実相院・大雲寺と石座神社

 1.実相院・大雲寺の寺内組織
 2.岩倉の法師家
 3.公人法師は農業を
 4.「公人中間」へ預置
 5.実相院と大雲寺の対立
 6.実相院・大雲寺領
 7.実相院の収入
 8.本百姓の中間
 9.東西の「宮座」


【実相院・大雲寺の寺内組織】
*実相院は門跡寺院であるという事情があり、近世期には門跡が選任されず、空位であった時期の方が長かった。そのため門跡を支える世襲のスタッフとして坊官・諸大夫・寺侍がいた。石高612石であり(『雲上明覧大全』)、実相院には石座御殿貸付所という役所が置かれ、金融の業務にあたっていた。借り手は上下賀茂社の神官や洛中の町人・地侍のほか、領地の近江国穴生あのう(穴太)村(穴生村高450石のうち実相院領は200石)、山城国神足村(神足村高962石のうち実相院領は200石)も借り手であった。また下鴨社の競馬の費用捻出に関わっており、これらを元手に収入にしていた(管2003)。
 坊官の筆頭が芝之坊、次官が岸之坊、他に蔵井坊がいた。実相院にはその他に諸大夫として入谷家、侍として片岡家(柏村家・辻家もあったが一代で途絶える)があった。芝之坊は実相院・大雲寺においては「芝庁法印御房」と称された。
◎単純計算で、石高612石から400石(穴太村200石(滋賀県の地名P213)と神足村の分)さっ引き、残り212石高がどこなのか、屋敷分なのか不明です。また、『京都 岩倉実相院日記』(25P)に、寺領も寛喜3年(1231)には近江野洲荘、栗太荘の二所を荘園に持ち、この地は幕末まで実相院の所領として伝わっていた、とある(ただ、滋賀県の地名で実相院領であったが、幕末までか不明)。

*大雲寺の寺内組織は、慶長9年(1604)の段階で、六供僧6人、長講2人、新長講1人の合計9人で運営されていた。このうち長講・新長講は本堂にて勤行する役であった。彼らはいずれも弟子がおり、得分が満員であった場合は、死闕が出てのみ補充された。僧が没するとその弟子が坊地・道具を継承し、弟子が無い人の場合は坊地・諸道具は寺中の老僧3人が協議して、一和尚が預かり、廃絶しないように適任な弟子をつけた(釈文37)
 大雲寺には他に力者・力士といった集団がいた。大雲寺のみならず園城寺にもあり、本来は凶事にかかわったとみられ、例えば寛延3年(1750)5月には桜町天皇葬送において、御棺を担ぐ役として、園城寺力者より大雲寺に対して20人の力者を派遣する要請が来ている(釈文45)。他にも勅使供奉や、仏事における行列の供奉を勤めた。大雲寺力者には力者頭が置かれ、竹王・竹徳の名称が冠された。元禄の頃、岩倉の本百姓には侍分中間・明神宮役中間・公人中間があり、このうち竹王・竹徳は公人中間の預置となり、かつ宮中における下役の役人扱いとなっていた(管2003)。『実相院の文書』以上、2つWeb『かげまるくん行状集記』より
◎正暦4年(993)に、延暦寺から大雲寺へ逃れてきた余慶の門弟千余人で賑わったものが、慶長9年(1604)では(運営に携わるものだが)9名ほどになってしまった。「廃絶しないように適任な弟子をつけた」の文言にもあるよう総数でもかなり少ないと思われる。これは、僧侶は妻帯でないということ、戦乱で荒廃した大雲寺へ向かう僧侶は少ないということですか。悲しいかな。


【岩倉の法師家】
◎延暦寺が、京都岩倉の大雲寺に与える影響は、山門派と寺門派の違いがあるとはいえ、非常に大きい。「法師家」が、大雲寺や、いまはなき解脱寺に登場するが、叡山の僧の三階層のどの位置にあたるか、考えればわかると思われる。あっさり「行人」とすればよいのだが、叡山には行人という文言があまり出てこないようだ。
・「大雲寺力士(力者)」については、江戸時代初期から「公人中間(公人仲間)」への預置ということで、力士とその力士頭も公人中間からでている。それで公人中間とは何かというと、岩倉村を構成する本百姓の組織の1つで、「公人法師」だともいう。他の地域では「力者法師」の文言も見られる。結局のところ、法師家の人達は公人中間を構成することにもなる。何度も登場する「公人(くにん)」は、延暦寺の公人に由来すると思われる。


【公人法師は農業を】
◎1706年には、岩倉村の地は全て御料のものになっていて、岩倉村の耕作地は実相院・大雲寺の境内やその周辺を除いてほとんどないでしょう。恐らく、公人法師は御料の田を耕作しながら大雲寺の維持・運営の手伝いをしていたのでしょう。公人法師にとって、耕作する土地の領主(あるじ)が交代したと考えてもよいでしょう。「力者の身分が「公人中間」へ預置」(少しわかりにくい表現)されたところにも繋がります。つまり、力者・公人法師の立場が大雲寺から切り離されていく過程としていいでしょう。
・公人(くにん)の由来は[こちら]かな。


【「公人中間」へ預置】
◎力士(力者)たちが「公人中間」へ預置されたのは、大雲寺・実相院の財政難が関係するであろう。154615511573年と大雲寺は戦火により焼けている。さらには、その前の文亀二年(1502)、に実相院領が没収されてる。大雲寺としては、寺に勧請した神社の神祭を催す事はいわば大雲寺の広告塔であるから、住民を巻き込むと経費削減で有り難い。
・京都岩倉には「法師家」があり、上記の「力者」とは同一と考えてよいようです。 さらに、「竹王」や「竹徳」という力士頭が、東西2つの宮座(の頭になるか不明)に繫がり、それが「行事」「承仕」に継承されるのでしょうか。
・この当時、八所・十二所明神(石座明神)は大雲寺に境内(大雲寺が勧請し祀った)にあるから、力者の長も公人から出す、それも「公人中間から出すがよい」としたものか。神仏習合の時代で、神社系(神人)と寺仏教系(公人)が入り乱れている。


【実相院と大雲寺の対立】
*大雲寺の尭仙坊父子は門跡の下知に従わず、寺領を押領したとして、永正13年(1516)12月24日に田畠・山林作職などが闕所けっしょ(財産没収)となった(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編6冊〉)。さらに詮議は他の衆徒に及び、翌永正14年(1517)7月25日に尭仙坊に同意する者は罪科に処し、名を連ねて注進するよう命じるとともに、大雲寺衆徒の円乗・侍従も尭仙坊に与力したため、実相院門跡境内より追放された(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編6冊〉)。尭仙坊尚栄に定林頼尚が寄進した大雲寺領内散在田畠についても、尭仙坊闕所後に三善中将女某が権利を主張したものの、永正14年(1517)12月29日に幕府より寺領を女性に譲与することを問題視され、実相院門跡に安堵された(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編7冊〉)。


【実相院・大雲寺領など】
・保存場所を移行しました。


【実相院の収入】
◎1687年から1706年のある年に、実相院領の年貢収入はすべて洛外になり、それがどれだけのものか不明。実相院の収入には、金貸し業と出開帳があった。この岩倉の地には、石座御殿貸付所が置かれ、大口から小口までの金貸付業務・金融業務を行った。、、領地であった寺領の富裕な庄屋や町人、大百姓からの借用も多い、、また、実相院の所有する地域の寺院と結びつきの多い近江の穴生村と山城の神足村の貸付けが顕著であった。、、実相院の寺領地(らしい?)ところで、回収不能になりにくい貸付先をあげている、、
 大原村戸寺百姓重五郎、松ヶ崎池番巳之助、八瀬村新五郎、八瀬村百姓岩保司丹後、木野村勘十郎、長谷村市之丞、市原村百姓安右衛門、御菩薩池村百姓弥七、八瀬村百姓東出雲、木野村藤大夫、長谷村太兵衛、畑枝村久兵衛、長谷村由松、静原村権四郎、神足村百姓清一郎、中在地与九郎、松ヶ崎村新兵衛、神足村惣次郎
 出開帳とは秘仏・本尊・宝物を一般に公開することのようで、大雲寺と実相院とがあり、古い大雲寺の方が多かった。その際、露店の出店料の収益があった。『京都岩倉実相院日記』P36など


【本百姓の中間】
*「侍分中間」というのは、武士として活動していたものの、帰農したと思われる家です。「公人中間」というのは、昔から大雲寺領を耕作していたと思われる家であり、「大雲寺法師家」と呼ばれる家です。「明神宮役中間」に関してはよく分かりません。『洛北岩倉』P96
◎岩倉村の本百姓中間(仲間)のなかで、「侍分中間」と「公人中間」を差し引くと、残った方々は、生粋の有力農民(百姓仲間)で「明神宮役中間」となるでしょう。彼らは古くから、石座明神が大雲寺に勧請される以前から「明神様を支えていた」のでしょう。三つの組織はいつ頃できたのかは、山路の合戦の後で社会が安定しだした頃です。
 予想できるのは次のようでないでしょうか。岩倉の武士たちの多くが天正13年(1582)6月の山崎の合戦で光秀側に与し戦死し、帰還したものは身を隠した(帰農した)。その後も関ヶ原の合戦(慶長5年(1600))があり、これらの残党狩りがかなりひつこくあった。岩倉の住民は、彼らが地元の土豪であるゆえに(初めは恐ろしく後は打ち解けて)彼らのことに口をつぐんだ。世の中が落ち着きだした1650年後半以降に、「公人中間」と「明神宮役中間」が彼らを受け入れ始めたのでないでしょうか。
 実相院日記に、元禄の頃(1688~1704年)、本百姓に三組織ありと。早くから宮仕えをし、明治まで武士のまま存続した家もあるようです。


【東西の「宮座」】
石座いわくら神社の神祭の初見は『後法興院記』、1485年の祭礼(神輿か)で確認できるという。神社には、拝殿の南側下に東西の棟があり、早朝に神輿を出すまで、若衆・上五人が控える場所がある。村ではその東西2つの棟のことを東西の「宮座」と呼んでいる。境内2つの「宮座」の確認自体はずっと後のことなのだが、全体で6町、東西の各「宮座」では3在所内60名ほどで、全体で120名ほどの座を確保できる広さをもつ。
 古く(1500年代)は岩倉に「北岩蔵西八郷」という文言があるように、「宮座」を支える民衆は8郷からなるのかも知れない。直近の明治10年頃には村松町が加わり6郷(6町)になった。また、各々の長を昭和39、40年あたりまで伍頭(いつから伍頭というのか不明)といい、それが今の郷頭という名称になった。(作者は伍頭は五人組の頭に由来するのではと思ったが)
 宮座に集う各在所内の若衆・上五人は、古くは選ばれた特権的な氏子で、一家の長男のみからなる。この若衆・上五人から将来は各在所内の郷頭、さらには神社責任者へとあがっていく。ここから「宮座」の意味を推察するに、多少の地域差はあろうが「座る位置・場所」を発祥とし、そこに座す「村の特権的な集団」をも意味するようになったと考える。