京都近辺の寺院・検索

s_iwakura  寺院の伽藍  寺院の本尊  門跡寺院の分類
 寺院の山号

【京都の寺院】

    右写真はどこの寺?[答え最下行]
 寺院の名称
出雲寺一休寺永観堂円勝寺延勝寺栄春寺円通寺
観慶寺清水寺建仁寺鞍馬寺解脱寺源光寺広隆寺
 金戒光明寺京極寺勧修寺護法寺金閣寺銀閣寺高台寺
西芳寺実相院泉涌寺神護寺相国寺成勝寺西寺
 地蔵寺浄禅寺上善寺禅林寺慈眼寺聖護院最勝寺
 神泉苑青蓮院三宝院三千院詩仙堂赤山禅院是心寺
 尊勝寺浄瑠璃寺心光院専修院浄念寺是心庵 西園寺
 正伝寺勝林寺     
大善寺 東福寺天龍寺大報恩寺大雲寺珍皇寺大覚寺
 知恩寺知恩院徳林庵醍醐寺大徳寺東寺長源寺
 頂法寺智積院     
仁和寺南禅寺西本願寺    
法勝寺普門寺法住寺法成寺東本願寺万寿寺本圀寺
  毘沙門堂 平等院 本能寺 方広寺 報恩寺宝泉院 
壬生寺妙心寺妙覚寺妙満寺妙顕寺曼殊院妙法院
龍安寺蓮華王院廬山寺来迎院六波羅蜜寺  

【滋賀県の寺院】
  延暦寺 大原観音寺 園城おんじょう(三井寺) 観音正寺 敏満寺 蓮華寺(蓮花寺)
  芦浦観音寺  

【奈良県の寺院】
  興福寺 東大寺 

【長野県の寺院】
  善光寺




寺院の伽藍
 伽藍とは寺院を構成する建物の集まり。広々として「がらんと」しているという表現は、この伽藍に由来しているようです。七堂伽藍とは、鎌倉時代の『聖徳太子伝古今目録抄 』で、金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂の七つがあるもの、としています。しかし後代、実際の建物の数が7つあるという意味より、全ての設備が揃っている、「多くある」という意味の方が当たっているようです。建物が7以上あるところもあり、その配置には歴史的な変遷があり、また宗派によってもその揃えかたが違います。

 主な堂宇をあげます。門(山門、三門)は寺院(境内)の入り口。本堂(金堂、仏殿)は本尊が祀られている中核の建物。は、古代では仏舎利がおさまっていた中核の建物でしたが、現代の中核の建物は本堂です。講堂(法堂はっとうは経典の講義や説教にもちいる建物。経蔵きょうぞうは経典などを収蔵する建物。鐘楼は梵鐘が吊された建物。僧房・僧坊・本坊は僧侶の休息・寝起きするための建物。食堂じきどうは僧侶の食事をするための建物。
 禅宗の例では、仏殿(金堂)、塔、三門(山門)、僧堂、庫院くいん庫裏くり)、法堂、浴室、東司とうす西浄せいちん)から構成されています。東司は西の「浄土」から遠く、「ちん」で、わかるでしょう。
 本堂の他に、大日堂、観音堂、大師堂など、重要な開祖・中興の祖などを祀った堂宇が設けられていることがあります。
 なお、現在このような伽藍が見られるのは一部の大寺院で、一般的な寺では、本堂と、住職一家の生活空間である庫裡のみということも多いです。


■寺院の本尊
 本尊は寺院創立の由来や、開基(創設者)・開山(初代住職)の信仰などによって異なり、各宗派によってそれぞれ一定の本尊があります。
 真言宗 :(中央)大日如来 本尊向かって右:弘法大師、左:不動明王
 天台宗 :(〃)阿弥陀如来や釈迦如来 右:天台大師、左:伝教大師
 浄土宗 :(〃)阿弥陀如来や阿弥陀三尊 右:高祖善導大師、左:法然上人
 浄土真宗:(〃)阿弥陀如来 本願寺派 右:親鸞聖人、左:蓮如上人
 浄土真宗:(〃)阿弥陀如来 真宗大谷派 右:十字名号、左:九字名号
 曹洞宗 :(〃)釈迦如来 右:高祖道元禅師、左:太祖瑩山禅師
 臨済宗 :(〃)釈迦如来 右:達磨大師、左:観世音菩薩
 日蓮宗 :(〃)日蓮の描いた十界勧請かんじょう大曼荼羅
※貴族から民衆まで、宗旨・宗派を超越して信仰された阿弥陀仏の本尊が多い。また、寺院も無宗派の善光寺の参詣が多く賑わう。

[仏像] 如来 > 菩薩 > 観音 > 明王 >天部
・如来:『悟りの境地に達している』
  装飾品なく質素な姿、どんぐり毛頭の「螺髪らほつ」、眉の間に「白毫びゃくごう
  例)地上で悟り--釈迦 大宇宙・極楽浄土で悟り--大日如来、薬師如来
   阿弥陀如来(「阿弥陀さま」「阿弥陀仏」ともいう)

・菩薩:『修行中で悟りの境地に未到達』華やかな装飾品を身につけている
  例)弥勒菩薩、地蔵菩薩、文殊菩薩など

・観音:『菩薩の中の1人』観世音菩薩の略語が観音様

・明王:『必死の形相で厳しく説き伏せ、如来の教えに導く』
  例)不動明王、愛染明王、など

・天部:『天界に住み、仏教界に煩悩が入り込むのを防ぐ、修行者を守る』
  例)毘沙門天、帝釈天、金剛力士、阿修羅(天が付かないもの有り)


門跡寺院の分類
 仁和寺を御門跡と呼ぶようになったのに始まる。室町幕府には門跡奉行が置かれた。

(天台宗の五門跡)(上から三つが三門跡)
 青蓮院門跡:最澄の叡山「青蓮坊」が起源。平安末期に山下、1150年鳥羽上皇の祈願所に
 三千院 〃:叡山の円融房に起源。坂本、他に移転後、明治4年に現在地
 妙法院 〃:叡山の坊が起源。初代門主 最澄。平安末期に山下、三十三間堂を塔頭に
 曼殊院 〃:同上。12世紀頃に洛北、後に洛中を経て1656年に現在地(一乗寺)に
 毘沙門堂〃:前身の出雲寺は伝703年行基の開基か。1195年平等寺,尊重寺,護法寺を統合

(宗派別)
・真言宗:仁和寺、大覚寺、随心院、勧修寺、三宝院、蓮華光院、安祥寺、禅林寺、勝宝院、金剛王院、菩提院など
・ 天台宗:妙法院、円融院、青蓮院 実相院、聖護院、円満院
・興福寺の一乗院、大乗院
・東大寺の東南院
・その他に:照高院、平等院、法住寺、本覚寺、如意寺

(身分別)
・宮門跡(親王の入寺):聖護院、輪王寺、仁和寺、妙法院、照高院、青蓮院、知恩院、勧修寺、一乗院、円融院、曼殊院、毘沙門堂、円満院
・摂家門跡(公卿の子息が出家入寺):随心院、三宝院、大乗院、大覚寺、蓮華光院
・公方門跡(将軍家の入寺):実相院、円満院、一乗院
・精華門跡(摂家に次ぐ公家衆の入寺):省略
・準門跡(脇門跡):東西の本願寺、専修寺など
           『京都岩倉実相院日記』P14

寺院の山号
 寺院の正式名称には「○○山△△寺」と山号を冠するものが多い。仏教発祥の地はインドであるが、山号というものがない。山号は、中国を経由することで、中国の山岳信仰と結び付いて日本に入ってきたようである。
 中国では山に寺が建てられ、山が修行の場として発展した。そして、山の名前が寺の呼び名として使われるようになった。こうしたことが、平安から鎌倉時代にかけて日本に伝わり、禅宗からの他の宗派へと伝わった。
 山号は、寺院が位置する山の名が多いが、平地に建てられた寺にも山号が浸透し、立地にない山号も増えた。また、東西本願寺のような浄土真宗系の寺院など、山号をもたないものもある。
  『日本の神社・お寺 入門』(洋泉社)
[山号の例]
 神護寺(真言宗):山号・高尾山  相国寺(禅 宗) :山号・萬年山
 天竜寺(禅 宗):山号・霊亀山  知恩院(浄土宗) :山号・華頂山
 本能寺(法華宗):山号・なし   西本願寺(浄土真宗):山号・龍谷山
 大雲寺(天台宗):山号・紫雲山、石座山

  [写真の答え :じょうるりじ]



eikan 【禅林寺】853年創建(左京区永観堂町)。京都に3箇所あった勧学院(学問研究所:藤原氏の大学別曹)の一つ。当時、私寺を建立することは禁じられていて、863年に清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となる。中興の祖とされる7世住持の永観(ようかん)律師(1033-1111年)の時に念仏の寺へ変化を遂げる。「永観堂」(えいかんどう)は漢音読みである。禅林寺本尊の阿弥陀如来立像は「みかえり阿弥陀」の通称で知られ、顔を左に曲げた特異な姿の像である。古来より「秋はもみじの永観堂」といわれる。

【大原観音寺】(横山城跡南東300m、滋賀県米原市朝日) 伊吹山にあった観音護国寺が、正元年中(1259~60年)に現在地に移転して、大原荘の地頭・大原氏の保護を受けながら、弘安年間(1278~88年)までに寺観を整えたという。石田三成と羽柴秀吉の出会いの地。1383年に、法相宗から天台宗に改めた。



kiyo 【清水寺】778年延鎮が開山、798年坂上田村麻呂の創建と伝える。法相宗(南都六宗の1つ)系の寺院。本尊は十一面千手観世音菩薩。興福寺と延暦寺の「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵。「清水の舞台」と呼ばれる本堂は、1633年に徳川家光の寄進により再建されたものである。守護社は縁結びの地主神社であった。

[建仁寺] 京都最古の禅寺(東山区臨済宗)。京都五山の一つ。開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である(建仁2年(1202)。俵屋宗達筆の風神雷神図がある(元々は京都の豪商・打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)が建仁寺派である妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したもので、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈された)。


【西園寺】西園寺公経が1224年に、現在の鹿苑寺の辺りに、真言寺院として創建した。その後、義満が北山第の造営に伴い、1352年に室町に移った。1554年、浄土宗の寺院になる。1590年、現在の寺地(上京区寺町通鞍馬口下ル高徳寺町)に移る。
 公家である西園寺家は、頼朝の縁者でもあり幕府と関係があったことから鎌倉時代には隆盛したが、鎌倉幕府が滅亡するに及び衰退した。

sanzen 【三千院】天台三門跡の中でも最も歴史が古く、貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。「円融院(円融房)」「梨本門跡」「梶井門跡」などと称していた。本尊は薬師如来。1871年(明治4年)に「三千院」と改称した。

【相国寺】永徳2年(1382)、開山は夢窓疎石。京都五山の一つ。応仁の乱の細川方の陣地とされたため、そのあおりを受けて全焼した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間(1804-18年)に再建されたものである。足利義満によって建てられた七重大塔は史上最も高かった(109.1m、1403年に落雷で焼失)。境内は京都御所の真北で同志社大学に隣接している。

【聖護院】 寛治4年(1090)1月、白河上皇の熊野詣に増誉が先達し、その賞として熊野三山検校職に任ぜられ、修験道を統括したことが知られるが、その法務を営むために白河院を創したのが当院の始まりとする(京都市の地名)。よって、開山は園城寺の僧・増誉、修験道の寺・山伏の寺。明治まで皇室と摂家が門主を務める宮門跡寺院である。その寺域は「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていて「聖護院の森」の中に寺があった。この森は紅葉の際の美しさから「錦林」(その地名が残っている)と呼ばれた。聖護院の南西には鎮守として知られる熊野神社がある。なお、現在の場所に建てられた後、数度の火災により市内を点々とし延宝4年(1676)に、現在の場所に戻った(Wikiなど)。義政が長谷の聖護院へ行ったのは、応仁2年(1468)兵火に巻き込まれ、愛宕郡岩倉村長谷の地に移された、後のときである。

syoud 【正伝寺】(しょうでんじ) 1268年創建。北区西賀茂にある臨済宗南禅寺派の寺、本尊は釈迦如来。室町時代には天皇家、将軍家の帰依を受けたが、応仁の乱の兵火により衰退した。豊臣秀吉や徳川家康の援助を受け復興する。
 本堂は伏見城本丸の御殿の1つが移建されたものと考証され、障壁画は作風等から狩野山楽一派の筆と推定される。廊下には「血天井」があり、徳川家の家臣・鳥居元忠らが自刃した伏見城の廊下の板が使われたものである。本堂前の枯山水の庭園は、小堀遠州作と伝えられ、比叡山を望む借景式庭園である。伏見城が、1618年の「一国一城令」により、1619年に廃城となる。伏見城の遺構をもらい受けた寺院が多いようだ。
「血天井」は、鳥居元忠らの霊を弔うため、(競うように?)「廊下の板」をもらい受け天井に貼ったものだ。他に、北区鷹峯の源光庵、東山の養源院、大原の宝泉院、上京区の興聖寺、伏見の栄春寺、八幡市の神應寺などがある。廊下の板を天井板のように薄くするには技術がいるようだ。正伝寺の「血天井」は確証があると聞く。

【浄瑠璃寺】三重塔は、太陽が上がる(出生)東の方角に建ち、本堂は、太陽が沈む(死)西の方角に建っている。 三重塔(1178年に京都の一条大宮から移築)と本堂(1107年再建)の間にある池は、この世とあの世の間の海を模していると同時に、阿弥陀の世界(極楽)の象徴でもあると。紅葉の秋が見どころ。真言律宗の寺院。本尊は九体阿弥陀仏・薬師如来。通称名は九体寺、古くは西小田原寺。義明上人の開基。平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。秘仏・吉祥天女像(鎌倉時代)が有名で、春秋二回の開扉以外は見られない。

【神護寺】天応元年(781)、和気清麻呂は河内に神願寺を、ほぼ同じ時期に山背の愛宕山に高雄山寺を建立している。天長元年(824)に高雄山で、2つの寺院が事実上合併して、真言宗の神護国祚真言寺(略して神護寺)となる。本尊は薬師如来。ところで、神護寺の境内に造られた一祠から神社に昇格した護王神社がある。

【善光寺】長野県長野市元善町にある無宗派の単立仏教寺院。創建年は(伝)皇極天皇3年(644)。本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来。御開帳は7年に一度、ご本尊を公開しますが、「一光三尊阿弥陀如来」は絶対秘仏とされており、僧侶でもその姿を見ることはできません。公開されるのは一光三尊阿弥陀如来を模した「前立本尊」です。善光寺本堂は、近世の建築としては東大寺大仏殿につぐ大建築物で、屋根の広さは日本一である。
 伝説「牛に引かれて善光寺詣り」『むかし、善光寺から東に十里の村里に欲張りで信心薄いおばあさんが住んでいました。ある日、川で布をさらしていると、どこからか一頭の牛が現れ、角にその布を引っかけて走って行くではありませんか。あわてたおばあさんは、布を取り戻したい一心で、牛の後を一生懸命追いかけました。走りに走って、おばあさんはついに長野の善光寺までたどりつきました。ところが牛の姿を見失い、日もとっぷり落ちて途方にくれ、仕方なく善光寺の本堂で夜をあかすことに。するとその夜、その夢枕に如来様が立ち、不信心をおさとしになったのです。目覚めたおばあさんは、今までの行いを悔いて善光寺如来に手を合わせました。その後、信心深くなり、たびたび善光寺に参拝に訪れるようになったおばあさんは、ついに極楽往生を遂げたということです。』(ながの観光net)



daigo 【醍醐寺】醍醐寺は三宝院門跡を擁する真言宗の本山寺院。西国三十三所第11番札所。貞観16年(874)、弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が、准胝じゅんてい観音ならびに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。山頂一帯を「上醍醐」山裾を「下醍醐」と称する。907年には、醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与えた。この頃に、大伽藍(下醍醐)が開かれ発展した。下醍醐の五重塔約38mは発願の20年後に完成(951年10月)した。五重塔は、幾度かの修理がなされるも、平安時代建築として貴重な存在です(京都府下最古の木造建造物)。
 室町時代に下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残る。特に応仁の乱の最中(1469年)、周辺村民たちが寺に納める年貢を半分にする半済を要求する暴動を起こすと、武装した僧兵たちは弾圧を行う。大規模な護摩祈祷で首謀者たちを呪殺するなど人心の荒廃も進んだ。安土桃山時代に入り、豊臣秀吉によって花見(1598年)が醍醐寺で行われると、伽藍が復興・整備がされ始めた。(Wikiなど)
◎細い山道を「下醍醐」から「上醍醐」まで行くのに1時間要する。桜の花見は、秀吉以前の歴史がある。「1194年3月30日 醍醐寺桜会の時、、」(『京都の歴史』十巻年表)の記載をみる。

daigo 【三宝院】醍醐寺境内にある門跡寺院で、総本山醍醐寺の塔頭であるが、本坊的な存在。1115年、左大臣・源俊房の子で醍醐寺14代座主勝覚が灌頂院として開き、後に「仏教の三宝」にちなんで現在の名に改めた(創建)。勝覚が村上源氏の出身であったことから、初期には代々源氏の寺院とみなされていた。1374年、足利義満が23世光助を室町幕府の祈祷を行う武家護持僧の管領役に任じたことから、幕府の中でも特別な扱いを受けた。これがため、室町幕府による三宝院人事への介入がある。反面、足利義教の将軍擁立にも活躍する。以後、歴代院主が醍醐寺座主を兼ねる慣例が成立する。また、古くから醍醐寺は真言宗系の修験の中心であったが、この頃から三宝院が真言宗系の修験者・山伏の取締にあたるようになる。
 現在では、醍醐寺の寺務所が三宝院内に設置され、醍醐派管長・醍醐寺座主・三宝院門跡の三職兼務が定められている。

【知恩寺】比叡山功徳院の里坊で、平安時代前期に円仁が創建したと伝わる。賀茂社との関わりが深く、神宮寺として、御所の北、今出川にあった。その所在地から、賀茂の河原屋・賀茂の禅坊・賀茂の釈迦堂、また今出川釈迦堂などとも称された。その後、功徳院知恩寺と呼ばれる。元弘元年(1331)空円のとき、京都に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により空円が念仏百万遍を行い疫病を収めた。この辺りから百万遍知恩寺となる。

【知恩院】浄土宗の宗祖・法然が東山吉水に営んだ草庵をその起源とする(創建1175年)。大永3年(1523)、知恩院25世超誉存牛と百万遍知恩寺25世慶秀との間で本寺争いとなったが知恩院が勝利し、鎮西義で第一の座次(ざじ)となり本山となった。当主・住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。
 二条城とともに徳川家に庇護されるのは、徳川家が浄土宗徒であること知恩院25世超誉存牛が徳川家出身などある。さらに、朝廷を牽制する政治的な背景もあったといわれている。江戸時代の代々の門主は皇族から任命されたが、さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。


【毘沙門堂】元は出雲寺。出雲寺は、平家ゆかりの平等寺、尊重寺、護法寺の3つの寺院を平親範が1195年に統合したもの。この出雲寺が1467年に焼失。文明元年(1469)に再建される。その当時は相国寺の北、上御霊神社の付近にあった。一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。江戸時代の慶長年間に、天台宗の僧で徳川家康の側近であった天海によって復興が開始される。江戸幕府は山科の安祥寺の寺領の一部を出雲寺に与え、現在地に移転・復興される。寛文5年(1665)に完成し、毘沙門天を祀ることから毘沙門堂と呼ばれる。

敏満寺びんまんじ】(敏満寺城跡 犬上郡多賀町敏満寺 多賀大社南西600m 主な城主:久徳氏) 敏満寺は、聖徳太子の草創という。応永2年(1369)には、伊吹山系山伏が住する寺院の筆頭に敏満寺の名がみえる。鎌倉時代から中世戦国時代にかけて繁栄し、比叡山を凌ぐほどの勢力を持っていたという。近江国守護の六角氏、京極氏(浅井氏)とが衝突する要衝で、多くの僧兵を抱えて城塞化する。1562年、小谷城の浅井長政と対立する久徳氏に味方をしたため、浅井長政に攻められ120近くあった僧坊の大半が焼討ちに遭う。1572年には、近江に侵攻した織田信長に応じなかったため、またも焼討ち遭い、寺領は没収され廃寺となる。残った石材も彦根城の普請の際に運び出される。


【本圀寺】寺伝によれば建長5年(1253)日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が本国寺(後の本圀寺)の起源。4世日静が光明天皇より寺地を賜り、本国寺を鎌倉から京都六条堀川へ移したのは貞和元年(1345)のこと。寺地は北は六条坊門(現五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めた。日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けた。山科への移転は昭和44年(1969)より(※広大な領地を有していたものが寺領を減らし更に移転か、廃仏毀釈の影響だろう)。大正10年、本圀寺は明徳女学校を設立。同校は京都市西京区に移転し、京都明徳高等学校となっている。
・永禄11年(1568)、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。翌永禄12年(1569)には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される「本国寺の変」が発生した。天正13年(1585)、豊臣秀吉により山城国菱川村((現・京都市伏見区)に朱印地177石が与えられた。天正19年(1591)、日重により求法檀林(学問所)が開檀される。同年、豊臣秀吉の命により西本願寺造立のため、寺地のうち二町を割譲した。元和元年(1615)、徳川家康は本国寺の寺領を安堵。徳川光圀は当寺にて生母の追善供養を行い、貞享2年(1685)、光圀から圀の一字を下され、本圀寺と改称した。


【妙心寺】 花園妙心寺町にある、約3,350の末寺をもつ臨済宗の寺(臨済宗全体で約5,650末寺)。1342創建。本尊は釈迦如来。開基は花園天皇。開山は関山慧玄(無相大師)。法堂(他の宗派の講堂)には完成するまでに8年もかかった狩野探幽筆の雲龍図が描かれている。
 京都の禅寺は、五山十刹に代表され、室町幕府の庇護と統制下にあった「禅林」と、それとは一線を画す在野の寺院の「林下(りんか)」とがあった。妙心寺は、大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院。

【妙満寺】 永徳3年(1383)、日什が六条坊門室町(現・京都市下京区)に法華堂を建立したのが草創、康応元年(1389)妙満寺と号した。それ以降、下京区で移転と再建を繰り返し、一時、天文5年(1536)には天文法華の乱により伽藍を焼失し、堺に避難したこともある。1968年(昭和43年)に寺町二条から現在の岩倉幡枝に移転した。豊田佐吉以来、豊田家一門の菩提寺となっている。


【龍安寺】1450年に開基(創設者)は細川勝元。開山(初代住職)は義天玄承。石庭は世界遺産に登録されている。もともと衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は円融寺の境内地であった。円融寺(廃寺)は永観元年(984)に建立された円融天皇の御願寺。

sanzen 【六波羅蜜寺】市聖(いち の ひじり)の空也が、天暦5年(951)に創建した十一面観音を本尊とする道場にはじまり、西光寺と称したという(『扶桑略記』)。空也の死後、977年に六波羅蜜寺と改称される。平安時代末に平家との繋がりで、軍勢を駐屯させる館が境内の隣にでき、その後この寺が平家の屋敷に取り込まれた。当時の五条大路(現在の松原通)から七条大路までの鴨川東岸の一帯を六波羅第(六波羅殿)と呼ばれた。1183年、平氏の都落ちの際に六波羅第は平氏自らの手で火が放たれ、鎌倉時代の1221年には、六波羅(六原)の北と南に朝廷の監視や京都周辺の警備のため六波羅探題(役職)、その役所である六波羅探題府が置かれた。1333年、探題府は後醍醐天皇の命に応じた足利尊氏らによって攻め滅ぼされた。境内は数々の火災にあっている。秀吉の治世では、寺領70石が安堵され真言宗智積院の末寺となった。なお、この寺の名称の由来は、古来の地名「六原」と僧侶の修行徳目である「六波羅蜜(ろくはらみつ)」にあるようだ。現在でもこの地に六原(六原学区)は存在する。
 波羅蜜は、大乗仏教において、仏になるために菩薩が行う修行徳目のこと。到彼岸(とうひがん)、度(ど)、波羅蜜多(はらみった)ともいう。釈迦は前世における修行において10の波羅蜜を修得し、数千年前のインドに降臨したのだと説いている。大乗仏教で、悟りの彼岸に至るためには、6つの波羅蜜を修める必要があるという。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若が六波羅蜜である。また、十波羅蜜とは、六波羅蜜に、方便・願・力・智の四波羅蜜(六波羅蜜の般若波羅蜜より派生した4つの波羅蜜)を加えたものという。

【廬山寺】938年、良源の開山の與願金剛院(船岡山)と、1245年創建の廬山寺とが、1368年に合併し廬山寺となった。豊臣秀吉の寺町建設によって天正年間に現在地(御所の東、鴨沂高校北300m)に移った。現在の本堂は寛政6年(1794)に仙洞御所の一部を移築し作られたもの。明治5年(1872)に天台宗の寺院となる。昭和40年(1965)に紫式部邸跡と判明する。