【佐々木氏】


宇多天皇--敦実親王--源雅信(左大臣)--源扶義すけのり(参議)--成頼なりより(近衛中将,佐々木祖)--良経--経方--為俊--秀義▽

   |-重綱|-経泰-   不詳不詳 
 |-定綱------- |-広綱| (大原) |②頼綱-----  --|⑫高頼----|⑬氏綱---|-義実--|-義秀
-秀義--|-経高|-定重(鏡)|-高信|-長綱- ↑9代略 |  |-義頼
 :|-盛綱|-定高(沢田)| (高島)|-輔綱  |   (岡山)
為義娘|-高綱|-信綱 -------|①泰綱 ----|-綱賀  |⑭定頼--|⑮義賢-- 
頼朝祖父|-義清(隠岐) |-広定(馬淵)| (六角)|-良輝 ----時綱(*)     
  |-厳秀(吉田)|-時綱(佐保)|  (佐々)      
  |-行綱(伊佐)|(一)氏信 --|-頼氏     
  |-頼定(山中) (京極) |-範綱|(四)宗氏--|-貞氏   
    |-満信----|-祐信|(五)高氏--|(六)高秀---->次へ 
    |(二)宗綱--(三)貞宗 | (道誉)   
    |-信賀|-時綱   
 『佐々木六角氏の系譜』(佐々木哲著)など

 [9代略の部分]:(頼綱)- ③時信- ④氏頼- ⑤義信- ⑥満高- ⑦満綱- ⑧持綱- ⑨時綱- ⑩久頼- ⑪政堯- (高頼)

【佐々木秀義】宇多源氏・近江源氏の流れをくむ佐々木氏の棟梁。近江国蒲生郡佐々木荘(蒲生郡のうち。常楽寺・小中・慈恩寺・中屋の4か村の総称)を領し、秀義の母方の伯母は藤原秀衡(一説には藤原基衡)に嫁ぎ、自身は源為義の娘を妻とする。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)ともに秀義は(義兄弟の)源義朝に属す。平治の乱で義朝方は敗れ、秀義は先祖伝来の地を取り上げられ息子達を連れて親族の藤原秀衡を頼って奥州平泉へ向かう。途中、相模国の渋谷重国(桓武平氏の流れ)の庇護を受け娘を娶り五男義清をもうける(吾妻鏡)。この地で20年過ごす。治承4年(1180年)に(秀義の甥)源頼朝が伊豆国で平氏打倒の兵を挙げる際、定綱、経高、盛綱、高綱を頼朝挙兵に従わせる。1180年10月23日挙兵後初の論功行賞にて、本領を安堵され佐々木荘へと戻る。元暦元年(1184年)7月に三日平氏の乱。五男義清と共に反乱鎮圧に赴き甲賀郡上野村で戦い90余人を討った後、戦死した。享年73。
[奥州藤原氏]
藤原頼遠(?-?)-経清(?-1062)-清衡(1056-1128)-基衡(1105-1157)-秀衡(1122-1187)
 秀衡の死後、息子の泰衡(1155-1189)は頼朝の義経の引渡要求を再三再四を拒みきれず、1189年閏4月、義経を自殺に追い込む。1189年7月、頼朝は義経を長らく匿っていたことを罪として奥州に出兵。贄柵(秋田県大館市)にて泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。

【秀義の死後、その子】
佐々木定綱鎌倉幕府の重鎮として活躍し検非違使・左衛門少尉、従五位上。定綱は1191年の「建久二年の強訴」により薩摩国へ配流。1193年に後白河法皇の一周忌で子ともども恩赦になり、定綱は近江守護に復帰。元久2年(1205)に病死、鎌倉の西山に葬られた、享年64。
 定綱の嫡男広綱が後を継ぐ。広綱は左衛門尉検非違使となり、山城守となって後鳥羽上皇に仕える。承久の乱(1221年)に、広綱は上皇方として捕えられ、その子とともに斬首された。 広綱の叔父の経高は自刃、その子高重は勢多で討死。経高の弟盛綱は斬首された。 広綱の弟・信綱だけが幕府方として参加し、遺領を継いで佐々木氏総領・近江守護となった。web『戦国時代の城』
三郎盛綱(鎌倉の御家人)は、頼朝が没した後の建久10年(1199)に出家しており西念と称する。加地盛綱とも呼ばれ加地氏の祖。没年月日は不詳であるが、倉敷市に盛綱のものと伝わる墓が残っている。
・四郎高綱、五郎義清、六郎厳秀はこちらへ

【信綱の死後、その子】
 長男 重綱:坂田郡大原荘の地頭職を得て大原氏
 次男 高信:高島郡田中郷・朽木荘の地頭となって高島氏
 三男 泰綱:宗家を継いで近江南六郡を与えられ六角氏
 四男 氏信:近江北六郡を与えられ京極氏
◎三男の泰綱が家督を継ぐ。三男四男の母が執権北条泰時の娘であったこと、佐々木氏を牽制しようという幕府の狙いがあった。父・信綱の死の翌1243年、長男・重綱の訴えを幕府が聞き入れ、近江の所領は兄弟で四分された。四家は鎌倉幕府に直接仕えたため、総領たる六角氏が他の3家を家臣団化できず、六角氏の近江統一の障害となった。

 |--経泰(長男)|--頼明  
 六角| |--時綱 四郎  
①泰綱--|②頼綱(二男) 備中守------|③時信 三郎---④氏頼 ----------|⑤義信 --×
 |   |⑥満高 ---
 | 唐橋四郎左衛門  西条三郎  
 |--長綱(三男) 壱岐守------|--氏綱 ---------全定 ----------|--貞成 侍権律師-
 ||--綱乗 権律師 |--元綱 
 | 山 阿闍梨|   上総 
 |--綱賀(四男)|--貞長 四郎----|--頼貞 四郎左衛門---信貞 左衛門尉-
 | |--長信 五郎|--貞輔  
 | |--長朝 十郎|--高泰  
 | 鳥山五郎左衛門 法名覚生   
 |--輔綱(五男) ------------|--忠綱 四郎  
 | |--輔時 弥五郎  
 | |--輔氏 弥太郎  
 | 佐々同助   
 |--良輝 僧都(六男) ---------時綱 四郎  
 |   
 |--女 嫁海道雅忠   
           出典『宇多源氏佐々木氏系図第二巻』千葉琢穂編著

◎③時信は、兄に頼明、宗信、成綱、宗綱、時綱(養子、頼起の子)がいて、末子。廃嫡された長兄・頼明や早世した他の兄達に代わって嫡子となり、延慶3年(1310)の父頼綱(1242-1311:享年69)の死後に家督を継ぎ、近江守護となった。室町幕府(1336年~)になってからは近江守護職を一時庶流の京極氏当主京極高氏(道誉)に奪われるなど不遇に遭う。出家して家督を子・氏頼に譲り、41歳で死去したという。
・泰綱の良輝を六男としているが、「三男として誕生」もある。六男が多いようだ。良輝(頼起)の子「時綱が頼綱の養子となり佐々を興した」は別史料に出てくる。ここでは頼起が「佐々木」から「木」を除き「佐々祖」となっている。他にも、佐々木(六角)政堯(四郎)の子・成義(虎夜叉:孫四郎)が「佐々祖」となったりする。六角家では「四郎」に意味(六角家を継ぐ?)があるようだ。頼綱(興福寺と領土問題で対立)が尾張へ配流された後、跡継ぎに混乱したようだ。
・『今日。佐佐木壱岐前司泰綱子息小童(九歳)。於相州(北条時頼)御亭遂元服号三郎頼綱。御引出物以下経営。尽善極美。一門衆群参。各随所役云云。奥州。秋田城介等所被参会也』(『吾妻鏡』建長2年(1250)12月3日条) 頼綱が将軍北条時頼より「頼」の一字をもらった話(ここでは三郎となっているから三男を思わせる)。このとき、佐々頼起も時頼の邸宅で元服した兄・頼綱に導かれて同様に「頼」の字を受けたものと考えられる、と。頼綱が九歳というから末子の良輝は三歳ぐらいであろうか。
・泰綱の四男綱賀「山 阿闍梨」は、当時「山」といえば比叡山(延暦寺)だから、延暦寺の僧侶のことだろう。また、阿闍梨は職業上の「習得資格」の名称で、天台宗とは違うが、高野山真言宗では一般の僧侶が持つべき最低限の資格ともされている。
・泰綱の六男「佐々同助」の「同」が何か、名前の一字か分からない。良輝(頼起)は、後に(?)権少僧都ごんのしょうそうづ。彼にはさらに園城寺(三井寺)が付く。
僧綱そうごう】仏教の僧尼を管理するためにおかれた僧官の職。律令制度では玄蕃寮(治部省に属する機関)の監督下に置かれ、僧正、僧都、律師からなりそれを補佐するための佐官も置かれた。仏教界(624年設置以来)において重要な役割を果たした。819年に定員が僧正1名、大僧都1名、少僧都1名、律師4名と定められた。役所である僧綱所は奈良時代には薬師寺におかれ、平安遷都後は西寺におかれた。西寺焼亡後はどこへ。玄蕃寮(治部省に属する機関)の監督下に置かれたとある。1873年に廃止された。
・佐々家の出自に、尾張国高田寺の梵鐘銘(大永5年(1525))、檀那として「比良佐々下野守藤原貞則」の刻銘がでてくるが、「貞」がつくところ、唐橋四郎左衛門の系統と絡む(婚姻?)のでないか。同族のものも近江から尾張に入ったであろうか。


治承4年(1180)8月17日 源頼朝が挙兵
*挙兵を前に、頼朝は工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行う。挙兵の前日に至り、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱ら佐々木兄弟が参ぜず、頼朝は盛綱に計画を漏らしたことを悔いるも、挙兵の8月17日、洪水により遅れ、急ぎ疲れた体で佐々木兄弟が参着すると、頼朝は涙を流してねぎらった。
 深夜に北条や佐々木兄弟らが韮山(にらやま)にある山木兼隆館を目指し進発。佐々木兄弟が途中、山木館の北側の堤信遠(兼隆の後見役)の館に向かい、子の刻に経高が館に矢を放った。『吾妻鏡』はこれを「源家が平家を征する最前の一箭(いっせん)なり」と記している。佐々木親子が源頼朝の旗下に加わったとき頼朝の同勢は九十騎。
 兄達が勇士とされた堤信遠を討った後、盛綱は加藤景廉と共に山木兼隆の邸宅へと赴きその首を獲った。20日、頼朝に従い相模国へと赴くが石橋山の戦いで敗れると、盛綱兄弟は石橋山で平氏側であった渋谷重国の館に逃れた。重国は喜んで盛綱らを迎え倉庫に隠しもてなした。
 23日、大庭景親が渋谷重国のもとを訪れ、頼朝に従った佐々木兄弟の妻子を捕らえるよう要請する。だが重国は「彼らが旧恩のため源氏の元に参じるのを止める理由がない、外孫の佐々木義清をともなって石橋山に参陣した(平家方についた)」を理由にこれを拒否している。その後、頼朝に臣従して所領を安堵され、子の高重と共に御家人となる。

治承4年(1180)12月 近江国、山本義経の本拠地、山本山城を平知盛・資盛が攻める
*山本義経は園城寺と深い関係のあった源頼義の三男新羅三郎義光の流れに属する。父・義定の代にこの山本山の南ふもとに居館を構え、陸路の東山道と水路からの北陸道ににらみをきかせていた。北面の武士として都に出ていた義経は、安元2年(1176)、延暦寺根本中堂の衆徒を殺害した罪によって佐渡に流罪となる。、、治承4年4月、平家打倒という以仁王の令旨が伝えられると挙兵する。、、■平家方は、山門・寺門の衆徒と結んで六波羅を攻めるという噂を聞き、園城寺を焼き、その足で山本城攻めに向かった。、、「知盛ハ一戦ニ及バズ京都へ帰陣」(『淡海温故録』)からみると、もぬけのカラで肩すかしを食った。
 山本義経は美濃に逃れ、12月黄瀬川で頼朝に会った。再び近江に戻って各地に潜伏、ゲリラ戦を続けていたのであるが、寿永2年(1183)5月、木曽義仲が都に向けて怒涛の進撃を開始すると、今度は案内役を買って出る。、、平家の逃げ出した京都に入ってからは市中警護の大役を引き受け伊賀守に任命される。、、頼朝の弟・義経が現れ義仲勢を破る。粟津ヶ浜で山本義経の二男(弟?)義弘も義仲とともに討ち死にするが、山本義経自身の姿はなく、その後の消息はまったくわからない。 『近江史を歩く』82
*山本義経は、仁安三年(1168)十二月に皇太后の御給によって左兵衛尉になっており、その弟柏木入道義兼も九条院判官代となり、義経と同様に左兵衛尉にも任じられたことがあるらしい。、、義兼の本拠地は柏木御厨(現甲賀市)であるが、山本義経については東浅井郡湖北町の山本山といわれてきたが、最近では東近江市の山本、あるいは蒲生郡日野町の山本という説が有力になってきている(八日市市史編纂委員会1983)『新彦史1巻』391。

*源(新羅)義光は氏神新羅明神を崇拝し、武将として活躍、嘉承元年(1106)9月(甲賀水口の)柏木荘の一部を新羅明神に寄進している(『寺門伝記補録・園城寺伝記』)。義光の流れをくむ源義兼も柏木荘を根拠地として、柏木冠者といわれた勇者であったが、以仁王の平家討伐の挙兵に応じたため治承4年(1180)近江討伐使に任じられた平忠盛と戦い敗走した。『日本地名大辞典・滋賀県』

文治元年(1185年) 源頼朝を大将とする軍は壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼす
*佐々木兄弟は鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。
 太郎定綱(大原氏、高島氏、六角氏、京極氏):近江の守護職
 次郎経高(子孫は阿波国で帰農):淡路・阿波・土佐
 三郎盛綱(加地氏):伊予・讃岐・越後・上野
 四郎高綱(野木氏):備前・安芸・周防・因幡・伯耆・出雲・日向
 五郎義清(出雲源氏):挙兵時に平氏方、後に頼朝に従う。出雲、隠岐の両国守護職
 六郎厳秀(吉田氏):六角氏家臣で日置流弓術で知れた吉田出雲守が子孫とされる。
◎親子や兄弟でも争う時代というものの、東国へ落ち延びる武者にとって一族の信頼関係は有り難い。頼朝が佐々木四兄弟に17ヶ国に及ぶ守護を任せたのは、信頼のおける身内(従兄弟)であるばかりか、挙兵からの歴戦の功に酬いたものだろう。

承久3年(1221年)5月14日 後鳥羽上皇,討幕の兵をあげる
*義時の総勢19万が京都へ向かう。まず、美濃の大豆戸渡で激突、(官軍方の佐々木) 広綱の弟定重の嫡子鏡久綱が戦死。敗走する官軍を追って、鎌倉軍は宇治・瀬田で再度激突で、(佐々木)信綱は叔父の高綱にならって、宇治川に先陣の功をあげた。この戦で、広綱の次子為綱は戦死した。、、「官軍」の敗北となり、広綱の叔父経高は自刃、広綱は捕虜の身となった。、、北条泰時は、、無罪放免にしようとしたが、信綱は泰時に強請して斬首の刑にした。、、ひどい弟(信綱)があったものである。、、兄広綱らを死なせたおかげで佐々木氏の家督を継ぎ、近江守に任ぜられ、、晩年髪を下ろし仏門に入り、叔父高綱の建てた高野山の蓮華三昧院に住み、兄たちの菩提を弔って、、(信綱)は1242年62歳で死んだ。、、広綱が攻め滅ぼした次の邸宅を、泰綱と氏信が朝廷よりたまわった。
 泰綱の拝領邸:六角邸 京都守護平賀朝雅の邸 → 六角家
 氏信の拝領邸:京極邸   〃 伊賀光季の邸 → 京極家 『佐々木六角の系譜』26
◎嫡流の六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し、六波羅評定衆などを務める一方、庶流の京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をしており、嫡流に勝る有力な家となる。(wiki)