京都へ繋がる街道


1.伏見から京都へ繋がる街道
  伏見の街道
2.近江路
  近江の宿駅 紀行文から
3.参勤交代は京都のどこを通過したか
  かかった費用 どこを通過する
4.畿内道
  高野山参り・熊野参り


1.[伏見から京都へ繋がる街道]
京都市中心部と伏見をつなぐ街道を、西から東へ取り上げる
 伏見は、1929年(昭和4年)5月1日に「町」から「伏見市」に、その後に1931年(昭和6年)4月1日には京都市に編入され、「伏見区」となります。2年ほどの短期間ですが「伏見(伏水)」はそれほど栄えた町でした。

【鳥羽街道】この街道は、平安京造営時の鳥羽作り道(鳥羽作道)に由来し、平安京の玄関口である羅城門から真っ直ぐ南下し、鴨川と桂川に隣接し、その二つの川の合流点(上鳥羽)にあった船着場、草津湊まで伸びていたようです。すぐ近くに、巨椋池岸の納所のうそ(平安京へ運ぶ物資の倉庫)へと繋がっていて、水上交通の拠点となっていました。草津湊という名称自体はそれほどでてくる名称ではなく、その位置も川の蛇行とともに多少ずれたといわれます。鳥羽街道の玄関口は、後代に羅城門の東の鳥羽口(東寺口)になりました。
 現在の地図で鳥羽街道は、羅城門跡(鳥羽高校西2本目通り)から旧千本通りを南へ辿ると、道幅が小さくなったりしてわかりにくいです。鴨川をまたぐ鳥羽大橋からは交差点「千本通赤池」を南下します。その後の川の蛇行とともに道路が曲がりますが、なんとか下鳥羽・横大路そして羽束師橋までたどり着けます。
 なお、京都ICすぐ南500m程の、東の国道1号線(鳥羽大橋や赤池通過線の京阪国道)の両側、西に鳥羽離宮跡、東に城南宮があります。白河天皇の鳥羽離宮(城南宮離宮)造営当時は広大な敷地があり、その一部にその鎮守社として城南神(今の城南宮、主祭神 - 城南大神:方除の大社)があったようです。

daigo 【国道1号線】現在一番賑わいのある太い道路です。ここを走れば間違いなく大阪へ行けます。元々の国道1号線は京阪国道の方です。今では南北並走する2本があり、西は鳥羽大橋や赤池通過線の京阪国道であり、東は油小路線です。油小路線の方が新しいものです。

【竹田街道】江戸時代に、竹田口から伏見港に通じる道を造ったという。但し、伏見港の近くでは伏見城の堀の一部を利用しています。御土居の出入口、竹田口は「東洞院通八条上る」にあったといいます。
 この街道は車石が敷かれ、牛車による物資の輸送が行われていました。その車石の一部が陶化小学校(南区東九条中御霊町)に残されています。この街道が車石があったこともあり、電車道として利用されたのでしょうか。日本で初めての営業用の電気鉄道が、京都駅から伏見京橋の間で走っています。
 さて、鴨川との交差点の勧進橋から南下しその先を辿ってみると、関西電力深草変電所東・カメラのキタムラ西を南下、伏見城の堀に来ます。伏見城は1624年に廃城となり、早くからこの先が行けて、月桂冠昭和蔵(元はヨドミ、その後に紀伊徳川屋敷)の北へどん付き、たぶん、ここを東に南下、伏見港の近く寺田屋の西まで降りて来ます。
 この辺りに大名行列の宿舎(【伏見宿】)として賑わった中心の町、京橋があります。現在、寺田屋の西一帯が京橋町です。寺田屋の南側が川、この辺りが伏見港でありました。この竹田街道の一部、十条~棒鼻は昭和46年に国道24号に指定されました。

【師団街道】明治44年(1911)に、京都市街から伏見区深草の陸軍第16師団司令部までの国道として指定されました。
  師団司令部    (現聖母女学院短期大学)
  歩兵第 9連隊   (現京都教育大学)
  野砲兵第 22 連隊 (現藤森中学校など)
  輜重兵第 16 連隊 (現京都教育大学附属高校など)
  工兵第 16 連隊  (現桃陵中学校など)
  射撃場(現京都教育大学附属養護学校など)
上記の設置に伴いこの名称が現在にも残っています。
 師団街道は、伏見街道の西、竹田街道の東に位置し、北は塩小路橋東詰(塩小路通り)で川端通りにつながり、南は国道24号を横断すると伏見市街の京町通りにつながります。 この道は京阪伏見稲荷駅の西側を南下、京都府警察学校及び龍谷大学・深草学舎の東を南下する通りです。因みに、師団街道には、北から第一軍道、第二軍道、第三軍道までありますが、こちらは東西の道路です。
・師団街道(京町通り)と国道24号線の交差点の北西角に、若者の胸がときめく「伏見ミュージック」がありました。その後、名を変えましたが平成17年(2005)1月に閉店しました。またこの辺り、東西の24号線沿いに伏見インクラインが、北からの疎水と南側にある疎水を昭和34年(1959)まで繋いでいました。24号線を横断し、京町通りを南下すると京阪電車丹波橋駅のすぐ西側に出ます。その後、東西の通りの大手筋まで来ると、南北に並走する近鉄桃山駅が東側、京阪電車の桃山御陵前駅が西側に見えます。京町通りはこの地点で両駅の中央の通りになります。ここは、秀吉・家康の頃は東に伏見城を臨む城下町です。この通りの一本西が両替町通りです。日本の銀座発祥の地として栄えました。

【伏見街道】豊臣秀吉によって開かれ、北端には方広寺(京の大仏)が、南端には伏見城がありました。ただし、どん付いた伏見城には、栄春寺が伏見城の城壁の一部として、外敵の通過を防いでいました。
 この街道は、伏見口(五条通りと、川端通りから三筋目の本町通りの交差点)を起点として、鴨川東を南下して、東福寺伏見稲荷大社の西側を南下、さらに藤森神社西側を南下、伏見の「栄春寺」で終点です。現在は、国道24号線の高架下を南へ進めば(可能か検証の必要)、先で南北の国道24号線につながります。戦後のいつの頃か、栄春寺より以南の名称は24号線になりました。
 現在の伏見街道は、地域の生活道路(道幅が狭く、ぎりぎり車の離合が可能)となっており、東山区あたりで本町通り、南の伏見区深草あたりで直違すじかい橋通りと呼ばれています。栄春寺は敷地が小さくなり、南北24号線の東に追いやられています。

▼伏見城が廃城になるまでは、竹田街道や伏見街道の南進は、伏見城外堀(濠川)や栄春寺の土塁で終点となり、外敵の進入を防ぐかたちをとっていました。

 [栄春寺] 1568年創建 伏見で最初の曹洞宗寺院。観音堂は慶長5年(1600)、関ヶ原の前哨戦の合戦で、徳川家の家臣・鳥居元忠らが西軍・石田三成に破れ自刃した伏見城の遺構が使われ、また墓地には唯一現存する伏見城総構え(土塁)の遺構があります。



 1日の歩く距離はおよそ8里から10里強(約32~40km)といえそうです。
もちろんこれは成人男子の場合ですが、歩行速度を時速4kmとすると、単純計算で約8~10時間も歩くことになります。そのためには、夜明け前に出発し、夕方日が暮れないうちに次の宿に着くようにしていました。『東海道への誘い』。
 街道の旅人を宿泊させたり、荷物の運搬をする人馬を用立てたりするところが宿場や宿、または宿駅と呼ばれています(宿泊設備がない宿駅もあった)。平安末期から宿駅は整備され始め、江戸時代には宿駅伝馬制度というものにまとめあげられました。旅籠はたごが多く備わると一つの町、宿場町となります。
 江戸時代には大名の参勤交代も行われ、その宿泊に該当する宿駅は藩が落とすお金で潤い栄えることになります。

2.[近江路]
oumi ■近江の宿駅
 京都から発して、近江の宿駅は(三条大橋から大津まで2.2里ほど)数値単位は里
 大津--(3)--勢多--(50町)--○野路--(2)--守山--(2)--鏡--(2)--○武佐--(1)--蒲生野--(2)--愛知川--(1)--○四十九院--(2)--○小野--(50町)--万場(番場)--(50町)--佐目加井(醒井)--(50町)--○柏原 と13宿を数える『実暁記じつぎょうき』。○印の宿駅は宿泊可能。50町=1.8里
(中山道の完成は1694年 google mapは旧中山道がでます

◎京都・三条大橋から出発するとして、7里先(約27km)野路辺り(JR南草津駅辺り)で宿泊。次は10里先(約39km)の四十九院で宿泊。次は7.4里先(約29km)の柏原で宿泊。 当方にとっては、これぐらいのペースと思えるが。どうもこれは女性の足の場合のようで、男性の足なら6里を加え京都から野路を通過し武佐(合計13里)まで行ったようです。その後に11.4里先(約44.5km)の柏原まで。その宿駅が宿泊可能かも考えなければならない。
 源頼朝(武士)の上洛では美濃から入って柏原宿、次に野路宿に泊っている。京都からの帰路は(記述なくおそらく武佐宿で泊まり、)柏原の北で摺針峠を北に避けて箕浦宿に泊まっている。
 飛鳥井雅世(公卿)は、京都からから(往路で)逢坂の関・草津・野洲川・守山・鏡山・武佐まで13里の行程を終えたとある(武佐宿で泊まる)。飛鳥井雅世は堯孝法師と同行で13里(50.7km)の疲れ、法師が元気で雅世はたまったものでなかったろう。今でいうと、京都市から奈良や大阪までが50kmに相当する距離だ。[こちらも参照]
 鯖街道の鯖は、若狭で一塩した鯖が京につく頃にはちょうど加減良くなったという[15貫を背負い80kmを2日で]。昔の人は逞しいものだ。

(今の地図で辿る)
【旧中山道】1号線・大津--瀬田--1号線--JR手原駅北-から8号線 --伊呂波から旧中山道---近江鉄道と交差--武佐本陣跡--旧中山道--老蘇の森(奥石神社)--五箇所清水鼻--愛知川の御幸橋--不飲橋・愛知川宿一里塚--愛知川宿本陣跡--旧中山道・542号線--旧中山道・223号線---旧中山道・528号線--正法寺町交差点信号--旧中山道--鳥居本(佐和山東)--中山道・北国街道分岐道標(近江鉄道フジテック前駅南200m)--旧中山道が柏原をすぎ今須峠でも続いている

■紀行文から
・源頼朝が建久元年(1190)11月の上洛には、美濃から入って柏原に宿し、たぶん小野と小脇の二宿をへて、野路宿に泊っている。帰路は小野から本道の摺針峠を北に避けて箕浦宿に泊まっている(険しい摺針峠を避けて北に進み箕浦宿へ)。
・『実暁記』と同じ鎌倉時代の『東関紀行』(1242)では、京都から発して、相坂の関・打出浜・粟津原・勢多の長橋・野路・篠原・鏡宿・武佐・笠原・老蘇の森、醒ケ井・柏原から美濃路に入っている。
・『十六夜日記』(1280)には、守山・野洲川・鏡・小野・醒井の地名が見られる。中世の東山道の宿駅がみられ、中山道の宿駅制定後も宿場機能が続く。高宮と鳥居本は、江戸時代になって新しく宿場が設置される。

・関白二条良基が文和2年(1353)7月、東山道を下った紀行文に、
 (逢坂山か山中越)坂本から舟で対岸につき、守山から街道を、野路・鏡山・老蘇・小野と過ぎ、その間、床の山・不知哉(いさや)川(芹川の古名)の古を偲びつつ醒ケ井にすすんでいる。
・飛鳥井雅世(1390-1452:足利義満に仕えた公卿、正二位)の「富士紀行」では、
 京都>(往路) 逢坂の関・草津・野洲川・守山・鏡山・武佐(一泊)---13里
  翌日、老曽・山の前・四十九院・犬上・小野・摺針峠の順 --- <美濃路入り>
 美濃>(帰路) 垂井、柏原・醒井・小野・梓関、往路同様、武佐(一泊)--->京都
・一条兼良(1402~81)文明5年(1473)5月、奈良をたって美濃にでた「藤河の記」
 往路>甲賀郡朝宮の山中の小屋(仮泊)、信楽川沿いの難路を石山にでて、坂本から舟で、堅田・八坂に寄港して、朝妻に上陸し、醒井・柏原から美濃へ。
 帰路>番場・摺針峠を越えて、小野(小庵に泊)、高宮・四十九院・愛知川・観音寺、老蘇の杜・武佐と東山道筋から水口をへて、南下して伊賀にでる。
・仁和寺の僧正尊海、天文2年(1533)冬、「あづまの道の記」に、逢坂山から坂本にでて湖上を島・筑摩により朝妻港から東山道にでて美濃に入る。

(紀行文から言えること)
・蒲生野は佐々木氏の在館地の小脇だが、その居館移転後は迂回しなくなった。また、京都からの下りは、摺針(すりはり)峠を避けて遠回りで平坦な箕浦へでる(荷物が多いときは摺針峠を避けて箕浦へ:彦根藩は1700年代に新道を改修したと)行路も依然使用された。
・箕浦が北国街道の分岐点である。このころ湖東第一の要港は朝妻港であった。
湖東の朝妻に対して湖南での埠頭の中心は坂本だった。
草津・武佐・四十九院・小野はいずれも旅宿の設備のある宿駅であったことが察せられる。「高宮宿」が見えるのを(著者が)初見(1473年)としている。 以上『犬上郡志・高宮町史』

【老蘇(おいそ)の森】万葉の昔から歌に詠まれてき。繖山(観音寺山)をご神体とした安産延寿、狩猟、農耕の神である奥石神社(国指定重要文化財)がある。観音山と箕作山に挟まれた位置。
【摺針峠】北国街道と中山道の分岐点。鳥居本宿と番場宿の境。山林の中山道を西へ進んで来ると琵琶湖絶景が見える。青年時代の弘法大師が折れそうな精神状態でここを通ったところ、斧を磨いて針を作っていた老人の姿に勇気付けられ修行に励んだという。「道はなほ学ぶることの難(かた)からむ 斧を針とせし人もこそあれ」(弘法大師)。
【小野宿】『平家物語』に始めて登場するという。平安末期に鳥籠(とこ)駅から移ったか。鳥籠山(床の山)、現在は鞍掛山の近くにあったという。佐和山城落城後、慶長7年(1602)7月幕府の命(彦根の地割りの都合)によって小野宿は廃止されることになり、慶長8年(1603)鳥居本に宿場が移り、小野で代々本陣を務めていた寺村家が鳥居本宿の本陣を務めるようになった。[近世、近江の宿駅]



3.[大名行列は京都のどこを通過したか]
 参勤交代では、2年ごとに江戸に参勤し正室と世継ぎは江戸に常住する。事前に、幕府に行程や日程を届け出て許可が下りてから参勤交代をしたようです。江戸までの旅費は自己負担で、江戸での滞在費まで負担させた。街道の宿には大きなお金が落ちます。
 藩邸がある宿駅には必ずそこを通過します。薩摩藩の場合は必ず伏見宿に寄ります。4000の人数を藩邸には収容しきれないですが節約にはなります。土佐藩、長州藩も伏見藩邸がありましたね。
 確か、彦根藩の場合は藩主が大老を仰せつかり、江戸常勤の状態で参勤交代はほとんどなかったでしょうか。その代わり京都関係の御用金で出費がかさんでいました。どの藩も「見栄っ張り」のところがあり、財政難で疲弊していきます。

■参勤交代にかかった費用(1両を10万円として)
伊達家仙台藩宮城県?里(?km)    ?日3000〜5000両3~5億円 人
前田家加賀藩石川県119里(464km)  13日5333両5億3千万円4000人
池田家鳥取藩鳥取県180里(702km)  22日5500両5億5千万円 人
島津家薩摩藩鹿児島県440里(1716km) 40~60日17000両17億円1880人

・参勤交代の人数の規定(享保6年(1721年))
1万石以上:約50人/5万石以上:約170人/10万石以上:約240人/20万石以上:約450人

■大名行列が京都を通過する
【伏見宿を通過する(近江→京)】
髭茶屋追分で「伏見宿行」を選び、山科盆地を南下し、勧修寺から稲荷山の南麓に抜ける大岩街道を通って伏見街道から伏見宿へ目指します。参勤交代の西国大名が都に入り朝廷と接触することを嫌って、江戸幕府がこの大岩街道を造ったとされています。大岩街道を通過後は、藤森神社の鳥居前で、後水尾天皇の勅額が挙げられていたため、参勤交代の大名も下馬・一礼しなければならなかったようです。
②上記同様「伏見宿行」を選び、山科盆地の外れ六地蔵まで南下し、ほぼ真西の伏見宿へ行きます。伏見城は廃城となっていて比較的起伏も少なく伏見に入りやすいです。六地蔵には馬借が多く、近辺から水路伏見宿への可能性もあるようです。
③髭茶屋追分で「三条大橋」を選び、その先の「五条別れ」で渋谷峠を経由し京都へ入る。内裏や清水に近く避けるでしょう。
④現近江神宮から今道の下口(荒神口)に出てくる志賀越道(山中越)は、より内裏に近く起伏が多く避けるでしょう。

【樫原宿を通過する(近江→京)丹波・因幡・伯耆の藩】
⑤伏見で宿泊しないなら、大津から山科へ向かい、(おそらく)「久世の橋」経由で、樫原を通り老ノ坂を越え山陰道を通ります。樫原は丹波口(七条千本の東側付近)に発した丹波路と、大坂方面へ向かう物集女もずめ街道の交差する交通の要衝です。樫原も本陣(玉村家=現存)がある宿場町となっていました。
※山科から三条へ入ると、縄手通下る(京都を南下)しか選択肢なし。その後、1.京都を横断(□□通?から久世の橋を渡る)し樫原へ 2.伏見街道から伏見宿へ 以上2つ方法(時代が下ると、三条大橋通過も可能?)。

結局、近江→京や京→近江で、ほとんどが大岩街道を通過するようです。

【物集女街道】北摂高槻から島本・山崎・長岡京・向日市を通り、京都市西京区、嵐山と続く主要幹線道路。

▼長州藩の場合(京→近江)
元禄10年(1697)の毛利吉広の参勤は、萩から三田尻まで陸路、そこから御座船(御召船)万祥丸で大坂へ、さらに淀川をさかのぼり、伏見へそこから伏見街道で京都へ、京都からは陸路東海道で江戸に向かった。
文政8年(1825)の毛利斉元の参勤は、三田尻から陸路山陽道を通り、京都へ出ている。
(ともに大岩街道を通過)
▼薩摩藩の場合(京→近江)(1700㎞、40~60日、1880人、1700両約13億円)
1.陸路鹿児島から大口または串木野経由で水俣へ出、あとは熊本、小郡を経て小倉に出、船で下関に渡り陸路山陽道を通り大坂、伏見、京都へ出、陸路東海道または中山道を通って江戸に着く。
2.陸路鹿児島から都城を経て日向の細島へ出、そこから海路豊後水道を通り瀬戸内海へ入り、海路大坂へ着く。あとは陸路。
(伏見には藩の屋敷があり必ず泊まる、大岩街道を通過)
▼宮津藩の場合(丹波→京→近江)
宮津から、普甲峠・大江・福知山宿(山陰道)へ、そこから菟原宿・須知宿・園部宿・亀山宿--(丹波)--(老ノ坂)--樫原宿を経由して、大岩街道から近江へ行くか。

【東海道の京都の西の起点(終点)はなぜ三条大橋】清水寺・祇園社が近い「五条大橋」がなぜ起点(終点)にならなかったか。家康が秀吉を嫌った思惑があるといいます。三条河原は罪人を処刑・晒し首にした場所、「三条大橋」から一望できます。秀吉の悪いイメージを思い出させると。観光目的の弥次郎兵衛と喜多八(『東海道中膝栗毛』)は、さぞ清水寺に近い街道で京都へ入ることを希望するでしょうが。



4.[高野山参り・熊野参り]
kinai院政が始まると荘園の寄進は院に集中し、院はそれを基礎に過度に仏教を信仰して僧兵の横暴をまねき、また下級貴族や受領層が院の近習として力をえた。『京都府の歴史』47

白河法皇仏教信仰は、いわば巨富のうえにたつ遊びである。つくらせた仏画5,470余幅・丈6の仏像127体・等身の仏像3,150体・3尺以下のもの2,930体・七宝塔21基・小塔14万6630基という、、高野山参り四度・熊野参り九度を数える。この熊野参りは淀川を舟で下り、陸路天王寺・住吉をへて紀伊にはいり、熊野三山一周に五日間、京都よりの往復を合わせて一ヵ月もかかったのであるが、のちの鳥羽・後白河法皇のときは、各21、34回も参詣がおこなわれている。『京都府の歴史』51

・後白河法皇のときには、はるばる参詣するかわりに、京都に神社をうつした
 新日吉社    :東山七条、法住寺殿の鎮守社--1160年
 熊野若王子にゃくおうじ神社:若王子の滝を那智の滝に 永観堂(853年創建)の守護神--1160年
 新熊野いまくまの神社  :下京今熊野、1160年平清盛より創建--1161年
を勧請した。
 熊野神社(811年創建)・新熊野神社・熊野若王子にゃくおうじ神社を併せて「京都の三熊野」と呼ばれる。
 同時に、新日吉社の別当寺とするために妙法院を、同じく鎮守寺として蓮華王院(三十三間堂)(1163年創建)が建立されている。

【高野参詣】空海が開創した「高野山」。高野山に一度でも参詣すれば、すべての罪が道中において消える、一度参詣すれば罪が消えるという信仰である。初見に、900年宇多法皇参詣、1023年藤原道長参詣などが見られる。
【熊野詣】熊野の地名は『日本書紀』に見える。神仏習合により、神社でありながら仏教の浄土信仰の教え、「阿弥陀仏信仰」を説いている。三山全体が浄土の地で、熊野三山を参詣すると「生きながらに、死んで浄土に生まれ変わって仏(成仏)となり、そして、再び現世に帰ってくる」とする。詣は、極楽浄土を願う生前の予行演習で、何度も繰り返すことで極楽浄土へ近づけると考えた。[熊野三山]