円珍(園城寺では宗祖)

【円珍】和気氏、幼名は広雄、諡号は智証大師。814年3月に、讃岐国で生まれる。15歳のとき比叡山に登り、義真の弟子となり、19歳で授戒、20歳で大僧となる。846年、33歳のときに真言学頭となり、37歳のとき、内供養持念禅師に補せられた。勅許をえて、853年唐船に乗るが風浪により琉球に漂流。やっと福州へ上陸。開元寺から台州・越州を経て、先聖の跡を巡礼し、仏典を集めた。ついに、洛陽から長安に入り、、密教の神髄を伝授された。858年帰国、集めた経籍・法具類を朝廷に納めたが、それを改めて下賜された、、円珍は貞観10年(868)6月3日に、第五代天台座主を命じられ、門弟が園城寺の経営に当たった。寛平2年(890)に少僧都に勅任される。寛平3年(891)入寂、享年78歳。(渡辺守順)
◎wikiによれば、853年の入唐は新羅商人の船、858年の帰国は唐商人の船とある。いずれにしろ、勅許をえたが、国費留学ではなく(?)大変な航海だったのだろう。当時の園城寺は、東大寺・興福寺・延暦寺とともに、日本四カ大寺と称せられたという。

【余慶】園城寺の明仙に師事し、行誉から灌頂(かんじょう)を受ける。979年(天元2)権少僧都となり園城寺長吏となる。翌980年岩倉観音院(大雲寺)に阿闍梨五口を置き密教道場として整備。981年(天元4)11月法性寺座主に任ぜられると、延暦寺の僧徒が嗷訴し、山門・寺門の確執が深まる。よって座主を辞し岩倉に退き、その経営にあたった。989年(永祚1)9月、天台座主に任ぜられると、延暦寺僧都によりその宣命を奪われ、12月に辞す。『日本大百科全書』