで)
266年、魏にかわった晋の都洛陽に倭の王女を送った『三国志』
*これを最後に、以降150年間(266〜413年)、倭に関する記載は中国の歴史書から姿を消している。『魏志』倭人伝は『三国志』(280- 297年、中国の正史)中の「魏書」第30巻にあり、倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。外交文書を扱うことは邪馬台国やそれに先立つ国々に、漢字を理解し、文書を扱うことのできる人々がいたということです。
 2世紀後半 倭国大乱の後、卑弥呼の共立
 200年 仲哀天皇崩御、神功皇后の新羅征伐
 239年 卑弥呼(248年に死亡)、魏の皇帝に使いを送る
 262年 神功皇后、葛城襲津彦を派遣し新羅を打つ
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 266年 晋の都洛陽に倭の王女を送った
 269年 神功皇后崩御*
 270年 15代 応神天皇即位*   :[讃]
 285年 弓月君の民の渡来
 313年 16代 仁徳天皇即位*   :[讃][珍]
 369年 百済が倭国に接近(七支刀:倭に対し百済が朝貢し献上)
 391年 倭が高句麗と交戦(好太王碑)
 400年 17代 履中天皇即位*   :[讃]  ★ ↑履中以前は1年を2年?
 400年 404年に倭が高句麗と交戦
 406年 18代 反正天皇即位*   :[珍]
 412年 19代 允恭天皇即位*   :[済]
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 413年 高句麗・倭国及び西南夷が東晋の安帝に貢物『晋書』
 421年 宋に朝献
 453年 20代 安康天皇即位*   :[興]
 456年 21代 雄略天皇即位*   :[武]
(5世紀後半から6世紀、倭王武が勢力を拡大)
☆上記、年代や即位年*は『図解 古事記・日本書紀』より
◎中国の『宋書』倭国伝の「倭の五王」と『日本書紀』の天皇との整合性を、上記の青色文字で示しています。[済]とその子である[興]と[武]については記紀にみられる允恭とその子の安康雄略の各天皇にあてることにほとんど異論がないようです。
・150年間(266年〜413年)に、対外戦争を経験してか倭は好戦的な国に生まれ変わっています。これ以降か、倭国では多数の馬がいることになります(半島から多数連れてきたか)。「他国からの侵入で王朝が変わった」とする、騎馬民族説(江上波夫氏)があるが、古墳時代の前期と中・後期の間には文化に断絶がみられず、強い連続性が認められるなどとして、否定されています。

*『宋書』(宋代 421-478年) 倭国伝に、5世紀初め(*)から末葉までの約1世紀近くに渡り、讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)としるされた倭の五王があいつぎ中国の南朝に朝貢している、とする。一方、日本側の史料である記紀(『古事記』と『日本書紀』)は朝貢の事実を記していない。ただ、『日本書紀』には倭の五王に比定される天皇の時代のうち、応神天皇・仁徳天皇・雄略天皇の時代に「呉国」(呉:222年 - 280年、六朝(南朝で呉,東晋,宋,斉,梁,陳)最初の王朝))との間で遣使の往来があったという記述はある。(wiki)
(*)約150年後、往来の再開は六朝の「宋」では「5世紀初め」になるが、「呉」なら「3世紀初め」になる。上記の3天皇とも「三国時代の呉」となっているが。

▼中国という国は、自国を必要以上に大きく見せようとする傾向があります。その軍門に降れば「頭をなでなでしてくれます」。それが朝貢外交や中華思想と繋がります。漢民族は何度も周辺諸国に攻め立てられ、常に周辺国へ睨みをきかせる必要があったのです。中国全土を支配したのは漢王朝、明王朝ぐらいです。中国は多民族国家(現在56民族)で、その数で割り算すればいかほどのものになりましょうや(少数民族が国土の60%以上を占める)。それゆえ、今も昔も安定政権は長続きせず。こうした傾向はこれまで変わりません。日本が早くから、この傲慢な国から対等の立場を表明したのも正解だったでしょう。
▼倭国(日本)には、『縄文』という世界に誇るべき先進的な文明を1万6000年前から持ち続けていたようです。ただ、文明の進化は周辺諸国との抗争の中で進歩を遂げるようです。倭国は平和であり過ぎて進歩が遅くなったんでしょう。
【遣使の目的】
 ①先進的な文明を摂取する
 ②中華皇帝の威光を借りることによって当時のヤマト政権にまつわる諸豪族を抑え、国内の支配を安定させる
 ③朝鮮半島諸国との外交を有利に進める  (山川の日本史)
▼「中華皇帝の威光を借りる」本当にこういう記述の仕方でよいのか、疑問に思う。

【古墳時代】大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が、3世紀中頃から後半に西日本を中心に出現します。これらの古墳は政治連合が形成された首長(しゅちょう)たちの墓です。首長はヤマト政権を支えるもの達ですが、その他に、有力な農民層まで台頭してきて政権に組み込まれていきます。彼らも、古墳をつくるようになったといいます。古墳は遅くとも4世紀中頃には、東北地方中部まで波及(*)していて、これは地方の豪族(在地首長)もヤマト政権に組み込まれたことを示しています。最大規模の古墳は大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)で長さ486mもあります。6世紀末から7世紀初めになると、ヤマト政権による古墳造営の規制がかかりますが、その後も100年ほどは造営は続きます。古墳の副葬品として埴輪がありますが、東日本の古墳からはユダヤ人の渡来を暗示させる埴輪(千葉県の芝山古墳)が出土しています。
 なお、朝鮮半島南西部に前方後円墳が10数基みられ、5世紀後半から6世紀前半の築造とされ、倭国の影響が及んでいると思われます。
(*)この間(不勉強ですがトリアエズ)
・平定した地域の人々
 熊襲:くまそ(日向、大隅、薩摩で宮崎・鹿児島両県 )
 隼人:はやと(鹿児島県)  蝦夷:えみし(東北地方)(★順次支配が及ぶ)
 磐井:いわい(九州中部・有明海沿岸)
・平定した国名
 日向:ひゅうが(宮崎・鹿児島)  竹斯:ちくし(筑紫→福岡(豊国除く))
 出雲:いずも(島根)       丹後:たんご(京都北部)
 吉備:きび(岡山~広島)     木(紀):き(和歌山県と三重県南西部)
 尾張:おわり(岐阜・愛知西部)  毛野:けの(群馬と栃木)
 安芸:あき(広島西部)      粟 :あわ(徳島)
 伊予:いよ(愛媛)        淡海:おうみ(滋賀)
 越:こし(福井県~山形県 )    那須:なす(茨城県)
 相武:そうぶ(相模国と武蔵国 )
などがヤマト政権に組み込まれましたか。

285年、弓月君の民の渡来
*『日本書紀』による帰化の経緯としては、応神天皇14年(283年)に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、(途中省略)、しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木菟宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君(融通王)の民が渡来した。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。その後の子孫は氏姓に登呂志公、秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。
『新撰姓氏録』によれば、「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載がある。これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたという説などもある。
『日本三代実録』元慶七年十二月(西暦884年1月)、秦宿禰永原、秦公直宗、秦忌寸永宗、秦忌寸越雄、秦公直本らは惟宗(これむね)朝臣の氏姓を賜ることとなった。(wiki)

【秦氏の渡来】
*渡来人には弓月君ゆづきのきみ阿直岐あちき王仁わに(百済国(前18-660)に渡来した中国人)、阿知使主あちのおみ(東漢氏の祖)といった人物がおり、秦の始皇帝三世直系の弓月君は秦氏の中心的人物であり、和邇吉師わにしき(王仁)によって論語と千字文が伝わったといいます。日本へ渡ると豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していきました。大和国のみならず、山背国葛野郡やましろのくにかどのぐん(現、京都市太秦うずまさ)、同紀伊郡(現、伏見区深草)や、河内国讃良郡(現、寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡、針間国(現、兵庫県)、阿波国、伊予国神野郡など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えました。秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦と云われ、山背国(山城国)においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与しました。(Wikipedia)

【秦氏に関する人物】(重要人物、有名どころ)
・弓月君 - 秦氏の中心的人物
・秦大津父 - 欽明天皇に仕えた
・秦酒公 - 廷臣として朝廷に仕えた
・秦河勝 - 聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建 村上天皇の日記に「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」と
・秦伊侶具 - 伏見稲荷大社を建立
藤原葛野麻呂(房前長男流) - 母方の祖父が秦嶋麻呂で、秦氏は藤原北家と婚姻関係を持った
  房前-|-鳥養(房前の長男)--小黒麻呂(鳥養の次男)--葛野麻呂(小黒麻呂の長男)
     |-真楯(房前の三男:北家継ぐ)
・法然 - 母が秦氏
・藤原為憲(維幾の子:南家乙麻呂流で工藤氏の祖) - 妻が秦氏
  工藤氏から伊東氏、伊藤氏、吉川氏、鮫島氏、二階堂氏、相良氏など興る。
・二階堂行政 - 妻が秦氏(熱田神宮の巫女)
*末裔・枝氏は60ほどあるとされる。末裔を称する人物も多い(長宗我部元親 、赤穂藩士47人の中に播磨秦氏の末裔)。

◎天皇に仕えたり、藤原北家と婚姻関係を持つなど、天皇家・藤原家に「秦氏」の血が入っている。
・秦氏らは渡来人か帰化人か。「山川・詳説日本史」で見ると昭和46年発行では帰化人であり、平成18年と令和5年の発行では渡来人となっています。変更は昭和46年から平成18年の間とみえます。上のお偉い人達の見解により変わったりします。高校・中学の教科書が庶民にとっては一般的な見解となるから困ったものです。

369年、百済が倭国に接近
・南下する高句麗に対し、百済、新羅、伽耶(=加羅)は結束を考えるが、新羅は途中から高句麗に下った。百済が倭国に接近。同盟関係を結び「七支刀」(日本書紀 神功皇后摂政52年条 369年制作 奈良石上神社所蔵)を倭国に贈る。倭国は朝鮮へ出兵し、高句麗と戦火を交える(広開土王碑)。碑によると、400年、404年に高句麗軍と倭国軍が交戦した。当時、倭国は大量な武器を造る能力と国力があり、倭国の朝鮮進攻は新羅の鉄資源の確保が大きな目的だった。

古墳(5世紀後半から6世紀) 倭王武が勢力を拡大
*5世紀後半から6世紀にかけて、大王(おおきみ)を中心としたヤマト政権は、関東地方から九州中部におよぶ地方豪族を含み込んだ支配体制を形成していた。、、478年に倭王武が勢力を拡大して東・西・海北の地方豪族たちを服従させた(『宋書』倭国伝)、、この大王は倭王武であり(第21代)雄略天皇にあたる(山川 詳細日本史 2023年発行)。

継体21年(527)、筑紫君磐井が反乱を起こす
*大和政権は近江毛野の6万の兵を授けて任那へ派遣しました。しかしこれを北九州の豪族・筑紫君磐井つくしのきみいわいが阻みます。これは明らかに大和朝廷に対する反乱行為でした。この反乱原因については『日本書紀』は、磐井が新羅から賄賂をもらったためと記していますが、実は磐井の個人的な反乱ではありませんでした。、、物部麁鹿火もののべのあらかいの前に敗死し、反乱は鎮圧されます。『図解 古事記・日本書紀』
◎大和(朝廷)政権をヤマト(朝廷)政権に替えるべきなのか、わかりません。とりあえずこのままに。

安閑2年(535)、筑紫国、豊国、火国に屯倉を置く
*朝廷は、直轄領(屯倉みやけ)を増やして経済的基盤を固めると同時に、豪族の力を抑えつつ軍事的拠点を築いていった。『図解 古事記・日本書紀』P222

欽明13年(552)、百済の聖明王から仏像と経典が献上される
◎仏教を国として受け入れることについて、大臣・蘇我稲目いなめ(506?-570)は中国・朝鮮で礼拝されているから賛成、大連おおむらじ・物部尾輿おこしは国神の怒りを恐れて反対。天皇は賛成した稲目に仏像を与える。稲目は寺を建て仏を祀るが、その後国内に疫病がはやり、尾輿は寺を焼き払い仏像を海に投げ捨てた(蘇我氏と物部氏の対立が顕著になる)。
【蘇我氏】孝元天皇妻 →某妻 →某妻 →武内宿禰 →石川宿禰 →満智 →韓子 →高麗 →
     → 稲目 → 馬子   → 蝦夷   → 入鹿
        ↓    ↓     :  645年乙巳の変(蘇我本宗家滅亡)
  物部氏  尾輿   守屋(滅亡) :         ↑
                   ↓         :
            厩戸王の子・山背大兄王(自害)  :
                     中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原氏)

 蘇我氏の血筋は、聖徳太子の妻・舒明天皇の妻・天智天皇の妻に引き継がれている。
 (蘇我氏の出自は渡来人の可能性が高い)

推古15年(607)、厩戸王(聖徳太子)の政権掌握
 母が実母の実家(おじ・蘇我馬子の家)にて出産したので馬子屋敷に因み厩戸(うまやと)と命名されたとする説や、生誕地・近辺の地名・厩戸に因み命名されたなど様々な説があります。
*推古天皇15年(607)、第2回遣唐使。小野妹子、鞍作福利を使者とし随の煬帝に国書を送った。「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されている(『隋書』「東夷傳俀國傳」)。これを見た煬帝は立腹し、「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという。
・翌年、(第2回遣唐使の)返礼の使者である裴世清が訪れた。日本書紀によると裴世清が携えた書には(下記※)とある。これに対する返書には「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す」とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている。
・608年、裴世清を送って小野妹子が再度派遣(第3回遣唐使)された。この時は多くの留学生を引き連れる。隋国内で反乱がおき、618年に隋は滅亡し唐が成立する。

(※)「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」『日本書紀』

斉明4年(658)、越国守阿倍比羅夫の北方征伐
*斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、越国守の阿倍比羅夫(あべのひらふ)は658年4月、659年3月に蝦夷(えみし)を、660年3月には粛慎(みしはせ)の討伐を行った。

天智2年(663)、白村江の戦いで百済が滅亡
大勢の人たちが日本に移ってきた。(渡来第3波?)
渡来第1波は縄文人、渡来第2波は弥生人が稲作(水稲)をもたらす、渡来第3波は古墳時代で「弓月君の民ら」が渡来。

701年、大宝律令施行
*大宝律令施行時点で越後平野、仙台平野、米沢盆地、山形盆地は律令国家の支配体制に組み込まれ、それらよりも北方の諸地域が「エミシ」の地と定められることとなった。[これまでの北征]
【田村麻呂の北征】780年、坂上田村麻呂は23歳で近衛府の将監。791年、大伴弟麻呂が征東大使。田村麻呂は百済王俊哲と共に東海道諸国へと派遣された。征討軍の兵力は10万人。796年、田村麻呂は桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられた。801年、田村麻呂が44歳のときに征夷大将軍として平安京より出征する。805年、田村麻呂は征夷大将軍として第四次蝦夷征討での活躍の機会を失い、これより先は陸奥国へと赴くことはなかった。
◎上記のようなことで、三内丸山遺跡を誇る北海道南・東北地方も、律令国家内に組み入られましたか。

713年5月、「地誌」編纂の勅命
◎奈良時代、朝廷が「記紀」編纂の先駆けとして、支配下の各集落(各クニ)の情勢を報告させる勅命を下します。地方から中央への報告書が「地誌」となり、その後「風土記」と称されます。
 ・国郡郷の名(好字を用いて漢字二字で表記する:好字二字令)
 ・その土地の産物
 ・その土地の肥沃な状態
 ・その地名の起源
 ・古老からの伝承によるふるい言い伝えやわった話(旧聞異事)
を記すよう命ぜられました。現存するものは全て写本で、『出雲国風土記』がほぼ完本、完本でないが残っているものに『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』があります。
▼上記の勅命は「歴史を繋げる意味で」画期的なことです。しかし、「古老からの伝承」では縄文時代からの歴史を拾うて弥生に繋げることは出来ませんね。縄文からの音信不通は、我が国には文字がなかったという口惜しい結論になります。時代の穴埋めには「遺跡発掘」しかないのでしょう。
◎文字がないというのは、これまでの考え方では、歴史がないに等しいか。そのときの生活の営みを文字に残せないというのは文化がなかったと解釈されても仕方がないか。
・文字がないから記録を残せないというのがある一方、記録を残すには具合が悪いということもあったようで、これまでの多くの記録は、為政者の記録と云うことでしょうか。
・『家歴がないということは、その家に文化がなかった』という恐ろしい結論に到るような思いもします。

【好字二字令により713年に名称変更】
地 方 :明日香→飛鳥
3字の国:近淡海 → 近江(現在は滋賀)   遠淡海 → 遠江(現在は静岡西部)
     上毛野 → 上野(現在は群馬)   下毛野 → 下野(現在は栃木)
     吉備道中 → 備中(現在は岡山)  波伯吉 → 伯耆(現在は鳥取)
1字の国:倭→大倭(大和) 泉→和泉 津→摂津
     火→肥前(佐賀・長崎)・肥後(熊本)
     木→紀伊    沖→隠岐 粟→阿波 『和名類聚抄』(『和名抄』)

【瑞祥地名】「瑞祥(ずいしょう) 」は、 めでたいことが起こるという前兆、前触れの意味があります。瑞祥地名は、これからめでたく幸先がよく 発展する地名ということになりますか。歴史的には好字(こうじ)、佳字(かじ)などと呼ばれ、今では瑞祥と称し、瑞祥の地名となります。朝廷が各国に命じてつくらせた報告書だが、その地名については「『好字二字令(713年)』とし、いまはやりの・公用語の漢字で、好きな二文字で付けていいよ」としたのでしょう。何せ、我が国には文字がなかったのだから(統一された文字がない:私論)。「瑞祥地名」の問題は、土地開発がなされると、同じような名前を付けることが多くなり、それもその土地の地勢や歴史を踏まえていないもので、問題点を抱えることになります。これ以降、特に明治維新以後には多くなりました。

【姓は地名から】苗字の多くは出身地(荘園の名など)から付いています。井伊氏は遠江国井伊谷の庄から。尼子氏は近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)から。蒲生氏は、古代近江国蒲生郡に勢力があった豪族から。佐々木氏は宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗ったことから始まるとされる。浅井氏は近江浅井郡に居を構えた豪族から。朝倉氏の本元は但馬国養父郡朝倉(兵庫県養父市八鹿町朝倉)から。石田氏は相模国大住郡石田郷(現・神奈川県伊勢原市石田)から、または近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)から。