久我領(東寺領) 山城国乙訓郡 上久我荘の祭礼

【久我家の興り】
 12世紀初め太政大臣・源雅実みなもとのまさざねの別邸(山城国乙訓郡)・久我水閣(久我山荘)があり、鎌倉時代に子孫が久我こが家と称す。中世、久我家は公家源氏である村上源氏の筆頭で、いわゆる源氏全体の統率者としての位置にあり、「源氏長者」といわれたといいます(web菱妻神社)。

【久我家を支えた荘園】
*その後、中世を通じその久我家を支えた荘園が上久我荘(久我新荘)と下久我荘(久我本荘)でした。1396年(応永3)の検注帳けんちゅうちょう写(うつし)によれば、池などを含む総面積は上荘104町余、下荘50町余で、それぞれ多数の名請(なうけ)人がいたが、上荘で9名、下荘で16名の名(みょう)がみえ、夫役(ぶやく)などの徴発はこれら名の「当名主(※1)」を責任者とする体制であった。久我家の領地は織豊政権によっても安堵されるが、1601年(慶長6)の領主替えで消滅する。なお上荘の氏神菱妻ひしづま神社(伏見区久我石原町:桂川橋西側)を中心に荘民の宮座があった。

【菱妻神社と宮座】
*鎌倉時代(1185–1333年)には東寺の荘園でなく、13の名田みょうでんがあり、その規模は二町半から七町強、平均四町歩程度だった。
 延文2年(1357)、東寺は上久我荘(上記の上荘に相当するか)に検注を行い52人の農民に耕作権を認め、年貢納入の責任を負わせる(5町以上1人、3~5町1人、1~3町11人、1町以下39人)。
◎久世家領地の上久我荘に東寺領が入り組んできて、1601年には領地替えで残っていた下久我荘もなくなった、ということかな。
*菱妻神社は永久元年(1113)二月、右大臣源雅実が奈良の春日大社から天児屋根命あめのやねのみことを勧請して、火止津目(ひしづめ)大明神と崇め奉ったことに始まる。御遷座当時の広大な社領は、桂川・鴨川の氾濫の被害を度々受けたため、久寿元年(1154)に水徳があるとして社名を「菱妻」の字に改めたと伝わる。(web菱妻神社)

*上久我荘(総面積:61町4反90歩、年貢:228石4斗5合余)の菱妻神社も、室町時代(1336–1573年)には自治的な農民結合と深い関係をもっていた。まず、祭礼は頭役を中心に運営されていたが、その頭役は九人の農民が一年ごとの順役として担当した。祭礼前になると久我家や預所(※2)や頭役を勤める有力農民などが集まって、その年の「御頭」をきめた。その費用には、御事田四段(※3)余の収穫五石三斗と神事頭田からの収入があてられていた。久我家からの下行米に代わるものである。神事頭田は九段二百四十歩で、年貢高十一石九斗はいったん惣蔵に納められ、祭礼の時に頭役にわたされた。この社の祭礼は、毎年四月の中の巳の日に行なわれることになっており、当日は、神事としての神輿行事のほかに猿楽や競馬もあり、その猿楽は上久我荘に姿を見せる散所法師によって演じられていた。この神社をめぐる上久我荘の宮座は、領主久我家(※4)や有力農民を中心に運営されていた。しかし、そのほかの農民たち(※5)も祭礼への参加で団結を深め、村の政治の相談の舞台をこの菱妻社に求めていたことであろう。領主久我家の祭礼に対する関与は続いていたとしても、祭礼の運営は農民たちの手にうつり。彼らの日常生活に深いかかわりをもってきていた。
 以上、『京都の歴史』三巻 近世の胎動など
※1 名主(みょうしゅ)は平安後期から中世にかけて存在した名田の所有者。性格は時期、地域により異なる。畿内では荘園領主の支配下で一~二町の名田を耕作し、租税を納める農民をいう。地方では十町以上、数十町の名田を経営する大名主もあり、ここから武士団が育った。名主は領主に対して年貢・夫役(ぶやく)などの負担の義務を負う一方、家族・所従・下人などに名田を耕作させた。文中の「有力農民」に相当する。(コトバンク)
※2 預所は領主に代わって下司・公文などの下級荘官を指揮し、年貢徴集や荘地の管理などにあたった職。
※3 段は反と同意である。
※4 上久我荘菱妻社の祭礼には領主久我家から東寺領となってもその関与がある。
※5 上記(※1)の「所従・下人など」に相当するか。

◎祭礼が有力農民のもの(15世紀あたり)になってから(?)、「とうや」や「ごがしら」という文言があらわれたようである。一郷の実質的な運営が、一年ごとの輪番制「とうや」でなされ、構成員(本百姓、あるいは惣百姓)の長が「ごがしら」である。神社には所有の田があり、そこで収穫された米が神事に活用された。この神社は宮座をもち領主久我家や有力農民を中心に運営されていたという。(神主・神子も村から出したであろうか)
岩倉の実相院・大雲寺の祭礼(八所・十二所明神)もここ「上久我の祭礼」と酷似している。