『大雲寺堂社旧跡纂要』(恕融じょゆう)

【大雲寺守護神に】(971年)
 老尼答えて曰く「我は是仏法守護之善神なり、、一所に不在なり、、汝が興隆の誓願を知り此所に出現す。凡そ当社とは、岩倉山の守衛石座明神。」石座明神が現れ「仏法を守衛」するといった。権中納言藤原文範卿、天禄二年四月二日、叡岳より眺望、、「伽藍を建つ可きなり」(p.1-3)

【八所明神社となる】(997年)
「八所大明神 本堂の東方にあり。『長徳三年一条御宇四月十八日神宣有りて、高徳の七明神を勧請し「八所明神社」と号する」』、、慶祚阿闍梨(けいそあじゃり)、之を勧請し給う」 『大雲寺堂社旧跡纂要』P37

【八所十二所明神社を修繕】(1699年)
「石座明神 今、霊石にあり。松の柱を立てて、之を覆い、瑞籬(ずいがき)を以て之を囲む。目無川の末、西方の山麓に在り。今は農舎に介(はさ)まれり。俗、呼びて『御旅』と為し、神輿を祭礼して、此処に安(お)く。、」
「茲(ここ)により村里の人民、誤りて九月十四日「神祭の御旅所」と呼びて、八所十二所明神社を修繕し、当社を営むに疎(おろそ)かなるもの歟(か)」(p.36-37)

【八所十二所神事当今之とうこんこれを行う化儀けぎの事】(?年)
(元禄?年9月)
九月九日  「鎮守社の庭上に於て、相撲の神事之あり。東西二つの松明を焼く。その本、径(わたり)五尺余、その漸細。長さ七間余之ある由。相撲五番之あり。矢を以て両人分座す。「矢立て」と呼ぶ。また、弓箭(きゅうせん)を以て松明の後、東西を分って両人列立「弓振り(ゆみふり)」と呼ぶ。これ、勝負を見て之を霚(かく)す。また、『尻敲(たた)き』と云うもの有り。、、その形、相撲の人の如し。太刀一振左右の手に擎(ささ)げて、素襖(すおう)・袴を掛け、頂戴して矢立の前に置く。その体(てい)、異形なり。これは、正しく往古相撲の人に、その縁を賜う遺風、疑うべからず。定まって、衆徒これを見て、相撲人(びと)に禄を被(かず)けしむるもの乎(か)。」 (p.59-60)
◎大松明を九月九日に焼いている。1743年以降は15日未明らしい。

上記とは同じ年か不明
「(元禄12年(1699)9月15日)後夜に至りて、神輿を促し、里民之を祭る。寺中力者の棟梁行事ぎょうじ』『承仕しょうじ』二人、神門下に於て神輿を神人に渡す。後に従いて供奉(くぶ)す。旅殿に於て、翌朝に至るまで二社の左右に分けて彼両人神輿を衛る。十五日祭礼の剋限(こくげん)等、皆彼(かの)両人が之を知ら令(し)めて、神輿に従いて供奉す。『行事』は襲衣(かさねころも)に紋白の五條袈裟を着す。『承仕』は襲衣・袈裟を着さず。両人興(とも)に騎馬なり。この両人、衆徒の名代として供奉の故なり。毎事遅速この両人の下知に順(したが)う。今に至りては寺法混雑し、万般の法令之を失うと雖(いえど)も、力者之を知らしめて、神祭を催す事、これ、寺中より之を行う遺風なお存する乎(か)。、、」(p.58)

◎恕融(じょゆう)は、大雲寺・八所十二所明神社(大雲寺守護神)の僧侶であり、その視点で上記の書を記している。『石座明神 目無川の末、西方の山麓に在り、、』は、石座明神が現・山住神社の位置にあることを記述している。
 「茲(ここ)により村里の人民、誤りて九月十四日「(現・山住神社を)神祭の御旅所」と呼びて、八所十二所明神社を修繕し、当社を営むに疎(おろそ)かなるもの歟(か)」の文言について、「当社」とは現・山住神社であり、「九月十四日の、、八所十二所明神社を修繕」は、祭り直前の「掃除」ないし「簡単な修繕」でないか。当時、神社前は人家や参詣人相手の茶屋で賑わい門前町の形成に見られる)を見せ、神輿が八所十二所明神社から出て、途中に御旅所(現・山住神社)に安置される。恕融の記述表現「八所十二所明神社を修繕、、疎かなるもの」はともかく、村里の人民の「掃除・修繕」は当たり前のことである。
 注目すべきは、現・山住神社が八所十二所明神社の御旅所であったとしても、まだ「石座明神」と呼ばれていて、祭りの主体は八所十二所明神社にあるものの石座明神(現・山住神社)に寄せる、岩倉村(特に南部)の人たちの信仰は厚いということだろう。
 『後夜に至りて、、』の記述は、祭りの実施状況を示している。祭りで、寺中力者の棟梁「行事」「承仕」は衆徒の名代、両人は騎馬で、神輿の遅速をはじめ両人が祭り全体を差配していたようだ。「力者の棟梁二人、神門下に於て神輿を神人に渡す」だけでは、「神輿舁くは神人」と断定できない。力者棟梁から神人への神輿の引渡は形式的なものかも知れない。力者も複数名いただろう。2基の神輿を舁くには多数の人数を要する。この時期、他の地域( [上久我荘の祭礼]の例)では、本百姓が祭礼の中心である。
・「行事」「承仕」が2人の神主に受け継がれるのであろうか。
・この年、「相撲」「座」「東西松明」が資料に見えるが、この年が初見か不明。