叡山の僧徒

 1.叡山の僧徒
 2.悪僧
 3.叡山の僧兵武勇

【叡山の僧徒】
『源平盛衰記』(1161-1183年の20年間)は、平安末期の叡山の僧徒を、学生二千、堂衆三千としている、、叡山の僧団は、古来上方、中方、下僧の三階層に分かれていた。、、『天台座主記』慶長5年(1600)「当今出世制法」を参考に、、
 「上方」は学生・学匠・学侶などとよばれ、衆徒というのも多くはこの階層をさしていた。、、厳密には、衆徒・山徒・寺家執当・四至内の区別、、衆徒というのは、すべて山上の僧房に常住して妻帯せず、研究・修禅にのみ生きる「清僧」学生である。それらの多くは皇族・貴族の出身で、幼にして入山し、修練をつみ、器量しだいで五階の層位を経て、阿闍梨・内供奉・堅者・註記となり、さらに巳講・擬講・探題に昇進し、僧綱にも任ぜられる途があたえられていた。天台座主もこの人々からえらばれた。山徒は、はじめはみな清僧で、衆徒と同位同格であったが、中世以来妻帯するようになったので、衆徒と区別して山徒と称した。山僧として貸上とならび称されるものには山徒が多い。、、この内山徒の頭を「使節」と呼び、山門と公家・武家の間を連絡斡旋するを職とし、護正院・南岸坊・金輪院・杉生坊・円明院などが、この使節家として威令をもっていた。四月の祭礼には、、素絹を着し、大刀をはいて渡った。
 つぎに、「中方」といわれる階層は、別に「堂衆」ともいい、聖名をもっている。その多くは衆徒清僧の召使侍などの身分から出家して清僧となったが、11世紀のはじめ学生が下僧の法師原等を用いて、強訴や派閥争いに終始し、仏堂の勧行を堂衆に任せたため、しだいに勢いをまし、妻帯して、衆徒の末席に列し、学生に対して、しばしば対立、抗争した。
 「下僧の階層」は、「法師」または「法師原」と呼ばれる下法師で、すべて妻帯していた。、、法師原のうち、えらばれて諸堂の公役を勤める者を、公人くにんと称し、三塔それぞれの公人の上首を「三院別当」と言い、その中から「寺家専当」が選ばれて、公人衆を統率した。公人の勤める役名は、出納・庫主(こぬ)・政所・専当であり、山上山下の警備か・取締など、すべての公人の担当となっていた。近世になると、山徒の使節家も公人と云われるなど、呼称の内容もひろがったようである。平安末期以来、山門が賦課する諸役を怠る場合、公人が出かけて、これを譴責(けんせき)・検封するのが例であった。、、山徒と神人が日吉神物借出の名をもって、強引な高利貸をおこなった蔭に、この山門の公人の出動があったのである。
 <まとめ> 上方:衆徒 (非妻帯)→ 妻帯する者は山徒
       中方:堂衆 (妻帯)
       下層:法師、法師原(すべて妻帯) → 選ばれた者、公人
             『延暦寺の山僧と日吉社神人の活動』(豊田 武)
  伊藤氏は、中方あたりを「行人」としている(叡山では高野山の聖が出てこない)
【待った!】藤原通憲(信西)20数名の子沢山、その一人、澄憲は山僧で1174年に権大僧都までいった人物。子供10名いる。この内、姝子内親王と密通したとされる間に2人の子がいる。弟弟子に親鸞がいる。親鸞も妻帯だ(本人地獄へ落ちる思いをした、とある)。そうであるなら、彼らは堂衆の範疇か。否、騒ぐ必要も無いか。


【悪僧】
悪僧というのは、仏道にそむいて悪事をなす僧侶、破戒僧、武勇に秀でた荒々しい僧。しかし、「悪僧」というのは、軽蔑したり嫌ったりする表現ではなく、むしろ褒め言葉なのである。「常識では信じられないほど、武力に優れた僧侶という」意味である。、、「悪僧」と呼ばれるのは僧兵の誇りであった。[悪僧の拠点]
▼僧兵の風体をみてみよう オシャレと言うよりかぶいていないだろうか
 園城寺の僧兵の中に、明春という者がいた。彼は自他共に認める悪僧である。紺の頭巾をかぶり、黒糸縅(おどし)の鎧を草摺(くさずり)長く着、兜の緒を強くしめ、黒塗りの三尺五寸の太刀には熊皮の鞘が付いており、黒塗りの箙(えびら)には羽根の矢を二十四本、頭よりも高く背負っている。「源平盛衰記 第15巻」
 全村という者は、延暦寺の名誉ある悪僧である。鏁(くさり)を体に巻いた上に鎧を重ねて、菖蒲の葉の形をした太刀を脇に挟み、5分の鑿(のみ)形の鏃(やじり)のついた矢を三十六本も森のように背負っている。弓は持っていない。これは、矢を手に持って敵を突こうというのである。「太平記 第15巻」(『法師武者悪僧軍団の興亡』今井雅晴)

[かぶき者] : 傾(かぶ)く者、傾奇者、歌舞伎者。「かぶく」の「 傾」は「頭」の古称で、「頭を傾ける」が本来の意味らしい。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。江戸や京都などの都市部で流行した。と、いうことで僧兵はかぶき者の「先駆者」かな。武将の派手な兜・鎧にも繋がるか。


【叡山僧兵の武勇】
 承久3年(1221) 六月十二日、幕府方の大将である北条泰時 (義時の長男)が、近江国の瀬田の大橋近くまで押し寄せて陣を取った。上皇方(京方)では、山田次郎なる者を大将とし、橋板をはずして「山法師」が陣を張っていた。『承久軍物語』第四巻によれば、この時の戦いは次のようであったという。
 山法師らは、徒歩で戦うのが得意である。その上、大太刀・薙刀をもって激しく打ちかかっていった。武士は心こそ剛であるけれども、橋桁の上で歩いて戦うのは慣れていない。そこで小太刀を使って防ぎ戦ったけれど、たちまち数人が斬り伏せられてしまった。(中略) 僧兵の中でも、「かくしん」と「えんおん」は特に強い。他の者は這うようにして渡る幅の狭い橋桁の上で、踊り跳ね、薙刀を打ち振い、力いっぱい戦った。これを見た東国勢は、「僧兵の憎い振るまい め」と、矢をさんざん射た。そのうち、一本の矢が「えんお ん」の足の親指を橋桁に射付けてしまった。「えんおん」は動くことができない。すると、あとに続いた「かくしん」がこのようすを見て、太刀を抜き、射付けた親指をさっと切り捨て、「えんおん」を肩にかけて退却した。
 「かくしん」と「えんおん」のすさまじい戦いぶりである。

 鎌倉幕府滅亡のおり、元弘3年(1333)、幕府軍と朝廷軍が戦った時、後醍醐天皇の皇子の護良親王は、延暦寺に援軍を求めた。『太平記』第八巻に次のようにある。
 三月二十六日、比叡山全体の僧侶は大講堂の前に集合した。ここで護良親王、ひいては醍醐天皇のために出動する提案がなされた。三千の僧侶はいっせいに「もっとも、もっとも」と賛成し、それぞれの谷々の自分の堂へ帰って出動の準備に余念がなかった。(中略)しかし戦争が始まると、いったんは幕府軍に敗れ、北白川を指して引き揚げることになった。この中に豪鑑豪仙という二人の「三塔名誉の悪僧」がいた。彼らは心ならずも敗走していたが、腹がおさまらず、踏み止まって戦うことにした。二人の命を捨て、延暦寺の恥をすすごう、というのである。そこで法勝寺の前まで行って幕府軍に対し、「大勢の僧兵の中で、ただニ 人立ち戻ってきたのだからこの我々を三塔一の豪の者と思え。名前は聞いたことがあるだろう。延暦で名を知られた豪鑑と豪仙だ。我と思う武士はかかって来い」と名のりを上げ、刃渡りが四尺余もある大薙刀を水車のように振り回して戦った。
このように活躍した僧兵も、室町時代から戦国時代に入ると、単なる暴れ者として社会からとりのこされていくようになるのである。
 以上、法師武者悪僧軍団の興亡』(今井雅晴)より