「国の興り」を学習しています(私の学習道場2)

 1. 『ホツマツタエ』
 2. 『古 事 記 』
 3. 『日本書紀』   ■ Topics


2世紀、『ホツマツタエ』の完成
 「紀元前5000年頃に、アマカミ(当時の指導者、天皇の呼称)が現れ、代々お治めになってきました。初代アマカミはクニトコタチ様(『古事記』に国之常立神で見える)でございます。イサナギとイサナミ様は七代目のアマカミ様でございます」と、”いときょう”さんが紹介する。
osite  どうやら、この『ホツマツタエ』は12代スヘラギ・ヲシロワケ(12代景行天皇:71年即位~130年崩御)に捧げるため、クシヒコ(二代目オオモノヌシ・奈良の大神神社御祭神)の子孫ヲ、タタネコ(大田田根子?)がヲシテ文字にて「古代のこと」を編纂したもの、で
 「アマテルカミ様の孫のニニキネ様は、大規模な水田開発をなされ、益々この国は発展したのでございます」
 「不肖私ヲ、タタネコは、9代フトヒヒ様(9代開化天皇)の御代に、恐れ多くもスヘラギ(天皇の呼称)をお諫め申し上げたミケヌシの子孫でございます」
 などの翻訳から、12代景行天皇の皇子ヤマトタケ(ヤマトタケル)の遺言によって、二世紀に編纂された歴史書です、と”いときょう”さんはいう。

 系図1 アマカミ(後にスヘラギ)初代~十二代/物部氏
①クニトコタチ 8人の子(ミ、カ、ホ、、メ、、ヒ、エ)
 --②クニサツチトノミコト(「ト」の子供か)----③トヨクンヌ--
 --④ウビチニ---⑤オオトノチ---⑥オモタル--
 --⑦イサナギ(「タ」の子孫)---|⑧アマテルカミ(天照大御神:男神)---⑨▽
                |--ワカヒメ ヒルコ
                |--ツキヨミ
                |--ソサノヲ(スサノヲ)---初代オオモノヌシ

 --⑨オシホミミ---⑩ニニキネ----⑪ウツキネ ホホテミ 山幸彦---⑫▽
         ⑩ホノアカリ---ニギハヤヒ(養子)---ウマシマチ--->物部氏
 --⑫ウガヤフキアワセズ---カンヤマトイハワレヒコ 神武天皇
 『やさしい ホツマツタエ』(いときょう)

1. 『ホツマツタエ』(「真実の伝え」という意味)(以下、ホツマ)はヲシテ文字(縄文文字)で書かれている。神代文字の一つのヲシテ文字は一音一字の表意文字(表音文字と違い1字1字に意味がある)で、基本は48文字(変体文字を含めると197文字)である。これはいまの「あいうえお」ではじまる文字の数と同じです。文書全体は簡潔で、五七調の長歌体で記され、全体は40アヤ(章)、10700行余で構成されている。

2. アメツチ(天地)の始まりから、カミヨ(記紀にいう神代)、そして初代・人皇のカンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)を経て人皇12代のヲシロワケ(景行天皇)の56年までを記述している。『記紀』と同じ構成だ。
 上記系図で⑦(七代)イサナギは「タ」の子孫でアワナギの子、妻イサナミも「タ」の子孫で五代タカミムスビ トヨケカミの子。歴代のアマカミは「ト」「タ」の子孫からでている。「エ」の子孫にサルタヒコ(アマテルの頃)がいる。
 神武天皇までの系図で、オオモノヌシ(大物主=大国主)が3人(三代)までおられる。初代オオモノヌシはソサノヲの子(系図1参照)。二代、三代のオオモノヌシはそれぞれ初代、二代の子に。

3. このホツマの内容は「古代のこと」として、ヤマトタケの遺言により、ヲ、タタネコが編集し、12代ヲシロワケ(12代景行天皇:71即位~130年崩御)に奉じたものである。この編纂者ヲ、タタネコとは、「8代ネコヒヒ(8代孝元天皇)の后を、9代フトヒヒ(9代開化天皇)が自分の后にしようとした」ことをお諫めしたミケヌシ(クシヒコ)の子孫である。また、ヤマトタケ(日本武尊であるがヤマトタケルでない)は12代ヲシロワケの皇子である。当時、漢字はまだ伝わっていなく、ヲシテ文字で著した。

4. ホツマは原本がなく写本である。写本であるが故に江戸時代中期までしかさかのぼれないという。信憑性がないといわれど、文字を考案しそのもとで膨大な量の文章を作成することなどできようか。『ホツマツタエ (歴史)』と同様の文字による古文書『ミカサフミ (三笠紀)』(哲学)『フトマニ (太占)』(占い)も発見されている(wiki)。
 ホツマと関係ありそうな遺物が、全国の神社で見いだされているという。”いときょう(一糸恭良:早稲田大学卒)”さんが自分と妻とで回られて「ハッと」することが度々あるという。ますます真相味をおびてきます。”いときょう”著作『古代史ホツマツタエの旅』(第一~三巻)が出版されている。

5. 『古事記』作成時、稗田阿礼に語らせ安部安万侶が書き記す。安部安万侶は神代文字を理解できないし、稗田阿礼が頭に入れたものを語らせる。稗田阿礼にとってもヲシテ文字が厄介であることが想像できる。

6. 「⑩(十代)ニニキネ様は、大規模な水田開発」というから、水稲稲作と思われる。
7. 『記紀』の原書であると根強く考える者も一部に存在する(wiki)。

8. ホツマの記述は、欠史八代といわれる2代から9代の天皇のところでも、信憑性はひとまず置いて『記紀』より詳しい。また全体的に神々の繋がりが『記紀』より、詳しく描かれているようだ。しかし、ホツマで縄文(紀元前5000年)まで遡れるといわれても、神代の10数代ではとても無理である。一人が400年近く生存できたら可能だが。遡れるとしても、紀元前700,600年の弥生初期まででないか。不勉強の私がこのようなこと申し上げて申し訳ない。
 私の目的「国の興り」から外れますので、ホツマの学習からは退席します。

*大田田根子とは、奈良県桜井市にある三輪山の神である大物主神、または事代主神の子孫または子で、神君(三輪氏、大三輪氏、大神氏)、鴨君(賀茂朝臣氏)、石辺公(磯辺氏)の祖先とされる。崇神天皇(10代:前97即位~前30年崩御)と同世代の人物。『古事記』では意富多多泥古命。大神神社では大直禰子命としている。(wiki)


712年、『古事記』の完成
 天と地がはじめて現れたとき、天にある高天原に成ったのはアメノミナカヌシです。間もなくタカミムスヒ、続けてカムムスヒが成りました。その漂いの中からさらにに2柱の神が現れました。このように、天地の始まりとともに現れては消えた5柱の神々を、天の神の中でも特別の存在として「別天津神」(ことあまつかみ)と呼びます。
■別天津神■
 天之御中主神アメノナカヌシノカミ(独神、男神と女神の両方の性質あり)
 高御産巣日タカミムスヒノカミ (同上)
 神産巣日神カムスヒノカミ  (同上)
  宇摩志阿斯訶備比古遅神ウマシカビヒコジノカミ(独神)
  天之常立神アメノトコタチノカミ(独神)
 以上の五柱いつはしらの神

■神世七代(かみよのななよ)■
 1.国之常立神クニノトコタチノカミ(独神)
 2.豊雲野神トヨクモノノカミ(独神)
 3.(夫 男神 兄)宇比地邇神うひじにのかみ
  (妻 女神 妹)須比智邇神すひちにのかみ
 4.(夫)角杙神つのぐいのかみ
  (妻)活杙神いくぐいのかみ
 5.(夫)意富斗能地神おおとのじのかみ
  (妻)大斗乃弁神おおとのべんのかみ
 6.(夫)於母陀流神おもだるのかみ
  (妻)阿夜訶志古泥神あやかしこねのかみ
 7.(夫)伊邪那神イザナ
  (妻)伊邪那神イザナ

■国産み■
 最後の二神が高天原から地上に降り、協力して日本列島を産みました。
  大八島:1淡路島、2四国、3隠岐島、4九州、5壱岐島、6対馬、7佐渡島、8本州
■神産み■
 イザナギとイザナミの交わりにより多くの神が産まれます。
 ・住居に関わる神  7柱
 ・水に関わる神   3柱
 ・大地に関わる神  4柱
 ・生産に関わる神  3柱
 以上17柱はイザナギとイザナミから産まれる。
 ・河と海を分ける神 (水に関わる神から)   8柱
 ・山と野を分ける神 (大地に関わる神から)  8柱
 以上16柱はイザナギとイザナミの子から産まれる。
 火の神を産んだことでイザナミは火傷を負い命を落とします。
■黄泉の国■
 イザナギは、イザナミを連れ戻そうと黄泉よみの国へ訪れますが、イザナミとの約束を破り失敗します。
■イザナギの禊ぎ■
 地上に戻ったイザナギは、日向の阿波岐原にむかうと、黄泉の国の穢れを落とそうと河でみそをします。脱ぎ捨てた衣類や装飾品から12柱、汚れた垢から2柱、さらに穢れを流すと3柱の神が、その他に12柱の神が現れました。顔を洗うと、特別な三神が生まれました。
  天照大御神 アマテラス      :高天原を治めよ
  月読命 ツクヨミ         :夜乃食国を治めよ
  健速須佐乃男命 スサノヲ 乱暴者 :海原を治めよ
 右目からツクヨミ、左目からアマテラス、鼻からスサノヲが産まれます。そこで、イザナギはそれぞれに天、夜、海を支配するように命じます。
■天岩屋戸■
 弟のスサノヲの乱暴に業を煮やしたアマテラスが天岩屋戸に閉じこもり、高天原も葦原中国も闇に閉ざされてしまう。神々は策をこらし、タヂカラヲが岩をこじ開けアマテラスを出すことに成功します。
■スサノヲのヲロチ退治■
 高天原を追放されたスサノヲは、出雲国で娘を食べる大蛇・ヤマタノオロチを退治し、その代償に娘をもらいます。その娘がクシナダヒメです。スサノヲの何代か後に大国主神が見えます。

■出雲の国■
 『古事記』上巻の3分の1も出雲(いずも)の記述があるものの、正史である『日本書紀』にはほとんど記載がありません。出雲は、現在の島根県東部と西部に位置し、弥生・古墳時代から登場します。出雲西部の遺跡からは大量の銅鐸や銅剣が出土し、出雲東部の遺跡からは大量の鉄器(半製品)が発掘されています。出雲は、東西の二大勢力から出発し、以後「統一王朝」が作られ宗教国家を形成します。このとき(律令以前)の出雲の影響力は日本神話の随所に見られ、「日本創生どき」の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その精神的影響力は絶大であったようです。しかし、やがて出雲を中心とする一大勢力(ヤマト王権を凌ぐほどの出雲王権)がヤマト王権に征服され、その後、皇室との関係が生まれるのです。

■国譲り/天孫降臨■
 高天原に住む天照大御神あまてらすおおみかみは「葦原中国は私の子が治めるべき国である」として、天降りを命じた。子の神は下界の葦原中国を覗き「大変騒がしく、手に負えない」として出向きもせず報告した。大御神は八百万の神々を集め相談し、天菩比命に命ずるが、葦原中国を統べる大国主神おおくにぬしのかみの家来となり3年が過ぎ報告しない。次の天若日子は大国主神の娘と結婚し8年を経過しても、高天原に戻って報告しない。それではと、建御雷神たけみかづちと天鳥船神は出雲国の浜に降り立ち、十掬剣を抜いて逆さまに立て、切っ先の上にあぐらをかき、国譲りを促す。大国主神は自分の前に二人の息子に訊ねるようにと。その後、二人の息子と使者とのやりとり(力比べ)があり、こうした度重なる使者に大国主神はついに観念した。「二人の息子が従うのなら、私もこの国を天津神(*1)に差し上げます。その代わり、私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿(出雲大社の起源)を建てて下さい。そうすればそこへ隠れましょう」と、ついに降参した。このように出雲の『国譲り』は、武力で応戦することなく決着した。
 その後、天照大御神の神勅を受けて葦原中国を治めるために、天孫(天照大御神の孫)の邇邇藝命ににぎのみこが、高天原から筑紫の日向の襲(くまそ)の高千穂峰へ天降った(天孫降臨)。邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器(*2)をたずさえ、天児屋命あまのこやねのみことなどの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神さるたひこのかみが案内をした。 『記紀』より

(*1)天津神(あまつかみ)は高天原 にいる神々または高天原から天降った神々の総称のことで、国津神(くにつかみ)は地(葦原中国)に現れた神々の総称とされています。高天原から神逐されたスサノオや、その子孫である大国主などは国津神とされている。津については「の」に相当します。
(*2)三種の神器は八咫鏡(やたのかがみ:伊勢神宮内宮に有り)・天叢雲剣(あめのむらくぼのつるぎ:熱田神宮に有り)(草薙剣くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま:皇居「剣璽の間」に有り)の三つ。


720年、『日本書紀』の完成
【国史編纂のきっかけ】
 唐や隋代の外交の場で各国の遣使が「国の地理と歴史」を問われ「自国史」を意識する状況があったようです。そして、推古朝(在位:593年1月 - 628年4月)において修史(歴史書を編修すること)が開始された時期は、新羅や百済のそれとほぼ重なるようです。『日本書紀』に先立つ、推古28年(620年)に、いまでは現存しない『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』がまとめられた(『日本書紀』)とあります。
 正史の『日本書紀』は『古事記』(完成712年)より後に編纂されたとされますが、『古事記』の内容を引き継いでいるところはありません(*)。『日本書紀』は、当時の実力者・藤原不比等が重要な役割を果たし、その作業には多くの渡来系の学者も関わったようです。文章には『古事記』と同様、当時の流行(はやり)の公用文字、漢字を使用しました。この漢字を使用することで、それまであった神代文字やそれで記された文献は、結果的に駆逐されてしまいました(私論)。
(*)『古事記』と『日本書紀』は内容も然る事ながら、神名表記が違います。
  イザナギ:[古事記] 伊邪那岐  [日本書紀] 伊弉諾
  スサノヲ:[古事記] 須佐之男  [日本書紀] 素戔鳴 など多数あり。

【日本書紀の内容】
 『日本書紀』の「神代(かみよ)」の部分は、『古事記』の「神代」と同様で「日本のおこり」を記述するものですが、周辺国に披露する「国史の目的」から重要視されていません。『古事記』で多くのページを割く出雲神話の部分がありません。「神代」は国之常立尊くにのとこたちのみことをはじめとし、イザナギとイザナミが産む300ほどの神々で「神話の世界として造られています」。その神々の名は聞き慣れない長ったらしいものばかりで、よほど根気よく読み進めなければ、「煙に巻かれて」理解できなく途中断念で終わってしまいます。
 小国が乱立していた頃に「天皇の神格化」を狙うも、このヤマト王朝を盤石なものにするため必要だったかも知れません。また、「神話という煙幕」を日本列島全体に張るも、近場だけがなんとか見え、東日本(東北地方)の縄文文明が見えなくなってしまいました。現実的で平和な民衆の「集落・クニでの営み」が、16500年前からヤマト王朝創成の直前まで継続していたのですが。
 「神代」に続くヤマト王朝の天皇紀では、歴代天皇の系譜・事績を記述し、ヤマト王朝の継続的正統性を主張しています。ここの部分に、当時30ほどの連合国の盟主・邪馬台国の存在が記されてもよいのですが不明です。

【正史として】
 『日本書紀』が周辺諸国に対して誇るべき正史となるため、「日本のおこり」が神話の一遍道にならないよう、事前に支配下の集落・クニの古老からの伝承を収集したり、中国・朝鮮など周辺国とのこれまでの外交関係を把握する努力もしています。

【その他の特徴】
■我が国に文字がなかった■
 国家が統一されていない間は、複数の神代文字を用い「統一された文字がなかった」ということでしょう。国外的にも律令国家として生まれ変わるには、時の朝廷は流行(はやり)の公用語である漢字を用いることにしたのでしょう(私論)。
 中国ですら国家の統一に向けて、複数ある書体の漢字を整理・統一したといいます。それが漢民族とは少し旗色の違う秦の始皇帝(前259-前210)のときです。日本での漢字の使用は、日中の外交史からも、遅くとも2、3世紀には支配者層における漢字の使用が認められるから、控え目に見ても3世紀から5世紀に、日中両国の識者の間で漢字が日本に入っていたことは確かであるとしています。
▼逆に、「その国に文字があった」といえるのは、統一国家ができてからのこと、といえるのじゃないですか。

■高天原と日高見国■
 『古事記』は、地上の人間が住む葦原中国(あしはらなかのくに)、地中にあるとされる根の国(ねのくに)・黄泉の国(よみのくに)、それに天上界に高天原(たかまがはら)をあげている。天皇が人間でなく神であるとすると、高天原に住んでいるということなります。この地上、地中、天上界の国の記述は『日本書紀』に見えません。
 天上界の、『高天原は縄文・弥生の頃の記憶をもとにつくられた現実と密着したもの』で、『日本書紀』の日高見国(ひだかみのくに)に繋がっているとしています。それに、「日高見」は「日の上」のことであり、天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国、いや大和国よりもっと東の国でないかとし、日高見国は常陸国ひたちのくににあるのでないかとしています。『日本国史』(田中英道氏)
 天皇家と関係深い、
  大神宮 :三重県伊勢市、内宮創建:伝 垂仁天皇26年(478年)
  香取神社:千葉県香取市、創建:伝 初代神武天皇18年(前642年)
  鹿島神社:茨城県鹿嶋市、創建:伝 初代神武天皇元年(前660年)
3つ神社の内、常陸国には後者の2つがあり、日本の「神話の世界」と「現生の世界」との関係を微妙に結びつけています。こうした中で、時の為政者は天皇に繋がる、自然崇拝と神社信仰(後に仏教信仰をも)を推し進めていきます。


■ 補足 ■
*『古事記』と『日本書紀』について
古 事 記:安部安万侶( ?-723年)が、語り部の稗田阿礼に『帝紀』と『旧辞』を語らせ、当時標準になっていた漢字の音訓混合で書き記す。上巻は神代の時代、中・下巻は初代神武天皇から推古天皇(第33代)までが記されている。神話や伝説が多く、人物や国の逸話を中心に示す紀伝体で記す。国内向け。『古事記』が注目され始めたのは、江戸中期の国学者・本居宣長が表した『古事記伝』(全44巻)が出てからです。なお、第二次大戦前には、津田左右吉そうきち(早稲田大教授)は「神武天皇以前の物語はフィクションだ」と史学に基づいた批判をし、彼の書が発禁処分になったことがありました。
日本書紀:舎人親王が中心となり、『帝紀』と『旧辞』、諸氏族の伝承、朝廷・個人・寺院の記録、それに中国・朝鮮の記録を引用され、漢字で編纂される。神代から持統天皇(第41代)までが記されている。朝廷の公式な歴史書で、出来事を年代順に示す編年体で記す。30巻と系図1巻(紛出)。神代は1巻、2巻。諸外国向け。奈良から平安時代にかけては『古事記』は軽視され、正史である『日本書紀』が重んじられ、宮中で「日本紀講」なる学習会が行われました。
☆『日本書紀』が『古事記』の内容を継承していないことから、『古事記』が『日本書紀』の後につくられたのでないか、という議論もあるようです。
*六国史(りっこくし)について
古代日本の律令国家が編纂した6つの正史。6つは901年までに完成する。神代から光孝天皇(第58代)まで。日本書紀(舎人親王・藤原不比等)、続日本紀(藤原継縄・菅野真道・淡海三船)、日本後紀(藤原緒嗣)、続日本後紀(藤原良房)、日本文徳天皇実録(藤原基経)、日本三代実録(藤原時平)
*『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)について
鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書で、史料に『上宮記』、『日本紀私記』、『風土記』、『古語拾遺』、『天書』、『安斗智徳日記』、『調連淡海日記』、『先代旧事本紀』等、現在では散逸している書物を参照していて、『釈紀』の略があります。全28巻。
*「大和」の文字について
8世紀前半完成の「記紀」や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、「」として表記されている、とあります。また、7世紀後半以降に、わが国の称号は自称「日本」となっていくようです(『旧唐書(くとうじょ)』(618-907年))。それ故、これまで「大和朝廷」とされてきた表現は、適切ではないとの見解が1970年代以降に現れ、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」、「ヤマト政権」の語などが用いられはじめました。