京都近辺の神社・検索

s_huzino  神社の境内  名神大社  二十二社  国の一宮
 近代社格  神社本庁  兼務社になると

【京都の神社】

    右写真はどこの神社?[答え最下行]
 神社の名称
愛宕神社いま熊野神社石座神社石清水八幡宮新日吉いまひえ神宮梅宮大社
 大原野神社粟田神社    
北野天満宮上賀茂神社上御霊神社貴船神社熊野神社熊野若王子神社
 御香宮神社護王神社    
下鴨神社下御霊神社崇道神社晴明神社  
長谷八幡宮長岡八幡宮    
幡枝八幡宮菱妻神社平野神社伏見稲荷大社藤森神社平安神宮
松尾大社三宅八幡    
八坂神社山住神社山科神社吉田神社  
      
若宮神社     

【滋賀県の神社】
  奥石おいそ神社   日吉ひよし大社(日吉社ひえしゃ) 多賀大社(多賀社) 沙々貴ささき神社(佐佐木大明神)
  日牟禮ひむれ八幡宮 白鬚しらひげ神社     近江神宮

【奈良県の神社】
  春日大社(春日社)  石上いそのかみ神宮  大神おおみわ神社

【三重県の神社】
  伊勢神宮

【和歌山県の神社】
  熊野三山

【大分県の神社】
  宇佐八幡宮




■神社の境内
 神社の入り口には、寺院の三門に相当する鳥居があります。参道を進むと手を清める手水舎ちょうずやがあり、その先の両脇に祭神を守護する狛犬(猪、狐、鳥など)があります。そしてその先に拝殿、その奥に祭神を祀る本殿があります。拝殿の脇あたりに、祭りのときに神楽や芝居が演じられる神楽殿かぐらでん、神社一般の事務を行う社務所、また神輿等を収めたがあります。珍しい例として、神祭を執り行うもの(神輿舁きなど)が控える宮座をもつ神社もあるようです。
 社殿という文言もでてくるようですが、これは拝殿と本殿を指すようです。いまでは、拝殿の前から本殿に向かって手を合わせたりしますがこれは略式で、拝殿に上がって手を合わせるのが正式のようです。古くは、拝殿と本殿の間に幣殿というのもあり、ここは参詣の人が、幣帛へいはくや献上物をささげるところでした。
 ところで、拝殿しかもたない古い神社もあるようで、このとき御神体が宿るとする「山や大岩」が本殿に相当したりします。また、鳥居だけがポツンと立っている光景もよく見かけます。日本が八百万やおよろずの神の国であることを考えれば納得がいきます。古代、神霊は神祭の度に降臨し、祭りのためにつくった社殿はその後に取り潰したようです。


■名神大社
  「名神祭式」に「名神大社」として203社285座が記されている社をさすようだ。名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされる。その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『続日本紀』天平2年(730)10月庚戌(29日)条の、渤海からの貢物を諸国の「名神社」に奉ったとあるのが文献上の初見、とある。『日本後紀』以後、次第に仏教用語の意味合いを含んだ「明神」と混用記載されるようになり、律令制の弛緩に伴って、名神社は二十二社へと収縮固定されて名神祭(「名神祭式」に規定 )も廃絶したため、中世以後は社格の意味を持たない「明神」にとって代わられた。、、ある神が名神と認められる条件は、官社(官幣社)に列し(神位を授けられ)、大社に昇格している(ものが多いのか)。(Wikipedia)
「〜明神」とは、ここの「名神」に由来するという。「社格の意味を持たない」というから、いたるところに「〜明神」が増えたのであろう。

[式内社] 延長5年(927年)にまとめられた『延喜(えんぎ)式』(全50巻)の巻9、10が神明式となっていて、これ(「神名帳」とも呼ばれる)に記載された神社で、全国で2861社、そこに鎮座する神の数は3132座ある。延喜式が成立した10世紀初頭に朝廷から官社として認識されていた神社。国・郡別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。当時すでに存在したが「神名帳」に記載がない神社を式外社という。
 『延喜式』の「式」とは法典のことである。で、神明式とは神明法典となり「神名帳」ということになる。

■二十二社
 北畠親房(1293-1354年:南北朝時代の公家)は、皇城鎮守神として二十二社を定め置いたことを『二十一社記』のなかで示している。あくまで「諸国までは遼遠なので臨時の祈祷等は二十二社に奉幣した」と。
『二十一社記』にある、現在の社名で示す
・上七社:
  神宮 (伊勢神宮) 内宮:垂仁天皇26年(BC4)、外宮:雄略天皇22年(478年)
  石清水八幡宮(京都府八幡市) 860年
  賀茂社 上賀茂神社 867年、下鴨神社 崇神天皇7年頃(京都市左京区)
  松尾大社(京都市西京区) 701年、松尾神は「神々の酒奉行である」
  平野神社(京都市北区)  794年-806年
  伏見稲荷大社(京都市伏見区) 708年-715年、秦氏の祖霊として創建
  春日大社(奈良市)  768年
・中七社:
  大原野神社(京都市西京区) 784年、 
  大神おおみわ神社(奈良県桜井市)
  石上いそのかみ神宮(奈良県天理市)   
  大和神社(奈良県天理市)
  廣瀬大社(奈良県北葛城郡河合町)
  龍田大社(奈良県生駒郡三郷町)
  住吉大社(大坂市住吉区)
・下八社:
  日吉大社(滋賀県大津市) 崇神天皇7年(BC91年)の創建
  梅宮大社(京都市右京区) 平安時代前期の創建
  吉田神社(京都市左京区) 859年、藤原山蔭が一門の氏神として創建
  廣田神社(兵庫県西宮市)
  八坂神社(京都市東山区) 656年
  北野天満宮(京都市上京区) 947年、菅原道真(903年大宰府で没)を祀る
  丹生川上神社(中社、上社、下社:奈良県吉野郡)
  貴船神社(京都市左京区) 反正天皇(406~411年)のとき創建
※長暦3年(1039)に22社目の日吉社が加わる。

■国の一宮
 旧国で一番格式の高い神社が一宮であり、二番目が二宮、三番目が三宮 である。この社格制度は、平安初期から鎌倉初期に成立したといわれている。一宮のほとんどが延喜式神名帳(905年)に記載されている古社です。次に、近場のものを上げます。
 山城国:上賀茂神社、下鴨神社  丹波国:出雲大神宮、元伊勢籠神社
 摂津国:住吉大社  大和国:大神神社  和泉国:大鳥大社
 河内国:牧岡神社  播磨国:伊和神社  近江国:建部大社
 信濃国:諏訪神社  下総国:香取神宮  常陸国:鹿島神宮
 一宮といいながら、山城国と丹波国は2つの社があがっています。

■近代社格
 明治維新以降、『延喜式』に倣って、神社を等級化した制度ができたが、GHQの神道指令により昭和21年に廃止された。社名標(石材)の「社格」(文字の部分)をセメントで埋めた神社(京都伏見の御香宮神社)も今だにある。
 当時の社格
・官社     官弊社 -- 祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社
 (大・中・小)  国弊社 -- 地方官(国司)が祀る 
・諸社     府県社・郷社・村社       :約40.9%
・無格社    村社に到らない神社で氏子をもつ :約54.6%
※官社・諸社・無格社の合計数:約11万社。昭和21年には65社の官幣大社が存在していた。
官弊社、国弊社しか宮司はいなく、府県社・郷社の長を「社司」その配下の神職を「社掌」といったようです。

・これまでの神社は、過去に「〜明神」や「〜権現」などと神名を社号としたところや、「〜稲荷」「〜八幡」と「神社」の部分がなく、「〜社」としていたようですが、近代になってから全て原則として「〜神社」と称することになりました。これも国家が管理するうえでの都合によるもののようです。

■勅祭社
 天皇が勅使を派遣して祭祀奉幣を行わせる神社。古くは二十二社があった。明治初年には二十九社が制定されたが,その後は、祖神社、石清水八幡宮、春日大社、氷川神社、熱田神宮、出雲大社、橿原神宮、朝鮮神宮、靖国神社、明治神宮、宇佐神宮、香椎宮、鹿島神宮、香取神宮、平安神宮、近江神宮の十七社となり、第二次世界大戦後は朝鮮神宮が除かれて十六社となる。伊勢神宮は別格とされて勅祭社に含めない。『コトバンク』

■神社本庁
 神社本庁とは、全国の神社を包括する宗教法人で、伊勢神宮を本宗とし神社本庁にある事務組織をさす。渋谷区代々木の一丁目1番地(明治神宮に隣接)にあります。

 神社本庁に至る経緯
 明治新政府は、神道国教化を目指す「神仏分離令」を発します。その後、半官半民の中央機関ができたり、民間機関の神職会ができたり、さらには中央政府の機関ができたりします。
 神道は、仏教やキリスト教と同じく宗教であるものの、神道は国家から宗教として扱われないまま「国家祭祀を公的に行う」と位置づけられ、神社神道と皇室神道が結合した「神道」として国家権力の保護により押しすすめられます。
 昭和20年(1945)の敗戦により、GHQの「神道指令」にて、大日本神祇会、皇典講究所、神宮奉斎会、神祇局、神社局の組織は解体し、全国の神社を束ねるかたちで宗教法人として「神社本庁」ができます。神社本庁に「庁」が付くものの国家の機関でなく宗教法人です。
 神社本庁には成文化された教義はなく、憲章第8条第4項で「一社伝統の故実、習慣、由緒は尊重する」(産土神、八幡、稲荷など様々な信仰由来をもつ神社があり、伝統・儀式習わし・由緒は尊重する)ものの、伊勢信仰を本宗(憲章第2条)とする、ということです。
 我が国には、縄文以来の「自然崇拝」(八百万神)の一万数千年の歴史がありますが、いまは憲章の第2条が優先するということになっています。


 現在の神社本庁には、全国約8万社ある神社のうち7万9千社以上(98.8%)が加盟していて、その支部の神社庁が都道府県ごとにがあります。
[神社本庁]
1.伊勢神宮を本宗とし、事務局は神社本庁内に置かれる
2.議決機関は全国の神職・総代から選出された評議員会
3.上から総裁、統理(鷹司尚武:28代当主)、総長。総長以下の役員は評議員会で選任。
4.各都道府県に1つずつ神社庁を置き、その管内に支部を置く
5.神社本庁の活動
 ①包括下の神社の管理・指導 ②神道の宣揚 ③神社祭祀の執行 ④信者(氏子)の教化育成 ⑤本宗である伊勢神宮の奉賛 ⑥神職の養成 ⑦冊子の発行頒布を通じた広報活動 ⑥全国神社総代会(毎年9月各県を回って開催)
6.神宮大麻(神宮への初穂料と考えてよいか)の頒布は神社本庁活動目的の一つ
 その収入から神社庁また全国の神社に対して一定の割合で交付され、残りは伊勢神宮の収入となる。平成13年(2001)度の場合、神社本庁の収入は約35億円だったようだ。

[京都府の神社庁]
・京都府神社庁:松尾大社の東、西京区嵐山朝月町 京都府神社会館内
 京都府内21支部約1570社の各神社の氏子の代表である総代約5000名による組織
・京都府神社庁総代会 総会:出席は宮司、会長、総務「はがきで欠席」
  2024年3月29日は京都駅ビル内のホテルグランヴィア京都で開催:460名
・京都府神社庁洛北支部神宮大麻暦頒布始祭:11月
  「神宮大麻」と「神宮暦」が正月の神棚にあるよう頒布に先立つ祭
・京都府神社庁洛北支部総代大会:11月
  神社庁の神社総代会に準ずるものが支部で開催される
 以上、wikiなど

■神職
(神社の神職)
 神社の神職の主なものに、宮司ぐうじ(神社の責任者)、ごん宮司(副宮司 大きな神社のみ)、禰宜ねぎ(管理職)、権禰宜(一般職員)、出仕しゅっし(見習い)があり、神職を名乗れるのは権禰宜以上で、全国で約20,000名、その内の宮司の数は約10,000名といわれています。神職が普段いない神社(兼務神社)が多いと容易に予想できます。

(神職の階位)
 神職にも免許証のような階位があり、上から順に浄階ー明階ー正階ー権正階ー直階とあります。明階は大学を出て神職として数年研鑽を積んで授与される人が多いようです。正階は各地の養成所を出た人が多いようです。直階が最下級といっても、それほど容易なものでないといわれています。

(神職につくために)
 國學院大學や皇學館大学の大学の神職専門学科に入学し、資格習得過程を修了することで卒業時に「正階」の資格を得ることができます。
 全国のいくつかの神社に設置されている神職養成所で神道を学ぶ方法もあります。ここでは専門学校的な位置づけで、2年コースで「正階」、1年コースでは「権正階」の資格が卒業時に与えられます。
 さらには、國學院大學や皇學館大学の神職養成講習会というものもあるようです。習得期間は約1ヶ月。こちらは都道府県の神社庁の推薦が必要となりますが、簡単に手に入るものでなく、宮司の推薦が必要な上、本庁が推薦を承認するというものです。宮司が推薦するという良好な関係が築かれている必要があります。

◎現在も日常的に使う神官(しんかん)という文言は「国家の官吏(かんり)として神に仕える」という意味で、確かにそういう時代もありましたが、今は「考えもの」です。公立・私立の学校に「体育教官室」というのもよく見られますが威厳を持たせるためのもので、これも「考えもの」です。国立の学校で「教官室」なら、まあ許せると思いますが。
 『官』が付くのは国に関係するものと考えましょう。それで、「神官控え室」は「神職控え室」となるんでしょうね。神官という文言を神職(神社本庁が認める資格)に置き換えるとよいようです。一般的には「神主さん」となるんでしょうね。

■兼務社になると
 止む無く、他の神社から宮司を受け入れると
1.神社庁への代表役員の変更届け
 代表役員が宮司になっている場合が多く、神社の代表者が交代すると、速やかに変更届を神社庁へ提出する必要があります。
 同時に、宗教法人への登録(以下、法人登録)変更も必要になります。
 変更届は、新宮司を派遣する神社が手慣れていて、「○△神社宮司の印」(登録印:角印)・印鑑証明カードを預かり、「新宮司の印」(丸印)・印鑑証明カードとで神社庁と法人登録を行います。後ほど手数料を請求されます。(派遣宮司が神社の代表者なのだから「○△神社宮司の印」(角印)を所有する、つまり預けたままになると思われます)
※届け出の新宮司の氏名は、本務とする神社の宮司と同一名であったり、その配下の禰宜や権禰宜である場合があります。また、新宮司に宮司が派遣されなく禰宜や権禰宜であるでしょう。
 いわば嫌われる言葉ですが、「主従関係で決まる」と考えてよさそうです。時代劇でいえば道場の「看板を持って行かれた」のです。いやなら、多少時間がかかりますが氏子内で宮司を育て・出す必要があります。派遣する神社側も、神職の数が足りないのですからそのことを否定する気はありません。65才定年の後、宮司とも良好な関係をもたれた総代さんあたりが、にわか仕込みで神職の免許を取られること勧めます。わずかながらの手当を奉賛会が出そうじゃありませんか。

2.「銀行通帳」等の変更
 通常、神社は宗教法人(昭和26年法律第126号)であるので、税金が優遇されています。「銀行通帳」等の名義が神社代表者の宮司である場合、変更する必要があります。銀行側では名義変更手続きに「法人登録」の謄本(法務局で取得)が必要になってきます。
 通帳の名義に奉賛会長の名前にするとしても、銀行窓口で、会長の神社奉賛会での身分証明と派遣宮司との紐付く書類が必要なのです。このとき、新たに会長の印鑑・印鑑証明が必要になったりします。銀行では名義が会長であろうが宮司であろうが法人として登録証明されていればよいのです。ここで派遣宮司にすると、通帳から金銭を引き出すのに苦労する恐れがあります(根こそぎ持って行かれた感があるでしょう)。
(注意)最近、通帳の名義人は団体名では駄目です。

3.会計年度が終了すると、財産目録と収支計算書を提出
 会計年度が終了すると速やかに、神社が私有する財産に変更があったか、また年度の会計処理が適切に処理されたか、を知るため「財産目録」と「収支計算書」を派遣宮司の所へ提出する義務があります。年間の総収益が8,000万円を超えている場合は、「収支計算書」を税務署にも提出します。

4.派遣宮司と奉賛会で神事の取り組みの検討
 神社の神事、御祈祷祭・湯立祭・例大祭・御火焚祭・新穀祭(新嘗祭)・元旦祭の、どこまで協力していただけるか、奉賛会役員と派遣宮司とで日時を詰める必要があります。
 宮司を派遣する神社は大きく著名な神社が多く、派遣宮司が数々の神社を兼務している場合もあり、本務とする神社の神事もあるので、直近になると時間帯まで詰める必要がでてきます。七五三・お宮参り・大祭前の服喪者の祓い(除服)・地鎮祭など小さな神事は当該神社の氏子(或いは親族関係の中)で賄うことが可能か、この検討も必要になってきます。

5.神宮大麻の頒布
 「神宮大麻」と「神宮暦(こよみ)」の製造と頒布は、明治15年頃の「神宮教会」の時代から行われているようです。
 新宮司の神社は神社本庁に加入していることが予想されます。その場合、神宮大麻の割当分の滞りのない入金(銀行振り込み)を促されます。神宮大麻は伊勢神宮への初穂料と考えて(多分)いいのですが、伊勢神宮と神社本庁と繋がっているのですから仕方がないことです。

6.防災・防犯に細心の注意
 火災では、落雷によるもの(大概は高木に落ちる)・電気器具の漏電によるもの・タバコによるもの・放火など。犯罪では、社務所あらし・賽銭泥棒・落書き・破壊行為などが考えられます。火災や犯罪に巻き込まれると、(形式上は)管理しているのは派遣宮司の神社になりますから、その管理責任が問われ嫌がられます。センサーライト、スプリンクーラー、防犯カメラの設置がこれまで以上に望まれます。

7.神社奉賛会の協力体制で行うべきこと
 神社に常駐する人がいないと神社自体は廃れてゆきます。おみくじ・お守り・御朱印など、当該神社の氏子の方で器用な方がおられたら、そこで調達してもよいと思われます。氏子・奉賛会役員でできることを常に考え対応しましょう。それが派遣神職の負担を減らすことにも繋がります。ネットのWebページ(ホームページ)を作り、神社自体の広報と「御朱印等の販売」も検討の余地があるといえます。

8.宗教法人として義務づけられていること
 各神社は、神社本庁(包括宗教法人)に所属しているので、被包括宗教法人です。社務所(事務所)へ常備が義務付けられる書類があります。神社・奉賛会規則、役員名簿、財産目録及び収支計算書、境内建物の書類、事業を行う場合の関連書類等を整理し閲覧可能なたかたちで置く。

※何か神社の財産まで持っていかれる妙な気持ちになること疑う余地無し、氏子内で宮司を選出する努力を検討する必要があると思われます。


■著名な神社
 兼務社になり、派遣されてくる神社の神職構成を事前に知っておくと、臆することなく(?)対応ができるのでないでしょうか。ご自分の神社にも誇りをもって対応したいものです。
[別表神社]
 神社の中でも、特に神社本庁が神職の進退等に介入するものは、別表べつぴょう神社とよばれ350社にのぼります。別表神社でも、神社庁の「許可」を受ける必要があるのです。
別表神社「選定に関する件(選定基準)」という通達(昭和26年7月9日)
選定基準は、①由緒 ②社殿・境内地等の宗教施設の状況 ③常勤神職の数 ④最近3年間の経済状況 ⑤神社の活動状況 ⑥氏子崇敬者の概数、その分布等崇敬状況 などが上げられます。京都府では上賀茂、下鴨、石清水八幡など16社、滋賀県では多賀、日吉など9社があります。
別表神社の人事では
1.基準に達すれば宮司の下に権宮司を置いても可
2.宮司・権宮司は明階以上の階位を有する者
3.禰宜は正階以上の階位を有する者
4.権禰宜は権正階以上の階位を有する者
5.宮司・権宮司の任免は神社本庁統理の直接任免とする

[旧官国幣社でこれまで別表神社になっていない神社]
 伏見稲荷大社(京都府:二十二社)、日前神宮・國懸神宮(和歌山県:紀伊国一宮)、梅宮神社(京都府:二十二社)、鎌倉宮(神奈川県)、靖国神社(東京都:勅祭社)、山内神社(高知県)など いずれも単立神社。

■宗教法人法
・宗教法人法:昭和26年4月3日法律第126号
1.宗教団体が自ら、法律上の責任を負い、財産を所有・運用し、宗教活動を運営していく法人として認められたことを、「法人格」を与えられたといいます。
2.手続きは、都道府県知事又は文部科学大臣の認証を受け、法務局にて登記する。
3.土地・建物などの不動産は免税の対象になる。
4.責任役員を3人以上おき、そのうち1人を代表役員とする。
5.会計年度が終了してから3カ月以内に財産目録と収支計算書を作成。
6.年間の総収益が8000万円を超えている場合は、収支計算書を税務署にも提出。
7.常備が義務付けられる書類(規則、役員名簿、財産目録及び収支計算書、境内建物の書類、事業を行う場合の関連書類)等を事務所に置く。
8.非課税対象あり:不動産の他、信者からの寄付金、施設運営・宗教儀式の実施費、永代使用料や地代の継続的な徴収など。
9.課税対象になる収益事業あり :物品販売業、金銭貸付業、不動産・物品貸付業、出版業、駐車場業、技芸教授業、境内地の貸し出し
・「神社集会所の貸し付け」は営利でないから非課税か。
 『小谷野税理士法人』など

  [写真の答え :ふじのもりじんじゃ]


【愛宕神社】旧称は阿多古神社。創建は701-704年。京都愛宕山(標高924m)山頂に鎮座する「火伏せの神」。全国に約900社ある愛宕神社の総本社。愛宕神社の火伏札「火迺要慎」は、京都の多くの家庭や飲食店などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる。千日詣(千日通夜祭)は、7月31日夜から8月1日早朝にかけて参拝すると千日分の火伏・防火の御利益があると云われ、毎年数万人の参拝者で境内参道は埋め尽くされます(Web 愛宕神社)。

【粟田神社】創建876年。青蓮院門跡の鎮守社。明治になるまで感神院新宮、粟田天王宮と称されていた。八坂神社と同じ素盞鳴尊、大己貴命を祭神とするところから感神院新宮とよばれる。それゆえに、室町時代には祇園会が行われない際は粟田祭をもって御霊会としたと伝えられる。剣鉾は祇園祭の山鉾の原形と云われており、京都市内には51社がその剣鉾を受け継いでいるという。京の七口の一つである粟田口に鎮座し、古今旅立ち守護の神として崇敬を集めている。末社に鍛冶神社がある。刀工三条小鍛冶宗近と粟田口藤四郎吉光を祀る。

【伊勢神宮】三重県伊勢市。創建は、 内宮:垂仁天皇26年(BC4)、外宮:雄略天皇22年(478年)。伊勢神宮は皇室の氏神である天照大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い。倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡やたのかがみ(三種の神器の一つ)を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれる。
[伊勢講]の隆盛は御師の活躍に待つところが大きい。御師は数名ずつのグループに分かれて各地に出向き、農村で伊勢暦を配ったり、豊作祈願を行ったりして、その年に収穫された米を初穂料として受け取る事で生計を立てていた。伊勢神宮参詣の旅を奨め、御利益があることを解いたのでしょう。その結果、農村には「伊勢講」なるものが全国につくられます。畿内では室町中期から、全国的には江戸以降のようです。農村においても、無尽講で集めたお金で一生に一度の旅行ができると心待ちにしたようです。

石上いそのかみ神宮】奈良県天理市布留町にある。JR巻向駅から北(奈良駅から南)へ3つめのJR天理駅下車。伝・崇神天皇7年(BC91年)創建。現在の社殿は大正2年に建てられたが、本来は大神神社同様、社殿がない神社で大和でも古社中の古社である。神階は貞観9年(868年)に正一位。二十二社の一社。伊勢神宮と同じく神宮号を称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と何らかの関係があるのか。
 『記紀』に石上神宮の記述があり、古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきた。『日本後紀』に805年、十五万七千余人を動員して神宮の兵器をごっそり平安の新都に運搬したとある。しかし、直後に天皇が重病を患ったことから「祟り」とされ、翌年返却されたという。武器類は神社の天神倉あめのほくらに納められていた。神社の近くの布留遺跡には十の品部(鉄製武器をつくる職能集団)に関わる遺物が出土しているという。(『奈良を知る 日本書紀の山辺道』)
 また、石上神社には、百済国から贈られた「七支刀」(しちしとう:74.8cm 国宝 369年制作)が伝わっている。
鉄を求めて朝鮮半島へ進出したのも、ここの武器と関わりがありそうだ。

【石座神社・山住神社】石座神社は京都市左京区岩倉上蔵町にある神社。祭神は八所明神社・十二所明神社である。
 元は岩倉西河原町の社殿がない山住(やまずみ)神社で、今は石座神社の御旅所となっている。山住神社は、この地域の産土神であり、その名称は長く石座明神であった。山住神社が「石座明神」の名称をもつのはどうやら明治初期まで続く。この神社の初見は、元慶4年(880)10月、『日本三代実録』に「石坐の神」の神階が「従五位下」を賜ったとある。御神体は山住神社裏山の磐座である。
 平安京に都を遷す頃、国家鎮護を目的に都の四方に一切経を埋めたとし、その内の東北がここ岩倉であるとされる。その一切経を埋めた場所が上蔵町か西河原町かという議論がある。
 現在の石座神社は、天禄2年(971年)に、大雲寺がこの岩倉上蔵町に創建されたとき、西河原町山住の石座明神がその鎮守神として、境内(現在地)に勧請されたことにはじまる。長徳3年(997年)には社殿が設けられ、石座明神に、新羅・八幡・山王・春日・住吉・松尾・賀茂の七明神が追加勧請、合祀され「八所明神」と称した。この年まで、石座明神の名が付く地は2つあり、これ以降は石座明神の名が付く地は現在の山住神社のみ(ただし、庶民が北の神社を石座明神、南の神社を石座明神の御旅所としたのは別の問題)。さらに、西社が建造されると「東社の八所明神」に加え、伊勢・平野・貴船・稲荷の四明神が追加勧請・合祀られ、西社の「十二所明神」と称した。その後、天文15年(1546年)の細川氏と当時の岩倉領主山本氏で交戦した他、戦乱にて社殿が焼失している。現在の社殿は、天正2年(1574年)の再建と、明和3年(1766年)の改造築のものである。
 明治に入ると、旧来の御旅所・石座明神が「山住神社」、八所明神社・十二所明神社が「石座神社」と改称された。明治10年には、現在の岩倉村松町にあたる「正水山」(しょうずやま)の一言神社が、さらに明治11年には石座神社裏の「万年岡」にあった福善社が石座神社境内に合祀された(二つの摂社)。
 いつ造られたか定かでないが、石座神社の大鳥居をくぐり石段を登ってゆくと、拝殿へ行くまでに東西の大きな宮座が見られる。神社として珍しいといえる。これも、農民の「惣村結合」がいち早く成立した証左であるようだ。

【石清水八幡宮】南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌860年に清和天皇が石清水寺(現・摂社石清水社)の境内に社殿を造営したのが創建とされる。石清水寺はその神宮寺となる。939年、伊勢神宮に次いで奉幣される地位を得、伊勢神宮と並んで「二所宗廟」と称される。源氏諸氏族から氏神として(平氏まで)崇敬され、武神・弓矢の神・必勝の神とされた。当社の分霊は源頼義による壺井八幡宮(大阪府羽曳野市、1064年創建)や頼義・頼朝による鎌倉の鶴岡八幡宮((大阪府羽曳野市、1063年創建)など、数多くの八幡宮に勧請された。

宇佐うさ神宮】(宇佐八幡宮)大分県宇佐市にあり、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。祭神は八幡大神で、軍神としても信奉された応神天皇のことである。725年創建。石清水八幡宮・鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡宮の一つ。八幡宮とは、源氏、ひいては後の武家全体の守護神である。また全国に若宮八幡宮がある。この神社は「八幡宮の若宮」、「八幡宮本宮から迎えた新宮」という意味がある。

【奥石神社】『奥石(おいそ)神社本紀』(1384年)によると、第7代孝霊天皇5年(BC286)に石辺大連が老蘇森に神壇を築いて大歳神御子を祀ったことに始まるとする。一説には繖山(きぬがさやま)を神体山とする原始信仰に始まる神社とされ、現社地は繖山山頂の磐座を遥拝する里宮とする説がある。仁寿元年(851)1月に正六位上の神階を賜ったとする。延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では、近江国蒲生郡に「奥石神社」と記載され、式内社に列している。天正9年(1581)に本殿が再建されている。近世には「鎌大明神」・「鎌宮神社」などと称された。中山道の紀行文に「老蘇(おいそ)の森」がよくでてくる。この中に神社がある。

【大原野神社】大原野社、現・西京区大原野南春日町にある。奈良の春日社から勧請を受けたので、京春日ともいう。創建は784年。二十二社の内で、春日社、吉田社と並んで藤原氏の三氏神の一つ。850年、藤原冬嗣を祖父に持つ文徳天皇が現社地に社殿を造営した。藤原氏の家に女の子が生まれると、その子が皇后・中宮になれるようにと当社に祈願。876年、第56代清和天皇の女御となった藤原高子も当社に参詣した。

s_huzino 【大神神社】 奈良県桜井市三輪にある。ご神体は三輪山で、本殿を持たず。創建は不詳(有史以前)。古くから神様の中の大神様として尊ばれ「大神」と書いて「おおみわ」と読む。中世以降に大三輪明神ともいう。神階は859年に最高位の正一位で、延喜式の社格は官幣大社で、のちに「大和国一之宮」となり、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇となった。磐座祭祀が営まれたとされる日本でも古い神社の一つ。明日香村からは北北東6kmの位置に三輪山が見える。現在の巻向(*)・三輪地域はヤマト政治の中心地であった。邪馬台国の近畿説を伺わせる遺跡が纒向遺跡である(九州説は吉野ヶ里遺跡)。
 大神神社は大物主神おおものぬしのかみ(別名で大乙貴命おおあなむち・の・みこと)が祭神であり、全国の三輪神社や金刀比羅宮の祭神でもある。大物主神は国造りに関わった神で、大国主神おおくにぬしのかみの「幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)」である。大物主神が出雲の大国主神の前に現れ、国造りを成就させる為に三諸(みもろ)山に祀られることを望んだという(日本書紀・巻第一・神代)。これが最も古い神社といわれるところ。
 さて、三諸(みもろ)山とは神のおられるところを意味する。「三諸」の山は、「御諸山」「三室山」「御室山」とも表記され。全国に分布するが、やはり三輪山こそ本家本元の「みもろ山」だろう(『奈良を知る 日本書紀の山辺道』)。
(*)纒向遺跡はJR巻向駅を下車。巻向駅から南南東2kmに大神神社がある。三輪は「三輪そうめん」が有名。



【熊野三山】和歌山県の3つの神社の総称。熊野の地名は『日本書紀』に見える。神仏習合により、神社でありながら仏教の浄土信仰の教え、「阿弥陀仏信仰」を説いている。
 熊野本宮大社 家都美御子神:阿弥陀如来を本地、西方極楽浄土
 熊野速玉大社(新宮) 速玉神:薬師如来を本地、東方浄瑠璃浄土
 熊野那智大社 牟須美神  :千手観音を本地、南方補陀落(ふだらく)浄土
三山全体が浄土の地で、熊野三山を参詣すると「生きながらに、死んで浄土に生まれ変わって仏(成仏)となり、そして、再び現世に帰ってくる」とする。
 院政期の度重なる熊野御幸ごこうをきっかけとして日本中に普及した。道案内は先達と呼ぶ修験者が務め、道中の作法も指導した。熊野の地は言わば浄土で、そこまでに三途の川(岩田川、現・富田川)を渡って九品の鳥居をくぐらなければならない。儀式的には岩田川を渡る前に死ぬこととなる。詣は、極楽浄土を願う生前の予行演習で、何度も繰り返すことで極楽浄土へ近づけると考えた。身を清め、岩田川を渡り、中辺路(なかへち)を進み、本宮・新宮・那智を渡り歩き、来た道を逆にたどるのが原則です。再び中辺路を通って都へ帰っていきます。

【護王神社】京都市上京区にある神社。創建年代は不詳。高雄山神護寺境内に作られた、和気清麻呂を祀った護法善神に始まる。嘉永4年(1851)、清麻呂が「769年の道鏡事件」より皇統を守った等の功績により、護法善神は正一位護王大明神という最高位の神階神号を授けられる。明治7年、護法善神社は護王神社に改称、さらに明治19年、明治天皇の勅命により蛤御門前付近にあった公家の中院家なかのいんけ(現在地)に遷座された。「いのしし」の由来は、道鏡事件で大隅国へ流されたとき、清麻呂の身を守ったという。



sakiz 【沙々貴神社】滋賀県八幡市安土町常楽寺にあり「佐佐木大明神」として佐々木源氏の氏神。創建は神代。もともとこの地に住んでいた沙々貴山君(狭々城山君(『日本書紀』)、佐々貴山君(『万葉集』))の子孫である沙々貴氏と佐々木氏が次第に融合していくと、沙々貴氏の氏神であった沙々貴神社に宇多源氏の祖である敦実親王とその父・宇多天皇(867-931)を新たに合祀し、佐々木氏自らの氏神とした。(写真右 1987年8月11日 撮影)
 沙々貴山氏は古くからの豪族で、神崎郡の南にある蒲生郡で栄えていた。本拠地は観音寺山と見られ、その勢力は現在の近江八幡・安土町・東近江市、さらに愛知・犬上郡に及んでいた。一方、宇多源氏の源成頼(976-1003)が近江に土着して佐々木氏の祖となり、その孫経方が現在の東近江市付近の佐々木庄小脇(佐々木姓発祥の地)に居住し、この後、沙々貴氏山の本拠地にのりこみ、両者の同化がすすめられた。平安後期には沙々貴山氏まで源氏を称するようになる。

【白鬚神社】近江最古の大社か(再建?)。滋賀県高島市鵜川にある。白鬚(しらひげ)神社は、第11代垂仁(すいにん)天皇の第四皇女、倭姫命(やまとひめ・の・みこと:『日本書紀』)(『古事記』では「倭比売命」)によって社殿が建てられ、BC5年の創建とする。国史に「比良神」と見える神名が当社を指すとされており、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。全国にある白鬚神社の総本社とされる。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべる「近江の厳島」とも称される。鳥居は、古くは弘安3年(1280)の絵図では陸上にあり、その後の琵琶湖の水位上昇に伴い水中に立つようになったという。現在の鳥居は昭和56年(1981)のものである。
 祭神が「比良山」から猿田彦命(さるたひこ・の・みこと)になったのは不詳であるが、白鬚神社と水尾神社(高島市拝戸)の密接な関係が指摘されている。猿田彦命は、 天孫「瓊々杵尊(ににぎ・の・みこと)」の神降りの際に天の八衢に立って道を照らす・道案内する神(『日本書紀』)がいた、ということで、導きの神・道開きの神として信仰を集めている。中世には道祖神と結びついたとされる。

【崇道神社】京都市左京区上高野にある。早良親王(さわらしんのう)の霊を鎮めるため貞観年間(859~877年)に創建された。明治以降に、近隣にあった式内社とされる出雲高野神社・伊多太神社(いただじんじゃ 上高野最古の神社、伊多太は湯立の訛)・小野神社(小野毛人を祀る)の3社が、崇道神社に合祀された。
 早良親王は桓武天皇の実弟で、東大寺の高層でしたが、還俗し皇室に戻りました。それ以降も東大寺との強い結びつきが続き、奈良寺院の力を嫌う桓武天皇との間に軋轢が生じました。延暦4年(785)9月、遷都したばかりの長岡京で、長岡京造営責任者・藤原種継が矢で射られる事件が発生し翌日死亡します。早良親王が大伴氏や佐伯氏と共にこの叛逆に与していたと幽閉・淡路へ配流し、早良親王は配流先の途中、無実を主張し絶食息絶えました。その後、桓武天皇の近親者の死が続き、都では悪疫がはやります。陰陽師に占いをさせると、早良親王の祟りであるとします。桓武天皇は造営中だった長岡京を捨てて、794年に平安京へと遷都しました。それでも怪異現象や、地震や火山の噴火が続き、桓武天皇は恐れおののき、800年に早良親王を「崇道天皇」と追称しました。なお、歴代天皇には数えません。



taga 【多賀大社】滋賀県犬上郡多賀町多賀。式内社。現在は神社本庁の別表神社。伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)の二柱を神代の昔に祀る。これより、お伊勢は多賀の子というか。また、『古事記』以前の時代に、一帯を支配した豪族・犬上氏(姓は君)の祖神を祀ったとの説がある。明応3年(1494)には神宮寺として天台宗の不動院が近江守護六角高頼によって建立された。神宮寺配下の坊人は、「多賀大明神」として全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢神宮・熊野三山とともに庶民の参詣で賑わった。
 多賀社の神官は神職でありながら同時に幕府の御家人という身分でもあり、四周の荘々(近江一円は山門の勢力範囲)に向って、ある程度の横暴を加えたりした。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」という俗謡もある。



【長谷八幡宮】京都市左京区岩倉長谷町にある神社。旧社格は村社。社伝によれば、天安元年(857年)に、惟喬親王の御願で惟仁親王を祀ったとされるが、詳しい由緒は不明である。
 宮座を持ち、二つの宮座の内の一つ、新座は近隣の村の混成です。そうした協力関係ができあがり、はやくから長谷、中、花園の共通の氏神になったのでしょう。隣国近江の村でも、他の村へ出稼ぎ(田の小作、請作)として応援に行っているケースがあります。
*長谷の明治初期の戸数は68戸で、それ以前は36戸であった時期があったようです。その36戸が二つの宮座に分かれていました。両方の座には5名の宮役がおり、その年長者をそれぞれ一和尚(いちばんじょう)と呼びました。蔭山座は長谷の16軒で蔭山神社に属し、新座は長谷の20軒と、花園、中のもので、八幡宮に属していました。、、長谷八幡宮の祭礼は8月15日、現在は10月10日。長谷は宮本で、祭の役はなし。花園は神輿を出し、中は馬を6頭出して、3番の馬駆けをしました。祭りの中心は剣鉾で、長谷2本、中1本、花園2本出しました。『洛北 岩倉誌』P74



【日吉大社】東本宮は、崇神天皇7年、牛尾神社の里宮(山上の奥宮に対し、山麓の村里にある社殿)として日枝山の山頂から現在の地・山麓に移されたと伝えられるという。
・『古事記』(712)に「大山咋神おおやまくいのかみ、亦の名を山末之大主神やますえのおおぬしのかみ。此の神は近淡海国の日枝ひえの山に坐し」とあるのが初見だが、これは日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したもの(滋賀県神社庁)。式内社、二十二社の一つ。
・なお、西本宮の祭神・大己貴神おおくにぬしのかみは、大津京遷都の翌年である天智天皇7年(668)、大津京鎮護のため大神神社(おおみわじんじゃ)の神が勧請かんじょうされたという。

【日牟禮八幡宮】成務天皇が131年の即位の時、近江八幡市宮内町に大嶋大神(大国主神)を祀ったのが草創とされる。275年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所を設けられた。そこに祠を建て「日群之社八幡宮」と名付けられた。991年、一条天皇の勅願により、八幡山上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、八幡宮を祀った(上の社)。1005年、遥拝社が山麓に建立された(下の社)。室町時代には足利将軍家や六角氏が寄進をしている。
 秀次が八幡山城を築城するとき、上の八幡宮を下の社に合祀した。秀次の死後、京極高次が入るが、1595年に廃城となった。城下町は近江商人の町として発展し、当社はその守護神として崇敬を集めた。昭和41年(1966)に「日牟禮(ひむれ)八幡宮」と改称した。


【三宅八幡】京都市左京区上高野三宅町にある神社。創建は、小野妹子が遣隋使として隋からの帰国後に、自らの所領である山城国愛宕郡小野郷に宇佐八幡宮を勧請し建立したのが始まりとされる。造営当初は伊太多神社の境内にある末社の一つとして建てられ、今の位置より南にあったとされる。
 御利益は子供の守り神として、かんの虫封じ、虫退治の神。別名「虫八幡」とも呼ばれる。本殿の南側の入口には狛犬ならぬ狛鳩が置いてある。(Wiki)



【吉田神社】貞観元年(859)、吉田社の創建。左京区吉田神楽岡町の吉田山にある。藤原山蔭が奈良の春日大社四座の神を勧請し創建。平安京における藤原氏全体の氏神となる。正暦2年(991)には二十二社の前身から十九社奉幣に加列される。鎌倉時代以降、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝する。室町時代末期の文明年間(1469 - 87)には吉田兼倶が吉田神道を創始する。江戸時代に入ると社領590石であったが、寛永5年(1665)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、幕末に至るまで神道界に大きな権勢を誇った。(Wiki)