禁裏御料 山科七郷

 1.古代から平安 「天智天皇陵」と鎌足の邸宅 天皇随従山科郷士
 2.平安時代後期 「山科御所」
 3.中世期の山科 禁裏御料と山科七郷 惣郷と沙汰人 農民の「行商」
 4.応仁の乱以降 禁裏御家人 豊臣秀吉の直轄地 家康の禁裏御料一万石「進献」
 5.江戸時代 禁裏御料「山科郷十七カ村」と「惣触頭」

「山科郷は、武家押領の一時期を除いて、一貫して広義の禁裏御料地であった」としています。

【古代から平安】
 古代の山科は、近江大津に都があっこともあり「天智天皇陵」の他、中臣(藤原)鎌足の邸宅があったことでも有名である。鎌足の居宅は「陶原(すえはら)の館」(のちの山階精舎、山階寺やましなてら)と呼ばれ、現在の山科駅西南地域に広がっていたといわれている(興福寺の起源)。「天智天皇陵」の造営は「陵戸」「沙汰人」と呼ばれる、特別の役割を持つ人々を生み出した。さらに、桓武天皇の平安遷都において奈良から随従し、この地に住み着いた者があるとされ、実際、山科の中で、この「桓武天皇随従」を系譜とした山科郷士がいることも確認できる。この「特別の役割を持つ人々」は、やがて天皇・朝廷に奉仕する「供御人くごにん」となっていく。
 平安時代の山科は、貴族の「別荘地」として、神社・寺院が多く建立された。703年建立の毘沙門堂(創建は上京区、江戸時代に安朱へ)をはじめ、848年の安祥寺(安朱上野)、859年の十禅寺(四ノ宮)、868年の天台宗元慶寺(北花山)、900年の真言宗山階派大本山勧修寺かじゅうじ、991年の真言宗の随心院(小野)など、歴史のある寺院が多い。しかし中世の戦乱で焼失し再興されたものが多い。また神社については古くから岩屋神社(大宅)、山科神社(稲荷山東:西野山)、宮道神社(勧修寺)などが知られている。ただし、山科神社(創建897年)は、明治以前に「西岩屋大明神」と呼ばれていた。(明治以降はどれも「神社」に統一されたはずですから、「神社」の付いたものはいずれも「~明神」「〜権現」「〜八幡」であったと思われます)

【平安後期】
 平安後期の仁安2年(1167)には、大宅に後白河上皇が「山科御所」を建立している。これは治承4年(1180)5月23日に園城寺衆徒の襲撃によって焼失するが、その後、上皇の側近であった平業房(の妻・高階栄子)が相続し、栄子の子・山科教成(藤原実教の猶子、初代)の領地となっていく。大宅地域には、この「山科御所」を系譜とした山科郷士がいたとされる。


【中世の山科】
 「七郷のまとまり」の初見は、910年の「転読会」(「心経転読修法」)とされ、「山科七郷」の名前が史上に登場するのは暦応年間(1338~1342年)のことで(『園城寺文書』)、「惣郷」として発展していたことが確認されている。

 中世の山科地域のほとんどは、天皇・皇族の禁裏御料であった。
山科七郷 『山科家礼記』 応仁2年(1468)6月15日条 『京都市の地名』P332
本郷組郷(枝郷)領主現在地域
野 村  野村:三宝院東野・西野
大宅里 南木辻大宅里:山科家知行、南木辻大宅・椥辻
西 山 大塚西山:三宝院、大塚:聖護院西野山・大塚
花 山 下花山・上花山 北花山・下花山:青蓮院、上花山:下司ヒルタ(→比留田)北花山・上花山
御 陵 厨子奥御陵:陰陽頭在盛(賀茂氏)、厨子奥:花頂護法院御陵・厨子奥
安祥寺 上野・四宮河原安祥寺:勧修寺門跡、上野:上野門跡、四宮河原:北山竹内門跡安朱・上野・四ノ宮
音 羽 小山・竹鼻音羽・小山・竹鼻:清閑寺音羽・小山・竹鼻
『久守記』(山科言国の家司である大沢久守(1430-1498)の記録)に、「七郷オトナ」でしばしば名前が出るのは、
・大宅の「衛門入道・二郎九郎・道妙・山カイノ左衞門」
・西(野)山の「進藤加賀」
・音羽の「粟津筑前入道・粟津四郎右衞門・新右衞門」
・野村の「センキュウ・五郎左衞門入道」
・四宮の「伊賀入道・兵衛」花山の「新右衞門」
・厨子奥の「四手井入道」  たちである。
なかでも四手井家は、延徳元年(1489)11月10日条に「四手野井与三郎子、千代松四歳本所奉公参ルナリ」と、中納言言国の侍童として奉公に上げ、領家との関係緊密化、ひいては郷内での家格上昇に努めた。
 こうした七郷オトナたちは、もはや農民というより「地侍であった。室町時代に頻繁に起こった「徳政一揆」などの土一揆の蜂起には指揮統制に当たり、また、応仁の乱には東軍側に立ち西軍勢と果敢に戦闘を交えた。「治」にあっては惣郷指導者、「乱」に臨んでは刀槍をかざして郷民勢の先頭に立って戦う姿は、諸国の守護・地頭を揺り動かした国人・地侍と何ら変わるものではなかった。山科には、こうした中世の「土豪」を系譜とした山科郷士がいたことも確認できる。

・惣郷と沙汰人
「惣郷」とは恒常的な自治組織をもったもので、その組織は、オトナの指導層を中心に、オトナを補佐する中老、若衆たちで運営された。オトナ以外を「地下(ちげ)人」といった。大宅郷の記録によれば、オトナもまた地下人から選ばれていたといわれている。このことは、指導層といえども村の(下層農民を含む)全体の意向を無視することはできなかったのである。オトナたちが村落自治の中心的役割りを担い、また七郷連帯の活動面でも指導者であった。オトナになるために、郷によっては「年寄成り銭」を郷中に支払わねばならず、延徳3年(1491)の大宅郷の記録では、三貫七〇〇文が支払われていた記録が残っている。オトナの公式名称は「沙汰人」であったらしく、当時の幕府から山科七郷に出された奉書にその名が見られる。

・農民の「行商」
 文明9年(1477)一二月一七日条の『山科家礼記』には、村人が商業に従事するための「免許札」が山科家からかなりの数(五三九枚)が発行されている。このことは村人が商品作物を生産し、京都などに売り出していたことを示している。むろんこれは「商人」として自立するというよりも、多くは農民の「行商」の許可状という意味であった。
 文明12年(1480)一一月条には「両座オトナ来ル」とあり、おそらく東岩屋(大宅・岩屋神社)西岩屋(西野山・山科神社)両氏神の「宮座」の代表をこう呼んだとみえる。西野山の山科神社においては、当時「中村座(献米)・新庄座(幣)・八串座(榊)・松尾座(祓)」の四つの宮座があり、これは後の近世・近代まで続いていく(*)。

【応仁の乱以降】
 「応仁の乱」後は、これまでの武士の官職や機構は「全く有名無実」となり、山科郷にては郷のもを頼らざるを得なくなっていた。そして「宮門の宿衛、御清所の奉仕等は、山科郷士の専任するところとなつた」(『山科町誌』)。
 文明9年(1477)
「応仁・文明の乱」後に山科郷士が禁裏御所の宿衛・御清所を「専任」することとなる。禁裏御所の「宿衛」は昔から山科郷の「供御人」が奉仕をしていたのであるが、文明12年(1480)以後は、山科郷は単なる「供御人」から「禁裏御家人としての深化を成し遂げたと考えられる。
 文明12年(1480)
山科本願寺の成立。御影堂を建築し、親鸞真影を大津より移す。
 明応7年(1498)一二月一四日
「禁中警固」が山科七郷と竹鼻氏等山科郷士に命じられる。『言継卿記』でも、天文五年(1536)二月二三日にも、山科郷民が「禁裏唐門の警固」を命じられていることでわかる。このように、応仁の乱を経て、山科郷は今まで以上に深く、朝廷・禁裏御所に関わることとなり、「禁裏御家人」としての地位を確立していったと言えるのである。
 天文17年(1548)
室町幕府13代将軍・義輝が言継の家領である山科郷を押領する。
 天文元年(1552)
天文一揆があり、その先頭に一向宗が立ったことから、細川春元らが六角定頼と、一向宗と対立する法華宗徒を利用し、本拠山科本願寺を東西から襲わせた。3~4000人が汁谷(渋谷:大谷本廟南側の東海道の一つ南道)峠から乱入し、山科七郷を含め山科本願寺を焼き尽くした。
 天正13年(1585)七月
山科言経、勅勘を蒙り京都から出奔。
 天正16年(1588)七月
「太閤刀狩り」が行われる。「秀吉の強行した「刀狩り・兵農分離」で、諸国郷村の中世的勢力であった国人・地侍は影を潜めることになったが、山科では「禁裏御家人」としての役割から、「帯刀」は否定されておらず、必ずしも兵農分離の政策が完全に貫徹された訳ではなかった。
 天正18年(1590)五月
山科郷のおよそ半分が豊臣秀吉の直轄地になる
 慶長6年(1601)三月一五日
徳川家康は朝廷に対して、山科郷一八カ村六五〇〇石余と、小栗栖・高野・岩倉・下三栖村等を合わせて一万石を禁裏御料として「進献」する。元々「禁裏御料」であったものを「進献」するというのもおかしな話だが、あえて朝廷に対して、自らが天下人であることを見せつけるためであった。
 但し、山科郷一八カ村六五〇〇石余の中には本願寺領、安祥寺領、知恩院領、十禅寺領がわずかに存在しており、全てが禁裏御料という訳ではなかった。中世以来の山科家は、その苗字地である山科郷の所領地をすべて失ってしまった。

【江戸時代の山科郷】
・1601年家康が一万石を禁裏御料にするとき、山科でも山科郷17カ村と南北小栗栖村を対象とした。『京都市の地名』の享保14年の地名を参考にすると、次1~18の村が該当すると思われる。小栗栖村を加えると18カ村、6,500石余近くなる。
村高 村高
01.日岡夙村168.525石 11.西野村*703.260石
02.御陵村*560.060石 12.椥辻村*310.838石
03.上野村37.995石 13.大宅村*631.395石
04.四宮村*227.012石 14.北花山村*306.709石
05.音羽村*513.250石 15.上花山村*111.404石
06.小山村*227.920石 16.川田村295.953石
07.大塚村*270.849石 17.西野山村*819.969石
08.厨子奥村*101.514石 安朱村(毘沙門堂領)235.159石
09.竹鼻村*368.747石 勧修寺村(勧修寺・醍醐寺領)837.300石
10.東野村*617.466石 小野村(随心院領)267.880石
栗栖野新田8石余 行燈町 石
桃燈町 石 髭茶屋町 石
八軒町 石 安善寺村(安善寺領) 石
十禅寺村(十禅寺領) 石 18.小栗栖村(南北小栗栖)255.249石
・元禄13年(1700)の山城国郷帳には17カ村と安朱・勧修寺・小野の20村がみえ、天保郷帳にはこれに新田と4つの町が入り、享保14年(1729)の山城国高八郡村名帳ではさらに安善寺村、十禅寺村が加わった。以上を表に並べた。数字を付けた17カ村(合計5,629石余)と番号18の村は全て禁裏御料である(総計5,884石余)。ただし、元禄13年の郷帳以降に小栗栖村の名がない
・山科郷には「郷士」であることを認められていた人々がいて、上記「*」印が付いた計14カ村に居住していたという。
・上記18カ村に、本願寺領、安祥寺領、知恩院領、十禅寺領がわずかに存在していて、その分がさっ引かれ禁裏御料の6,500石余にならない。
・享保14年山城国高八郡村名帳によると合計17カ村、6千石余りが禁裏御料であり、これは山科地区全体の石高の80%に達する。『京都市の地名』P334

 江戸時代の山科郷は、そのほとんどが禁裏御料所や門跡寺院領で、禁裏御料「山科郷十七カ村」を生みだした。この時期の山科地域は、中世の「山科七郷」以来の固い自治的団結を誇っているだけに、村々の連帯は強力なものがあった。
この強力な力に対して、江戸幕府の京都代官側は、けっして村の内部にまでわけ入って干渉しょうとする姿勢はみせなかった。幕府側は、山科郷全体に「触」の伝達・訴訟や年貢収取などに必要な手続と政治的支配を貫徹させるために、「惣触頭」制度をつくっていたのである。
 「惣触頭」は、京都周辺の各地域にみられるが、山科地域においては、二人の惣触頭が任命されていた。比留田(ひるた)家と土橋家であった。比留田家は、一六世紀前半ごろ、それまで居た音羽村から上花山村に移転している。土橋家は、東野村に住み、同郷の大庄屋役を務めた家で、家祖土橋内記頼照は蓮如の時代に本願寺に帰依し、山科本願寺建立と共に山科に来住したという。

 「郷士制度」についてであるが、山科郷における自治力の強固さと秩序をみるうえで、大きな存在は、禁裏御家人を自称し「山科郷士」と呼はれた有力「郷士」の一群であった。総触頭の比留田・土橋両家を筆頭に、山科郷の各村々の庄屋・年寄等の役をほぼ独占し、村々の支配層として、村行政の中核をなしていた。

 山科郷士の出身については、比留田・土橋両家同様に、中世的系譜を引く有力農民であり、土豪であるが、細かく見ていくと、古代の天智天皇陵の「陵守」を起源にもつ家、桓武天皇の平安遷都の際の随従に起源をもつ家、後白河上皇の「山科新御所」に起源を持つ家、源氏・平家に起源を持つ家、山科本願寺に起源を持つ家、中世の土豪で地侍的役割を担った家など、多彩であるが、一致しているのは「禁裏御所」に勤仕し、禁裏御家人としての役を担っていたという点である。

(*) 山科神社に残る『昇格願』(明治40年・1907)によれば「今宮守或ハ頭家ト称シ中村(献米)新庄(幣)八串(榊)松尾(祓)ノ四坐(是ハ本村ニ十戸アリ士族ニシテ往古ヨリ本社ニ附属シ皆藤氏ノ末ニシテ・・・・」。つまり、今は「宮守」あるいは「頭(とう)家」と称し、中村座(献米)、新庄座(幣)、八串座(榊)、松尾座(祓)の四座がある。これらの座(家々)は、西野山村に二〇戸あって、すべて士族(注:明治一四年の士族編入により士族になった)であって、往古より山科神社の氏子であって、みな藤原氏の末裔である、と記している。

以上、鏡山次郎氏の『禁裏御家人 山科郷士 起承転結』から、著者の意を損なわないように引用させてもらいました。